2017年10月17日火曜日

2017.10.14 第22回コンセール・マロニエ21 本選

栃木県総合文化センター メインホール

● コンサートにはわりと出かけているけれども,1年で最も楽しみなのがこのコンクールだったりする。普段なかなか聴く機会のない曲を聴けるし。
 特有の緊張感があって,こちらにも真剣に聴く構えができる。もっとも,奏者はこういう場には慣れているんでしょうね。評価されることに慣れている。だから,ガチガチに緊張しているという風はまったく見受けられない。

● 今年はピアノ部門。ピアノってあまり上手じゃない演奏だと,ちょっとでお腹いっぱいになってしまうんだけど,コンセール・マロニエのファイナルに残るような人たちの演奏ならば,間違ってもそんなことはない。
 今回もショパン,シューマン,ベートーヴェンのソナタや,ラヴェルやリストなど,たっぷり聴いて,なお聴き飽きることはなかった。

● トップバッターは香月すみれさん。桐朋の2年生。ショパン「スケルツォ 第4番」とリスト「死の舞踏」を演奏。
 当然といえば当然なのだろうが,ていねいに演奏している。彼女がこれまでピアノに費やしてきた時間と労力,お金,そのために犠牲にしてきたであろう諸々のものたちの大きさ。そういうものを想像すると,気が遠くなる思いがするが,ステージ上の彼女は淡々と気を込めている。

● 梨本卓幹さん。藝大の4年生。今回のファイナリスト6人のうちの唯一の男性。ショパンの「ピアノ・ソナタ第3番」。
 前回から1部門ごとの開催になり(それ以前は2部門ごと),その分,一人あたりの持ち時間が増えたようだ。審査するだけならこれほどの時間は要らないだろうと思うんだけど,長く弾かせないと見えてこないものがあるんだろうか。しかし,こちらとすれば,おかげでソナタ全部の演奏を聴くことができるわけだ。
 少し集中を欠いたところがあったろうか。あるいは客席に集中を妨げるものがあったろうか。
 そんな印象を受けた。彼とすれば,少々不本意な出来だったかもしれない。

● 坂本リサさん。藝大の4年生。福岡県出身。
 ひょっとして福岡顔っていうのがある? 乃木坂46の橋本環奈が福岡県出身だったと思うんだけど,顔の枠(?)から受ける感じが似ている。ま,演奏にはまったく関係のない話なんですが。
 入念に椅子の高さを調節して,演奏したのはシューマン「ピアノ・ソナタ第1番」。
 曲への思いを表情に出して演奏するタイプ。いい悪いの問題はないと思うが,好き嫌いの問題はあって,ぼくはこういうのがあまり好きじゃない,と自分では思っていた。
 が,これが似合う人っていうのはいるね。彼女はそっち側の人。あ,これもいいかも,とか思ったんでした。

● 石川美羽さん。藝大附属高校の3年生。6人のうち,最も若い17歳。演奏したのは,ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第18番」とラヴェルの「ラ・ヴァルス」。
 曲調のまったく違うこの2曲を弾きわける技量の見事さ。いたって伸びやかで,屈託のない演奏だと,ぼくには映った。
 あざとさというものが皆無。スクスクとした,あるいはハキハキとした演奏。素直さが持つ強さとでもいうべきものが,ステージから発散された。

● 内田野乃夏さん。桐朋の2年生。演奏したのは,シューマン「クライスレリアーナ」。
 彼女からも素性の良さを感じた。今日に至るまでにもちろんいろんなことがあったんだろうけど,そうしたいろんなことが,今の彼女に痕跡を残していない。一心にピアノに向かって過ごしてきて,今に至る。そういう印象になる。
 といえば,彼女とすれば反論したいことが山ほどあるに違いない。そうした事柄もすべて呑みこんだような演奏だった。ケレン味や企みなどというものは1パーセントもなし。

● 田母神夕南さん。東京音楽大学大学院に在学。ストラヴィンスキー(アゴスティ編)「火の鳥」より“凶悪な踊り” “子守歌” “フィナーレ”。それと,リスト「ノルマの回想」。
 今回の最年長。それでも23歳ですか。ダイナミックな演奏の迫力には気圧された。こんなの初めて見た。23歳とは思えない存在感。
 ダイナミックって,ややもすると表層に流れるというか,ダイナミックだけが他から浮いてしまうことがある。彼女の演奏にはそういうことがなくて,ダイナミックが地に足をつけている。大変なものだと感じ入った。

栃木県総合文化センター
● 6人のファイナリストのプロフィールを見ると,全員が3~5歳の間にピアノを始めているんですよね。それくらいで始めないと,なかなかここまでは来れないってことなんでしょうね。
 しかも,当然,これから先がある。大変な世界に進んじゃった人たちですよね。

● 奏者と奏者が発する音は切り離して,音だけを聴くべきなのかもしれない。ところが,素人はなかなかそれができない。奏者の動きや表情に引きずられて,その結果としての印象を作ってしまう。
 しかし,聴き方としては正しくなくても,そうして聴く方が楽しい。ぼくは楽しい方を選びたい。

● 今回で理解不能だったのは客席の設定。前4列を着席禁止にした。これはいい。
 が,その後ろの3列を“ご招待者席”として,同じように着席できないようにしていた。コンクールにどうしてこれほどの“ご招待者席”が必要なのかと思った。空席はいくらでもあるんだから,わざわざ“ご招待者席”を作らなくても,と。
 どうも,誰も招待していないのに“ご招待者席”を設けたらしい。結果,最もいい席が誰にも座られない状態で封印されてしまった。

● ただ,このコンクールを聴きに来る人が年々増えていることは間違いない。以前は本当にガラガラだった。客席にはチラホラとしか人がいなかった。
 今でも,空席の方がずっと多いんだけど,それでも観客がいると言っていい状態にまでなっている。今回はピアノを習っているらしい少女たちがまとまった人数で聴きに来ていたようだ。

2017.10.09 丸の内交響楽団 第23回定期演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● 池袋は東京芸術劇場へ。丸の内交響楽団の定演。開演は午後2時。チケットは1,000円(前売りは500円)。当日券で入場。
 曲目は次のとおり。指揮は横山奏さん。奏はカナデと読むが,男性だ。
 フンパーディンク 歌劇「ヘンゼルとグレーテル」序曲
 チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 ニ長調
 ニールセン 交響曲第4番「不滅」

● が,開演前にトラブル発生。ぼくが座っている席に,そこは私の席なのですがというお客さんが来た。たしかに,同じ席番号のチケットを持っていた。
 その人のチケットは“ぴあ”が発行したもの。前売券を買ったのだろう。おそらく,前売券の販売情報が当日券売場に伝わらなかったのだろう。伝わっていたのに当日券売場で取り違えが起きたのかもしれないが。
 こちらが先客だったこともあって,その人がスタッフに掛け合いに行った。スタッフの女性が来て,ぼくのチケットを持っていった。
 もちろん,そのまま聴けることにはなったんだけれども,はなはだ後味がよろしくない。

● そもそもが,これ指定席にしなければいけないものなのか。自由席でも問題はないような気がするんだが。料金は一律なんだからね。SだのAだのっていう区分はないんだから。
 おそらくだけれども,指定席にすることがこのホールの利用条件になっているんだろうね。自由席にするんじゃお貸しできませんよ,ってことになっているのではないかと想像する。
 自由席にするとなにか混乱が起きるのかねぇ。案内するのが大変だってことだろうか。

● あと,隣に座った男性がちょっと変わった人で,一切,拍手をしない。それが気になって仕方なかった。拍手するしないは各人の自由といえば自由で,その自由を行使しているだけと言われれば,それ以上に返す言葉はない。
 が,アンタにできることって拍手をすることだけだよ,と言ってやりたくもあり,どうにもこうにも聴くことに集中できなくて。

● しかも,席がだいぶ後方のしかも右端に近いところ。件の男性氏が右端の壁際で,ぼくはその隣。この席だとさすがに,直接音しか届かないのかもしれなかった。
 チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」のソリストは平山慎一郎さんで,どうやら相当な熱演のようなのだが,ぼくのところに届いてくる音はその何分の一に過ぎないようなのだ。さすがの東京芸術劇場でも死角はできてしまうということか。

● もうひとつあった。ぼくの前の席も男性で,なんだか座高の高い人だったのだ。彼の頭で視界も遮られてしまう。これもストレスになる。重なるときには重なるものだなぁ。
 ま,ぼくも同じ理由で人様にストレスを発生させているのかもしれないんだけどね。

● 休憩後,右隣の男性は消えていた。で,彼の席に移動して,ニールセンの4番を聴いた。ら,音の通りがまるで違う。聴こえてくる。ステージの臨場感も伝わってくる。
 こんなことがあるのか。ホールの構造,造作からはこういうことが起こるとは考えにくい。
 座高氏の遮りがなくなって視界も開けたのが効いているんだろうか。つまり,こちら側の心理に依拠するんだろうか。ひょっとすると,座高氏が音を吸い取ってしまっていたのか。
 いや,戯れ言はともかく,こういうことがあるんだねぇ。寸でのところでこのホールに誤った印象を持ってしまうところだった。

東京芸術劇場
● そのスッキリした状態で「不滅」を聴くことができた。生では聴いたことがなかった曲。いや,CDでも聴いたことはなかったな。
 2番「四つの気質」は2012年に当時のマイクロソフト管弦楽団の演奏で聴いたことがあるんだけど,結局それがニールセンの交響曲を聴いた唯一の経験になってしまっている。

● ニールセンがこの曲に「不滅」と題を付けたことの時代背景は,プログラム冊子の曲目解説にある。が,このタイトル,要らないような気もするんだが。
 いや,このタイトルがニールセンの曲想の元にあるもので,発火点になっているのかもしれないんだけど。

● 演奏にはいささかの不満もなし。これほど巧いアマチュアオーケストラが東京にはいくつあることか。いつも思うことを今回も思った。圧倒的な東京一極集中。
 この席でチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をあらためて聴き直してみたいと思った。それだけが後ろ髪を引かれる思い。

2017.10.08 カメラータ・ムジカーレ 第56回演奏会-バロックの午後

東京オペラシティ 近江楽堂

● オペラシティは新宿駅から京王線でひと駅,初台が最寄駅になる。が,新宿から歩いてみることにした。甲州街道を東に。さほどの距離ではないしね。
 新宿はあまりに人が多くて,その人圧に気圧されて,ぼくはどうも新宿を苦手にしている。新宿を歩いたことはあまりない。
 だからこういう機会に歩いてみたい。というよりも,新宿駅で乗り換えるのが億劫だったんですよねぇ。それくらいだったら歩いてしまえ,というわけだったんでした。この駅を自在に動ける人ってすごいと思うんですよ。

● オペラシティに来るのは今回が初めて。夏場は,ぼくはTシャツ+短パン+素足にサンダルというイデタチでそちこちに出没しているんだけど,その恰好でここに来るのは,少し憚られる雰囲気。お洒落をして出かけるハレの場になっているらしい。
 新国立劇場と併せてひとつのエリアになっているから,オペラやバレエ,演劇,管弦楽曲のコンサートなど,この国で鑑賞できる最高レベルのものがたくさん催行されるのだろう。

新国立劇場側から
● そういうところへ,Tシャツ+短パン+素足にサンダルで現れてしまっては,顰蹙を買うでしょ。つまり,夏にぼくが来てはいけないところ。いや,それ以外の季節でもぼくが来てはいけないかもね。
 っていうか,来ませんよ,こういうところ。雰囲気を壊してはいけないってことくらい,いくらぼくでもわかってるんでね。

● この演奏会が行われた近江楽堂にいた人たちも,ちゃんとした恰好だった。ぼくの隣に座ったのは着物を着たご婦人。
 着飾って行ける場所っていうのが,どんどん減ってきてるのかもしれませんね。着物を買ったはいいけど,着ていく場所がないっていう。ホテルだってカジュアル化がどんどん進んでいる。サントリーホールだって,さほどに敷居の高い場所ではなくなっている。行ったことはないけど,歌舞伎座も同じではないか。
 着飾って行けるところは貴重なのかもしれない。だとすれば,そこは大事にしてあげないとねぇ。

● ところで,カメラータ・ムジカーレ。今回が56回目の演奏会になるというから,長く活動を続けているわけだけれども,ぼくは今回初めて聴く機会を得た。開演は午後2時。チケットは1,000円。
 曲目は次のとおり。
 サンマルティーニ リコーダー協奏曲 ヘ長調
 ラモー コンセール第5番
 テレマン 組曲第2番 ロ短調
 ヴィヴァルディ 室内協奏曲 ハ長調
 ルクレール ソナタ第5番 ホ短調
 テレマン 「食卓の音楽」より四重奏曲 ト長調

● 以上は,プログラム冊子から引き写したわけで,すべて初めて聴く曲だ。CDでも聴いたことがない。っていうか,CDは持っていない。
 バロックといえばバッハしか知らないレベルだ。バッハだけ知ってればいいとも思っていた。うぅぅむ,どうなのだ,これは。
 幸いにして,こうした楽曲もYouTubeにはアップされているようだ。聴こうと思えば聴けるのだ。しかも,タダで。ありがたい時代に生きているのだから,この恵みを活かさねばとも思うんだけど。バロック,本腰を入れて聴かないといけないかなぁ。「聴かないといけない」と思って聴くものじゃないけど。

● メンバーは男ばかりの7人組。平均年齢はけっこうなもので,ぼくより上かもしれない。つまり,“いなくてもいいよね世代”。
 しかし,つむぎだす音色はかなり繊細なのだった。楽器も今のじゃなくて,当時のもの(古楽器)を使用している。
 演奏で食べているわけではないという意味でアマチュアなんだけども,長年,探求と練習を重ねてきている。自負するところもあるだろう。

● 聴衆の拍手もかなり熱っぽかった。固定ファンがいるようだった。母体は慶応バロックアンサンブルらしいから,慶応つながりだろうか。たぶん,そうではないと思うんだけど。

2017年10月16日月曜日

2017.10.07 レイディエート・フィルハーモニック・オーケストラ 第27回定期演奏会

大田区民ホール アプリコ 大ホール

● 最近(といっても,だいぶ前から),コンサートに出かけてもフワッと聴いてしまっているような気がする。一期一会というとさすがに大げさになるけれども,この一回という真剣さが目減りしている。
 開演前の緊張感を聴衆のひとりとして共有しなければいけないのだけど,その構えにも欠けるところが出ているように思う。

● 馴れてしまったということか。そういう態度でしか聴けないのであれば,奏者に対して失礼だから,聴きに出かけてはいけないとも思うのだが。
 聴き巧者になる必要は必ずしもないと思っている。ただし,真剣な聴き手である必要はある。これがないと自分の人生もないと思えるくらいの場に仕立てることができればいいのだが。

● さて,レイディエート・フィルハーモニック・オーケストラの定演。拝聴するのはこれが2回目。前回聴いたのは,2014年の第21回
 開演は午後2時。チケットは1,000円。

● ホールに入ってみると,ステージには何も置かれていない。オーケストラはといえば,ピットに入るようだ。ということは,ステージではバレエダンサーが華麗に踊りを繰り広げるのだろう。
 おいおい,1,000円でこんな贅沢をさせてもらっていいのかい?

● ということにはならず,ステージ上には奏者が座る椅子が並べられていた。コントラバスもスタンばっていた。バレエなしの,あくまで音楽を演奏するのだった。そりゃそうだよね。
 曲目はグラズノフ「バレエの情景」とプロコフィエフ「シンデレラ(組曲版)」。指揮は小倉啓介さん。

● 演奏の前にプレトークがあった。話者は団長の山崎慎一さん(クラリネット)とチェロの山野雄大さん。山野さんの本業は音楽ライターだそうだ。っていうか,そちこちで健筆を振るっている人ですよねぇ。そりゃあ,蘊蓄を蓄えているはずだ。そういう人がここでチェロを弾いていたのか。
 曲とその背景を解説したんだと思う。だけど,ぼくが憶えているのは,シンデレラのストーリーにとらわれず,自分が振付師になったつもりで,自分ならこの音楽にどういう踊りを振り付けるか,そこを想像しながら聴いてみれくれ,というところだけ。
 が,それはなかなかに高度な技だね。音楽からリズムとストーリーを紡ぎだして,それをダンスに置き換える。かなり高度な技だな。

● どちらも初めて聴く。「バレエの情景」はCDも持っていない。「シンデレラ」も演奏されたのは組曲版だったんだけど,組曲版のCDはやはり持ってない。
 チャイコフスキーやストラヴィンスキーのような例外はあるにしても,バレエ音楽って,音楽だけ聴いてもさほど面白いものではないという先入観があった。
 踊るための音楽だから,リズム重視で,他はないがしろにされている,という理由による。が,ぼくが思っている以上に例外が多いのかもしれない。

● 「バレエの情景」のうち,第4曲「スケルツィーノ」は演奏されず。山野さんによれば“大人の事情”による。つまり,難解で本番までに形にするには時間が足りなかったということのようだ。
 「シンデレラ」は曲目解説によれば「深い叙情と透明感」とあるんだけど,“金管の咆哮”的な場面も登場する。あぁ,やっぱりロシアなんだなぁとは思うんだけど,それ以上にはなかなかいかないね。
 これにどんな踊りを合わせるか,まったく見当もつかないや。いや,それ以前に踊りについて知らないものね。

● バレエ音楽では,オケはピットにいて,舞台ではダンサーが華やかに踊っているっていうのがいいね。その方が受け身の気楽さを享受できるというわけですよね。
 それを生で観るというのは,とんでもない贅沢ではあるんだけどね。

● ところで,指揮者の小倉啓介さん。彼もまたユニークというか破天荒というか,面白い人なんですね。彼が半生を語っているインタビュー記事がネットにあるんだけど,これが無性に面白い。
 藝大付属高校を卒業したのに藝大に落ちた話。部外者はアッハッハと笑えるんだけど,本人は複雑だったろうねぇ。

● ここに書かれているところがその通りなのだとすれば,藝大の教授陣にもケツの穴が小さすぎる男たちがいて,そういう男たちが若者の生殺与奪の権を握っていたってことだよね。つまらん大学だね,藝大って,という印象になってしまう。
 小説かドラマになりそうな話ですよ。ま,今だったら同じことをやってもセーフだったかもしれない。時代が小倉さんに追いついてきたってことでしょうかね。

2017年10月10日火曜日

2017.10.01 グローリア アンサンブル&クワイヤー 第25回演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を買って入場。

● 今回の演目は「レクイエム」の2本立て。モーツァルトとフォーレ。指揮は片岡真理さん。ソリスト陣は藤崎美苗(ソプラノ),布施奈緒子(アルト),中嶋克彦(テノール),耒徹(バリトン)の諸氏。

● こうしたキリスト教音楽を聴いて味わうには,キリスト教が身に染みていなければいけないのではないかと思っていた。
 身に染みているというのは,キリスト教の教え(戒律?)が生活律になっているというか。そうなっていて初めて,こうした音楽を肌で味わえるのではないか,と。

● となると,ぼくらの大多数はその条件を満たしていない。キリスト教を理解するといっても,頭で理解するしかない。
 せめて聖書くらいは読んでいなければいけないのではないか。そうして,自分なりのキリスト教理解を前提にしてこそ,こうした音楽が味わえるのではないかと考えていた。

● のだが,それはかなり初歩的な間違いだったらしい。今回はそのことを感じた。
 小さな自分を超えるはるかに大きな存在。それに帰依する,すがる,任せる,“南無”する。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと覚悟を決める。
 その帰依する先はイエスでもキリスト教の神でも,それ以外でも,そこから敬虔と呼ばれる人間の心性は生じるだろう。

● 西洋の宗教音楽はそうした敬虔さを表現するものであって,神のイメージを音楽に翻訳しようと努めた結果ではないと解してよろしいか。
 であるとすれば,何らの翻訳装置なしに,ぼくら日本人にもストレートに染みてくるものであると解してよろしいか。
 音楽の普遍性というのは,こういうところでこそ,それが真であることを証明するものであろうか。

栃木県総合文化センター
● モーツァルトの「レクイエム ニ短調」は,モーツァルトが完成させた部分はごくわずか。あとは弟子のジュースマイヤーが補筆して完成させた。
 それでも三大レクイエムのひとつとされて,今日に至っているのは,ジュースマイヤーの功績なのか,モーツァルトが一部とはいえ示したベクトルの向きが然らしめるところなのか。

● フォーレは,よく言われることだけれど,レクイエム人気投票があれば,ダントツの第1位になるのじゃないかと思う。
 ひとつには小体であること。スマートでクールな印象がある。さらに,なめらかで美しい。ヴィーナスの彫像のようだ。

● 合唱団の中にとんでもなく上手い人が数人いる。ぼくの耳でそれとわかるのは,ソプラノ,アルト,テノール。たぶん,バスの中にもいるに違いない。
 ソリスト陣については言うにや及ぶ。まずもって文句はない。

● 合唱団と管弦楽。大がかりな装置が必要な楽曲を,地元で,しかも2千円で聴けるとはありがたい。
 来年はグノー「聖チェチーリアミサ」とヴェルディ「聖歌四篇」。どちらもCDすら持っていない。持っていても聴かないだろう。つまり,グローリアの演奏会がないと聴かないで終わる。
 かつまた,この演奏会で聴くことが,“CDでも聴く”につながるかもしれない。グローリア,貴重な存在だ。

2017年9月30日土曜日

2017.09.24 那須フィルハーモニー管弦楽団 名曲コンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは500円。当日券を購入。
 じつに安い料金でありがたい。が,わが家の最寄駅から西那須野駅までは片道580円になる。そこからホールまでバスに乗ると200円。チケット代の何倍かの交通費がかかる。

● というセコい話を始めたので,つまらない話を続けることにする。わが家からハーモニーホールに行くのに一番便利な手段は車だ。時間帯を問わず渋滞はない。スムーズに着ける。時間も最短ですむ。
 が,ぼくはあまり車の運転が好きじゃないんだろうと思う。毎日,往復で60㎞を通勤のために走っているだけで,休日にまで運転をしたいとは思わなくなる。

● というわけで,電車で出かけることになるんだけど,電車の良さっていうのは他にもある。車内で何でもできるってことだ。自分で運転していると,せいぜいラジオかCDを聴くことくらいしかできないけれども,電車なら居眠りできる。
 本を読んでもいいし,音楽を聴いてもいいし,何もしないでピープルウォッチングをしてもいいし,妄想の世界に遊んでもいいし,ビールを飲むことだってできる。もちろん,その他大勢の一員になって,スマホをいじっていてもいい。とにかくやれることが多い。自由度が高い。
 なので,どこかに行くためではなくて,電車に乗るために切符を買うことが,じつはわりとある。

● 西那須野駅からハーモニーホールまでは歩くことが多い。片道30分。天気が良ければ,まずバスに乗ることはない。
 バス代を節約するとか,健康にいいからとか,そういうことではなくて,ウォークマンのイヤホンを耳に突っこんで歩くのが,そのまま音楽を聴く時間になるからだ。
 歩いているときが,唯一,音楽を聴ける時間だ。家では聴かないんだから。

● 往復で1時間歩くんだから,ブルックナーだろうがマーラーだろうが,聴こうと思えば聴ける。歩きながら聴くのに,ブルックナーやマーラーが相応しいかどうかは別にして。
 さらにいうと,歩きながら聴くのは聴いたことになるんだろうか,という疑問もある。歩きながらじゃ,聴くことに集中するってできないからね。

● そんなことは家でもできるじゃないかと言われるかもしれないけれど,家で本を読んだり音楽を聴くのって,できない。ぼくはできない。
 家には同居人がいるからってのもあるかもしれない。けど,同居人が不在のときでも,家で本を開いたりCDをかけたりする気にはならない。どういうわけのものかわからないんだけど,“家にいる=何もしない”が成立してしまう。
 ちなみに,家の付近を散歩するという習慣はない。

● ぼくはこうして生演奏にはしばしば出かけるんだけど,それ以外に音楽を聴くための時間を取ることをしていない。これで音楽好きといえるんだろうかと,自分でも時々思う。聴く範囲が広がらないし,理解も深まらない。忸怩たる思いはある。
 生活スタイルの抜本的見直し(?)が必要かなぁ。そのための資材も揃えてみるか。といって,モノが増えるのを極端に嫌がる自分。ミニコンポすら持ちたくない。

● というわけなので,電車賃は自由を得るための代償。チケット代の何倍になろうと,これは致し方がない。できれば,電車賃が安くなってくれるとありがたいんだけど。

● 曲目は次のとおり。指揮は田中祐子さん。
 ドヴォルザーク スラブ舞曲第1集より第1番 ハ長調
 ヨハン・シュトラウス 雷鳴と電光
 プッチーニ オペラ「ラ・ボエーム」より“ムゼッタのワルツ”
 ヨハン・シュトラウス オペレッタ「こうもり」より“公爵様,あなたのようなお方は”
 ブラームス ハンガリー舞曲第6番 ニ長調
 ボロディン ダッタン人の踊り
 ストラヴィンスキー バレエ組曲「火の鳥」

● 曲間に田中さんのサービス精神に満ちたMCが入る。当意即妙。身についているところがすごい。これは指揮者だからできるもの。
 こういうのは,もうやめちゃうのと思われるところでやめておくのが吉。やりすぎると一転してうるさいだけのものになってしまうのだが,その辺も心得たもの。

● “ムゼッタのワルツ”と“公爵様,あなたのようなお方は”では,ソプラノの長島由佳さんが登場。
 また,どうでもいい話。公爵様というのは,公爵なのか侯爵なのか。日本の爵位は明治期に,“公爵-侯爵-伯爵-子爵-男爵”と定められた。が,この爵位ってどの程度世の中に通用したんだろ。最初から最後まで認知度は低いままだったのではないか。
 で,爵位は欧州にもあるけれども,日本の5位制にピタリとはまってくれるわけではないもんね。公でも侯でも,そんなのはどっちでもよい。早い話が,公爵と侯爵の違いを説明できる日本人なんて,専門家を覗くとほとんどいないでしょうしね。

● 白眉は,ストラヴィンスキーの「火の鳥」。那須フィルには挑戦だったと思う。挑戦してこれだけの結果を出せれば,大したものだ。
 挑戦する場を持っているって,それだけでも凄いことだよね。ぼくなんか,こんなふうにコンサートを聴いた感想を書いたりしてるんだけど,聴く側より演奏する側の方が,位が上。蘊蓄の差も大きいはずだ。
 演奏する人って,ひょっとすると,聴衆よりも他の奏者に向けて,弾いているのかもしれないな。演奏をきちんと評価できるのは,自らも奏者である人に限られるような気がするよ。

● ともかく,「火の鳥」は良かったと思う。バレエでも,体の柔らかい人が足をあげる動作より,固い人が努力して上がった足のほうが美しいという。
 プロの楽々とした演奏より,努力した結果の演奏の方が,たとえ到達点は低くても,客席に届くものは大きいことがある。

● 「火の鳥」を聴くたびに思うのは,これにどういうダンスを振り付けたんだろうってこと。バレエ曲なんですよねぇ。
 「火の鳥」を取りあげるバレエ団が今どきあるのかどうか知らないけれど,DVDを探せばあるんだろうか。
 と思っていたら,ちゃんとあるんですね。YouTubeで,ゲルギエフ指揮のマリンスキー劇場管弦楽団の演奏で踊っている「火の鳥」を見ることができるんでした。
 なるほど,ちゃんと踊れるんだ。バレエといえば「白鳥の湖」しか知らない人間が,あれこれ想像しても仕方がないということですなぁ。

● 初めて那須フィルの演奏を聴いたのは2010年だったか。当時の那須フィルと今の那須フィルを比べてみれば,だいぶ腕が上がっているのは間違いないように思える。
 それが田中さんの手腕によるものか,前任者の大井剛史さんが仕込んだ酒麹がちょうど発酵の時期を迎えたものなのか,そこはわからない。

2017年9月26日火曜日

2017.09.23 栃木県交響楽団特別演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 16時から栃木県交響楽団の特別演奏会。前年度のコンセール・マロニエの優勝者をソリストに迎えて,毎年,行っているもの。今回のソリストは,メゾ・ソプラノの山下裕賀さん。
 チケットは1,000円。当日券を購入。

● 栃響の演奏を聴くのは久しぶりの感じ。今年の2月に第102回定演を聴いている。それ以来。
 第103回を聴いていないんだな。それゆえの久しぶり感。

● 曲目は次のとおり。指揮は荻町修さん。
 ビゼー 歌劇「カルメン」より “前奏曲” “ハバネラ” “セギディーリャ” “間奏曲” “シャンソン・ボエーム” “アラゴネーズ
 ドニゼッティ 歌劇「ラ・ファヴォリータ」より“ああ,私のフェルナンド”
 ドヴォルザーク 交響曲第8番 ト長調

● さて,山下裕賀さん。昨年のコンセール・マロニエ本選も聴いている。彼女の優勝は,おそらく審査員の全員一致によるものだったろう。
 異能の持ち主だなぁ。楚々とした華やかさがあり,雄々しくもあり。すでにして大物感もある。
 自分が逆立ちしてもできっこないことを,軽々とやってのける人を見るのは,気持ちがいい。けれども,この分野でも,毎年,新しい才能が登場する。大変な世界なんでしょうねぇ。

● 山下さんのアンコールは,武満徹「小さな空」。この曲はもともと無伴奏なんですかね。生で聴くのは初めて。

● 栃響のポテンシャルにも注目。2012年の「第九」を聴いて,栃響への認識を改めたつもりなんだけど,まだ足りなかったかもしれない。
 ドヴォルザークの8番になって,いよいよそれを感じることになった。栃響の核は木管陣にあるのかも(いずれのパートもエースは女子)。
 この曲は木管が前面に出ることが多い曲のひとつだと思うんだけども,そういう曲で栃響は本領を発揮する。

● いや,この言い方だと木管以外はダメっていうふうに聞こえてしまう。そうではない。
 たいていのオーケストラは,木管が隘路になることが多いのではないかと思っている。ここがよく通れば,音の流れはスムーズで,詰まったり溢れたりしない。
 栃響はここで詰まることがないから,今日のような曲だと,木管,すごいじゃないか,って印象になるんだな。

● アンコールの「アルルの女」第2組曲“メヌエット”もぬかりはなかった。ほとんどフルートの独壇場。そのフルートがこれだけすごいんだからね。

● 今日のような演奏を聴けると,栃響が地元にあることの恩恵は大きいなぁと実感する。栃響が月に1回の演奏会を開いてくれれば,東京に出かける必要もなくなるだろうな。
 まさかそんなアマチュアオーケストラがあるわけもないから,年に何度かの東京行きが続くことになる。できれば栃木に沈潜したいんだが。

2017.09.16 川井郁子ヴァイオリンコンサート(ゲスト 秋川雅史)

芳賀町民会館ホール

● 開演は16時。チケットは3,000円。当日券は200円増しの3,200円。その当日券を購入。全席指定。できれば前の席で聴きたかったけど,さすがに半ばより前の席は残っていなかった。
 もっとも,このホールは小ぶりだから,いわゆる悪い席はないと思う。音響も問題なし。人口が1万5千人の町がこれだけのホールを持っているのは,大げさにいえばちょっとした驚きだ。HONDA様のお陰でしょうなぁ。

● 旧岩舟町にはコスモスホールがあるけど,岩舟の場合は,コスモスホールのみの一点豪華主義。芳賀町は図書館やら他の施設も立派。HONDAの外部効果はすごいよ。もしHONDAがこけてしまうと,っていう心配を今からしても仕方がない。そのときはそのとき。
 当然,HONDAは内部と周辺に雇用を作りだしている。こういう場合,内部よりも周辺にいて,HONDAの恩恵を享受する方向で動くのが賢いだろうな。ぼくならそうするね。つまり,HONDAの社員にはならない(なれないだろうけど)。

● 川井さんの実演に接するのは初めて。スタートはピアソラの「リベルタンゴ」。川井さんを象徴するレパートリーなのだろう。
 この曲はいくつかの楽器で聴いているけれど,こんな妖艶な「リベルタンゴ」は初めてだ。身体の線がハッキリ出るドレスを着ていたのは,当然,意識してのことだろう。

● 日本の代表的なヴァイオリニストであり,作曲家であり,大阪芸術大学教授であり,女優でもある。というのを知ったのはあとのことで,この時点ではそうした無粋な知識は幸いにも持ちあわせていない。
 普通のいわゆるクラシックとは違うステージを目指しているのだろうと思った。淡々と演奏するのではなくて,衣装や照明を効果的に使って,演劇的な要素を高める努力をしているように見えた。
 ジプシー的なもの,スペイン的なもの(と日本で受け取られているもの。たとえば,フラメンコ)を取り込んで,「劇」的なステージにする。その努力をずっとしてきた人なのかなと思えた。

● その結果,どうなるのかといえば,ステージが大人向けのショーになる。大人の上質なお楽しみ会という感じ。
 子供がいてはいけないというわけではないけれども,子供には少しおどろおどろしいものに映るかもしれない。

● で,川井さんはぼくが想像できる世界に住んでいる人ではないなという印象を持つことになる。いわゆる芸能界よりの世界っていいますかね。
 が,この印象は最初の「リベルタンゴ」のときが最高潮で,だんだん彼女が普通に見えてきた。こちら側の慣れの問題なのでしょうね。

● このあと,ビジョルドの「エル・チョクロ」。これもアルゼンチン・タンゴ。エル・チョクロとはトウモロコシという意味らしい。
 次はイタリア音楽メドレー。ソフィア・ローレンが主演した「ひまわり」のテーマも演奏された。この映画は,はるかな昔,大学生だったときに,当時の名画座で見ている。当時の自分にこの映画の機微をどこまで理解できたかは覚束ない。でも,印象は今に至るも強烈で,テーマ音楽も映像と相まって,一度聴けば忘れることはない。

● 川井さんのヴァイオリンを聴きながら,甘酸っぱい感傷が溢れてきた。自分は何者にもなりうると思えた若い頃。同時に,自分のダメさ加減に押しつぶされそうになっていた若い頃。
 あの頃には絶対に戻りたくないけれど,こうして「あの頃」が感傷を誘ってくる。これも音楽効果なのでしょう。

● 川井さんが作曲した「パッション・イン・ブルー」。チャイコフスキーの原曲に川井さんがアレンジを加えた「ホワイト・レジェンド」。これも川井さんが作った「時の彼方に」。ロシア民謡の「黒い瞳」。最後がモンティの「チャルダッシュ」。
 曲の合間に川井さんのMCが入る。こういうふうに進んで,前半のプログラムは終了した。

● 後半はエルガー「愛のあいさつ」から。このあと,秋川雅史さんが登場。次の4曲を川井さんの伴奏で。
 サミー・フェイン 慕情
 新井満 千の風になって
 カッチーニ アヴェ・マリア
 ロルフ・ラヴランド You Raise Me Up

● 曲のジャンルなんかどうでもいいですな。ほんと,どうでもいいわ。
 この中で,テレビで聴いた,CDで聴いたというのは,「千の風になって」と「アヴェ・マリア」だけ。歌詞の意味がわかればもっと楽しめるのかもしれないけれども,なんかそれも大したことじゃないような気がする。
 秋川さんの歌唱には問答無用の説得力があった。

芳賀町民会館
● 亡くなった人が「千の風になって」,空を吹き渡っていてくれるのなら,残された人はどれほど救われるだろう。
 死んだ後,人はどうなるのか。天国や地獄があるのか。生まれ変わりはあるのか。そんなことは,つまるところ誰にもわからない。わからないから,生きている人はあれこれと死後の世界とシステムに思いを巡らす。
 死とは無に帰すものであってほしい。天国だの地獄だので自意識を持って存在しなければならないのは,勘弁してほしい。生まれ変わらなければいけないなんて,なおさら勘弁してほしい。人生は一度で充分だ。

● でも,死んだ後,「千の風になって」空を吹き渡っていられるなら,それは悪くないかもしれない。身体もなく心もなく,ただ風になる。
 新井満さんの詩に描かれている風とは違うのだと思うんだけど,自分が風だと思うこともなく,ただ風になっている。それならいい。

● 秋川さん,はっきり陽性の人。川井さんもそうだろうと思う。音楽家って,陽性で運動神経が良くて,活発に動いて,周囲に無頓着で,細かい計算をしないで,っていう人が多い。
 いや,具体的に音楽家の知り合いがいるわけじゃないんで,想像だけで言ってるんだけど,そういうイメージがある。特に陽性であることは,音楽家であるための必須の要件ではないかと思えるんだよね。

● アンコールは「浜辺の歌」(作詩:林古渓 作曲:成田為三)。
 この演奏を3千円で聴けたとは,お得でしたよ。ぼくは細かい計算をしちゃう方なんで,そう思っちゃう。

2017年9月25日月曜日

2017.09.10 アズール弦楽合奏団 第8回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 小ホール

● ひっさびさのダブルヘッダー。2回目のが上書き保存されるから,1回目の印象が消去されてしまう。
 ので,ダブルヘッダーは避けた方がいいと思いながら,ときどきやってしまうんだよね。
せっかく電車賃をかけて行くんだからっていう,ケチ根性がなせる業ですなぁ。

● アズール弦楽合奏団。開演は午後5時。入場無料。
 すみだトリフォニーの小ホールで聴くのは,今回が初めて。さすがはすみだトリフォニー。小ホールも風格のある空間だった。

● プログラム冊子によれば,アズール弦楽合奏団は「大人になってから弦楽器を始めたメンバーだけの合奏団」であるらしい。いわゆる「レイトスターター」の合奏団。
 率いるのは柏木真樹さん。この柏木さんがユニークというか,変わった人というか,「成長期までに始めないと上達しない,楽しめない」という「常識」に抗って,「ヴァイオリンを弾くための身体の作り方・使い方」を考究してきたらしい。何だか素敵な人のようなのだ。

● 曲目は次のとおり。
 アルビノーニ オーボエ協奏曲
 ヘンデル ヴァイオリンソナタ ニ長調
 テレマン ヴィオラ協奏曲
 バッハ 管弦楽組曲第3番より「Air」
 C.P.E.バッハ   シンフォニア第2番 変ロ長調
 ハイドン 弦楽四重奏曲「皇帝」第2楽章より主題
 アンゲラー おもちゃの交響曲

● 合間に柏木さんのトークというかレクチャーが入る。というか,トークの合間に演奏が入る。
 それがまた面白いというかタメになるというか。柏木さん,話し好きなんでしょうね。話したくてしょうがないっていうか。伝えたいことがたくさんあってもどかしいといった感じ。

● トークの中身はプログラム冊子に掲載されている。プログラム冊子の文書も饒舌で,しかも面白いのだ。いくつか転載してみよう。
 (バロックの)時代としての音楽の共通点はあります。それは「音楽に何を求めたか」ということです。(中略)簡単に言うと,「音楽が音以外の何かを示すことができた(言葉としての機能を持った)時代が終わり,音の心地よさだけが求められるようになった」ということなのです。
 17世紀のイタリアバロックでは,楽譜に書かれていなくても習慣として装飾をつけたり変奏にすることは珍しくありませんでした。17世紀の楽譜には,装飾音符がほとんど書かれていませんが,実際に演奏する時には「派手に」装飾を施すことが普通に行われていました。それが,18世紀になると,「楽譜に書かれていない装飾をつけない」「楽譜に書かれていることを勝手に変奏しない」という演奏習慣が広がっていきます。
 (バッハがメンデルスゾーンに再評価されるまで埋もれていたのは)18世紀までは音楽は基本的に「地産地消」のものだったのがその理由のひとつです。ハイドンやモーツァルトですら,再評価が始まったのは19世紀中盤以降なのです。(中略)音源が楽譜を正確に残せるようになった現代でも,最も人気があるのは現在の音楽です。脈々と受け継がれていく民族的な音楽以外,丼楽とは本来そのようなものだったのです。
 エマニュエルは現在ではあまり演奏されない「過去の人」になってしまいましたが,直後の作曲家に与えた影響は非常に大きく,ハイドン,モーツァルト,ベートーヴェンなどもエマニュエルの作曲形式と技法を学びました。まさに,古典派の音楽を先導した立役者なのです。
 というような叙述が散りばめられている。無料の演奏会で,こんな冊子をもらえるんだから,それだけでもかなりお得。

● アルビノーニの「オーボエ協奏曲」。オーボエ独奏は小林彩子さん。端正な演奏。
 ヘンデルの「ヴァイオリンソナタ」は,柏木さんが楽器を変えて二度演奏した。バロック風とロココ風の違いを味わってほしいということだったんだけど,正直,ぼくにはその違いがピンと来なかったんですよね。聴き手としてあまりにお粗末?

● テレマンの「ヴィオラ協奏曲」。ヴィオラはこれも柏木さんが担当。とんでもなく多くの曲を書いた人だってことはぼくも知っていたけれど,なかなか聴く機会はないね。自ら分け入っていかないといけないでしょうね。
 バッハの管弦楽組曲第3番より「Air」。「G線上のアリア」として有名。ニ長調からハ長調に移調するとG線のみで演奏できるっていうやつ。が,柏木さんによると,そうしてしまったのでは,旋律の美しさはともかく,こぼれ落ちるものが多すぎるということ。

● 「おもちゃの交響曲」はレオポルド・モーツァルト作とされていた。が,近年,アンゲラーの作と確定されたようだ。
 小林さんも水笛で参加。この曲を聴いて面白いと思えるかどうか。それが,クラシック音楽との親和性が自分にあるかどうかの試金石になるかもしれない。ならないか。

2017年9月12日火曜日

2017.09.10 グローバル・フィルハーモニック・オーケストラ 第58回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 東京に演奏会を聴きに行くのは,久しぶりな感じがする。と思ったんだけど,7月に聴いてたんでした。さほどに久しぶりでもないのか。
 東京は大好きな街だ。おかげでニューヨークにもロンドンにもパリにもシンガポールにも,あまり行ってみたいとは思わなくなった。東京に住んでいる人の中には,田舎に引っ越したいと思っている人も少なくない数,いるのかもしれないけれど。

● 田舎に住んで,たまに東京に出る。その東京体験はけっこう贅沢なものになる。
 といって,東京に住むのはどうもね,とは思っていない。住む機会があれば住んでみたいものだ。
 が,東京で働きたいとは思わないね。それだけはイヤだ。何がいやかといえば,通勤時の電車だ。あれに毎日乗ることの消耗を考えたらね。東京で働いている人たちは偉いと思う。

● 8日から今日まで,上野の藝大の大学祭(藝祭)が開催中。今まで二度ほど行ったことがある。もっぱら音楽の方なんだけど,さすがは藝大で,藝大版ジュルネといいたいほどにメニューが豊富だ。
 けど,整理券が必要だったり,抽選で入場できるかどうかが決まったり,手続きが面倒になった。それだけ人気があるということ。
 ただね,それが面倒なのと,ロートルが紛れこんでは申しわけないと思うのとで,しばらく行っていない。今年も結局,見送ることにした。

● で,東京は錦糸町,すみだトリフォニーホールに参りましたよ,と。グローバル・フィルハーモニック・オーケストラの定期演奏会。ぼくは初めて拝聴する。
 毎度の感想だけれども,東京のアマチュアオーケストラの層の厚さを痛感する。これ,ただものじゃない。田舎に住んでいると,ホントそう思う。
 人口も大学も経済も文化も東京に集中しているからだと頭ではわかるんだけど,その頭を越えて圧倒される思いがする。

● 開演は午後1時半。チケットは2千円。当日券を購入。
 曲目は次のとおり。指揮は三石精一さん。
 R.シュトラウス 交響詩「ドン・ファン」
 R.シュトラウス 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
 サン=サーンス 交響曲第3番「オルガン付き」

● シュトラウスの2曲は木管が活躍する。オーボエ,フルート,クラリネット,ファゴット。それぞれ凄いんですわ。
 弦もそうなんだけど,音大出が相当いるんでしょうね。あるいは音大ではなくても,○○大学の△△学部ではなくて○○大学管弦楽団の卒業生だ,というような人。

● ぼくごときがこの演奏に対して,あそこで小さな事故があったとか,終曲のところでやや足並みが乱れたとか,やれ縦の線がどうのっていうのは,チャンチャラおかしい。われながらそう思う。
 もともとパワーがあるプレイヤーが,心をこめている。その結果として生まれる演奏に,多少の事故など疵にもならない。そういうものをはね飛ばすだけの,何というのか,ギュッと詰まった高密度な演奏だったと思う。

● 指揮者の三石精一さん。東大オケの演奏会をはじめ,三石さんの指揮には何度か接している。
 85歳になる。客席から見る分には,とてもその年齢には見えない。まだ60代なのじゃないかと思える。
 暗譜で指揮をし,身体は柔らかく十全に動く。動作も敏捷。舞台袖を往復するときの表情の豊かさも印象的(指揮中の表情は見えないわけだけども)。
 演奏家や指揮者に長命な人は多いし,高齢になっても現役で活躍している人も少なくないから,そのこと自体には格別驚くこともないんだけれども,三石さんはルックスが若い。いわゆるひとつの奇跡を見ているような気分になった。

● もうひとつ。プログラム冊子で三石さんの経歴を見て,羨ましいと思うことがあった。芸大の指揮科一期生。しかも,指揮科の学生は三石さんただ一人。つまり,上がガラガラに空いているから,スイスイと上がっていけた。
 今の若い指揮者は空きがないから,食べていくための労働量が,三石さんの頃とはだいぶ違うのじゃないかと思う。
 もちろん,上に重石がないという理由だけじゃなくて,三石さんの才能や資質が与って力あったんだろうけれど。

● コンサートホールで婆さまの集団が隣に来た。婆さまに限らないんだけど,女の集団というのはねぇ。
 あとから来る人のために席取りをする。あとから来た人を見つけると,大きな声で呼びかける。○○さん,こっちこっち。うるさい。べつに固まって聴かなくてもいいじゃないか。

2017年8月31日木曜日

2017.08.26 山形由美&金子鈴太郎 デュオ・コンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは3千円。当日券を購入。全席指定。前から2列めの席がひとつ空いていたので,そこにした。

● 金子さんの演奏は,ここ那須野が原ハーモニーホールで何度か聴いている。毎年,大晦日に上野の東京文化会館で,ベートーヴェンの全交響曲を演奏する催しがある。その2011年の演奏会にも出ていたと思う。
 山形さんのフルートを聴くのは初めて。もちろん,名前は知っていましたよ。昔,NHKの「連想ゲーム」のレギュラー解答者だった。美貌は今も健在。
 彼女がMCを務めた。声も若い。NHKがレギュラーに起用したのもむべなるかなと思えるほどに,声質も柔らかい。

● その山形さんのMC宜しきを得て,和やかな雰囲気のコンサートになった。聴く側の程度をわきまえてか,曲や作曲家について丁寧に説明していた。
 金子さんもきちんと協力して,盛りあげに努力。彼の声もいいんでした。羨ましいね,声質のいい人。

● プログラムは次のとおり。
 エルガー 愛の挨拶(山形 金子)
 マレ ラ・フォリア(山形)
 バッハ 無伴奏チェロ組曲より(金子)
 モーツァルト 5つの二重奏(アレグロ,アンダンテ,メヌエット,ポロネーズ,アレグロ)(山形 金子)

 マスカーニ 「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲(山形 金子)
 ドヴォルザーク ユモレスク(山形 金子)
 カサド 無伴奏チェロ組曲(金子)
 ピアソラ タンゴエチュード第4番(山形)
 ピアソラ 「タンゴの歴史」より「ボルデル」「カフェ」(山形 金子)

● 山形さんは声だけじゃなくて,フルートも柔らかい。もちろん柔らかいだけではないんだけど,柔らかさが際立って目立っていたように思う。
 柔らかく歌うという感じ。だから,「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲なんかはピッタリはまるんでしょうね。

● 金子さんのカサド「無伴奏組曲」を聴けたのは収穫。数年前に趙静さんの演奏で同じ曲を聴いているんだけど,今回の方がくっきりした印象。
 陳腐な表現を許していただければ,途中から鳥肌が立ってくるような按配だった。ステージの近くで聴けたからっていうのもあると思うんですけどね。

● アンコールでも客席サービス。ヴェルディ「乾杯の歌」。
 無条件で盛りあがる。山形さんのフルートは存分に(しかし,きちんと抑制を効かせて)歌ってたんでした。

那須野が原ハーモニーホール
● 最初からオヤッと思うことがあった。金子さんの前に置かれた譜面台がいやに小さいのだ。これで楽譜が載るんだろうか。といっても,たしかに載っているんですよね。
 それが紙の楽譜ではなくてiPadだと気づくのに,しばらく時間を要した。あとで,自身がそれについて語った。譜めくりはずっと原始的なやり方だった,何とかできないのかと思っていた,と。iPadはそれを革新したらしい。
 BT接続の小さなペダルがあって,それを足で踏んでページを送る。

● 演奏前にiPadを満タンに充電しておく必要があるでしょうね。途中でバッテリーが切れたら大ごとだ。
 BT接続にも一抹の不安が残ると思うのは,大きなお世話ですかね。スマホにBT接続のキーボードをつないで使ったことがあるんだけど,けっこう断線して,結局使いものにならなかった経験がある。ま,数年前のことなので,今は改善されているのかもしれないけれど。
 演奏会によっては,金子式は許されないことがあるんじゃないかと思いますねぇ。

● その金子さんを紹介するときに,山形さんが「チェロを抱えた回遊魚」という言葉を使った。要するに忙しいらしい。
 自宅で寝れるのは月に2日しかないこともあるという。昨日も松本で小澤征爾さんのサイトウキネン・オーケストラに参加していた。朝一番で松本を出ても今日のリハーサルに間に合わないので,松本から車を運転してきたそうだ。このコンサートが終わったら松本に戻る。

● ぼくの感覚だと車で移動するのは半径100㎞までだ。それ以上になると,電車を使いたくなる。
 ところが,演奏家(指揮者も含めて)っていうのは,車を運転しての移動を苦にしない人が多い印象がある。車を運転するのがクールダウンになるんだろうか。あるいは,一人になってアレやコレやを考えることのできる貴重な時間になるんだろうか。さらにあるいは,たんにかっ飛ばすのが好きな人が多いんだろうか。

● 山形さんは那須に移り住んで,18年目になるそうだ。活動の拠点は東京なんだろうから,たぶん東京で過ごす時間の方が長いのかもしれないけど。金子さんは西那須野町(那須塩原市)の出身。
 というわけで,なかなか大したところだよ,那須。

2017年8月20日日曜日

2017.08.19 宇都宮女子高等学校オーケストラ部 第1回演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 宇女高オーケストラ部は,毎年,宇都宮高校と合同で「第九」演奏会を開催している。そちらは何度か聴いたことがある。ので,「宇女オケ」の腕のほどは知っていたつもりだ。
 吹奏楽では,多くの高校が年1回の定期演奏会を開催しているのに,なぜ「宇女オケ」はそれをやらないのだろうとも思っていた。「第九」演奏会がそれに代わるものなのかな,と。
 ちなみに,今回の演奏会があることを知ったのは,栃木県総合文化センターに置かれていたチラシを見たから。

● 創部は昭和48年らしい。2管編成だったそうだから,総勢50人程度だったか。それが,現在の部員は113人。
 在校生の数は,現在の方が当時よりだいぶ少ないはずだ。113人というのは驚きの数だ。

● 開演は午後2時。入場無料。
 3部構成で,曲目は次のとおり。指揮は顧問の菊川祐一さん。

 ビゼー 歌劇「カルメン」より“第1幕への前奏曲” “ハバネラ” “ジプシーの踊り”
 マスカーニ 歌劇「カヴァレリア ルスティカーナ」間奏曲
 ワーグナー 歌劇「ローエングリン」より“第3幕への前奏曲” “エルザの大聖堂への行列”

 久石譲 千と千尋の神隠し“スピリティッド アウェイ”
 すぎやまこういち 「ドラゴンクエストⅠ」より“序曲”
 ディズニー・ファンティリュージョン!
 ウィリアムズ 組曲「スターウォーズ」よりメインタイトル

 モーツァルト アイネ クライネ ナハトムジーク(第1楽章のみ)
 バッハ 主よ人の望みの喜びよ
 ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調(第4楽章のみ)

● 「カルメン」で1番目の山を作って,次にマスカーニの間奏曲,そのあとがワーグナーという,“動-静-動”の対比も効果があったと思うんだけども,それ以前に演奏の説得力でしょうね。
 「カルメン」の前奏曲が始まったその刹那に,客席をしてステージに注意を集中させるだけの力があった。

● 目隠しをして聴けば,演奏しているのが高校生だとは思うまい。完成度が高いというんだろうけど,成熟している感じを受けた。大げさにいえば,王者の風格というやつ。
 余裕があるように見える。本当はこんなものじゃないんだけど,今日はこのくらいにしておこうか,という。
 実際にはそんなことはないんだと思う。いっぱいいっぱいの演奏なのだろう。が,そうは感じさせないところがある。

● 真剣さはビシビシと感じる。緊張感を持ってやっている。
 その上を,薄い皮膜1枚ではあるのかもしれないけれども,余裕が覆っている。それが華やぎを生んでいる。この華やぎは女子校だから生まれているわけではない(と思う)。

● 安定感がある。危なげがない。そこのところが高校生らしからぬという印象になる(こちらの高校生観が古いのかもしれないが)。らしからぬと言ってはいけないのかもしれない。高校生離れしていると言い直そうか。
 ヴァイオリン奏者を見ていても,オズオズと弾いている生徒はいないようだった。経験者ばかりを集めているわけではあるまいと思うのだが,ひょっとすると全員が経験者なのだろうか。

● 第2部は「千と千尋の神隠し」から。管と打楽器(とコントラバス)だけの吹奏楽バージョンで演奏。
 中学校で吹奏楽をやっていた生徒さんもかなりいるんでしょうね。完全に吹奏楽になっていたから。

● 次の曲からは弦も加わった。「スターウォーズ」は迫力のある演奏だった。こと管弦楽に関していえば,奏者が男か女かは基本的に演奏に影響しないね。奏者が全員女子でも,いくらでも力強さは表現できる。
 いや,女はもともと強いじゃないか,という意見もあるかもしれないんだけどさ。

● 第3部はショスタコーヴィチに尽きる。しかも,5番。
 この曲は曲調の変化がめまぐるしい。そこに当時のショスタコーヴィチが余儀なくされていたギリギリ感を読もうと思えば読めなくもない。
 しかし,それは全楽章を通して聴いた場合の話であって,第4楽章だけでは・・・・・・。

● ステージ上の彼女たちなら,全楽章やれと言われれば,苦もなくかどうかはわからないけれども,やってのけるだろう。が,今日のこのプログラムで全楽章の演奏を望むのは,ないものねだりというものだ。
 演奏も解釈もかなり難易度の高い(と思われる)この曲を,よくもまぁ取りあげたものだと思う。チャレンジだったはずだ。

● ひじょうに唐突なんだけれども,今回のこの演奏を聴きながら,過去に二度ばかり聴いたことがある早稲田大学交響楽団の演奏を思いだした。大学オケではたぶん最右翼に位置する早稲オケをなぜ思いだしたのか。
 理由はわからない。テイストが似ていると感じたんだろうか。先に書いた「余裕」が共通項ではある。短期間でどんどんレパートリーを増やしていけそうだと思わせるところも共通している。

● アンコールが3曲あった。ヴェルディ「乾杯の歌」のサプライズも楽しかったけれども,「情熱大陸」はさらに面白かった。
 「情熱大陸」を管弦楽で聴くのは初めてだったせいもある。この曲はアンコールに向いているね。盛りあげて締めるのにピッタリだ。

● すべてが終わったあと,奏者である淑女たちが,ステージで解放感と達成感を躊躇なく身体で現していた。
 その様子を見て,なにがなしホッとした。あ,やっぱり高校生なんだと思えて。

● 来年以降もこの演奏会は継続されるのだろう。栃木県内で開催されるオーケストラ演奏にこの楽団のそれが加わるとなると,幅に厚みがでる。
 そう思わせるだけの存在感は今日,示したのではないか。本格派オーケストラのデビューに立ち会えた満足感がある。

2017年8月17日木曜日

2017.08.12 鹿沼市立東中学校オーケストラ部 第18回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 第14回15回17回と聴いている。今回は4回目になる。だから,レベルの高さはわかっている。全国でもトップ水準にあることも知っている。
 知りたいのはその理由だ。

● 小学生のうちから楽器をやっている子を集めている,というわけではない。公立の中学校なんだから,そんなことはできるはずもない。その前に,楽器をやっている小学生がオーケストラが成立するほどに多くいるとは思えない。
 才能のある子をスカウトしているというのも,同じ理由であり得ない。

● 才能や経験に差がないのだとすれば,考えられる理由は2つしかない。ひとつは教授法が優れていること。もうひとつは,練習の質と量が他校に勝っていること。
 しかし,斬新な教授法が存在するとも思えない。泥臭いやり方以外のやり方は,たぶんない。
 唯一,考えられるのは,顧問の先生の熱が高いという可能性だ。熱に生徒が吸い寄せられる,四の五の言わずに言われたとおりに練習する,そういう可能性。
 それでも,理由としてはまったく足りない。つまり,わからない。

● 場の磁力のようなものがあるのかもしれない。長年の間に全国を狙える場ができていて,そこに集ったメンバーを底上げするといったような。
 場の力は間違いなくある。まるで関係のない例になるけれども,栃木県内だと高級旅館,ホテルは那須にしかない。「山楽」しかり,「二期倶楽部」しかり(ちなみに,ぼくはどちらにも行ったことがないのだが)。
 近くに御用邸を抱えるからだ。しかし,御用邸がなぜ那須のあの場所にできたのか。場の力だとしか言いようがない。

● 旅館にしてもホテルにしても,“高級”は単体では成立しない。贅を尽くした建物を作り,いい食材を仕入れ,腕利きの料理人を雇い,スタッフにも細かく研修をほどこす。
 それだけでは,おそらく,“高級”はできない。そういうこととは別の何かが要る。その何かとは何か。場の力だと考えるよりほかにない。

● そうした場というのが,この中学校にもあるんだろうか。
 地面の「場」なら,多少の災害や景観の変化があっても持続しそうだ。が,人を育てる「場」はそういうわけにはいかないだろう。少し油断すると,崩れ始める。脆いものだろう。
 その場を持続的に「場」たらしめているものがあるはずだ。だから,場の力だと言っただけでは答えになっていない。

● さて。観念の遊戯は以上で終わり。
 開演は午後2時。入場無料。プログラムは前半が,金管,木管,弦のアンサンブル。後半が全体(オーケストラ)の演奏。

● まず,金管。
 管弦楽の場合,旋律を奏でるのはどうしたって弦になるわけで,金管はバックに控えて,盛りあげ役を担当するものというイメージがある。ベートーヴェンの5番では,トロンボーンなんか4楽章まで放っておかれるし。かといって,ラッパなしで管弦楽は成立しようもないんだけど。
 もう少し,金管とはこういうものだっていうのを知りたいと思うことがある。ときどき,吹奏楽を聴きにいくのは,そんな理由もあるのかなと自分で思っている。

● 曲目は次のとおり。
 宮川泰 宇宙戦艦ヤマト
 ロジャーズ 私のお気に入り
 福島弘和 てぃーちてぃーる

● 初めて聴いた「てぃーちてぃーる」が,やはり印象に残った。金管8重奏。「沖縄民謡をジャズ調にした楽曲」らしい。「てぃーち」はひとつという意味で,「てぃーる」は手提げのカゴやざるのこと。
 が,あまりジャズっぽさは感じなかった。万華鏡を覗いているような,次々に景観が変わっていく様,表情の変化が印象的だ(それをジャズっぽさというのか)。

● 次が木管アンサンブル。曲目は次のとおり。
 ダンツィ 木管五重奏曲より第1楽章
 ヒンデミット 小室内楽曲より第4,5楽章
 久石譲 となりのトトロ

● う~む,この演奏を中学生がやっているとは,どうにも信じがたい。信じがたいといったって,現に目の前で演じられているわけだから,こちらのモノサシを替えるしかないわけだが。
 レガートという言葉を思いだす。なめらかに,という。そのレガートを実際の演奏に翻訳すればこうなる。
 誰でも知っている(聴いたことのある)「となりのトトロ」のような曲で,それが如実にわかる。

● ただ,この曲に合わせて歌いだしちゃった男の子がいてね。しょうがない,これは屋内運動会でもある。
 演奏する側とすれば,乗ってくれて逆に嬉しいかもしれないしね。

● 弦楽合奏。ヴィヴァルディの「四季」から「春」と「秋」のそれぞれ第1楽章。チャイコフスキー「弦楽セレナーデ」の第2,4楽章。
 このレベルの高さは,中学生という枠を外しても,県内屈指といっていいだろう。

● 技術的な正確さに加えて,(使いたくない言葉だが)芸術性が乗っている。
 芸術性というのは恣意的に使われるしかない言葉でしょ。あまり頭の良くない人が思考停止になったときに使う語彙だと心得ている。
 だから,何とか別の言葉で言い換えてみたいんだけど,まず,楽譜を読み込んでいるように思われる。楽譜の細部を拾っているといいますか。
 拾った結果を自分に引きつけている。あるいは,自分を通過させて濾過している。それを音に換えている。

● 以上を要するに,解釈がしっかりしている。解釈というのは,豊富な人生経験を積まないとできないものではないらしい。
 人情の機微がわかり,男女の情愛も経験し,酸いも甘いもかみわけ,見るべきほどのものは見つ,というバックグラウンドは必ずしも必要ないようだ。中学生のこの演奏を聴いていると,そう思わざるを得ない。
 多くの楽曲については,すでに解釈が確立していて,その確立されているものを再現すればいいということなのかもしれないけれど。

● 休憩をはさんで,後半はオーケストラ。
 ワーグナー 楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」より第1幕への前奏曲
 チャイコフスキー 組曲「眠れる森の美女」より「ワルツ」
 ファリャ バレエ音楽「三角帽子」より「粉屋の踊り」「終幕の踊り」
 ホルスト 組曲「惑星」より「木星」

● 第1音でワーグナーの世界を彷彿させる。あとは曲についていくだけ,って感じ。ぼく程度の聴き手がああだこうだと言う話ではない。
 1stヴァイオリンはツートップ。最初にコンマスを務めた男子生徒のただ者ではない感が好ましい。熱でオケを引っぱる。
 対して,後半にコンミスを務めた女子生徒は理で引っぱる。もちろん,以上は象徴的に言えばという話である。

● これ以上アレコレと申しあげるのは無礼であろうから,駄弁を弄するのは以上にとどめる。
 これで6日の鹿沼高校,昨日の西中学校と続いた,“鹿沼3部作”のすべてを聴けたことになる。こんなことは数年に一度あるかないかだろう。

2017年8月12日土曜日

2017.08.11 鹿沼市立西中学校管弦楽部 第27回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 鹿沼西中管弦学部の定演を拝聴。開演は午後2時。入場無料。
 西中学校の演奏を聴くのは,これが3回目。第23回第25回を聴いている。つまり,1年おきになっている。意図してそうしているわけではなく,偶然の結果。
 平日開催のときにはなかなか行けないわけで,たぶん,そうした事情によるものだと思う。

● プログラムは前半が室内楽的アンサンブルで,後半がオーケストラ演奏。
 まずは,1年生による「聖者の行進」。3年生の管がアシストに入った。その結果どうなったかというと,管の音しか聞こえてこなかった。弦が消されてしまった。
 ま,でも,これは仕方がないか。さすがにオズオズと弓を動かしている気配があった。これからどんどん巧くなっていくのだろう。この年齢の子たちの上達速度は,ぼくらの予想を上回るものだから。

● 2年生による木管三重奏。ジョプリン「エンターテナー」。2年生になると,これだけの安定感が生まれてくるんですねぇ。
 まだ生硬さはあるけれど,1年間でここまでの水準に到達できるという,歴然たる実例。

● 次は2,3年生による弦楽合奏。パッフェルベル「カノン」。これはしっとりと聴かせる曲。この曲のファンは多いに違いない。
 やはり硬い感じはする。もっとふくらみやふくよさかがあればな,とは思う。妙にとんがってる感じも受けた。
 しかし。中学生がここまで弦楽器を操る。その事実は知っておくべきだろう。

● 2,3年生による金管五重奏。メンケン「美女と野獣」。両端のホルンの女子生徒に注目。

● 3年生による木管五重奏。ここでもメンケン。「アンダーザシー」と「パートオブユアワールド」。
 木管五重奏になぜホルンが入っているか。その理由を演奏が教えてくれる。ホルンの音色は木管に合うというか,木管に近いというか。柔らかくて伸びやかな音なんだよねぇ。つまり,ここでもホルンの女子生徒に注目。
 ぼくはホルンが好きなのかもしれない。だものだから,肩入れしてしまうのかも。

● 弦楽合奏。ヴィヴァルディの「四季」から「春」。この曲はポピュラーだから,誰もが評論家になれる。
 メロディーを奏でるのはヴァイオリンだけれども,低弦部隊が下からキチンと支えていればこそだ。その低弦部隊がしっかりしている。

● 次も弦楽合奏。グリーグ「ホルベルク組曲」。演奏したのは「前奏曲」だったか。
 どんどん調子が上がってきている感じ。流れがよくなっている。なめらかな演奏だ。この後,もう一度「春」を演奏してみてくれないかと思った。

● 管楽合奏。タケカワヒデユキ「銀河鉄道999」。お見事。演奏しているのが中学生であることを忘れる。

鹿沼市民文化センター
● ここで休憩。後半はオーケストラの演奏となる。まずは,ウェーバーの「オベロン」序曲。
 全体は部分の総和を超える。これ,“複雑系の科学”の基本テーゼらしい。そのことを思いだした。
 前半のアンサンブルを全部足しても,この管弦楽にはならない。部分の総和を超えている。そこがまた,オーケストラの妙でもあるのだろう。

● それこそ,ふくらみがある。ふくよかでもある。空気をたっぷり孕ませた生ハムのようだっていうか。
 どうもたとえが適切ではないかもしれないけれど,空気を孕ませてお皿に載せた生ハムは,スーパーで売ってる状態の生ハムより断然,旨そうに見える。実際,旨い。

● ステージで演奏している中学生が,紳士淑女に見えてきた。特にヴァイオリン。
 コンミス,かっこいい。ただ,1stの最も客席に近い列に並んでいる女子生徒4人は,誰がコンミスを務めてもおかしくない感じがする(実際,曲ごとにコンミスは替わった)。
 部活だけでここまでになれるんだろうか。部活のほかに個人レッスンを受けていたりするんだろうかねぇ。鹿沼ジュニアフィルの活動もやっているんだろうから,まぁ,部活だけってことはなさそうなんだけどねぇ。

● 次は「ジブリ・メドレー」。ジブリの曲に駄作なし。それをメドレーにしているわけだから,曲としては鉄板のはず。
 オーボエで一人気を吐いている男子生徒がいた。彼,1週間前の鹿沼高校の演奏会にも出ていたな。OB君だね。ここでは,そのOB君が最も目立っていた。

● ロッシーニの「セビリアの理髪師」序曲。金管の見せ場が多い。ヴィオラにも達者な奏者がいたようだ。気づくのが遅くてごめん。

● 最後は,ベートーヴェンの5番。演奏したのは第1,4楽章のみ。奏者も曲に乗って演奏するところがあるのじゃないかと思う。おそらく全楽章を演奏する方がやりやすいのではないか。が,それは6月のジュニアフィルでやってるもんな。
 ここでオーボエの1番を担当したのは,先のOB君ではなくて,(たぶん3年生の)女子生徒だった。そのオーボエが役割をきちんと果たし,フルートも演奏を引き締めた。

● アンコールの「カノン」も含めて,後半のオケ全体の演奏はどれも聴きごたえがあった。
 演奏しつつ場に慣れるということがあるのかもしれない。尻あがりに良くなってきた感があった。

● ただひとつ,惜しむらくは客席。
 この演奏会は一般公開ではあるものの,基本は校内行事なのだろう。客席にいるのは主に保護者だと思われる。校内行事であれば,客席が屋内運動会的なものになるのは致し方がないのかもしれない。
 自分の方が闖入者なので,そこのところをあまり非難する資格はないのだが。

● 動き回る幼児を放置したり,演奏中に入ってきて,空いている席にすぐに座らず,場内をウロウロしたりっていうのは,まぁ,仕方がないとしよう。
 けれども,フラッシュ撮影は,フラッシュ撮影だけは,どうにかやめさせる手だてはなかったものか。あれはステージで演奏している生徒たちへの冒涜で,自分の子どもだったら冒涜してもいいのか,という話になる。
 と言うと,少々以上に大げさになるのかもしれないけれども,演奏が素晴らしかっただけに,この点だけが惜しまれる。

2017年8月7日月曜日

2017.08.06 鹿沼高等学校音楽部管弦楽団 第22回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● この年代の若者たちでなければ表現できない「一生懸命」がある。20代や30代の人間が同じようにやっても,こうはならないっていう。
 「その場」にとどまることを許されず,駆け去っていかなければならない若者たちが,それでも石の台座に鉄筆で刻むようにして,「その場」に残そうとする「一生懸命」。

● 彼らは今にしか存在できない。明日の彼らは今日の彼らではない。別の人になっている。そう思わせるほどに成長(あるいは変化)の速さをビルトインされた年齢の若者たちが漂わせる,あわいのようなもの。はかなく,哀感にも通じるもの。
 日々,「死と再生」を続けて行かざるを得ない疾風怒濤の渦中にあって,それでもなお,「その場」にとどまろうとする「一生懸命」。
 その「一生懸命」がステージから客席に向けて,次々に押し寄せる。息苦しくなるほどに。

● もちろん,台座もろとも流されるしかない。どうやったって,それを止める手だてはない。
 生々流転。その流れが最も速い年代に置かれた若者たちだ。激流に翻弄される。それ以外,何ができるだろう。

● そうした若者たちのあわいやはかなさが,音楽という表現形態の一回性,瞬時性と,ぴったり重なるようだ。
 音楽もまた生まれた瞬間に消えていく。そのことを先鋭に知らしめる演奏だった。
 全体を総括するなら,「見事である」の一語に尽きると思う。良い演奏を聴かせてもらった(→上から目線的な言い方ですまぬ)。

● この楽団の定演は過去に一度聴いている。2009年の第14回。以後,8年も遠ざかっていたのは,今回のようなインパクトをそのときは受けなかったからだと思う。
 おそらくは,こちら側が聴き手として今よりさらに未熟だったからだろう。申しわけのないことだった。

鹿沼市民文化センター
● 以上で感想は尽きている。したがって,以下はまったくの余談。形作りにすぎない。

 開演は午後1時30分。入場無料。
 開演前にロビーコンサートも行われた。これは聴いたような聴かなかったような。
 っていうのはですね。JR駅から会場まで歩くわけですよ,この炎天下を。タクシーに乗るほど偉くないし。
 途中にあるコンビニで二度,休憩した。寄る年波ってことでしょうね,会場に着いたときには疲労困憊。ということで,まぁ。

● 曲目は次のとおり。
 シベリウス フィンランディア
 ミュージカルメドレー=オペラ座の怪人,サウンド・オブ・ミュージック,レ・ミゼラブル
 外山雄三 管弦楽のためのラプソディ
 プロコフィエフ バレエ音楽「ロメオとジュリエット」から,第1,2,5,6,7曲

● 特に記憶に残ったものをどれかひとつ選べと言われたら,「フィンランディア」か「オペラ座の怪人」かで悩むところなんだけど,「フィンランディア」かな。
 金管による最初の一音で,ガッと聴衆を鷲掴みにした。楽譜の然らしめるところでもあるわけだけど,演奏の妙にもよる。特に,トロンボーンが印象的。ここが決まれば,あとは一気呵成。

● 「オペラ座の怪人」は楽譜どおりにメリハリを付けるのが,なかなか大変なのじゃないかと思う。それがメリハリの細かいところまで,ほぼ完璧。小さな事故は愛嬌というものだ(事故にまでは至っていないか)。
 「オペラ座の怪人」っていい曲じゃん,と教えてくれる演奏だった。ぼくも吹奏楽を含めて,この曲は何度か聴いているんだけど,今回しみじみいい曲だと思った。

● 「管弦楽のためのラプソディ」はソーラン節や八木節などの民謡をつなぎ合わせたもの。民謡を取り入れるっていうのは,マーラーもやってるし,ドヴォルザークもやっている。わりと多く見受けられるものだ(と思う)。
 しかし,ここまでのものはあまりないでしょ。アレンジとかオーケストレーションにオリジナリティがあると言われれば,それはそのとおりなんだろうけど,それを「作曲」といってはいけないのじゃないか。

● ぼくの知る限り,栃木県内の高校で吹奏楽ではなく管弦楽部を有しているのは,この鹿沼高校のほかに,宇高,宇女高,栃女高,足利高,足女高,合わせて6校にとどまる。その中でも,鹿沼高校と宇女高がおそらく双璧なのではないか。
 中学校で管弦楽部があるのは鹿沼市内の西中と東中のみ。その西中と東中から優秀な経験者を集めることができる,地理的な優位性を鹿沼高校は持っている。
 のだろうと思ったんだけど,プログラム冊子の部員名簿を見ると,両中学校の出身者は3分の1に過ぎない(といっても,弦に限ればさすがに割合はもっと高くなる)。鹿沼からひと駅電車に乗れば,そこは宇都宮だからね。ゴッソリかき集めるというわけにはいかないようだ。

● 印象に残った奏者が3人いた。チューバをしっかり支えていた女子生徒。1番フルートを担当した,これも女子生徒。それから,奏者としての所作が美しかったコンミス(当然,女子生徒)。
 ヴァイオリンを担当していた生徒が途中でパーカッションに回るとか,臨機応変の対応もあった。高校の管弦楽ではわりとあることなんでしょうね。8年前の定演でも,同じことがあった記憶がある。

● 大人の市民オケに混じったとしても,鹿高オケが埋没することはないように思う。
 6月に鹿沼ジュニアオケの演奏を聴いたときに,鹿沼は栃木県の音楽活動のセンターのひとつなのだと思った。今回,いよいよその感を深くした。

2017年7月30日日曜日

2017.07.30 亀和田・バレエアカデミー 15周年記念発表会-Coppélia

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後2時。入場無料。プログラムは別売で300円。バレエのステージを拝見するのは,けっこう久しぶり。昨年の8月以来になる。

● バレエ学校の発表会なのだから,客席もその関係者がほとんどだろうし,主催者側もその前提でコンテンツを決め,準備を進め,当日の進行にあたるのだろう。
 そういうところへ,さえないオヤジが一人で出かけていくのは申しわけないようなものだ。山を賑わす枯れ木にもならない。
 なので,他のお客さんの邪魔にならないように,そっと後ろの方の席に着座した。

● バレエを見ているのは楽しい。が,自分がバレエを習ったことはないし,バレエの歴史だとか,現代の舞踊全体の中でバレエがどう位置づけられているのかといった,基本的なことを,ぼくはほぼ知らない。
 そんなものは知らなくても,見る楽しさが損なわれることはないと思うんだけど,知らないがゆえの気後れのようなものがなくもない。

● 演しものは「Coppélia」。その前に,オープニングのダンスがあった。最後の「Esistenza」がすごかった。何がすごいかというと,速度だ。
 コンテンポラリーって言うんですか,モダンダンスって言うんですか。動き(変化)の振幅が大きくて,しかも速い。目が追いついていかないくらいだ。その速度が見る者に快感をもたらす。

● Esistenzaとは,存在とか生存という意味のイタリア語らしいんだけど,意味を知っても仕方がない。というか,このダンスには別の名前を付けてもいいだろう。
 抽象画のようなもので,どんなタイトルでもそのように見ようと思えば,そのように見える。「無題」でもいいと思う。

● 「Coppélia」はバレエの古典。ストーリーは頭に入っている。マイムがあるにしても,無言劇であるわけだから,ストーリーが予めわかっていないと,けっこう辛いものがあるもんね。
 回転や跳躍で気持ちを表現してるんだよと言われても,解釈の余地がありすぎて,意味を特定することはたぶんできない。ストーリーがわかっていないと。

● 主役スワルニダの演者は幕ごとに交替したようだ。フランツ役の男性ダンサーはずっと同じ人。
 見せ場がきちんと見せ場になっている。その見せ場が何度もある。
 ぼくのような素人が思うのは,人形のコッペリアを演じるのは大変だろうなってこと。動いちゃいけないんだからね。じっとしていないといけない。じっとしているためにはエネルギーが要る。動いている方が楽なんじゃないかと思うんだけど,実際のところはどうなんだろう。

● スワルニダがコッペリアと入れ替わる場面では,人間と人形をパパッと切り替えていて,その様子も面白い。
 「Coppélia」って見どころの多い演目なんですね。コミカルで軽いのもいいですな。

● バレエって究極のところは何なのだろう。音楽も美術も,究極をたずねれば官能に行きつくと言われることがある。官能という言葉に抵抗があるのであれば,生命への信頼と言い換えようか。
 芸術とはつまるところ,官能の表現なのだとすれば,セクシーさを湛えていないものは芸術ではない。静物画だってそうだ。

● バレエはストレートな身体表現だから,そこのところはわかりやすいんだけど,他にはないバレエの特質っていいますかね,それって何なのだろうな,と。
 人体が生みだす人工美の表現っていう,ありきたりのことしか思い浮かばないんだけどね。

● バレエの動きは反自然の極み。人体の自然に美は宿らない。喰いたいものを,喰いたいときに,喰いたいだけ喰って,ブヨブヨになっている輩は,豚に喰われよ。
 ・・・・・・ワォッ! 喰われてしまったよぉ。

● 終演は5時20分だった。3時間20分のロングラン。これで無料。ありがたいですな。そのコストは,このバレエスクールに子供を通わせている親御さんが負担してくれているのだろう。
 ありがとう存じます。感謝申しあげます。

2017年7月17日月曜日

2017.07.17 宇都宮ジュニアオーケストラ 第21回定期演奏会-ファイナル・コンサート

栃木県総合文化センター メインホール

● ぼくの知る限り,栃木県内にジュニアオーケストラは3つある。宇都宮,鹿沼,足利。その中のひとつ,宇都宮ジュニアオーケストラが,今日の演奏会をもって活動を終了する。
 活動終了の最大の理由は団員の減少らしい。とすれば,これが先駆的な例になってしまう可能性もある。

● 音大卒は毎年積みあがる。プロへの道は彼らにとっても険しい。彼らがアマチュアとして演奏活動を続ける。あるいは音大ではなくても,演奏が好きでずっと続けていた人たちが,社会人になっても市民オケに入って,音楽を継続する。
 そのため演奏者は増える傾向なのに対して,聴衆が細ってきていると思っていた。聴衆の高齢化ははっきりしていて,彼らが抜けた分だけ新規参入があるとはとても思えない。
 この先,どうなってしまうのだろう。それはしばしば,思うことがあった。

● ところが,今まで存在していた楽団が消えてなくなるという事態は,まったく考えたこともない。ぼくの中では想定外。
 もちろん,一発オケというのもあるし,楽団内で運営方針が対立して,分裂したり消滅したりっていうのはある。それは昔からあることなので,考慮の外に置く。

● ジュニアの世界ではそれが起こっているのだな。少子化という言葉をことさら使うのも憚られるほどに,少子化は社会の前提になっている。実際に起きてみれば,こういう事態もあり得べし,だった。
 昨年の第20回の演奏会でも,OB・OGが多数参集してて,節目だから集めたのだなと思ったんだけど,そうじゃなかったんだ。そうしないとオーケストラとして成立しないくらいに団員が減ってたんだ。

● 宇都宮でもそうだとすると,厳しいんだろうなぁ。先月初めに聴いた鹿沼は元気そうだったんだけど。
 ぼくにできることは,ホールまで自分の身体を運んでいって,彼らの演奏を聴き,拍手を贈ることくらいだ。
 今日は,別の演奏会もあって,当初はそちらに行くつもりでいた。が,この楽団がファイナル・コンサートを催行するということであれば,行かないわけにはいかない。
 開演は午後2時。入場無料。

● 曲目は次のとおり。指揮は水越久夫さん。
 ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲
 シューベルト 交響曲第7番「未完成」
 ベートーヴェン 交響曲第5番
 最後にふさわしい王道のプログラムといっていいだろう。これしかないと言っていいかもしれないほどの。アンコールはブラームス(ハンガリー舞曲第5番)。最後に相応しく,ドイツの正統を並べてきた。

● 正々堂々のプログラムに対して,演奏もまた正々堂々。
 「未完成」を生で聴くのは久しぶりのことだ。あぁ,こういう曲だったなぁと思いだしたっていうか。最近,CDでもずっと聴いていなかったので。

● 「運命」は出色中の出色。特に第4楽章はお見事の一語に尽きる。高揚感がハンパなかった。
 「運命」はこうでなきゃという自分の中のイメージとピタリと合っていた。こういう演奏を聴くと嬉しくなる。

● ジュニアには最後という気負いはなかったように思われる。普段どおりというか,淡々と演奏していた印象。もちろん,それで良いのである。
 ファイナルコンサートだからといって,何か特別なことがあるわけでもない(団長の挨拶はあったけど)。アンコールが終われば,観客は三々五々に散っていく。

● ライヴは一期一会だ。演奏する側にとっても聴く側にとっても。今日の演奏でも,奏者のうちの誰が一人が入れ替わっていたら,この演奏はなかったわけで。
 そして,今後はこのオケとの出会いそのものが叶わなくなったというわけだ。

2017年7月16日日曜日

2017.07.16 栃木県立図書館第161回「県民ライブコンサート」-マニアックなクラシックのコンサート

栃木県立図書館ホール

● 栃木県立図書館の「県民ライブコンサート」。斎藤享久さんと栃響選抜メンバーによるハイドンとモーツァルト。
 開演は午後2時。入場無料。

● 今回の曲目は次のとおり。
 ハイドン オーボエ四重奏曲 ニ長調
 モーツァルト ピアノ四重奏曲第2番 変ホ長調
 モーツァルト ディヴェルティメント第17番 ニ長調

● 斎藤さんは,オーボエ四重奏曲ではオーボエを,ピアノ四重奏曲ではピアノを,ディヴェルティメントでは指揮を,それぞれ担当。
 ハイドンのオーボエ四重奏曲。フルートをオーボエに替えたものだろうか。ハイドンの曲はまずめったに生で聴く機会はない。

● モーツァルトは,お馴染み感がありますな。素人の印象を言わせていただければ,最小限の道具しか使わないで,とてつもなく緻密な建造物を構築してしまう。宮大工の棟梁のようなね。
 したがって,演奏する方も,超絶技巧は要求されないんだけれども,わずかのミスも許されないという緊張は強いられるんじゃなかろうか。

● 各曲の間にアンコール曲を入れる。箸休めというか,お客さんにひと息入れてくれっていう感じの。
 だから,アンコール曲が3つある。最後はアンダーソンの弦のピチカートだけで演奏されるやつ。「PLINK,PLANK,PLUNK!」だったか。小味な小品という感じの曲。

● というわけなので,演奏時間はたっぷり2時間。本格的なコンサートなのだ。侮ってはいけないのだ。無料の小規模な演奏会だからといって,なめたらいかんぜよ。
 これだけのハイレベルな演奏を,少なくとも栃木県で聴ける機会はそんなにない。ありがたいぞ,県立図書館!
 奏者と客席の距離が近いのもいい。その代わり,客席に勾配はついていないから,後ろの席だと奏者の全体を視野に入れることは難しくなるけどね。

2017年7月15日土曜日

2017.07.15 真岡フルートアンサンブル 第6回発表会

真岡市民会館 小ホール

● 真岡フルートアンサンブルの第6回発表会。開演は午後3時。入場無料。

● 初めての拝聴となるが,結成して15年になるらしい。
 技術の巧拙は問うところではない。こうして創る側(聴かせる側)に身を置き,練習を重ねて曲を形にし,その結果を聴衆に晒すというだけで,敬意を払われて当然である,と,ぼくは思う。
 演奏する側と聴く側を対置すれば,前者が常に上位だ。聴いて,その演奏に対してあれこれ言うのは,誰でもできる。

● 活動すること自体を目的にして活動しているのだろう。それでまったくOKだ。であれば,あまり細かい注文をだすのは余計なことだとしたものだ。
 余計なことをする輩をバカという。こんなブログを書いていることじたい,余計なことかもしれず,したがって自分はバカかもしれない,と時々思う(→時々かよ)。

● ただし,だ。言いたくなることはいくつかあったぞ。
 楽譜に集中するあまりなのか,指揮者を見ていなかったのではないか。終曲のタイミングが合わないのは,指揮者を見ていないからではなかったか。

● リズムを取るのに,靴を鳴らすのはやめた方がいいんじゃないか。
 開演前に会場に放送を流す。携帯電話をはじめ,音の出る電子機器のスイッチは切ってくれ,と。
 正当な要求だ。演奏中にケータイの着信音が鳴ったら,目もあてられない。演奏中に音楽以外の音が発生すると,演奏を壊してしまうことがある。
 同じように,演奏者も音楽以外の音を発生させてはいけないだろう。ごくたまに,楽器(特に弦の弓)を床に落とすのを目撃することがあるけれど。
 どうしてもつま先でリズムを取りたいというのであれば,音の出ないゴム底の靴に替えてはいかがか。たぶん,市販されているだろう。

● 指導者の遠藤淳子さんが,次の2曲を演奏。これを無料で聴いては申しわけない。
 マスカーニ 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より「間奏曲」
 ショパン 「フルートとピアノのための,ロッシーニ「シンデレラ」の主題による変奏曲」

● ショパンはピアノ曲しか作っていないという印象が強い。チェロ・ソナタがあることは知っていたけれども,フルート・ソナタまであったとは今日まで知らなかった。
 が,この曲は偽作の可能性が高いらしい。ただ,誰が作ったにせよ,ショパンだと言われると信じてしまうほどに完成度が高い。

2017年7月12日水曜日

2017.07.09 東京大学歌劇団第47回公演 ビゼー「カルメン」

三鷹市公会堂 光のホール

● 東京大学歌劇団の公演を見るのは,これが5回目になる。前回見たのは,2014年の12月。だいぶ間が空いてしまったが,その理由のひとつは,会場が三鷹市公会堂であること。
 つまり,遠いんですよね,ここ。栃木から行くんだから,どこだって遠いじゃないか,って?
 そうではない。三鷹駅までは近いんですよ。近いっていうか,電車が運んでくれるから,こちらは座っていればすむ。居眠りしててもいいし,雑誌を読んでてもいいし,音楽を聴いててもいい。

● 問題は三鷹駅から三鷹市公会堂までなんだよね。この距離がけっこうある。
 駅からはバスもある。ただ,乗合バスっていうのは,地元民しか乗りこなせない。ヨソ者としてはどのバスに乗ったらいいのかわからない。
 とはいっても,そんなのはネットをググればわかるんですよね。そのわずかな手間が面倒くさい。その面倒くささを避けてしまう。

● 避けた結果どうなるかといえば,駅から公会堂まで歩くことになる。距離にすれば2㎞くらいか。宇都宮でいえば,JR駅から東武駅くらい? もうちょっとあるかな。
 歩くのもまた面倒だ。それが間があいてしまった理由のひとつかな,と。

● が,いつまでもそうしてはいられない。頭のてっぺんに穴が空きそうな太陽光を受けながら,その2㎞を歩いて,三鷹市公会堂へ。
 大成高校のグラウンドでは野球部が練習をしていた。高校野球の季節だな。この炎天下でこんなことができるんだから,高校生ってすごいよな。ぼくらが同じことをやったら(できないけど),自殺行為になる。

● さて,「カルメン」だ。この歌劇の脚本で解せないことが2つある。
 ひとつは,ドン・ホセはなぜカルメンにここまで入れあげてしまったのか。しかも,入れあげた状態が長く続く。いっこうに冷める気配がない。
 カルメンは情熱的な美人で,いうならマドンナという設定になっているんだけれども,それにしたって。どうして,ここまで。
 もうひとつは,最後のカルメンの行動。ホセに殺されるとわかっていながら,友人の忠告をふりきって,ホセに会う。会って,さぁ殺せと言わんばかりにホセを挑発する。そして,殺される。

● この2つがどうもわからない。この2つは,でも,歌劇「カルメン」の根幹をなすところであって,そこに疑問を持ってしまったのでは,「カルメン」がどこかに飛んでいってしまう。
 しかし,わからないものはわからない。

● メリメの原作には,そういうわからなさはないんですよね。
 歌劇でのホセは内向的で母親思いの真面目な青年だけれども,原作でのホセは激昂しやすい男。カルメンをめぐって軍の上官と言い争いになると,上官を刺殺して,ダンカイロ盗賊団に身を寄せる。この盗賊団は殺人も躊躇なく行う極悪非道な犯罪集団だ(歌劇では愛嬌のある密輸団として描かれているのだが)
 ホセは,カルメンがダンカイロの情婦であることを知ると,ダンカイロをも殺している。エスカミーリョが闘牛で瀕死の重傷を負ったことを知って,カルメンとヨリを戻そうと動く。
 そういうことなら,なるほどね,ですむ。わからなさは残らない。

● オペラの脚本は,原作をかなりコミカルに改変している。それは興業として成功させる必要があったからだろうけれども,ぼくらに与えられるのは改変された歌劇「カルメン」であって,それを自分に引き寄せて,自分をスッキリさせなければならないという作業が発生してしまった。
 原作と歌劇の最大の違いは,歌劇ではミカエラという重要なキャラクターが設定されたこと。これで劇的な面白さは増していると思う。増しているんだけど,ホセに対するわからなさも増すことになる。こんなに可愛い許嫁がいるのに,おまえは何やってんだよ,っていう。

● 田舎対都市というとらえ方もできるかもしれない。田舎の保守的な道徳が身体に染みこんだホセに対して,都会の奔放な風を思うさま受けながら生きているカルメン。
 故郷という帰れる場所を持つホセに対して,寄る辺なきカルメン。故郷というシェルターを持つホセに対して,ひとり風に向かって立ち続けなければならないカルメン。
 その違いは,生き方の差にならざるを得ない。切羽詰まった度合い,生に対する真剣さ,そういうものがホセとカルメンではだいぶ違う。カルメンは道徳とかルールとか,そんなものをかまっている余裕はない。
 田舎育ちのホセが都会育ちのカルメンに惹かれてしまった。田舎と都市が戦って,都市が勝利した。

● オペラを見る楽しみのひとつに,登場人物と自分を比較して,俺はあそこまでバカじゃねえぞ,と安心するというか溜飲をさげるというか,そんなものがあるんじゃないかと思う。
 「あそこまでバカ」の筆頭は,この歌劇「カルメン」に登場するホセでしょう。だから,そこで溜飲をさげて終わりにしてもいいんだけどねぇ。

● 次に,最後のカルメンの行動だ。どうしてわざわざ殺されに行くようなことをしたのか。
 女の矜恃を示すため? そんなものを示す必要は寸毫もない。
 カード占いで,何度やっても「死」しか出なかったので,もう生きていても仕方がないと思った? そんなバカな。
 ミカエラの説得に応じて,母親を見舞うために密輸団を離脱したホセを見て,自分の孤独感を深めた? 自由がなにより大事というのは自分を納得させるための方便だったとしても,その流儀はかなりのところまでカルメンの身になっていたはずだ。その自由人がその程度で孤独を深めることは,おそらくないだろう。
 ミカエラに嫉妬した? それもないよなぁ。あったとしても,だから自分がホセに殺されてもいいってことにはならないよ。
 寄る辺ない人生に疲れてしまった? それもねぇ。あのカルメンが,と思うよねぇ。

● 普通は,ストーカーと化したホセに対して,「しつけーんだよ,このクソ野郎」と引導を渡しに行ったと考えるべきところなんだろうけど,それも命をかけてやるほどのものではないでしょ。
 となると,考えられる理由はひとつしか残らない。カルメンは自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた。ホセになら殺されてもいいと思っていた。
 しかしねぇ。カルメンはホセに恋情を寄せたことは,たぶん一度もないんだよねぇ。ホセに利用価値があるときだけ利用した。気持ちを向けたことはない。わからないまま残るねぇ,これは。

● 女心の複雑さ,不可解さに還元してはいけない。女心はいたって単純にできている(と思える)。快不快の原則と自分中心主義で動いている(したがって,しっかりと地に足が着いている)。ドライといってもいい。
 問題はこの脚本を書いているのが(たぶん)男であることで,リアルの女と男の目に映った女はだいぶ違うでしょ。そのあたりを踏まえて解釈していかないとね。つまり,脚本家が女を描き損ねている可能性もあるってことね。

● 要するに謎が多い脚本だ。そこに説得力を持たせるにはどう演出すればいいかと,演出者はいろいろ悩むのだろう。オペラ解釈とは,つまるところ,そういうことかもしれない。
 オペラなんだから,大衆受けしなきゃしょうがない。それを前提にすると,この脚本は大成功でもあるわけなんだが。

● この歌劇団の公演を初めて観たのは2013年の1月。そのときも「カルメン」だった。が,今回の「カルメン」は前回のそれとはまったく違ったものになっていた。
 何が違うかといえば,まず演じ手の技量が違う。東大という冠が付いていても,東大生はむしろ少ないのじゃなかろうか。ひょっとして音大の声楽科の学生さんが入っていたりするんだろうか。
 カルメン,ミカエラ,ホセ。いずれも呆れるほどに上手い。特にミカエラは,歌が力強くて,その力強さが辺りを払うところがあった。払いすぎてしまって,ミカエラのホセを思う乙女的な純情さ,村娘の素朴さ,そういったものまで払われてしまった憾みが残るほどだった。

● 舞台のセットと衣装も本格的。前回は,いかにもお金がない学生劇団が手作りで設えた舞台っぽくて,それはそれで好感の持てるものだった。
 今回は,資金提供者がいたんだろうかと思うような,立派なステージでしたね。

● 演出も違っていた。カード占いをするところで,カルメンに「二人とも死ぬ」と言わせている(字幕にそう出たわけなのだが)。“二人とも”という字幕には初めてお目にかかった。“二人”とはカルメンとホセなのだろう。
 カルメンを刺したところで劇は終わるんだけど,このあとホセは,カルメンを刺したそのナイフを自分の首に突き刺したはずだ。
 先に「自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた」と言ったのも,この字幕に連想を刺激されたものだ。

● 初めてカルメンに出逢ったときのホセと,初めてエスカミーリョに出逢ったときのカルメンの様子がパラレルだ。気になるっちゃ気になるんだけど,努めて関心なさそうにしている,という様子。
 これは今回の演出の独自性というわけでもないように思うけれども,そこを強調していたように思われる。穿ち過ぎだろうか。

● 結論は,ここまで作り込めるのはすごい,ということ。演出はもちろんのこと,管弦楽も含めて,大道具や衣装からプログラム冊子に至るまで,相当な水準。
 何から何まで自前。アウトソーシングはしてないらしい。すべての工程が美味しいんだろうから,アウトソーシングしたんじゃもったいない。

● 会場に入りきれず,ロビーでモニター鑑賞を強いられたお客さんも,かなりの数,いたようだ。これはあまりよろしくないから,次回は会場を変えてはどうかね。
 「カルメン」だからこれだけのお客さんが入った? そうかもしれないけどね。