2016年8月29日月曜日

2016.08.27 NIONフィルハーモニー管弦楽団 第5回定期演奏会

彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール

● NIONフィルの5回目の定演。2013年8月の第2回,2015年2月の第4回に続いて,3回目の拝聴となる。
 この楽団は浦和西高校管弦楽部のOB・OGを母体とするオーケストラで,ぼくは浦和西高とは何の関係もない部外者だ。にもかかわらず,5回のうち3回も聴きに来ているというのは,どういうわけなのか。

● まず,場所がいい。午後6時半からの開演の演奏会を東京でやられると,その日のうちに帰宅できないことになる。なぜなら,ぼくは栃木の在に居を構えているからだ。もうひとつ,貧乏性で新幹線に乗らないからだ。結果,最終の黒磯行きの電車に間に合わなくなる。
 ところが,ここだとその電車に余裕で間に合う。ソワソワしないで最後まで聴いていられる。

● 開演が午後6時半というのもいい。昼間にひとつ聴いて,せっかく街場に出たんだからダブルヘッダーでもうひとつ聴いていくかと思うときに,合わせやすいということ。
 ダブルヘッダーで聴くというのも,基本は貧乏性ゆえだろうけどね。

● もう一点,これが最も重要なところだけれど,この楽団には不思議な魅力がある。惹かれるものがある。その魅力はではどういうものか。そこが自分でもよくわからない。
 結成してさほど経っていないこともあってか,団員の平均年齢がかなり若い。それが清新さにつながっていると思う。が,それだけではない。

● 何気に水準が高い。浦和西高は普通科しかない進学校のようで,管弦楽部はあくまで部活のはずだ。が,埼玉県内でも屈指の実力を誇っているようだ。入学前から個人レッスンをしていた生徒が多いのかもしれないし,音大に進む子もかなりの数いるのかもしれない。
 あるいは,以外にそうでもないのかもしれないけれども,ともかくかなり巧い。そこに惹かれるというのもある。
 でも,やはりそれだけではない。曰く言いがたい。

● 観客の多くは浦和西高の関係者のようだ。現役生もいるし,OB・OG,教員も。逆に,それら関係者を除いてしまうと,少々淋しいことになるかもしれない。
 これだけの演奏をするんだから,もっと知られてもいいんじゃないかと思う。浦和西高が母体というのを前面に出しすぎているからだろうか。常連さん以外をはじいてしまう結果になっているのかなぁ。

● さて,本題。チケットは500円。指揮は平井洋行さん。彼も浦和西高校管弦楽部のOB。
 演奏したのは,ハイドンの94番「驚愕」とベートーヴェンの3番「英雄」。

● この2曲を続けて聴くと,ベートーヴェンはイノベーターだったのだなとあらためて思う。
 「驚愕」はひとつの曲を4つに分割しているのに対して,「英雄」は4つの曲を合わせてひとつにしている。したがって,曲想も4倍必要だし,楽章間のすりあわせや配置の落ちつかせ方など,雑用的な処理も増える。
 ベートーヴェンに対しては,音楽に人生や哲学を持ちこんでしまったと言われることもあるけれども,以後の作曲家は(若干の例外はあるにしても)ベートーヴェンの敷いた路線を歩いてきた。

● 「驚愕」の由来とされるのは第2楽章の最初のフォルテだと,プログラムノートにも解説があるけれど,現代ではこれに驚く人はあまりいないだろう。
 聴き手の感覚をハイドンの時代に巻き戻さなければならない。けれど,ほとんどの人にとってそれは不可能だ。
 で,その感覚を変えたのもまた,ベートーヴェンなのだろう。

● 「英雄」はオーボエだなぁ。2楽章と3楽章が特にそうなんだけど,オーボエが主旋律を奏でることが多い。
 オーボエの音色ってよく通るっていうか,遠くまで届く感じがする。そのオーボエが魅せてくれた。総じて,木管が素晴らしい。

● アンコールはない。スッキリ,アッサリと終了する。これも悪くないなと思う。

2016.08.27 伊達管弦楽団第10回演奏会

北とぴあ さくらホール

● この楽団の演奏を初めて聴いたのは,2013年9月の第4回。翌年2月の第5回も聴いて,今回が3回目。
 「北とぴあ」に来るのは初めてのことだ。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。曲目は次のとおり。指揮は佐々木新平さん。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 ガーシュウィン ラプソディ・イン・ブルー
 ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」

● この楽団は「東北地方にゆかりのあるアマチュア演奏家によって設立されたオーケストラ」ということ。「伊達な演奏を」ともあるんだけれど,伊達な演奏ってどういう演奏のことをいうんだろう。
 ダテ→かぶく→人目を奪うような,ということか。

● 「魔笛」序曲を聴いて,この楽団の演奏はカチッとしていて,そういうものとは対極にあるように思えた。指揮者もプログラム冊子に「良くも悪くも優等生的な演奏が多かった」と書いている。
 カチッとした緻密なアンサンブルを基礎に置かない演奏はありえないだろうから,それを前提にしたうえで,さて,何を付け加えようというのだろう。

● 「ラプソディ・イン・ブルー」は先週も聴いたばかりだ。こういうことってわりとあるね。確率は偏るっていうかね。
 ピアノは西本夏生さん。スペインで修行したらしい。肘打ちや拳打ちはもちろんなし。正統派。伊達管には伊達管の「ラプソディ・イン・ブルー」。

● 「ラプソディ・イン・ブルー」での佐々木さんの指揮を見ていて感じた。佐々木さんの指揮もまた「良くも悪くも優等生的な」指揮なんじゃないかなぁ。
 優等生的って,わりと揶揄の気分をこめて使われるものだと思う。「良くも悪くも」が付くとなおさらだ。でも,優等生的っていけないことじゃないよね。優等生的を極めると何かが出てくるかもしれないものね(出てこないかもしれないけれど,それは何だって同じだ)。
 少なくとも,天然自然にふるまって優等生的になってしまう人なら,そうではない世界に跳ぼうとするより,優等生的を極めた方がいいような気がする。優等生的で何が悪いと居直ることも必要だと思うよ。

● ドヴォルザークの9番,久々に聴くような気がする。以前はCDでよく聴いていた曲のひとつだ。CDといっても,パソコンに落としてスマホに転送して,スマホ+イヤホンで聴いていたわけだけど。
 そのスマホ聴きをやらなくなって久しい。やめようと思ってやめたわけじゃないんだけど,何となく聴かない期間が継続している。
 スマホ+イヤホン以外の聴き方はしないので,つまりはライヴ以外に音楽を聴かなくなっているという状態だ。それが久々と感じる理由だな。

● 聴く度に歯がゆい思いをするのが第2楽章だ。“とおき やまに ひは おちて”っていう歌詞が浮かんできちゃうんだよね。これ,鑑賞の妨げになる。小学校の音楽の時間に教わってしまったことがとても残念。
 この歌詞を踏んづけたままにして浮かびあがらせまいとしても,ダメだね,浮かんできちゃう。

● 同じことはベートーヴェンの「第九」第4楽章についても言える。こちらは中学校のときだったか。“はれたる あおぞら ただよう くもよ”って,何でこんなものを教えてくれたんだよ。
 邪魔でしょーがねーんだよ。聴きながらこの歌詞が脳内を浮遊するんだから。どうしようもないよ。

● というわけなんだけれども,ま,それはそれ。久しぶりに生で,カチッとした演奏で聴いて,満足した。
 ぼくはカチッとした演奏が好きなのだろう。聴き手として「良くも悪くも優等生的な」のだ。

2016.08.23 NHK交響楽団演奏会 宇都宮公演

栃木県総合文化センター メインホール

● NHK交響楽団が宇都宮に来るのは何年ぶりか。足利へは毎年来てるんだけど,宇都宮へは数年に一度でしょ。
 だから何がどうってことではないんだけどね。

● 開演は午後6時半。チケットはS席が6,000円で,以下1,000円きざみで,C席が3,000円。
 ぼくは一番安いC席のチケットを買っていた。4階の右翼バルコニー席。1列目だからまだいい。2列目になると,だいぶ視界が遮られることになる。もっとも,バルコニー席の2列目というのは,数はほんとに少ないんだけど。

● この席ならば,歌舞伎見物客が桟敷席から成田屋ッとか中村屋と声をかけるように,ブラボーッと叫んでも許されるだろう。S席やA席に座っている人が,ブラボーを叫ぶのはおそらくルール違反だろうね。
 ま,ぼくはブラボー嫌いなので,おとなしく聴いているだけではある。

● プログラムは次のとおり。
 グノー 歌劇「ファウスト」-ワルツ
 グノー 歌劇「ロメオとジュリエット」-ジュリエットのワルツ「私は夢に生きたい」
 マスカーニ 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」-間奏曲
 ベッリーニ 歌劇「カプレーティ家とモンテッキ家」-「おお,いくたびか」
 プッチーニ 菊の花
 プッチーニ 歌劇「ジャンニ・スキッキ」-「私のお父さん」
 プッチーニ 歌劇「ボエーム」-「私が町を歩くと」
       (休憩)
 チャイコフスキー 交響曲第4番 ヘ短調

● N響がグノーのワルツを演奏して,次に森麻季さんが登場。「私は夢に生きたい」を艶やかに歌って,再びN響が「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲をしっとりと。
 「カヴァレリア・ルスティカーナ」じたいは,激しくも愚かな若者が決闘で命を落とすという物語。この間奏曲は,その幕間に儚い叙情を提供する。聖母マリアがわが子イエスの最期を包みこむような哀切な叙情。
 男性的な激しさっていうのも,女性的な,他者のために自分を捨てるような,献身的な情愛があって初めて成立する,と示唆するようだ。こういうのを“こじつけ”っていうんでしょうかね。

● 森さんが「おお,いくたびか」を歌って,N響が「菊の花」を演奏。さらに,森さんが2曲続けて歌った。こうして,前半は終了。
 N響と森麻季。豪華版ですな。

● N響というと,思いだす本がひとつある。許光俊『最高に贅沢なクラシック』(講談社現代新書)だ。面白い本でいろんな読み方ができる。のっけから挑発的なところが特徴だ。
 学食で飯を喰ってるようなやつにプルーストはわからない,というのがまず出てくる。さらに,電車通勤なんかしているようなやつに音楽はわからない,トヨタ車に乗ってるようなやつに音楽はわからない,N響をいくら聴いたって音楽はわからない,と畳みかけるように挑発してくる。これ,けっこう,気持ちいいんだけどね。

● では自分はどうなのか。もちろんわかるわけだろう。それを例示するために,香港を皮切りにソチコチに旅に出る(すでに過去のものになった旅行を再構成)。ちなみに,最終地は青森県六ヶ所村。
 しかし,豈図らんや,その過程で,著者もまた学食で飯を喰う側の人間なのだということが明らかになっていく。著者はそうは思っていないはずだが。

● この本のミソは“わかる”とはどういうことなのか,そこを定義していないことだ。議論の出発点で予め定義しておくのは困難だろう。喧々諤々の議論をする中で定義が浮かびあがってくるというのが,普通の順序のように思う。
 ので,定義を述べるのは最後でいい。実際,そのための旅だったはずだろう。ところが最後(巻末)になっても“わかる”の定義がない。
 だから,一読したあと最初に戻って読み直してみると,「学食で飯を喰ってるようなやつにプルーストはわからない」に何だかカチンと来ちゃうんだな。おまえの言う“わかる”ってどういうことだよ。

● そのN響を聴いているわけだ。「N響をいくら聴いたって音楽はわからない」っていうのを捻った言い方だと見なさないで,文字どおりの意味に受けとめると,やはり疑問を呈したくなるね。
 いや,ぼくが疑問を呈してはいけないのかもしれないけどね。N響を聴くのはこれが3回目なんだから。少なッ。疑問を呈するのはもっと聴いてからでいいなぁ。

● でも,呈しちゃうよ。ベルリン交響楽団を2回聴く機会があった。で,どう考えても,ベルリン交響楽団よりはN響の演奏からもらえるものの方が圧倒的に多いと思うんだよね。ベルリン交響楽団をヨーロッパ代表にしてはいけないんだけどさ。
 許光俊さんが言いたいのはそういうことではないのかもしれないけどね。

● さて。オーケストラの指揮はジョン・アクセルロッド氏。アメリカ人にしては小柄だけど,エネルギーの塊のような人だ。
 バーンスタインの弟子のようだ。けれん味のない指揮ぶりということしか,ぼくにはわからないけど。

● 天下のN響に対して,個々のパートを云々しても始まらないけれど,チャイコフスキー4番の第2楽章。冒頭のオーボエがまっすぐ届いてくる。こちらの心臓に突き刺さるようでもあり,心臓を包んでくれるようでもある。
 チェロが受けて,低く歌う。ここを聴けただけで,元は取れたかなぁと思った。

● さすがは宇都宮のお客さん。楽章間で拍手が起きてしまった。しかも,躊躇のない堂々たる拍手。普段はコンサートなんて来ないんだけど,N響だから来てみたっていうお客さんがけっこういたことの証左でしょう。
 チッと舌打ちをした人もいたかもねぇ。楽章間では拍手しちゃダメなんだよ,このカッペどもがっ

● ただし,ぼく一個は,楽章間での拍手に対してはわりと寛大。なぜ楽章間で拍手をしてはいけないのかが,イマイチよくわからないのでね。
 奏者の集中を切らせるからだろうか。奏者は全楽章を通して気持ちを作っていくからだという説明もよくされるけれど,それが楽章間の拍手を禁止するほどの理由になるんだろうか。
 終演後,指揮者が出たり入ったりのセレモニーを延々とやって,その間,ずっと拍手を強要する。それはいいのか。それを良しとするなら,楽章間の拍手くらい,許してくれないか。

● バレエでは拍手はわりと自由だ。自分がいいと思ったところで拍手する。いいと思うところって意外に個人差がないようで,拍手もそんなに割れないで起こる。
 オペラでもアリアを歌い終わったあとに拍手をする。ピットで管弦楽が演奏していても拍手をする。
 そのあたりとの兼ね合いもありそうだけどなぁ。

● アンコールはレスピーギの“シチリアーナ”。東日本大震災や熊本自身の被災者への祈りをこめたようにも思われた。
 N響のアンコールを聴くのは,3回目にしてこれが初めてかもしれない。

2016年8月26日金曜日

2016.08.21 やっとかめ室内管弦楽団第3回演奏会

小金井宮地楽器ホール 大ホール

● このホールに来たのは,今回が二度目。この楽団の演奏を聴くのは初めてだ。
 「やっとかめ」とは変わった名前だ。虫歯が疼いて眠れぬ夜を幾晩も過ごしたあげく,ようやく歯医者に行って治療を始め,それが終了した。もう来なくてもいいですよと言われてホッとした。これで「やっとかめ」るぞという喜びが爆発して,それを名前にしちゃったよ。
 というわけではもちろんなくて,“「やっとかめ」とは名古屋弁で「久しぶり」という意味です。関東在住の名古屋にゆかりのある仲間に呼びかけてできたアマチュアオーケストラです”ということだ。

● 名古屋かぁ。ぼく自身は,名古屋には何のゆかりもない。京都や大阪に行くときに通過するところ。
 名古屋城の鯱も見たことがない。「ひつまぶし」も味噌カツも喰ったことがない。「きしめん」と「ういろう」は食べたことがある。「ういろう」はお土産でもらったのだった。「きしめん」は名古屋駅の立ち喰いスタンドで喰ったんだっけかな。
 名古屋の地下街は歩いてみたことがある。輪島の朝市を大規模にすればこうなるんだろうなと思った。名古屋帝国の国民は垢抜けるということを嫌う国民性をお持ちなのかもしれない。

● しかし,名古屋には忘れられない思いでがあるのだ。ぼくが30代に入って間もない頃のこと。だいぶ昔のことだ。
 これも名古屋駅でのことなんだけど,失業者と間違えられたことがあったのだ。ニイチャン,うちで働いてみないかい,と声をかけられた。
 もしあのとき彼について行っていれば,どんな楽しいことが待っていたのかと思う。ま,だいたい,想像はつくんだけどさ。
 間違えられても仕方がないような格好をしていたと思うし,気分も内に籠もっていて,失業者さながらに尾羽打ち枯らしたオーラを出していたんだろうな。
 ぼくと名古屋の関わりは以上ですべてだ。

● しかし,学校で日本史を習った人ならば,名古屋の重要性を疑うことはないはずだ。戦国時代に終止符を打ち,近世日本の礎を築いた3人の人物,織田信長,豊臣秀吉,徳川家康,はいずれも名古屋圏から出ている。日本国の礎石を置いたのは,名古屋圏が輩出した人たちなのだ。
 これに匹敵するのは明治維新の薩長土肥くらいのものだろうけど,薩長土肥の場合はドサクサに紛れた感がけっこうある。戦国末期の名古屋と同列に置くわけにはいかない。

● さて,演奏会だ。開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買った。
 プログラムは次のとおり。
 メンデルスゾーン フィンガルの洞窟
 モーツァルト クラリネット協奏曲 イ長調
 ブラームス 交響曲第2番 二長調

● 指揮は沖澤のどかさん。青森県出身だそうだけれども,そう聞かされなくても青森の出だろうなとわかる顔立ち。典型的な津軽美人の顔だものね。
 ちなみに申せば,美人度の高い地域を順にあげると,秋田,新潟,青森,岩手だとぼくは思っている。それぞれ,秋田美人,新潟美人,津軽美人,南部美人という言葉がある(厳密には現在の県域とは一致しないんだけどさ)。
 いずれも,実態を伴っている。秋田美人は目鼻立ちがクッキリしたわかりやすい美人。新潟美人は色白でふっくら型。津軽美人は色の白さは他と同じだけれど,ひょうきん度が他より勝る。南部美人は,これはあるいは異論があるかもしれないけれど,都会的な美人が多い。
 唯一,言葉はあるけれども実態がないと思えるものがある。それは何か。「京美人」である。暴言多謝。

● 沖澤さんの細やかな指揮で,まずは「フィンガルの洞窟」。いわゆる初心者がいない。レベルはかなり高い。
 ついでに平均年齢もけっこう高い。少ない数ながら若者もいるので,個々の年齢差はかなりある。こういう楽団をまとめていくのは難しいかもしれない。しっかりした世話役がいるのだろう。

● モーツァルトのクラリネット協奏曲を聴けることが,この日いくつもあった演奏会から,この楽団の演奏会を選んだ理由だ。
 モーツァルトの天才をもってしても,最晩年にならねばできなかった曲だろう。悲しみ色の明るさとでもいうべき色調が全体を覆っている。あるいは,悲観的な楽観とでも言おうか。
 突き抜けてしまった明るさと言ってもいい。明るさをいくら煮詰めても突き抜けた明るさにはならない。強烈な諦観を加えて初めて,明るさを突き抜けることができるのだろう。

● 曲の基調にあるのは明らかに前者(悲しみ)なのに,表面を流れ下っていく音の連なりは後者(明るさ)。このアンビバレンツがこの曲の魅力の第一にくるものだ。
 そして,澄み切った透明感。ひょっとしてこの時期のモーツァルトは,世俗の欲望から自由になっていたのかもしれない。見切れていたのかもしれない。

● 魅力の三番目は,どこで切ったとしてもその断面から溢れだしてくる,何か高貴なるもの。気高いもの。香気を放つもの。
 それが何なのかはわからない。わからないけれども,こちらを敬虔な気持ちにさせるもの。

● であるから,この曲は上手の演奏で聴きたいものだ。特にやりにくい曲ではないと思うんだけど,こちらとしては悲しみ色の明るさを味わいたいわけで,それを表現するにはある程度以上に高度な技術でお願いしたいな,という。
 クラリネットは豊永美恵さん。まずもって文句なし。
 ただ,この曲はソリストよりも管弦楽の比重が高い。演奏の印象は,ほぼ,管弦楽で決まる。その管弦楽の実力は「フィンガルの洞窟」を聴いてわかった。聴く前から,聴きに来て正解だったと思った。

● ブラームスの2番。定番のひとつといっていいだろう。定番には定番である理由がある。
 このあたりは聴き手の成熟度(?)にもよるのかもしれないけれども,ぼくのような熟度の低い聴き手だと,場面が多彩でハッピーエンドであれば,だいたい満足する。
 この曲は,聴き終えたあとに残滓が見えない。まだ聴いていないものがあるといった“残る感じ”がない。

● 豊永さんのアンコールは,ジャンジャン作曲の「月の光」変奏曲。作曲家の名前も曲名も初めて聞くものだ。でも,CDはあるんですね。
 オーケストラのアンコールは,メンデルスゾーン「結婚行進曲」。
 というわけで,盛りだくさんの内容。しかも,この水準の演奏。1,000円はかなり安い。

2016年8月25日木曜日

2016.08.20 麻布学園OBオーケストラ 特別演奏会2016

東京芸術劇場 コンサートホール

● 山下洋輔さんが登場する。これは聴きに行こうかなというわけで,ネットでもってチケットをゲットしておいた。
 セブンイレブンで代金引換で受け取れるんだからね。便利な時代になった。
 ただし,システム使用料なんぞという名目で,540円ほどむしり取られる。

● 座席はS席とA席の2種。Sが2,500円でAが2,000円。であれば,Sにしとけってことになる。ぼくは3,040円を払ってS席チケットを買っておいたわけだ。
 実際には当日券もあった。いくつの区画が空いていた。おそらくA席だろう。それでかまわなければ,当日券の方が予定というロープに縛られずにすむという利点もある。

● 開演は午後1時半。プログラムは次のとおり。
 藤倉大 ホルン協奏曲第2番 Part1
 ガーシュウィン ラプソディ・イン・ブルー
 ラフマニノフ 交響曲第2番 ホ短調

● ぼくはだいぶ早めに着いてしまっていた。が,それで正解だった。指揮者の鈴木優人さんと山下さん,ホルン独奏の福川伸陽さんによるプレトークがあったから。
 鈴木さんと山下さんは麻布学園のOB。このプレトークが面白かった。

● たとえば,興味を持ったものは徹底的にやるのが麻布精神だと山下さんが言えば,徹底的にやってすぐに飽きてしまうのも麻布精神,と鈴木さんが続ける。
 日本は貧富の差が少ない例外的な国だということは以前から言われている(小泉政権以来,格差が拡大しているとも言われているけれど)。差がないのは貧富だけじゃなくて,こういう何とか精神というのも,あまり差がないのじゃないかね。徹底的云々,すぐに飽きる云々というのも,わりと多くの学校で言われているのではないか。特に男子校では。
 山下さんと鈴木さんの話を聞いて,自分の学校も同じだと思った人が,けっこういたのじゃないかと思う。

● この演奏会はもちろん外に開かれた演奏会で,チケットさえ買えば誰でも入場できる。麻布学園の関係者でなければならないということはない。
 ただ,だいぶ,その,同窓会行事的な色彩が濃厚だ。最後には校歌を演奏して,麻布学園の関係者やOBは立って歌う慣わしのようだ。
 聴衆の過半は立っていたんじゃなかろうか。麻布学園は男子校のはずだが,立って歌っている人の中には女性もけっこういた。在学生あるいは卒業生の母親だろうか。たぶん,誇らしいのだろうな。

● さて。一曲目は藤倉大さんのホルン協奏曲。ホルン独奏は福川伸陽さん。N響の主席。世界初演とある。二度目はあるんだろうか。
 「ホルンがフォルテでカッコよく吹くのに加え,それが調性音楽となると,仮病を使ってでも聴きに行きたくない」という人が作った曲だ。不思議なテイストの曲だ。

● 言い方はいろいろできると思うんだけど,ぼくはディズニーシーのマーメイドラグーンにいるような気分になった。ポワン,ポワン,ポワンという金属音(?)がマーメイドラグーンなんだよねぇ。
 ただ,演奏する側は少々以上に厄介だったのではないだろうか。吹いてる側がポワン,ポワンとしているわけにいかないもんね。

● 「ラプソディ・イン・ブルー」で山下さん,登場。ぼくの席は2階の右翼バルコニーだったので,彼の肘打ちや拳打ちの様は見えなかったんだけど,オーラが違うというかね,客席をガッと掴む感じがね,気持ちいいくらい凄い。
 あざとくはないんだよね。あざとくはないのに,一瞬で客席を掴む。

● 「ラプソディ・イン・ブルー」はピアノだけでは成り立たない。管弦楽が支えなければならない。で,このオーケストラの腕前がかなりのものなんですよ。
 麻布の卒業生ってみんな東大に行くというイメージでしょ。それでもって,これだけ巧いのはなんで?
 賛助に入ってた奏者の中にはプロもいた。プロじゃなくても,音大出身者ばかりだったろう。であっても,賛助だけが巧くて本体が普通なら,ここまでの演奏はできない。
 東大オケも相当に巧いものね。あまり深くは考えず,こういうこともあるのだと思うことにしよう。

● 正直なところ,山下さんの「ラプソディ・イン・ブルー」が聴きたくて,栃木の在からやってきた。これを聴けば帰ってもいいと思っていた。
 だけど,この水準の管弦楽が演奏するラフマニノフの2番を聴かないで帰るのは,大馬鹿野郎のすることだとすぐに気がついた。

● その前に山下さんのアンコール。ハロルド・アーレン「オーバー・ザ・レインボー」。山下さんのピアノに福川さんのホルンが絡んでいく感じか。
 山下さん,福川さんに気を遣ってか敬意を表してか,わりと絡みやすくしていた感あり(していなかったかもしれない)。
 この短い演奏だけでも,チケットの元は取れたかと思うくらいだ。

● では,ラフマニノフの2番。福川さんもホルンの列に加わっていた。豪華なオーケストラだ。
 これほど激しいラフマニノフを聴いたことがあったろうか。この曲は生だけでもかなりの回数,聴いていると思う。その中でここまで動きの大きい演奏を聴いたことがあったかどうか。
 いい悪いの問題ではもちろんなく,こういうラフマニノフもあるのかと単純に驚いただけだ。

● 第3楽章ではセクシーさを感じた。緩徐とはセクシーという意味なのか。セクシーというよりエロティック。エロスを感じたと言い直してみるか。
 そこをもう少し細かく砕いて言ってくれないかと言われたって困る(言われないだろうけど)。きれいなプロポーションの乙女の寝姿を見ているような感じなんですよね。
 きれいなプロポーションの乙女だよ。こちらはずっと見ていたいわけだよ。終わるな,ずっと続け,と思っていた。

● 4楽章ではまた大きな動きと大きなうねり。ここに世界が凝縮しているような。今,ここを読み解ければ,世界を解釈できたことになる,みたいな。
 もちろん,そんなのは錯覚なんだけど,聴く者をしてそう思わせるのは,作曲家の力業なのか,演奏の巧みなのか。

2016年8月13日土曜日

2016.08.12 鹿沼市立東中学校オーケストラ部第17回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 鹿沼東中の演奏会を初めて聴いたのは,3年前の第14回。あのときの清冽な驚きは,まだ記憶にとどまっている。
 昨年の演奏会は平日開催だったこともあって,聴きに行くことができなかった。今回が3回目となる。

● で,今回も平日開催。平日開催で開演が午後5時というのは,聴く側としては,正直,きつい。
 色々と難しい問題があるだろうことはわかる。中学生を遅くまで拘束することになる。保護者の要望もあるのかもしれない。先生方の労働時間のこともある。ひょっとすると,会場の都合もあったりするのかもしれない。

● とにかく,時間の都合をどうにかつけて,開演にギリギリ間に合った。プログラムは次のとおり。
 金管アンサンブル
  宮川泰 宇宙戦艦ヤマト
  福島弘和 向日葵の咲く丘
  ラングフォード 「ロンドンの小景」より第6楽章

 木管アンサンブル
  ヒンデミット 「小室内楽曲」より第5楽章
  イベール 「3つの小品」より第1楽章

 弦楽合奏
  ヴィヴァルディ 「四季」より「春」第1楽章
  チャイコフスキー 「弦楽セレナーデ」より第4楽章

 オーケストラ
  ワーグナー 歌劇「ローエングリン」より「第3幕への前奏曲」
  R.シュトラウス ホルン協奏曲第1番より第1楽章
  ホルスト 組曲「惑星」より「木星」
  ファリャ バレエ音楽「三角帽子」より“3つの踊り”

● 過去の演奏会でも聴いたことのある曲がわりとある。これは仕方がないんでしょうね。
 こういうシチュエーションに向いた代表的な曲というのがあるんでしょう。

● 後半のオーケストラの演奏はどれもすばらしかったけれども,ホルン協奏曲でソリストを務めた3年生の女子生徒はやはり大したものだったなぁ。
 あの難しい楽器を中学生があそこまで自家薬籠中のものにできているっていうこと。

● 強弱のメリハリ,なめらかな音の連なり,ポンポンとスキップするように音を刻んでいく様。楽譜の指示するところに従って吹いているだけだといえば,それはそうなのだろうけど,従いたくてもなかなか従えないのが,むしろ普通のことだと思うのでね。
 しまったというところもなくはなかったようだ。が,その原因も含めて,そこは本人が一番よくわかっているはずだ。いちいち指摘するには及ばない。

● 「木星」も説得力のある演奏になっていた。3年前もこの曲を演奏してて,やはり同じように感じたことを思いだした。
 パートでいえば,ファゴットに注目。4人いて,全員が女子。姿が良くて,視線を惹きつけるものがあった。姿がいいのに演奏はダメということはないと,単純にぼくは思っている。当然,逆も真。

● 「三角帽子」も高水準の演奏になっていた。難易度の高い楽曲だと思う。それをここまで仕上げてくる実力には少々以上に恐れいる。
 ホルン協奏曲でソリストを務めた女子生徒の短いソロがあって,ここでも魅せてくれた。
 ホルンだけではない。トランペット,トロンボーンの金管陣,弦,木管,パーカッション,いずれもかなりの水準。

● 「三角帽子」はバレエ音楽だから,バレエのストーリーや場面があるわけだ。今回演奏した“3つの踊り”とは,近所の人たちの踊り,粉屋の踊り,粉ひき女の踊り。ぼくは不勉強で,“3つの踊り”がどういうシチュエーションで踊られるのものなのか知らない。
 が,演奏している生徒たちは,そこをちゃんと踏まえたうえで,楽譜にそれぞれのイメージを付加して,演奏しているようにも思われた。

● プログラム冊子の部長あいさつによれば,「今年度は総勢70名と,例年に比べると少ない部員数です。そのほとんどが中学生になってから楽器を始めた初心者です」ということだ。
 70名でも例年に比べれば少ないとなると,このオーケストラ部は東中学校で最も大所帯の部なのだろうし,東中学校を代表する部でもあるのだろう。
 でもって,部員の大半が初心者。3年生でも楽器に触った期間は2年と少々ということか。それでこういう演奏ができるようになるのか。だとすれば,ぼくらは若さの前にひれ伏すしかないだろう。

● もうひとつ。男子部員がけっこういる。歌舞音曲は女のものという風潮は過去の遺物になったのか。まだ残っているのか。
 だとしても,この中学校のオーケストラ部には男子がけっこうな数いる。女子の数分の1ではあるんだけれども,これだけいれば心強い。
 ファーストヴァイオリンに,小柄な身体で大きく演奏する男子生徒がいて,数年後が楽しみだなと思った。

2016.08.11 ろうさいの森アンサンブル第10回定期演奏会

銀座ブロッサム中央会館

● 東京に1泊して,この日は帰るだけだった。ので,“フロイデ”をチェックして,適当なのがあったら聴いて帰ろうか,と。で,この演奏会を見つけたよ,と。
 泊まったところが竹芝なので,銀座なら近い。ちょうどいいや,と思った。

● 銀座ブロッサムに行くには昭和通りを渡らなければならない。この大動脈で銀座は分断されている。っていうか,昭和通りの向こう側はもはや銀座ではない。
 こっち側が華だとすれば,向こう側は鄙。下町的な雰囲気も漂いだす。
 その代わり,地方からのお上りさん(たとえば,ぼく)や中国人観光客は絶えて見ることがなくなるから,スッキリと落ち着いた感じでもある。中国語が聞こえてこないとこんなに静かなのかと思う。

● 厄介なのは昭和通りを横切る方法だ。1丁目から歩いていくと,歩道橋を渡るしかない。登って降る。歩道橋というのは歩行者にとっては暴力的な装置で,だから歩道橋はそちこちにあるけれど,利用する人はほとんどいない。
 だけど,それしかないんじゃ,それを使うしかない。こうした些細なことがこっち側と向こう側の行き来を阻害する。昭和通りが見えない巨大な壁になる。

● さて,演奏会。開演は午後2時。入場無料。
 この楽団は「東京労災病院を練習拠点とする市民アンサンブル」ということ。練習場所が一ヶ所で,しかも間違いなく確保できるというのは,楽団にしたらありがたいに違いない。
 っていうか,病院の職員が中心になって発足したのだろうね。それだけでは人数が足りないから,外にも呼びかけているのだろう。
 団員は約30名とのこと。今回の演奏でも賛助出演者が過半を占めていたようだ。
 
● プログラムは次のとおり。奇をてらわないオーソドックスな陣容。指揮は室賀元一さん。
 シベリウス フィンランディア
 グリーク 「ペール・ギュント」第1組曲
 シベリウス 交響曲第2番

● 東京には数えきれないほどのアマチュア・オーケストラがある。そのうえ,新しい楽団がどんどん生まれている。新陳代謝が激しい。中には惚れ惚れするほど上手な楽団がある。
 この楽団はどうかといえば,そうしたセミプロ級のアマオケとは少々違う。音大崩れは少ないようだ。

● 何というのか,健全なアマチュアのオーケストラだという気がした。
 自分たちが出遅れていることはよくわかっている。もっと早い時期に始めていなければ,届かない到達点があることも当然知っている。
 けれども,それはそれだ。音楽の楽しみ方は技術的到達点の高さがすべてではない。

● という見極めがあって,そのうえで自分たちが到達できるところには到達しよう,可能ならば到達点の措定位置を引きあげよう,という真摯さのようなものを感じさせる。
 以上を要するに,アマチュア・オーケストラのひとつの範例たり得る楽団だと思われた。

2016年8月9日火曜日

2016.08.07 栃木県立図書館 第156回県民ライブコンサート-浄められた夜

栃木県立図書館ホール

● 栃木県立図書館が年に数回開催しているミニコンサート。開演は午後2時で入場無料。入場無料だからといって侮ってはいけない。ときに,ほんとに無料でいいのかと思うようなのに遭遇する。
 っていうか,予めそうであろうものを選んで出かけていくってことなんだけどさ。

● 今回は三原明人さんがヴィオラ奏者として登場。何度か栃響を指揮しており,その際に栃響メンバーとプレコンサートをやった。それが機縁で今回の演奏会が実現したらしい。
 したがって,三原さん以外の出演者はいずれも栃響のメンバー。

● プログラムは次のとおり。
 三原明人 弦楽四重奏のためのファンタジー
 モーツァルト 弦楽五重奏曲第4番 ハ短調 K.406
 シェーンベルク 弦楽六重奏曲「淨夜」

● 「弦楽四重奏のためのファンタジー」は三原さん18歳の作品。3楽章の弦楽四重奏曲として構想されたようだけれど,間に藝大受験があり,結局,弦楽四重奏曲としては未完に終わった。
 三原さんは本業はたぶん指揮者なんだと思うんだけど,ヴィオラ奏者のほかに作曲家でもあったのか。

● クラシックの現代楽曲って,毎年,夥しい数,生産されているに違いない。おそらく,大半は初演されて終わり,なのだろう。
 三原さんのこの曲は,今回が3回目の演奏になるらしい。3回演奏されるっていうのはすごいことではないのか。
 残るのは至難だ。ポップスなら次々に入れ替わってくれるけれど,クラシックの場合は,バッハ以来のスタンダード・ナンバーのストックがある。そのストックをひととおり聴くだけでも,どうしてなかなか容易ではない。

● この曲は三原さんのほかに,小川宏子さん,山木一康さん(ヴァイオリン),菅間康夫さん(チェロ)の5人で演奏された。栃響の選りすぐりといっていいだろう(よくないのか)。
 モーツァルトでは木村俊明さん(ヴィオラ)が,シェーンベルクでは萱森康隆さん(チェロ)が加わった。

● 今回の曲目解説は三原さんの筆によるものだろうと思うのだが,その曲目解説によれば,シェーンベルクの「淨夜」は「歌手のいない無声オペラを見ているかのように劇的な音楽」であり,「食べられなくなる一歩手前の洋梨のように甘酸っぱい魅力たっぷりの作品である」。
 “食べられなくなる一歩手前”が一番旨い。洋梨に限るまい。肉なんか典型的にそうだ。新鮮が一番などと言っているのは幼児の味覚である。

● 無声オペラのようだという前提は,デーメルの詩の内容を承知していることが最低限の前提になる。その詩の日本語訳も載せてくれている。演奏前にこれは読んでおかねばなるまい。
 けれども,そのようにしてもなお,ぼくの耳では曲目解説のように捉えることは難しかった。この曲目解説で説かれているのは,いわば定説であって,異議を申したてる部分は皆無だ。にもかかわらず,この解説がピンと来ないというのは,要は聴きこみが足りないのか,ほかのことを考えながらボーッと聴いていたのか。

● また,三原さんによれば,「アマチュアの演奏家がこの作品に取り組むのは滅多にない,おそらく前代未聞の快挙ではないか」とのこと。
 三原さん自身,「淨夜」を演奏することが念願だったのに,今まで実現できずにいたそうだ。高名な楽曲だけれども,生で聴ける機会はそんなに多くはないようだ。

● 県立図書館のホールのいいところは,狭いこととステージとの段差が低いことだ。普通のホールでは,小ホールであっても,ステージと客席との間には壁ができる。見えない壁がどうしてもできてしまう。壁を挟んで,奏者と聴衆が対峙する形になりがちだ。
 が,これくらいのホールだと,それがない。一体感が強まる。物理的な広さや構造が奏者(演者)と聴衆の関係性を決める要因になるのは誰でも了解することだけれども,普通に了解されているよりも,じつは大きい決定力を持っているかもしれない。

● 両側面が大谷石でできている。大谷石は建築資材に向いているとされる。切削技術が今ほどでなかった昔は,大谷石は柔らかいから扱いやすかったのだろうな。
 音楽の演奏に向いているのかどうか,ぼくにはわからない。大谷石ってスカスカだから,音を吸いこむのじゃないかと思うんだけど。
 けれども,たとえそうであっても,音響に関してはまったく気にならない。この広さなら直接音で充分すぎるということか。あるいは,大谷石は音響面でも有効な素材なんだろうか。

2016年8月6日土曜日

2016.08.02 クラシカルバレエアカデミーS.O.U 2016バレエコンサート

栃木県総合文化センター メインホール

● 2年に一度の発表会。生徒の保護者に向けた催事なのだと思うけれども,2階席は自由席。ご自由にご覧ください,無料ですよ,誰でもどうぞ,ということになっている。
 というわけで,3回連続で3回目の拝聴というか拝観となった。

● 開演は午後3時30分。入場無料。プログラム冊子は別売で500円。
 ちなみに,終了したのは7時40分だった。詳細は次に見ていくけれども,4部構成の長大なもの。バレエ学校の発表会って,わりと長め(オーケストラの演奏会などに比べると)が普通のようにも思えるんだけど,ここまで長いのはそうないんじゃないか,と。

● が,その4時間の間に,退屈した時間は1秒たりともなかった。保護者向けの,いうなら内輪の発表会だとしても,水準の高いパフォーマンスを次々に繰りだしてくる。エンタテインメントとして充分以上に楽しめる。

● このS.O.Uのサイトを見ると,次のようなクラス構成になっているようだ。
 幼児科 満3歳~入学前
 児童科C 小学1,2年生
 児童科B 小学3,4年生
 児童科A 小学5,6年生
 本科 中学生以上
 児童科A以上になると,週3回,1回2時間の練習がある。
 以上を予備知識としたうえで,さて,第1部から観ていこう。

● 第1部は「おそうじだんす」(児童科B),「カプリッチョ・イタリアン」(児童科A),「Tango Tango」(本科)。
 ステージで踊るダンサーは,実際の年齢よりも大人びて見える。化粧効果,衣装効果,舞台効果で説明できるのだろうけれど,「カプリッチョ・イタリアン」を踊っているのが小学生だとは,教えてもらってもなかなか腑に落ちない。

● ひとりひとりが一個の若いレディであって,その若いレディたちが固まったり広がったりして,きれいなラインを作っている。しかし,小学生なのだね。
 「おそうじだんす」もそうだけれども,小学生の一所懸命は気持ちを安らかにしてくれる。彼女たちのダンスを観ていると,気持ちが安らぐ。なぜなのかはわからない。

● 本科生による「Tango Tango」は,たぶん今回のすべてのダンスの中の白眉といってよいものだったろう。
 全員が高い水準で動きが揃うのは,お見事というかあっけにとられるというか。

● 表現の技法について考えさせられた。文章,絵画,音楽,演劇。表現のための手段はいろいろある。
 絵画にしろ音楽にしろ,表現のしもべではなく,それ以上のものを内包しているのかもしれないということ。よくわからないんだけどね。
 で,身体表現という言葉があるわけで。ここでも,表現したい何かがあって,そのために身体を使うという捉え方では,おそらく豊穣なものは生まれないのだろう。
 意図やイデアが先にあって,それをどうにかして表現しよう,あるいはそこに行き着くための方便として身体を使おうというのじゃないんだろうな。それだけではパフォーマンスが痩せてしまいそうだ。

● 仮にそれらが表現のしもべだとしよう。文章は誰でも書ける。絵もそうだ。けれども,それで何事かを表現しよう,他人に伝えようとすると,とたんに問題が難しくなる。
 多くを伝えるためには,それなりの技術を要する(技術だけではダメなのかもしれないけれど)。つまり,誰にもできるとは限らない。
 バレエでその技術にあたるものは身体能力なんだろうか。運動神経やリズム感を含めた運動能力?
 これ,誰にもあるとは限らないもんね。残念ながら,ぼくにはない。

● それを豊富に持っている人たちがさらに磨きをかけようと努力して,その結果あるいは過程を舞台で披露する。
 それはいろんな意味で説得力を持つ。その「いろんな」を忍耐強くほぐしていければ,論文のひとつやふたつは書けそうだよね。
 というようなことをボーッと思いながら観ていた。

● 第2部は,まず児童科Cと幼児科合同で5つのダンス。これは要するに可愛らしい子たちで,その可愛らしさがそのまま客席に伝わってくるっていう。
 普通の幼稚園や保育園の学芸会とは一線も二線も画する。

● 唐突なんだけど,ぼくらの仕事っていうのは,無垢な彼女たちを守ることではないのか,と思ってしまった。
 何のためにぼくらはいろんな仕事をしているのか。喰うためとか家族を養うためとか,とりあえずの目先はそういうことだとしても,畢竟,この子たちの無垢さを守っていくためではないのか。

● 何から守るのかといえば,邪悪なるもののすべてから,だ。しかるに,この世は邪悪に満ちている。というより,この世は邪悪でできている。自分もまたそっち側の人間だ。
 邪悪よりも邪悪でなければ,無垢を邪悪から守ることなどできない。ん? 何を言いたいのかわからなくなってきたぞ。

● 本科生による「マリオネット」。可愛らしいのもいいんだけれども,大人(といっても中学生が多いのか)のダンスはさらにいい。それこそ身体能力が全開になる年齢だものね。
 バレエの核は,人体の自然にどこまで抵抗できるかってことなんだろうか。ポワントなんて反自然の極みだよね。だけども,これがどうしようもなく美しい。痛ましいんだけど,美しい。

● あとは,「ジゼル」第1幕より“ペザント・パ・ド・トロワ”,「パリの炎」より“グラン・パ・ド・ドゥ”,「ドン・キホーテ」第3幕より“グラン・パ・ド・ドゥ”。
 男女のペアあるいはトリオによる,オペラでいえばアリアにあたるのだろう,見せ場を選んで披露するタイプのステージ。

● 第3部は「眠れる森の美女」の第3幕から。児童科合同作品。もちろん,ソリストが加わる。
 妖精たちがベンチに座って踊りを眺めるシーンが長く続く。ベンチに座ったきり,ずっと動かないでいる。静止の躍動感のようなものがビビッと伝わってくる。

● ダラッと座っているのではない。お姫さま座り(?)だ。背筋を伸ばして優雅に足をながす。女性が座っている姿勢の中で最も美しく見えるものだ。
 これも反自然。身体が望むとおりの座り方を許したのでは,美しくなんかならない。身体が望まない姿勢に自分を固定する。
 ひとつの型を長く保つのは,相当きついと思う。それを涼しげにやってのける。バレエではそれがあたりまえと言われれば,それはそうなんだろうけど。

● 第4部は,本科生による「白鳥の湖」第2幕。強力な助っ人も入って,横にも縦にも動きの大きいステージになった。華やかと言い換えてもいい。
 が,第一の見どころは白鳥たちの群舞ということになる。ここはおそらく観客の意見が一致するところではないかと思う。
 この場面は,自由を奪われ失意の底にあるわけなので,悲しげな踊りになる。短調的な動き。それが鍛えられた踊り手によって表現されると,何とも心地よい緊張感がステージを覆う。
 それがそのまま,客席にとっては癒しになる。癒しという言葉を使っていいと思う。

● ステージを観ながら集中ということについて考えた。男性は多面集中,並列処理ができない。複数の課業を同時に処理することが苦手だ。
 一点集中しかできない。できるのは直列処理だけだ。したがって,1個ずつ片づけていかなくてはならない。ひとつやって,はい次,というやり方だ。

● ところが,女性は多面集中,複数の課業を同時に並列処理していくことができるらしいのだ。となると,集中の仕方には男女差があって,しかもその差はかなり大きいのではないかと思う。
 一点に深く集中しなければならない時,そこは男性の独壇場になるのだと思っていた。

● しかし,こうしてバレエのステージを観ていると,その見方は修正される必要があると思わないわけにいかない。
 ステージとはまさにそこだけに集中しなければいけないところだろう。そういう場に臨むと,多面集中がむしろ得意なのではないかと思われる女性も,一点に深く分け入っていくことができるのだ。
 何だかあたりまえのことを言っているようで気が引けるんだけど,そういうことをつらつらと思いながら,会場を後にした。