2017年8月17日木曜日

2017.08.12 鹿沼市立東中学校オーケストラ部 第18回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 第14回15回17回と聴いている。今回は4回目になる。だから,レベルの高さはわかっている。全国でもトップ水準にあることも知っている。
 知りたいのはその理由だ。

● 小学生のうちから楽器をやっている子を集めている,というわけではない。公立の中学校なんだから,そんなことはできるはずもない。その前に,楽器をやっている小学生がオーケストラが成立するほどに多くいるとは思えない。
 才能のある子をスカウトしているというのも,同じ理由であり得ない。

● 才能や経験に差がないのだとすれば,考えられる理由は2つしかない。ひとつは教授法が優れていること。もうひとつは,練習の質と量が他校に勝っていること。
 しかし,斬新な教授法が存在するとも思えない。泥臭いやり方以外のやり方は,たぶんない。
 唯一,考えられるのは,顧問の先生の熱が高いという可能性だ。熱に生徒が吸い寄せられる,四の五の言わずに言われたとおりに練習する,そういう可能性。
 それでも,理由としてはまったく足りない。つまり,わからない。

● 場の磁力のようなものがあるのかもしれない。長年の間に全国を狙える場ができていて,そこに集ったメンバーを底上げするといったような。
 場の力は間違いなくある。まるで関係のない例になるけれども,栃木県内だと高級旅館,ホテルは那須にしかない。「山楽」しかり,「二期倶楽部」しかり(ちなみに,ぼくはどちらにも行ったことがないのだが)。
 近くに御用邸を抱えるからだ。しかし,御用邸がなぜ那須のあの場所にできたのか。場の力だとしか言いようがない。

● 旅館にしてもホテルにしても,“高級”は単体では成立しないように思える。贅を尽くした建物を作り,いい食材を仕入れ,腕利きの料理人を雇い,スタッフにも細かく研修をほどこす。
 それだけでは,おそらく,“高級”はできない。そういうこととは別の何かが要る。その何かとは何か。場の力だと考えるよりほかにない。

● そうした場というのが,この中学校にもあるんだろうか。
 地面の「場」なら,多少の災害や景観の変化があっても持続しそうだ。が,人を育てる「場」はそういうわけにはいかないだろう。少し油断すると,崩れ始める。脆いものだろう。
 その場を持続的に「場」たらしめているものがあるはずだ。だから,場の力だと言っただけでは答えになっていない。

● さて。観念の遊戯は以上で終わり。
 開演は午後2時。入場無料。プログラムは前半が,金管,木管,弦のアンサンブル。後半が全体(オーケストラ)の演奏。

● まず,金管。
 管弦楽の場合,旋律を奏でるのはどうしたって弦になるわけで,金管はバックに控えて,盛りあげ役を担当するものというイメージがある。ベートーヴェンの5番では,トロンボーンなんか4楽章まで放っておかれるし。かといって,ラッパなしで管弦楽は成立しようもないんだけど。
 もう少し,金管とはこういうものだっていうのを知りたいと思うことがある。ときどき,吹奏楽を聴きにいくのは,そんな理由もあるのかなと自分で思っている。

● 曲目は次のとおり。
 宮川泰 宇宙戦艦ヤマト
 ロジャーズ 私のお気に入り
 福島弘和 てぃーちてぃーる

● 初めて聴いた「てぃーちてぃーる」が,やはり印象に残った。金管8重奏。「沖縄民謡をジャズ調にした楽曲」らしい。「てぃーち」はひとつという意味で,「てぃーる」は手提げのカゴやざるのこと。
 が,あまりジャズっぽさは感じなかった。万華鏡を覗いているような,次々に景観が変わっていく様,表情の変化が印象的だ(それをジャズっぽさというのか)。

● 次が木管アンサンブル。曲目は次のとおり。
 ダンツィ 木管五重奏曲より第1楽章
 ヒンデミット 小室内楽曲より第4,5楽章
 久石譲 となりのトトロ

● う~む,この演奏を中学生がやっているとは,どうにも信じがたい。信じがたいといったって,現に目の前で演じられているわけだから,こちらのモノサシを替えるしかないわけだが。
 レガートという言葉を思いだす。なめらかに,という。そのレガートを実際の演奏に翻訳すればこうなる。
 誰でも知っている(聴いたことのある)「となりのトトロ」のような曲で,それが如実にわかる。

● ただ,この曲に合わせて歌いだしちゃった男の子がいてね。しょうがない,これは屋内運動会でもある。
 演奏する側とすれば,乗ってくれて逆に嬉しいかもしれないしね。

● 弦楽合奏。ヴィヴァルディの「四季」から「春」と「秋」のそれぞれ第1楽章。チャイコフスキー「弦楽セレナーデ」の第2,4楽章。
 このレベルの高さは,中学生という枠を外しても,県内屈指といっていいだろう。

● 技術的な正確さに加えて,(使いたくない言葉だが)芸術性が乗っている。
 芸術性というのは恣意的に使われるしかない言葉でしょ。あまり頭の良くない人が思考停止になったときに使う語彙だと心得ている。
 だから,何とか別の言葉で言い換えてみたいんだけど,まず,楽譜を読み込んでいるように思われる。楽譜の細部を拾っているといいますか。
 拾った結果を自分に引きつけている。あるいは,自分を通過させて濾過している。それを音に換えている。

● 以上を要するに,解釈がしっかりしている。解釈というのは,豊富な人生経験を積まないとできないものではないらしい。
 人情の機微がわかり,男女の情愛も経験し,酸いも甘いもかみわけ,見るべきほどのものは見つ,というバックグラウンドは必ずしも必要ないようだ。中学生のこの演奏を聴いていると,そう思わざるを得ない。
 多くの楽曲については,すでに解釈が確立していて,その確立されているものを再現すればいいということなのかもしれないけれど。

● 休憩をはさんで,後半はオーケストラ。
 ワーグナー 楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」より第1幕への前奏曲
 チャイコフスキー 組曲「眠れる森の美女」より「ワルツ」
 ファリャ バレエ音楽「三角帽子」より「粉屋の踊り」「終幕の踊り」
 ホルスト 組曲「惑星」より「木星」

● 第1音でワーグナーの世界を彷彿させる。あとは曲についていくだけ,って感じ。ぼく程度の聴き手がああだこうだと言う話ではない。
 1stヴァイオリンはツートップ。最初にコンマスを務めた男子生徒のただ者ではない感が好ましい。熱でオケを引っぱる。
 対して,後半にコンミスを務めた女子生徒は理で引っぱる。もちろん,以上は象徴的に言えばという話である。

● これ以上アレコレと申しあげるのは無礼であろうから,駄弁を弄するのは以上にとどめる。
 これで6日の鹿沼高校,昨日の西中学校と続いた,“鹿沼3部作”のすべてを聴けたことになる。こんなことは数年に一度あるかないかだろう。

2017年8月12日土曜日

2017.08.11 鹿沼市立西中学校管弦楽部 第27回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 鹿沼西中管弦学部の定演を拝聴。開演は午後2時。入場無料。
 西中学校の演奏を聴くのは,これが3回目。第23回第25回を聴いている。つまり,1年おきになっている。意図してそうしているわけではなく,偶然の結果。
 平日開催のときにはなかなか行けないわけで,たぶん,そうした事情によるものだと思う。

● プログラムは前半が室内楽的アンサンブルで,後半がオーケストラ演奏。
 まずは,1年生による「聖者の行進」。3年生の管がアシストに入った。その結果どうなったかというと,管の音しか聞こえてこなかった。弦が消されてしまった。
 ま,でも,これは仕方がないか。さすがにオズオズと弓を動かしている気配があった。これからどんどん巧くなっていくのだろう。この年齢の子たちの上達速度は,ぼくらの予想を上回るものだから。

● 2年生による木管三重奏。ジョプリン「エンターテナー」。2年生になると,これだけの安定感が生まれてくるんですねぇ。
 まだ生硬さはあるけれど,1年間でここまでの水準に到達できるという,歴然たる実例。

● 次は2,3年生による弦楽合奏。パッフェルベル「カノン」。これはしっとりと聴かせる曲。この曲のファンは多いに違いない。
 やはり硬い感じはする。もっとふくらみやふくよさかがあればな,とは思う。妙にとんがってる感じも受けた。
 しかし。中学生がここまで弦楽器を操る。その事実は知っておくべきだろう。

● 2,3年生による金管五重奏。メンケン「美女と野獣」。両端のホルンの女子生徒に注目。

● 3年生による木管五重奏。ここでもメンケン。「アンダーザシー」と「パートオブユアワールド」。
 木管五重奏になぜホルンが入っているか。その理由を演奏が教えてくれる。ホルンの音色は木管に合うというか,木管に近いというか。柔らかくて伸びやかな音なんだよねぇ。つまり,ここでもホルンの女子生徒に注目。
 ぼくはホルンが好きなのかもしれない。だものだから,肩入れしてしまうのかも。

● 弦楽合奏。ヴィヴァルディの「四季」から「春」。この曲はポピュラーだから,誰もが評論家になれる。
 メロディーを奏でるのはヴァイオリンだけれども,低弦部隊が下からキチンと支えていればこそだ。その低弦部隊がしっかりしている。

● 次も弦楽合奏。グリーグ「ホルベルク組曲」。演奏したのは「前奏曲」だったか。
 どんどん調子が上がってきている感じ。流れがよくなっている。なめらかな演奏だ。この後,もう一度「春」を演奏してみてくれないかと思った。

● 管楽合奏。タケカワヒデユキ「銀河鉄道999」。お見事。演奏しているのが中学生であることを忘れる。

鹿沼市民文化センター
● ここで休憩。後半はオーケストラの演奏となる。まずは,ウェーバーの「オベロン」序曲。
 全体は部分の総和を超える。これ,“複雑系の科学”の基本テーゼらしい。そのことを思いだした。
 前半のアンサンブルを全部足しても,この管弦楽にはならない。部分の総和を超えている。そこがまた,オーケストラの妙でもあるのだろう。

● それこそ,ふくらみがある。ふくよかでもある。空気をたっぷり孕ませた生ハムのようだっていうか。
 どうもたとえが適切ではないかもしれないけれど,空気を孕ませてお皿に載せた生ハムは,スーパーで売ってる状態の生ハムより断然,旨そうに見える。実際,旨い。

● ステージで演奏している中学生が,紳士淑女に見えてきた。特にヴァイオリン。
 コンミス,かっこいい。ただ,1stの最も客席に近い列に並んでいる女子生徒4人は,誰がコンミスを務めてもおかしくない感じがする(実際,曲ごとにコンミスは替わった)。
 部活だけでここまでになれるんだろうか。部活のほかに個人レッスンを受けていたりするんだろうかねぇ。鹿沼ジュニアフィルの活動もやっているんだろうから,まぁ,部活だけってことはなさそうなんだけどねぇ。

● 次は「ジブリ・メドレー」。ジブリの曲に駄作なし。それをメドレーにしているわけだから,曲としては鉄板のはず。
 オーボエで一人気を吐いている男子生徒がいた。彼,1週間前の鹿沼高校の演奏会にも出ていたな。OB君だね。ここでは,そのOB君が最も目立っていた。

● ロッシーニの「セビリアの理髪師」序曲。金管の見せ場が多い。ヴィオラにも達者な奏者がいたようだ。気づくのが遅くてごめん。

● 最後は,ベートーヴェンの5番。演奏したのは第1,4楽章のみ。奏者も曲に乗って演奏するところがあるのじゃないかと思う。おそらく全楽章を演奏する方がやりやすいのではないか。が,それは6月のジュニアフィルでやってるもんな。
 ここでオーボエの1番を担当したのは,先のOB君ではなくて,(たぶん3年生の)女子生徒だった。そのオーボエが役割をきちんと果たし,フルートも演奏を引き締めた。

● アンコールの「カノン」も含めて,後半のオケ全体の演奏はどれも聴きごたえがあった。
 演奏しつつ場に慣れるということがあるのかもしれない。尻あがりに良くなってきた感があった。

● ただひとつ,惜しむらくは客席。
 この演奏会は一般公開ではあるものの,基本は校内行事なのだろう。客席にいるのは主に保護者だと思われる。校内行事であれば,客席が屋内運動会的なものになるのは致し方がないのかもしれない。
 自分の方が闖入者なので,そこのところをあまり非難する資格はないのだが。

● 動き回る幼児を放置したり,演奏中に入ってきて,空いている席にすぐに座らず,場内をウロウロしたりっていうのは,まぁ,仕方がないとしよう。
 けれども,フラッシュ撮影は,フラッシュ撮影だけは,どうにかやめさせる手だてはなかったものか。あれはステージで演奏している生徒たちへの冒涜で,自分の子どもだったら冒涜してもいいのか,という話になる。
 と言うと,少々以上に大げさになるのかもしれないけれども,演奏が素晴らしかっただけに,この点だけが惜しまれる。

2017年8月7日月曜日

2017.08.06 鹿沼高校音楽部管弦楽団 第22回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● この年代の若者たちでなければ表現できない「一生懸命」がある。20代や30代の人間が同じようにしても,こうはならないっていう。
 「その場」にとどまることを許されず,駆け去っていかなければならない若者たちが,それでも石の台座に鉄筆で刻むようにして,「その場」に残そうとする「一生懸命」。

● 彼らは今にしか存在できない。明日の彼らは別の人になっている。そう思わせるほどに成長(あるいは変化)の速さをビルトインされた年齢の若者たちが漂わせる,あわいのようなもの。儚く,哀感にも通じるもの。
 日々「死と再生」を続けて行かざるを得ない疾風怒濤の渦中にあって,それでもなお,「その場」にとどまろうとする「一生懸命」。
 その「一生懸命」がステージから客席に向けて,次々に押し寄せる。息苦しくなるほどに。

● もちろん,台座もろとも流されるしかない。どうやったって,それを止めることはできない。
 そうした音楽という表現形態の一回性,瞬時性を,先鋭に見せてくれた演奏だった。
 全体を総括するなら,「見事である」の一語に尽きると思う。良い演奏を聴かせてもらった(→上から目線的な言い方ですまぬ)。

● この楽団の定演は過去に一度聴いている。2009年の第14回。以後,8年も遠ざかっていたのは,今回のようなインパクトをそのときは受けなかったからだと思う。
 おそらくは,こちら側が聴き手として今よりさらに未熟だったからだろう。申しわけのないことだった。

鹿沼市民文化センター
● 以上で感想は尽きている。したがって,以下はまったくの余談。形作りにすぎない。

 開演は午後1時30分。入場無料。
 開演前にロビーコンサートも行われた。これは聴いたような聴かなかったような。
 っていうのはですね。JR駅から会場まで歩くわけですよ,この炎天下を。タクシーに乗るほど偉くないし。
 途中にあるコンビニで二度,休憩した。寄る年波ってことでしょうね,会場に着いたときには疲労困憊。ということで,まぁ。

● 曲目は次のとおり。
 シベリウス フィンランディア
 ミュージカルメドレー=オペラ座の怪人,サウンド・オブ・ミュージック,レ・ミゼラブル
 外山雄三 管弦楽のためのラプソディ
 プロコフィエフ バレエ音楽「ロメオとジュリエット」から,第1,2,5,6,7曲

● 特に記憶に残ったものをどれかひとつ選べと言われたら,「フィンランディア」か「オペラ座の怪人」かで悩むところなんだけど,「フィンランディア」かな。
 金管による最初の一音で,ガッと聴衆を鷲掴みにした。楽譜の然らしめるところでもあるわけだけど,演奏の妙にもよる。特に,トロンボーンが印象的。ここが決まれば,あとは一気呵成。

● 「オペラ座の怪人」は楽譜どおりにメリハリを付けるのが,なかなか大変なのじゃないかと思う。それがメリハリの細かいところまで,ほぼ完璧。小さな事故は愛嬌というものだ(事故にまでは至っていないか)。
 「オペラ座の怪人」っていい曲じゃん,と教えてくれる演奏だった。ぼくも吹奏楽を含めて,この曲は何度か聴いているんだけど,今回しみじみいい曲だと思った。

● 「管弦楽のためのラプソディ」はソーラン節や八木節などの民謡をつなぎ合わせたもの。民謡を取り入れるっていうのは,マーラーもやってるし,ドヴォルザークもやっている。わりと多く見受けられるものだ(と思う)。
 しかし,ここまでのものはあまりないでしょ。アレンジとかオーケストレーションにオリジナリティがあると言われれば,それはそのとおりなんだろうけど,それを「作曲」といってはいけないのじゃないか。

● ぼくの知る限り,栃木県内の高校で吹奏楽ではなく管弦楽部を有しているのは,この鹿沼高校のほかに,宇高,宇女高,栃女高,足利高,足女高,合わせて6校にとどまる。その中でも,鹿沼高校と宇女高がおそらく双璧なのではないか。
 中学校で管弦楽部があるのは鹿沼市内の西中と東中のみ。その西中と東中から優秀な経験者を集めることができる,地理的な優位性を鹿沼高校は持っている。
 のだろうと思ったんだけど,プログラム冊子の部員名簿を見ると,両中学校の出身者は3分の1に過ぎない(といっても,弦に限ればさすがに割合はもっと高くなる)。鹿沼からひと駅電車に乗れば,そこは宇都宮だからね。ゴッソリかき集めるというわけにはいかないようだ。

● 印象に残った奏者が3人いた。チューバをしっかり支えていた女子生徒。1番フルートを担当した,これも女子生徒。それから,奏者としての所作が美しかったコンミス(当然,女子生徒)。
 ヴァイオリンを担当していた生徒が途中でパーカッションに回るとか,臨機応変の対応もあった。高校の管弦楽ではわりとあることなんでしょうね。8年前の定演でも,同じことがあった記憶がある。

● 大人の市民オケに混じったとしても,鹿高オケが埋没することはないように思う。
 6月に鹿沼ジュニアオケの演奏を聴いたときに,鹿沼は栃木県の音楽活動のセンターのひとつなのだと思った。今回,いよいよその感を深くした。

2017年7月17日月曜日

2017.07.17 宇都宮ジュニアオーケストラ 第21回定期演奏会-ファイナル・コンサート

栃木県総合文化センター メインホール

● ぼくの知る限り,栃木県内にジュニアオーケストラは3つある。宇都宮,鹿沼,足利。その中のひとつ,宇都宮ジュニアオーケストラが,今日の演奏会をもって活動を終了する。
 活動終了の最大の理由は団員の減少らしい。とすれば,これが先駆的な例になってしまう可能性もある。

● 音大卒は毎年積みあがる。プロへの道は彼らにとっても険しい。彼らがアマチュアとして演奏活動を続ける。あるいは音大ではなくても,演奏が好きでずっと続けていた人たちが,社会人になっても市民オケに入って,音楽を継続する。
 そのため演奏者は増える傾向なのに対して,聴衆が細ってきていると思っていた。聴衆の高齢化ははっきりしていて,彼らが抜けた分だけ新規参入があるとはとても思えない。
 この先,どうなってしまうのだろう。それはしばしば,思うことがあった。

● ところが,今まで存在していた楽団が消えてなくなるという事態は,まったく考えたこともない。ぼくの中では想定外。
 もちろん,一発オケというのもあるし,楽団内で運営方針が対立して,分裂したり消滅したりっていうのはある。それは昔からあることなので,考慮の外に置く。

● ジュニアの世界ではそれが起こっているのだな。少子化という言葉をことさら使うのも憚られるほどに,少子化は社会の前提になっている。実際に起きてみれば,こういう事態もあり得べし,だった。
 昨年の第20回の演奏会でも,OB・OGが多数参集してて,節目だから集めたのだなと思ったんだけど,そうじゃなかったんだ。そうしないとオーケストラとして成立しないくらいに団員が減ってたんだ。

● 宇都宮でもそうだとすると,厳しいんだろうなぁ。先月初めに聴いた鹿沼は元気そうだったんだけど。
 ぼくにできることは,ホールまで自分の身体を運んでいって,彼らの演奏を聴き,拍手を贈ることくらいだ。
 今日は,別の演奏会もあって,当初はそちらに行くつもりでいた。が,この楽団がファイナル・コンサートを催行するということであれば,行かないわけにはいかない。
 開演は午後2時。入場無料。

● 曲目は次のとおり。指揮は水越久夫さん。
 ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲
 シューベルト 交響曲第7番「未完成」
 ベートーヴェン 交響曲第5番
 最後にふさわしい王道のプログラムといっていいだろう。これしかないと言っていいかもしれないほどの。アンコールはブラームス(ハンガリー舞曲第5番)。最後に相応しく,ドイツの正統を並べてきた。

● 正々堂々のプログラムに対して,演奏もまた正々堂々。
 「未完成」を生で聴くのは久しぶりのことだ。あぁ,こういう曲だったなぁと思いだしたっていうか。最近,CDでもずっと聴いていなかったので。

● 「運命」は出色中の出色。特に第4楽章はお見事の一語に尽きる。高揚感がハンパなかった。
 「運命」はこうでなきゃという自分の中のイメージとピタリと合っていた。こういう演奏を聴くと嬉しくなる。

● ジュニアには最後という気負いはなかったように思われる。普段どおりというか,淡々と演奏していた印象。もちろん,それで良いのである。
 ファイナルコンサートだからといって,何か特別なことがあるわけでもない(団長の挨拶はあったけど)。アンコールが終われば,観客は三々五々に散っていく。

● ライヴは一期一会だ。演奏する側にとっても聴く側にとっても。今日の演奏でも,奏者のうちの誰が一人が入れ替わっていたら,この演奏はなかったわけで。
 そして,今後はこのオケとの出会いそのものが叶わなくなったというわけだ。

2017年7月16日日曜日

2017.07.16 栃木県立図書館第161回「県民ライブコンサート」-マニアックなクラシックのコンサート

栃木県立図書館ホール

● 栃木県立図書館の「県民ライブコンサート」。斎藤享久さんと栃響選抜メンバーによるハイドンとモーツァルト。
 開演は午後2時。入場無料。

● 今回の曲目は次のとおり。
 ハイドン オーボエ四重奏曲 ニ長調
 モーツァルト ピアノ四重奏曲第2番 変ホ長調
 モーツァルト ディヴェルティメント第17番 ニ長調

● 斎藤さんは,オーボエ四重奏曲ではオーボエを,ピアノ四重奏曲ではピアノを,ディヴェルティメントでは指揮を,それぞれ担当。
 ハイドンのオーボエ四重奏曲。フルートをオーボエに替えたものだろうか。ハイドンの曲はまずめったに生で聴く機会はない。

● モーツァルトは,お馴染み感がありますな。素人の印象を言わせていただければ,最小限の道具しか使わないで,とてつもなく緻密な建造物を構築してしまう。宮大工の棟梁のようなね。
 したがって,演奏する方も,超絶技巧は要求されないんだけれども,わずかのミスも許されないという緊張は強いられるんじゃなかろうか。

● 各曲の間にアンコール曲を入れる。箸休めというか,お客さんにひと息入れてくれっていう感じの。
 だから,アンコール曲が3つある。最後はアンダーソンの弦のピチカートだけで演奏されるやつ。「PLINK,PLANK,PLUNK!」だったか。小味な小品という感じの曲。

● というわけなので,演奏時間はたっぷり2時間。本格的なコンサートなのだ。侮ってはいけないのだ。無料の小規模な演奏会だからといって,なめたらいかんぜよ。
 これだけのハイレベルな演奏を,少なくとも栃木県で聴ける機会はそんなにない。ありがたいぞ,県立図書館!
 奏者と客席の距離が近いのもいい。その代わり,客席に勾配はついていないから,後ろの席だと奏者の全体を視野に入れることは難しくなるけどね。

2017年7月15日土曜日

2017.07.15 真岡フルートアンサンブル 第6回発表会

真岡市民会館 小ホール

● 真岡フルートアンサンブルの第6回発表会。開演は午後3時。入場無料。

● 初めての拝聴となるが,結成して15年になるらしい。
 技術の巧拙は問うところではない。こうして創る側(聴かせる側)に身を置き,練習を重ねて曲を形にし,その結果を聴衆に晒すというだけで,敬意を払われて当然である,と,ぼくは思う。
 演奏する側と聴く側を対置すれば,前者が常に上位だ。聴いて,その演奏に対してあれこれ言うのは,誰でもできる。

● 活動すること自体を目的にして活動しているのだろう。それでまったくOKだ。であれば,あまり細かい注文をだすのは余計なことだとしたものだ。
 余計なことをする輩をバカという。こんなブログを書いていることじたい,余計なことかもしれず,したがって自分はバカかもしれない,と時々思う(→時々かよ)。

● ただし,だ。言いたくなることはいくつかあったぞ。
 楽譜に集中するあまりなのか,指揮者を見ていなかったのではないか。終曲のタイミングが合わないのは,指揮者を見ていないからではなかったか。

● リズムを取るのに,靴を鳴らすのはやめた方がいいんじゃないか。
 開演前に会場に放送を流す。携帯電話をはじめ,音の出る電子機器のスイッチは切ってくれ,と。
 正当な要求だ。演奏中にケータイの着信音が鳴ったら,目もあてられない。演奏中に音楽以外の音が発生すると,演奏を壊してしまうことがある。
 同じように,演奏者も音楽以外の音を発生させてはいけないだろう。ごくたまに,楽器(特に弦の弓)を床に落とすのを目撃することがあるけれど。
 どうしてもつま先でリズムを取りたいというのであれば,音の出ないゴム底の靴に替えてはいかがか。たぶん,市販されているだろう。

● 指導者の遠藤淳子さんが,次の2曲を演奏。これを無料で聴いては申しわけない。
 マスカーニ 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より「間奏曲」
 ショパン 「フルートとピアノのための,ロッシーニ「シンデレラ」の主題による変奏曲」

● ショパンはピアノ曲しか作っていないという印象が強い。チェロ・ソナタがあることは知っていたけれども,フルート・ソナタまであったとは今日まで知らなかった。
 が,この曲は偽作の可能性が高いらしい。ただ,誰が作ったにせよ,ショパンだと言われると信じてしまうほどに完成度が高い。

2017年7月12日水曜日

2017.07.09 東京大学歌劇団第47回公演 ビゼー「カルメン」

三鷹市公会堂 光のホール

● 東京大学歌劇団の公演を見るのは,これが5回目になる。前回見たのは,2014年の12月。だいぶ間が空いてしまったが,その理由のひとつは,会場が三鷹市公会堂であること。
 つまり,遠いんですよね,ここ。栃木から行くんだから,どこだって遠いじゃないか,って?
 そうではない。三鷹駅までは近いんですよ。近いっていうか,電車が運んでくれるから,こちらは座っていればすむ。居眠りしててもいいし,雑誌を読んでてもいいし,音楽を聴いててもいい。

● 問題は三鷹駅から三鷹市公会堂までなんだよね。この距離がけっこうある。
 駅からはバスもある。ただ,乗合バスっていうのは,地元民しか乗りこなせない。ヨソ者としてはどのバスに乗ったらいいのかわからない。
 とはいっても,そんなのはネットをググればわかるんですよね。そのわずかな手間が面倒くさい。その面倒くささを避けてしまう。

● 避けた結果どうなるかといえば,駅から公会堂まで歩くことになる。距離にすれば2㎞くらいか。宇都宮でいえば,JR駅から東武駅くらい? もうちょっとあるかな。
 歩くのもまた面倒だ。それが間があいてしまった理由のひとつかな,と。

● が,いつまでもそうしてはいられない。頭のてっぺんに穴が空きそうな太陽光を受けながら,その2㎞を歩いて,三鷹市公会堂へ。
 大成高校のグラウンドでは野球部が練習をしていた。高校野球の季節だな。この炎天下でこんなことができるんだから,高校生ってすごいよな。ぼくらが同じことをやったら(できないけど),自殺行為になる。

● さて,「カルメン」だ。この歌劇の脚本で解せないことが2つある。
 ひとつは,ドン・ホセはなぜカルメンにここまで入れあげてしまったのか。しかも,入れあげた状態が長く続く。いっこうに冷める気配がない。
 カルメンは情熱的な美人で,いうならマドンナという設定になっているんだけれども,それにしたって。どうして,ここまで。
 もうひとつは,最後のカルメンの行動。ホセに殺されるとわかっていながら,友人の忠告をふりきって,ホセに会う。会って,さぁ殺せと言わんばかりにホセを挑発する。そして,殺される。

● この2つがどうもわからない。この2つは,でも,歌劇「カルメン」の根幹をなすところであって,そこに疑問を持ってしまったのでは,「カルメン」がどこかに飛んでいってしまう。
 しかし,わからないものはわからない。

● メリメの原作には,そういうわからなさはないんですよね。
 歌劇でのホセは内向的で母親思いの真面目な青年だけれども,原作でのホセは激昂しやすい男。カルメンをめぐって軍の上官と言い争いになると,上官を刺殺して,ダンカイロ盗賊団に身を寄せる。この盗賊団は殺人も躊躇なく行う極悪非道な犯罪集団だ(歌劇では愛嬌のある密輸団として描かれているのだが)
 ホセは,カルメンがダンカイロの情婦であることを知ると,ダンカイロをも殺している。エスカミーリョが闘牛で瀕死の重傷を負ったことを知って,カルメンとヨリを戻そうと動く。
 そういうことなら,なるほどね,ですむ。わからなさは残らない。

● オペラの脚本は,原作をかなりコミカルに改変している。それは興業として成功させる必要があったからだろうけれども,ぼくらに与えられるのは改変された歌劇「カルメン」であって,それを自分に引き寄せて,自分をスッキリさせなければならないという作業が発生してしまった。
 原作と歌劇の最大の違いは,歌劇ではミカエラという重要なキャラクターが設定されたこと。これで劇的な面白さは増していると思う。増しているんだけど,ホセに対するわからなさも増すことになる。こんなに可愛い許嫁がいるのに,おまえは何やってんだよ,っていう。

● 田舎対都市というとらえ方もできるかもしれない。田舎の保守的な道徳が身体に染みこんだホセに対して,都会の奔放な風を思うさま受けながら生きているカルメン。
 故郷という帰れる場所を持つホセに対して,寄る辺なきカルメン。故郷というシェルターを持つホセに対して,ひとり風に向かって立ち続けなければならないカルメン。
 その違いは,生き方の差にならざるを得ない。切羽詰まった度合い,生に対する真剣さ,そういうものがホセとカルメンではだいぶ違う。カルメンは道徳とかルールとか,そんなものをかまっている余裕はない。
 田舎育ちのホセが都会育ちのカルメンに惹かれてしまった。田舎と都市が戦って,都市が勝利した。

● オペラを見る楽しみのひとつに,登場人物と自分を比較して,俺はあそこまでバカじゃねえぞ,と安心するというか溜飲をさげるというか,そんなものがあるんじゃないかと思う。
 「あそこまでバカ」の筆頭は,この歌劇「カルメン」に登場するホセでしょう。だから,そこで溜飲をさげて終わりにしてもいいんだけどねぇ。

● 次に,最後のカルメンの行動だ。どうしてわざわざ殺されに行くようなことをしたのか。
 女の矜恃を示すため? そんなものを示す必要は寸毫もない。
 カード占いで,何度やっても「死」しか出なかったので,もう生きていても仕方がないと思った? そんなバカな。
 ミカエラの説得に応じて,母親を見舞うために密輸団を離脱したホセを見て,自分の孤独感を深めた? 自由がなにより大事というのは自分を納得させるための方便だったとしても,その流儀はかなりのところまでカルメンの身になっていたはずだ。その自由人がその程度で孤独を深めることは,おそらくないだろう。
 ミカエラに嫉妬した? それもないよなぁ。あったとしても,だから自分がホセに殺されてもいいってことにはならないよ。
 寄る辺ない人生に疲れてしまった? それもねぇ。あのカルメンが,と思うよねぇ。

● 普通は,ストーカーと化したホセに対して,「しつけーんだよ,このクソ野郎」と引導を渡しに行ったと考えるべきところなんだろうけど,それも命をかけてやるほどのものではないでしょ。
 となると,考えられる理由はひとつしか残らない。カルメンは自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた。ホセになら殺されてもいいと思っていた。
 しかしねぇ。カルメンはホセに恋情を寄せたことは,たぶん一度もないんだよねぇ。ホセに利用価値があるときだけ利用した。気持ちを向けたことはない。わからないまま残るねぇ,これは。

● 女心の複雑さ,不可解さに還元してはいけない。女心はいたって単純にできている(と思える)。快不快の原則と自分中心主義で動いている(したがって,しっかりと地に足が着いている)。ドライといってもいい。
 問題はこの脚本を書いているのが(たぶん)男であることで,リアルの女と男の目に映った女はだいぶ違うでしょ。そのあたりを踏まえて解釈していかないとね。つまり,脚本家が女を描き損ねている可能性もあるってことね。

● 要するに謎が多い脚本だ。そこに説得力を持たせるにはどう演出すればいいかと,演出者はいろいろ悩むのだろう。オペラ解釈とは,つまるところ,そういうことかもしれない。
 オペラなんだから,大衆受けしなきゃしょうがない。それを前提にすると,この脚本は大成功でもあるわけなんだが。

● この歌劇団の公演を初めて観たのは2013年の1月。そのときも「カルメン」だった。が,今回の「カルメン」は前回のそれとはまったく違ったものになっていた。
 何が違うかといえば,まず演じ手の技量が違う。東大という冠が付いていても,東大生はむしろ少ないのじゃなかろうか。ひょっとして音大の声楽科の学生さんが入っていたりするんだろうか。
 カルメン,ミカエラ,ホセ。いずれも呆れるほどに上手い。特にミカエラは,歌が力強くて,その力強さが辺りを払うところがあった。払いすぎてしまって,ミカエラのホセを思う乙女的な純情さ,村娘の素朴さ,そういったものまで払われてしまった憾みが残るほどだった。

● 舞台のセットと衣装も本格的。前回は,いかにもお金がない学生劇団が手作りで設えた舞台っぽくて,それはそれで好感の持てるものだった。
 今回は,資金提供者がいたんだろうかと思うような,立派なステージでしたね。

● 演出も違っていた。カード占いをするところで,カルメンに「二人とも死ぬ」と言わせている(字幕にそう出たわけなのだが)。“二人とも”という字幕には初めてお目にかかった。“二人”とはカルメンとホセなのだろう。
 カルメンを刺したところで劇は終わるんだけど,このあとホセは,カルメンを刺したそのナイフを自分の首に突き刺したはずだ。
 先に「自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた」と言ったのも,この字幕に連想を刺激されたものだ。

● 初めてカルメンに出逢ったときのホセと,初めてエスカミーリョに出逢ったときのカルメンの様子がパラレルだ。気になるっちゃ気になるんだけど,努めて関心なさそうにしている,という様子。
 これは今回の演出の独自性というわけでもないように思うけれども,そこを強調していたように思われる。穿ち過ぎだろうか。

● 結論は,ここまで作り込めるのはすごい,ということ。演出はもちろんのこと,管弦楽も含めて,大道具や衣装からプログラム冊子に至るまで,相当な水準。
 何から何まで自前。アウトソーシングはしてないらしい。すべての工程が美味しいんだろうから,アウトソーシングしたんじゃもったいない。

● 会場に入りきれず,ロビーでモニター鑑賞を強いられたお客さんも,かなりの数,いたようだ。これはあまりよろしくないから,次回は会場を変えてはどうかね。
 「カルメン」だからこれだけのお客さんが入った? そうかもしれないけどね。

2017年7月8日土曜日

2017.07.08 フラットフィルハーモニーオーケストラ 第5回演奏会

紀尾井ホール

● 四谷駅で降りるのは,今回が生涯で三度目だと思う。
 御茶ノ水は学生街であり,書店街でもあるので,若い頃にはしばしば訪れていた。新宿はあまり行きたいところではないけれども,それでも用事があったり私鉄への乗り換えがあったりで,降りざるを得ない駅だ。
 その間にある四谷にはまずもって用事がない。上智大学があるところという以外のイメージがない。四谷は新宿区にある。が,四谷駅は千代田区になるんでしょ。新宿,港,渋谷,千代田の区堺に位置している。面白いっちゃ面白いところなんだけど,上智大学以外に何かあるんだろうか。

● 逆に上智大学のイメージが強すぎるのかも。松原惇子さんのいうルイヴィトン大学(ブランド大学)の代表だ。偏差値も高い。間違ってもぼくが入れるところじゃない。
 かつては一億総中流と言われていた。日本の金持ちなんて知れてるんだし,庶民といっても日本の庶民はそこそこお金を持っている。上智とか青山とか聖心女子大とか慶応とか,坊ちゃん嬢ちゃんが集まる大学といっても,その他大勢とさして違うところはあるまいと,ぼくは思っていた。

● ところが,今に限らず,昔からそうではなかったらしいんだな。間違って入ってしまった庶民はけっこう疎外感を味わうらしい。本当かねとじつは今でも思ってるんだけど,どうもそうらしいのだ。
 しかし,だ。お金持ちが集まると,彼ら彼女らに独特の話題があり,雰囲気を醸すのだとしても,それが金持ち倶楽部のスノッブと言われるものかどうかにかかわらず,どう転んでも大したものではあるまいと思っている。
 と,わざわざ書くところがすでに,庶民の劣等感の裏返しかもしれないんだけどね。

● とにかく,その上智大学を見ながら歩くこと5分,紀尾井ホールに着いた。このホールに来るのは,今回が二度目。前回も暑い時期だった。
 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。

● 紀尾井ホール。華美でも絢爛でもないけれども,とんでもないお金をかけたホールだというのは,ひと目でわかる。椅子にしろ柱にしろ壁にしろ天井にしろ天井からさがっているシャンデリアにしろ,高級な部材でできている。
 世が世であれば,ぼくなんぞが出入りしてはいけないところであろうな。が,ぼくだけではない。お客さんの大半は,世が世であれば・・・・・・というのに該当しそうだ(暴言多謝)。日本ではクラシック音楽ファンの大衆化は,ほぼ完成の域に達しているのではあるまいか。

● 外は暴力的と言いたくなるほどの猛暑。が,ひとたびホールに入れば,冷房が完璧に作用していて,むしろ肌寒いほどだ。
 それ自体が,ぼくの年齢層の人間には,あっていいのかと思えるほどの贅沢に感じる。いや,“ぼくの年齢層の人間には”と言ってしまっては言い過ぎであろうな。“ぼくには”と言い換えておこう。

● フラットフィルハーモニーオーケストラの演奏を聴くのは今回が初めて。紀尾井ホールでやるくらいなんだから,腕には覚えがあるとみた。プログラムはオール・ブラームス。
 大学祝典序曲,ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲,交響曲第3番。指揮は平真実さん。ブラームスの4つの交響曲のうち,3番は比較的演奏される機会が少ないのではないかと思う。今日はその3番を聴くことができる。

● 女子奏者はそれぞれのカラフルなドレスで登場。こうあるべきだと思う。黒一色も悪くはないんだけど,黒一色の上品さと多くの色が織りなす華やぎとを比べれば,ぼくとしては後者に軍配をあげたい。
 女性はそれぞれが花。花は花らしくあるのがいい。どの花もみな黒いというのは,自然界にはありえないことだ。

● 「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」を聴ける機会はそんなにないだろう。ヴァイオリンはこの楽団のコンミスの田遠彩子さん。チェロはやはり首席奏者の塚本敦史さん。
 長大な曲で,これがなぜ交響曲にならなかったのか不思議。っていうか,ブラームスは交響曲として構想していたんですね。大人の事情ってやつで,協奏曲になった。

● が,あろうことか,ここでぼくは断続的に意識を失ってしまった。猛暑に晒されたあとの涼しさがいけなかったのか。昼食は食べていなかったので,食後の午睡ではないんだけどね。
 もちろん,戦いはしたんですよ。戦ったんだけれども,泣く子と睡魔には勝てないわけで。申しわけのないことだった。
 っていうか,これでチケット代の半分は捨てたも同然だな。

● 交響曲第3番。なぜこの曲だけ,演奏される機会が少ないのか。ひょっとしたら,ブラームスの4つの交響曲の中でも,最も奏者に運動量を要求するからなんだろうか。
 そんなことはないね。第3番は4つの中で最も演奏時間が短い曲なんだしね。

● 1楽章の強烈さ。激情というか情熱というか。大波がうねっているような。2楽章の雅。3楽章の憂愁。そして4楽章の躍動。そして,静かな終局。
 どう聴くかは聴き手の勝手。自分で自由にシーンを妄想することを保証してくれる。その自由を支えてくれるのがいい曲,という単純な見方をぼくはしているんだけど。

● この曲をCDで聴くときには,もっぱらカラヤンで聴いている。カラヤンって,今は非難を一身に引き受ける存在になった感があるけれど。
 が,いくらカラヤンでもベルリン・フィルでも,生演奏には敵わない。言うまでもないことだ。
 生の魅力って何なんだろうか。奏者の一挙手一投足が見えること。固唾をのむ大勢の聴衆の中で聴けること。部屋では聴けない音量を味わえること。それだけでは尽くせない何かがあるような気がするね。
 なのに,生演奏を聴きながら居眠りをしてしまうバカもいるんだな。

● 楽団紹介に「演奏者も団員もふらっと楽しめる演奏会を目指しています」とあった。それでフラットフィルという名前にしたのかね。
 ま,でも,団員が演奏会を楽しむためには,楽しくない練習を重ねる必要があるんでしょうね。

2017年7月2日日曜日

2017.07.02 さくらウィンドアンサンブル 第1回定期演奏会-サマーコンサート2017

さくら市氏家公民館

● 従来は「さくら吹奏楽フェスティバル」として開催されていたもの。開演は午後2時。入場無料。
 3部構成。須賀由美子さんが司会を担当。

● 第1部はホルスト「吹奏楽のための第一組曲」と酒井格「たなばた」。
 よくまとまっている吹奏楽団だと思った。演奏もだけれど,それ以前に団員の仲がいいような感じといいますか。本当はやめたいんだけど,大人の事情で我慢して付き合っているっていう人はいなさそうだ(いるのか?)。
 さくら市以外に住んでいる楽員もけっこういるらしい。さくら市はこのエリアでは交通の便の良さにおいて,かなりのアドバンテージを持っているから,ヨソからも集めやすいのかも。

● とはいえ,隣町の高根沢でも吹奏楽団結成の動きがある。日帰り温泉と同じで,各市町村にひとつの吹奏楽団なんてことになるんだろうか。
 日帰り温泉ならそれでもいいけれども,吹奏楽団がそうなったら,たぶん共倒れになる。おらが町にもひと揃えっていう抱えこみはよろしくない。自然発生ならいいんだけど。

● 第2部は「ジュニアウィンドハーモニーうじいえ」が次の3曲。
 宮川 泰 宇宙戦艦ヤマト
 中山晋平 シャボン玉
 山下国俊編 日本愛唱歌集

● 「宇宙戦艦ヤマト」といえば,ぼく的には2010年に公開された,木村拓哉主演の「SPACE BATTLESHIP ヤマト」だ。っていうか,アニメは知らない。
 ガミラスの放射能攻撃を受けた地球は,人類の滅亡まで残すところ1年余。地球防衛軍に唯一残された戦力である戦艦ヤマトが,放射能除去装置を求めてイスカンダルに向けて出発する。多大の犠牲を出しながらも,放射能除去装置を得ることができた。
 が,もうすぐ地球だというところで,ガミラスの残党が待ち構えていた。撃退する方法はただひとつ。波動砲だけだ。が,満身創痍のヤマトがここで波動砲を打てば,ヤマト自身が粉々になる。
 木村拓哉演じる古代進は,他の乗組員を救助艇に移し,ひとりヤマトに残る決心をする。そして,敵に照準を合わせて波動砲を発射する。
 その最後の場面では,どうしたって泣くわけですよ。

● この曲を聴くと,その最後の場面,ここまでの戦いで戦死した仲間たちの顔がフラッシュバックし,必死の面持ちで発射準備をし,準備が整って発射ボタンを押すときの木村拓哉の恍惚に近い最期の表情を思いだして・・・・・・ありゃま,泣いちゃいましたよ。

● パーカッションの男の子が勲一等かな。目立つところにいるからなぁ,そのせいかもしれないんだけど,かっこよかったね。

● そのあと,さくらウィンドアンサンブル(の選抜隊)が次の3曲。
 福田洋介 さくらのうた-five
 成舞新樹編 アメージング・グレイス
 久石 譲 「魔女の他急便」メドレー
 「さくらのうた-five」はクラリネット五重奏。女子奏者が浴衣で登場。やる方も聴く方も楽しんで,ってことなんだけど,まだ「宇宙戦艦ヤマト」の余韻が残っていて,わりとこの3曲の印象が薄い。
 指揮の村上さんが,団員に話を向けて楽屋話というか裏話を引き出していたのが面白かった。そこは憶えているんだけど。

● で,第3部。
 中村大八(福田洋介編) 上を向いて歩こう in Swing
 久石 譲(星出尚志編) となりのトトロ Highlights
 グラハム&ラヴランド(高橋宏樹編) ユー・レイズ・ミー・アップ
 ボーデュック(岩井直溥編) サウス・ランパート・ストリート・パレード
 第3部を命名すれば,何でもありステージ。最後の2曲はあまり聴く機会がないような気がする(YouTubeでならいくらでも聴けるんだが)。

● 「さくら吹奏楽フェスティバル」として開催してきた蓄積があって,そこで得たノウハウに添った運営のやり方だったと思える。が,団員の中にもこのやり方を変えたいという意見はあるんじゃないかと愚察する。バラエティーショーじゃないんだから,と。
 ただ,これはこれとして成立しているので,もし変えるとすれば,微調整ではなくてガラッと変えることになるでしょうね。

● 先によくまとまった楽団だと言ったけれども,市民吹奏楽団としては団員数も多くはなく,可愛らしいと形容してもいい。
 さくら市の重要無形文化財のひとつに数えていいものだろう。本当にね,こういうのは大事にしないといけないよ。行政が直に介入するとロクな結果にならないから,遠くから見守るだけでいいんだが。

2017年6月27日火曜日

2017.06.25 諏訪内晶子&ボリス・ベレゾフスキー

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後2時。チケットは6,000円。だいぶ前に買っておいた。一律で6,000円なので,どうせならいい席で聴きたいな,と。
 1階左翼席の前から2列目の一番右。総合文化センターだと左翼席が自分の好みだ。ただし,この席だと演奏中の諏訪内さんの表情は窺うことが難しかった。その代わり,ベレゾフスキー氏の指の動きはよく見える。

● 自分のようなヘッポコ聴き手が彼女の生演奏を聴いていいんだろうか。そんな資格があるんだろうか。それは思いましたよね。
 ぼくの耳だと,音大を卒業したヴァイオリン弾きのレベル以上は区別がつかない。同じに聞こえる。目隠しをされて,卒業したばかりのヴァイオリン弾きと諏訪内さんのヴァイオリンを聴かされたら,おそらくどっちがどっちだかわからない。
 でも,お金を払ってチケットを買ってるんだからな。オレは客だぞ,と。

● 曲目は次のとおり。
 ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」
 ヤナーチェク ヴァイオリン・ソナタ
 プロコフィエフ 5つのメロディ
 R.シュトラウス ヴァイオリン・ソナタ
 (アンコール)
 マスネ タイスの瞑想曲
 ウォーロック 「カプリオール組曲」より“Basse-dance”
 クライスラー シンコペーション
 ホイベルガー 「オペラ舞踏会」より“Midnight Bells”

● 諏訪内さんの所作は優雅で柔らかい。天女の舞もかくやと思うほど。所作はもちろん演奏の本質ではないと思うんだけど,ステージで観客に見せる(観客に見られる)わけだから,見せる要素はたくさんあるに越したことはないと,単純にぼくは思う。
 ただし,優雅や柔らかさがないとダメかといえば,そんなことはないのだろう。奏者それぞれに所作があって,それが絵になっていればいい。実力者の所作は,それがどんなものであれ,絵になっているものだというのも,ぼくの経験則ではある。

● 演奏はといえば,これが世界水準か,と。神々しいほどでしたね。客席で息をするのも憚られるような感じで,じっと目と耳をそばだてていた(つもり)。
 ということはつまり,聴き手としてのぼくが,奏者の諏訪内さんに圧倒されていたというわけですね。当然,そうなるわけだけど。
 この世界にも評論家という職業の人がいて(素人評論家もいる,にわか評論家も),中には彼女に否定的な見方を披瀝する人がいることも知ってはいる。伸び悩んでいるとかね。
 が,ぼく程度の聴き手にはあまり関係のないことで,そこはヘボな聴き手の気楽さだ。

● ベートーヴェンのスプリング・ソナタ。7番と9番は諏訪内さんのCDで何度も聴いているけれども,5番も聴けるとは幸せだ。
 たとえばベートーヴェンの全9曲を特定の奏者の演奏で聴きたいという嗜好はあまり持っていないつもりだけれど,もし諏訪内さんのCDが出れば,これは買うでしょうね。

● シュトラウスのソナタは,むしろピアノに見せ場が多い曲のようだ。ベレゾフスキー氏が躍動。彼も1990年のチャイコフスキー・コンクールの覇者で,諏訪内さんとはコンクール同期らしい。
 どうも諏訪内さんばかりに目が行くけれども,彼のピアノもまた滅多に聴けない貴重なものだ。譜めくりの若い女性も緊張したろうなと,余計なことを思った。

● 世界水準の奏者はエンタテイナーとしての振るまいもできるのが常で,彼女も例外ではない。上手いというより,身についている。聴衆に対する捌きも鮮やか。
 自分がまさか諏訪内さんの生演奏に接することができるとは思っていなかったので,まだちょっとフワフワしている。

● アンコールはよく知られている曲とかなりマイナーな曲を交互に4曲。“Basse-dance”と“Midnight Bells”はCDでも聴いたことがない。
 4つもやってくれると,客席の満足度は高くなる。これも演出なんだろうかなぁ。そうなんでしょうね。
 この4曲を続けて聴くと,ヴァイオリンは歌う楽器なのだということが,理屈抜きにわかる。

● 最後にこのコンサートには無関係な憎まれ口をひとつ。
 彼女のビッグネームに引かれて来たお客さんもかなりいたでしょう(ぼくもそうなんですが)。そうなると,客席の水準は下がることになる。
 ここをさらに一般化して言うと,着飾ったお客さんが多い演奏会ほど,聴衆のレベルは落ちる。これが過ぎると,少々困ったことが起きる。今回,それはなかったけどね。

● でね,サントリーホールで催行されるベルリン・フィルとかウィーン・フィルの演奏会にやってくるお客さんというのは,お金持ちの困った君や困ったさんが多いんじゃないかなぁと思ってね。
 そんなこともないのかね。ぼくがそれらの演奏会に行くことはまずあり得ないと思うんで,いろいろ妄想するんだけどね。

2017年6月26日月曜日

2017.06.24 宇都宮大学管弦楽団 第83回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後6時。チケットは800円。といっても,招待状で入場したので,要するに無料になった。
 曲目は次のとおり。指揮は北原幸男さん。
 ベルリオーズ ラコッツィ行進曲
 チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 二長調
 ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調

● 栃木県内にある市民オケの人材供給源としても,宇都宮大学管弦楽団が大きな役割を果たしているのではなかろうか。
 そういう意味では栃木県に存在するオーケストラのセンターに位置するのが,この宇大オケといっていいかもしれない。

● 今回の演奏で最も印象に残ったのがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だ。その功績の過半はソリストの澤亜樹さんに帰せられる。
 次々に繰りだされる澤マジック。ケレンミがないというか思い切りがいいというか。大変なものだと感じ入った。

● 宇大オケも懸命の応接で,曲をまとめていった。幾重にも巡らされた糸がすべてピィィンと張っているような,見事な演奏。
 チャイコフスキーのこの曲は,ソリストの見せ場が多い。それゆえ,澤マジックが目立ちもするわけだけれども,そうであってもなお,協奏曲のできばえを最終的に決定するのは管弦楽だと思う。ピアノ協奏曲はピアノ曲ではなくて管弦楽曲であるのだし,ヴァイオリン協奏曲もまた同じだからだ。

● この曲のCDは2枚持っている。五嶋みどりさんと諏訪内晶子さんのもの。が,こうして澤亜樹+宇都宮大学管弦楽団のライヴを聴いていると,CDなんて問題にもならないと思わないわけにはいかない。
 ただ,急いで付け加えておくけれども,ぼくは再生装置をウォークマンしか持っていない。せめてミニコンポがあれば「問題にもならない」とまでは思わなかったかもしれないね。

● 第1楽章が終わったところで,会場から拍手が響いた。一部の人がオズオズと手を叩いたというふうではなくて,満場の拍手だった。
 そうしたい気持ちはぼくにもよくわかった。ので,3秒遅れて,ぼくも拍手に参加した。

● 新進気鋭の実力者と学生オーケストラという組合せがよかったか。“功成り名を遂げた大御所+プロオケ”の演奏が常にアマチュアに勝ると思ったら,大間違いだ。
 その演奏からぼくらが持って帰れるものは,技術のみによっては決まらない。うまく言えないんだけれども,そこに込めた思いであるとか,ピュアな気持ちであるとか,難曲に向かうときの心ばえや緊張感であるとか,そういうものが結果において演奏の質を高めることがあるように思う。

● ベートーヴェンの5番は今月4日に鹿沼ジュニアフィルの演奏を聴いたばかり。中高生の演奏とは思えないほどに完成度が高かったと思う。それがまだ耳に残っている。耳に残っているということは,おそらく美化された状態に変わっている。
 ので,それが今回の演奏を聴く妨げになるかもしれない。そこを少し怖れていた。

● しかし,まぁ,杞憂でしたね,そんなのはね。目の前の演奏が始まってしまえば,この世に存在するのはその一曲だけになるんでした。
 鹿沼ジュニアの演奏は第4楽章がかすかに弱かったかと思えた。今回の演奏はその第4楽章がこちらのイメージにぴったりの強さで,そこが好印象。

● かように聴く方は勝手な聴き方をする。聴き方に作法があるわけではあるまいから,そういう勝手も許される(と思う)。っていうか,そういう勝手を包含できるのがいい曲ということなんでしょ。
 第1楽章こそ管にわずかな乱れが見られたけれども,それ以降は闊達自在と形容したくなる演奏。
 それにしても。この学生オケからこれだけの演奏を引きだしたのは,指揮者の北原さんの仕業ということになる。宇大オケと北原さんの相性がいいんだろうか。

● アンコールはエルガー「威風堂々」。
 これねぇ,困ることがひとつだけあるんだよね。来て来て,あたしん家,っていう言葉が浮かんで来ちゃうってことね。アニメの主題歌にこの曲の一部が使われたゆえなんだけど,こういうのって時々,困った事態を招くことがあるねぇ。

● 改装なった宇都宮市文化会館。ここで聴くのはこれが2回目になる。前回は5月に作新学院吹奏楽部の演奏を聴いた。そのときは吹奏楽だったためか,改装の前後で何が変わったかのかあまりピンと来なかったんだけど,音響がかなり良くなっていたんですね。
 今回の演奏を素晴らしいと感じた理由の2割くらいは,文化会館の音響改善によるかもしれない。ホールも演奏者なんだよね。

2017年6月23日金曜日

2017.06.17 成城大学レストロ・アルモニコ管弦楽団 第40回メイフラワーコンサート

成城学園澤柳記念講堂

● アマチュアオーケストラの演奏会情報を得るのに,「フロイデ」はすこぶる便利だった。さすがに網羅的ではなかったものの,東京のアマオケの演奏会情報を知るのに,これ以上のサイトはなかった。
 ところが,昨年末から更新が間遠くなり,ついにはサイトそのものがなくなってしまった。管理人氏がお亡くなりになったようだ。

● それに代わるサイトは「オケ専」くらいだろうか。「フロイデ」に比べると高機能なんだけど(条件検索ができる),その分,かえって使いづらいようにも思う。広告が多いのは我慢するとしても。
 ただし,「フロイデ」がなくなったあと,頼りにできるのはこれくらいだ。その「オケ専」で成城大学レストロ・アルモニコ管弦楽団の演奏会を見つけた。

● 指揮は松岡究さん。松岡さんに指揮を頼めるくらいなら,かなりの実力を持ったオーケストラなのだろうと思って,聴きてみることにした。
 開演は午後2時。入場無料。会場は成城大学の構内にある澤柳記念講堂。もちろん,初めてのところ。

● 学内にこれだけのホールを備えているところ(大学)は珍しいのではないか。多目的ホールだけれども,少なくとも,東大の安田講堂や早稲田の大隈講堂より,使い勝手はずっと良さそうだ。新しい分,実用性においてアドバンテージを持っている。

● 曲目は次のとおり。
 ベートーヴェン 劇音楽「エグモント」序曲
 シベリウス カレリア組曲
 チャイコフスキー 交響曲第1番「冬の日の幻想」

● ところで,松岡さんは成城大学の卒業生なんですね。指揮をしたのはその縁ということなんでしょうか。
 この大学は文芸学部に芸術学科を備えているものの,美学・美術がメインのようで,音楽に関しては手薄い。
 松岡さんはその芸術学科を卒業したのかもしれないけれど,今日の松岡さんがあるのに成城大学が果たした役割は,限りなくゼロに近いのではないかと想像する。

● カレリア組曲はしっとりと聴かせてくれた。たまにシベリウスを聴くと,ジンワリ染みてくる。
 カレリア組曲に限らず,コンミスのコンミスとしての健闘が目立った印象がある。

● チャイコフスキーの第3楽章でオヤッと思う箇所があった。けれども,これ,反省するあまり落ちこむことのないように願う。すぐに立て直したんだしね。気を抜いてしまったわけでもないと思う。
 そもそも,演奏中に反省するのは御法度だ。終演後の反省も3秒でいい。案外,反省って何も産まないからね。

● 「冬の日の幻想」ってね,ロシアの冬ってどんななのかと,この曲を聴くたびに思う。幻想を見れるような生やさしい寒さではないはずで,当然,この幻想は家の中で外を見ながら(あるいは,見ないで)脳内に描いているものだろう。
 外国の曲を聴くときに,日本の四季に引き寄せてイメージを作ってしまいがちだけれど,それでいいのか。って,いいも悪いもない。そうして聴くことしか,ぼくらにはできない。
 そういう聴き方をしている異国の聴衆にもきちんと伝わるだけの普遍性を備えているのが,すなわち芸術というものだろうと,勝手に思うことにする。

2017年6月13日火曜日

2017.06.11 那須室内合奏団第9回演奏会

那須野が原ハーモニーホール 交流ホール

● 開演は午後2時。入場無料。曲目は次のとおり。
 パッヘルベル シャコンヌ
 クープラン スルタン
 ヴィヴァルディ 合奏協奏曲「四季」より“夏”
 モーツァルト 交響曲第25番 ト短調(弦楽合奏版)
 バロックとモーツァルト。前回も前半はテレマン,ヴィヴァルディ,ヘンデル。バロックだった。

● 曲間にこの合奏団の音楽監督である白井英治さんの解説がつく。白井さんによれば,バロックは小節線にとらわれず,途中から旋律が展開することが普通にあって,それが今聴いても新鮮に感じる,ということ。

● モーツァルトは古典派。古典派のバロックとの第一の違いは,ソナタ形式。バロックは変奏,フーガ,カノンといった技法で曲ができあがっているのに対して,ハイドンとモーツァルトは主題の提示-展開-再現というソナタ形式を作りあげた。
 以後,一部の例外はあるものの,ほとんどの作曲家はこれを踏まえている。よほどよくできた形式なのだろう。

● 終演後に白井さんが,一緒にやりませんかと団員勧誘。その際,大人になってから楽器を始めた人を立たせたところ,ヴァイオリンの3分の2以上の奏者が立ちあがった。
 プロになるなら5歳から始めていなければいけないんだろうけども,大人になってから始めても楽しめるんですな。あるいは,聴く人を楽しませることができる。

● 最も印象に残ったのは,1曲目のパッヘルベル「シャコンヌ」。それと,アンコール曲のシベリウス「アンダンテ・フェスティーヴォ」。
 旋律の美しさ。美しさを取ったら何も残らない。そこが素晴らしい。夾雑物がないということだから。

● ヴィヴァルディでは独奏ヴァイオリンとチェロが絡む箇所がある。ここは白井さんと賛助出演の本橋裕さんの絡みになるわけで,ここも聴きどころってことになるだろう。
 お得感があるところだ。

● 次回は天満敦子さんを向かえて,5月20日に大ホールで開催する。

2017年6月6日火曜日

2017.06.04 鹿沼ジュニアフィルハーモニーオーケストラ 第28回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 鹿沼ジュニアフィルの存在は知っていたけれど,定演を聴くのは今回が初めて。当然,今回で28回を数えることも知らなかった。かなり前からあったのだな。
 定演を知らないでいたのは,情報がなかったからだ。今回はたまたまTwitterでつぶやいてくれた方がいたから,知ることができたけれども,それがなければやはり知らないままで過ぎたろう。
 ま,定期的に鹿沼市民文化センターのサイトで催し物案内をチェックすればいいわけだけどね。
 開演は午後2時。入場無料。

● 曲目はベートーヴェンの5番とブルックナーの4番。交響曲が2つ,しかもひとつはブルックナーという重量級のプログラム。
 最近はこういうのが珍しくなくなったけれども,ジュニアでもその傾向があるのか。と思ってプログラム冊子を眺めたところ,自分の不明を恥じる結果になった。前からそうなんだ,ここ。
 第8回ではベートーヴェンの5番とショスタコーヴィチの5番,第14回ではレスピーギ「ローマの松」とベルリオーズ「幻想交響曲」,第15回はドヴォルザークの8番とストラヴィンスキー「春の祭典」,第20回ではマーラーの5番。

● 「ローマの松」にしても「春の祭典」にしてもマーラーにしても,大編成のオーケストラになるはずだ。「幻想交響曲」もそうだけれども,そもそも,ジュニアには難易度が高すぎるのではないか。
 本当にこれをやったのか。って,やったんでしょうねぇ。ちょっと驚きだ。

● プログラム冊子の“演奏者紹介”によると,このジュニアオケは鹿沼東中と西中の卒業生が立ち上げたものらしい。「近年は中学生が多くなってきました」ともある。東中と西中で部活で管弦楽をやっている生徒たちがジュニアのメンバーにもなっているんでしょ。
 東中と西中の定演は何度か聴いたことがある。その都度,この生徒たちの演奏で交響曲をまるごと聴いてみたいものだと思った。生徒たちもやりたがるんじゃなかろうか,とも思った。

● やっていたんだね。ジュニアオケで(全員ではないのかもしれないけれど)。しかも,たっぷりと。
 学校の部活のほかに,そちらまでやっているとなると,けっこう負担が大きいでしょうねぇ。好きなことなら負担を負担と感じないってことなんだろうかなぁ。

● 断言するけれども,大人になっても仕事に対してそれができたら,どんな仕事であっても必ずひとかどの人物になれる。まぁ,仕事となるとなかなか好きにはなれないものだけど。
 逆に,この生徒たちが授業と音楽に費やしている時間と労力を,並の大人が仕事に費やしたら,九分九厘,過労で倒れるかメンタルに疾患を来すだろうね。

● ベートーヴェンの5番は,当然,CDで何度も聴いている。CDはカルロス・クライバー&ウィーン・フィルのものだ。
 クラシック音楽の玄人筋には批判の対象でしかなくなった感のあるカラヤン。けれど,そういった批判者をぼくはあまり信用していない。おまえら,ほんとにわかって言ってるのか,程度に思っている。ぼく一個は,たいていの曲にはカラヤンの録音があるのだから,カラヤンで聴けばいいじゃないかと思う。
 が,カルロス・クライバーだけが例外で,彼の録音があれば,できればそれで聴きたい。ので,ベートーヴェンについていえば,4番,5番,7番はクライバーで聴く。その程度がぼくのこだわりといえばこだわりだ。

● って,どうでもいい話ですな。そのクライバーでベートーヴェンの5番は数え切れないほど聴いているってことです。
 しかし,そのCDと今回のジュニアフィルの生演奏とを並べて,どちらを択るかといえば,躊躇なく後者を選ぶ。生の迫力というのはハンパない。特に,5番のような曲はね。
 もちろん,その演奏が一定の水準に達していることが前提になるんだけど。

● 5番を「運命」と名付けているのは日本だけらしい。“曲目紹介”でも触れられているけれど,シントラーに対して,ベートーヴェンが「このように運命は扉をたたく」と言ったとか。どうもこれはシントラーの作り話のようだけどね。
 でも,「暗から明へ」という構成であること,第4楽章で歓喜が迸るような曲想になっていることは,誰もが認めるところなので,苦悩を通して歓喜にいたる音楽だという理解でいいのだろう。っていうか,それ以外の聴き方をするのはほとんど不可能だ。

● となると,この曲の第一の聴かせどころは,3楽章からアタッカでなだれこむ4楽章の冒頭の部分ということになる。われ,(運命に)勝てり,という高らかな勝利宣言。
 満を持して控えていたトロンボーンとピッコロも加わって,管弦楽が全身ではじけるところ。
 ここが少し弱かったような気がした。

● のだが。瑕疵ではないのでしょうね。あえてそうしたのかもしれない。解釈の問題かも。
 次のブルックナーを聴いたあとで,そう思い直した。できなかったのではなくて,やらなかったのだ。

● 中高生がここまでの演奏をすることに驚く。管弦楽の豊穣さを思い知らせてくれる。
 この曲をノーミスで通すのは至難。かといって,ミスるまいと守勢に入ってしまっては,つまらない演奏になる。演奏が横臥してしまう。
 あくまで攻める。ステージには間違いなくベートーヴェンが立ちあがっていた。

● 次はブルックナー。中高生がブルックナーを演奏するということ自体が,ぼくの常識にはなかったもの。
 ブルックナーの交響曲はそれぞれの楽章に交響曲の全体が折りこまれている(という印象を持っている)。交響曲が4つ集まって,ひとつの交響曲になっているのがブルックナー。
 4番もしかり。そこを強いていうと,1,2楽章でひとつのまとまり。3,4楽章でもうひとつのまとまり。全体として壮大な戯曲のようなもの。
 これを中高生が演奏しているという目の前の現実が,あり得ないことのように思われる。

● 出だしはお約束の“原始の霧”。そのあとに,静寂を破るホルン。ここ,責任重大。ここでホルンがこけたら,そこで聴衆の演奏全体に対する印象が著しく損なわれるし,そのあとのオーケストラ全体の士気をも大きく下げてしまう。
 ホルンの女子生徒,見事に責任を果たした。が,そこでひと息つくわけにはいかない。すぐに次の出番が控えている。

● 弦の清澄さ。低弦部隊がしっかりしているから,ヴァイオリンが思うさま踊ることができる。チェロの落ちついた響きが特に印象に残ったけれども,チェロに限らない。
 ファゴットをはじめ,木管陣の1番奏者の技量も相当なもの。1番はどうしても目立つのでそう感じるわけだが,1番だけではないだろう。

● この演奏をブルックナーに聴かせてみたい。さいはて(極東)の島国の,しかも地方の,しかも中高生の,この演奏を聴いて,ブルックナーはどう感じるだろうか。彼の感想を聞いてみたいものだ。

● あえて難癖をつけるとすれば,弦のピッツィカートだろうか。指先(だけ)で弾くと音が寝てしまう。ペチャっとなってしまう。三味線じゃないんだから,腕全体を使った方が良いような。
 もちろん,コンマスをはじめ,そうしている奏者の方が多かったとは思うのだが。

● というわけで,大きな拾いものをした気分。
 栃木県内の音楽のセンターは,ひとつは宇都宮大学(教育学部音楽科と宇都宮大学管弦楽団),もうひとつは音楽学科を有する宇都宮短期大学。
 そして,三番目の核がどうやらこの鹿沼にある。理由はわからないけれども,そうなっているらしい。

2017年5月30日火曜日

2017.05.27 作新学院高等学校吹奏楽部 フレッシュグリーンコンサート2017

宇都宮市文化会館 大ホール

● 2015年11月から改修工事のため休館していた宇都宮市文化会館。工事を終え4月から運営再開。その宇都宮市文化会館で,作新学院高校吹奏楽部のフレッシュグリーンコンサート。
 開演は15時。当日券を購入。1,000円(前売券は800円)。

● 会場時刻が近づくと長蛇の列。こんなに入りきれるのかと思うんだけど,行列って印象が強烈だから,実際の人数より多いと思ってしまうんですよね。文化会館の大ホールは収容人員が2千人超だから,この程度の行列なら問題なく飲み込める。
 とはいえ,その大ホールがほぼ満席となった。1階最前列と2列目に空きがあったけど,あとは埋まっていたんじゃないか。

● 行列でぼくの隣にいたのは,宇都宮高校の生徒。幼顔だったからまだ1年生だろうか。一人で来ていた。おお,同士よ,若き友よ。
 彼以外にも,他校生がかなりいる。中学生もいる。作新吹奏楽部はおそらく,吹奏楽の県内最高峰(社会人の吹奏楽団を含めて)。それだけ吸引力がある。

● 改修後も宇都宮市文化会館の基本的な構造は変わっていない。2階右翼席の前から7列目くらいの,一番左奥がお気に入り。そのあたりの造作もまったく変わっておらず,今日もその席に座ることができた。
 音響もかなりよくなったと聞いていたのだが,吹奏楽だと音響の変化は感じにくいかもしれない。

● 例によって3部構成。第Ⅰ部はコンクールステージとでもいえばいいんだろうか。次のような曲目だった。
 樽屋雅徳 ONE!
 江原大介 スケルツァンド(吹奏楽コンクール課題曲Ⅰ)
 木内 諒 マーチ・シャイニング・ロード(課題曲Ⅱ)
 保科 洋 インテルメッツオ(課題曲Ⅲ)
 西山知宏 マーチ「春風の通り道」(課題曲Ⅳ)
 真島俊夫 復興

● 顧問の先生の説明によると,明日はコンクールの説明会があるらしい。今日はこのコンサートが終わった後に,その説明会に向けての練習(?)か何かがあるようだ。高校や,特に中学校の吹奏楽部の顧問の先生も1階前方に詰めているっぽかった。
 今回,作新吹奏楽部が演奏した4つの課題曲は,あるいはそれらの人たちに向けての模範演奏という趣もあったのかもしれない。

● 間然したところがない。客席に届く音が二重線になっていない。いわゆる縦の線が揃っているというのとは別の話だ。縦の線も揃っているんだけども,それにとどまらない。
 吹奏楽としての一体感というのか,吹奏楽というひとつの楽器があって,その楽器が鳴っているという印象。

● 「復興」の初めの方にトランペットの独奏がある。男子生徒が吹いていた。たんに楽譜をなぞっているだけではなかったろう。思いをこめていた。それを解釈といってもいいだろう。
 本人が意識しているかいないかは別にして,彼は彼なりの解釈を加えたうえで演奏している。

● 第Ⅱ部はポップスステージ。
 最も盛りあがったのは「栄冠は君に輝く」。昨年の定演でも歌っていた女子生徒がボーカル(?)担当。ためらいがないのがいい。度胸が座ってる子だ。
 場の力も大きいでしょうね。度胸を据えるしかない場がステージにできあがっている。

● 聴いていてしみじみしたのは「スペイン」(真島俊夫編)。作新の技術の高さが遺憾なく発揮されていたといいますかね。
 その「スペイン」と「ルパン三世のテーマ」ではダンスも登場。こういうときのダンスって,添え物というか,ついでにやるね,って感じになりがちで,作新といえどもその例外ではなかったと思う。
 ところが,今回はそのダンスも見応えがあった。特に「スペイン」で中央にいた男子生徒。こちらの動体視力がとみに衰えているからかもしれないんだけど,動きが見えないときがあった。速いからだ。すっと消えたと思ったら,別の形になっているっていう。

● 第Ⅲ部はドリル。演し物は「オペラ座の怪人」。演じ手も用意して,ミュージカルの趣もある。が,ストーリーをステージの演奏や演技だけで追っていくのは無理だ。事前にプログラム冊子を読んでストーリーを頭に入れておいた方がいいでしょうね。
 前回までフォーメーションの展開は打楽器奏者が中心になって担っていたように記憶しているんだけど,今回は打楽器は奥に陣取って,管楽器奏者が主にラインを作った。

● このドリル,見ている分にはすこぶる面白い。ストレスが吹っ飛ぶ。
 が,演奏する方は大変でしょ,これ。タイミングがずれるとか,出だしの音程を取り損ねるとか,わりとありがちだろう。何より疲れるだろう。
 こういうのって上手くやるコツがあるんだろうか。

● しかし,見事な仕上がりだった。この時期にここまでできているんだから,秋の定演が楽しみだ。
 今年は50名を超える新入部員がいて,総勢110名になったという。50名を超える新入部員はすでにして精鋭の集まりだろう。吹奏楽をやりたいから作新学院に入学したという生徒ばかりだろう。
 結果,作新吹奏楽部に死角はない。圧倒された。若い彼ら彼女らの前に,ぼくら年寄りは謙虚でなくてはならぬ。
 今年度は東関東の高い壁を越えて,全国に駒を進めるに違いない,と予想しておく。

2017年5月29日月曜日

2017.05.21 東京藝術大学同声会栃木県支部 トーク&コンサート

栃木県総合文化センター リハーサル室

● 2014年に続いて2回目の拝聴。トーク&コンサートとある。プログラムから察するに,フォルテピアノについてのレクチャーと演奏,エリック・サティについての解説と彼の曲の演奏だろう。
 正直,レクチャーはいいから(そういうものはネットをググればまとまった情報を得ることができるだろう),演奏だけ聴かせてくれないかなと思って,出かけていったわけなんだが。
 チケットは2,000円。当日券を購入。開演は午後2時。

● まず,フォルテピアノ。トークも演奏も村山絢子さんが担当。フォルテピアノは何度か聴いているから,その音色を知らないわけではなかった。
 だけども,言われて初めて気づくということがあって(っていうか,そればかりなんだけど),現代ピアノに比べて,フォルテピアノは音の滞空時間が短いというのもそのひとつ。言われてみれば,この違いは大きいでしょうね。

● メインは演奏の方で,特に最後のベートーヴェンの月光ソナタには圧倒された。村山さんはこの曲を数え切れないほど演奏しているに違いないけれど,その中でも今回の演奏は会心の出来だったのではないかと愚考する。
 「月光」って激しい曲だ。その激しさは静かな第1楽章があるがゆえに際立つ。その第1楽章の静けさがジーンと来たなぁ。

● ノーベル賞を受賞したたしか益川敏英さんだったと思うんだけど,「月光」について語っていたのを新聞で読んだことがある。「月光」の第1楽章はつまらない,第3楽章だけ演奏すればいいのでは,と中村紘子さんに言ったところ,第1楽章がなかったら第3楽章もないでしょ,とたしなめられたという話。
 音楽はクラシックしか聴かないとも言っていた。何というか,さすがはノーベル賞受賞者で,けっこう偏っているようだ。

● 第1楽章がつまらないというのも,独特の感性だ。益川さんが「月光」の第1楽章をつまらないと感じる所以はわからないけれども,フォルテピアノのこの演奏を聴いたら,ひょっとしたら前言撤回となるかもしれない。
 いや,ならないか。そこは偏りが身上の偉人だもんなぁ。

● 後半はエリック・サティ論。こちらはレクチャーがメイン。キーワードはダダ(ダダイズム)。
 ダダという言葉を初めて知ったのは,吉行淳之介の『詩とダダと私と』を読んだとき。父親の吉行エイスケ氏がダダの体現者であったらしい。
 このエッセイ集は1979年に出ている。ぼくが読んだのはその数年後。
 けれども,ダダとはそも何ものなのかはよくわからなかった。モボ・モガとか,タケノコ族とか,要するに若者が既存秩序に反抗して見せるパフォーマンスをいうのかと思っていた。したがって,ダダ的現象はいつの時代にでもあり得るものなのかな,と。

● 浅薄すぎる理解だった。今回の浦島真理さんのレクチャーでこのあたりの疑問が氷解した。
 ダダイズムは1910年代にヨーロッパで起こった「芸術思想・芸術運動」だった。背景には第一次世界大戦に対する虚無感がある。
 既成秩序への反抗を中核とするものの,理性や作為を否定するというところまで行くというのは,今回のレクチャーで知ったこと。

● それが美術においては,たとえばデュシャンの「泉」になる。男性用小便器にサインをしただけのものがなにゆえ芸術として認められるのか。
 作品としての「泉」をいくら見つめたところで,理解できないだろう。時代背景を踏まえて初めて,理解に至るかどうかは別として,そういうことなのかとわかった気になる。
 したがって,今,誰かがデュシャンと同じようなことをしたところで,一笑に付されて終わるしかない。小学生ですら洟もひっかけないだろう。時代の拘束力というか空気というか,その力は絶大なんでしょうね。

● 音楽家のサティにおいては,音楽はBGMであれ,ということになるわけか。「音楽」ではなく「音響」でなければならない,と。人の邪魔をしない音楽。
 もともと,サティには反抗精神があったようだ。上流の人たちが行儀よく聴くものであった音楽に対して,ザケんなよ,それがナンボのもんだよ,という。

● しかし,そもそもそこに矛盾がある。当時の大衆には「音楽」も「音響」もない。たとえ「音響」であっても,演奏されるものをわざわざ聴きに行くなんてことはまずしなかったろうから。ゆえに,サティの影響力は限定的なものにならざるを得ない。
 音楽の大衆化が実現するには,録音の技術とそれを再生するプレーヤーの普及を待たなければならなかった。日本でそれが本格化するのは1970年代ではなかったか。

● そして,時代は変わった。大衆も「音楽」を「コンサートホールで行儀よく聴く」ようになった。少なくとも日本ではそうだ。
 邪魔にならない音楽をことさらに求める必要もなくなった。今のぼくらは,BGMとしてたとえばモーツァルトのセレナーデやディヴェルティメントを選ぶ。サティへの需要はあまりないだろう。

● さらに時代は進んで,音楽はデジタルデータに還元されるものになった。こうなると,クラシックもジャズもロックもポップスも,デジタルデータとして横一列になる。
 クラシック音楽がまとっていた文化性,教養性,芸術性といったものは,もうすでに半ば剥ぎ取られているのではないだろうか。大衆化が極まると自ずとそうなるのかもしれない。

● 繊細に時代に寄り添うと,後の時代の人たちには顧みられなくなる。しかし,その時代にこういう人が生きたのだという足跡は残る。
 デュシャンもサティも時代を生きた人であった。それで充分ということだろう。というか,ほとんどの人はそれができない。繊細であることはかなり難儀なことだから。

● 実演の方は,齊藤文香さんが「スポーツと気晴らし」をピアノで演奏。

● ところで。この日はTシャツに半ズボン,素足にサンダルといういでたちで出かけてしまった。どう考えたって,音楽を聴く場に行くのに似つかわしい恰好ではない。奏者にも失礼だ。
 だけど。暑くてどうしようもなかったんですよ。靴なんかはいたんじゃ,足が溶けてしまいそうだったんですよ。
 でもそんな格好をしていたのはぼくの他にはいなかった。無礼千万でありました。

2017年5月17日水曜日

2017.05.14 矢板ロータリークラブ創立50周年記念 オペラ「泣いた赤鬼」

矢板市文化会館 大ホール

● この催しがあることを知ったのは,4月30日に矢板東高校のプロムナードコンサートを聴きに同じ会場に行ったとき。
 隣にある市立図書館に「泣いた赤鬼」のポスターが掲示されていた。演者はプロのようだ。しかも,入場無料だ。じゃぁ行ってみようかという,わりと単純な理由。

● 絵本の『泣いた赤おに』は中年になってから読んだ記憶がある。梶山俊夫絵の偕成社版だったと記憶する。作は浜田廣介。
 しかしながらというか,当然にしてというか,どういうストーリーだったかはすっかり忘れている。

● 開演は午後1時。ロータリークラブの記念行事のこととて,入場は無料。ただし,事前に申し込んで整理券を取っておく。
 ネットで申し込んで,プリントアウトしたのを持参した。けれども,どうやら整理券などなくても入場できたようだ。受付の担当者は整理券など見ようともしなかったから。
 客席は3割ほどしか埋まっていなかった。少し寂しい。が,こんなものか,だいたい。

● 「泣いた赤鬼」のストーリーはこうだった。

 赤鬼は人間たちと仲良くなりたいと思って,遊びに来てよと立て札を立てた。が,人間は誰も遊びに来てくれない。
 どうにかしたい赤鬼は友人の青鬼に相談する。青鬼は即座に提案する。自分が悪役になって人間たちをいじめるから,君はそこに助けに来い。そうすれば人間たちも君が優しい鬼だとわかるだろう。

 その計画を実行すると青鬼の目論見どおり,人間たちは赤鬼の家に遊びに来るようになった。赤鬼は人間たちと楽しく遊ぶことができるようになった。
 けれども,日数が過ぎるうちに青鬼が自分を訪ねてこなくなったことに気がついた。
 そこで,青鬼の家を訪ねると,赤鬼へのメッセージが貼られていた。自分とつきあったのでは,君もまた悪い鬼だったと思われかねない。だから,ぼくは旅に出るよ。

 赤鬼はそれを繰り返して読み,そして泣いた。最も大事な友だちを犠牲にして,その友だちを失ってしまった, と。

● このストーリーには色々と突っ込みどころはある。そんなの,事情を人間に話せばいいじゃないか,彼らもバカじゃないんだからわかってくれるよ,とか。
 しかし,絵本の寓話であるのだから,これくらい骨太の単純なストーリーでいいのだろう。っていうか,それでなければならないのだろう。枝葉を削いで削いで,最後に残ったのがこれだ。

● それをオペラにしたというわけだ。約70分の1幕オペラ。伴奏は1台のピアノ(小笠原貞宗さん)。
 演出は直井研二さん。塩谷町出身の人らしい。指揮は苫米地英一さん。
 演じたのは埼玉県和光市に本拠を置く「オペラ彩」の皆さん。登場人物は7人。赤鬼が布施雅也さん(テノール),青鬼が星野淳さん(バリトン),木こりに伊東剛さん(バス),その娘に飯尾玲子さん(ソプラノ),百姓に大橋正明さん(テノール),その女房に和田タカ子さん(ソプラノ)。そして,歌うナレーターに蒲原史子さん(ソプラノ)。以上の布陣。

● 無料でここまでの劇を鑑賞できるのはありがたい。というのは置いておいても,世の中にこれは子供向け,これは大人向け,っていうのはないのかもしれない。いいものとそうでもないものがあるだけで。
 大人が見て面白いものは,子供が見たって面白いのだろう。大人がつまらないと思うものは,子供だってつまらないと思うだろう。

● オペラ仕立てじゃない,普通の演劇もあるんでしょうね。ストーリーに少し枝葉を付け加えて,やはり70分程度の演劇にすることはできるだろう。
 可能ならそちらも見てみたいものだ,と無難にまとめてしまおうか。

2017年5月12日金曜日

2017.05.06 間奏56:宇都宮北高校吹奏楽部の第31回定期演奏会に行けなかった件

● 今日は宇都宮北高校吹奏楽部の定期演奏会がある。チケットも前売券を購入済みだ。
 が,4日から3泊の予定で,相方と東京に休みに来ている。

● 東京から宇都宮に出て,終演後にまた東京に戻るという酔狂をあえてしてまで,聴く価値があることはわかっている。
 自惚れかもしれないのだけど,その模様を記したぼくのブログを楽しみにしてくれている生徒さんも何人かはいらっしゃるのではないか,とも思っている。

● だから,よほどその酔狂を実行してみようかと思ったのだけど,それを相方に言いだすことはできなかった。
 何というのか,家庭の事情というやつで,目下のところは女房孝行を最優先にしないと。

● とはいえ,この演奏会を聴けないのは残念だ。黄金週間に穴が空いたような感じだ(高校生の吹奏楽の演奏会程度で何を大げさなと思われるかもしれないんだけど)。
 基本,黄金週間にどこかに出かけてはいけないのだよね。こういう大きな取りこぼしが出てしまうから。

● 若い人たちの演奏っていうのは,若いというそれだけで,何らかの魅力を発する。逆に,30代か20代も後半になると,その「何らか」がなくなって,人(奏者)によっては悩む時期に入るのだろうとも思う。
 ともあれ,その「何らか」を満喫するのに,宇都宮北高校吹奏楽部の定期演奏会は格好のものだ。というより,栃木県に限れば,それに代わるものがない(ま,このあたりは,ぼく一個の嗜好がかなり入りこんでいるはずだけど)。

● いや,東京で3日目になるんだけど,過ぎた2日間も楽しかったんですよ。ニューヨークにもロンドンにもベルリンにも行ったことはないんだけど,近くに東京があるのに何でそんなところまで出かけなければならんのかと思っているクチなんですよ。
 東京でまだ行ったことのないところはたくさんある。そういうところをブラブラと歩いていると,東京って都市としては奇跡的に快適な集積を作っているのではないかと思える。

● しかし。東京にはいつでも行ける。正確にいうと,いつでも行けるわけではないけれど,今日の東京のほぼすべては明日になっても,変わらずにそこにある。
 ところが,この演奏会は見事に一回きりなわけで,今日聴かなければ,もうそれっきりだ。

● けれども,今回はそれよりも大事なものを選んだのだと,自分を納得させている。

2017年4月30日日曜日

2017.04.30 矢板東高等学校合唱部・吹奏楽部 第14回プロムナードコンサート

矢板市文化会館 大ホール

● 3年連続3回目の拝聴。合唱部と吹奏楽部が合同で開催する。
 過去2回の印象からこの演奏会の特徴を一言でいえば,“手作り感”ということになる。手間暇をかけて手作りで作り込んできた感じがする。
 技術も相当な水準だけれども,技術だけをいえば,ぼくの知る範囲に限ってもここを凌ぐ高校が栃木県内にいくつかある(これは吹奏楽の話)。
 が,このコンサートの風合い,肌触りは,唯一無二といっていいだろう。つまり,他にはないものだ。

● まず,第1部は合唱部。部員数は14名。うち,男声は3名。例年のごとし。しかし,少数精鋭という言葉もある。

● 「昭和のヒットソングメドレー」は流行歌(死語?)を合唱にアレンジするとこうなりますよという,ひとつの範例。編曲の腕ですな。
 山口百恵「プレイバックPart2」なんか特にそうで,なるほどなぁと思って聴いた。

● 「曲の合間のMCにもご注目ください」とある。女子が男装して,男子が女装してっていうのはわりとありがち。ありがちでもこれは受ける。鉄板だね。女子の男装は様になるけれども,男子の女装はギャグにしかならないわけで,その落差がまず面白い。
 今回の寸劇では,男装した女子(眼鏡をかけてた子)が支えていたかな。彼女が管弦楽でいえばチェロかコントラバスの役割を果たして,舞台を整えたという感じ。

● テルファー「MISSA BREVIS」には3月に卒業したOB・OGも参加。おぉ,ガストンがいるじゃないか。
 Missa brevis は短縮版(クレド=信仰宣言,を含まない)のミサ曲という意味で,小ミサ曲と訳されるのが普通。フォーレやペンデレツキが有名かもしれない。
 誰の曲でも歌詞は変わらない。定例文だ。ぼくが聴くと,曲まで同じに聞こえたりする。困ったもんだ。
 神に捧げる曲なんだから,当然,ラテン語でしょう。高校生がラテン語で歌うんだからね。

● 第2部は吹奏楽。54名で活動していると部長が紹介していた(と記憶する)。
 部員数が54名というのは,まぁ普通だねって感じだけれど,矢板東高校は1学年4クラスで,定員は160のはず。3学年合わせても480。とすると,吹奏楽部の部員比率はかなり高い。そんなに多いのかという印象になる。
 加えて,附属中から吹奏楽をやってきている部員の比率が高いようだから,これからが楽しみだということ。

● 演奏した曲目は次のとおり。
 真島俊夫編 宝島
 樽屋雅徳 民衆を導く自由の女神
 西山知宏 春風の通り道
 アーノルド(天野正道編) 管弦楽組曲「第六の幸福をもたらす宿」より
 オリジナル ドラマ「三太郎」
 久石譲(真島俊夫編) ジブリ・メドレー

● 「民衆を導く自由の女神」は附属中の生徒による演奏。毎回思うことだけれども,高校生の演奏に比べても,ほぼ遜色がない。このまま直線的に伸びていけば大変な集団になる。
 ところが,直線というのは自然界には存在しないもので,そこが難しいところだ。伸びなやみというのがあるに決まっている。そこで腐らないでいられるか。
 ひょっとすると,才能っていうのは,その腐らないでいられる能力のことをいうのかもしれないね。

● ドラマ「三太郎」は矢東presentsというわけなのだが,客席サービスに徹したもの。いや,徹してはいないな。自分たちも楽しみたいよってのもあるもんね。よろしい,人生は楽しんだ者勝ち。
 三太郎は浦島太郎,ピコ太郎,葉加瀬太郎のことだったんだけれども,誰が思いつくのかねぇ,こういうことを。と思っていたら,auのCM「三太郎」を下敷きにしたようだった。あれは,桃太郎,浦島太郎,金太郎だけれども。

● 葉加瀬太郎のときに演奏した「情熱大陸」。この演奏が今回,最も印象に残るものになった。
 一部を聴かされただけでは欲求不満が残る。頭から尻尾まで全部を聴いてみたかったね。
 「情熱大陸」っていい曲だもんね。何かちょこっと聴きたいとき,ぼくは「情熱大陸」かピアソラの「リベルタンゴ」を聴くことが多いんだけどね。ま,どうでもいい話なんだけどさ,これは。

● ジブリ・メドレーやディズニー・メドレーは,たいていの吹奏楽団の演奏会で登場する。お客さんも知っている曲だから楽しんでいただけるでしょ,っていう配慮もあるのだろう。
 曲じたいもいいしね。ジブリにしてもディズニーにしても,駄作はほとんどないのじゃないか。
 しかも。ジブリ・メドレーって,演奏する側の技術の度合いがわりとストレートに出るよね。ヘタクソにジブリを演奏されると腹が立つんだよ。ザケんなよ,ジブリってこんなもんじゃねーよ,とか思うんだよ。

● で,何が言いたいのかというと,ジブリを聴いたという満足感が残ったってことなんですけどね。いや,本当に。見事な演奏だったと思いますよ。
 
● 第3部はミュージカル「アラジン」。ミュージカルというには,ダンスが少ない,というかほとんどなかったじゃないか,と感じる向きもあるかもしれないけれども,それはそれ。
 衣装にも工夫があって(特に,じゅうたん),この衣装も生徒たちが手作りしたんだろうか。

● 今回は,ジーニー役の男子生徒に尽きる。彼なくしてこの劇はあり得なかった。声量といい,舞台狭しと動き回る敏捷さといい,圧倒的な存在感を放っていた。
 しかも,一切,手抜きがない。1秒たりとも気を抜いた瞬間がない。
 手を抜くなと言葉で言うのは簡単だけれども,実際にそれを体現するのは容易じゃない。どこかで手を抜く。それが普通だ。メリハリをつけるというのは,手を抜く局面を作るというのと同義だったりもする。
 彼の場合,そういうことがなくて,ずっと集中が切れなかった。自分の出番ではないときでも,舞台袖でステージに参加していたはずだ。

● “熱”を持っているんだろうね。“熱”は,東大に合格できる程度の勉強頭よりは,はるかに価値の高いものだ。これから遭遇するであろう人生の諸々の事がらに対する際に,最も使える武器を手にしているようなものだ。両親から良い資質をもらって生まれてきた。羨ましいぞ。
 熱血漢だと時にウザがられることがあると思うけれども,そこは状況を見て演技をすればいいだけのことだ。

● その“熱”がステージで彼にオーラをまとわせた。そういう印象だ。
 だが,それだけではない。終演後に「恋ダンス」が披露されたんだけれども,そのおまけの「恋ダンス」でも,彼に手抜きはなかった。普通でいいとは思っていないらしい。手抜きの親戚であるところのテレもない。
 のみならず,動きの切れが頭抜けていた。素晴らしい。

● 先に,「技術だけをいえば,ぼくの知る範囲に限ってもここを凌ぐ高校が栃木県内にいくつかある」と言った。けれども,先を行く他校生の背中は,この高校の吹奏楽部の部員たちにも見えているはずだ。はるか先にいるのではない。
 いずれは差を詰め,ついには追いつくことも充分に予感させる。ひょっとしたら,そんなに遠い将来の話ではないかもしれない。
 が,そうなった暁にはこのコンサートも今のままではいないだろう。違ったものになっているはずだ。そうならざるを得ないものだ。

2017.04.29 ルックスエテルナ 教会のコンサート「ルネサンスの響き」

カトリック松が峰教会 聖堂

● 2013年に続いて2回目の拝聴。開演は午後3時。チケットは1,000円。事前にメールで申しこんでおいて,当日引き換えるという形。当日券もあったようだ。

● 松が峰教会の聖堂,失礼ながら聖堂というにはキッチュな印象を受ける。荘厳品にプラスチック製品があったりするからだ。
 掃除も日本の社寺(の一部)のように浄められたという感じにはなっていない。浄めるということの感覚が欧米と日本では違うのかもしれない。日本の社寺は(いわゆる観光社を除くと)“葷酒山門に入るを許さず”的に外界から隔絶されているのに対して,教会は集会所でもあるという性格の違いから来るのでもあるだろう。

● 曲目は次のとおり。
 デュファイ Missa Se la face ay pale(ミサ もし顔が青いなら)
 ジョスカン Missa Pange lingua(ミサ 歌え舌よ)

● プログラムの曲目解説に,簡潔な説明がある。が,これを読んでサッと理解できる人は,ルネサンス音楽に相当詳しい人でしょうね。ぼくは何度か読み返すことになった。

● どちらも合唱曲(と言っていいんだろうか)としては大曲だと思う。これをステージにかけられる合唱団(と言っていいんだろうか)はそんなにないだろう。少なくとも,栃木県ではこのルックスエテルナだけかと思われる。
 それ以前に,この2曲のすべてを生で聴ける機会というのは,極く少ないはずだ。少なくともぼくの場合,今回が最初で最後になりそうな気がする。もっと聴きたければCDで,ってことだ。

● 奏者の一人ひとりが一騎当千。とても巧い。そこだけはぼくにもわかる。特に男声にそれを感じる。テノールは遠くまで届き,バスはしっかりと土台になっている。
 これってたぶんあれだよね,その他の合唱団の多くが男声が弱いからなんだと思いますよ。他との違いの最も明瞭なところが,ここなんだってことなんですよ。
 少数精鋭でもある。少数だから精鋭でいられるのだと思われる。数を増やしてしまってはいけないのかもしれない。

● ジョスカン『Missa Pange lingua』の前に,テノールだけの演奏があった。
 以下は,プログラム冊子からの引き写しになるのだけれど,「『Missa Pange lingua』は,同名のグレゴリアン・チャントをモチーフとした循環ミサ曲であ」るらしく,その「グレゴリアン・チャント『Missa Pange lingua』の一部分を,テノールが演奏」したということ。
 グレゴリアン・チャントとはつまり,グレゴリオ聖歌のことですね。
 
● 松が峰教会の聖堂は,音楽のコンサートにもわりと使われるところで,ぼくもここで何度か聴いたことがある。音響は独特だ。残響が長いのが特徴かもしれない。
 特に今回のように,神に捧げる音楽あるいは神を讃える音楽の場合,それを教会で演奏したいと演奏する側が考えるのは理解できる。そこに何の齟齬があるわけでもない。

● でも,ここはコンサートには向かないところだと思うんですよ。
 まず,固い木のベンチに座っていなければいけない。同じ姿勢を保っているのがけっこう辛い。

● 聖堂内部にアーチを支える支柱が何本もあって,これが視界の邪魔をする。演奏者の全体が視野に入る席は,中央の前3列くらいではないだろうか。それ以外は支柱が視界を遮ってしまう。
 ぼくが座った席も,支柱によって演奏者の半分が見えなくなった。これ,かなりフラストレーションが溜まる。
 その不快感のために,演奏を聴くという行為に没入できなかった感がある。それでは聴いたことにならない。

● CDではなく生を聴くことのアドバンテージは,奏者が見えるところにある。視覚から入ってくる情報の多さ。その情報を曲解したり誤解したりできる自由さ。そこがライヴの生命線だと思っている。その生命線が,この会場ではまったく担保されない。
 ゆえに,この会場で聴くのは今日をもって最後にすると決めた。例外は作らない。

2017.04.20 フジコ・ヘミング&イタリア国立管弦楽団

栃木県総合文化センター メインホール

● フジコ・ヘミングは不思議な,あるいは特異な,存在だ。クラシック音楽の演奏家の中ではたぶん,1位か2位の知名度を誇る。CDは売れるし,コンサートを開けば,チケットはかなり高額なのにもかかわらず,大勢の観客が集まる。
 一方で,音楽会の中枢にいる人たち,クラシック音楽を自分は知っていると自認する人たちの多くは,彼女に近づこうとしない。存在していないかのように扱う。

● 彼女が知られるに至った経緯がテレビのドキュメンタリー番組だったこととか,彼女の生いたちから彼女を「魂のピアニスト」と形容する興行界のやり方に,嫌悪を感じる向きもあるのかもしれない。
 技術的にも見るべきところはない,だいたい指が速くは動かないじゃないか,といった声も聞く。

● さらに,普段はコンサートに出かけることなどないのに,フジコ・ヘミングのピアノなら聴きにいくという人たちを,一段下に見ているようなところもあるんだろうなと,これは邪推だけれども,想像する。
 しかし,理由はどうあれ,集客力があるというのは,凄いことですよ。

● ぼくはといえば,4年前に初めて彼女のピアノを聴いた。それで気がすんだ感はある。
 しかし,今回はイタリア国立管弦楽団も登場する。メンデルスゾーンの4番を演奏する。これは聴いてみたいと思った。

● 開演は18時半。ぼくのチケットはA席で8千円。実質4階席。ぼくの1列前はS席(1万円)のはずだ。
 平日の夜なのに客席はほぼ満席。宇都宮でもこうなんだから,フジコ人気は衰えていないということなんでしょう。

● となると,たとえば栃響の演奏会に比べると,客席の水準は下がるだろう,楽章間での拍手もほぼ100%の確率で発生するだろう,と思っていた。
 だけども,結論から言うと,そんなことはなかったんでした。楽章間の拍手は一切なし。自らの思い込みを恥じなければいかん。
 ぼくもまた,音楽ファンではないのにフジコファン,という人たちを一段下に見ていたということになる。だから,何様だオマエ的な言い方になってしまうのだろう。

● 曲目は次のとおり。指揮はトビアス・ゴスマン。
 モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」序曲
 モーツァルト ピアノ協奏曲第21番
 ショパン エチュード第12番「革命」
 リスト ラ・カンパネラ
 モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」より「シャンパンの歌」
 メンデルスゾーン 交響曲第4番「イタリア」

● 今どきのオーケストラだから,イタリア国立管弦楽団といってもメンバー全員がイタリア人ということはない。東洋系もいたし,スラブかと思われる色白の女性奏者もいた。
 それでも,ドイツとは違う,イタリアならではの演奏の色合いのようなものがあるのかと思ったりもしたんだけど,そんなものはないんでした。いや,聴く人が聴けばあったのかもしれないんだけど,ぼくには知覚できないんでした。

● イタリア人っていうと,女性を見ればその隣に彼氏がいても声をかけるとか,ケセラセラ的な生き方というか,人生楽しんでナンボという快楽主義というか,そういう連中なのだっていう刷りこみがこちら側にある。ラテン気質というやつ。
 演奏にもそんな風情がないかと,つい思ってしまう。あるわけがない。
 しごく真っ当なんでした。「フィガロの結婚」序曲を聴いて,むしろケレン味のない素直な演奏だと思った。余計なことをしない。必要にして十分な所作。浮ついたところはない。そりゃそうだよね。

● ピアノ協奏曲でフジコさん登場。場内割れんばかりのとまでは言わないけれど,大きな拍手が起きた。
 ゆっくり目のテンポで展開していった。最近は,書き手がここは大事なところと考える部分をゴシックにしたり,線を引いたり,色を変えたりする書籍が普通にあるけれども,なんかそうした書籍を連想させる演奏だった。ここが肝だよっていうのがわかりやすかったっていうか。
 協奏曲の出来を決めるのは,独奏楽器ではなくて管弦楽だ。イタリア国立管弦楽団,軽快でいい感じ。

● 次は,フジコさんの独奏。プログラムではリストの「ラ・カンパネラ」を演奏することになっていた。が,その前にショパンの「革命」を。アンコールを先に演奏したということか。
 「ラ・カンパネラ」は彼女が出している多くのCDの過半に収録されている。フジコ・ヘミングといえば「ラ・カンパネラ」。
 で,その「ラ・カンパネラ」なんだけど,この曲,彼女以外のピアニストの演奏を生で聴いたことがない。そういう前提で申しあげれば,彼女の演奏はたしかにゆっくりしている。ミスもある。
 ただし,彼女自身はそのミスに対して気持ちを乱されていないようだ。気にしていない。全体を見てよね,ってことだろうか。

● ゆっくりな分,絵画的なイメージが湧いてくる余地が大きくなる。とはいえ,速ければイメージが湧かないのかどうか,それはわからない。
 絵画的なイメージというのもあやふやな言い方だけれど,それが演奏に負う部分がどの程度なのか。リストのこの曲に内在されているところがほとんどなのかもしれない。
 そのあたりの切り分けはあまり意味のないことだとも思うんだけど,気になるならさらに複数の奏者の演奏をCDで聴きこまないとね。

● で,ぼく一個の結論を言うと,いいと思う,この演奏。しみじみする。速いとか遅いとか,どうでもいい。
 たしかにミスは気にならない。演奏者が気にしていないから,それが感染するのかもしれない。

● 「シャンパンの歌」はグルダン・エイジロウという若いバリトン歌手が歌った。若い彼に機会を与えたいというフジコさんの計らいだったようだ。

● 最も楽しみにしていた,メンデルスゾーンの4番。先にも書いたように,これがイタリアの楽団かと思ったところはない。オケの名前を知らないで聴いて,ドイツの楽団だと言われればそうかと思うし,日本の楽団だよと言われても,やはりそうかと思うだろう。
 全体として軽みが身上のように思われた。スキップするような軽やかさ。もともとこの曲は軽快に始まる。重厚さは似合わないわけだけど。

● オーケストラのアンコールは,ロッシーニ「絹のはしご」序曲と「ふるさと」。あの文部省唱歌の「ふるさと」だ。
 今回がツァー最後の演奏になるらしいのだが,これまでも同じ曲目でアンコール演奏をしてきたらしい。外国のオーケストラに「ふるさと」を演奏されては,日本人としては参ったするしかない。

2017年4月27日木曜日

2017.04.16 PROJECT Bオーケストラ第5回演奏会(PROJECT B 2017)

第一生命ホール

● 昨年に続いて,2回目の拝聴。
 有楽町で降りて,会場の第一生命ホールまで歩くのも,これが2回目。晴海通りを,銀座,築地,月島と歩いていくわけだけど,田舎者には期せずして東京見物ができるコースだ。
 世界の銀座,歌舞伎座,築地本願寺,隅田川と次々に名所が現れるんだからね。歩いていて飽きることがない。

● 第一生命ホール,767席。音響はじつに素晴らしい。紀尾井ホールと比べたくなる。規模も同じくらいか。
 この席数だと,すべての席が埋まっても,プロのオーケストラが興行的に採算に乗せるのは難しかろう。チケットをかなり高くしないと。でも,室内楽には最高の舞台になるかもしれない。

● F生命に百数十万円を騙しとられたことがある。昔のことだ。ま,騙しとられたというと,言葉がきつすぎるし,そもそもそういうのは騙される方が悪いということなんだけど。
 いわゆる生命保険のオバチャンにしてやられた。彼女,嘘をついたわけではないのだけれども,今の言葉でいえば説明責任を充分に果たしたとは言い難い。いいことだけ言って,それに伴う(ぼくにとっての)マイナスの説明はスキップしたところがある。
 だから何だと言われれば,生命保険会社にはいい印象を持っていないってことね。マイナス金利なんてことになって,生保もいろいろ大変だろうけどね。

● だからといって,第一生命ホールの良さが損なわれるわけではもちろんない。いいホールであることに変わりはない。
 座席の配置も1列ごとに席の半分をズラしているから,前の人の頭が視界からはずれる。これはありがたい。
 もっとも,たとえば宇都宮の総合文化センターもそのような配置になっている。ただ,ここまで思い切りよくズラしているところはそんなにないのじゃないか。

● 前後左右にゆったりしているのも特徴。ミューザも芸劇も,ここの座席に比べるとかなり窮屈だ。同じエコノミーでも,レガシー・キャリアとLCC程度の違いはある。
 席数を増やすことよりも,観客の快適さを優先した造作になっている。公共セクターではなかなかこういうものは作れまい。民間なればこそ。

● さて,その贅沢なホールで聴いたのは,ベートーヴェンの交響曲3番「英雄」とピアノ協奏曲5番「皇帝」。
 ピアノは今回も田中良茂さん。指揮は畑農敏哉さん。
 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。ほぼ満席になった。

● じつは,この日,行ってみたいコンサートがもうひとつあった。「昭和音楽大学&ソウル市立大学校 日韓大学交流コンサート」というやつで,こちらは昭和音楽大学「ユリホール」で開催された。最寄駅は小田急の新百合ヶ丘。
 若い学生さんの声楽やピアノにも惹かれる。どっちにしようか今朝になっても迷っていた。
 が,出立が少々出遅れてしまったので,近い方を選んだ。新百合ヶ丘でもたぶん間に合ったとは思うんだけど。

● 演奏が始まって10秒後には,こちらを選んで正解だったと思った。この楽団の演奏水準もかなりのもの。前回聴いてわかっていることではあるのだが。
 東京にはここまでやれるアマオケがいったいいくつあるんだろう。何もかもが東京に一極集中していると思うしかないねぇ。

● 今回は「英雄」の第2楽章が白眉だったと思う。葬送行進曲。どこがどう良かったのか,説明せよ。
 と言われても,良かったから良かったとしか言えない。良かったと感じるのは,演奏それ自体のほかに,聴く側の状況も影響するのでね。“良かった”を言葉で分析できる人なんて,おそらく世界中を探してもいないんじゃないか。

● ぼくのような俗物は,生でオーケストラの演奏を聴きながらも,日常些事のあれやこれやが頭を去来して,なかなか“聴く”ことに没頭できない。
 4月から仕事の環境が変わって,いまいち適応しきれないでいる。だもので,ため息とか愚痴(脳内で独りごちるわけだが)とか,演奏を聴きながらも,出てくるんじゃないかと思っていた。
 が,今回に限っては,そんなことはなかったんでした。約2時間,浮き世から遮断された。

● 葬送行進曲には特に。葬送といっても,悲しみ一色ではない。随所に華があり,星が瞬くような煌びやかさがあり,四季の移り変わりまであるような気がした。
 なるほど,英雄を送る曲とはこういうものかとも思った。

● 演奏が放つ演奏に集中させる力,吸引力が半端なかった。ステージからこちらに届いてくる音の気持ちよさ。
 よどみのない流れ。静かにゆっくりと歩いているところから,パッとギャロップに変わるような切り替え。すべてのパートが参加する大音響でもまったく割れない音。
 ほめすぎだろうか。

● 大晦日に東京文化会館で催行される「ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会」を6年連続で聴いている。当然,3番も聴くことになるわけだ。
 技術だけを取りあげれば,この楽団が大晦日の「岩城宏之メモリアル・オーケストラ」を上回ることは,まさかないはずだ。
 けれども,葬送行進曲にこめられた情報量は,今回のこの演奏の方が多かったように思える。そのあたりが,つまりは聴く側の状況によるという部分なのかもしれない(そうではなくて,別の理由があるのかもしれない)。

● プログラム冊子の曲目解説に,田中さんが「皇帝」について書いている。そこからひとつだけ転載しておこう。
 私にとってこの協奏曲は,深読みすればするほど読み解きにくい。その理由は「健全な明るさ」にある。 一応,私は多くのベートーヴェンの音楽と接してきたわけで,彼の初期作品からもただならぬ「哲学」を感じてきた。それは言い換えれば「苦味」や「痛み」でもあるのだが,『皇帝』にはそれらをはねのける不思議な力が備わっている。
 というプロの演奏に対して,ろくな勉強もしていない素人観客が,ああでもないこうでもないと言うのは控えるのが礼儀というものだろう。

● ぼく的には,今回の演奏会は交響曲第3番の第2楽章が素晴らしすぎた。そのために,それ以外の記憶がおぼろになったきらいがないでもない。
 おそらく,この感想は他のお客さんとは違っているだろうとも思うのだが。