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2021年11月30日火曜日

2021.11.26 第12回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 上野学園大学・武蔵野音楽大学

東京芸術劇場 コンサートホール

● 夜の東京芸術劇場にやってきた。じつはちょっと早とちりをしていて,この音大フェスの開演時刻はすべて15時だと思っていた。今までがそうだったから。土日開催で15時から。
 ところが今日は平日の金曜日で,平日なら夜公演にしないとお客さんが来れなくなる。ので,今回だけは19時だったのだ。
 けれども,19時からの公演を最後まで聴くと,今日中に家に帰り着くことが難しくなる。北関東の在から出ていくと,こういう問題がある。

● ので,通し券を買っているけれども,今日だけは諦めるしかないという結論にいったんはなった。
 しかぁし。「一休」で都内のホテルをチェックしてたら,この日,3,072円で泊まれるビジネスホテルがあったのだ。これなら泊まれるぞ,と。
 ので,チェックインして風呂に入って,ここにやってきた。優雅なものだ。ホテルは浅草なので,銀座線 → 半蔵門線 → 丸の内線と乗り継いだ。

● ということで,開演は19時。結論は聴きに来て正解だったということ。
 上野学園はベートーヴェンの1番とシベリウス「フィンランディア」。指揮は福島康晴さん。
 どちらも何度も聴いている曲だが,ぼくは「フィンランディア」の方により大きく感応した。これほどしっとりと届く「フィンランディア」を過去に聴いたことがあったろうかと,記憶をまさぐってみる。

● こういう心的操作をすることが無意味であることはわかっている。過去に聴いたことがあろうとなかろうと,そんなことはどうでもいい。「今,ここ」に集中すべきなのだ。過去を探っても仕方がない。
 でも,まさぐってしまった。しっとりとじんわりと入ってくる。

● 武蔵野音大はブルックナーの7番。指揮はルドルフ・ピールマイヤー氏。ドイツ連邦軍中央音楽隊の隊長で,武蔵野音大の客員教授だそうだ。
 ブルックナーを聴くのは久しぶりだ。その久しぶりがこの音大フェスであったのは幸いだ。渾身とはどういうものか,こういうものだ。そういう演奏ですよね。

● プロの演奏よりも音大フェスを聴きたいとぼくは思っているのだけど,その理由になりうるキーワードのひとつが “渾身” だろう。彼ら彼女らにしても,今しかできない演奏じゃなかろうか。数年後にこのメンバーを招集できたとしても,今日と同じ演奏ができるか。できないのじゃないか。
 一期一会感が強烈にある。 “渾身” と “一期一会” がこの音大フェスの大いなる魅力といっていいのだと思う。

● 彼ら彼女らの中で,プロとして立っていける人はひと握りしかいないと言われる。ひと握りでも多すぎるとして,ひと摘みだと言う人もいる。
 そのとおりなのだと思うのだが,そのプロの演奏よりも,今日の只今現在の彼ら彼女らの演奏の方が力がある。刹那の力に過ぎないのだとしても,力がある。

● 東京まで出て聴くのはこの音大フェスに限ることにしようか。それ以外は地元に沈潜することにしよう。そうだ,そうしよう。いつから? 今日からだ。
 すでにチケットを買ってしまっている演奏会は聴きに来るけれども,それ以外に東京に出張るのはこの音大フェスに限る,と決めてしまおう。
 唐突にそう思った。年金生活者になってそろそろ使えるお金も限られてくるのでね。

● 開演時刻よりだいぶ前に着座したのだが,退屈することはなかった。武蔵野音大の機関誌があって,ご自由にお持ち下さいとなっていた。ここに将棋の佐藤天彦元名人の対談記事があったので,それを読んでいたからだ。
 元名人の趣味のひとつがクラシック音楽だというのは知っていたけれども,ここまで深く入れ込んでいたとは知らなかった。並みのクラシック音楽好きとは一線も二線も画している。渡辺名人の競馬と比べるとどうなんだろうか。
 将棋との関連で,「なかなか壁を突破できずにいたんですね。そんな時,これからの人生で将棋だけに傾注するのは少し寂しいなと感じ,ピアノを習おうと決心しました。そして,ピアノを始めてからそれほど時を経ずに,自分でも不思議な感覚でしたが,将棋の結果が出始めました」と語っている。

● 上野学園は学生募集をやめるとか学内ホールを売却するとか,なかなかシビアな状況にあるようなのだが,短大は今後も存続する。来年の音大フェスにも参加する。

2020年11月30日月曜日

2020.11.22 第11回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 上野学園大学・昭和音楽大学

東京芸術劇場 コンサートホール

● 10月18日,新交響楽団の演奏を聴くために東京芸術劇場に行った。1階のプレイガイドに置いてあるチラシを見ていたら,音大フェスのチラシがあった。
 今年はコロナで開催されないと思いこんでいた。が,やるんですな,音大フェス。ポッと気持ちに花が咲いた感じ。

● コロナによる演奏会の中止は,ぼくの場合,3月末の音楽大学フェスティバル・オーケストラの中止から始まった。その後に続く,怒涛のチケット払戻し。一番大変だったのはホールのスタッフだろうけど,そこから鬱陶しい時間が流れ始めたのだった。夏まで。
 だものだから,今年も例年と変わらず音大フェスが実施されることを知って,トンネルを抜けたようなホッとした感じを覚えたというわけだった。

● 加えて,4月から晴れて自由の身になった(つまり,サラリーマンを辞めた)ので,時間だけはある。今年は4回とも聴きに行けるだろう。
 というわけで,速攻で通し券を買った。一般席にあまりいい席は残されていないっぽいのだけども,それでも笑っちゃうほど格安だ。1回あたり750円。
 ということは,一般客に費用を負担してもらおうとは主催者は考えていないということだろう。枯れ木も山の賑わいで,来てくれればいいですよ,でもタダってわけにもいかないのでまぁ気持ちだけ乗せときますよ,その代わりいい席は関係者が使いますからね,よござんすね,ってな感じでしょ。

● 藝大は今年も不参加。残念だけども,仕方ないのでしょう。来年3月に予定されている関係大学の選抜チームによる音楽大学フェスティバル・オーケストラには藝大も加わる。

● ということで,4回にわたる音大フェスの,今日は第1回目。
 まず,登場したのは上野学園大学。曲目は次のとおり。指揮は清水醍輝さん。
 ベートーヴェン 「エグモント」序曲
 バルトーク 組曲「ハンガリーの風景」
 ドビュッシー 「管弦楽のための映像」より「イベリア」

● ベートーヴェンの堂々たる「エグモント」の後,小粋なバルトーク「ハンガリーの風景」。さらにドビュッシーは独特の色彩感。まったく味わいの違う短編を読むような面白さがある。
 「ハンガリーの風景」はたぶん初めて聴く。CDも含めて。なぜなら,この曲,CDも持っていなかったから。元になったピアノ曲のCDはあったと思うんだけど。ドビュッシーの「管弦楽のための映像」も持ってないや。ピアノ曲の「映像」はあるんだけどね。
 ちなみに,プログラム冊子に載せられている “楽曲紹介”,最後の4行はない方がいいと思った。

東京芸術劇場
● 色合いの違った短編を複数重ねるのも決して悪くないと思うんだけども,長編には長編の良さがある。おそらく,ホールとの相性もある。これくらい大きなホールになると,長編の方がしっくり来るのだろう。
 で,次は昭和音楽大学。ショスタコーヴィチの交響曲第5番。長編も長編,大を付けてもいいくらいの長編だ。指揮は時任康文さん。

● 時の政治体制との関係で色々と言われるけれども,実際にショスタコーヴィチにとっては命がかかっていたのだと思うけれども,そうしたこととできあがった作品とは,いったん切り離した方がいいのじゃないかと思う。
 第4楽章の最後の盛りあがりはたしかに体制の賛美するものかもしれないが,“体制” という文字の代わりに “人間” をあてても,“世界” を代入しても,それぞれに成立する。それだけの汎用性がある。
 この世は苦だと説いた仏陀も,最期が近くなった頃にアーナンダにこう言ったという。

 アーナンダよ ベーサーリーは楽しい
 ウデーナ霊樹の地は楽しい
 ゴータマカ霊樹の地は楽しい
 七つのマンゴの霊樹の地は楽しい
 タフブッダ霊樹の地は楽しい
 サーランダ霊樹の地は楽しい
 チャーパーラ霊樹の地は楽しい

 それをこの曲の第4楽章に見ようとすれば見えてしまう(たぶん)。融通無礙だ。
 汎用性があるとはそういうことで,リアルのショスタコーヴィチが生きた時代に押し留めない方がいいのではないかと,ショスタコーヴィチの作品を聴くたびに思う。
 それがまた,ショスタコーヴィチの才能に敬意を払う所以でもあるような気がする。

● 演奏も素晴らしかった。充分な音圧があり,起伏があり,うねりがあった。終局後もしばらくは興奮冷めやらずの状態が続いた。
 これだよ,これ。これが音大フェスなんだよ,と秘かに悦にいって,ホクホクしながら地下鉄の駅に向かったのだった。

2018年11月30日金曜日

2018.11.25 第9回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 上野学園大学・桐朋学園大学

東京芸術劇場 コンサートホール

● 音大オーケストラ・フェスティバル2日目。上野学園と桐朋。開演は午後3時。
 今回の席は少し前すぎ。管の奏者は見えない。その代わり,ヴァイオリン奏者を間近で見ることになる。上腕筋の動きまでわかる。今,息を吐いたとか吸ったとか,呼吸の具合までわかる。

● 上野学園はレスピーギ「交響詩 ローマの噴水」とプロコフィエフ「〈3つのオレンジへの恋〉による組曲」。指揮は清水醍輝さん。
 清水さん,ヴァイオリンでその名のとおり輝かしい実績を残しているのだけど,最近は指揮活動に力を入れているんだろうか。

● 上野学園って,他の音大に比べると馴染みが薄い。この音大フェスに参加するようになったのも,2年前からだった。
 経営問題が取りざたされることも,イメージを悪くしている。が,そういうことはそういうこと。一般報道だけでイメージを作ってしまうと,たぶん実態から離れることになるだろうし。
 ステージ上の学生は,当然ながら,そういったこととは無縁でいるように思われた。

● 「3つのオレンジへの恋」を生で聴くのは初めて。CDはぼくの手元にもあったはずだが,そのCDを聴いたこともない。こういう機会に蒙を啓いてもらえるのだが,では今後,この曲を聴くことがあるかといえば,あるかもしれないし,ないかもしれない。
 やっぱ,オーケストラだよなと思った。室内楽も独奏もいいんだけれども,オーケストラの華って動かしがたいよね。

● 桐朋はホルスト「惑星」。指揮は沼尻竜典さん。これだけの大編成を組みながら,一切,水準を落とさないでやりきるのは,さすが横綱の貫禄ということか。
 この曲もまるごと生で聴くのは初めて。「木星」を単独で取りあげているのは何度か聴いているのだけど。

● ホルストは「占星学で説かれている惑星のイメージを音で再現してみようと考えた」とはよく言われることで,実際,そうなのだろう。
 で,ナントカ占いで使われるアレでいうと,ぼくは八白土星なんですよ。土星は老年の神。ありゃりゃ。火星(戦争の神)や金星(平和の神),海王星(神秘の神)の方がよかったなぁ。
 しかも,土星って「人に対して冷徹で,陰気な性格を持つとされる」らしいんですよ。当たっていないとは言わないけれど,何だかなぁ。

● ところが,実際に桐朋の演奏で土星を聴いてみると,“老年の神”っていうイメージではぜんぜんない。「惑星」全体で最も高揚するのが土星じゃないか。何だかホッとしたというか,嬉しくなったというか。
 最後の海王星では,舞台の袖から女声合唱がかすかに聞こえてくる。これ,効果的ですなぁ。神秘の神という感じがする。
 終演後,彼女たちがステージに登場した。この合唱団も当然自前なのだろう。何かさ,ぼくらの若い頃とは日本人の体型って様変わりしてるよね。身体が細いのに胸が大きいって,昔はなかったよ。オヤジ丸出しの言い草で申しわけないけれど。

● 桐朋の演奏は,プロオケと比しても何ら遜色ないように思われた。が,桐朋の学生といえどもプロとして立っていくのは少数なのだろう。
 若い人は割を喰っているなぁと思う。なにせ空きが出ないのだ。若い才能の行き場がないのだ。
 入替戦を作ったらどうかね。あるいは,プロオケには40歳定年制を義務付けるとか。そんなことは無理だから,割りを喰うことになるんだが。

2015年11月17日火曜日

2015.11.15 第6回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 上野学園大学・東京藝術大学

東京芸術劇場 コンサートホール

● 「首都圏9音楽大学と2つの公共ホール(東劇とミューザ)が連携して行う音楽大学オーケストラ・フェスティバル」の今回は2回目。開演は午後3時。

● まずは,上野学園大学。指揮は下野竜也さん。
 曲目は次のとおり。いずれも「死者の追悼のために書かれた」もの。
 ストラヴィンスキー 管楽器のためのシンフォニーズ(1947年版)
 ペルト カントゥス-ベンジャミン・ブリテンの思い出に
 ブリテン シンフォニア・ダ・レクイエム

● 木管と金管だけが入って,「管楽器のためのシンフォニーズ」。プログラムノートの楽曲紹介によれば,「ドビュッシーを追悼して」という副題が付されている。
 静かに時が過ぎていく。

● 「カントゥス-ベンジャミン・ブリテンの思い出に」もまたしかり。「三和音の純粋な響きと単純な旋律の反復」なんだけど,奏者は気を抜けない。
 「弦楽合奏の清冽な響き」とは楽曲紹介に出てくる言葉の引き写し。そのとおりで,清冽という言葉がじつにピッタリくる。

● 下野さんの指揮ぶりはどう表現すればいいだろう。かつて将棋で,中原は自然流,米長は泥沼流,谷川は光速流と言われた。そのひそみに倣えば,火の玉流とでもいうか。
 内に秘めて,秘めたところを表現するのではなく,ありったけを外に出す。出してオケにぶつける。同時に,奏者に気にするなとか,そうそうそれでいいんだという,指示や評価も示す。

● 藝大はR.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を持ってきた。指揮は山下一史さん。
 一言もって評すれば,しなやかな演奏だった。そう,しなやか。二十歳をいくらか超えたくらいの年齢の若者たちのオーケストラだからこそ,と思えた。
 いやいや,それにしたってこうまでしなやかな演奏はそうそう聴けるものではないように思う。

● それを典型的に体現していたのがコンミスで,ぼくはもう呆れてしまった。
 こういう演奏を見せられると,さすがに藝大の底力はすごいという印象になる。

● こうして,音大フェスティバルの前半が終了。次回は所を替えて,ミューザ川崎で11月28日。

2014年11月25日火曜日

2014.11.24 第5回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 上野学園大学・武蔵野音楽大学・洗足学園音楽大学

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 音大フェスティバルの2回目。開演は午後3時(これは各回とも統一されている)。

● まず,初登場の上野学園大学。指揮は下野竜也さん。客席もほのぼのとした拍手で初登場を歓迎した感じ。
 ウェーベルンの「管弦楽のための5つの小品」。ウェーベルンはシェーンベルクのお弟子さん。プログラムノートの楽曲紹介によれば,ウェーベルンは「極度に凝縮した音楽のあり方を模索した」人であるらしい。
 「伝統的な和声や旋律,形式といった概念が後退」し,「揺らめきや震え。かすかに気配を漂わせ,一瞬のうちに沈黙の中に消え去ってしまう,何か」が浮かび上がるというのだが,聴いてみるとたしかにそのとおりだった。

● が,その「何か」が何なのか。それは聴いた後もわからない。こういうのはわかろうとしてはいけないものなのかもしれないとも思った。
 わかるというのは,自分にとって既知の知識や概念に組み込んで,違和感を取りのぞくことだから。そんなことをしたのでは,せっかくの「何か」が死んでしまうかもしれない。
 脈絡のない5つの夢を続けて見たような感じもした。

● 次はモーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」。CDでは何度も聴いているこの曲も,生でとなると,あんがい聴く機会がない。
 演奏する側にとっては,道は単純でわかりやすいけれども,幅員が狭くて,無事に通り抜けるのはそんなに簡単じゃないってことになるんだろうか。
 下野さんの指揮ぶりも見所のひとつだったと思う。

● 武蔵野音楽大学は,バルトークの「管弦楽のための協奏曲」を用意。指揮は時任康文さん。
 この曲もぼくには難解。バルトークは何をしたかったのだ? それがわからなくてね。曲を聴いたんだろ,それが俺のしたかったことなんだよ,と言うんだろうかなぁ。

● あらゆる奏法を散りばめ,考えつく限りの音の連鎖と組合せを披瀝し,すでにある旋律と自分の楽想を詰められるだけ詰めこむ。そういうことをしたかったのか。
 要するに,散らかってるなぁと思ってしまうわけですよ。
 バルトークは病をおしてこの曲を完成させた。そんなときに,アラカルトの食べ放題メニューを作るようなことはしないでしょ。
 おかしいのは自分の方だよなと思ってましてね。結果,いはく,難解。

● 洗足学園は,レスピーギの「ローマの噴水」「ローマの松」。指揮は秋山和慶さん。
 ハープのほかに,ピアノ,チェレスタ,オルガンも加わり,バンダも登場するわけだから,大編隊になる。当然,そんなに聴ける機会はない。
 と思いきや,「ローマの松」は一昨年度のこのフェスティバルの合同チームの演奏で聴いているんでした。指揮も秋山さんだった。あのときは,メインがマーラーの5番だった。とんでもなかったな。

● 演奏はもうね,ひれ伏すしかない感じ。ここまで3大学の演奏を聴いて,チケットが750円であることを思うと,あまりのお得感に膝がガクガクする。
 が,作曲家に対して,ここまでの大編隊にする必要があったのかね,と思ったりもしてね。埒もないことがチラッチラッと頭をかすめた。

● 終わってみれば,グッタリと心地よい疲れが残った。これがライヴを聴くことの醍醐味でもある。
 願わくば,今から栃木の田んぼの村まで帰る必要がなければ,最高なんだが。

● 今回は近くにブラボー屋がいた。ブラボー屋って,意外に内弁慶でオタクっぽい人が多いのかもしれないね。