ラベル ナスノ 那須野が原ハーモニーホール合唱団 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ナスノ 那須野が原ハーモニーホール合唱団 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年3月8日水曜日

2017.03.05 那須野が原ハーモニーホール合唱団 第11回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開催は午後2時。チケットは200円。タダではなくて,200円でチケットを売るのがいいところだ。今回の演しものはハイドン「戦時のミサ」。
 それだけではないので,以下に曲目をあげておく。

 パレストリーナ 水を求める鹿のように
 ビクトリア アヴェ・マリア
 松下 耕(谷川俊太郎 作詞) 信じる
 新実徳英(岩間芳樹 作詞) 聞こえる
 猪間道明 編曲 TOKYO物語
 ハイドン 戦時のミサ

● つまらない理由で,今回は遅刻してしまった。時間にすれば15分ほど。残念でもあり,演奏する側に対しては申しわけなくもあり。
 ぼくが座席に着いたときには,「信じる」までは終わっており,「聞こえる」からの拝聴とあいなった。

● ぼくだけの都合でいえば,聴きたかったのはハイドン「戦時のミサ」だから,損失はほとんどなかったと言っていいんだけどね。
 どうやっても遅刻だとわかったときは,行くのをやめようかと思ったんだけど,諦めないで行ってよかったと思う。

● 声楽が入るミサ曲などの宗教音楽っていうのは,CDで聴くことがあまりない。CDは持っているんだけども,ほぼ聴かない。こういうものは生で聴ける機会をとらえていかないと。
 といって,管弦楽+合唱団+ソリスト,と大がかりな編成になるから,地方だとその機会も多くはない。ゆえに,今回のような演奏会は貴重。

● で,その「戦時のミサ」。
 指揮は片岡真理さん。ソリストは袴塚愛音さん(ソプラノ),谷地畝晶子さん(アルト),藤井雄介さん(テノール),村林徹也さん(バリトン)。
 管弦楽はモーツァルト合奏団。あたりまえだけれども,木管,金管,ティンパニは,賛助でまかなった。

● 「戦時のミサ」を聴いた感想を申せば,ミサ曲なのにあまり宗教臭を感じなかった。世俗の曲という印象を受けた。
 プログラム冊子の曲目解説によれば,ハイドンがこの曲を作った1796年は,ナポレオン軍がウィーンを制圧し,北イタリアに進軍していた。その「フランスの脅威に対する怒りの表明といえる」ということだ。
 なるほど,それで,と理解すればいいのかもしれない。理路整然としていて腑に落ちる。

● ただ,ぼくは理路整然としているものをあまり信用しないところがあって,それ以外に何かあったのじゃないかと考えたくなる。が,考えるヨスガは何も持っていないので,妄想を逞しくするという域を出ることはない。
 とにかく,世俗臭のするミサ曲という印象だ。

● だものだから,ぼくとしては楽に聴くことができた。たとえばバッハの「マタイ受難曲」を聴かなければならないとなると,たとえCDであってもそれ相応の覚悟を要する。
 日本人のぼくらがキリストの受難曲を聴くとなれば,どうしたってそういうことになる。わりと重苦しい行為になるという意味。
 が,ハイドンのこのミサ曲はそういった重苦しさを感じずに聴くことができる。

● この合唱団の定演を聴くのは,これが二度目だ。一昨年の第9回を聴いている。フォーレの「レクイエム」だった。そのとき袴塚さんのソプラノを初めて聴いたのだった。
 で,今回もまた袴塚さんのソプラノを聴くことができた。満足だ。他の3人もたいした歌い手で,ソリスト陣には1ミリの文句もない。

● 合唱はいっそうそうだ。この合唱団の活動は年1回の定演だけではないと思うけれど,でもこの定演が最も高い山になっているはずだ。そこに向けて1年間練習してきた。
 細かい部分を言えば,それは色々ある。抑えなければいけないところでやや走りすぎてしまうとか,逆に冒険を避けるあまり声を出し惜しんでいるとか。
 しかし,そうした細かいところはどうでもいいような気がする。それは教授陣にとっての課題ではあっても,客席側がどうこういう話ではない。
 80歳代の団員もいるらしい。声に恵まれた人たちばかりではないだろう。それでよい。ここまでできればよしとする。

2015年6月29日月曜日

2015.06.28 那須野が原ハーモニーホール サマー・フレッシュ・コンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● このコンサートは那須野が原ハーモニーホールの定例行事になっている。昨年も行ったし,一昨年も行った。
 開演は午後2時。チケットは2,000円。座席は指定される。

● 第1部は「第83回日本音楽コンクール優勝者コンサート」。登場したのは,吉田南さん(ヴァイオリン)と佐藤晴真さん(チェロ)。
 お二人とも高校生だ。若い才能が次々に出てくるんだなと思わないわけにはいかない。どんどんひしめき合うイメージ。

● まず,吉田さん。演奏したのはモーツァルトの「ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド ハ長調」。もちろん,管弦楽の代わりにピアノ伴奏になった。その伴奏を務めた女性,何度か聴いていると思うんだけど,名前がわからない。申しわけない。
 2曲目は,ガラッと曲調が変わって,サン=サーンスの「ワルツ形式の練習曲」。

● 桐朋女子高校のまだ2年生。演奏は,ぼくなんかの評価は歯牙にもかからない水準だと思う。弦を押さえる左手の動きなんか,神の手にしか見えなかった。
 「ワルツ形式の練習曲」は超絶技巧のオンパレードじゃないですか。ぼくがもし真似たら(真似られないけど),何度かヴァイオリンを取り落とすに違いない。

● 愛くるしさを残す顔立ちだけれども,これからどんどん美しくなっていくのだろう。
 そういうところも含かめて,まぶしい存在。快い敗北感を味わわせてくれるっていうか。

● 佐藤さんは,藝大附属の3年生。ブリテンの「無伴奏チェロ組曲第1番」を演奏。こういう曲を高校生が演奏するっていうこと自体が,なかなか腑に落ちないわけですよ。
 でも,腑に落ちようが落ちまいが,現に目の前で演奏している彼がいて,その音が聞こえてくるわけで。

● これは奏者にとってのみならず,聴き手にとっても難解な曲だと思う。佐藤さん自身が書いた曲目解説がプログラムに掲載されているんだけど,それを読まずに聴いたとしたら,「祈りよりももっと強烈で鮮明な平和への訴え」を聴き取ることはできないだろうと思う。
 初めてこの曲を聴いて,平和への訴えを読み取ることができるのは,作曲家が作曲したときの時空間を共有している(していた)人に限られそうだ。

● 聴いていると,勝手に脳内にイメージが浮かんでくる。渓流のような流れにもっと細い流れが何本も合流するというイメージだったり,星ひとつない漆黒の闇夜だったり。
 まぁ,でもブリテンがそういうイメージを描いて曲を作っているはずもないわけでね。

● 低く小さくうねっていく。奏者にはかなりの集中を強要する。長い曲だから,相当大変だろうと思われた。が,その低く小さいうねりが,客席には睡眠導入剤的な効果を発揮することもあったようだ。
 ピッツィカートもペチャッとしないで,ふくよかに立ちのぼってくる。この弾き手ならそんなの当然。気持ちがいいものだ。

● 第2部は「ラフマニノフとバッハ」。
 大嶋浩美さん(ピアノ)による「楽興の時」。ん,これのどこが楽興なんだ,と思う。重くてシリアス。むしろ苦悩を歌っているのかと思いましたよ。

● 組曲ともいえる長い曲で,聴きごたえは充分すぎる。ときに超絶技巧と思われるアクロバティックな弾き方もあるので,見てても面白い。
 面白いという言い方もどうかと思うんだけど(弾き手はそれどころじゃないだろうから),そこは聴き手の特権でしょうね。美しい弾き手の動きの変化を見て楽しむ,という。

● 続いて,金子鈴太郎さんのチェロ。バッハの無伴奏チェロ組曲の2番と6番。このコンサートのたびにバッハを演奏してきて,今回が最終回。これで無伴奏チェロ組曲のすべてを演奏したことになるんだろうか。
 で,以前の記憶はすでに朧なんだけども,今回が最もこちらに響いてきた。演奏側よりもこちらのコンディションとか座席の位置とか,そういうところによる部分が大きいんだろうと思っているんですけど。

● バッハの曲って,無伴奏チェロ組曲に限ったことではないんだけど,自分でも気づかない自分の琴線をやんわりと愛撫してくるような,そんな快感も感じさせてくれる。それでいて崇高だ。
 クラシック音楽の歴史はバッハから始まる? とすると,完成型から始まったことになりそうだ。あとは時代の空気が何かを削ったり,何かを付け加えたりしただけだとも思いたくなる。
 そこまで単純に言ってしまうと,知性の欠如をさらけ出しているようなものですかね。

● 金子さんが曲に向かう際の息づかい,踏みこむときの気の載せ方,演奏している最中の気分の調整。そういうものが,ヴィヴィッドに伝わってきた(伝わってきた気になっているだけかもしれない)。
 曲の解釈というけれど,奏者にとっての解釈は頭だけでは終わらないんだな。

● 演奏後の消耗ぶりも。2番はチューニングなしで通したけれども,6番では二度,チューニングを入れた。なぜそのタイミングでのチューニングだったか,金子さんにしかわからない。あるいは,金子さんにもわからないかもしれない。
 が,消耗と無関係ではなかったように思われた。

● 聴き終えたときには,こちらもグッタリと疲れていてね。こういう疲れるような聴き方は,聴き方として根本的に間違っているのではないかと思うんだけどねぇ。
 が,この時点で開演からすでに2時間を経過してたんで。これだけ高密度の演奏をずっと聴いていれば疲れますかねぇ。

● 第3部は「那須野が原の夏に歌う」。
 那須野が原ハーモニーホール合唱団による,フォーレ「レクイエム」。今年の3月にも同じ合唱団の同じ曲を聴いている。
 そのときと違ったのは,管弦楽がなかったこと。今回はオルガン伴奏で演奏された。そのオルガンは3月と同じジャン=フィリップ・メルカールト氏。ソプラノは横森由衣さん。バリトンは加耒徹さん。

● 三大レクイエムというけれど,たぶん,フォーレのこの曲が一番人気なのではあるまいか。少なくとも日本ではそうではないかと思う。
 モーツァルトやヴェルディに比べて,小体で洒落ている。アーバンチックで洗練されている。何より宗教臭が薄い。それやこれやで,聴く前のさぁ聴くぞという踏ん切りも大仰じゃなくてすむ。

● 合唱団はどこでもそうであるように,ここも女声優位。しかも圧倒的に。だから,いいとかよくないとか,そういう話ではない。こちらにとって,それは所与のものだ。
 実際の話,そうであっても,こちらに格別の不都合はないわけでね。

2015年3月10日火曜日

2015.03.08 那須野が原ハーモニーホール合唱団第9回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● この合唱団のメンバーは,ハーモニーホールを運営する那須野が原文化振興財団が実施している合唱団養成講座の受講生でもある。したがって,これは那須野が原文化振興財団の主催事業になる。
 それかあらぬか,チケットは200円。開演は午後2時。

● ともあれ,9回目にして初めて聴きに行くことになった。なぜ今回行くことにしたのかといえば,演目がフォーレの「レクイエム」だったからだ。
 1月末に,同じハーモニーホールで宇都宮合唱倶楽部の「レクイエム」を聴いているけれども,一回聴いたから気がすむということではない。何度でも聴けるときに聴いておきたい。

● その「レクイエム」。宇都宮合唱倶楽部のときはピアノ伴奏だったけれども,今回は管弦楽が入った。
 地元のモーツァルト合奏団。弦以外はすべてエキストラになるのは仕方がないところ。
 オルガンはジャン=フィリップ・メルカールト氏。ソプラノは袴塚愛音さん。バリトンは押川浩士さん。指揮は片岡真理さん。

● 管弦楽が入るか入らないかで,印象がぜんぜん違ってくる。当然だ。音の色がモノクロからカラーになる。それ以前に音の厚みだ。まったく違ってくる。管弦楽なればこそ,オルガンも映える。
 ステージで演じられる以上,オーケストラであれ室内楽奏であれピアノやヴァイオリンのリサイタルであれ,聴くだけで完結することはない。観る楽しみがある。管弦楽が入ることによって,この観る楽しみが何倍にもなる。

● 合唱団は洗練されているとは申しあげにくい印象だ。が,神を讃える,あるいは神の前に跪くのに,さほどに洗練が必要だとも思われない。
 伝わるべきもの(とこちらが勝手に判断しているところのもの)は充分に伝わってきた。

● 山高きがゆえに尊からず。合唱も巧けりゃいいというものではない(のだと思う)。
 拙より巧がいいに決まっている。それはそうなんだけれども,そして巧であればそれ以外の傷の大半は覆い隠されるものだと思うんだけれども,巧において不充分であっても,真摯さであったり素朴さであったり,そういうものが巧における不充分を補うことはある。
 むしろ,そういう場合のほうが,客席に届くものが大きくなることがある。もちろん,聴衆が求めるものとの相関がある。求めるものはそれぞれ違うから,一概に場合分けはできないのだけれど。

● 一番の収穫は袴塚さんのソプラノを聴けたこと。
 栃木県のしかも大田原市の出身とのことなんだけど,おそらく生まれたのがたまたま大田原だったってだけで,栃木県の空気を吸った期間はそんなに長くはないのではあるまいか。
 なんでかっていうと,雰囲気がアーバンだったからね。栃木がどっかに染みているって感じは皆無だったから。

● それはともかく。透きとおるようなっていうのは,彼女の声のためにある言葉じゃないですか。今まで存じあげないままで申しわけありませんでした,っていう気分になった。
 という次第で,フォーレ「レクイエム」を満喫できた。楽しませてもらったなという感じ。

● その前に野口雨情の童謡がメドレーで披露された。「七つの子」など全部で9曲。ピアノ伴奏は藤本美玲さん。
 こういうのを聴くと,自分は自分で思っている以上に日本人なんだなと実感する。ここでこう反応するのは自分が日本人だからなんだろうなと思うことは,じつにしばしばある。ところが,自分が意識できないところにも日本が詰まっているんだなぁ,っていう。

● 野口雨情って,童謡の歌詞から想像されるのとは違って,相当以上に不羈奔放というか勝手気儘というか,周りに迷惑をかけることを厭わないというか,直情径行の人だったように思う。
 名家に生まれて,なに不自由なく育って,東京の大学に入って,文学にかぶれて,反体制に入れあげて(半ば以上は気分でやっていたのではないかと思う),結婚して,芸者に入れあげて,人妻といい仲になって,離婚して。そして,後世に名を残す。
 ま,彼だけが特別ということではないんだけど。それくらいの人じゃないと,作品を結晶化させることはできないのだろうけど。

● が,ぼくらにとっての問題は,彼の人がらとか性格ではなくて,彼が残した詩(詞)だ。ある時代の日本の一断面がぎゅっと圧縮されてこめられている。それができるのは,ごく限られた人だけだ。
 こうして童謡になって,今でも聴くことができる。聴けば自分に染みいってくるのを感じることができる。あってくれてよかったと思える公共財のひとつだ。

● 「花は咲く」も。震災復興応援歌という前提で聴いてしまうので,「叶えたい夢もあった」というところでグッとくる。津波に吞まれた幼稚園児や小学生,中学生,高校生。
 プロのサッカー選手になりたい。宇宙飛行士になりたい。看護師になって人の役に立ちたい。きれいなお嫁さんになって元気な赤ちゃんを産みたい。
 それこそ,叶えたい夢が亡くなった人の数だけあったに違いないのだ。

● モーツァルト合奏団も,バッハの「二つのヴァイオリンのための協奏曲」を演奏。以前,自治医大管弦楽団の演奏会で,「オーボエとヴァイオリンのための協奏曲」を聴いたことがあった。かなりのお得感があった。
 今回も同じ。バッハのこの種の曲って,生で聴ける機会があまりない。けれども,聴いてみると何ともいえない充実感がある。