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2021年1月21日木曜日

2021.01.17 新交響楽団 第252回演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● 開演は午後2時。全席指定。S席が3,000円でA席が2,000円。
 ぼくは安いA席のチケットを事前に楽団に申し込んでいた。チケットは郵送されてくる。チケットが届いてから代金を振込む方式。その方が事務処理の工数を削減できて合理的ではある。けれども,性善説に立たないとできないよね。
 ひょっとして,振込まれたかどうかのチェックもしてなかったりするんだろうか。いや,それはやってるでしょうね,さすがにね。

● 当日券もあった。座席は半数に限定して指定している。それでもだいぶ空席があった。新交響楽団にしてこうなのだから,他も同じだろう。
 こういう状況なのだから,それは当然とも言える。何事かの不思議があるかといえば,ない。
 主催者の側から見て,一番心配なのはコロナが収束した暁に,自粛していた人たちが全員戻ってきてくれるだろうかということだろう。自粛が長引けばそれが常態になってしまうかもしれない。だから,早く収束してくれないと困る。

● 指揮は飯守泰次郎さん。御年80歳。さすがに年齢から来るものなのか,それとも足を傷めているのか,ちょっと覚束ない足取りで登場。
 しかし,指揮台に上がって客席に背を向けてスタンバイすると,とたんにシャキっとするのはさすがというか,何というか。
 老人(?)にここまで頑張られてしまうと,若年,壮年の指揮者は辛いかもなぁ。力づくで奪いに行かないとしょうがないんだろうかなぁ。

東京芸術劇場 コンサートホール
● 曲目はスメタナ「わが祖国」の全曲。全曲を生で聴くのは何度目になるだろう。って,2度目だ。昨年9月にオーケストラ・ノットの演奏で聴いている。もちろん,CDは何度も聴いている。
 スメタナという作曲家は神経がむき出しのまま外に出ているようなところがあって,自身も辛かったろうし,他人を追い詰めることも多かったろう。清濁併せ呑むなんて芸当は思いもよらなかったことだろう。
 そうしたスメタナの性格と「モルダウ」の美しすぎる旋律とが,不思議な取り合わせのように感じられる。実際には不思議でも何でもないはずなのだが,そう感じるのが癖になっている。
 そうして,「モルダウ」のあの旋律は,何度聴いても初めて聴くもののように染みてくる。

● その「モルダウ」を新交響楽団の演奏で聴くわけだ。弦のダイナミックなうねり。そのうねりに愛撫されているような快感は何事ならん。
 「ブラニーク」でのホルンの馥郁とした響き。さすがと言うべきでしょう。栃木の在からわざわざ足を運ぶ価値がある。
 こういう時期でも,中止するなどとは1mmも考えなかったでしょう。そう思わせる演奏でしたよ。

● ところで。最近,見つけた楽しみなのだが,まだガラガラのホールの席に座って,ウォークマンで音楽を聴くのは気持ちがいい。だから,開場そうそうに行って着座するのがいい。
 ソニーのCMじゃないけれど,「いい音には,静寂が要る」。ぼくは田舎に住んでいるので,家の中も外も静かなものだ。けど,ホールの席で聴くときのあの密やかな幸福感はなかなか味わえない。
 もちろん,ウォークマンはついでの楽しみだ。が,ついでにしてはちょっと大きい楽しみになってきた。

2020年10月28日水曜日

2020.10.18 新交響楽団 第251回演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● 久しぶりに東京芸術劇場に来た。新交響楽団の定演を聴きにきたのだけれど,こういう時期なのでチケットの予約あるいは代金の支払い方法が特異というか,普段はないやり方になる。
 事前にメールで申し込んでおいて,当日,チケットを受け取る形になった。できれば,料金は現金で受け取ってもらいたかったのだけども(20分前に別のコンサートのチケットを,このホールのプレイガイドで買っている。現金で),コロナ感染を避けるために後日振込。要は,お金を払わないで入場することになった。

東京芸術劇場
● コロナでキャッシュレスが進展したんだろうか。どうなんだろう。ぼく自身はあまり感じないのだが,クレジットカードとかQRコードで支払うのが増えているんだろうか。
 けれども,銀行振込となると昭和に舞い戻ったような気分になる。2,000円を送金するのに手数料は300円くらいになるのじゃないか。濡れ手に粟の丸儲けとはこういうことで,昭和の御代では(平成になってからもだが)特に疑うこともなく,それに従っていたんだね。銀行にはいい時代だったろう。
 もっとも,当時は銀行にお金を預けておけば,6%とか7%の利息が付いたから,その程度の手数料はしょうがないかってのもあったんですけどね。

● さらに脱線するんだけども,去年だったか,金融庁が,老後を送るには年金の他に2千万円の金融資産が必要という試算を出して,物議をかもした。
 これって,昔なら退職金を銀行に預けておくだけでよかったんだよね。利率5%でも,退職金が2千万円とすれば年に百万円の利息をもらえた。定年退職後20年生きれば,利息だけで2千万円になったのだ。それと年金でやっていけた。
 元金はそっくり残って,子孫に引き継ぐことができた。今は利息がないのだから,元金に手を付けるしかない。元金がなくなるのと同時に死ねたとしても,スッカラカンになっていて,子どもに残せるものなど何もなくなっている。
 年金だけでは暮らせないといっても,それは年金政策の問題ではないということだよね。マクロ経済の変動を年金が吸収できるはずもないわけで。

● 開演は午後2時。全席指定でS席とA席の2種。Sが3,000円でAが2,000円。ぼくの席はA。
 曲目は次のとおり。指揮は湯浅卓雄さん。
 シベリウス カレリア組曲
 芥川也寸志 交響三章
 シベリウス 交響曲第1番

● 新交響楽団はその出自からして,芥川也寸志を取り上げるのは約束事になっているのだと思うが,どうしてもここはシベリウスの1番が印象に残る。とりわけ,第4楽章。
 序盤のクラリネットの幽玄。終盤の,音が重なる毎に透明感が増していくオーケストラの不思議。いや,ほんとに不思議。重なっても濁らないんだから。
 アマオケNo.1の世評はダテではない。こういう演奏をアマオケにされては,なまじなプロオケは顔色を失うのではないか。

● プログラム冊子の曲目解説に,「音楽は感覚の数学,数学は理性の音楽」というシルベスター(数学者)の章句が紹介されている。こういう巧すぎる表現には気をつけろと思いつつも,音楽愛好家にはよく知られているこの言い方に説得されてしまう。特に交響曲は論理の塊なのだろうと思うことがあるから。
 が,数学音痴のぼくにこの点について語る資格があるはずもない。ただ,数学と音楽の距離は非常に近いのだろうなと感じるだけだ。演奏者に理系の人が多いのも,何となく理解できる気になっている。

● これほどの楽団でも,いや,これほどの楽団だからこそかもしれないが,団員募集中だ。「常に新しい視点をもって活動をしていくために新しい力を必要としています」というのは,どんな組織でも必要なことでしょうね。
 メンバーが固定してそれがずっと続くようでは,その組織なり集団は必ず病む。新陳代謝がどうしたって必要だ。人体と同じこと。細胞の入替えがなくなれば,人は死ぬ。いや,死ぬとは細胞の入替えがなくなることだ。

● 8月以降,演奏会の催行自体は行われるようになりつつある。当日券は販売しないとか,チケットのもぎりはしないとか,満席にするわけにはいかないとか,ステージでも奏者間の距離を取らなければならないからマーラーを演奏するのは難しいとか,そういう制約は残っているので,まだまだ復旧したとは言えないけれども,中止や延期はグッと減ってきたような。
 ので,生の演奏を聴けない空虚さ(?)のようなものは,ぼくに関しては払拭されている。開催する方がそうした諸々の制約を引き受けてくれているからだ。ありがたいことである。

2020年1月28日火曜日

2020.01.19 新交響楽団 第248回演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● アマチュア最高峰の呼び声高い新交響楽団の演奏を聴きに来た。2018年4月の第241回以来,二度目。
 開演は午後2時。当日券を購入。S席(3,000円)が残っていた。限りなくAに近いSになるのは仕方がない。が,SとAの料金差は500円にすぎない。

● ここでも1人で来ている男性客が多い。ぼくの両隣も前もそうだった。ごく近年の現象だと思うんだけど,こうなった理由は那辺にあるんだろうか。わかる人がいたら,ぜひ教えてもらいたいものだ。男性のクラシック音楽ファンがにわかに増えたとは思いにくいんだが。
 ぼくもそうだけれども,1人で来るからには,ともに語れる同好の士が近くにいないのだろう。これまた,ぼくがそうであるように,同好の士などというものがいなくてもまったく痛痒を感じない人たちだろう。わが道を行くというある意味オタクっぽいオーラを感じる。ぼくも同じオーラを発しているんだろうか。

● ぼくは演奏を聴くためにホールに来ている。が,コンサートホールに来るのは,なにも演奏を聴くという楽しみだけに留まるのではない。女性のお客さんを見ていて,時々,感じることだ。
 まず,お洒落をして出かけるという楽しみがあるだろう。お洒落をしてクラシックの生演奏を聴く私,を演出する楽しみと言い換えてもいい。
 まともなホールならバーコーナーがある。開演前や休憩時間にワインを飲むことができる。元来ケチな性分のぼくは,ワインを飲んだことは二度しかないし,コーヒーを飲んだのも二度か三度に留まるが,なかなかにいい気分のものだ。そういう楽しみもある。
 人によってはホールでしか会わない友だちというのがいるかもしれない。いろんな楽しみ方があるのだと思うが,1人で来ている男性客にはそのいずれも関係ないような感じなんだよなぁ。

● 曲目は次のとおり。指揮は飯守泰次郎さん。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 ハイドン 交響曲第104番「ロンドン」
 チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」

● ハイドンを生で聴く機会はあまりない。生で聴かないとCDで聴くこともなくなる。ぼくはそうだ。ぼく程度の聴き手はかなりの数いるだろうから,ハイドンはあまり聴かれていないということになる。
 この楽団の曲目解説によると,「第104番は最後の交響曲でハイドンの集大成ともいうべき作品で,とても活き活きとした躍動的な曲」とのことだ。そうだと思うのだが,といっても,たとえばベートーヴェンの7番の躍動とは躍動の中身が違う。躍動という様式があって,その様式に則って書かれたという印象になる。静的な躍動だ。あるいは,礼儀正しい躍動だ。

コンサートホール入口付近の天井
● チャイコフスキーの6番は久々に聴いた。ぼくらはCDを含めて何度もこの曲を聴いているから,こういう曲だとわかっているけれども,当時の人たちはこの終わり方には驚いたろうねぇ。納得できなかったでしょうね。
 先駆者が社会に容れられないのは,音楽でも同じでしょ。ぼくが理解できないもの,いいとは思えないもの。その中から次代を牽引する曲が出るんだろうなぁ。そういうものは千に三つかもしれないとしても。

● これまた曲目解説によれば,「「悲愴」という副題はチャイコフスキー自身が付けたものですが,ロシア語を日本語に直訳すると熱情的という意味になる」とある。ここはけっこう大事なところで,そうと知ったうえで聴いた方がいいと思う。日本語の「悲愴」でイメージしちゃうのではなくて。
 ちなみに,モーツァルトの「魔笛」だって,タイトルとしてしっくり来るかどうか。原題をそのまま訳しただけだよと言われれば,それはそうなのだろうけれども,日本語で「魔」っていうのはねぇ。妙なものが絡まってきてしまう。

● 年に4回の定演を催行しているアマチュア・オーケストラは,この楽団以外にぼくは知らない。団員名簿に職業まで書いてあるのだけど,それによると医師,弁護士,都庁の役人,高校教師,銀行マン,東大生などの集まりだ。音大出身者で固めているというわけではない。
 そうはいっても,子供の頃から習い事以上に楽器をやっていた人たちに違いない。そう考えないと,目の前の演奏ができあがっている所以を想像することができなくなる。

2018年4月24日火曜日

2018.04.22 新交響楽団 第241回演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● アマチュア最高峰との名声はかねてから聞いていたけれども,この高名な楽団の実演に接するのは,今回が初めて。
 開演は午後2時。チケットはS,A,Bの3種。S席は3,000円だが,ぼくは安いB席を“ぴあ”で買っていた。こちらは1,500円。

● 曲目は次のとおり。指揮は寺岡清高さん。
 シュミット 歌劇「ノートルダム」より間奏曲と謝肉祭の音楽
 コルンゴルト 劇的序曲
 シューベルト 交響曲第8番「ザ・グレート」

● いずれもあまり演奏されることのない曲だ。が,意図的にそうした曲を取りあげているわけではないらしい。
 シューベルトの8番はCDが手元にあるが,あとの2つはCDすら持っていない。こちらはその程度の聴き手であるのだ。

● 曲については,プログラム冊子の曲目解説に詳しい。ぼくが印象を語るより,それを読むのがいい。楽団のホームページに掲載されるようだ。
 CDも持っていないくらいだから,シュミットとコルンゴルトについては,生い立ちも経歴もまるで知らなかった。それが今回の曲目解説で多少の知見を得ることができた。0が1か2になったわけで,大いなる進歩(?)である。

● シュミットとマーラーの確執。たぶん,いくつもの誤解が度重なった結果でしょうね。航空機事故は通常では考えられないような偶然がいくつも重なった結果,発生するらしい。人と人との事故も同じなのではないかなぁ。
 たとえば,初対面でウマが合わないと感じてしまって,それが雪だるまのように大きくなるなんてのは,その典型のような気がする。

● 「劇的序曲」はコルンゴルトが14歳のときの作品。作曲家の場合,その多くは早熟の天才だけれども,コルンゴルトの場合は歌劇「死の都」にしても知る人ぞ知るの域にとどまっているように思える。
 父親の支配,ユダヤ系であるがゆえの時代の波(ナチスドイツの台頭)。思うに任せないのは,天才も凡人も同じだ。が,天才の場合は業績との対比が先鋭になるので,“思うに任せなさ”がよりクッキリと描きやすいのかもしれない。

● 「ザ・グレート」というタイトルはシューベルトが付けたものではない。「交響曲第6番ハ長調と区別するため,単に「大きい方」という程度の意味合いで後世名付けられた」のであるらしい。
 そう教えてもらうとスッキリする。「ザ・グレート」は良くも悪くも,いろんなことを想像させる(させてしまう)。このタイトルは頭から追いだしてから聴いた方がいいと思った。

● 演奏水準は評判どおりで,演奏している姿も絵になっている。オーケストラに関しては,演奏している姿の絵になる度合いと演奏水準は一致する(と,とりあえず考えている)。
 アマチュアがここまでの演奏をするのだとすると,国内に30余あるプロオケのいくつかはなくてもいいのじゃないか,と思えてくる。

● 団員名簿に職業が付記されている。比較的多いのは地方公務員(特に都庁),学校の教師,音大を含む学生(東大が多い印象)。
 他に,医師やコンサルタント,外資系の証券会社,エンジニアなどなど,彼ら彼女らの職業は多種多様。これだけのバラツキがある中で,年に4回の演奏会を開催している。その事実がにわかには信じがたい。

● 「大向うを唸らせる」という章句がある。“大向う”とは「芝居小屋の舞台から最も遠い客席」のことで,そこには「安価な席にたびたび通ってくる見巧者の客」がいる。その客を唸らせるという意味の言い方だ。
 こういうのって歌舞伎ばかりじゃなくて,クラシック音楽でも同じなんじゃないかと漠然と思っていた。が,ウィーン国立歌劇場のようなところではそうなのかもしれないけれども,日本のアマチュアオーケストラの演奏会ではそういうことはないようだ。

● B席にはロクなのがいない。自分を棚にあげて言うんだけどね。一人で来ている爺さんがいてね(いよいよ,自分を棚にあげて言うんだけどね),これが拍手をまったくしない。おまえにできることは拍手くらいだろう,できることはせめてやれよ,とどやしつけたくなったんだが。
 椅子に浅く寝そべるようにして,肘掛けに腕を乗せる。この肘掛けって肘を掛けるためのものじゃなく,隣席との仕切りだからね。ここに肘を乗せるのはルール違反なんだがなぁ。こういうのが一人でもいると,気を取られていけない。

● この楽団には“維持会”がある。たいていのところにあるものだけれども,ここは1口1万円。それで5回分のチケット引換券がもらえる。身を入れて聴きたいのであれば,維持会費を払った方がお得だ。いちいちチケットを買う手間も省ける。
 楽団にとってもまとまったお金が入るメリットはそれなりに大きいのだろう。加入しようか。