2019年5月27日月曜日

2019.05.26 宇都宮シンフォニーオーケストラ 第18回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 宇都宮シンフォニーオーケストラの演奏会に行くのはずいぶん久しぶり。2016年10月以来になる。どうしてそうなったのかは不明。
 おそらく,他の演奏会と重なることが続いたのかもしれない。あるいは,ちょうど東京に遊びに行くのと重なったのかもしれない。

● 開演は午後2時。当日券(1,000円)を買って入場。曲目は次のとおり。指揮は石川和紀さん。
 シューマン チェロ協奏曲 イ短調
 ブルックナー 交響曲第7番 ホ長調

● 自分で定位置と決めている2階右翼席に着座。横に短いから,隣に動かない人がいても,休憩時間に移動がしやすい。最も奥(左)に座ると,スペースに余裕がある。荷物を置くのにも便利。
 というわけで,この席をぼくは好んでいる。まぁ,左翼席の右奥でもいいわけだが。

● ぼくはクラシックをきちんとというかまともにというか,聴き始めたのはかなり遅い。その中でもブルックナーを聴き始めたのはだいぶ遅かった。
 聴く契機がなかった,あるいは掴めなかった。マーラーと一緒に聴くようになったのだけども,マーラーにはすでに飽きが兆している。もう聴かなくてもいいかなぁと思っている。これも理由はよくわからないんだけど,飽きてしまったとなるととりあえず打つ手はない。自分のことだから,べつに打たなくてもよいと思っている。

● 対して,ブルックナーの方は最近,面白さというか深味というか,少しわかってきたような気がする。わかるというのは適当な言い方ではないか。感じるようになってきた(気がする)。
 ぼくはCDは選ばないので,たまたま手元にあったものを聴いているが(その1枚しか持っていない),7番はたしか小澤征爾+サイトウ・キネンだったと思う。以前に比べると,聴く頻度が少しあがっている。

● 不思議な曲だ。第1楽章の冒頭からフォトジェニックな感じがし、何となく土くさいところもあり,聴き進んでいくうちに各楽章をどうつなげたらいいのかわからなくなり,むやみに長いなと思い,どう終曲させるつもりなのだと疑問が兆す。
 聴き終えたときには,CDでも疲れる。まして生で聴けば尚更のことだ。で,また聴きたくなるという。

● 演奏する側にとっては,難敵かと思われる。苦労の種は数え切れないだろう。
 が,エイッ,ヤッ,とやっつけた感はない。ちゃんと対峙して,答えを出している気がする。これが自分たちの解答です,と。凛とした演奏で聴きごたえがあった。
 極東の島国の地方都市で,アマオケが自作を演奏するとはブルックナーもまさか思い及ばなかったろう。

● シューマンのチェロ協奏曲。ソリストは佐山裕樹さん。宮田大さんといい,金子鈴太郎さんといい,きら星のごとき栃木県出身のチェリストがいる。佐山さんもそれに続くのだろう。
 まぁねぇ,共演を申し込んでも,その日は時間が空いてなくて,なんてことになるんですかねぇ。 
 佐山さんのアンコールは,バッハ「伴奏チェロ組曲第3番」から“ブーレ”。

● オケのアンコールはなし。そりゃそうだ。この曲目を演奏したあとにアンコールがあったら,かなり驚く。

2019年5月22日水曜日

2019.05.19 真岡市民交響楽団 第59回定期演奏会

真岡市民会館 大ホール

● 開演は午後2時。当日券(500円)で入場。1階右翼席に座った。
 曲目は次のとおり。指揮は新井義輝さん。佐藤和男さん以外の指揮でこの楽団の演奏を聴くのは,今回が初めて。
 リスト 交響詩「レ・プレリュード」
 グリーグ ノルウェー舞曲
 ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」

● リストの「レ・プレリュード」を聴きながら,ひょっとすると自分は演奏を聴くことではなくて,演奏を見るのが好きなのかもしれない,と思った。
 ライヴ演奏にはわりと足繁く出かけている。が,そうではないとき,音楽を聴いている時間はあまり多くない。出勤中にNHK-FMから流れてくる「クラシックカフェ」を聴きながら運転するのは平日のお約束だけれども,それ以外となると週平均で2時間もあるかどうか。

● 人が作る光景の中で,ステージに整列したオーケストラほど見栄えのするものはそんなにないと思っている。配置が作る静的な景色もそうだけれど,奏者の所作が作る動的な光景も見ものだ。
 弦奏者の腕の動きや首の傾げ方,上半身が前後に揺れる様。ティンパニ奏者がサッとヘッドを払って残響を消す仕草。フルート奏者が出番の2秒前に自分の口に近づけて待つ様子。オーケストラは美しい。

● とはいえ,演奏に触れないわけにはいかない。ドヴォルザークの9番は大変な熱演。攻める,攻める。躊躇がないのは,聴いていて気持ちがいい。かなりの快感。
 歯切れのいいから,「新世界より」の構造がくっきりと浮かびあがる。このあたりはこちらの思い入れが作る錯覚かもしれないのだが。

● この曲は管が主役で,弦は半歩引いている感がある(これからして錯覚かもしれない)。木管の健闘が印象的。特に,オーボエの2人。あ,それから,ティンパニも。
 トレーナーが奏者に加わっているとはいえ,あるいは弦に賛助がかなり多いとはいえ,これだけの演奏をするオーケストラが,言っちゃなんだけどこんな小都市にあるということの不思議。

● 客席の入りは7割程度だったか。これだけ埋まるという,これも不思議っちゃ不思議。機会が少ないからというのもひょっとするとあるかもしれないのだが。
 これ,真岡に限った話ではない。自分のことを棚にあげて言うのだけども,どうしてクラシック音楽の演奏会にこれだけの人が集まるんだろうか。少し理解に苦しむところがある。
 しかも,最近の傾向として男性(年配者だが)が増えているように思われる。音楽にしても歌舞伎の観劇にしても,もっぱら女性のものという見方には,修正が必要かもしれない。

● アンコールはドヴォルザーク「ユーモレスク」。この曲をオーケストラの演奏で聴く機会はそんなに多くはないと思う。

● というわけで,かなり濃い2時間が終わった。聴く側がこれだけの濃さを味わうのだから,演奏する側の濃さというのはいかほどのものだろうか。
 わりと淡々としたものなのかね。そのあたりはぼくには想像の及ばない領域だ。

2019年5月15日水曜日

2019.05.12 東京楽友協会交響楽団 第106回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 東京楽友協会交響楽団の演奏を聴くのは,2015年の第99回,2017年の第102回に次いで,これが3回目。当日券(1,000円)で入場。

● 曲目は次のとおり。指揮は松岡究さん。
 ブラームス 交響曲第2番
 マーラー 交響曲第4番

● 聴いてて面白いのはブラームス。面白いというか,奥行があって,イメージ喚起力が強い。ま,ぼくの錯覚かもしれないのだが。
 マーラー4番はアッサリしてる。飲み口は良くても,これでは酔えない。

● 畏れ多いことながら,マーラーに飽きが兆している。飽きるほど聴いたのかといえば,まったくそんなことはない。
 でも,何だか,もういいかな,という感じ。また変わるかもしれないけれど。

● かといって,曲を離れて演奏それ自体を聴いて充足できるほどには,ぼくの耳は熟していない。という前提で申しあげるのだけれども,演奏のレベルはかなり高い。ほんとにアマチュアなのかと言いたくなるくらいだ。
 その水準の高さをわかりやすく感じられるのは,マーラーの方だ。不規則なゴー&ストップがことごとくピタッと決まるわけだからね。谷明美さんのソプラノソロが花を添える効果もある。

● 昨日のアウローラ管弦楽団といい,今日といい,1,000円でこれを聴けるのだから,何だか笑っちゃうほどだ。さすがは帝都東京というべきか。こんなのは,ベルリンにもウィーンにもパリにも,ロンドンにもニューヨークにもないだろう(たぶん)。
 首都圏に住んでいる人が羨ましい。そのためだけに東京に引っ越す価値があるかもしれないと本気で思うことがある。
 いくら価値があっても,先立つものがないので,そんなことは不可能なんだけどさ。

● ウィーン・フィルだ,ベルリン・フィルだ,コンセルトヘボウだ,と仰る方々は,それこそウィーンにでもベルリンにでも引っ越せばいいのだが,ぼく程度の聴き手にとっては,東京は特別な場所だ。西日本のことはまったく知らないのだけれども,事情は同じだろうと想像する。
 一極集中は悪いことではないと個人的には思っているのだが(均霑化するとトータルのレベルが下がる),集中点にアクセスしやすかそうではないかで,相当な差がついてしまう。ここだけはインターネットでも越えることができない。

● 逆にいえば,音楽をライヴで聴くという以外のところでは,インターネットによって都鄙の情報格差は問題にならないところに来たといっていいと思う。
 ということは,音楽をライヴで聴くなんてことに興味のない人にとっては,都会に住むことのアドバンテージはあまりなくなったのじゃないか。複製ですむもの(たとえば映画,たとえば書籍)については端から都鄙の差など考える必要がない。

● しかし,だね。“ここ”以外では都市のアドバンテージはなくなったというときの“ここ”というのは,音楽をライヴで聴くこと以外にもたくさんあるんだろうね。
 それらの多くが自分の視野には入っていないというだけで。したがって,インターネットがいくら強力無比でも,都市はこの先も健在だよね。

● あ,そうだ。今回初めて,すみだトリフォニーの2階バルコニー席に座ってみた。ここは穴場ですね。空いてればここに席を取りたいものだ。
 第1に視界を遮るものがない。第2に意外にステージが近い。第3に左右に人がいないので,時に味わうことになるイライラから解放される。

2019年5月14日火曜日

2019.05.11 アウローラ管弦楽団 創立10周年記念 第21回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● アウローラ管弦楽団の演奏は,室内演奏会や特別演奏会も含めて,過去に6回聴いている。が,直近は2016年1月の第14回定期
 3年ほど遠ざかってしまった。理由はない。おそらく,こちらがバタバタしていたからだと思う。

● で,今回,3年ぶりに聴く機会を得た。開演は13時30分。当日券(1,000円)で入場。
 曲目は次のとおり。指揮は田部井剛さん。
 グラズノフ 祝典序曲
 チャイコフスキー バレエ音楽「白鳥の湖」より“情景” “ワルツ” “ハンガリーの踊り”
 ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」

● 過去に6度聴いているのだから,この楽団の演奏水準については一応知っているつもりだ。知っているつもりなのだが,グラズノフ「祝典序曲」を聴いて,あらためて驚いた。ここまで巧かったっていうね。
 「白鳥の湖」も圧巻だったと思う。オーボエ,よく息が続くなぁとか思うわけだ。あまりに素人的な感想で申しわけないのだが。

● バレエ音楽って,踊るための音楽だから,その分,制約要因が多い(のだろう)。たんに聴くだけならバレエ音楽ってのはあまり面白いものではない,と言われることがある。
 たしかにそうなんだろうけども,チャイコフスキーの本領は交響曲の6番や5番ではなく,バレエ音楽にあるのかもしれない。ストラヴィンスキーがいるじゃないかと言われるだろうけれど,稀有な例外というかなぁ。

● そうだよ,そのとおりなんだよ,その本領をよぉく味わいなよ,と言われているような気分になった。そういう演奏だ。
 ピントがピタッとあっていて,したがってシャープな映像になるはずなのだが,シャープさを包む情感というのかなぁ。シャープなだけに甘んじていないというか。
 たしかにチャイコフスキーを聴いているというゾクゾクする感じ。得がたいものを得ているという感じ。

● プログラム冊子の曲目解説によると,今回の曲目は1942年4月5日及び8月9日のレニングラードにおける演奏会に因んでいるらしい。ドイツ軍に包囲され,甚大な餓死や凍死を作りつつあったレニングラードで開催された演奏会。そこで演奏されたのが今回の曲目であったようだ。
 曲目解説には,そういう状況にあって演奏会の開催にこぎつけたレニングラード放送交響楽団の奮闘と,その音楽がいかに当時のレニングラード市民を勇気づけたかというファンタジーが綴られている。

● というわけで,今回のメインはショスタコーヴィチの7番ということになるわけだが,この曲は少しく困った曲なのだ。少なくとも,ぼくにとってはということなのだが。
 その困ったことというのは第1楽章にある。「人間の主題」「自然の主題」「戦争の主題」の3つの旋律。「戦争の主題」は“ボレロ”になっているわけだけれども,これが「戦争の主題」に聞こえないんだよね。
 それどころか,“ボレロ”特有の酩酊感があって,聴いていると幸せな気分になってしまうんですよ。困ったものなのだ。

● 第3楽章はショスタコーヴィチのオーケストレーションの妙が冴え渡る。オルガンかと思わせる木管の調べ。宇宙の胎動を連想させるチェロとコントラバスのピチカート。世界が裂けるかと思わせる弦のうねり。
 それらが小気味よく連続し,あるいは断絶して,唯一無二の世界を描きだす。
 その世界は広い解釈を許すもので,ある時代の「レニングラード」に囚われる必要はない。そういう背景からいったん離れて,聴き手がそれぞれの,いうなら勝手な世界観で聴けばよいものだ。

● 最もバカバカしいのは『証言』を入れてしまうことで,それをしてしまってはこの曲をひどく矮小化することになる。
 ぼく一個は『証言』は壮大な捏造だと思っているが(しかも,捏造の仕方が巧いから困る),たとえ作曲家自身がどういう思いで作ったのであれ,聴き手がそれに縛られることはない。

● プログラム冊子の曲目解説に戻ると,“ターニャの日記”が写真で紹介されている。12歳の少女ターニャが綴った家族の死の記録。淡々と,おじさんが死んだ,ママが死んだ,と記録している手帳サイズのノート。
 これについては,この曲目解説で初めて知った。ググれば“ターニャの日記”に関する多くの情報がパソコンの画面に表示されるのだろうが,まったく知らないものは検索できないわけだ。ので,その存在を知り得ただけでも,この演奏会に出かけた甲斐があったというものだ。

● 「レニングラード交響曲の現地初演後に,一人の少女が指揮者エリアスベルクに花束をプレゼントした」という「史実として伝えられる」出来事も紹介されている。その花束には「レニングラードの音楽を守ってくれて,ありがとうございます」というメッセージカードが添えられていたらしい。
 その少女の写真も掲載されているのだが,ここまでできすぎている話は,写真もろとも,後世の誰か(機関であったかもしれない)が捏造したものではないかと疑うのが,まずは順当なところだろう。

● 総じて音楽の力というものを強調する内容になっているが,贔屓の引き倒しはよろしくない。状況を考えないで音楽を持ち込むことは,かえって被災者のストレスになることを,東日本大震災でぼくらは学んだはずではないか。
 「この日,初演を耳にした全ての人たちがその奇跡を共有し,自分たちの街に捧げられた交響曲によって市民に灯された勇気が,900日に及ぶレニングラード包囲を最後まで耐え抜く力に繋がった」というのも誤りだ。演奏会がなくても,耐え抜いたろうからだ。耐え抜けた理由は別にある。
 その演奏会自体,上からの演奏会だった。対外的な政治プロパガンダ以外にどんな意味があったか。それが「クラシック音楽界に名を残す歴史的な偉業」と評価されているなら,プロパガンダの成功を意味する。

● 不可侵条約を破ってドイツが攻めてきたことに学んで,スターリンは太平洋戦争末期に日ソ不可侵条約を一方的に破棄して,日本側に攻め込んだ。
 結果,北方4島を含む千島列島を占領して,盗人の猛々しさを現在までロシアは維持している。ヒトラーはまったく余計なことをしてくれたものだ。

2019年5月7日火曜日

2019.05.06 作新学院高等学校吹奏楽部 フレッシュグリーンコンサート2019

宇都宮市文化会館 大ホール

● 昨年は行けなかったので,このフレッシュグリーンコンサートは2年ぶりの拝聴。会場の宇都宮市文化館に着くと,すでに長蛇の列。
 これだけの長い列ができるのは,作新吹奏楽部の他には,年末の宇高・宇女高の第九演奏会だけではないか。そろそろ列の長さに恐れをなして回れ右となるかもしれないんだけど,今のところはまだその列に並ぶ気力が残っている。

● しかし,10連休の影響だろうか,2年前に比べるとやや空席が目立ったか。3階席はけっこう空いていた。とはいうものの,この大ホールがこれだけ埋まるのはそうそうあることではない。
 毎度のことながら,制服姿の中学生,高校生がけっこう多い。作新の生徒ではない。それぞれの学校で自分も吹奏楽をやっているのだろう。
 彼らにとってこの演奏会は聴くに値するものなのだろう。範例になるわけだろう。

● 開演は15時。チケット(1,000円)は事前に購入しておいた。
 曲目は次のとおり。例によって3部構成,
 真島俊夫 輝け青春
 林 大地 「あんたがたどこさ」の主題による幻想曲
 近藤悠介 マーチ「エイプリル・リーフ」
 福島弘和 行進曲「春」
 森田一浩編 「ノートルダムの鐘」より

 森田一浩編 ライオン・キング・メドレー
 ルロイ・アンダーソン クラリネットキャンディ
 ヴィム・ラセロムス マジック・スライド-トロンボーンとバンドのための
 笹木敦志 いちご一会-とちぎ国体2022イメージソング
 チック・コリア スペイン
 星出尚志編 坂本冬美メドレー
 鈴木英史編 魔法にかけられて

 シルヴェスター・リーヴァイ ミュージカル「エリザベート」より

● 初っぱなの「輝け青春」を聴いた印象は,呼吸をしているようだ,と。息を吐いたり吸ったりするように楽器を扱っている。人体と楽器の間に距離がない。はぁぁと思うしかないかな,もう。
 これに対してああだこうだと何事かを述べるのは,そもそも場違いのような気がする。参りましたと言う他はない。
 最も才能に恵まれた集団が他校を圧倒する最も激しい練習を重ねているという,その結果がこうなっている。それだけのことだと理解しているが,それを述べること自体が,余計なことかもしれない。

● 個々のプレーヤーの技量が大したものだ。藝大に合格する子もいるのだ。さすがに他校にはそこまでの生徒がいるかどうか。
 そういう才能の持ち主を集めるだけの磁場の強さがあるのだと思うしかない。

● 今年度の部員は100名を超えたという。作新への一極集中が進行しているというか,作新の一人勝ちというか。
 作新が批判される筋合いはない。努力の結果だ。才能ある中学生がどうせやるなら作新でやりたいと考える。そういう場を作りあげてきたということだ。
 しかし,ここまで卓越してしまうと,別の問題が出てくるようにも思われる。作新が自校のことだけを考えて動くことは,もはや許されなくなっているのではないか。

● 「あんたがたどこさ」の主題による幻想曲,「エイプリル・リーフ」,「春」の3曲は,今年度のコンクールの課題曲になっている。演奏前にどこに気をつけて演奏すべきかのレクチャーを,作新の指導陣が客席に向けて行った。
 他校の生徒に向けてのものだろう。ぼくが聞いてもチンプンカンプンなわけだが,聞く人が聞けば大いに参考になるのだろう。
 今回のレクチャーもそうだけれども,以前から,課題曲の説明会などで模範演奏(?)をする役割を作新は果たしてきているようだ。吹奏楽界に水を流すダムの役割。
 が,ノブレス・オブリージュとしてそれらを引き受けるだけではすまなくなるかもしれない。ひょっとすると,作新がやらなければならない焦眉の急は,自校に拮抗できる他校を作ることではないか。

● これだけの“場”を作るまでには,並ではない苦労があったろう。が,いったんできてしまえば安泰かといえば,おそらくそうではない。できあがった“場”を維持するためのメンテナンスにもまた苦心惨憺を要求されるだろう。
 吹奏楽界の全体を考えている間に,その“場”を失うようなことがあっては,元も子もない。作新ですら東関東で足踏みを余儀なくされているのだ。その先を目指すなら,現状に満足しているわけにはいかないという事情もある。
 それでもなお,自校のことだけを考えることは許されないとなると,かなり難しいステージに歩みを進めてしまったものだ。

● ということを考えたくなるほどに,この高校の演奏は卓越している。第2部の「スペイン」における冒頭のトランペット。これを聴いて心を動かされない人はおそらくいないはずで,それを演奏しているのが高校生なのだぞ。
 その水準がそちこちに顔をだす。その結果,気を抜けなくなるかというと,その逆で,何ともいえないいい気分になる。

● 第3部のミュージカル「エリザベート」は,そのままミュージカルで差しだすのではなく,いわゆるドリル。ダンスはあるが台詞はない。
 隊列の変化の妙。打楽器と管楽器の掛け合いや重なりの妙。この高校ならではのフラッグの舞。耳の保養になるが,目の保養にもなる。
 当然,たとえばラインを考える参謀がいる。そういうことを含めて,これを企画して実施できるのは,栃木県ではこの高校だけだろうと思われる。

● すべてのプログラムを終了したあとに,恒例(?)の野球応援編。これを楽しみにこの会場にやって来た人も多いに違いない。
 エンタテインメントとしても傑出している。エンタテインメントとして成立するには,ディズニーランドのアトラクションが典型的にそうだと思うが,どこにでもあるものであってはいけない。ここにしかないものでなければ。
 そういう意味じゃ,これは絶対に他にはないものではある。カットバセー,サックッシン,なのだからね。
 もちろん,細部の作り込みの緻密さが前提にあってのものだ。この点でも,ディズニーランドのアトラクションと同じ。

2019年5月6日月曜日

2019.05.04 宇都宮北高等学校吹奏楽部 第33回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 第30回までは5連連続で拝聴していたが,2年ほど間が空き,今回,6回目の拝聴となった。以前と変わったのは,開場前の長い行列がなくなったこと。それから,部員数がかなり少なくなっていること。
 その変わり方はかなり意外だった。ひょっとすると,雌伏の時期に入っているのかもしれない。
 開演は午後1時30分。チケットは自由席なら800円。事前に買っておいた。

● 曲目は次のとおり。
 オッフェンバック 喜歌劇「天国と地獄」序曲
 J.マッキー シェルタリング・スカイ
 長生 淳 昂揚の漣

 星出尚志編 Dancig Queen
 郷間幹男編 The Rose
 佐橋俊彦編 ディープ・パープル メドレー
 M.Jackson&L.Richie We Are The World

 H.Arien 「オズの魔法使い」より

● 「天国と地獄」を聴いて,端正な演奏だと思った。“3時のおやつは文明堂”になっても走りすぎなんてことはあるはずもなく,端正さを保ったまま終演。
 演奏に艶もあるし,活性度も高そうだ。つまり,以前と変わっていないように思えたのだが。

● 第2部では「Dancig Queen」が最も印象に残った。「世界中で大ヒット」したらしいんだけど,そのあたりの事情にはどうも疎くていけない。
 ジャズっぽさもあって,伸びやかで,しっとりとしてもいる。

● 「オズの魔法使い」はミュージカル仕立てなのだが,この高校の特徴はセリフがないこと。表現はパントマイムとダンスと演者が自ら楽器を演奏することによって行う(これがほんとのレチタティーボ?)。
 楽器の演奏は本職(?)だから達者なものだ。課題はダンスにあったような気がする。が,今回はこのダンスが見応えのあるものだった。かなり練習した?
 ダンスのシーンは主役のドロシーに集まるわけで,少女が淑女っぽくふるまう仕草,たとえばスカートの裾をちょっと持ちあげる仕草,も含めて,ドロシーを演じた生徒はかなりの健闘。

宇都宮市文化会館
● ところで,今回,司会を担当したのは小平桃歌さん。吹奏楽部OGとのことなのだが,思いだした。
 第29回のときにパンフレットで「口を開くと見た目を裏切るアナウンサーのようなvoiceが飛び出します」とからかわれていた人だ。その声を聞く機会もあった。MCを務めたんだっけか。
 なるほど,そっちの才能を活かす仕事についたのか。あのときの女子高校生がこういうレディになるわけか。今だとまったく見た目を裏切らない。

2019年5月5日日曜日

2019.05.03 矢板東高等学校合唱部・吹奏楽部 第16回プロムナードコンサート

矢板市文化会館 大ホール

● 5年連続5回目の拝聴となる。開演は午後1時半だが,吹奏楽部のプレ演奏がある。入場無料。

● まずは合唱部の演奏。曲目は次のとおり。
 丸谷マナブ 世界はあなたに笑いかけている
 唐沢史比古 風と光の中で
 バルトーク・ベーラ 「児童と女声のための合唱曲集」より“春” “ここに置き去りにしないで” “求婚者”
 ドラマヒットソングメドレー
 バルトーク・ベーラ 「児童と女声のための合唱曲集」より“さまよい” “神様がともにおられますように”

● 部員は8名とのことなのだが,ステージに出ていたのは7名。うち,6名が女子。これが逆なら紅一点というわけで,紅一点ならバランスは悪くない。が,女子の中に男がひとりというのは辛くないか。つまり,男子より女子の方が強いからで,この状態というのは猛獣の群れの中に兎が一羽放りこまれたようなものだろうと,ぼくなんぞは思ってしまう。
 しかし,彼を見ているとそういう悲壮感(?)もなく,ごく普通にやっているように見受けられる。自分の常識を若い人たちに適用するのは間違いの元なのかもしれない。

● ドラマヒットソングメドレーにはお約束のMCが入り,お約束の女装男子が登場する。男子が女装すれば,それだけで笑いを取ることができるのだが,今回の女装男子は女子を演じるのがかなり上手かった。珍しい例だ。
 男装の女子もかなり上手。今の子って“あがる”ということとは無縁のようだ。掌に人の字を書いて,それを飲む真似をするなんていうおまじないは,端から不要のようだ。

● 吹奏楽部の曲目は次のとおり。
 星出尚志編 ディズニー・ファンティリュージョン!
 松下倫士 繚乱-能「桜川」の物語によるラプソディ
 山里佐和子編 歌劇「仮面舞踏会」セレクション
 “Back to the HEISEI”
 米津玄師 ピースサイン
 東海林修 ディスコ・キッド

● いずれも相当なもの。のびやかだし,句読点を打つところでは,打つべき場所にキチンと打っている。
 しいてひとつだけあげろと言われれば,「仮面舞踏会」。ヴェルディの「仮面舞踏会」を吹奏楽にアレンジしたもの。華やかな音楽だ。その華やかさがよく出ていたと思う。
 華やかな音楽なんだから華やかな演奏になるのはあたりまえだというほど単純な話ではない。それができなくて,みんな苦労しているのだ。

● しかし,附属中の生徒が演奏した「繚乱」がじつは最も印象に残った。毎回そうなのだが,中学生の演奏に注目してしまうんだな。
 特に,冒頭のフルート。楽譜のとおりに吹いているだけでは,こういう音色にはならない。思いというか解釈を載せている。パーカッションも緻密だ。
 年齢を詐称して高校生の部に登場しても,東関東くらいは狙えるんじゃないかと思った。ま,現実はそんなに甘いものじゃないのかね。

● 東関東といえば,この高校も出場校の常連に名を連ねるだろう。作新高校,石橋高校あたりと鎬を削って行くことになるんだろうか。
 現時点では作新が半馬身ほど先行している。一律的な制限がかかる(たとえば,顧問の教師は数年後には必ず異動になる)県立より,作新の方が練習環境にも恵まれているだろう(たぶん)。が,この中学生の演奏を聴くと,あるいはと思わせるものがある。

● 一方で,小さい声で申しあげるのだが,作新の演奏を聴くと,最も才能に恵まれた集団が他校を圧倒する最も激しい練習を重ねているという印象を受ける。
 時間効果の最大化を狙って練習の仕方を工夫し,それを継続していけるだけの聡明さを,この高校の部員たちは持っていると思うのだけれども,それでも半馬身差を捕えるのは生半なことではない。しかし,それをしないと東関東のその先が見えてこない。

● しかし,とさらに思う。コンクールで金賞を取るとか東関東に出るとか,そんなことよりも,このプロムナードコンサートに注力することの方が,はるかに価値が高く意義があることなのかもしれない。
 人為的に拵えられた鞭入れ機構の中で上位を目指すよりも,ここまで地元あるいは近隣地域に認知されているこのプロムナードコンサートを成功させること。

矢板市文化会館
● というようなことを思ったのは,第3部のミュージカル「塔の上のラプンツェル」を見たからだ。
 この劇で最も美味しい役は,言うまでもなくゴーテル。最初,このゴーテルの演者はヨソ(つまり演劇部)から引っ張ってきたのかと思った。それほど,台詞回しに違和感がない。ゴーテルならこういうふうに喋るだろうという,その喋り方で一貫している。が,演劇部の生徒がここまで歌えるのかとも思ってね。
 合唱部の部長が演じていたんだけども,先ほどの合唱のステージにいた部員の中の誰がこのゴーテルなのか,全然ピンと来ない。でもさ,演じるってのはそういうことなんだよね。

● ラプンツェルを演じた女子生徒もよく健闘。同じ歌でも合唱で歌う歌と,こうした舞台で歌う歌ではだいぶ勝手が違うだろう。途中で息切れしてしまうことは普通にあることで,そうであっても仕方がないと思って,こちらは見ている。
 が,今回のラプンツェルは息切れしなかったとは言わないけれども,ギリギリまで歌を通していた。ここまでできれば充分だ。

● 他に,照明の使い方,ステージ上の導線の作り方など,色々と工夫をしていて,結果,このミュージカルの完成度はかなり高いものになった。聴衆も満足したに違いない。少なくとも,ぼくは満足した。
 吹奏楽や合唱の定期演奏会を開催している高校は県内にも数多いが,これだけの彩りを体現しているのは,ぼくの知る限りではこの高校のこのコンサートだけだ。それゆえ,稀少性がある。すなわち,価値が高い。すべての価値は稀少性に帰するからだ。

2019年5月4日土曜日

2019.05.02 東京五美術大学管弦楽団 創立40周年記念演奏会

小金井 宮地楽器ホール 大ホール

● 東京五美術大学管弦楽団とは,「武蔵野美術大学,多摩美術大学,東京造形大学,女子美術大学・女子美術大学短期大学部,日本大学芸術学部の5つの大学を中心に構成された学生オーケストラ」であるらしい。その存在を知ったのは最近のことだ。
 知ると俄然,興味がわく。というのも,二宮敦人『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』によると,藝大の美術学部(美校)と音楽学部(音校)ではだいぶ気質が違うらしいのだ。たとえば時間感覚。美校はルーズなのに対して音校はパンクチュアリティであるらしい。美校と音校は道路を挟んで向かい合っている2つの大学,と考えた方がしっくりくるとぼくなんぞも思っている。

● では,美大の学生が発する音楽はどういうものなのか。聴いてみたくなるではないか。つまり,そもそもの興味はこのような下世話なものだ。
 しかし,今回の演奏会は現役生ではなくて,OB・OGが演奏するようだ。指揮は諸岡範澄さん。開演は午後5時。チケットは1,000円。当日券で入場。

● 曲目は次のとおり。
 J.シュトラウス 喜歌劇「こうもり」序曲
 シベリウス アンダンテ・フェスティーヴォ
 アンダーソン シンコペイテッド・クロック/タイプライター/ワルツィング・キャット
 諸岡範澄 マーチQ
 ブラームス 大学祝典序曲
 ショスタコーヴィチ 交響曲第10番 ホ短調

● 聴衆も多くが5つの美術大学のOB・OGのようだった。ステージに登場する奏者に客席から手を振る人あり,客席に知り合いを見つけて笑顔を向ける奏者あり。
 終演後は,三々五々飲みに行く人たちがけっこういそうだ。そちこちでプチ同窓会が開かれるのではないか。
 ということで,何となく自分は場違いなところにいるような気になってきた。

● 「こうもり」序曲を聴いて,巧いのに驚いた。弾むところはポンポンと弾み,流れるところは流麗に流れている。もし「こうもり」を見に来たとして,この序曲を聴けば,このあとに展開する本編を想像してワクワクするだろう。
 昔取った杵柄といっても,杵柄を持っているだけではこうはならない。その杵柄を使い続けているのでなければ。卒業後も何らかの形で演奏活動を継続している人たちが集まったのだろうか。

● シベリウスは充分にしっとりしている。ショスタコーヴィチの10番を聴いて,いよいよ驚いた。楽器を操る動作が様になっているという以上にカッコいい。
 小さい頃から楽器もやっていて,でも絵も天才的に巧い,と。でもって,音大にするか美大にするか迷った末に美大に進んだ,という人が相当数いるのかね。

● というわけで,かなり巧いアマオケということになるんだけども,美大ならではの演奏というのは,あたりまえなんだと思うけど,特に感じるところはなかった。
 アンダーソンの演出が美大的ってことじゃないしね。楽譜を精密に読めるというわけでもないだろうし。つーか,美大的って何だよ,オレよ。

● 唯一,不満が残ったのは,当日券の販売だ。サイトでは16時からとあったので,それに合わせて行ったのだが,実際には16時30分からだった。
 30分遅らせた理由がわからない。当日券を手当した後,開演までに1時間あれば,それに合わせた動きを用意できる。30分のロスを強いられると,それが狂う。さらに,その30分を立ったまま待つとなると,その間にできることは限られる。
 こういうことに関して,ぼくはかなり不寛容だ。心が狭くて申しわけないのだが。