2017年7月12日水曜日

2017.07.09 東京大学歌劇団第47回公演 ビゼー「カルメン」

三鷹市公会堂 光のホール

● 東京大学歌劇団の公演を見るのは,これが5回目になる。前回見たのは,2014年の12月。だいぶ間が空いてしまったが,その理由のひとつは,会場が三鷹市公会堂であること。
 つまり,遠いんですよね,ここ。栃木から行くんだから,どこだって遠いじゃないか,って?
 そうではない。三鷹駅までは近いんですよ。近いっていうか,電車が運んでくれるから,こちらは座っていればすむ。居眠りしててもいいし,雑誌を読んでてもいいし,音楽を聴いててもいい。

● 問題は三鷹駅から三鷹市公会堂までなんだよね。この距離がけっこうある。
 駅からはバスもある。ただ,乗合バスっていうのは,地元民しか乗りこなせない。ヨソ者としてはどのバスに乗ったらいいのかわからない。
 とはいっても,そんなのはネットをググればわかるんですよね。そのわずかな手間が面倒くさい。その面倒くささを避けてしまう。

● 避けた結果どうなるかといえば,駅から公会堂まで歩くことになる。距離にすれば2㎞くらいか。宇都宮でいえば,JR駅から東武駅くらい? もうちょっとあるかな。
 歩くのもまた面倒だ。それが間があいてしまった理由のひとつかな,と。

● が,いつまでもそうしてはいられない。頭のてっぺんに穴が空きそうな太陽光を受けながら,その2㎞を歩いて,三鷹市公会堂へ。
 大成高校のグラウンドでは野球部が練習をしていた。高校野球の季節だな。この炎天下でこんなことができるんだから,高校生ってすごいよな。ぼくらが同じことをやったら(できないけど),自殺行為になる。

● さて,「カルメン」だ。この歌劇の脚本で解せないことが2つある。
 ひとつは,ドン・ホセはなぜカルメンにここまで入れあげてしまったのか。しかも,入れあげた状態が長く続く。いっこうに冷める気配がない。
 カルメンは情熱的な美人で,いうならマドンナという設定になっているんだけれども,それにしたって。どうして,ここまで。
 もうひとつは,最後のカルメンの行動。ホセに殺されるとわかっていながら,友人の忠告をふりきって,ホセに会う。会って,さぁ殺せと言わんばかりにホセを挑発する。そして,殺される。

● この2つがどうもわからない。この2つは,でも,歌劇「カルメン」の根幹をなすところであって,そこに疑問を持ってしまったのでは,「カルメン」がどこかに飛んでいってしまう。
 しかし,わからないものはわからない。

● メリメの原作には,そういうわからなさはないんですよね。
 歌劇でのホセは内向的で母親思いの真面目な青年だけれども,原作でのホセは激昂しやすい男。カルメンをめぐって軍の上官と言い争いになると,上官を刺殺して,ダンカイロ盗賊団に身を寄せる。この盗賊団は殺人も躊躇なく行う極悪非道な犯罪集団だ(歌劇では愛嬌のある密輸団として描かれているのだが)
 ホセは,カルメンがダンカイロの情婦であることを知ると,ダンカイロをも殺している。エスカミーリョが闘牛で瀕死の重傷を負ったことを知って,カルメンとヨリを戻そうと動く。
 そういうことなら,なるほどね,ですむ。わからなさは残らない。

● オペラの脚本は,原作をかなりコミカルに改変している。それは興業として成功させる必要があったからだろうけれども,ぼくらに与えられるのは改変された歌劇「カルメン」であって,それを自分に引き寄せて,自分をスッキリさせなければならないという作業が発生してしまった。
 原作と歌劇の最大の違いは,歌劇ではミカエラという重要なキャラクターが設定されたこと。これで劇的な面白さは増していると思う。増しているんだけど,ホセに対するわからなさも増すことになる。こんなに可愛い許嫁がいるのに,おまえは何やってんだよ,っていう。

● 田舎対都市というとらえ方もできるかもしれない。田舎の保守的な道徳が身体に染みこんだホセに対して,都会の奔放な風を思うさま受けながら生きているカルメン。
 故郷という帰れる場所を持つホセに対して,寄る辺なきカルメン。故郷というシェルターを持つホセに対して,ひとり風に向かって立ち続けなければならないカルメン。
 その違いは,生き方の差にならざるを得ない。切羽詰まった度合い,生に対する真剣さ,そういうものがホセとカルメンではだいぶ違う。カルメンは道徳とかルールとか,そんなものをかまっている余裕はない。
 田舎育ちのホセが都会育ちのカルメンに惹かれてしまった。田舎と都市が戦って,都市が勝利した。

● オペラを見る楽しみのひとつに,登場人物と自分を比較して,俺はあそこまでバカじゃねえぞ,と安心するというか溜飲をさげるというか,そんなものがあるんじゃないかと思う。
 「あそこまでバカ」の筆頭は,この歌劇「カルメン」に登場するホセでしょう。だから,そこで溜飲をさげて終わりにしてもいいんだけどねぇ。

● 次に,最後のカルメンの行動だ。どうしてわざわざ殺されに行くようなことをしたのか。
 女の矜恃を示すため? そんなものを示す必要は寸毫もない。
 カード占いで,何度やっても「死」しか出なかったので,もう生きていても仕方がないと思った? そんなバカな。
 ミカエラの説得に応じて,母親を見舞うために密輸団を離脱したホセを見て,自分の孤独感を深めた? 自由がなにより大事というのは自分を納得させるための方便だったとしても,その流儀はかなりのところまでカルメンの身になっていたはずだ。その自由人がその程度で孤独を深めることは,おそらくないだろう。
 ミカエラに嫉妬した? それもないよなぁ。あったとしても,だから自分がホセに殺されてもいいってことにはならないよ。
 寄る辺ない人生に疲れてしまった? それもねぇ。あのカルメンが,と思うよねぇ。

● 普通は,ストーカーと化したホセに対して,「しつけーんだよ,このクソ野郎」と引導を渡しに行ったと考えるべきところなんだろうけど,それも命をかけてやるほどのものではないでしょ。
 となると,考えられる理由はひとつしか残らない。カルメンは自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた。ホセになら殺されてもいいと思っていた。
 しかしねぇ。カルメンはホセに恋情を寄せたことは,たぶん一度もないんだよねぇ。ホセに利用価値があるときだけ利用した。気持ちを向けたことはない。わからないまま残るねぇ,これは。

● 女心の複雑さ,不可解さに還元してはいけない。女心はいたって単純にできている(と思える)。快不快の原則と自分中心主義で動いている(したがって,しっかりと地に足が着いている)。ドライといってもいい。
 問題はこの脚本を書いているのが(たぶん)男であることで,リアルの女と男の目に映った女はだいぶ違うでしょ。そのあたりを踏まえて解釈していかないとね。つまり,脚本家が女を描き損ねている可能性もあるってことね。

● 要するに謎が多い脚本だ。そこに説得力を持たせるにはどう演出すればいいかと,演出者はいろいろ悩むのだろう。オペラ解釈とは,つまるところ,そういうことかもしれない。
 オペラなんだから,大衆受けしなきゃしょうがない。それを前提にすると,この脚本は大成功でもあるわけなんだが。

● この歌劇団の公演を初めて観たのは2013年の1月。そのときも「カルメン」だった。が,今回の「カルメン」は前回のそれとはまったく違ったものになっていた。
 何が違うかといえば,まず演じ手の技量が違う。東大という冠が付いていても,東大生はむしろ少ないのじゃなかろうか。ひょっとして音大の声楽科の学生さんが入っていたりするんだろうか。
 カルメン,ミカエラ,ホセ。いずれも呆れるほどに上手い。特にミカエラは,歌が力強くて,その力強さが辺りを払うところがあった。払いすぎてしまって,ミカエラのホセを思う乙女的な純情さ,村娘の素朴さ,そういったものまで払われてしまった憾みが残るほどだった。

● 舞台のセットと衣装も本格的。前回は,いかにもお金がない学生劇団が手作りで設えた舞台っぽくて,それはそれで好感の持てるものだった。
 今回は,資金提供者がいたんだろうかと思うような,立派なステージでしたね。

● 演出も違っていた。カード占いをするところで,カルメンに「二人とも死ぬ」と言わせている(字幕にそう出たわけなのだが)。“二人とも”という字幕には初めてお目にかかった。“二人”とはカルメンとホセなのだろう。
 カルメンを刺したところで劇は終わるんだけど,このあとホセは,カルメンを刺したそのナイフを自分の首に突き刺したはずだ。
 先に「自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた」と言ったのも,この字幕に連想を刺激されたものだ。

● 初めてカルメンに出逢ったときのホセと,初めてエスカミーリョに出逢ったときのカルメンの様子がパラレルだ。気になるっちゃ気になるんだけど,努めて関心なさそうにしている,という様子。
 これは今回の演出の独自性というわけでもないように思うけれども,そこを強調していたように思われる。穿ち過ぎだろうか。

● 結論は,ここまで作り込めるのはすごい,ということ。演出はもちろんのこと,管弦楽も含めて,大道具や衣装からプログラム冊子に至るまで,相当な水準。
 何から何まで自前。アウトソーシングはしてないらしい。すべての工程が美味しいんだろうから,アウトソーシングしたんじゃもったいない。

● 会場に入りきれず,ロビーでモニター鑑賞を強いられたお客さんも,かなりの数,いたようだ。これはあまりよろしくないから,次回は会場を変えてはどうかね。
 「カルメン」だからこれだけのお客さんが入った? そうかもしれないけどね。

2017年7月8日土曜日

2017.07.08 フラットフィルハーモニーオーケストラ 第5回演奏会

紀尾井ホール

● 四谷駅で降りるのは,今回が生涯で三度目だと思う。
 御茶ノ水は学生街であり,書店街でもあるので,若い頃にはしばしば訪れていた。新宿はあまり行きたいところではないけれども,それでも用事があったり私鉄への乗り換えがあったりで,降りざるを得ない駅だ。
 その間にある四谷にはまずもって用事がない。上智大学があるところという以外のイメージがない。四谷は新宿区にある。が,四谷駅は千代田区になるんでしょ。新宿,港,渋谷,千代田の区堺に位置している。面白いっちゃ面白いところなんだけど,上智大学以外に何かあるんだろうか。

● 逆に上智大学のイメージが強すぎるのかも。松原惇子さんのいうルイヴィトン大学(ブランド大学)の代表だ。偏差値も高い。間違ってもぼくが入れるところじゃない。
 かつては一億総中流と言われていた。日本の金持ちなんて知れてるんだし,庶民といっても日本の庶民はそこそこお金を持っている。上智とか青山とか聖心女子大とか慶応とか,坊ちゃん嬢ちゃんが集まる大学といっても,その他大勢とさして違うところはあるまいと,ぼくは思っていた。

● ところが,今に限らず,昔からそうではなかったらしいんだな。間違って入ってしまった庶民はけっこう疎外感を味わうらしい。本当かねとじつは今でも思ってるんだけど,どうもそうらしいのだ。
 しかし,だ。お金持ちが集まると,彼ら彼女らに独特の話題があり,雰囲気を醸すのだとしても,それが金持ち倶楽部のスノッブと言われるものかどうかにかかわらず,どう転んでも大したものではあるまいと思っている。
 と,わざわざ書くところがすでに,庶民の劣等感の裏返しかもしれないんだけどね。

● とにかく,その上智大学を見ながら歩くこと5分,紀尾井ホールに着いた。このホールに来るのは,今回が二度目。前回も暑い時期だった。
 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。

● 紀尾井ホール。華美でも絢爛でもないけれども,とんでもないお金をかけたホールだというのは,ひと目でわかる。椅子にしろ柱にしろ壁にしろ天井にしろ天井からさがっているシャンデリアにしろ,高級な部材でできている。
 世が世であれば,ぼくなんぞが出入りしてはいけないところであろうな。が,ぼくだけではない。お客さんの大半は,世が世であれば・・・・・・というのに該当しそうだ(暴言多謝)。日本ではクラシック音楽ファンの大衆化は,ほぼ完成の域に達しているのではあるまいか。

● 外は暴力的と言いたくなるほどの猛暑。が,ひとたびホールに入れば,冷房が完璧に作用していて,むしろ肌寒いほどだ。
 それ自体が,ぼくの年齢層の人間には,あっていいのかと思えるほどの贅沢に感じる。いや,“ぼくの年齢層の人間には”と言ってしまっては言い過ぎであろうな。“ぼくには”と言い換えておこう。

● フラットフィルハーモニーオーケストラの演奏を聴くのは今回が初めて。紀尾井ホールでやるくらいなんだから,腕には覚えがあるとみた。プログラムはオール・ブラームス。
 大学祝典序曲,ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲,交響曲第3番。指揮は平真実さん。ブラームスの4つの交響曲のうち,3番は比較的演奏される機会が少ないのではないかと思う。今日はその3番を聴くことができる。

● 女子奏者はそれぞれのカラフルなドレスで登場。こうあるべきだと思う。黒一色も悪くはないんだけど,黒一色の上品さと多くの色が織りなす華やぎとを比べれば,ぼくとしては後者に軍配をあげたい。
 女性はそれぞれが花。花は花らしくあるのがいい。どの花もみな黒いというのは,自然界にはありえないことだ。

● 「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」を聴ける機会はそんなにないだろう。ヴァイオリンはこの楽団のコンミスの田遠彩子さん。チェロはやはり首席奏者の塚本敦史さん。
 長大な曲で,これがなぜ交響曲にならなかったのか不思議。っていうか,ブラームスは交響曲として構想していたんですね。大人の事情ってやつで,協奏曲になった。

● が,あろうことか,ここでぼくは断続的に意識を失ってしまった。猛暑に晒されたあとの涼しさがいけなかったのか。昼食は食べていなかったので,食後の午睡ではないんだけどね。
 もちろん,戦いはしたんですよ。戦ったんだけれども,泣く子と睡魔には勝てないわけで。申しわけのないことだった。
 っていうか,これでチケット代の半分は捨てたも同然だな。

● 交響曲第3番。なぜこの曲だけ,演奏される機会が少ないのか。ひょっとしたら,ブラームスの4つの交響曲の中でも,最も奏者に運動量を要求するからなんだろうか。
 そんなことはないね。第3番は4つの中で最も演奏時間が短い曲なんだしね。

● 1楽章の強烈さ。激情というか情熱というか。大波がうねっているような。2楽章の雅。3楽章の憂愁。そして4楽章の躍動。そして,静かな終局。
 どう聴くかは聴き手の勝手。自分で自由にシーンを妄想することを保証してくれる。その自由を支えてくれるのがいい曲,という単純な見方をぼくはしているんだけど。

● この曲をCDで聴くときには,もっぱらカラヤンで聴いている。カラヤンって,今は非難を一身に引き受ける存在になった感があるけれど。
 が,いくらカラヤンでもベルリン・フィルでも,生演奏には敵わない。言うまでもないことだ。
 生の魅力って何なんだろうか。奏者の一挙手一投足が見えること。固唾をのむ大勢の聴衆の中で聴けること。部屋では聴けない音量を味わえること。それだけでは尽くせない何かがあるような気がするね。
 なのに,生演奏を聴きながら居眠りをしてしまうバカもいるんだな。

● 楽団紹介に「演奏者も団員もふらっと楽しめる演奏会を目指しています」とあった。それでフラットフィルという名前にしたのかね。
 ま,でも,団員が演奏会を楽しむためには,楽しくない練習を重ねる必要があるんでしょうね。

2017年6月27日火曜日

2017.06.25 諏訪内晶子&ボリス・ベレゾフスキー

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後2時。チケットは6,000円。だいぶ前に買っておいた。一律で6,000円なので,どうせならいい席で聴きたいな,と。
 1階左翼席の前から2列目の一番右。総合文化センターだと左翼席が自分の好みだ。ただし,この席だと演奏中の諏訪内さんの表情は窺うことが難しかった。その代わり,ベレゾフスキー氏の指の動きはよく見える。

● 自分のようなヘッポコ聴き手が彼女の生演奏を聴いていいんだろうか。そんな資格があるんだろうか。それは思いましたよね。
 ぼくの耳だと,音大を卒業したヴァイオリン弾きのレベル以上は区別がつかない。同じに聞こえる。目隠しをされて,卒業したばかりのヴァイオリン弾きと諏訪内さんのヴァイオリンを聴かされたら,おそらくどっちがどっちだかわからない。
 でも,お金を払ってチケットを買ってるんだからな。オレは客だぞ,と。

● 曲目は次のとおり。
 ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」
 ヤナーチェク ヴァイオリン・ソナタ
 プロコフィエフ 5つのメロディ
 R.シュトラウス ヴァイオリン・ソナタ
 (アンコール)
 マスネ タイスの瞑想曲
 ウォーロック 「カプリオール組曲」より“Basse-dance”
 クライスラー シンコペーション
 ホイベルガー 「オペラ舞踏会」より“Midnight Bells”

● 諏訪内さんの所作は優雅で柔らかい。天女の舞もかくやと思うほど。所作はもちろん演奏の本質ではないと思うんだけど,ステージで観客に見せる(観客に見られる)わけだから,見せる要素はたくさんあるに越したことはないと,単純にぼくは思う。
 ただし,優雅や柔らかさがないとダメかといえば,そんなことはないのだろう。奏者それぞれに所作があって,それが絵になっていればいい。実力者の所作は,それがどんなものであれ,絵になっているものだというのも,ぼくの経験則ではある。

● 演奏はといえば,これが世界水準か,と。神々しいほどでしたね。客席で息をするのも憚られるような感じで,じっと目と耳をそばだてていた(つもり)。
 ということはつまり,聴き手としてのぼくが,奏者の諏訪内さんに圧倒されていたというわけですね。当然,そうなるわけだけど。
 この世界にも評論家という職業の人がいて(素人評論家もいる,にわか評論家も),中には彼女に否定的な見方を披瀝する人がいることも知ってはいる。伸び悩んでいるとかね。
 が,ぼく程度の聴き手にはあまり関係のないことで,そこはヘボな聴き手の気楽さだ。

● ベートーヴェンのスプリング・ソナタ。7番と9番は諏訪内さんのCDで何度も聴いているけれども,5番も聴けるとは幸せだ。
 たとえばベートーヴェンの全9曲を特定の奏者の演奏で聴きたいという嗜好はあまり持っていないつもりだけれど,もし諏訪内さんのCDが出れば,これは買うでしょうね。

● シュトラウスのソナタは,むしろピアノに見せ場が多い曲のようだ。ベレゾフスキー氏が躍動。彼も1990年のチャイコフスキー・コンクールの覇者で,諏訪内さんとはコンクール同期らしい。
 どうも諏訪内さんばかりに目が行くけれども,彼のピアノもまた滅多に聴けない貴重なものだ。譜めくりの若い女性も緊張したろうなと,余計なことを思った。

● 世界水準の奏者はエンタテイナーとしての振るまいもできるのが常で,彼女も例外ではない。上手いというより,身についている。聴衆に対する捌きも鮮やか。
 自分がまさか諏訪内さんの生演奏に接することができるとは思っていなかったので,まだちょっとフワフワしている。

● アンコールはよく知られている曲とかなりマイナーな曲を交互に4曲。“Basse-dance”と“Midnight Bells”はCDでも聴いたことがない。
 4つもやってくれると,客席の満足度は高くなる。これも演出なんだろうかなぁ。そうなんでしょうね。
 この4曲を続けて聴くと,ヴァイオリンは歌う楽器なのだということが,理屈抜きにわかる。

● 最後にこのコンサートには無関係な憎まれ口をひとつ。
 彼女のビッグネームに引かれて来たお客さんもかなりいたでしょう(ぼくもそうなんですが)。そうなると,客席の水準は下がることになる。
 ここをさらに一般化して言うと,着飾ったお客さんが多い演奏会ほど,聴衆のレベルは落ちる。これが過ぎると,少々困ったことが起きる。今回,それはなかったけどね。

● でね,サントリーホールで催行されるベルリン・フィルとかウィーン・フィルの演奏会にやってくるお客さんというのは,お金持ちの困った君や困ったさんが多いんじゃないかなぁと思ってね。
 そんなこともないのかね。ぼくがそれらの演奏会に行くことはまずあり得ないと思うんで,いろいろ妄想するんだけどね。

2017年6月26日月曜日

2017.06.24 宇都宮大学管弦楽団 第83回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後6時。チケットは800円。といっても,招待状で入場したので,要するに無料になった。
 曲目は次のとおり。指揮は北原幸男さん。
 ベルリオーズ ラコッツィ行進曲
 チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 二長調
 ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調

● 栃木県内にある市民オケの人材供給源としても,宇都宮大学管弦楽団が大きな役割を果たしているのではなかろうか。
 そういう意味では栃木県に存在するオーケストラのセンターに位置するのが,この宇大オケといっていいかもしれない。

● 今回の演奏で最も印象に残ったのがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だ。その功績の過半はソリストの澤亜樹さんに帰せられる。
 次々に繰りだされる澤マジック。ケレンミがないというか思い切りがいいというか。大変なものだと感じ入った。

● 宇大オケも懸命の応接で,曲をまとめていった。幾重にも巡らされた糸がすべてピィィンと張っているような,見事な演奏。
 チャイコフスキーのこの曲は,ソリストの見せ場が多い。それゆえ,澤マジックが目立ちもするわけだけれども,そうであってもなお,協奏曲のできばえを最終的に決定するのは管弦楽だと思う。ピアノ協奏曲はピアノ曲ではなくて管弦楽曲であるのだし,ヴァイオリン協奏曲もまた同じだからだ。

● この曲のCDは2枚持っている。五嶋みどりさんと諏訪内晶子さんのもの。が,こうして澤亜樹+宇都宮大学管弦楽団のライヴを聴いていると,CDなんて問題にもならないと思わないわけにはいかない。
 ただ,急いで付け加えておくけれども,ぼくは再生装置をウォークマンしか持っていない。せめてミニコンポがあれば「問題にもならない」とまでは思わなかったかもしれないね。

● 第1楽章が終わったところで,会場から拍手が響いた。一部の人がオズオズと手を叩いたというふうではなくて,満場の拍手だった。
 そうしたい気持ちはぼくにもよくわかった。ので,3秒遅れて,ぼくも拍手に参加した。

● 新進気鋭の実力者と学生オーケストラという組合せがよかったか。“功成り名を遂げた大御所+プロオケ”の演奏が常にアマチュアに勝ると思ったら,大間違いだ。
 その演奏からぼくらが持って帰れるものは,技術のみによっては決まらない。うまく言えないんだけれども,そこに込めた思いであるとか,ピュアな気持ちであるとか,難曲に向かうときの心ばえや緊張感であるとか,そういうものが結果において演奏の質を高めることがあるように思う。

● ベートーヴェンの5番は今月4日に鹿沼ジュニアフィルの演奏を聴いたばかり。中高生の演奏とは思えないほどに完成度が高かったと思う。それがまだ耳に残っている。耳に残っているということは,おそらく美化された状態に変わっている。
 ので,それが今回の演奏を聴く妨げになるかもしれない。そこを少し怖れていた。

● しかし,まぁ,杞憂でしたね,そんなのはね。目の前の演奏が始まってしまえば,この世に存在するのはその一曲だけになるんでした。
 鹿沼ジュニアの演奏は第4楽章がかすかに弱かったかと思えた。今回の演奏はその第4楽章がこちらのイメージにぴったりの強さで,そこが好印象。

● かように聴く方は勝手な聴き方をする。聴き方に作法があるわけではあるまいから,そういう勝手も許される(と思う)。っていうか,そういう勝手を包含できるのがいい曲ということなんでしょ。
 第1楽章こそ管にわずかな乱れが見られたけれども,それ以降は闊達自在と形容したくなる演奏。
 それにしても。この学生オケからこれだけの演奏を引きだしたのは,指揮者の北原さんの仕業ということになる。宇大オケと北原さんの相性がいいんだろうか。

● アンコールはエルガー「威風堂々」。
 これねぇ,困ることがひとつだけあるんだよね。来て来て,あたしん家,っていう言葉が浮かんで来ちゃうってことね。アニメの主題歌にこの曲の一部が使われたゆえなんだけど,こういうのって時々,困った事態を招くことがあるねぇ。

● 改装なった宇都宮市文化会館。ここで聴くのはこれが2回目になる。前回は5月に作新学院吹奏楽部の演奏を聴いた。そのときは吹奏楽だったためか,改装の前後で何が変わったかのかあまりピンと来なかったんだけど,音響がかなり良くなっていたんですね。
 今回の演奏を素晴らしいと感じた理由の2割くらいは,文化会館の音響改善によるかもしれない。ホールも演奏者なんだよね。

2017年6月23日金曜日

2017.06.17 成城大学レストロ・アルモニコ管弦楽団 第40回メイフラワーコンサート

成城学園澤柳記念講堂

● アマチュアオーケストラの演奏会情報を得るのに,「フロイデ」はすこぶる便利だった。さすがに網羅的ではなかったものの,東京のアマオケの演奏会情報を知るのに,これ以上のサイトはなかった。
 ところが,昨年末から更新が間遠くなり,ついにはサイトそのものがなくなってしまった。管理人氏がお亡くなりになったようだ。

● それに代わるサイトは「オケ専」くらいだろうか。「フロイデ」に比べると高機能なんだけど(条件検索ができる),その分,かえって使いづらいようにも思う。広告が多いのは我慢するとしても。
 ただし,「フロイデ」がなくなったあと,頼りにできるのはこれくらいだ。その「オケ専」で成城大学レストロ・アルモニコ管弦楽団の演奏会を見つけた。

● 指揮は松岡究さん。松岡さんに指揮を頼めるくらいなら,かなりの実力を持ったオーケストラなのだろうと思って,聴きてみることにした。
 開演は午後2時。入場無料。会場は成城大学の構内にある澤柳記念講堂。もちろん,初めてのところ。

● 学内にこれだけのホールを備えているところ(大学)は珍しいのではないか。多目的ホールだけれども,少なくとも,東大の安田講堂や早稲田の大隈講堂より,使い勝手はずっと良さそうだ。新しい分,実用性においてアドバンテージを持っている。

● 曲目は次のとおり。
 ベートーヴェン 劇音楽「エグモント」序曲
 シベリウス カレリア組曲
 チャイコフスキー 交響曲第1番「冬の日の幻想」

● ところで,松岡さんは成城大学の卒業生なんですね。指揮をしたのはその縁ということなんでしょうか。
 この大学は文芸学部に芸術学科を備えているものの,美学・美術がメインのようで,音楽に関しては手薄い。
 松岡さんはその芸術学科を卒業したのかもしれないけれど,今日の松岡さんがあるのに成城大学が果たした役割は,限りなくゼロに近いのではないかと想像する。

● カレリア組曲はしっとりと聴かせてくれた。たまにシベリウスを聴くと,ジンワリ染みてくる。
 カレリア組曲に限らず,コンミスのコンミスとしての健闘が目立った印象がある。

● チャイコフスキーの第3楽章でオヤッと思う箇所があった。けれども,これ,反省するあまり落ちこむことのないように願う。すぐに立て直したんだしね。気を抜いてしまったわけでもないと思う。
 そもそも,演奏中に反省するのは御法度だ。終演後の反省も3秒でいい。案外,反省って何も産まないからね。

● 「冬の日の幻想」ってね,ロシアの冬ってどんななのかと,この曲を聴くたびに思う。幻想を見れるような生やさしい寒さではないはずで,当然,この幻想は家の中で外を見ながら(あるいは,見ないで)脳内に描いているものだろう。
 外国の曲を聴くときに,日本の四季に引き寄せてイメージを作ってしまいがちだけれど,それでいいのか。って,いいも悪いもない。そうして聴くことしか,ぼくらにはできない。
 そういう聴き方をしている異国の聴衆にもきちんと伝わるだけの普遍性を備えているのが,すなわち芸術というものだろうと,勝手に思うことにする。

2017年6月13日火曜日

2017.06.11 那須室内合奏団第9回演奏会

那須野が原ハーモニーホール 交流ホール

● 開演は午後2時。入場無料。曲目は次のとおり。
 パッヘルベル シャコンヌ
 クープラン スルタン
 ヴィヴァルディ 合奏協奏曲「四季」より“夏”
 モーツァルト 交響曲第25番 ト短調(弦楽合奏版)
 バロックとモーツァルト。前回も前半はテレマン,ヴィヴァルディ,ヘンデル。バロックだった。

● 曲間にこの合奏団の音楽監督である白井英治さんの解説がつく。白井さんによれば,バロックは小節線にとらわれず,途中から旋律が展開することが普通にあって,それが今聴いても新鮮に感じる,ということ。

● モーツァルトは古典派。古典派のバロックとの第一の違いは,ソナタ形式。バロックは変奏,フーガ,カノンといった技法で曲ができあがっているのに対して,ハイドンとモーツァルトは主題の提示-展開-再現というソナタ形式を作りあげた。
 以後,一部の例外はあるものの,ほとんどの作曲家はこれを踏まえている。よほどよくできた形式なのだろう。

● 終演後に白井さんが,一緒にやりませんかと団員勧誘。その際,大人になってから楽器を始めた人を立たせたところ,ヴァイオリンの3分の2以上の奏者が立ちあがった。
 プロになるなら5歳から始めていなければいけないんだろうけども,大人になってから始めても楽しめるんですな。あるいは,聴く人を楽しませることができる。

● 最も印象に残ったのは,1曲目のパッヘルベル「シャコンヌ」。それと,アンコール曲のシベリウス「アンダンテ・フェスティーヴォ」。
 旋律の美しさ。美しさを取ったら何も残らない。そこが素晴らしい。夾雑物がないということだから。

● ヴィヴァルディでは独奏ヴァイオリンとチェロが絡む箇所がある。ここは白井さんと賛助出演の本橋裕さんの絡みになるわけで,ここも聴きどころってことになるだろう。
 お得感があるところだ。

● 次回は天満敦子さんを向かえて,5月20日に大ホールで開催する。

2017年6月6日火曜日

2017.06.04 鹿沼ジュニアフィルハーモニーオーケストラ 第28回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 鹿沼ジュニアフィルの存在は知っていたけれど,定演を聴くのは今回が初めて。当然,今回で28回を数えることも知らなかった。かなり前からあったのだな。
 定演を知らないでいたのは,情報がなかったからだ。今回はたまたまTwitterでつぶやいてくれた方がいたから,知ることができたけれども,それがなければやはり知らないままで過ぎたろう。
 ま,定期的に鹿沼市民文化センターのサイトで催し物案内をチェックすればいいわけだけどね。
 開演は午後2時。入場無料。

● 曲目はベートーヴェンの5番とブルックナーの4番。交響曲が2つ,しかもひとつはブルックナーという重量級のプログラム。
 最近はこういうのが珍しくなくなったけれども,ジュニアでもその傾向があるのか。と思ってプログラム冊子を眺めたところ,自分の不明を恥じる結果になった。前からそうなんだ,ここ。
 第8回ではベートーヴェンの5番とショスタコーヴィチの5番,第14回ではレスピーギ「ローマの松」とベルリオーズ「幻想交響曲」,第15回はドヴォルザークの8番とストラヴィンスキー「春の祭典」,第20回ではマーラーの5番。

● 「ローマの松」にしても「春の祭典」にしてもマーラーにしても,大編成のオーケストラになるはずだ。「幻想交響曲」もそうだけれども,そもそも,ジュニアには難易度が高すぎるのではないか。
 本当にこれをやったのか。って,やったんでしょうねぇ。ちょっと驚きだ。

● プログラム冊子の“演奏者紹介”によると,このジュニアオケは鹿沼東中と西中の卒業生が立ち上げたものらしい。「近年は中学生が多くなってきました」ともある。東中と西中で部活で管弦楽をやっている生徒たちがジュニアのメンバーにもなっているんでしょ。
 東中と西中の定演は何度か聴いたことがある。その都度,この生徒たちの演奏で交響曲をまるごと聴いてみたいものだと思った。生徒たちもやりたがるんじゃなかろうか,とも思った。

● やっていたんだね。ジュニアオケで(全員ではないのかもしれないけれど)。しかも,たっぷりと。
 学校の部活のほかに,そちらまでやっているとなると,けっこう負担が大きいでしょうねぇ。好きなことなら負担を負担と感じないってことなんだろうかなぁ。

● 断言するけれども,大人になっても仕事に対してそれができたら,どんな仕事であっても必ずひとかどの人物になれる。まぁ,仕事となるとなかなか好きにはなれないものだけど。
 逆に,この生徒たちが授業と音楽に費やしている時間と労力を,並の大人が仕事に費やしたら,九分九厘,過労で倒れるかメンタルに疾患を来すだろうね。

● ベートーヴェンの5番は,当然,CDで何度も聴いている。CDはカルロス・クライバー&ウィーン・フィルのものだ。
 クラシック音楽の玄人筋には批判の対象でしかなくなった感のあるカラヤン。けれど,そういった批判者をぼくはあまり信用していない。おまえら,ほんとにわかって言ってるのか,程度に思っている。ぼく一個は,たいていの曲にはカラヤンの録音があるのだから,カラヤンで聴けばいいじゃないかと思う。
 が,カルロス・クライバーだけが例外で,彼の録音があれば,できればそれで聴きたい。ので,ベートーヴェンについていえば,4番,5番,7番はクライバーで聴く。その程度がぼくのこだわりといえばこだわりだ。

● って,どうでもいい話ですな。そのクライバーでベートーヴェンの5番は数え切れないほど聴いているってことです。
 しかし,そのCDと今回のジュニアフィルの生演奏とを並べて,どちらを択るかといえば,躊躇なく後者を選ぶ。生の迫力というのはハンパない。特に,5番のような曲はね。
 もちろん,その演奏が一定の水準に達していることが前提になるんだけど。

● 5番を「運命」と名付けているのは日本だけらしい。“曲目紹介”でも触れられているけれど,シントラーに対して,ベートーヴェンが「このように運命は扉をたたく」と言ったとか。どうもこれはシントラーの作り話のようだけどね。
 でも,「暗から明へ」という構成であること,第4楽章で歓喜が迸るような曲想になっていることは,誰もが認めるところなので,苦悩を通して歓喜にいたる音楽だという理解でいいのだろう。っていうか,それ以外の聴き方をするのはほとんど不可能だ。

● となると,この曲の第一の聴かせどころは,3楽章からアタッカでなだれこむ4楽章の冒頭の部分ということになる。われ,(運命に)勝てり,という高らかな勝利宣言。
 満を持して控えていたトロンボーンとピッコロも加わって,管弦楽が全身ではじけるところ。
 ここが少し弱かったような気がした。

● のだが。瑕疵ではないのでしょうね。あえてそうしたのかもしれない。解釈の問題かも。
 次のブルックナーを聴いたあとで,そう思い直した。できなかったのではなくて,やらなかったのだ。

● 中高生がここまでの演奏をすることに驚く。管弦楽の豊穣さを思い知らせてくれる。
 この曲をノーミスで通すのは至難。かといって,ミスるまいと守勢に入ってしまっては,つまらない演奏になる。演奏が横臥してしまう。
 あくまで攻める。ステージには間違いなくベートーヴェンが立ちあがっていた。

● 次はブルックナー。中高生がブルックナーを演奏するということ自体が,ぼくの常識にはなかったもの。
 ブルックナーの交響曲はそれぞれの楽章に交響曲の全体が折りこまれている(という印象を持っている)。交響曲が4つ集まって,ひとつの交響曲になっているのがブルックナー。
 4番もしかり。そこを強いていうと,1,2楽章でひとつのまとまり。3,4楽章でもうひとつのまとまり。全体として壮大な戯曲のようなもの。
 これを中高生が演奏しているという目の前の現実が,あり得ないことのように思われる。

● 出だしはお約束の“原始の霧”。そのあとに,静寂を破るホルン。ここ,責任重大。ここでホルンがこけたら,そこで聴衆の演奏全体に対する印象が著しく損なわれるし,そのあとのオーケストラ全体の士気をも大きく下げてしまう。
 ホルンの女子生徒,見事に責任を果たした。が,そこでひと息つくわけにはいかない。すぐに次の出番が控えている。

● 弦の清澄さ。低弦部隊がしっかりしているから,ヴァイオリンが思うさま踊ることができる。チェロの落ちついた響きが特に印象に残ったけれども,チェロに限らない。
 ファゴットをはじめ,木管陣の1番奏者の技量も相当なもの。1番はどうしても目立つのでそう感じるわけだが,1番だけではないだろう。

● この演奏をブルックナーに聴かせてみたい。さいはて(極東)の島国の,しかも地方の,しかも中高生の,この演奏を聴いて,ブルックナーはどう感じるだろうか。彼の感想を聞いてみたいものだ。

● あえて難癖をつけるとすれば,弦のピッツィカートだろうか。指先(だけ)で弾くと音が寝てしまう。ペチャっとなってしまう。三味線じゃないんだから,腕全体を使った方が良いような。
 もちろん,コンマスをはじめ,そうしている奏者の方が多かったとは思うのだが。

● というわけで,大きな拾いものをした気分。
 栃木県内の音楽のセンターは,ひとつは宇都宮大学(教育学部音楽科と宇都宮大学管弦楽団),もうひとつは音楽学科を有する宇都宮短期大学。
 そして,三番目の核がどうやらこの鹿沼にある。理由はわからないけれども,そうなっているらしい。