2017年4月27日木曜日

2017.04.16 PROJECT Bオーケストラ第5回演奏会(PROJECT B 2017)

第一生命ホール

● 昨年に続いて,2回目の拝聴。
 有楽町で降りて,会場の第一生命ホールまで歩くのも,これが2回目。晴海通りを,銀座,築地,月島と歩いていくわけだけど,田舎者には期せずして東京見物ができるコースだ。
 世界の銀座,歌舞伎座,築地本願寺,隅田川と次々に名所が現れるんだからね。歩いていて飽きることがない。

● 第一生命ホール,767席。音響はじつに素晴らしい。紀尾井ホールと比べたくなる。規模も同じくらいか。
 この席数だと,すべての席が埋まっても,プロのオーケストラが興行的に採算に乗せるのは難しかろう。チケットをかなり高くしないと。でも,室内楽には最高の舞台になるかもしれない。

● F生命に百数十万円を騙しとられたことがある。昔のことだ。ま,騙しとられたというと,言葉がきつすぎるし,そもそもそういうのは騙される方が悪いということなんだけど。
 いわゆる生命保険のオバチャンにしてやられた。彼女,嘘をついたわけではないのだけれども,今の言葉でいえば説明責任を充分に果たしたとは言い難い。いいことだけ言って,それに伴う(ぼくにとっての)マイナスの説明はスキップしたところがある。
 だから何だと言われれば,生命保険会社にはいい印象を持っていないってことね。マイナス金利なんてことになって,生保もいろいろ大変だろうけどね。

● だからといって,第一生命ホールの良さが損なわれるわけではもちろんない。いいホールであることに変わりはない。
 座席の配置も1列ごとに席の半分をズラしているから,前の人の頭が視界からはずれる。これはありがたい。
 もっとも,たとえば宇都宮の総合文化センターもそのような配置になっている。ただ,ここまで思い切りよくズラしているところはそんなにないのじゃないか。

● 前後左右にゆったりしているのも特徴。ミューザも芸劇も,ここの座席に比べるとかなり窮屈だ。同じエコノミーでも,レガシー・キャリアとLCC程度の違いはある。
 席数を増やすことよりも,観客の快適さを優先した造作になっている。公共セクターではなかなかこういうものは作れまい。民間なればこそ。

● さて,その贅沢なホールで聴いたのは,ベートーヴェンの交響曲3番「英雄」とピアノ協奏曲5番「皇帝」。
 ピアノは今回も田中良茂さん。指揮は畑農敏哉さん。
 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。ほぼ満席になった。

● じつは,この日,行ってみたいコンサートがもうひとつあった。「昭和音楽大学&ソウル市立大学校 日韓大学交流コンサート」というやつで,こちらは昭和音楽大学「ユリホール」で開催された。最寄駅は小田急の新百合ヶ丘。
 若い学生さんの声楽やピアノにも惹かれる。どっちにしようか今朝になっても迷っていた。
 が,出立が少々出遅れてしまったので,近い方を選んだ。新百合ヶ丘でもたぶん間に合ったとは思うんだけど。

● 演奏が始まって10秒後には,こちらを選んで正解だったと思った。この楽団の演奏水準もかなりのもの。前回聴いてわかっていることではあるのだが。
 東京にはここまでやれるアマオケがいったいいくつあるんだろう。何もかもが東京に一極集中していると思うしかないねぇ。

● 今回は「英雄」の第2楽章が白眉だったと思う。葬送行進曲。どこがどう良かったのか,説明せよ。
 と言われても,良かったから良かったとしか言えない。良かったと感じるのは,演奏それ自体のほかに,聴く側の状況も影響するのでね。“良かった”を言葉で分析できる人なんて,おそらく世界中を探してもいないんじゃないか。

● ぼくのような俗物は,生でオーケストラの演奏を聴きながらも,日常些事のあれやこれやが頭を去来して,なかなか“聴く”ことに没頭できない。
 4月から仕事の環境が変わって,いまいち適応しきれないでいる。だもので,ため息とか愚痴(脳内で独りごちるわけだが)とか,演奏を聴きながらも,出てくるんじゃないかと思っていた。
 が,今回に限っては,そんなことはなかったんでした。約2時間,浮き世から遮断された。

● 葬送行進曲には特に。葬送といっても,悲しみ一色ではない。随所に華があり,星が瞬くような煌びやかさがあり,四季の移り変わりまであるような気がした。
 なるほど,英雄を送る曲とはこういうものかとも思った。

● 演奏が放つ演奏に集中させる力,吸引力が半端なかった。ステージからこちらに届いてくる音の気持ちよさ。
 よどみのない流れ。静かにゆっくりと歩いているところから,パッとギャロップに変わるような切り替え。すべてのパートが参加する大音響でもまったく割れない音。
 ほめすぎだろうか。

● 大晦日に東京文化会館で催行される「ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会」を6年連続で聴いている。当然,3番も聴くことになるわけだ。
 技術だけを取りあげれば,この楽団が大晦日の「岩城宏之メモリアル・オーケストラ」を上回ることは,まさかないはずだ。
 けれども,葬送行進曲にこめられた情報量は,今回のこの演奏の方が多かったように思える。そのあたりが,つまりは聴く側の状況によるという部分なのかもしれない(そうではなくて,別の理由があるのかもしれない)。

● プログラム冊子の曲目解説に,田中さんが「皇帝」について書いている。そこからひとつだけ転載しておこう。
 私にとってこの協奏曲は,深読みすればするほど読み解きにくい。その理由は「健全な明るさ」にある。 一応,私は多くのベートーヴェンの音楽と接してきたわけで,彼の初期作品からもただならぬ「哲学」を感じてきた。それは言い換えれば「苦味」や「痛み」でもあるのだが,『皇帝』にはそれらをはねのける不思議な力が備わっている。
 というプロの演奏に対して,ろくな勉強もしていない素人観客が,ああでもないこうでもないと言うのは控えるのが礼儀というものだろう。

● ぼく的には,今回の演奏会は交響曲第3番の第2楽章が素晴らしすぎた。そのために,それ以外の記憶がおぼろになったきらいがないでもない。
 おそらく,この感想は他のお客さんとは違っているだろうとも思うのだが。

2017年4月25日火曜日

2017.04.02 東京楽友協会交響楽団 第102回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 開演は13時半。チケットは1,000円。当日券を購入。
 2015年10月の第99回定期に続いて二度目の拝聴。一度聴いて,この楽団がアマオケの中では傑出した楽団のひとつであることは承知している。だから,もう一度聴きたいと思ったわけでね。
 と思う人はぼくだけではないらしく,会場はほぼ満席となった。

● 曲目は次のとおり。指揮は田部井剛さん。
 ボロディン 歌劇「イーゴリ公」序曲
 ヤナーチェク 狂詩曲「タラス・ブーリバ」
 ショスタコーヴィチ 交響曲第10番
 玄人受けする内容というか,「タラス・ブーリバ」は,CDも含めて,ぼくは聴いたことがない。

● この楽団のホームページによれば,1961年の創設という。昭和36年だ。だいぶ古い。以来,半世紀。連綿と活動を続けてきたというそれだけで,賞賛に値する。
 いくつかの偶然にも恵まれたのだろう。そうだとしても,創設するより継続する方が困難だ。
 メンバーは頻繁に入れ替わっているはずだ。奏者の平均年齢は若いといっていい範囲に属する。

● したがって(と,つないでいいのかどうかわからぬが),演奏にも躍動感がある。高値安定に安んじていない。
 特に,コンミスがグングン引っぱっている感があって,コンミスがこうだと指揮者は楽かもしれないなと,余計なことを思った。

● ショスタコーヴィチの10番。「自分のドイツ式の綴りのイニシャルから取ったDSCH音型(Dmitrii SCHostakowitch)が重要なモチーフとして使われている」とか「カラヤンが録音した唯一のショスタコーヴィチ作品」だとか,何かと話題の多い作品だということは知っている。
 スターリンの死の直後に,8年ぶりに公表した交響曲でもある。つまり,それ以前に,ひょっとしたらだいぶ前に,できあがっていたのだろう。

● このあたりはいろいろと憶測を呼ぶところだけれども,『ショスタコーヴィチの証言』も偽書らしい。とすると,真相はわからない。
 彼の作品が彼が生きた時代から間違いなく大きな影響を受けているとしても,スターリンだのソヴィエトだのというところからいったんは切り離して,音楽それ自体を聴くことができればいい。
 ショスタコーヴィチの場合,それがなかなか以上に難しいわけだけれども。

● ということは別にして,この楽団の演奏で第10番を聴けたのは,幸せのひとつに数えていいだろう。沈鬱な前半からグァーっと上昇していく後半。その移り変わる様,というより切り替えといった方がいいのか,そこがじつに小気味いい。
 たしかな技術の裏付けに加えて,演奏することに厭いている様子が微塵もない。

● しかぁし。今朝は8時まで寝ていたのに,それでも寝たりなかったのか,何度か意識が落ちてしまった。
 そういうときには,聴きに行ってはいけないと思うんだけど,それを実行するのは難しい。すまんこってす。

2017年3月31日金曜日

2017.03.26 第6回音楽大学フェスティバル・オーケストラ

東京芸術劇場 コンサートホール

● 池袋の東京芸術劇場へ。「第6回音楽大学フェスティバル・オーケストラ」の演奏を聴くため。首都圏の9つの音楽大学の合同チーム。4月から社会に巣立つ4年生もいるらしい。
 開演は午後3時。席はSとAの2種で,S席が2,000円。チケットは,昨年11月の音楽大学オーケストラ・フェスティバル(桐朋と昭和音大が登場した回)のとき,ミューザ川崎で買っておいた。

● ぼくの席は1階のE列。前から5列目。少々以上に前すぎた。木管や金管の奏者は見えない。弦奏者の陰に隠れてしまっている。
 その代わり,ヴァイオリン奏者は,今,息を吸ったな,っていうところまでわかる。表情はむろんのこと。
 どっちがいいかっていうと,でも,すべてが見えるところがいいね。もう少し後ろか,2階席の前方。

● 曲目はドビュッシーの「海」とマーラーの6番。指揮は高関健さん。昨日,同じ曲目でミューザ川崎でも演奏している。
 開演前に高関さんのプレトークがあった。これって,客席サービスの一環として,山県交響楽団が始めたことでしたっけ。どうなんだろうな,これで客席は盛りあがるんだろうか。
 ぼく一個は,演奏会には演奏以外のものは一切ない方がいいと思っているんだけど。

● 1年間で60回程度のコンサートを聴いている。多すぎるだろ,1年に1回しか聴いてはいけない,と言われたら,たぶんこの演奏会を選ぶと思う。
 濃密な演奏だ。直接音の音圧が息苦しいほど。若いというのはそれだけで力を持つのだと思わせる。ぼくらは若さの前に敬虔でなければいけない。
 第一,マーラーの6番を生で聴ける機会はそんなにない。まして,21,2歳の溌剌ともの怖じしない演奏で聴けるなんてのは,僥倖というしかない。

● 感想は以上で尽きている。細かいことを書いても仕方がない。
 ステージ上の奏者の躍動。ステージから発せられる音の連なりがこちらを圧倒する度合い。この2点において,この演奏会は聴くに値する。いや,ぜひ聴くべきだ,聴きたい,と思わせる。

● 29年度も音楽大学オーケストラ・フェスティバルは開催される。どうにか都合をつけて,奥州街道を南下して,彼らの演奏に接したいと思うだけだ。

2017.03.20 東京アマデウス管弦楽団 第85回演奏会

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● この楽団の演奏会にお邪魔するのは,第78回,80回に次いで,3回目。
 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入した。指揮は北原幸男さん。

● この楽団の特徴は次の3つだ。第1に男性が多い。特に弦。弦で男性が女性を圧倒しているところは,じつに希有な存在。
 第2に年齢のバラツキが大きい。これも以外に少ない。○○大学OBOGオーケストラっていうような楽団でも,年齢層を異にする楽団が複数あったりする。若い人と一緒にやりたいと思う年寄りはいても,年寄りと一緒にやりたいと考える若者はいないものだ。

● この楽団では若者も大人なのかね。年輩者が決定権を若者に委ねているのだろうか。あるいは圧倒的に巧い年寄りたちで,若者が一目も二目も置いているのか。
 同じ音楽を歩む同志なんだから年齢差なんて関係ないよ,って,それだけはないような気がするんだけどなぁ。

● 第3は,巧いということ。芸達者が揃っている。その代表として,新交響楽団や都民交響楽団などの名はしばしば聞く。ぼくはまだ聴く機会を得ていないのだが。
 東京アマデウス管弦楽団もその一角に名を連ねるのだろう。演奏を聴いていると,プロオケなんて要らないじゃんと,半ば本気で思う。

● 曲目は次のとおり。
 オットー・ニコライ 「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲
 R.シュトラウス 交響詩「死と変容」
 ブラームス 交響曲第4番 ホ短調

● 交響詩「死と変容」のはじめの方,オーボエ,フルートの軽やかなメロディーが現れ,独奏ヴァイオリンに受け継がれる。このあたりは,この曲の聴きどころでもあるんだろうけど,聴きどころを確かな聴きどころにできる力量を感じる。

● プログラム冊子の曲目解説によれば,「この交響曲はブラームスが居を定めるウィーンにおいて,もう1つ人気が出なかったそうです」とある。「古風な印象のせい,という見解も見られ」るという。
 あるいはそうかもしれない。が,当時のウィーン市民(音楽の愛好家)がブラームスに付いていけなかっただけだと単純に考えておきたい。
 当時のウィーン市民にとって,ブラームスは決して斬新でも奇妙奇天烈でもなかったろうけど,それでも創造者はフォロアーの先を行く。

● 今のぼくらもそうだ。はたして本当に創造者(作曲家)の意図するところに付いて行けているかどうか。
 時代に洗われて残った楽曲に,つまり時代の評価に,寄りかかって聴いているだけかもしれない。自らを顧みてそう思う。
 ただ,このあたりが難しいところで,あまり頭で聴きたくないっていうか,自分の意識を肥大させて,意識で曲を受けとめるというのも,聴き方としては上等とは言えないように思う。上手く言えないんだけど。

● さて,東京アマデウスが紡ぎだすブラームスの4番。指揮者のどんな要求にもお応えしますよってことなんだと思う。
 おそらくこの楽団の団員たちは北原さんにも物申す人たちだろう。もちろん,喧嘩腰ではなくて和気藹々と。
 腕に覚えがあればこそ。指揮者の要求に応えられるだけの技量があって,初めてその技量に応じた“物申す”ができるわけだろうから。

● これだけの人数がいるのに音がひとつの束になっていて,バラけないのは大したものだ。メリハリ,緩急,GO&STOP,加速の良さ。そういう言葉を思いださせる。
 かなりの性能を持つスポーツカーというかね,そういう演奏をする。

2017年3月18日土曜日

2017.03.13 宇都宮短期大学・附属高等学校音楽科 第49回卒業演奏会

栃木県総合文化センター サブホール

● 第46回47回に次いで3回目の拝聴となる。ぼくは宇短大や附属高校の生徒の父兄でもないし,縁もゆかりもない人間だけれども,この演奏会は楽しみにしているもののひとつだ。
 開演が平日の17:30なので,必ず行けるとは限らないけれども,できるだけ行くようにしている。
 
● なぜかといえば,その年齢のときにしか表現できないものがあるはずだと思うから。18歳あるいは20歳。そのときの感性。そのときの環境。そのときの生命力。そのときしかできない表現。それがあるはずだと思うから。
 30歳や40歳でもそのときにしかできない表現はあるのかもしれないけれども,ここはやはり若く可塑性に富んでいるときの演奏に接したい。

● 技術はこれからまだまだ上達するとしても,技術がすべてではない。ひょっとしたら技術を超える何かが現出するかもしれないという期待。若さが持つ魅力のひとつはそこではないか。

● 宇短大と附属高校の音楽科が,栃木県の音楽活動におけるセンターのひとつになっていることは間違いない(センターがいくつもあるのもおかしなものだけど,もうひとつは宇都宮大学教育学部の音楽教育コース&宇都宮大学管弦楽団)。
 栃響の団員にも宇短大の卒業生は多いようだ。アマオケの指導者にも卒業生が多い。人材の供給源になっている。

● 開演は午後5時半と平日にしては,異常に早い。おそらくは,聴衆として見込んでいるのは,在学生,卒業生の友人・知人といったところなのだろう。
 実際には保護者も来ている。もちろん,母親が多い。でも,たぶん,ぼくのようなまったくの部外者もいるはずだ。ぼくだけってことはない。市内のホールで何度か見かけている顔もあったから。

● 46回のときは,電子オルガンの演奏者が多かったのだけど,47回と今回はゼロ。
 プログラムを転記しておく。まず,高校。

 カバレフスキー ピアノソナタ第2番 第1楽章(ピアノ独奏)
 バラ イントロダクションとダンス(チューバ独奏)
 シューマン アレグロ ロ短調(ピアノ独奏)
 ベッリーニ 歌劇「夢遊病者の女」より“ああ,信じられない”(ソプラノ独唱)
 クレストン ソナタ(サクソフォン独唱)
 シューマン 「3つのロマンス」より第1番,第3番(ピアノ独奏)
 モーツァルト アリア“大いなる魂と高貴な心”(ソプラノ独唱)

● いつも思うことだけど,高校3年生というのは,正装すると完全なる淑女だ。近くで見れば,まだかすかに子供っぽさを表情に残しているはずだけれど,客席からステージに立つ彼女たちを見ていると,他を圧する大人の風格がある。
 トップバッターの大橋桃子さんの演奏する姿を見て,まず感じたのはそのことだ。

● いずれ菖蒲か杜若。そこをあえていうと,高校生の演奏で印象に残ったのは次の3人。サクソフォンの石橋佳子さん,ピアノの山本杏実さん,ソプラノの早川愛さん。
 石橋さんのサクソフォンはメリハリが利いている。この曲がメリハリがあった方がいい曲なのか,そこをあまり強調してはいけない曲なのか,そこのところはわからない。
 が,心地よく響いてきたのは確かで,であれば,少なくともぼくという聴衆のひとりにとっては,彼女の演奏で良かったはずなのだ。

● 山本杏実さんが演奏したのはシューマン「3つのロマンス」で,ぼくはこの曲が好きなのだと思う。だからよく聞こえるというところもあるのかもしれない。
 しかし,それだけのはずはない。実力が持つ説得力というのがある。

● 声楽を能くする人というのは,ぼくからすると異能者。つまり,自分にはない能力を持つ人たちだ。簡単に参ってしまう。
 早川さんの伸びやかな声を聴いていると,生まれ持ったものが大事で,努力でどうにかできる部分というのは,そんなにないのかなと思う。努力でどうにかできるようなものは,そもそもどうにかする必要もないものに限られるのかもしれない。

● 次に短大。
 クラーク 霧の乙女(トランペット独奏)
 ハイドン オーボエ協奏曲 第1楽章(オーボエ独奏)
 オッフェンバック 歌劇「ホフマン物語」より“森の小鳥はあこがれを歌う”(ソプラノ独唱)
 ドビュッシー 前奏曲集第2巻より第6曲,第12曲(ピアノ独奏)
 クラーク ベニスの謝肉祭(トランペット独奏)
 グラナドス 演奏会用アレグロ 嬰ハ長調(ピアノ独奏)
 イベール コンツェルティーノ・ダ・カメラ 第2楽章(サクソフォン独奏)
 ショパン ピアノソナタ第3番 第1楽章(ピアノ独奏)

● ピアノはどれも良かったと思う。佐藤佑香さんのドビュッシーも小味が利いていたし,長雅大さんのグラナドスも聴きごたえがあり,長野美帆子さんのショパンは貫禄すら感じさせた。
 青木嶺さんのオーボエも。貴重な男性奏者だからそれだけで印象に残る。

● 最後に短大卒業生の全員で合唱。女声合唱とピアノのための組曲「桜の花びらのように」という曲らしいんだけど,男性も混じっている。3人ほど。その男性諸氏はクチパクかというと,もちろんそんなことはなくて,きちんと男声も聞こえていた。
 要するに,男声が混じっても別段破綻は来さないんでありますね。

● 以前は,ヘンデルの「ハレルヤ」を歌っていて,それがこの演奏会の伝統でもあったようだ。が,それはやらなくなったのだね。
 時間は限られている。そのために,たとえばピアノ独奏をひとつ削るなんてことになると,本末転倒だろうし,「ハレルヤ」にこだわることはないとぼくも思う。どういうわけでやらなくなったのかは知らないわけだけど。

2017年3月14日火曜日

2017.03.12 室内合奏団ベルベット・ムジカ記念公演-珠玉のグラン・パルティータ

栃木県総合文化センター サブホール

● 「ベルベット・ムジカ」,初めて聞く名前だけれど,「栃木県内の管楽器奏者の有志で結成された室内合奏団」なのですね。今回は,クラリネット奏者の磯部周平さんを迎えての,お披露目の記念公演ということ。

● 開演は午後2時。チケットは2,000円(前売券)。曲目は次のとおり。
 R.シュトラウス 13管楽器のためのセレナーデ 変ホ長調
 ベートーヴェン 管楽8重奏のためのロンディーノ 変ホ長調
 磯部周平 きらきら星変奏曲Ⅲ
 モーツァルト 12の管楽器とコントラバスのためのセレナーデ 変ロ長調

● シュトラウスのこの曲が初演されたとき,シュトラウスは18歳。この分野には天才がキラ星のごとく,雲霞のごとく,存在している。
 科学者にも天才はあまたいるだろうし,ぼくなんぞが見ると,囲碁や将棋の世界には天才しかいないと映る。が,音楽の世界は天才の天才性が際だっているというか。

● セレナーデは小夜曲と訳される。が,13もの楽器を使う小夜曲って何? って感じがするね。これだけの楽器が入ると,華やかだし賑やかだ。
 小夜というイメージではなくなる。小夜という字面に引きずられすぎかなぁ。

● この合奏団の設立の中心になったのは神長秀明さんのようだ。メンバーも彼が指揮者や副指揮者を務める,鹿沼フィルや栃木フィルのメンバーが多い。
 作るは易く,継続は難し。たぶん,そういうものなのだ。このくらいの人数ならば,まとまっていけるのではないか。と,外部の人間は勝手な感想を持つんだよね。

● ベートーヴェン「管楽8重奏のためのロンディーノ 変ホ長調」はWoO 25となっている。つまり,ベートーヴェン自身は自身の作品としての番号は付けなかった。小品ゆえだろうか。
 ベートーヴェンの若い頃の作品。苦悩を通して歓喜に到れ的な重さというか,深さというか,そういうものはこの曲にはない。演奏時間が6分の曲だからということではない。“苦悩を通して歓喜に到れ”を6分で表現することは,たぶんできる。
 が,ベートーヴェンはそればかりの作曲家ではないってことなんでしょ。

● 磯部周平「きらきら星変奏曲Ⅲ」は面白かった。じつは,これが一番印象に残った。軽妙で。
 オーボエ,クラリネット,ファゴットの3人で演奏。木管三重奏とも言う。
 おそらく,今回の曲目は,吹く方も大変だろうけど,聴く側にもそれなりの鑑賞能力を求めるものなのだ。ので,なかなか付いていけないところがあった。でもって,この曲は箸休め的なというか,気分転換の役割を果たしてくれた。

● プログラム冊子の曲目紹介によれば,「きらきら星」の旋律はヨーロッパに古くから伝わるもので,モーツァルトの独創によるものではないらしい。
 「英語圏では「ABCの歌」,フランスでは「ああ,お母様」,ドイツでは「サンタクロースは明日来るよ!!」として広く歌われて」おり,「このメロディーを少し変えると「子狐コンコン」になり,「オーボエ四重奏曲の終楽章」になり,「イスラエル国家」になり,スメタナの「モルダウ」にも,サッチモの「この素晴らしき世界」にもなって,時代,国境を越えて,愛され続けています」ということ。
 なるほど。眼から鱗が3枚は落ちた。

● 最後は,モーツァルト。7つの楽章,演奏時間が50分を超える大曲。じつに「グラン・パルティータ」なんだけど,いよいよこれがセレナーデなのかという思いも。
 ぼく的には,セレナーデといえばアイネ・クライネ・ナハトムジークがその代表という思いこみがあって,なかなかその思いこみから自由になれない。

● モーツァルトが生きていた頃,こうした曲は貴族の館で演奏されたのだろう。聴くのも高等遊民というか,人の働きを掠めて喰うことが許されていた貴族たちだった。
 で,その貴族たちの,こと音楽に関する造詣の深さはただものではなかったはずだと思われる。自身で演奏もし,作曲もするというレベルのやつがかなりの数,いたに違いない。そうでなければ,この楽曲をホイホイと楽しめたはずがない。

● 最初の響きは,ベートーヴェン「管楽8重奏のためのロンディーノ」よりもベートーヴェン的というか。
 天才はそれぞれに天才で,他と交わるところはないと思う。だから,どうしてもモーツァルトとベートーヴェンの間に線を引きたくなるんだけど,そういう区分をしてしまうのはあまり高級な態度ではないようだ。すべては連続体と考えた方がいいのでしょう。

● アンコールは「魔法の笛」。日本では「魔笛」と呼ばれている。が,「魔笛」と言ってしまうとおどろおどろしさが勝って,あるいはユーモアが減じてしまって,この歌劇の内容を推測させるタイトルとしては上出来ではなくなるきらいがある。
 「魔法の笛」と直訳(?)した方がまだいくぶんいいと思うけど,“魔”を使わないですむ訳語がないかね。不思議な笛,っていうのも変だしねぇ。

2017年3月11日土曜日

2017.03.09 間奏55:音楽は好きなんだけど

● クラシック音楽のコンサートを聴きに行くことが,しごく大げさにいえば,ぼくの生きる甲斐になっている。その感想を文章に置き換えてブログにすることも含めて。
 だが,しかし。この文章に置き換える作業が問題だ。

● 自分でもはっきり自覚しているのだが,演奏そのものに言及することは,以前にもまして少なくなっている。周辺のことがらをウダウダと書いている。
 なぜかといえば,その方が楽だから。演奏について語ることを億劫がって(あるいは,怖がって)“周辺”に逃げているのだ。

● ぼくのブログを読んでくれてる人の多くは,ステージに立って演奏している人たちのようだ(ありがたくもあり,光栄でもある)。
 とすれば,一番読みたいのは自分(たち)の演奏に対する評価だろう。もっとピントを絞った言い方をすれば,演奏に対するほめ言葉だ。的確にほめてほしいと思っているはずだ。

● それが少なくなっている。このあたりを心して書かなくてはいけない。
 “周辺”については,ぼくのにわか仕込みの知識など,演奏者にとっては常識にすぎない。彼らの音楽知識は,ぼくなぞよりはるかに上位にある。

● 虚心に演奏を聴いて,その結果を自分の言葉で語ること。外部情報を遮断して,自分の内部に意識を集中すること。箔を付けようとして,ネットで他の人の感想をチェックしたりしないこと。
 そこから沁みてくる言葉を捉えて,たとえそれが幼稚であろうと貧弱であろうと,妙な化粧を施さず,そのまま差しだす勇気を持つこと。

● それ以前に,たとえば寝不足の状態でライブを聴くなんてことのないようにすること。十全な体調で聴けるよう生活を整えること。
 そして可能ならば,ライヴ以外の音楽体験を充実させること。CDを聴くこと。作曲家の生涯や彼が生きた時代背景,音楽史における位置づけ等について,最小限の心得は持っておくようにすること。

2017年3月8日水曜日

2017.03.05 那須野が原ハーモニーホール合唱団 第11回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開催は午後2時。チケットは200円。タダではなくて,200円でチケットを売るのがいいところだ。今回の演しものはハイドン「戦時のミサ」。
 それだけではないので,以下に曲目をあげておく。

 パレストリーナ 水を求める鹿のように
 ビクトリア アヴェ・マリア
 松下 耕(谷川俊太郎 作詞) 信じる
 新実徳英(岩間芳樹 作詞) 聞こえる
 猪間道明 編曲 TOKYO物語
 ハイドン 戦時のミサ

● つまらない理由で,今回は遅刻してしまった。時間にすれば15分ほど。残念でもあり,演奏する側に対しては申しわけなくもあり。
 ぼくが座席に着いたときには,「信じる」までは終わっており,「聞こえる」からの拝聴とあいなった。

● ぼくだけの都合でいえば,聴きたかったのはハイドン「戦時のミサ」だから,損失はほとんどなかったと言っていいんだけどね。
 どうやっても遅刻だとわかったときは,行くのをやめようかと思ったんだけど,諦めないで行ってよかったと思う。

● 声楽が入るミサ曲などの宗教音楽っていうのは,CDで聴くことがあまりない。CDは持っているんだけども,ほぼ聴かない。こういうものは生で聴ける機会をとらえていかないと。
 といって,管弦楽+合唱団+ソリスト,と大がかりな編成になるから,地方だとその機会も多くはない。ゆえに,今回のような演奏会は貴重。

● で,その「戦時のミサ」。
 指揮は片岡真理さん。ソリストは袴塚愛音さん(ソプラノ),谷地畝晶子さん(アルト),藤井雄介さん(テノール),村林徹也さん(バリトン)。
 管弦楽はモーツァルト合奏団。あたりまえだけれども,木管,金管,ティンパニは,賛助でまかなった。

● 「戦時のミサ」を聴いた感想を申せば,ミサ曲なのにあまり宗教臭を感じなかった。世俗の曲という印象を受けた。
 プログラム冊子の曲目解説によれば,ハイドンがこの曲を作った1796年は,ナポレオン軍がウィーンを制圧し,北イタリアに進軍していた。その「フランスの脅威に対する怒りの表明といえる」ということだ。
 なるほど,それで,と理解すればいいのかもしれない。理路整然としていて腑に落ちる。

● ただ,ぼくは理路整然としているものをあまり信用しないところがあって,それ以外に何かあったのじゃないかと考えたくなる。が,考えるヨスガは何も持っていないので,妄想を逞しくするという域を出ることはない。
 とにかく,世俗臭のするミサ曲という印象だ。

● だものだから,ぼくとしては楽に聴くことができた。たとえばバッハの「マタイ受難曲」を聴かなければならないとなると,たとえCDであってもそれ相応の覚悟を要する。
 日本人のぼくらがキリストの受難曲を聴くとなれば,どうしたってそういうことになる。わりと重苦しい行為になるという意味。
 が,ハイドンのこのミサ曲はそういった重苦しさを感じずに聴くことができる。

● この合唱団の定演を聴くのは,これが二度目だ。一昨年の第9回を聴いている。フォーレの「レクイエム」だった。そのとき袴塚さんのソプラノを初めて聴いたのだった。
 で,今回もまた袴塚さんのソプラノを聴くことができた。満足だ。他の3人もたいした歌い手で,ソリスト陣には1ミリの文句もない。

● 合唱はいっそうそうだ。この合唱団の活動は年1回の定演だけではないと思うけれど,でもこの定演が最も高い山になっているはずだ。そこに向けて1年間練習してきた。
 細かい部分を言えば,それは色々ある。抑えなければいけないところでやや走りすぎてしまうとか,逆に冒険を避けるあまり声を出し惜しんでいるとか。
 しかし,そうした細かいところはどうでもいいような気がする。それは教授陣にとっての課題ではあっても,客席側がどうこういう話ではない。
 80歳代の団員もいるらしい。声に恵まれた人たちばかりではないだろう。それでよい。ここまでできればよしとする。

2017年2月28日火曜日

2017.02.26 DreamConcert2017-作新楽音会と楽しむ音の会

栃木県教育会館 大ホール

● すでに何度か聴いている気でいたんだけど,錯覚だった。これが2回目だ。作新高校吹奏楽部の演奏会と混同してしまっていたのかも。
 作新楽音会は作新高校吹奏楽部のOB・OGで構成されている。平均年齢がかなり若いので,それも混同しちゃった理由のひとつ,ってことにしておこう。

● 「作新楽音会と楽しむ音の会」と副題の付いたコンサート。楽しむといったって,下手な演奏じゃ楽しめないぞ,というわけだ。
 ところが,作新吹奏楽部のOB・OGで,しかも卒業後も演奏を続けようというんだから,腕は確かなはず。ここはリスペクトしちゃって大丈夫だろう。要するに,個々のメンバーの技量がかなりの水準にある。

● したがって,ステージから繰り出される演奏の水準もかなりのもの。
 そこに,高校時代に身についたのであろう,これでもかというほどの(観客への)サービス精神が発揮されるんだから,充分以上に楽しい演奏会になる。

● 1部のプログラムは次のとおり。指揮は大貫茜さんと三橋英之さん。
 福丸光詩 祝典行進曲「光へ」
 リード アルメニアンダンス パート1
 高昌帥 吹奏楽のための風景詩「陽が昇るとき」より「Ⅳ.陽光」

● 福丸光詩さんは,東京音大作曲科の学生。作新楽音会のトランペット奏者でもある。作新楽音会の委嘱を受けて作曲。素人の愚察だけれど,行進曲は作曲しやすいんでしょうね。
 あとの2つも吹奏楽ではかなりポピュラー。ここまで奇を衒わないプログラム。

● 奇を衒わないのは2部のポップスステージになっても同様なんだけれど,主力はこちらに注いでいたようだ。演奏する側もこちらの方が楽しいかもねぇ。
 M.ブラウン編 ディズニーランド セレブレーション
 真島俊夫編 MOVE ON
 磯崎敦博編 ジャパニーズ・グラフィティーⅣ(弾厚作作品集)
 真島俊夫編 宝島

● この中で最も印象に残ったのは,「MOVE ON」のフルートソロ。めまぐるしく変化する楽譜を追って,音に変換していく。その様はほとんどアスリートのようだ。
 サックス陣のアンサンブルも聴きどころ。

● 弾厚作とは加山雄三のペンネームらしい。っていうか,この人,本名は池端直亮と申しあげる。俳優や歌手としては加山雄三と名乗り,作曲家としては弾厚作と名乗っている。
 Wikipedia情報によれば,加山さん,波瀾万丈の人生を送っておりますなぁ。2桁の億の借金を背負うも,10年で完済とかね。
 俳優であり,タレントであり,歌手であり,作曲家である。油絵も個展を開けるほどの腕前。料理も達者らしいし,スポーツも野球を除いて堪能。

● 人生はお金を貯めた者が勝ちじゃないものね。お金を使った者の勝ちだ。自分のために使うか,人のために使うか,使い方はそれぞれだけど。
 お金に関していえば,稼がないより稼いだ方がいい。稼ぐ過程も楽しめれば,稼いだお金は捨ててもいいくらいのものだろうよ。
 加山さんは稼ぎまくったはずで,それは彼の才覚と実力による。大変な人だ。

● というようなことはどうでもいいか。「ジャパニーズ・グラフィティーⅣ」はその加山さんのヒットメドレー。年配の日本人なら誰でも知っているけど,若い人たちはどうなんだろう。
 つまり,年寄りの観客へも目配せしているよ,と。観客の中でぼくは最年長だったかもしれないんだけど,まぁ,年輩者もけっこういたと思うんでね。

● 今月5日に栃響の定演を聴いて以来,管弦楽を聴いていない。そろそろ管弦楽への禁断症状が出てくる頃だ。それを吹奏楽で補えるわけはない。
 でも,この演奏会は自分を会場に運んで行って聴いてみる価値がある。吹奏楽,いやもっと広く音楽,っていうのは何のためにあるのかというところに,こちらの思考を誘ってくれる。
 音楽=芸術,ではなくて,それ以前に実用的な価値があった。副作用のない麻薬的な効果があるねぇ。

2017年2月24日金曜日

2017.02.24 間奏54:音楽再生プレーヤー(専用機)を初めて使ってみた

写真はメーカーのサイトから拝借
● オーディオ器機をぼくは持っていない。ミニコンポくらいはあってもいいかなぁと思って,オーディオ売場を覗くことはあるんだけど,購入に至っていない。
 なぜないかといえば,必要がないから。つまり,家で椅子に座ってゆったりを音楽を聴くということを(少なくともこれまでは)してなかったからだ。

● おまえはライヴ以外に音楽は聴かないのか,と言われれば,そんなことはありませんと回答する。けど,もっぱらイヤホンで聴くタイプだ。
 路上や電車の中が,ぼくが音楽を聴く場だ。たまに家で聴くときもイヤホンで聴いていた。プレーヤーはスマホ。

● ところが,そのスマホが昨年11月11日にダメになった。諸般の事情があって,そのままになっている。したがって,少なくとも昨年11月11日からはまったく音楽を聴かない生活を送っている。
 スマホ以外に携帯プレーヤーは持っていないのか? じつは持っている。約1年間にSONYのWALKMANを買った。
 息子に買ってあげたんだけど,8ヵ月前にぼくのところに戻ってきた。

● が,何となく面倒でね,そのまま放置しておいた。11月11日以降も。
 でもって,音楽を聴かない生活をずっと続けていたんだから,ひょっとすると,ぼくは音楽がさほどに好きじゃないのかもしれない。

● ところが昨夜,WALKMANに楽曲を転送する作業を唐突に始めた。昨夜は珍しく酒を飲まなかった。それが大きいのかも。酒を飲まないと,夜はけっこう長いのだねぇ。そんなことも忘れてましたよ。
 とりあえず,よく聴く楽曲を入れて見た。ベートーヴェン,ブラームス,ラヴェル,ショスタコーヴィチ,バッハ。
 128GBのmicroSDを入れているので,どっさり入るんだけど,それは追々にということで。

● その状態で試し聴き。したらば。音がまるで違う。
 バッハの「ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲」を聴いてみた。クリアだ。粒立ちが明瞭だ。音が立って踊っているようだ。
 逆にいえば,今まで使っていたスマホで再生された音は,ふた昔前のデジカメで撮った写真のように,音がベタッと寝てしまっていた。
 8ヵ月前からWALKMANを使えたはずなのに放置していたのだ。大げさにいえば,その8ヵ月は捨てたも同然だと思った。

● ぼくが買ったWALKMANはNW-A25という機種だ。現在では生産終了になっている。手頃な価格ながら,「ハイレゾ音源を再生しながら,周囲の騒音を低減できる「ハイレゾ対応デジタルノイズキャンセリング機能」を搭載。シチュエーションを選ばず,いつでもどこでもハイレゾの高音質を楽しめます」とある。
 「音の情報量がCDの約6.5倍あるハイレゾ音源に対応。高音域再生におけるノイズ除去性能を高めたフルデジタルアンプ「S-Master HX」を搭載し,繊細な空気感や臨場感あふれる,きめ細やかなサウンドを体感できます。また,MP3などの圧縮音源やCD音源をハイレゾ相当の高解像度音源にアップスケーリングする「DSEE HX」を搭載。いつも聴いている楽曲がハイクオリティーに生まれ変わります」ともある。

● 「CD音源をハイレゾ相当の高解像度音源にアップスケーリングする」なんてのは,正直,少し怪しんでいた。
 ぼくはハイレゾ音源は持っていない。iTunesでCDをリッピングして,ハードディスクに溜めている。それをスマホに転送してイヤホンで聴く。
 それ以上のことはやっていないし,やる気もない。ルーティンから少しでも外れる作業は面倒くさいと思ってしまう,しょうもないオヤジなのだ。

● と言いながら,ハイレゾとノイズキャンセリングに対応したイヤホンは早くから用意していた。WALKMANとほぼ同時に買っておいた。
 で,聴いた印象は上記のとおり。WALKMAN,すごい。
 もっとも,ぼくが使っていたスマホは古いものだった。今どきの,たとえばSONYのXperiaなら,WALKMANと同等の音を再生するんだろうな。

● 今朝はそのWALKMANで音楽を聴きながら出勤した。少なくとも昨年11月11日以来のはず。この通勤時間も,うーん,昨日までは捨てていたな。面倒くさがり屋は損をする。
 何でもかんでもスマホでと思っていたけど(基本的には今でもそう思っている),専用機はやはりたいしたものなのだな。

● 今日聴いたのは,カルロス・クライバー指揮のベートーヴェンの4番,5番,7番とブラームスの4番。それと,諏訪内晶子のバッハ協奏曲集。
 小さい携帯再生プレーヤーで,これらの曲をこの音質で聴けるのは驚きだ。

● ミニコンポは物色するのもやめる。携帯プレーヤーでここまでの音で聴けるんだったら,携帯プレーヤーのみで充分。
 えっ,WALKMANでそんなに驚いているのか,今までどんな音で聴いてたんだよ,おまえは,と言われますな。

● というわけで,音楽再生機能はスマホから専用機に移行した。スマホは音楽再生プレーヤーとして使う時間が最も長かったから,スマホへの欲求は少し減少。もうしばらく,スマホなしでもいいかな。


(追記 2017.02.25)
 WALKMANを使って行くには,iTunesに代えて「Media Go」をパソコンにインストールしないと,プレイリストの作成ができないんですね。
 そんなことも知りませんでしたよ。今のところ,プレイリストが必要なほどには楽曲を入れていないんだけど,いずれ絶対に必要になる。
 ま,その作業がパソコンでできるんだったら,かなり負担は削減される。

 iPodやiPhoneで音楽を聴くことはまずないと思うし,WALKMANが壊れた後はスマホをXperiaにして,Xperiaで聴き続けることになると思う。「Media Go」でリストを作っておけば,使い回しが利くんでしょ。
 サッサとインストールして,サッサと使い方に慣れてしまうのがいいでしょうね。

(追記 2017.02.25)
 WALKMAN。使い始めて今日で2日目。
 今日は,カラヤン指揮のベートーヴェン「第九」と,アバド&アルゲリッチのピアノ協奏曲第3番,ラヴェル「ボレロ」(指揮はこれもカラヤン)を聴いた。

 自分が今いるところがコンサートホールだ,と思わせてくれる音質の良さ。もっとも,以前,スマホで聴き始めたときにも,同じことを思ったものだったが。
 音質の良さに驚いているわけだけれども,数日のうちに狎れてしまうはずだ。その間に楽しめるだけ楽しんでおけ,と自分に言い聞かせている。

 ちなみに,ぼくは音楽評論家でも音楽の専門家でもないので,カラヤンを嫌う理由が何もない。

(追記 2017.02.26)
 WALKMANを使い始めて3日目。
 今日はショスタコーヴィチの7番と1番(バーンスタイン&シカゴ交響楽団),12番(ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル)。さらに,ベートーヴェンの3番(カラヤン&ベルリン・フィル)。メンデルスゾーンのホ短調協奏曲(諏訪内晶子)。

 そろそろWALKMANの音質に狎れてきてしまった感あり。これがあたりまえになってきたっていうか。

 これまでライヴをメインに聴いてきたけれど,携帯プレーヤーでここまでの音質で聴けるんだったら,ミニコンポでももっといい音で聴けるだろう。となると,わざわざライヴに足を運ばなくても,家でCDを聴いていればいいんじゃないかと思えてきた。
 演奏する側,供給する側に言わせれば,すでにCDは売れなくなっているんだから(クラシックはそれほどでもないらしいんだけど),メインの収入源はライヴのチケット収入になっているだろう。それがジリ貧になってしまったのでは,次の矢は当分見つかるまい。
 とすれば,供給者側の敵は,SONYやPioneer,ONKYO,KENWOODなどのオーディオメーカーってことになってしまう。

 ま,実際はね,再生の音質がどんなに良くなっても,ライヴの情報量を超えることは絶対にないから,ライヴがすたれるっていうのは考えにくいんだけどさ。

2017年2月21日火曜日

2017.02.18 宇都宮市立東図書館 ジャズライブ2017

宇都宮市東市民活動センター ホール

● この日は,16時から宇都宮大学の松が峰講堂でResonanz Barock Consortの2回目のコンサートがある。当日券で聴こうかなと思っていた。昨年の1回目は聴いている。
 ところが別件で宇都宮市立東図書館に行ったら,14時からこのライヴがあることを知った。

● さて,どうするか。約10秒ほど考えて,このまま東図書館にとどまることにした。16時までにはかなり間がある。その時間を持てあましそうだったしね。
 というわけで,開演は14時。入場無料。

● 宇都宮にはかのナベサダがいる。宇都宮は餃子の街であり,自転車の街であり,妖精の街であり,カクテルの街であるのだが,ジャズの街でもあるのだ。
 このライヴももう何回も開催しているらしい。

● ジャズにはまったく詳しくない。詳しくないというより,こういうものだというイメージを持てないでいる。
 イメージを持てないと困るのかと言われると,たぶん困らないんだろうけどと,モゴモゴ返答することになりそうだ。

● 山下洋輔さんは,どんなものでもジャズになると言っていた。バッハなんかジャズの素材にピッタリだとか。
 だとすると,ジャズの外延を定義するなんてことは無意味なのだろうね。理屈で入るものじゃない。まず,聴く。聴いてピンと来なければ撤退する。ジャズであれクラシックであれ,音楽に対する姿勢はそれでいいのだと思う。

● 最初に登場したのは,「the moon」というオッサン4人のグループ。
 MCはトロンボーンの奏者が担当。宇都宮市泉町に「近代人」というスナックがある。その「近代人」がMCで紹介された。ぼくが酒場デビューしたときにはすでにあったから,だいぶ古いんだけど,半世紀は経っているのであるらしい。
 この店でジャズのライヴが行われる。その道に詳しい人には,“いわゆるひとつの聖地”になっているだろう。ぼくも若いときに一度か二度行ったことがあるんだけど,その後バッタリ。縁なき衆生は度しがたし。

● 次は,「Calendula mix」。中学生から大学生までの若者のグループ。「宇都宮ジュニアジャズオーケストラ」の“リズム隊”を中心にしたメンバーとのこと。
 その一番年長者(といっても20歳)の女性が,鍵盤ハーモニカで年下の男性を率いるという図。大学ではオーケストラでヴィオラを弾いているそうだから,小さい頃から楽器に馴染んでいれば,たいていの楽器はモノすることができるんでしょうね。

● オッサンの演奏と若者の演奏を比べれば,どうしたって若者の演奏を聴いている方が楽しい。これはもうどうしようもない。
 オッサンの側に圧倒的な技術の差があり,かつ,こちらがその差を識別できる耳を持っていれば,別かもしれない。
 ぼくなんぞの耳では,さほどの差は感知できない。どうしたって若者の肩を持ちたくなる。自分がオッサンだからね。

● 最後が「宇都宮ジュニアジャズオーケストラ」。小学生から高校生まで。MCを務めたのは高校生の男子。歯切れが良くて,小気味よく場面を刻んでいた感あり。
 アニメの主題歌メドレーなんかも演奏した。となると,ジャズオーケストラと吹奏楽団とは何が違うのだ? 違いなんかないんだろうな。ジャズを主に演奏する吹奏楽団ということなんでしょ。

● ぼくが主に聴くのはクラシックなんだけど,聴いてて楽しくなるのは,やっぱりクラシックの方かなぁ。
 このあたりは体質なんだろうか。今回聴いたジャズのいろんな曲より,たとえばブラームスの交響曲の1番や4番,バッハの「ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲」を聴いているときの方が,自然に身体がスウィングするような感覚がある。

● が,まだ諦めなくていいだろう。ジャズを聴く機会はこれからもけっこうあるはずだしね。

2017年2月9日木曜日

2017.02.06 間奏53:コンサートホールのS席問題

● 4月20日に栃木県総合文化センターのメインホールで,フジコ・ヘミング&イタリア国立管弦楽団の演奏会がある。チケットはS席が1万円。A席が8千円で,一番安いB席が6千円。
 安いB席を買うつもりで,同センターのプレイガイドに行った。

● ところが,B席はほんの僅かしかないのだった(完売)。A席も少ししかない。つまり,ほとんどの席はSなのでした。
 まぁ,そういうものではあるんだけど,総文センターでSの比率がここまで高くなるのは,珍しい。つまり,需給関係で決まるわけで,フジコ・ヘミングならそれでも売れるというわけでしょう。
 結局,8千円を投じてA席チケットを購入。

● ところで。
 フジコ・ヘミングはNHKがドキュメンタリー仕立てで取りあげてから,その存在が知られるようになった。テレビの爆発力は凄い。この点ではネットはまだまだ及ぶまい。
 彼女がここまで人気なのは,普段は音楽など聴かないけれども,彼女のピアノなら聴きたいと思う人たちがいるからだ。“音楽知らずのフジコ好き”という層がたしかに存在するのだと思う。
 一方で,音楽界のセンターにいる人たちは,こういう知られ方をした奏者に対してはかなり冷淡なのが常だ。クソミソに貶すか,黙殺する。

● ぼくは彼女のリサイタルを一度聴いたことがある(やはり総文センターだった。そのときも1万円を投じた)。聴くに値するピアノだと思った。だから,また行こうとしている。
 のだけれど,今回はイタリア国立管弦楽団がメンデルスゾーンの4番を演奏するので,どちらかといえばそっちが楽しみだったりする。

● オールSというのもあるね。たとえば,6月25日に栃木県総合文化センターのメインホールで開催されるこちら。
 全席指定で6千円。SだのAだのっていう区別はない。一律6千円だ。つまり,すべての席がSってこと。

● サブホールならわかるんだけど,メインホールでオールSというのは滅茶苦茶だ。1階席の前方と実質的な4階席やバルコニー席が同じだというんだからね。
 が,その滅茶苦茶がまかり通る。諏訪内人気,怖るべし。美人は得ってところもあるんでしょうか。

● 3月4日がチケットの発売開始日。その日のうちに買い行こう。いい席を押さえましょ。
 諏訪内さんのヴァイオリンを生で聴けるなんて思ってなかったからな。それが宇都宮で聴けるんだから。

● ぼくの相方は諏訪内さんと話したことがあるという。飛行機で隣り合わせたことがあるんだそうだ。
 諏訪内さんはヴァイオリンケースを機内に持ちこむわけだけど,(大きな荷物で)ごめんなさいねと相方に声をかけたらしい。話したといってもそれだけのこと。
 皇太子のお妃候補に名前があがったこともあったから,相方も諏訪内さんの顔と名前は知っていたようなんですよ。

● で,以来,相方は諏訪内さんのファン。ヴァイオリンはキーキーというから嫌いなの,でも諏訪内さんに限ってはその金属音が気にならないの(でも,本当は五嶋龍の音が好きなの),だと。
 えっ,通っぽいね。といって,ぼくが知っている相方は,音楽はまったく聴かない人なんだけどね。

2017.02.05 栃木県交響楽団 第102回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 今回は宇都宮市ではなく,那須野が原ハーモニーホールでの開催。
 開演は午後2時。チケット(前売券)は1,200円(全席自由)。指揮は三原明人さん。

● 早めに家を出たんだけど,会場の近くにあるラーメン屋で昼食を食べるのに,ちょっと時間をかけすぎてしまって,会場に着いたのは開演15分前。
 すでにかなりの数のお客さんで,空席を見つけるのに苦労した。前から3列目に座ることになった。オーケストラの演奏を聴くには,いくら何でも前過ぎるんだけど,致し方がない。致し方ないんだけど,こうまで前だと,ヴァイオリン奏者しか見えない。

● このあとも続々とお客さんがつめかけて,まったく空席はなくなった。それでもまだ来るので,スタッフがオルガンの下にパイプ椅子を並べた。それでも足りずに立ち見のお客さんが出た。
 どうしたんだろうか。座席の数以上にチケットを販売してしまったんだろうか。これだけ入っていると,演奏する側は気持ちいいんだろうけどね。

● 曲目は次のとおり。
 ドヴォルザーク 交響曲第8番 ト長調
 早川正昭 ハープ協奏曲「月児高」
 サン=サーンス 交響曲第3番 ハ短調「オルガン付」
 交響曲が2つという重量級のプログラム。最近はこういうのが珍しくなくなった。だから驚くことはないんだけど,演奏する方は大変だろうなぁ。

● ドヴォルザークの8番を聴くのは久しぶり。栃響は「第九」以外で対向配置を採用することはあまりない印象があるんだけど,今回はその対向配置。
 しかし,配置がどうのこうのより,演奏においては活きの良さって大事だなと思う。活きを生むのは,集中と思い切りなんだろうけど,集中できる,思い切りよく踏みこめるためには,巧くなければいけない。
 技術がすべてではないけれども,ある程度の技術がないと,音楽に限らず,表現行為は成立しないものなのだろう。文章表現もまた同じ。

● 地方で音楽を聴くというときに,一番大切だなと思うのは,安定供給が確保されていることだったりする。群馬には群響が,山形には山響があって,地元で数多くの演奏会を開催しているのだろう。群馬や山形ではその条件が満たされている。
 基本的にぼくは栃響の演奏水準に不満はない。これだけ活きのいい演奏を聴かせてもらっている。それ以上望むことはあまりなかったりする。栃木県に住んでいて,栃響でダメなら仕方がないのだとも思っている。

● が,栃響はアマチュア・オーケストラであって,定演が2回,特別演奏会と年末の「第九」,一般向けの演奏会はこの4回のみ。他に有志の活動もあるようだから,アマオケとしてはかなりハードに活動している。
 ただ,群馬や山形の住人に比べると,栃木県人は栃響への依存度を高めたくても高められないというところはある(だから,年間に数十回の演奏会を催行できるプロのオーケストラが栃木にもあった方がいい,とはまったく思わないのだが)。

● 第3楽章は3拍子の舞曲。たぶん,ここが8番の中で最も知られているところだろう。ここが聴きたいから,この会場まで自分を運んできたのだという人もいるかもしれない。
 こうした部分を突破口にしてクラシックを聴く人が増えてくれればと思う。というのも,クラシックに馴染めるかどうかは10代で決まると言われるからだ。10代のうちにクラシック音楽を聴いて,何らかの痕跡を残してもらわないと,一生,クラシック音楽とは無縁に終わるだろう,という言い方。

● ほとんどの人は小学生のとき,学校の音楽室でクラシックのレコードを聴かされたはずだ。中学校でも然り。自分には居眠りタイムだったという人も多いはずで,だから自分にクラシックなんかとなったりするんだろう。
 無理に聴く必要はさらさらないんだけど,10代云々という話をあまり真に受けない方がいいのじゃないかと思う。例外もけっこういるはずだからだ。ぼくもそのひとりだ。

● 演奏のプロになるなら5歳から楽器を始めていなくてはならないとしても,聴く方はそうじゃない。聴くことにおけるプロというのがもしいるとしても,そのプロになり得る有資格者は5歳から楽器を始めた人たちに限られる。ぼくはそう思う。
 世上,音楽評論家というのはいるけれど,間違えるのが評論家の仕事だ。評論家の言うところを深追いするのは,あまり賢いとは思えない。

● クラシックの側に自分がすり寄るんじゃなくて,クラシックを自分に引きつけて聴けばいいんだと思う。大御所には大御所の聴き方があり,ぼくらにはぼくらの聴き方がある。聴き方に優劣を持ちこんでも仕方がない。
 自分に引きつけるキッカケになる音楽の断片が,映画やドラマやテレビCMの中にあるかもしれない。ドヴォルザークの8番第3楽章の出だしのところにあるかもしれない。それらのどれかをガチッとではなく,フワッと掴んでもらえるといいのかなぁと思ったりする。

● ハープ協奏曲「月児高」が流れ始めたとたん,あ,これは日本人が作ったものだとすぐにわかるな,と思った。のだが。
 プログラム冊子に作曲者自身による曲目解説がある。それによると,台湾のレコード会社から「中国琵琶の古曲(独奏曲)にオーケストラをつけて協奏曲風にしてほしいとの依頼を受けて書いたのが発端」とのこと。作曲者とすれば,ことさらに和を強調しようとは思っていないんでしょうね。
 ちなみに,「月児高」とは「高い所に小さな月がかかっている,という意味」だそうだ。

● ハープ独奏は早川りさこさん。作曲者の説くところによれば,独奏ハープが月を引き受けている。つまり,月の四方山話の独白をハープが行う。その独白の内容がどんなものかは,聴き手ひとり一人によって違うのだろう。
 この曲は聴き手にとっては難解な部類に属するとぼくは感じたが,それはこの曲目解説にあるとおりに聴こうとすればということかもしれない。聴き方は自由なはずだ。

● サン=サーンスの3番はこのホールならでは。電子オルガンで代替すれば,その限りではないけれども。オルガンはこのホールの専属を務めているジャン=フィリップ・メルカールトさん。
 オルガンは独奏で聴くよりもこういう形の方が身体に染みてくる(ように思う)。

● サン=サーンスは「モーツァルトに匹敵する神童」であったらしい。しかも,音楽に限らず,戯曲や詩,小説から天文学や考古学,哲学に至るまで,幅広い分野の著書があるんだそうだ。本当かね。
 反面,母と叔母に溺愛され,束縛され,その結果としてマザコンの権化でもあった。マザコンでも哲学はできるんだな。
 と,凡愚は天才を茶化したくなるんだけど,サン=サーンスってこの交響曲第3番だけで歴史にその名を刻まれる人でしょうね。

● 壮大な曲だと思う。ライヴで何度か聴いているんだけど,たぶん,ぼくはこの曲を聴ききれていないだろう。
 聴ききるためにはどうすればいいのか。CDを何度も聴くとかね。そういうことしかないんだろうな。急ぐことはない。ボチボチ行こう。
 ぼくに残された時間はそんなにないと思うんだけど,だからといって急いだってしょうがないやね。

● アンコールはエルガー「威風堂々」。「威風堂々」を聴くとき,ひとつだけ困ったことがある。「キーテキテ,アタシーンチー,キテキテ,アタシンチー」というコトバが,頭の中に浮かんでしまうことだ。
 今回の曲目はアンコールまで含めて,脈絡がない。どういうわけでこのような選曲になったのだろう。もっとも,脈絡が要るのかと問われれば,そんなものは必要ないね,というのが回答になるわけだけど。

2017年1月25日水曜日

2017.01.22 Nonette Pipers Ensemble 第32回定期演奏会

宇都宮市立南図書館 サザンクロスホール

● Nonette Pipers Ensembleは,地元で活動している木管アンサンブルの団体。ぼくがこの団体の演奏を聴くのは,これが3回目。29回30回を聴いている。
 つまり,昨年は聴いていない。たぶん,他の演奏会と日程が重なってしまったのだろう。

● 失礼なことを申しあげるようだけれど,今日,南図書館に行ったのは別に用事があったからだ。したらば。ホールの入口に人が集まっているので,何事ならんと思ったところ,この演奏会だったんでした。
 で,500円で当日券を買って入場。開演は午後2時。

● 失礼ついでにもうひとつ。この日はサントリーホールで京都大学交響楽団の東京公演もあったんですよ。曲目はマーラーの2番。これは聴いておきたいと思って,「チケットぴあ」でチケットを購入していたんだけど,日常におけるフットワークの悪さが災いして,コンビニにチケットを受取に行ったときには,すでに引換期間が過ぎていた。アッチャッチャッチャ。
 再度,「チケットぴあ」を見たときには,ソールドアウト。というような事情もあった。

● 曲目は次のとおり。
 カンビーニ 木管五重奏曲第3番 ヘ長調
 ドビュッシー 小組曲 ヘ長調
 シューベルト(スピラ編曲) 幻想曲 ヘ短調
 ラフ 十人の奏者のための小交響曲 ヘ長調

● ところで,このNonette Pipers Ensemble。メンバーは好きで長くやっていますという感じではない。
 若い頃に集中してそれだけをやっていた時期を持っている人が多いのじゃないか。つまり,音大を出ている人たちの集まりのように思える。あるいは,音大ではなくても学業はそっちのけで音楽に没頭していたとか。

● 木管の調べの特徴をごくザックリと大括りに言ってしまえば,柔らかさ。その心地よい柔らかさを満喫できる。
 柔らかさだけではない。木管の集合によって生まれるダイナミズムや,綾の重なりによる,木管の表現力の多様さも知ることができる。

● しかし,弦楽四重奏がそうであるように,木管アンサンブルも聴き手にかなりの鑑賞能力を要求するようだ。管弦楽を聴いている方が,聴き手としては楽だろう。
 正確にいうと,ヘボな聴き手は管弦楽の方が楽だろう。ぼくもかなりヘボなので,こういう演奏会とオーケストラの演奏会が同じ日にあったら,オーケストラの方に行ってしまいそうな気がする。

● ドビュッシー「小組曲」とシューベルト「幻想曲」の印象が強かった。どちらも何度か生で聴いていると思う。が,木管のみの演奏で聴くのは初めてだ(「幻想曲」にはピアノも入った)。
 プログラムノートの曲目解説には,「この曲は,シューベルトが音楽教師として貴族に雇われたとき,その娘に恋をし,「かなわぬ恋」の思いを曲に託したと言われています」とある。
 その貴族とは,ハンガリーのエステルハージ伯爵であり,娘とはカロリーネ嬢(当時18歳)。美人だったのだろう。実際,Wikipediaには「1828年の発表時にカロリーネに献呈している」とある。

● しかし,献呈しているからといって,彼女に恋をしていたのかどうかはわからない。そうだということになったのは,映画「未完成交響曲~シューベルトの恋」の影響だろう。映画に描かれているところを真実だと思ってしまった人たちが多かったゆえ(中川右介さんの受け売りなんですが)。
 けれど,「かなわぬ恋」を曲に託したと受けとめた方が腑に落ちるのであれば,そのように受けとめた方がいいんでしょうね。

2017年1月19日木曜日

2017.01.15 宇都宮クラリネットアンサンブル第9回演奏会

栃木県総合文化センター サブホール

● この団体の演奏会は,今回が3回目。第5回6回を聴いている。開演は午後7時15分。入場料は500円。当日券を購入。

● 曲目は次のとおり。宇都宮北高校吹奏楽部のOGがメインということもあってか,吹奏楽よりの曲目が多い印象。
 吉松隆 パラレル・バード・エチュード
 高橋宏樹 3つの魔法
 鈴木英史 ファスター・ラプソディー
 デュファイ 「オーディションのための6つの小品」より
 石川亮太 クラリネット・クイーンテット!
 ピアソラ デカリシモ
 森田一浩 熊本民謡の贈り物
 Japanese Pop Culture セレクション
 真島俊夫 ラ・セーヌ

● ステージが発散するオーラも吹奏楽的なもの。あんまり難しいこと言わなくてもいいんじゃん,楽しんじゃってよ,っていうような。
 はい,楽しませていただきましょ。

● 今回のプログラムで最も印象に残ったのは,ピアソラ「デカリシモ」。ピアソラの作品の中では明るいというか,軽い感じの曲。
 クラリネットはいろんな表情を出せる楽器なのだろうけど,軽快にステップを踏んでポンポンと上がっていくような曲をクラリネットで演奏してもらうのが,ぼくの好み。

● 回を重ねるごとに出演者が増えているとのこと。今回は20名。男性がいた。しかも,2人も。
 事実上の宇北校吹奏楽部OB・OGの楽団だとすると,OB・OGがどんどん増えていけば,ひとつの楽団に収まっていることが難しくなることもあるんだろうな。はるか先のことではあろうけれど。

● 何人かの団員が短いMCを務めたんだけど,MCってけっこう難しいものなんだね。髙梨佳子さんが上手だった。声質もMCに合っているんでしょうね。
 ほかはどうだったかというと,うぅむ。MCは難しい。

● アンコールに登場したのが,星野源の「恋」。これ,演奏だけで収まるはずはないよね。「恋ダンス」になるわけですよ。
 ぼくはドラマ「逃げ恥」は見てなかったんだけど,「恋ダンス」はさすがに知っている。YouTubeの動画を何度も見た。
 なんだけど,こういうのって賞味期限が極端に短い。今,これをやるのはどうなのか。かなり微妙なところではないか。あ,ここ,田舎なんだ,と思わせるところがなくもないような。

2017年1月17日火曜日

2017.01.09 那須野が原ハーモニーホール ニューイヤーコンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● このコンサートに出向くのは,これが4回目になる。正直,去年のを聴いて,もうこれで打ちどめにしようと思った。
 が,なぜか前売券を買っていた。なんでだろ。なんでだろって,その理由はわかっている。第2部の「カルメン」に惹かれたわけだ。それ以外に理由はない。

● 開演は午後2時半。チケットはS席が3,000円。A席が2,000円。S席チケットを買っていた。前から3列目。
 オーケストラが乗るわけではないから,かなり前でもいいかなと思ったんだけど,少ぉし前すぎたかもしれない。

● 第1部はオルガン+α。曲目は次のとおり。
 宮城道雄 春の海
 バッハ 古き年は過ぎ去り
 デュリュフレ スケルツォ
 フランク 英雄的小品
 フォーレ 夢のあとに
 山田耕筰 この道
 バーンスタイン 「ウエストサイドストーリー」より『トゥナイト』
 プッチーニ 「トゥーランドット」より『誰も寝てはならぬ』
 J.シュトラウスⅡ 美しき青きドナウ

● 最初の4つと最後の「美しき青きドナウ」はオルガンの独奏。奏者はジャン=フィリップ・メルカールト氏。このホールのオルガニストゆえ,もう何度も聴いている印象があるんだけど,実際に数えてみるとそうでもなかったりするかも。
 フォーレ「夢のあとに」は寺田功治さんのバリトンが加わる。というか,バリトンの伴奏をオルガンがする。
 山田耕筰「この道」には大貫裕子さんのソプラノ。「トゥナイト」と「誰も寝てはならぬ」には渡邉善行さんのトロンボーン。
 オルガンは単独で主役を張るより,伴奏に回った方が,持ち味を発揮する楽器ですか。そんな気がした。

● ところで,ぼくの隣にはおば様がいらっしゃったのだけど。そのおば様,途中からお休みになられたようで。気持ち良さそうに寝息を立てて。
 っていうか,寝息じゃないわ,イビキだわ。隣の席からイビキが聞こえてくるという。さすがにこれは初めての体験。

● コンサート会場で生演奏を聴きながら寝る,というのはかなり贅沢な体験になるのじゃないかと思う。生演奏を寝るために活用するというのは,コンサートの使い方としてはありなんじゃないかと思っている。
 奏者からすれば,ちょっとちょっとってことになるのかもしれないけど,そこはお金を払ってチケットを買っているんだから,他者の迷惑にならなければ,何をしようとかまわない。

● なんだけど,イビキは他者の迷惑になるようなのでした。起こすわけにもいかないし,困ったよ。
 結局,そのおば様,第2部は聴かずに帰っていかれたようなんだけど,なんでお出でになったのですかとお訊ねしたい。
 チケットを買った人が都合で行けなくなったので,代わりにあなた行ってきてよ,ってことになったのだろうか。それともご本人が行くつもりでチケットを買ったんだろうか。

● 万が一,後者だとすると,もったいないと思うなぁ。3,000円っていうのは,チケット代としてはけっこうな額になる。プロのオーケストラでも5,000円以上の値を付けるのは,わりと勇気がいるんじゃなかろうか。
 3,000円をこういうふうに使えるのは,太っ腹だ。しかも,第2部は捨ててしまったわけだから。

● さて,その第2部。歌劇「カルメン」のハイライトをコンサート形式で,ってことなんだけど,ステージにオーケストラがいるわけではない。ピアノが2台(御邊典一,御邊大介)と太鼓(岩下美香)があるだけだ。
 実際の印象はコンサート形式のオペラというよりは,著名な場面のアリアを集めたという感じ。アリア集といった趣だった。ハイライト演奏なんだから,当然そうなるんだろうけどね。

● だからダメというのではなくて,むしろ逆だ。かなり聴きごたえのある「カルメン」になった。第一の功績は,脇を演じた人たちにある。
 フラスキータの西口彰子さん,メルセデスの郷家暁子さん,ダンカイロの荒井雄貴さん,レメンダードの升島唯博さんの4人の功績。
 特に,西口さんと郷家さんの“華”は大したもので,聴衆の視線を最も集めていただろう。

● ミカエラの大貫裕子さんもチャーミング。実力も申し分ない。第3幕で,ホセに対する切ない気持ちを独白するするところなんか説得力,無類。
 劇中のミカエラは,田舎しか知らない17歳の娘。ホセの母に養われた孤児。ホセとは兄妹のように育った間柄で,ホセ母の覚えめでたく,ホセ母はホセとミカエラが結婚してくれることを望んでいる。
 それを受けて,はるばる故郷の村から,ホセに会うためにセビリアに出てくる。当時,田舎者が都会に出るには,それだけで相当な踏ん切りを要したはずだ。都会は危険の塊だったろうから。
 一途にホセを想う気持ち。ホセを連れ帰るためなら何でも差しだすという気迫。つまり,ミカエラは可憐なだけではない。覚悟を決めている強い乙女だ(女に覚悟を決められたら,男は太刀打ちできないはずなのだが)。
 リアルの世界にミカエラのような女性がいるはずはない。男性作家の空想の産物なんだけど,それを歌と演技と佇まい(それから衣装も大事でしょ,ここは)で表現しなければならない。
 大貫さんが歌ってみせたアリアは,そのひとつの回答。

● カルメンを演じたのは鳥木弥生さん。歌とか演技とか,オペラの本体をなすところについて,ぼくが申しあげるのは僭越というものだ。っていうか,不満は何もない。
 したがって枝葉末節を突っつく話になるんだけど,鳥木さんの顔って,良家の子女という感じ。幼稚園とか小学校の先生にいそうな。
 ということはつまり,カルメンに見えない。そこを衣装や髪型や化粧でカバーすることは充分にできるんだろうけど,ステージ上の鳥木さんはお嬢さん育ちで何不自由なく暮らしてきたよっていうイメージの女性なんだよね。
 何者にも頼らず(頼れず),自分の才覚と価値観だけで生きていくしかない,半ばストリート・チルドレン(チャイルドではないわけだが)のようなカルメンの野性味,凄味といったものを,こちらとしては想像力で付加していくしかない。

● エスカミーリョは闘牛士であり,花から花へと渡っていくドンファン的なところもある役柄だ。日本人でそれを演じきれる人なんて,そうそういない。日本に闘牛士なんてプロフェッションはないんだし。
 寺田功治さんも,熱演は充分に伝わってきたんだけど,闘牛士に見えない。
 オペラの見方はそういうものじゃないんでしょ。歌で役を支えることができていれば,それ以外のことは聴衆が想像力で補ってくれよ,ってことなんでしょ。
 だから想像力を掻きたてようとするんだけれども,けっこう難しい作業なんだな,これが。小さい頃からテレビで育ってしまっているから,画は与えられるものと脳が思いこんでいるのかもしれないんだ。

● ドン・ホセの役柄は,逆に一般的というかどこにでもいそうな,ちょっと困った男だ。ミカエラがいるのに,カルメンしか見えないという。
 とっくに自分に冷めてしまっているカルメンを,そうと知りながら殺してしまう熱情は,日本の風土には馴染まないかもしれないと思っていた。
 けれど,最近もこの種の殺人事件があったなぁ。こういうのって,洋の東西や時の古今を問わないんだなぁ。
 高田正人さんは丁寧にホセの内面を表現していて,危なげがない。実力のある人なのだろうな,と。

2017年1月12日木曜日

2017.01.08 TBSK管弦楽団第7回定期演奏会

横浜みなとみらいホール 大ホール

● 今年の聴き初めは横浜でTBSK管弦楽団。この楽団の演奏会は2回目になる。1年前の第5回定演を聴いている。
 開演は午後2時。入場無料。
 曲目はオール・ラヴェル。次の3曲。指揮は久世武志さん。ピアノは山田剛史さん。
 ラ・ヴァルス
 ピアノ協奏曲 ト長調
 バレエ音楽「ダフニスとクロエ」全曲 

● オール・ラヴェルでなければ,横浜まで出張ることはなかったと思う。昨年7月にスペイン国立管弦楽団で聴いた「ボレロ」の印象がまだ残っている。
 自分のいるホールがそのまま宇宙のすべてになったような感覚。あんな感覚をまた味わえればと思ったんだけど,なかなかそういうわけにはいかない。あれは「ボレロ」なればこそ,でしたね。

● 少し出遅れたせいもあって,座った席が2階の左翼席の2列目だった。ステージの全部は視野に入らない。
 前列に座った人の頭が邪魔になることはないけれども,落下防止の手すりはどうしたって目に入ってくる。ステージと自分の間に防護柵のポールがある。それが邪魔だ。
 そのせいだけにするつもりはないけれど,どうも演奏に没入できなかった。

● そこで。休憩時に比較的空いていたP席に移ることにした。中央の2列目。P席は初めてなんだけど,これはすごい。何がすごいって,ステージがほんとにすぐそこにある。
 指揮者を正面に見るから,自分も指揮されているような感覚を味わう。

● さらに,打楽器がもっとも近くにあり,その先に金管,木管。ヴァイオリンは最も遠いところから聞こえてくる。不思議な感じだ。
 コンミスがよく見える。どの位置からもコンミスはよく見えるのだな。それでこそ,コンミスは第二の指揮者の役割を果たすことができるわけか。そうだったのかという発見。

● 普通に客席からステージを見ると,奏者はオーラをまとって見える。仰ぎ見る感じになる。
 が,P席から見ると,それがないっていうのも発見だった。実物大の彼ら彼女らを見ることになるっていうかね。
 で,ここの楽団員の平均年齢はかなり若いことがすぐにわかった。現役の学生もいるんじゃなかろうか。ひょっとしてひょっとすると,高校生もチラホラいるんじゃなかろうか。
 後日,プログラムノートを確認したら,「団員の多くは大学生や院生」とあった。所属大学のオケのほかに,この楽団でも活動しているということだろう(同じことを前回も書いているなぁ)。

● 入場無料なんだけど,終演後にカンパを募る。これだけ若々しくて,キビキビした演奏を聴かせてもらったのだから,カンパに応じるのはやぶさかではない。
 ただね,もっと堂々とやったらいいと思った。カンパ箱ももっと大きい方がいい。遠慮がちという風情があって,それだと出す方も出しにくい感じがした。カンパを募っていることに気づかない人もいたはずだ。

2017年1月6日金曜日

2017.01.05 間奏52:ステージと客席の間に入りこむ市場原理

● 消費市場の理屈がコンサートやリサイタルにも混入しがちだ。演奏する側が,聴衆をお客様として持ちあげすぎるきらいがあるように思う。
 演奏する側=供給者,生産者,販売者。聴く側=需要者,消費者,お客様。となれば,売る側より買う側が優位に立ちやすい。

● 音楽が成立するためには3つの条件が揃わなければならないとされる。第1に聴衆の存在,第2に大ホールの存在,第3に高度な印刷技術(楽譜の印刷)。
 この3つの中で最も重要なものは聴衆だろう。聴いてくれる人がいなければ,どうにもならない。

● しかも,もう総人口は減り始めている。ホールへ足を運べなくなる高齢者が毎年出る。それを埋めるだけの新規参入者が若年層から供給されるとは,少し以上に想像しにくい。
 それでなくても,日本はクラシック音楽が隆盛な国だ(と思う)。現にホールに足を運んでいる聴衆の後ろに聴衆予備軍が部厚く控えているとは思えない。聴衆予備軍のほとんどはすでに聴衆として開発されている。

● 反対に,演奏者は年々増えているように思われる。音大卒は毎年積みあがる。長生きするようになったおかげで,上はどんどん詰まってくる。
 演奏したい人は増え,聴きたい人は減るとなれば,どうしたって聴衆はお客様として持ちあげられることになる。奏者に対して優位に立つ。表面上は。

● 優位に立つ(と錯覚する)とスキが生じる。脳天気なことを言って恥じぬようになる。心しないといけない。
 基本,演奏する側は玄人,聴く側は素人,ではないか。まぁ,聴く側にごく少数の例外はいるのだろうけど。

2017年1月5日木曜日

2017.01.01 間奏51:初心に戻れと自分に言い聞かせてみる

● このブログは,コンサートに出かけていって,それを聴き,その様子や感想を文章に翻訳しているだけのものだ。
 読んでくださっている人たちの多くは,それら楽団のメンバーの方々ではないかと思う。そこから先に広がっていかないのが,目下の悩みだ。
 とはいえ,5年弱でPVが20万に到達した。すべてが真水ではないとしても(かつて,スパムアクセスが猖獗を極めたことがある),当初の予想からすれば大成功なのだ(そんなアクセス数でいいなら半年か1年で集めてるよというブログもあるに違いない。羨ましい限りだけれども,ぼくには遠い別世界の話になる)。

● それ以上を望むようになるから,あれこれ考えてしまうわけだ。しかし,それは健全なのだと思ってもいる。この局面では,あまり簡単に足るを知ってはいけないのではないか。
 ブログを更新するのは努力以前の話で,その努力以前のことをまずは確実に行うこと。そこから先が努力ということになるのだけれど,その努力とは具体的に何をすることなのか。

● CDで多くの曲を聴きこむことか。音楽関係の本を読んで知識を増やし,勉強を深めることか。
 うまく言えないんだけど,ぼくがすべきことはそういうことではないような気がする。そういう大それたことではないんだと思うんですよね。

● しかし。プロであれアマであれ,演奏する側は気を入れて演奏しているはずだし,演奏の裏にはその何倍かあるいは何十倍かの練習が隠れているはずだ。
 それを聴いて感想を書くのだから,こちらも裏側でそれなりの時間をかけているのでなければならない。それなしに,お気楽に感想を書いてネットに垂れ流すだけでいいわけがない。

● というわけで,具体的に何をすればいいのかはわからないんだけど,努力以前であってもともかく更新を重ねていこう。
 ただし,数を増やせばいいというものでもない。ひとつひとつに気をこめて,ていねいに更新するところから再出発だ。
 ぼくのキャパだと,あまり多く聴くと,1回あたりの聴き方がおろそかになる。気持ちがこもらなくなってしまう。それを文章化する作業においても同様だ。

● が,少数精鋭で少なく聴くという方法は採用しない。そんなやり方でいいのは,聴くことの達人に限られる。ぼくのような凡人がそんなことをしたら,耳が退化する一方になるだろう。
 そのあたりの兼ね合いがある。自分なりのペースが自ずとあるはずで,それに従えばいい。となると,今までと何も変わらないことになるかなぁ。

● 音楽を聴くのが好きだし,それを文章に置き換えていく作業もそんなにイヤじゃない。好きなことをやっている。だから続けてこられた。
 さらに,読んでくださる方がいらっしゃるという事実が,自分の背中を押してくれる。継続の推進力になってくれる。
 読んでくださる方々からいただく何ものかによって,自分の好きなことをやってこられたのだ。これからもやっていける。

● 昨年,19歳のひとり息子を亡くしてしまった。自分に残っているのは,少しのお金と住居くらいか。それだけあれば生きてはいける。さほどに生きていたいとも思わないが,生きてはいける。
 けれども,本当に大事なものが,自分の両の掌からこぼれ落ちてしまった。落ちて,粉々に砕けてしまった。一番大事なものを取り落とすとは何事か。

● と,半ば,人生を捨てそうになったりもしたけれど,過ぎてみればコンサートに行けるようになった。行けばそれをブログにしてアップする。するとそれを読んでくださる方が,決して多い数ではないけれども,いてくださる。
 そのことが,とても嬉しく,とてもありがたい。あ,これを繰り返している間は生きていられるんだ,と気づかせてもらえただけでも。

● これまで読んでいただいた皆様,本当にありがとうございました。
 お顔も知らずお名前も存じあげない皆様の存在が,しごく大げさに申しあげれば,ぼくが生きていく糧になってくれています。本当にありがとうございます。