2016年7月31日日曜日

2016.07.31 弦楽亭室内オーケストラ第3回コンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 弦楽亭は「那須の木立の中の小さな音楽ホール」。那須町にある。弦楽亭室内オーケストラはその弦楽亭のオーナーたちが核になって立ちあげた,プロ・アマ混成のオーケストラ。
 2年に一度,演奏会を開催しており,今回は3回目。

● 開演は午後2時。チケットは1,500円。当日券を購入。
 客席にはかなり空席がある。主催者とすれば,ギッシリと満席になって欲しいところだろうけれども,ここが那須地方の難しさであるかもしれない。
 一方,チラシとホームページ以外に集客活動はやっていないだろうから,それでも集まるお客さんは,しっかりとしたクラシック音楽ファンなのだろう(ぼくを除いて,と言っておいた方がいいな)。物好きと言い換えても同じことだが。

● プログラムは次のとおり。
 メンデルスゾーン フィンガルの洞窟
 ブロッホ コンチェルトグロッソ第2番
 ボロディン 交響曲第3番
 シベリウス 交響曲第7番
 指揮は柴田真郁さん。コンミスは弦楽亭のオーナーのひとりでもある矢野晴子さん。

● 上記の4つの曲の中で,最も印象に残ったのは,最初に演奏された「フィンガルの洞窟」だった。この曲は吉行淳之介の短編小説のようなもの。才能だけでできている。
 人為による余計な夾雑物がないから,透明度が高くなる。こういう曲は演奏を選ぶはずだ。

● この曲を生で聴くのは,今回が3回目。今まではこのような感想を持ったことはなかったと思う。選ばれた演奏で聴いた結果であるか。
 そうかもしれないし,そうではないかもしれない。このあたりは,われながらよくわからない。

● ブロッホはCDを含めても聴いたことがない。今回,初めて聴く。そういう曲に出会うと,この機会にCDを揃えて聴いていこうと最近までは思っていた。勉強の機会を与えてもらったのだから,と。
 が,それは半ば以上にきれい事であって,きれい事を追求しても仕方がないと居直ることにした。その機会に聴けただけで良しとする。

● ボロディンの第3番。ぼくが紹介するまでもないんだけど,作曲家の急死によって未完に終わった曲。アレクサンドル・グラズノフの補筆を得て,第1楽章と第3楽章は形になったけれども,それだけにとどまった。
 オーボエが責任重大。旅先案内人の役割を果たす。イコール美味しい,ってことでもあるんだろうけど。今回のオーボエ奏者はたっぷりと美味しさを味わったのではないかと思う。

● シベリウスの7番。生で聴くのは今回が二度目に過ぎない。やはり圧倒的に2番が多いわけでね。
 交響曲といっても単一楽章。しかし,交響曲に分類することに異論は出されていないらしい。
 プログラムの「曲目解説」に前嶋靖子さんが次のようにお書きになっている。
 私個人としては,一番好きな交響曲は何?と訊かれると,多分,この曲を挙げるだろう。とにかく,何度聞いても,心の底が揺さぶられ,自分が大きな自然の一部になって,気が付くと,自分の精神がひとまわりもふたまわりも大きくなっているような気がする。
● そうした思いを持てる曲に巡り会えた人は幸せというべきだろう。音楽を聴くだけで精神が大きくなるなんて羨ましいね,なんぞというありがちなツッコミは無用である。
 ぼくはこの曲に対して,まだそこまでの思いは持てないでいるが,その理由は意外と単純で,ちゃんと聴いていないからかもしれない。

● ただ,そんな自分にもこの1曲というのがなくはない。どれか1曲しか聴けないと言われたら,何を残すか。
 ベタで恥ずかしいんだけど,モーツァルトのクラリネット協奏曲だ。クラリネット協奏曲は,モーツァルトの天才をもってしても,最晩年になるまで書けなかったはずの曲だと思う。
 その所以を説明しろと言われても困るんだけど,平明でありながら深く,悲しみ色の明るさが全編を覆っている。この境地にはなかなか至れないという気がする。

● この演奏会にはアンコールはない。今回もそう。潔くていい。

2016年7月27日水曜日

2016.07.25 真夏の祭典!! スペイン国立管弦楽団

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後7時。席は,SS,S,A,Bの4種。SSが1万円で,以下2千円きざみで,Bが4千円。ぼくの席は,最も安いB。プログラム冊子は別売で千円。
 早い時期に買っていたので,ぼくの席の1列前はAになる。その1列前の席には誰もいない。皆さん,よくわかっていらっしゃる。

● というか,空席が目立っていた。2階席で埋まっていたのは半分までなかったのではないか。
 平日(しかも月曜日)の夜となると,宇都宮ではこんなものか。いや,宇都宮に限るまい。地方都市だとたいていこんなものだろうな。
 むしろ,これだけ埋まっていればたいしたものかもしれない。日本なればこそかもなぁ。

● で,空いているものだから,後半は前の席に移動しようと考えた。だけどねぇ,BのチケットでAの席に座ってしまうのはまずいだろうね。
 と思い直して,自分の席に踏みとどまった。律儀なんだな,良くも悪くも。

● プログラムは次のとおり。
 トゥリーナ 交響詩「幻想舞曲集」
 ロドリーゴ アランフェス協奏曲
 ファリャ 「三角帽子」組曲 第1番,第2番
 ラヴェル ボレロ
 「アランフェス」と「ボレロ」が素晴らしかった。絶品といってよかったのではなかろうか。

● 指揮者はアントニオ・メンデス。まだ若い。32歳。この楽団の常任というわけではないようだ。コンマスも若いイケメン。
 男女比でいうと,圧倒的に男性が多い。管は全員が男性だった。

● スペイン国立管弦楽団といっても,グローバルといわれて久しいこの時代に,団員のすべてがスペイン人だなんてことはあり得ないはずだ。
 が,ここは純潔度がけっこう高いようにも思われた。もっとも,彼の地の人たちの顔立ちはぼくにはどれも同じに見えたりするわけだが。

● スペインでは今でもシェスタの習慣があるんだろうか。あるんだろうな。宵っ張りなんだろうな。
 団員たちも,まだまだ宵の口,お楽しみはこれからだぜ,という感じ。エネルギッシュという印象だね。

● アランフェス協奏曲,村治佳織さんのCDは持っている。聴いていると思う。しかし,たったの一度だけ。それも全曲通して聴いたのだったか。つまり,初めて聴くも同然。
 ピアソラの「リベルタンゴ」を思いださせるところもあり,バッハの「シャコンヌ」が浮かんでくるところもあった。
 スペインの庶民層でもなく,むしろ彼らから疎まれたロマというかジプシーというか,流浪の民の哀感のようなものも感じた。スペインからはじき出され,定位置を持たない流浪の民の魂を慰撫するような。
 けれども,そういうアンタッチャブルを含めてスペインなのだろなと思って,聴いていた。

● ところが,プログラムノートによれば,「この協奏曲は特にカルロス4世やフェルナンド7世の時代と憂愁に満ちた画家フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤの時代の回想であり,貴族性と民衆性とが融け合っていた18世紀スペイン宮廷を映し出したものである」とロドリーゴ自身が述べているというではないか。
 貴族性と民衆性とが融け合っていたなどというのは,後世が勝手に作った幻想であろうけれども,宮廷を映したものだったのか。何なんだ,オレの感想は。

● 宮廷だろうと庶民だろうと流浪の民だろうと,“憂愁”はどんな世界にもあるはずだ。
 宮廷というところは,暇人が陰謀を楽しむために存在していたようなもの。憂愁のほかに,嫉妬や羨望や得意や悋気など,何でもありの世界だったはず。これは庶民の世界も流浪の民の世界も同じこと。
 大げさに言えば,だからこそ音楽は普遍性を持つのだ。正確に言うと,持ち得る可能性があるのだ。

● ギターはパブロ・ヴィレガス。彼も若い人。イケメンでもある。羨ましいや。
 ギターに関しては神の手でしょうね。よくわからないけどね。「アランフェス」を生で聴けるとは思っていなかった。思っていなかっただけに,ここまでの演奏を聴かせてもらえると,感激ものだ。
 彼のアンコールは,フランシスコ・タレガの「グラン・ホタ」。

● 出番を待つ間,ステージで腕組みをしている奏者がいた。腕組みをしてるのは初めて見るぞ。指揮者は気にならないのかね。最初はひとりだった。クラリネット奏者。
 ところが,「ボレロ」になると,いるわいるわ,トロンボーン奏者など3人。クラリネット君と合わせると4人が腕組み派だ。
 しかし,まぁ,出番が来ると完璧にこなす。やるときゃやるんだぜ,坊や,よく見ときなよ。

● その「ボレロ」。この楽団がなぜフランス人が作曲した曲を演奏するのかといえば,「ボレロとはスペイン舞踏の一種」だから。
 ラヴェルのこの曲は,同じ旋律を延々と繰り返し,それが次第に大きくなっていく。その音的世界の拡張が聴衆をも呑みこむ。そして,この世界にたったひとつある音の世界,つまり世界のすべて,になる。

● それがもたらす陶酔感。自分の身体が元の原子に分解されて,宇宙に溶け込んでいくような感じ。宇宙と自分との一体感。
 いや,自分などというものは存在せず,宇宙の一部になった自分がかすかに自分であることを保っている。そんな感じ。
 ひょっとして,天国ってこんなところなのか。もしそうなら,早く天国に行きたい。天国で,宇宙の一部になったかすかな自分を感じていたい。

● アンコールは「カルメン」からいくつかを抜粋というかアレンジしたもの。「闘牛士」や「アラゴネーズ」が入っていたように思うけど(組曲ではなく,オペラの前奏曲だったか)。
 以上。堪能できた演奏だった。このうえは,スペインの空気の中でこの楽団の演奏を聴いてみたい。どんなふうに自分に届いてくるのか,確かめてみたい。

● スペインといえば,音楽より美術で有名だ。エル・グレコ,ゴヤ,ピカソ‎,サルバドール・ダリ,ジョアン・ミロ。古いのから新しいのまで枚挙に暇がない。
 かつては無敵艦隊を擁して世界に覇を唱えた。
 文化でも政治でも建築でも分厚い歴史の層が幾重にもできているに違いない。誇り高い民族でもあるのだろう。誇り高いというのは,ときに厄介なものでもあるとしても。
 そのスペインにぼくはまだ行ったことがないんですよ。今日の演奏を聴いて,スペインを訪ねる理由がいくつかできたような気もする。

2016年7月26日火曜日

2016.07.24 オペラ「蝶々夫人」 栃木県オペラ活動30周年記念

栃木県総合文化センター メインホール

● だいぶ前にチケットを買っておいた。行かなきゃもったいないというケチ根性。席はS(4,000円)とA(3,000円)の2種。安い方のA席を買っていた。
 2階席でピットがよく見えた。収容人員が1,600人程度のホールだから,ぼくの席からでもそんなにステージが遠いというわけでもない(早い時期に買ったから,Aの中ではかなりいい席を取れてはいた)。

● 開演は午後2時。管弦楽は栃木県交響楽団で,指揮は荻町修さん。演出を担当したのは宮本哲朗さん。
 蝶々夫人に篠崎加奈子さん。ピンカートンが田口昌範さん。シャープレスを石野健二さんが,スズキを柳田明美さんが演じた。わりと大事な役どころのゴローは岩瀬進さん。
 皆さん,栃木県の出身者あるいは在住者。

● 「蝶々夫人」の生の舞台はこれまでに少なくとも二度は観ている。ただ,演奏会形式だったりハイライト形式だったりした。ので,完全版を観るのは今回が初めてだ。
 劇中の蝶々さんは15歳。が,それを劇の中で自身が語るシーンは,今回初めて観るものだ。

● この劇では,蝶々さんが悲劇のヒロインで,ピンカートンが悪役というか女の敵といった役回りになるんだろうけれども,実際には蝶々さんも困った人だよね。女としてあまりに未熟っていうかさ。
 どこが未熟かっていうと,3歳の息子の前で,あられもなく女に戻ってしまうところ。自分の母親が女に戻るのを見るのは,子ども心にも嫌なものだろうよ。男の子は,特に。
 極めつけは,その子どもの前で自害すること。子どもにしたらさ,母親に目の前で自殺されて,あげくに別の女性(母親を死に至らしめた父親の妻)に引き取られて異国で育てられるわけでね。これでグレるなって言うのは,言う方に無理があるよ。

● 息子にそこまでの重荷を背負わせて,自分は名誉に殉ずる? サイテーじゃん(シャープレスとケイトに子どもを預けるように説得(強制)された,というわけではあるんだけどさ)。
 ここを何とか緩和するのが,蝶々さんが死ぬ時点でまだ18歳だということだ。18歳なんだから,多少のことは大目に見てよね,っていうね。

● 純粋とか純愛とかっていう,純の付くものは,愚かの別名であることがほとんどだ(本当はすべてだと言いたいんだけど)。
 宗教でいうと原理主義。考えるという面倒な作業をとことん省略すると,原理主義に行き着くはずだ。原理主義を信奉すれば,何も考えなくてすむ。逆にいえば,考えなくてすませたければ,原理主義を信奉すればいい。

● 純粋なんていうのもそうだろう。競馬馬のようにブリンカーをかけられて,視野が一点に限定されている状態を純粋というのだ。
 一点しか見えてないんだから,それに向かって突き進めるわけだ。勢いもでる。はた迷惑な勢いだけど。

● ことほどさように,「蝶々夫人」に限ったことではないんだけれども,オペラのストーリーや人物設定は,現実離れしたものになっている。
 その現実離れしたストーリーや登場人物にリアリティーを与えなければならない。リアリティーを与えて,観衆を舞台に没入させなければならない。

● リアリティーを与える技法として,オペラでは歌を使う。この技法もまた現実離れしている。そういうコミュニケーションのあり方は,ぼくらの現実世界には1ミリもないからだ。
 あまりに荒唐無稽なストーリーや人物にリアリティーを与えるには,その技法もまた現実離れしたものにならざるを得ないのかもしれない。
 虚構にリアリティーの息吹を与えるのに,歌という虚構をもってする。歌という表現技法が,独自の虚構世界を作りだすのに与って力あることは,間違いないように思われる。

● 技法が歌であるとすれば,歌に説得力がなければならない。歌に説得力があるとはどういうことか。ごくザックリといえば,上手いってことだよね。
 上手いだけでは足りないのかもしれないけれど,上手くないんじゃリアリティーが立ちあがってこない。

● 今回の「蝶々夫人」はどうだったかといえば,揺るぎない真実性が舞台上にずっと存在していたと思う。
 主役の蝶々さんを演じた篠崎さんの功績に帰して差し支えないだろう。第2幕の前半は,蝶々さんのアリアだけで,劇を支えているといってもいいくらいだ。これがこけてしまったら,劇も舞台も面目を失ってしまう。彼女は見事に支えきった。

● 「ある晴れた日に」は,この歌劇で最大の聴かせどころだろう。これを聴きにきたのだというお客さんだっていたかもしれない。
 篠崎さんは,気負わず,しかし情感をこめて,このアリアを客席に差しだした。想像で申しあげるのだが,ここで泣いた人が最低でも50人はいたのじゃないか。

● さらに「かわいい坊や」で,“私のもとに天国から降りてきたおまえ”と子どもに語りかけるところ。
 脚本が蝶々さんに目いっぱいの気配りをしている。それを受けて,18歳の蝶々さんが子どもへの細やかな情愛を表現する。
 さらに,篠崎さんがそれを受けて,表現を具体化していく。この子を残して自分は死ぬと決めた母の覚悟,武家の娘の矜恃のようなもの,ピンカートンへの思い,捨てられた自分を持てあます自分。
 それだけではないのかもしれないけれども,万感をこめた“おまえ”という呼びかけ。

● 篠崎さんにしても,スズキを演じた柳田さんにしても,歌だけではなくて所作が美しい。
 着物を着ると,ひとりでにこうした所作ができるものなんだろうか。日本人なんだからあたりまえでしょ,ってものでもないよねぇ。
 日本舞踊とかも習っているんだろうか。この世界ではそうするのが普通になってたりするのかね。それとも,演出者の細かい指導が入るのかねぇ。(→“とちぎテレビで放送している「光れ!とちぎの楽士団」をネットで見て,疑問氷解。先生に来てもらって,そちら方面の練習もするんだね)

● 4年前にこの会場で「椿姫」を聴いて以来,いくつかのオペラ視聴体験を経てきた。DVDもいくつか手元に溜まってきた(なかなか聴けないでいるんだけど)。多少はオペラの何たるかをわかってきたかなぁ。
 そんなものはわかっても仕方がないのかもしれないけどね。知らない方がいいくらいなものかもしれない。が,(視聴)経験を重ねるうちに,嫌でも知ってしまうものだ。

● 問題は,ひとつひとつの作品を上手に,というか深く,聴けるようになってきているかということだ。オペラについて多く知るようになったからといって,深く聴けるようになるわけではない。
 もっといえば,オペラだけを聴いていたのでは,オペラを深く聴けるようにはならないだろう。生活全般がかかわってくるのだろう。ていねいに生きること(松浦弥太郎)が必要なのかもね。
 人生で遭遇することになる様々な出会いと別れ,喜びや悲しみ。それらをひとつひとつキチンと味わっていく努力と姿勢が,深く聴ける力を作っていくのだろう。