2019年9月30日月曜日

2019.09.29 新国立劇場 公演記録映像上映会 神々の黄昏

新国立劇場 情報センター

● やっと「神々の黄昏」。1カ月で“指環”4部作をすべて鑑賞することができた。新国立劇場のこの企画,本当にありがたかった。
 この公演は2015年10月,2016年10月,2017年6月,2017年10月の興行。雑誌『音楽の友』にも記事や広告が載った。その記事はぼくも見ているが,自分には縁がないものと思っていた。

● “オペラパレス”で生を観れていれば,得られた情報量はもっと多かったかもしれない。が,そこは考えようだ。ぼく程度の鑑賞能力では録画映像でも変わらないかもしれないし,85インチの画面で40人の人たちと一緒に観れただけで,何かとても得がたい経験ができたような気がする。
 逆にいうと,これで気がすんじゃった感じがしていてね。“指環”ってこういうものか,わかったよ,と。

● これは愚者の物語だ。っていうか,物語を紡ぐのは常に愚者なのだ。キリストの受難物語なんか典型的にそうだ。目端の利く賢人ばかりじゃ物語は始まらないのだ。
 ヴォータンは最初からそうだし,今回の「神々の黄昏」においてはジークフリートもじつに愚かだ。まんまとハーゲンの術策にはまってしまう。あっけなく。
 あのブリュンヒルデまでが,自分を裏切ったジークフリートに対して,怒りを爆発させる。殺人幇助の振る舞いに及ぶ。頑迷にして固陋な視野狭窄女に変貌してしまう。ジークフリートとの今まで過ごした時間はいったいどこに行ってしまったのかと,彼女に問いたいほどだ。薬を飲まされているのかもしれないと気づけ。

● そうした愚者たちが物語を作っていく。いや,ワーグナーが作っているわけだが,ワーグナーはこの“指環”において何を語りたかったのか,何を訴えたかったのか。
 と考えてしまうのは,それじたいがダメなんでしょうね。そうした態度は“指環”の鑑賞法としては愚劣なのだろう。
 にしても,だ。「神々の黄昏」まで観終えて,印象が完結しないんだよね。まとまらない。まとめる必要もない,そのまま受けとめておけばいい,と思うのだが,どうも落ち着きが悪い。

新国立劇場
● この楽劇の中で幸せになった人はいない。ヴァルハルも滅んだのだろう。
 ヴォータンを始め,神々たちはあまりに人間くさくて,そして弱い。
 ヴォータンをも操ったのは「ラインの黄金」で作った“指環”なのだが,その“指環”ができた発端も何とも情けない理由による。ラインの水の精の3人がお喋りに興じたあまりの油断に発するのだから。盗んだアルベリヒもチンケなヤツだ。
 そこから壮大といえば壮大な物語が紡ぎだされていくわけだ。

● 演出はゲッツ・フリードリヒ。指揮は飯守泰次郎。管弦楽は「ラインの黄金」と「ワルキューレ」が東京フィルハーモニー交響楽団,「ジークフリート」が東京交響楽団,「神々の黄昏」が読売日本交響楽団。
 物語の展開に気持ちを奪われて,音楽(管弦楽)からしばしば離れてしまうのだけれども,この長大な楽劇にこの音楽を付けるっていうのもなぁ。途方もないというか。破天荒というか。

● 新国立劇場の公演記録映像上映会はこれだけではない。バレエとオペラと演劇が月に一度,上映されている。インターネットにあげてもらえばと思わぬでもないのだが,ネットでいつでも観れるとなると,観ないで終わりそうな気もする。
 特に“指環”のような長大で(楽劇とはいえ)重い作品は,何らかの強制装置がないと,最後まで観れるかどうかわからない。

● ので,こうした機会を上手くとらえて,視聴体験を広げていければいい。
 ぼくの場合だと,電車賃をかけて初台まで行くよりは,AmazonでDVDを買ってしまった方が安くつく。お金のことだけをいえばそういうことなのだが,それ以上の見返りはありそうな気がする。

2019.09.28 鹿沼フィルハーモニー管弦楽団 第35回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 開演は午後6時。チケットは1,000円。当日券で入場。
 曲目は次のとおり。指揮は神永秀明さん。
 モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」序曲
 モーツァルト クラリネット協奏曲 イ長調
 シベリウス 交響曲第2番 ニ長調
 アンコール:シベリウス 交響詩「フィンランディア」

● じつは,この演奏会を知ったのは昨日のことだ。見落としていた理由ははっきりしてて,今月は地元開催の演奏会に一度も行っていないからだ。
 つまり,入場時にもらうチラシがぜんぜん入って来なかったということ。ぼくの場合はだが,演奏会を知る契機になるのは,このチラシなのだ。チラシを見て,もっと知りたいことがあれば,その楽団のサイトを見てみる。
 まずネットをググってみるってことを,演奏会情報に関しては,ぼくはあまりしていないことがわかる。

● で,速攻で行くことに決めたのだが,お目当てはモーツァルトのクラリネット協奏曲。磯部周平さんが登場するとあっては,聴かなきゃ損という感じね。
 世に名曲と呼ばれるものはいくつもあるが,星の数ほどもあるクラシック楽曲の中で,今日より以後は1曲しか聴くことができないとなった場合に,さてどれを選ぶか。
 ぼくはわりと迷わなくて,モーツァルトのこの曲にする。

● この曲のどこに惹かれるかといえば,えもいわれぬ透明感だ。第1楽章から第3楽章までのどこで切っても,その断面からたぎってくる高貴さを湛えた何ものかだ。
 そして,突き抜けた明るさだ。明るさをいくら煮詰めたところで,突き抜けた明るさに至ることはない。突き抜けるためには,深い諦念か悲しみを加える必要がある。加えただけで突き抜けられるかどうかはわからないが,加えなければ突き抜けられない。

● モーツァルトは突き抜けている。突き抜けて,どこにたどり着いたかといえば,この三次元世界ではないどこかだ。天上界と呼ばれるところかもしれない。
 生身の人間がこの境地に至ることができるのか。この曲を聴くたびに“モーツァルトの奇跡”を思う。
 ここにおいて,「かなしさは疾走」しない。明るさの中に溶けこんで,そこに,ただ存在する。涙もない。
 しかし,明るさに溶けこんだ深い悲しみが,ただ悲しみだけが,余剰をすべて削ぎ落として,透徹した姿で,たしかにそこに存在する。

● これに比べれば(比べてもしょうがないのだが),たとえばマーラーの長大な第3番など,脳内作業の産物にすぎないように思える。児戯にも等しい。
 もっといえば,ベートーヴェンのあの第9交響曲でさえ,モーツァルトのこの曲の前では,やや色を失うかもしれない。
 ので,この曲だけは,演奏する側も心して臨んでもらいたいと,まぁ,勝手に思っている。

● さて,磯部周平さん。名手というのはリラックスを基礎にして,その基礎の上にほどよい緊張を組み立てることができるものだな。その緊張が過剰でもなく過小でもない。しかし,基本はリラックス。
 思いを込めすぎず,しかしテクニックだけではなく。そのあたりの按配は,言語が入り込めるところではないような気がする。
 特に第2楽章の冒頭に,名手の名手たる所以を感じた。

鹿沼市民文化センター
● ではあっても,この曲の主役はクラリネットではなく,あくまで管弦楽だとぼくは思っていて。管弦の音の粒たちが清冽な流れとなって川を下っていくようであって欲しい。
 音が平べったくなって寝てしまってはダメだし,滞ってもダメだ。アンサンブルが合わなくて音が濁るなどもってのほかだ。演奏の難易度だけでいえば,マーラーや第九に比べれば平坦であろうけれど,ただの一度でもミスがあってはならぬ。いや,ミスがないという水準にとどまってもらっては困る。
 求めるものは多い。求められる方の身にもなってみろ,ってことだな。そこはよくわかるので,ここまでできてれば充分と思う,と言っておく。

● プロのオーケストラの録音を聴くより,アマチュアであっても生で聴いた方がずっといい。いいというか,身になる。そのようにぼくは確信する者だが,この曲だけはウィーン・フィルなりベルリン・フィルのようなプロ中のプロの演奏で聴いてみたいと思うことがある。
 ので,CDはいくつか聴いてみたんだけど,この曲に関してはCDの決定版はないっぽい。っていうか,録音はダメだ(ぼくはWALKMAN以外の再生装置を持っていないので,CDはダメと言ってしまってはいささか以上に身の程知らずになるのだが,ハイレゾ相当で聴いてもどうもダメなのだ)。生演奏を追っていくのが一番だ。
 小林秀雄はレコードを蓄音機で聴いて「モオツァルト」を書いた,と聞いた記憶があるのだが,昔の人は偉かったな。

● モーツァルトの前半が終わったところで,帰ろうかと思った。が,せっかく鹿沼に来たんだからね。しっかり聴いて帰ろう。しかしながら,聴くための集中力は前半で使い切ってしまった感じがする。
 シベリウスの2番はオーボエの健闘に尽きる。以上。
 あ,あと,1stVn.のセカンドがどこかに初々しさを湛えていて(ヘタだという意味ではない),好感度高い。

2019年9月27日金曜日

2019.09.26 間奏60:WALKMANとイヤホンとカラヤン

● CDはもっぱらWALKMAN(最もポピュラーと思われるNW-Aシリーズ。一世代前のやつね)で聴いている。WALKMAN以外の再生装置を持っていないからだ。
 ミニコンポもない。強いていえば,運転中に聴くカーオーディオくらい。

● ベートーヴェンの9つの交響曲についていうと,4~8番はカルロス・クライバーや小澤征爾で聴いていた。1~3&9番はカラヤン。
 カラヤン・アレルギーはないので,カラヤンで聴けるものはカラヤンで聴けばいいくらいに思っている。ので,4~8番もカラヤンにしてみた。

● ところが,音がよろしくない。CDのせいかと思ったのだが,どうもそうではない。イヤホンがおかしい。左からは何も聞こえなくなっていた。そのうち,右も不安定になってきた。ご臨終のようだ。
 ので,SONYのXBA-N3を手当てした。もちろん,ヤフオクで中古。送料込みで15,000円。今日か明日には届くだろう。
 イヤホンを替えて聴いてみて,それでもダメだったら,8番はカラヤンでいいとして,4~7番はそっくりカルロス・クライバーに替えようと思う。

● 以前はWALKMANすら持ってなくて,音楽もスマホで聴いていた。スマホに比べると専用機のWALKMANは音がいいのは確かだけれども,本体よりもイヤホンの方が大切かも(安物買いの銭失いを二,三度経験した)。WALKMAN本体をNW-WM1Zに買い換えるよりも,5,000円のイヤホンを20,000円のに替える方が,費用対効果は高いような気がする。
 しかし,イヤホンにはいい思い出がない。数年前,BOSEのイヤホンを耳に突っこんだまま,鎌で草刈りをした。草と一緒にイヤホンのコードもかっ切ってしまった。あの頃,Bluetooth接続のイヤホンがあったのかなかったのか。

● どのイヤホンがいいか。ショップで試し聴きをして選ぶものなんだろうか。それってなかなかしずらい雰囲気があったりするんだがな。
 ショップに行っても,色々あって決められない。店員の説明を聞くのもウザい。ごめん,出直して参ります,となりがちだ。
 結局,ネットに行く。ヤフオクに限らずネットで買うのは,実店舗の煩わしさというか,面倒くささというか,そうしたものがあるからかもしれないなぁ。

● 特にパソコンやオーディオを含む電気製品については,高級品かそうでないかを問わず,モノとしての稀少性がほぼゼロになっている。
 家電量販店はショールームとしての価値も下がっているかもしれない。つまり,実機を見る必要性すらなくなってきてる。

● ともあれ,中古品といえども,届いたらガンガン使うようでありたいです。


(追記)

● 27日にイヤホンが届いたので,4~8番を聴き直してみた。音質に問題なし。やはり,イヤホンが物理的に逝っちゃってた。
 イヤホンはSONYのXBA-N3で無問題。鎌でコードを切ってしまったBOSEのあとは,ずっとSONY。メーカーにこだわりはない。こだわりがないのでSONYでいい。

● でも,4~7番はカルロス・クライバーに戻した。
 ベートーヴェンの9つの交響曲の中で6番だけが,ぼくにはやや面白みに欠けると思えるのだが,カルロス・クライバーで聴くと,その印象が一変する。
 6番がスリリングに聴こえる。クライバー・マジックと呼びたいほどだ。

● 楽譜を具体的な音に変えるのが演奏だ。その演奏という営みを単純な再現芸術だと思っている人はいないと思うけれども,断々固としてそうではないことを具体的な演奏に即して知りたいのであれば,クライバーで6番を聴くのがいいと思う。

2019年9月24日火曜日

2019.09.22 新国立劇場 公演記録映像上映会 ジークフリート

新国立劇場 情報センター

● 今日は新国立劇場で「ジークフリート」の録画を見る予定。この録画を観るためだけに新宿まで行かなければならないのかと思うと,けっこうな億劫感がこみあげてきた。布団の中でグズグズしてしまった。
 これ,開始が10:30であることも影響している。14時開演とかなら億劫さはだいぶ薄いものになる。6時台に家を出なきゃいけないのが億劫さを作っている理由のひとつなんだよね。
 今日に限っていえば,地元で聴くつもりの演奏会があったってこともある。

● でも,出かけた。今回は赤羽での乗換えがスムーズに行ったというか,グズグズしてムダな時間を作ってしまうこともなかった。
 新宿から京王新線に乗って,初台には9:40頃に着いた。これはこれで少し早すぎるのだが,少し早すぎるくらいでちょうどいいのだ。

● 限定40名という定員があるので,せっかく行っても入れなかったどうしようと思うわけだが,今回は,席に余裕があった。前回,前々回より来場者は少ない。
 この長いオペラ自体が淘汰装置になる。ま,ぼくも上に述べたような次第で危うかったのだが,できれば食らいついた方がいいんですよ。
 これだけの超長大な作品になると,強制装置がないとなかなか最後まで辿りつけないからだ。この作品のDVDを持っている人は多いと思うのだが,最後まで観たという人は意外に少ないのではないかと,失礼ながら愚察申しあげる。

● ワーグナーオペラに出る歌手は歌えればいいというわけにはいかない。かなりのレベルで演じることのできる俳優である必要がある。それは「ラインの黄金」からそうなのだが,今回の「ジークフリート」においてはいよいよそうだ。
 演技まで要求されるとなると,演者のルックスの問題が出てしまう。つまり,いくら歌が上手くても劇中人物とかけ離れたルックスでは困るわけだ。歌だけで勝負できるなら,あとはこちらが想像力で補えばいいという話が成立するが,演技まで入ってきてしまうと,想像を飛ばせる余地はかなり限定される。

● “指環”全体を通して,最も重要な登場人物は出ずっぱりでもあるヴォータンであることは明らかなのだが,ヴォータンを別にすれば,今回のジークフリートだろう。
 この“楽劇”におけるキーワードは「英雄」であって,それを体現するのがジークフリートだからだ。ジークフリートの登場前と登場後をジークフリートによってどうつなぐか(あるいは,つながないか)は,この“楽劇”の基本色を決めるくらいに重要かもしれない。

● 今回の白眉も第3幕。ジークフリートがブリュンヒルデの目を覚まし,2人が生の喜びを爆発させるところ。太陽を引き合いにだして,あくまで生を肯定する。当然,そこには性愛も含まれるが,それらをすべてひっくるめて,生きるって素晴らしい,と。
 ワーグナーは,しかし,ジークフリートを英雄のままにはしておかない。ここまで劇的な,そしてブリュンヒルデにとっては願っていたとおりの展開になったにもかかわらず,ブリュンヒルデはジークフリートを信じ切ることができなかった。次の「神々の黄昏」において明らかになるはずだ。

● 今回は「さすらい人」として登場するヴォータンは,前回の「ワルキューレ」と同じ,グリア・グリムスレイが演じていたが,ブリュンヒルデは別の人だった。「ラインの黄金」に続いて登場のエルダ,アルベリヒ,ミーメは同じ人。
 「ラインの黄金」は2015年10月,「ワルキューレ」は2016年10月,「ジークフリート」は2017年6月に新国立劇場で上演されたものだ。録画とはいえ,それをまとめて1ヶ月の間に観ることができるとは恵まれている。億劫だなどと言っていては罰があたるとしたものだ。

● ここまで来れば,来週の「神々の黄昏」を観ないなどということは考えられない。万難を排して(排すほどの難は訪れないと思うが)出かけるだろう。

2019年9月19日木曜日

2019.09.16 豊島区管弦楽団 第89回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● この日,ミューザ川崎で開催される演奏会に行くつもりでいた。オケ専でチェックしたら,杉並公会堂でも惹かれる演奏会がある。それも良さそうだ。ほかにもいろいろある。さすがは帝都東京なのだ。
 その中で豊島区管弦楽団を選んだのは,何というのかな,会場がすみだトリフォニーだというのが一番大きい。泊まっているホテルが水天宮前にあるので,地下鉄1本で乗り換えなしで行ける。
 ので,ササッと予定を変更してしまった。ザッハリッヒな話でありますね。

● とはいえ,この楽団の演奏は一度聴いている。かなりの水準であることはわかっている。だから,まず後悔することはないだろう。
 開演は13時30分。チケットは800円。当日券を買って入場。

● 曲目にも特徴がある。指揮は和田一樹さん。
 プフィッツナー 付随音楽「ハイルブロンのケートヒェン」序曲
 シュレーカー 組曲「王女の誕生日」
 マーラー 交響曲第7番 ホ短調
 プフィッツナーもシュレーカーも,言うまでもないがぼくは一度も聴いたことがない。CDも持っていない。マーラーを含めたこの3人の組み合わせについては,プログラムの曲目解説によって納得したけれども,音源探しはこれから。

● マーラーという作曲家の名前を初めて聞いたのは,1980年代のサントリーのCMだった。オールドだったかローヤルだったか。こんな男,ちょっといない,っていうやつ。いや,それはランボーだったか。ともあれ,それ以来,マーラーは気になる存在であったのだ。
 が,それから幾星霜。今のぼくはマーラーはつまらないと思うようになっている。

● あの大編成。他ではまず使われない打楽器。あれって必要なんだろうか。ああじゃないとマーラーは自分が表現したかったものを表現できなかったんだろうか。
 ときにこちらの理解がまったく及ばない難解さをぶつけられる。が,あの難解さって何か意味があるんだろうか。難解でなければならない理由は何なんだろうか。
 まぁ,そんなことを思うようになった。CDを含めてマーラーはそんなにたくさん聴いたわけではないんだけども,もう聴かなくてもいいかなと思っちゃってる。

● と言ったあとで申しわけないんだけど,マーラーの7番も大曲の前に難曲だ。それを見事に仕上げてくる。これは曲よりも演奏を聴くべきだ。
 日本のアマオケはここまでやるんだから呆れてしまう。アマオケの全部がそうだというわけではもとよりないのだけども,目下のところは,“CD+アマオケ”でぼくの聴きたい欲はほぼ完全に満たされる。
 今どき,CDは安価だし,アマオケのチケットはだいたい2千円どまりだから,“CD+アマオケ”で満たされるとなると,コスパが良すぎて笑っちゃうほどだ。

● CDはともかく,アマチュアといえどもこれほどの水準の演奏を800円で聴けるのは,世界広しといえども,たぶん日本だけではないか。
 もっというと,東京だけだろう。時々(いや,しばしば)思うのだが,新幹線を使わずとも東京に出るのが億劫ではないところに住んでいてよかった。ほんとそう思う。
 東京に出ることを億劫に感じるようになったら,そのときが自分が完全に老境に入ったときだろう。もはや生きていても仕方がないという段階。そうなる日が1日も遅からんことを。

● それにしても,豊島区管弦楽団。これだけの年齢差があって,これだけの水準を維持しているとは,そのこと自体がただ事ではないと思えてくる。
 学生時代あるいはそれ以前から楽器をやっていた人たちの集団だ(音大卒もかなりいるだろう)。そういう人たちが社会人になってからも活動を続けるという場合,誰とどうやって続けるかというのがわりとシリアスな問題になるものだと思う。

● ありがちなのは出身大学を継承して,同世代の人たちでOB・OG楽団を作るというものだ。世代を超えてというのは簡単だけれど,世代がまとまっていた方が安定感も増す。それは動かしがたい事実のように思われる。
 地方だとそれができない。同世代だけでは人数の絶対数が足りない。が,首都圏なら充分に可能だ。この狭いエリアに日本の人口の3割以上が集中しているのだ。

● が,あえてその方向に行かずに,豊島区を冠して老若相集っているのは,ある種の壮観を呈する。
 おそらくだが,団員の多くはこの楽団に専属しているのではなくて,他にも居場所を確保しているように思う。そこは同世代が多い場所かもしれない。同時に,この楽団を自身のモチベーションを維持する装置として使っている人が多いのではないかと思ってみる。

2019年9月17日火曜日

2019.09.15 新国立劇場 公演記録映像上映会 ワルキューレ

新国立劇場 情報センター

● ワーグナーの「ニーベルングの指環」の2作め。先週,「ラインの黄金」を観てしまった以上は,最後まで付き合うほかない。
 “指環”はここから動き出す。ゆえに,これが第一夜。「ラインの黄金」は舞台を整えるための「前夜」。

● ジークムントとジークリンデの双子の兄妹の邂逅とフンディングとの対峙。ここから物語が動き始める。
 兄妹はヴォータンが人間との間に作った子。その不義を妻のフリッカに責められて,ヴォータンは妻に歯が立たない。ジークムントを助けるはずが,フンディングを勝たせることに政策(?)を転換する。
 同じくヴォータンと予言者エルダの間の子ブリュンヒルデは,ヴォータンからジークムントを助けるように言われていたのに逆のことを命じられて,おおいに戸惑う。しかし,兄妹を救うべく動く。

● そのブリュンヒルデとヴォータンが,互いの言い分を吐露してディベート(?)を尽くす第3幕が圧巻。
 ヴォータンは支離滅裂だ。おまえは黙って俺の言うことを聞いてればいいんだ的な,老人の癇癪を爆発させているだけ。きっかけは夫婦喧嘩に負けたことにあるのだから,そうなるのも当然なのだが。
 ヴォータンは基本,バカ役。今回は“指環”が物語を動かす契機としては登場しないのだが,一度は“指環”をわが物にしようとした自らの愚かさを愚痴る場面がある。
 全体を通じて,ヴォータンが何も考えずに動いた結果,「神々の黄昏」がもたらされたという印象もあって,「神々の黄昏」はどうにも避けようがない時代の必然ではなく,ヴォータンという愚か者がもたらした人災。
 ワーグナーはそれを一個の行為者に帰せしめず,壮大な運命劇に仕立てようとしているのだと思うが,さてうまく行っているのかは,最後まで観ないとわからない。

● 対して,覚悟を決めたブリュンヒルデの凛々しさは比類がない。ここは,脚本家としてのワーグナーの筆が冴えているところ。
 ブリュンヒルデは眠りにつかされ,目覚めさせた男の妻になることを余儀なくされる。しかし,卑怯者,臆病者の妻になるのだけはご免だと主張。
 女戦士ブリュンヒルデの面目躍如といったところなのだが,ここでのブリュンヒルデは迫力に満ちている。

● ワーグナーのオペラがベルディやプッチーニと何が違うか。ワーグナーが自らの作品に楽劇という名称を与えたのは,どういう理由によるか。
 ひとつには物語性の優位。「椿姫」や「蝶々夫人」とは質の違う物語の展開。壮大すぎる空間性。
 歌のための物語はない。物語のための歌があるだけだ。したがって,アリアがない。独唱はあるのだが,それが終わった後に拍手が許されるような,物語から独立した歌ではない。

● 下準備の「ラインの黄金」では,ワーグナーの創作力は新海誠さんより下だと思うわけだが,準備が整って物語が動き出したあとの,躍動感はワーグナーしか為し得なかったものかと思われる。
 音楽も印象的だけれども,空間構成やワープとでも呼びたくなるような空間の遷移を用意できたのはワーグナーだけだ。というか,そういう空間の多様性を不自然と感じさせない物語を生みだせたのはワーグナーだけだ。
 結局,ワーグナーに後継者は出なかった。出るはずもなかったろう。この方向はワーグナーが極めてしまった。この先に行こうとしても,そこに待っているのは“破綻”の2文字であろうかと思われる。

● 先週,「ラインの黄金」を観たときには,次の「ワルキューレ」は今日より少なくなるだろうと思った。途中で帰る人がいたからだが,少なくなることはなかった。座席に残はほとんどなかったようだ。
 ただし,昼休み休憩後に戻らなかった人は何人かいたと思う。

● 次回は「ジークフリート」。ここまで来た以上,見逃すわけにはいかない。何とか先着40名限定の枠に入れるよう,栃木のわが家からお江戸に向かうとしよう。
 ヴォータンとフリッカの演者は,「ラインの黄金」とは別人だった。「ジークフリート」ではどうなのだろう。ブリュンヒルデはあのブリュンヒルデがまた登場するんだろうか。そういうことも楽しみになってきた。

● もし,運よく「神々の黄昏」まで観ることができた暁には,俺ね,ワーグナーの“指環”を全部見たんだよ,新国立劇場でね,と自慢することにしよう。生ではなくて録画だったんだけどね,というのは黙っておこう。
 あと,手元のDVD,やはりもう一度観ておくべきだな。

2019年9月9日月曜日

2019.09.08 新国立劇場 公演記録映像上映会 ラインの黄金

新国立劇場 情報センター

● ワーグナーの「ニーベルングの指環」は仰ぎ見る楽曲のひとつ。というか,その最高峰。この“楽劇”を生で,しかも4日連続で,見る機会はぼくにはついに訪れないだろう。と,自分で思っている。
 とはいえ,諦めるには及ばない。ぼくらは21世紀に住んでいるのだ。そのうち,すべてをネットで見られるようになるかもしれない(現状ではなっていないと思う)。

● DVDもある。ぼくもハリー・クプファー演出,ダニエル・バレンボイム指揮による1991年のバイロイト祝祭劇場版を持っている。
 そういうものでいいじゃないか。生にこだわっても仕方がない。DVDで鑑賞しましょうよ。

● そのDVD,2013年5月に一度観た。とにかく最後まで観た。しかし,その後は一切手にしていない。つまりは,もう一度観たいと思っていない。
 ぼくには荷が重すぎるんだろうかなぁ。良さがヴィヴィッドに伝わってこない。ゾクゾクしながら物語にのめり込むことができなかったんですよ。
 つまらない映画だなぁと思ってみてたようなところがある。DVDだからかもしれない。しかし,ワーグナーの代表作であり,ドイツオペラの最高峰でありとなると,ピンと来ないのは自分に原因があるのだろう。
 ので,もう一度,別の演出のものをと思っていた。このDVDじゃないものを観たらどうだろう,自分はどう反応するだろう,と。

● というところへ,この上映会があることをTwitterの情報で知った。新国立劇場の情報センターでは「公演記録映像上映会」を開催しており,9月は「指環」4部作を日曜日に1作ずつ上映する。
 迷わず,行くことに決めた。DVDをパソコンの画面で観るより,よほど臨場感もあるでしょ。家で1人でってんじゃなくて,知らない人たちと一緒に観るってのもいいんだよね。

● オペラシティの方には何度か行ったことがあるけれど,新国立劇場は初めてだ。ここはオペラとバレエ。しかも,それ相当なものが来るんでしょ。すなわち,ぼくには分不相応。
 新宿からは京王新線に乗ってみた。乗るのはひと駅。初台まで。すぐだ。が,迷路を長く歩かされる。これなら甲州街道を歩いた方が速いんじゃないか。実際にはそんなことないんだけど,そう思いたくなる程度には手間がかかるんだな,この乗換えは。

● 開演は10時半。田舎から出向くには朝が早いのが難といえば難。しかし,文句は言うまい。
 途中,15分の休憩を入れて,13時半に終わった。「ラインの黄金」は4部作の中で最も短い。それでも,これを1人で観てると,休憩1回ではすまない。たぶん,何度も休んでしまうだろう。疲れるから。
 こういう強制が働くのはありがたいのだ。「ワルキューレ」以降はさらにそうだ。

新国劇の屋上庭園
● これは,2015年に新国劇で上演されたものの録画。カーテンコールまで収録されていた。
 のだが,恐れながら申しあげると,あまり面白いと思わなかった。全般的に冗長さを感じてしまう。いや,ワーグナーの最高傑作なのだ。冗長さを感じるなど,ぼくがちゃんと観れていなからに決まっているのだが。
 うーむ,ぼくは縁なき衆生で終わるかもしれない。

● ラインの水の精がどうしてばあちゃん3姉妹なんだよ,とか思ってしまった。これね,生のステージを観てたのなら,あまり思わないんですよね。
 ルックスが役柄に沿っていないと観てて苦しくなるのは,録画だからなんだよね。生の舞台だったら想像力で補正するのはそんなに難しくないんだけど,録画でそれをやるのは相当な難事だ。

● でも,そういうことは些事。自分が縁なき衆生で終わるかもしれないと怖れるのは,ワーグナーの創作世界にどうやら入っていけなさそうだからだ。
 ワーグナーは新しい神話を作ろうとしたんだろうか。壮大なんだけど,創作力だけをとればワーグナーより新海誠さんの方が上じゃない? とか思ってしまうんですよねぇ。縁なき衆生か,やっぱり。

● ところで,この「公演記録映像上映会」なんだけども,入場無料で事前予約不要で,ただし先着40名限定だよ,と。
 9月は「指環」なんだけど,毎月,なにがしかの上映をしている。のみならず,個人で使えるブースもあって,「過去の公演の記録映像」を観ることができる。今回の会場であるビデオシアターも3人以上で借りることができる。

● 首都圏に住んでる人は羨ましいとなるのだが(いずれはインターネットですべて閲覧できるようになってほしい),ではここに来ている人たちは,オペラやバレエや演劇の鑑賞マニア,演者の卵,研究者という人たちかというと,たぶんそうではない。公立図書館と同じように,暇をかこつ年寄りが多いのかも。
 いや,特に根拠はないんだけれど,そういう印象を持った。たぶん,間違いないと思う。

● 今回の上映会もどういう人たちが来るかというと,ゴミのような爺婆が10人,オペラ大好きあるいは自分もステージに立つ側の卵と思われる人10人,ぼくのようなノンポリ20人。だいたい,こんな割合じゃなかろうか。
 おそらくだけど,次の「ワルキューレ」は今日より少なくなるだろうと思う。先着40名限定の枠に入れず,鑑賞できないという事態は考えなくていいと思う。

● 2015年の3月に「マリア・カラス 伝説のオペラ座ライブ」と「オペラ映画 椿姫」を観たことがある。どちらもたっぷりと楽しめた記憶がある。記憶だからアテにはならないんだけど。
 ふたつとも最初から映像にするために撮影している。ライヴの録画ではない。だから比較してはいけないんだけども,映画の「指環」って,ひょっとしてすでに撮影されてない?(→ ありますね)
 こういうものでとりあえず興味をつなぐのは充分にありだとぼくは思う。

2019.09.01 オーケストラ・ディマンシュ 第49回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 昨日に続いて,すみだトリフォニー。オーケストラ ディマンシュ4月に続いて2回めの拝聴。
 じつは,今日は違うところに行くことにしていた。バッハのミサ曲を演奏するところがあって,そちらを予定に入れてた。
 のだが,昨日の「魁」の演奏会でもらったチラシの中にこれがあって,あっさり変更してしまった。変更した理由は,泊まっているホテルが水天宮前にあること。ここなら半蔵門線1本で来れる。予定してたところは乗り換えなきゃいけなかった。

● そうした即物的というか,言うも恥ずかし的な理由によるのだ。つまりは何でもいいのか,おまえは,と問われれば,何でもいいのだと答えるほかはないようなものなのだ。
 一応言っておくと,上述のとおり,この楽団の演奏は一度聴いているわけで,聴いて後悔することはないとわかっていたってのもある。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。
 曲目は次のとおり。指揮は金山隆夫さん。
 プロコフィエフ 交響曲第7番 嬰ハ短調
 サン=サーンス 交響曲第3番 ハ短調「オルガン付き」

● プロコフィエフの7番は“青春交響曲”と呼ばれることもあるそうだ。プロコフィエフ晩年の作品。
 で,そうと知って聴けばなるほどと思うとして,そういうことを知らずに聴いたら,はたしてこの曲に“青春”を感じ取れるかどうか。自分は感じ取れないだろうな。
 プロコフィエフの不思議なところは,スターリン統治下のソ連にわざわざ戻っていることだ。なぜそうしたのか。プロコフィエフにしかわからない。
 それをいえば,ショスタコーヴィチにも亡命のチャンスはあったはずで,それを活かさずにソ連にとどまったのはなぜかという話になる。親族に累が及ぶことを怖れたのか,そうではない理由があったのか。ショスタコーヴィチにしかわからない。ひょっとすると,ショスタコーヴィチにすらわからない。

● サン=サーンスの「オルガン付き」の前に指揮者の金山さんと奏者の髙橋光太郎さんのトークがあった。けっこう長目のトーク。
 オルガンについていくつかの蒙を啓いてもらった。とはいえ,ぼくらはしょせん聴くだけの人間であって,さてここで得た知識が聴くうえでどれだけ役に立つかというと,はなはだ心許ない。ま,知識というのはもともとそういうものではあろうけれど。
 髙橋さん,ボウデン「エレジー」を演奏してから,オケとの「オルガン付き」に。

● オルガンのレクチャーを聞いたあとだからか,オルガンの効果というか,ここでオルガンがこうかぶってくるのかというのが,わかりやすかった・・・・・・と思えたのは錯覚か。
 しかし,この曲はあくまで管弦楽曲であって,演奏の出来不出来を決めるのは,オルガンではなくて管弦楽だ。達者な演奏で聴くと気持ちがいい。
 アンコールもサン=サーンスの「糸杉と月桂樹」から“月桂樹”。オルガン付き。

● ゆえに,予定変更に後悔なし。
 ただし,おそらく,予定どおりでも後悔はなかったと思う。同時に2つを聴くことはできない以上,これ以外の結論は理論的にあり得ない。