2017年4月30日日曜日

2017.04.30 矢板東高等学校合唱部・吹奏楽部 第14回プロムナードコンサート

矢板市文化会館 大ホール

● 3年連続3回目の拝聴。合唱部と吹奏楽部が合同で開催する。
 過去2回の印象からこの演奏会の特徴を一言でいえば,“手作り感”ということになる。手間暇をかけて手作りで作り込んできた感じがする。
 技術も相当な水準だけれども,技術だけをいえば,ぼくの知る範囲に限ってもここを凌ぐ高校が栃木県内にいくつかある(これは吹奏楽の話)。
 が,このコンサートの風合い,肌触りは,唯一無二といっていいだろう。つまり,他にはないものだ。

● まず,第1部は合唱部。部員数は14名。うち,男声は3名。例年のごとし。しかし,少数精鋭という言葉もある。

● 「昭和のヒットソングメドレー」は流行歌(死語?)を合唱にアレンジするとこうなりますよという,ひとつの範例。編曲の腕ですな。
 山口百恵「プレイバックPart2」なんか特にそうで,なるほどなぁと思って聴いた。

● 「曲の合間のMCにもご注目ください」とある。女子が男装して,男子が女装してっていうのはわりとありがち。ありがちでもこれは受ける。鉄板だね。女子の男装は様になるけれども,男子の女装はギャグにしかならないわけで,その落差がまず面白い。
 今回の寸劇では,男装した女子(眼鏡をかけてた子)が支えていたかな。彼女が管弦楽でいえばチェロかコントラバスの役割を果たして,舞台を整えたという感じ。

● テルファー「MISSA BREVIS」には3月に卒業したOB・OGも参加。おぉ,ガストンがいるじゃないか。
 Missa brevis は短縮版(クレド=信仰宣言,を含まない)のミサ曲という意味で,小ミサ曲と訳されるのが普通。フォーレやペンデレツキが有名かもしれない。
 誰の曲でも歌詞は変わらない。定例文だ。ぼくが聴くと,曲まで同じに聞こえたりする。困ったもんだ。
 神に捧げる曲なんだから,当然,ラテン語でしょう。高校生がラテン語で歌うんだからね。

● 第2部は吹奏楽。54名で活動していると部長が紹介していた(と記憶する)。
 部員数が54名というのは,まぁ普通だねって感じだけれど,矢板東高校は1学年4クラスで,定員は160のはず。3学年合わせても480。とすると,吹奏楽部の部員比率はかなり高い。そんなに多いのかという印象になる。
 加えて,附属中から吹奏楽をやってきている部員の比率が高いようだから,これからが楽しみだということ。

● 演奏した曲目は次のとおり。
 真島俊夫編 宝島
 樽屋雅徳 民衆を導く自由の女神
 西山知宏 春風の通り道
 アーノルド(天野正道編) 管弦楽組曲「第六の幸福をもたらす宿」より
 オリジナル ドラマ「三太郎」
 久石譲(真島俊夫編) ジブリ・メドレー

● 「民衆を導く自由の女神」は附属中の生徒による演奏。毎回思うことだけれども,高校生の演奏に比べても,ほぼ遜色がない。このまま直線的に伸びていけば大変な集団になる。
 ところが,直線というのは自然界には存在しないもので,そこが難しいところだ。伸びなやみというのがあるに決まっている。そこで腐らないでいられるか。
 ひょっとすると,才能っていうのは,その腐らないでいられる能力のことをいうのかもしれないね。

● ドラマ「三太郎」は矢東presentsというわけなのだが,客席サービスに徹したもの。いや,徹してはいないな。自分たちも楽しみたいよってのもあるもんね。よろしい,人生は楽しんだ者勝ち。
 三太郎は浦島太郎,ピコ太郎,葉加瀬太郎のことだったんだけれども,誰が思いつくのかねぇ,こういうことを。と思っていたら,auのCM「三太郎」を下敷きにしたようだった。あれは,桃太郎,浦島太郎,金太郎だけれども。

● 葉加瀬太郎のときに演奏した「情熱大陸」。この演奏が今回,最も印象に残るものになった。
 一部を聴かされただけでは欲求不満が残る。頭から尻尾まで全部を聴いてみたかったね。
 「情熱大陸」っていい曲だもんね。何かちょこっと聴きたいとき,ぼくは「情熱大陸」かピアソラの「リベルタンゴ」を聴くことが多いんだけどね。ま,どうでもいい話なんだけどさ,これは。

● ジブリ・メドレーやディズニー・メドレーは,たいていの吹奏楽団の演奏会で登場する。お客さんも知っている曲だから楽しんでいただけるでしょ,っていう配慮もあるのだろう。
 曲じたいもいいしね。ジブリにしてもディズニーにしても,駄作はほとんどないのじゃないか。
 しかも。ジブリ・メドレーって,演奏する側の技術の度合いがわりとストレートに出るよね。ヘタクソにジブリを演奏されると腹が立つんだよ。ザケんなよ,ジブリってこんなもんじゃねーよ,とか思うんだよ。

● で,何が言いたいのかというと,ジブリを聴いたという満足感が残ったってことなんですけどね。いや,本当に。見事な演奏だったと思いますよ。
 
● 第3部はミュージカル「アラジン」。ミュージカルというには,ダンスが少ない,というかほとんどなかったじゃないか,と感じる向きもあるかもしれないけれども,それはそれ。
 衣装にも工夫があって(特に,じゅうたん),この衣装も生徒たちが手作りしたんだろうか。

● 今回は,ジーニー役の男子生徒に尽きる。彼なくしてこの劇はあり得なかった。声量といい,舞台狭しと動き回る敏捷さといい,圧倒的な存在感を放っていた。
 しかも,一切,手抜きがない。1秒たりとも気を抜いた瞬間がない。
 手を抜くなと言葉で言うのは簡単だけれども,実際にそれを体現するのは容易じゃない。どこかで手を抜く。それが普通だ。メリハリをつけるというのは,手を抜く局面を作るというのと同義だったりもする。
 彼の場合,そういうことがなくて,ずっと集中が切れなかった。自分の出番ではないときでも,舞台袖でステージに参加していたはずだ。

● “熱”を持っているんだろうね。“熱”は,東大に合格できる程度の勉強頭よりは,はるかに価値の高いものだ。これから遭遇するであろう人生の諸々の事がらに対する際に,最も使える武器を手にしているようなものだ。両親から良い資質をもらって生まれてきた。羨ましいぞ。
 熱血漢だと時にウザがられることがあると思うけれども,そこは状況を見て演技をすればいいだけのことだ。

● その“熱”がステージで彼にオーラをまとわせた。そういう印象だ。
 だが,それだけではない。終演後に「恋ダンス」が披露されたんだけれども,そのおまけの「恋ダンス」でも,彼に手抜きはなかった。普通でいいとは思っていないらしい。手抜きの親戚であるところのテレもない。
 のみならず,動きの切れが頭抜けていた。素晴らしい。

● 先に,「技術だけをいえば,ぼくの知る範囲に限ってもここを凌ぐ高校が栃木県内にいくつかある」と言った。けれども,先を行く他校生の背中は,この高校の吹奏楽部の部員たちにも見えているはずだ。はるか先にいるのではない。
 いずれは差を詰め,ついには追いつくことも充分に予感させる。ひょっとしたら,そんなに遠い将来の話ではないかもしれない。
 が,そうなった暁にはこのコンサートも今のままではいないだろう。違ったものになっているはずだ。そうならざるを得ないものだ。

2017.04.29 ルックスエテルナ 教会のコンサート「ルネサンスの響き」

カトリック松が峰教会 聖堂

● 2013年に続いて2回目の拝聴。開演は午後3時。チケットは1,000円。事前にメールで申しこんでおいて,当日引き換えるという形。当日券もあったようだ。

● 松が峰教会の聖堂,失礼ながら聖堂というにはキッチュな印象を受ける。荘厳品にプラスチック製品があったりするからだ。
 掃除も日本の社寺(の一部)のように浄められたという感じにはなっていない。浄めるということの感覚が欧米と日本では違うのかもしれない。日本の社寺は(いわゆる観光社を除くと)“葷酒山門に入るを許さず”的に外界から隔絶されているのに対して,教会は集会所でもあるという性格の違いから来るのでもあるだろう。

● 曲目は次のとおり。
 デュファイ Missa Se la face ay pale(ミサ もし顔が青いなら)
 ジョスカン Missa Pange lingua(ミサ 歌え舌よ)

● プログラムの曲目解説に,簡潔な説明がある。が,これを読んでサッと理解できる人は,ルネサンス音楽に相当詳しい人でしょうね。ぼくは何度か読み返すことになった。

● どちらも合唱曲(と言っていいんだろうか)としては大曲だと思う。これをステージにかけられる合唱団(と言っていいんだろうか)はそんなにないだろう。少なくとも,栃木県ではこのルックスエテルナだけかと思われる。
 それ以前に,この2曲のすべてを生で聴ける機会というのは,極く少ないはずだ。少なくともぼくの場合,今回が最初で最後になりそうな気がする。もっと聴きたければCDで,ってことだ。

● 奏者の一人ひとりが一騎当千。とても巧い。そこだけはぼくにもわかる。特に男声にそれを感じる。テノールは遠くまで届き,バスはしっかりと土台になっている。
 これってたぶんあれだよね,その他の合唱団の多くが男声が弱いからなんだと思いますよ。他との違いの最も明瞭なところが,ここなんだってことなんですよ。
 少数精鋭でもある。少数だから精鋭でいられるのだと思われる。数を増やしてしまってはいけないのかもしれない。

● ジョスカン『Missa Pange lingua』の前に,テノールだけの演奏があった。
 以下は,プログラム冊子からの引き写しになるのだけれど,「『Missa Pange lingua』は,同名のグレゴリアン・チャントをモチーフとした循環ミサ曲であ」るらしく,その「グレゴリアン・チャント『Missa Pange lingua』の一部分を,テノールが演奏」したということ。
 グレゴリアン・チャントとはつまり,グレゴリオ聖歌のことですね。
 
● 松が峰教会の聖堂は,音楽のコンサートにもわりと使われるところで,ぼくもここで何度か聴いたことがある。音響は独特だ。残響が長いのが特徴かもしれない。
 特に今回のように,神に捧げる音楽あるいは神を讃える音楽の場合,それを教会で演奏したいと演奏する側が考えるのは理解できる。そこに何の齟齬があるわけでもない。

● でも,ここはコンサートには向かないところだと思うんですよ。
 まず,固い木のベンチに座っていなければいけない。同じ姿勢を保っているのがけっこう辛い。

● 聖堂内部にアーチを支える支柱が何本もあって,これが視界の邪魔をする。演奏者の全体が視野に入る席は,中央の前3列くらいではないだろうか。それ以外は支柱が視界を遮ってしまう。
 ぼくが座った席も,支柱によって演奏者の半分が見えなくなった。これ,かなりフラストレーションが溜まる。
 その不快感のために,演奏を聴くという行為に没入できなかった感がある。それでは聴いたことにならない。

● CDではなく生を聴くことのアドバンテージは,奏者が見えるところにある。視覚から入ってくる情報の多さ。その情報を曲解したり誤解したりできる自由さ。そこがライヴの生命線だと思っている。その生命線が,この会場ではまったく担保されない。
 ゆえに,この会場で聴くのは今日をもって最後にすると決めた。例外は作らない。

2017.04.20 フジコ・ヘミング&イタリア国立管弦楽団

栃木県総合文化センター メインホール

● フジコ・ヘミングは不思議な,あるいは特異な,存在だ。クラシック音楽の演奏家の中ではたぶん,1位か2位の知名度を誇る。CDは売れるし,コンサートを開けば,チケットはかなり高額なのにもかかわらず,大勢の観客が集まる。
 一方で,音楽会の中枢にいる人たち,クラシック音楽を自分は知っていると自認する人たちの多くは,彼女に近づこうとしない。存在していないかのように扱う。

● 彼女が知られるに至った経緯がテレビのドキュメンタリー番組だったこととか,彼女の生いたちから彼女を「魂のピアニスト」と形容する興行界のやり方に,嫌悪を感じる向きもあるのかもしれない。
 技術的にも見るべきところはない,だいたい指が速くは動かないじゃないか,といった声も聞く。

● さらに,普段はコンサートに出かけることなどないのに,フジコ・ヘミングのピアノなら聴きにいくという人たちを,一段下に見ているようなところもあるんだろうなと,これは邪推だけれども,想像する。
 しかし,理由はどうあれ,集客力があるというのは,凄いことですよ。

● ぼくはといえば,4年前に初めて彼女のピアノを聴いた。それで気がすんだ感はある。
 しかし,今回はイタリア国立管弦楽団も登場する。メンデルスゾーンの4番を演奏する。これは聴いてみたいと思った。

● 開演は18時半。ぼくのチケットはA席で8千円。実質4階席。ぼくの1列前はS席(1万円)のはずだ。
 平日の夜なのに客席はほぼ満席。宇都宮でもこうなんだから,フジコ人気は衰えていないということなんでしょう。

● となると,たとえば栃響の演奏会に比べると,客席の水準は下がるだろう,楽章間での拍手もほぼ100%の確率で発生するだろう,と思っていた。
 だけども,結論から言うと,そんなことはなかったんでした。楽章間の拍手は一切なし。自らの思い込みを恥じなければいかん。
 ぼくもまた,音楽ファンではないのにフジコファン,という人たちを一段下に見ていたということになる。だから,何様だオマエ的な言い方になってしまうのだろう。

● 曲目は次のとおり。指揮はトビアス・ゴスマン。
 モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」序曲
 モーツァルト ピアノ協奏曲第21番
 ショパン エチュード第12番「革命」
 リスト ラ・カンパネラ
 モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」より「シャンパンの歌」
 メンデルスゾーン 交響曲第4番「イタリア」

● 今どきのオーケストラだから,イタリア国立管弦楽団といってもメンバー全員がイタリア人ということはない。東洋系もいたし,スラブかと思われる色白の女性奏者もいた。
 それでも,ドイツとは違う,イタリアならではの演奏の色合いのようなものがあるのかと思ったりもしたんだけど,そんなものはないんでした。いや,聴く人が聴けばあったのかもしれないんだけど,ぼくには知覚できないんでした。

● イタリア人っていうと,女性を見ればその隣に彼氏がいても声をかけるとか,ケセラセラ的な生き方というか,人生楽しんでナンボという快楽主義というか,そういう連中なのだっていう刷りこみがこちら側にある。ラテン気質というやつ。
 演奏にもそんな風情がないかと,つい思ってしまう。あるわけがない。
 しごく真っ当なんでした。「フィガロの結婚」序曲を聴いて,むしろケレン味のない素直な演奏だと思った。余計なことをしない。必要にして十分な所作。浮ついたところはない。そりゃそうだよね。

● ピアノ協奏曲でフジコさん登場。場内割れんばかりのとまでは言わないけれど,大きな拍手が起きた。
 ゆっくり目のテンポで展開していった。最近は,書き手がここは大事なところと考える部分をゴシックにしたり,線を引いたり,色を変えたりする書籍が普通にあるけれども,なんかそうした書籍を連想させる演奏だった。ここが肝だよっていうのがわかりやすかったっていうか。
 協奏曲の出来を決めるのは,独奏楽器ではなくて管弦楽だ。イタリア国立管弦楽団,軽快でいい感じ。

● 次は,フジコさんの独奏。プログラムではリストの「ラ・カンパネラ」を演奏することになっていた。が,その前にショパンの「革命」を。アンコールを先に演奏したということか。
 「ラ・カンパネラ」は彼女が出している多くのCDの過半に収録されている。フジコ・ヘミングといえば「ラ・カンパネラ」。
 で,その「ラ・カンパネラ」なんだけど,この曲,彼女以外のピアニストの演奏を生で聴いたことがない。そういう前提で申しあげれば,彼女の演奏はたしかにゆっくりしている。ミスもある。
 ただし,彼女自身はそのミスに対して気持ちを乱されていないようだ。気にしていない。全体を見てよね,ってことだろうか。

● ゆっくりな分,絵画的なイメージが湧いてくる余地が大きくなる。とはいえ,速ければイメージが湧かないのかどうか,それはわからない。
 絵画的なイメージというのもあやふやな言い方だけれど,それが演奏に負う部分がどの程度なのか。リストのこの曲に内在されているところがほとんどなのかもしれない。
 そのあたりの切り分けはあまり意味のないことだとも思うんだけど,気になるならさらに複数の奏者の演奏をCDで聴きこまないとね。

● で,ぼく一個の結論を言うと,いいと思う,この演奏。しみじみする。速いとか遅いとか,どうでもいい。
 たしかにミスは気にならない。演奏者が気にしていないから,それが感染するのかもしれない。

● 「シャンパンの歌」はグルダン・エイジロウという若いバリトン歌手が歌った。若い彼に機会を与えたいというフジコさんの計らいだったようだ。

● 最も楽しみにしていた,メンデルスゾーンの4番。先にも書いたように,これがイタリアの楽団かと思ったところはない。オケの名前を知らないで聴いて,ドイツの楽団だと言われればそうかと思うし,日本の楽団だよと言われても,やはりそうかと思うだろう。
 全体として軽みが身上のように思われた。スキップするような軽やかさ。もともとこの曲は軽快に始まる。重厚さは似合わないわけだけど。

● オーケストラのアンコールは,ロッシーニ「絹のはしご」序曲と「ふるさと」。あの文部省唱歌の「ふるさと」だ。
 今回がツァー最後の演奏になるらしいのだが,これまでも同じ曲目でアンコール演奏をしてきたらしい。外国のオーケストラに「ふるさと」を演奏されては,日本人としては参ったするしかない。

2017年4月27日木曜日

2017.04.16 PROJECT Bオーケストラ第5回演奏会(PROJECT B 2017)

第一生命ホール

● 昨年に続いて,2回目の拝聴。
 有楽町で降りて,会場の第一生命ホールまで歩くのも,これが2回目。晴海通りを,銀座,築地,月島と歩いていくわけだけど,田舎者には期せずして東京見物ができるコースだ。
 世界の銀座,歌舞伎座,築地本願寺,隅田川と次々に名所が現れるんだからね。歩いていて飽きることがない。

● 第一生命ホール,767席。音響はじつに素晴らしい。紀尾井ホールと比べたくなる。規模も同じくらいか。
 この席数だと,すべての席が埋まっても,プロのオーケストラが興行的に採算に乗せるのは難しかろう。チケットをかなり高くしないと。でも,室内楽には最高の舞台になるかもしれない。

● F生命に百数十万円を騙しとられたことがある。昔のことだ。ま,騙しとられたというと,言葉がきつすぎるし,そもそもそういうのは騙される方が悪いということなんだけど。
 いわゆる生命保険のオバチャンにしてやられた。彼女,嘘をついたわけではないのだけれども,今の言葉でいえば説明責任を充分に果たしたとは言い難い。いいことだけ言って,それに伴う(ぼくにとっての)マイナスの説明はスキップしたところがある。
 だから何だと言われれば,生命保険会社にはいい印象を持っていないってことね。マイナス金利なんてことになって,生保もいろいろ大変だろうけどね。

● だからといって,第一生命ホールの良さが損なわれるわけではもちろんない。いいホールであることに変わりはない。
 座席の配置も1列ごとに席の半分をズラしているから,前の人の頭が視界からはずれる。これはありがたい。
 もっとも,たとえば宇都宮の総合文化センターもそのような配置になっている。ただ,ここまで思い切りよくズラしているところはそんなにないのじゃないか。

● 前後左右にゆったりしているのも特徴。ミューザも芸劇も,ここの座席に比べるとかなり窮屈だ。同じエコノミーでも,レガシー・キャリアとLCC程度の違いはある。
 席数を増やすことよりも,観客の快適さを優先した造作になっている。公共セクターではなかなかこういうものは作れまい。民間なればこそ。

● さて,その贅沢なホールで聴いたのは,ベートーヴェンの交響曲3番「英雄」とピアノ協奏曲5番「皇帝」。
 ピアノは今回も田中良茂さん。指揮は畑農敏哉さん。
 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。ほぼ満席になった。

● じつは,この日,行ってみたいコンサートがもうひとつあった。「昭和音楽大学&ソウル市立大学校 日韓大学交流コンサート」というやつで,こちらは昭和音楽大学「ユリホール」で開催された。最寄駅は小田急の新百合ヶ丘。
 若い学生さんの声楽やピアノにも惹かれる。どっちにしようか今朝になっても迷っていた。
 が,出立が少々出遅れてしまったので,近い方を選んだ。新百合ヶ丘でもたぶん間に合ったとは思うんだけど。

● 演奏が始まって10秒後には,こちらを選んで正解だったと思った。この楽団の演奏水準もかなりのもの。前回聴いてわかっていることではあるのだが。
 東京にはここまでやれるアマオケがいったいいくつあるんだろう。何もかもが東京に一極集中していると思うしかないねぇ。

● 今回は「英雄」の第2楽章が白眉だったと思う。葬送行進曲。どこがどう良かったのか,説明せよ。
 と言われても,良かったから良かったとしか言えない。良かったと感じるのは,演奏それ自体のほかに,聴く側の状況も影響するのでね。“良かった”を言葉で分析できる人なんて,おそらく世界中を探してもいないんじゃないか。

● ぼくのような俗物は,生でオーケストラの演奏を聴きながらも,日常些事のあれやこれやが頭を去来して,なかなか“聴く”ことに没頭できない。
 4月から仕事の環境が変わって,いまいち適応しきれないでいる。だもので,ため息とか愚痴(脳内で独りごちるわけだが)とか,演奏を聴きながらも,出てくるんじゃないかと思っていた。
 が,今回に限っては,そんなことはなかったんでした。約2時間,浮き世から遮断された。

● 葬送行進曲には特に。葬送といっても,悲しみ一色ではない。随所に華があり,星が瞬くような煌びやかさがあり,四季の移り変わりまであるような気がした。
 なるほど,英雄を送る曲とはこういうものかとも思った。

● 演奏が放つ演奏に集中させる力,吸引力が半端なかった。ステージからこちらに届いてくる音の気持ちよさ。
 よどみのない流れ。静かにゆっくりと歩いているところから,パッとギャロップに変わるような切り替え。すべてのパートが参加する大音響でもまったく割れない音。
 ほめすぎだろうか。

● 大晦日に東京文化会館で催行される「ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会」を6年連続で聴いている。当然,3番も聴くことになるわけだ。
 技術だけを取りあげれば,この楽団が大晦日の「岩城宏之メモリアル・オーケストラ」を上回ることは,まさかないはずだ。
 けれども,葬送行進曲にこめられた情報量は,今回のこの演奏の方が多かったように思える。そのあたりが,つまりは聴く側の状況によるという部分なのかもしれない(そうではなくて,別の理由があるのかもしれない)。

● プログラム冊子の曲目解説に,田中さんが「皇帝」について書いている。そこからひとつだけ転載しておこう。
 私にとってこの協奏曲は,深読みすればするほど読み解きにくい。その理由は「健全な明るさ」にある。 一応,私は多くのベートーヴェンの音楽と接してきたわけで,彼の初期作品からもただならぬ「哲学」を感じてきた。それは言い換えれば「苦味」や「痛み」でもあるのだが,『皇帝』にはそれらをはねのける不思議な力が備わっている。
 というプロの演奏に対して,ろくな勉強もしていない素人観客が,ああでもないこうでもないと言うのは控えるのが礼儀というものだろう。

● ぼく的には,今回の演奏会は交響曲第3番の第2楽章が素晴らしすぎた。そのために,それ以外の記憶がおぼろになったきらいがないでもない。
 おそらく,この感想は他のお客さんとは違っているだろうとも思うのだが。

2017年4月25日火曜日

2017.04.02 東京楽友協会交響楽団 第102回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 開演は13時半。チケットは1,000円。当日券を購入。
 2015年10月の第99回定期に続いて二度目の拝聴。一度聴いて,この楽団がアマオケの中では傑出した楽団のひとつであることは承知している。だから,もう一度聴きたいと思ったわけでね。
 と思う人はぼくだけではないらしく,会場はほぼ満席となった。

● 曲目は次のとおり。指揮は田部井剛さん。
 ボロディン 歌劇「イーゴリ公」序曲
 ヤナーチェク 狂詩曲「タラス・ブーリバ」
 ショスタコーヴィチ 交響曲第10番
 玄人受けする内容というか,「タラス・ブーリバ」は,CDも含めて,ぼくは聴いたことがない。

● この楽団のホームページによれば,1961年の創設という。昭和36年だ。だいぶ古い。以来,半世紀。連綿と活動を続けてきたというそれだけで,賞賛に値する。
 いくつかの偶然にも恵まれたのだろう。そうだとしても,創設するより継続する方が困難だ。
 メンバーは頻繁に入れ替わっているはずだ。奏者の平均年齢は若いといっていい範囲に属する。

● したがって(と,つないでいいのかどうかわからぬが),演奏にも躍動感がある。高値安定に安んじていない。
 特に,コンミスがグングン引っぱっている感があって,コンミスがこうだと指揮者は楽かもしれないなと,余計なことを思った。

● ショスタコーヴィチの10番。「自分のドイツ式の綴りのイニシャルから取ったDSCH音型(Dmitrii SCHostakowitch)が重要なモチーフとして使われている」とか「カラヤンが録音した唯一のショスタコーヴィチ作品」だとか,何かと話題の多い作品だということは知っている。
 スターリンの死の直後に,8年ぶりに公表した交響曲でもある。つまり,それ以前に,ひょっとしたらだいぶ前に,できあがっていたのだろう。

● このあたりはいろいろと憶測を呼ぶところだけれども,『ショスタコーヴィチの証言』も偽書らしい。とすると,真相はわからない。
 彼の作品が彼が生きた時代から間違いなく大きな影響を受けているとしても,スターリンだのソヴィエトだのというところからいったんは切り離して,音楽それ自体を聴くことができればいい。
 ショスタコーヴィチの場合,それがなかなか以上に難しいわけだけれども。

● ということは別にして,この楽団の演奏で第10番を聴けたのは,幸せのひとつに数えていいだろう。沈鬱な前半からグァーっと上昇していく後半。その移り変わる様,というより切り替えといった方がいいのか,そこがじつに小気味いい。
 たしかな技術の裏付けに加えて,演奏することに厭いている様子が微塵もない。

● しかぁし。今朝は8時まで寝ていたのに,それでも寝たりなかったのか,何度か意識が落ちてしまった。
 そういうときには,聴きに行ってはいけないと思うんだけど,それを実行するのは難しい。すまんこってす。