2017年3月31日金曜日

2017.03.26 第6回音楽大学フェスティバル・オーケストラ

東京芸術劇場 コンサートホール

● 池袋の東京芸術劇場へ。「第6回音楽大学フェスティバル・オーケストラ」の演奏を聴くため。首都圏の9つの音楽大学の合同チーム。4月から社会に巣立つ4年生もいるらしい。
 開演は午後3時。席はSとAの2種で,S席が2,000円。チケットは,昨年11月の音楽大学オーケストラ・フェスティバル(桐朋と昭和音大が登場した回)のとき,ミューザ川崎で買っておいた。

● ぼくの席は1階のE列。前から5列目。少々以上に前すぎた。木管や金管の奏者は見えない。弦奏者の陰に隠れてしまっている。
 その代わり,ヴァイオリン奏者は,今,息を吸ったな,っていうところまでわかる。表情はむろんのこと。
 どっちがいいかっていうと,でも,すべてが見えるところがいいね。もう少し後ろか,2階席の前方。

● 曲目はドビュッシーの「海」とマーラーの6番。指揮は高関健さん。昨日,同じ曲目でミューザ川崎でも演奏している。
 開演前に高関さんのプレトークがあった。これって,客席サービスの一環として,山県交響楽団が始めたことでしたっけ。どうなんだろうな,これで客席は盛りあがるんだろうか。
 ぼく一個は,演奏会には演奏以外のものは一切ない方がいいと思っているんだけど。

● 1年間で60回程度のコンサートを聴いている。多すぎるだろ,1年に1回しか聴いてはいけない,と言われたら,たぶんこの演奏会を選ぶと思う。
 濃密な演奏だ。直接音の音圧が息苦しいほど。若いというのはそれだけで力を持つのだと思わせる。ぼくらは若さの前に敬虔でなければいけない。
 第一,マーラーの6番を生で聴ける機会はそんなにない。まして,21,2歳の溌剌ともの怖じしない演奏で聴けるなんてのは,僥倖というしかない。

● 感想は以上で尽きている。細かいことを書いても仕方がない。
 ステージ上の奏者の躍動。ステージから発せられる音の連なりがこちらを圧倒する度合い。この2点において,この演奏会は聴くに値する。いや,ぜひ聴くべきだ,聴きたい,と思わせる。

● 29年度も音楽大学オーケストラ・フェスティバルは開催される。どうにか都合をつけて,奥州街道を南下して,彼らの演奏に接したいと思うだけだ。

2017.03.20 東京アマデウス管弦楽団 第85回演奏会

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● この楽団の演奏会にお邪魔するのは,第78回,80回に次いで,3回目。
 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入した。指揮は北原幸男さん。

● この楽団の特徴は次の3つだ。第1に男性が多い。特に弦。弦で男性が女性を圧倒しているところは,じつに希有な存在。
 第2に年齢のバラツキが大きい。これも以外に少ない。○○大学OBOGオーケストラっていうような楽団でも,年齢層を異にする楽団が複数あったりする。若い人と一緒にやりたいと思う年寄りはいても,年寄りと一緒にやりたいと考える若者はいないものだ。

● この楽団では若者も大人なのかね。年輩者が決定権を若者に委ねているのだろうか。あるいは圧倒的に巧い年寄りたちで,若者が一目も二目も置いているのか。
 同じ音楽を歩む同志なんだから年齢差なんて関係ないよ,って,それだけはないような気がするんだけどなぁ。

● 第3は,巧いということ。芸達者が揃っている。その代表として,新交響楽団や都民交響楽団などの名はしばしば聞く。ぼくはまだ聴く機会を得ていないのだが。
 東京アマデウス管弦楽団もその一角に名を連ねるのだろう。演奏を聴いていると,プロオケなんて要らないじゃんと,半ば本気で思う。

● 曲目は次のとおり。
 オットー・ニコライ 「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲
 R.シュトラウス 交響詩「死と変容」
 ブラームス 交響曲第4番 ホ短調

● 交響詩「死と変容」のはじめの方,オーボエ,フルートの軽やかなメロディーが現れ,独奏ヴァイオリンに受け継がれる。このあたりは,この曲の聴きどころでもあるんだろうけど,聴きどころを確かな聴きどころにできる力量を感じる。

● プログラム冊子の曲目解説によれば,「この交響曲はブラームスが居を定めるウィーンにおいて,もう1つ人気が出なかったそうです」とある。「古風な印象のせい,という見解も見られ」るという。
 あるいはそうかもしれない。が,当時のウィーン市民(音楽の愛好家)がブラームスに付いていけなかっただけだと単純に考えておきたい。
 当時のウィーン市民にとって,ブラームスは決して斬新でも奇妙奇天烈でもなかったろうけど,それでも創造者はフォロアーの先を行く。

● 今のぼくらもそうだ。はたして本当に創造者(作曲家)の意図するところに付いて行けているかどうか。
 時代に洗われて残った楽曲に,つまり時代の評価に,寄りかかって聴いているだけかもしれない。自らを顧みてそう思う。
 ただ,このあたりが難しいところで,あまり頭で聴きたくないっていうか,自分の意識を肥大させて,意識で曲を受けとめるというのも,聴き方としては上等とは言えないように思う。上手く言えないんだけど。

● さて,東京アマデウスが紡ぎだすブラームスの4番。指揮者のどんな要求にもお応えしますよってことなんだと思う。
 おそらくこの楽団の団員たちは北原さんにも物申す人たちだろう。もちろん,喧嘩腰ではなくて和気藹々と。
 腕に覚えがあればこそ。指揮者の要求に応えられるだけの技量があって,初めてその技量に応じた“物申す”ができるわけだろうから。

● これだけの人数がいるのに音がひとつの束になっていて,バラけないのは大したものだ。メリハリ,緩急,GO&STOP,加速の良さ。そういう言葉を思いださせる。
 かなりの性能を持つスポーツカーというかね,そういう演奏をする。

2017年3月18日土曜日

2017.03.13 宇都宮短期大学・附属高等学校音楽科 第49回卒業演奏会

栃木県総合文化センター サブホール

● 第46回47回に次いで3回目の拝聴となる。ぼくは宇短大や附属高校の生徒の父兄でもないし,縁もゆかりもない人間だけれども,この演奏会は楽しみにしているもののひとつだ。
 開演が平日の17:30なので,必ず行けるとは限らないけれども,できるだけ行くようにしている。
 
● なぜかといえば,その年齢のときにしか表現できないものがあるはずだと思うから。18歳あるいは20歳。そのときの感性。そのときの環境。そのときの生命力。そのときしかできない表現。それがあるはずだと思うから。
 30歳や40歳でもそのときにしかできない表現はあるのかもしれないけれども,ここはやはり若く可塑性に富んでいるときの演奏に接したい。

● 技術はこれからまだまだ上達するとしても,技術がすべてではない。ひょっとしたら技術を超える何かが現出するかもしれないという期待。若さが持つ魅力のひとつはそこではないか。

● 宇短大と附属高校の音楽科が,栃木県の音楽活動におけるセンターのひとつになっていることは間違いない(センターがいくつもあるのもおかしなものだけど,もうひとつは宇都宮大学教育学部の音楽教育コース&宇都宮大学管弦楽団)。
 栃響の団員にも宇短大の卒業生は多いようだ。アマオケの指導者にも卒業生が多い。人材の供給源になっている。

● 開演は午後5時半と平日にしては,異常に早い。おそらくは,聴衆として見込んでいるのは,在学生,卒業生の友人・知人といったところなのだろう。
 実際には保護者も来ている。もちろん,母親が多い。でも,たぶん,ぼくのようなまったくの部外者もいるはずだ。ぼくだけってことはない。市内のホールで何度か見かけている顔もあったから。

● 46回のときは,電子オルガンの演奏者が多かったのだけど,47回と今回はゼロ。
 プログラムを転記しておく。まず,高校。

 カバレフスキー ピアノソナタ第2番 第1楽章(ピアノ独奏)
 バラ イントロダクションとダンス(チューバ独奏)
 シューマン アレグロ ロ短調(ピアノ独奏)
 ベッリーニ 歌劇「夢遊病者の女」より“ああ,信じられない”(ソプラノ独唱)
 クレストン ソナタ(サクソフォン独唱)
 シューマン 「3つのロマンス」より第1番,第3番(ピアノ独奏)
 モーツァルト アリア“大いなる魂と高貴な心”(ソプラノ独唱)

● いつも思うことだけど,高校3年生というのは,正装すると完全なる淑女だ。近くで見れば,まだかすかに子供っぽさを表情に残しているはずだけれど,客席からステージに立つ彼女たちを見ていると,他を圧する大人の風格がある。
 トップバッターの大橋桃子さんの演奏する姿を見て,まず感じたのはそのことだ。

● いずれ菖蒲か杜若。そこをあえていうと,高校生の演奏で印象に残ったのは次の3人。サクソフォンの石橋佳子さん,ピアノの山本杏実さん,ソプラノの早川愛さん。
 石橋さんのサクソフォンはメリハリが利いている。この曲がメリハリがあった方がいい曲なのか,そこをあまり強調してはいけない曲なのか,そこのところはわからない。
 が,心地よく響いてきたのは確かで,であれば,少なくともぼくという聴衆のひとりにとっては,彼女の演奏で良かったはずなのだ。

● 山本杏実さんが演奏したのはシューマン「3つのロマンス」で,ぼくはこの曲が好きなのだと思う。だからよく聞こえるというところもあるのかもしれない。
 しかし,それだけのはずはない。実力が持つ説得力というのがある。

● 声楽を能くする人というのは,ぼくからすると異能者。つまり,自分にはない能力を持つ人たちだ。簡単に参ってしまう。
 早川さんの伸びやかな声を聴いていると,生まれ持ったものが大事で,努力でどうにかできる部分というのは,そんなにないのかなと思う。努力でどうにかできるようなものは,そもそもどうにかする必要もないものに限られるのかもしれない。

● 次に短大。
 クラーク 霧の乙女(トランペット独奏)
 ハイドン オーボエ協奏曲 第1楽章(オーボエ独奏)
 オッフェンバック 歌劇「ホフマン物語」より“森の小鳥はあこがれを歌う”(ソプラノ独唱)
 ドビュッシー 前奏曲集第2巻より第6曲,第12曲(ピアノ独奏)
 クラーク ベニスの謝肉祭(トランペット独奏)
 グラナドス 演奏会用アレグロ 嬰ハ長調(ピアノ独奏)
 イベール コンツェルティーノ・ダ・カメラ 第2楽章(サクソフォン独奏)
 ショパン ピアノソナタ第3番 第1楽章(ピアノ独奏)

● ピアノはどれも良かったと思う。佐藤佑香さんのドビュッシーも小味が利いていたし,長雅大さんのグラナドスも聴きごたえがあり,長野美帆子さんのショパンは貫禄すら感じさせた。
 青木嶺さんのオーボエも。貴重な男性奏者だからそれだけで印象に残る。

● 最後に短大卒業生の全員で合唱。女声合唱とピアノのための組曲「桜の花びらのように」という曲らしいんだけど,男性も混じっている。3人ほど。その男性諸氏はクチパクかというと,もちろんそんなことはなくて,きちんと男声も聞こえていた。
 要するに,男声が混じっても別段破綻は来さないんでありますね。

● 以前は,ヘンデルの「ハレルヤ」を歌っていて,それがこの演奏会の伝統でもあったようだ。が,それはやらなくなったのだね。
 時間は限られている。そのために,たとえばピアノ独奏をひとつ削るなんてことになると,本末転倒だろうし,「ハレルヤ」にこだわることはないとぼくも思う。どういうわけでやらなくなったのかは知らないわけだけど。

2017年3月14日火曜日

2017.03.12 室内合奏団ベルベット・ムジカ記念公演-珠玉のグラン・パルティータ

栃木県総合文化センター サブホール

● 「ベルベット・ムジカ」,初めて聞く名前だけれど,「栃木県内の管楽器奏者の有志で結成された室内合奏団」なのですね。今回は,クラリネット奏者の磯部周平さんを迎えての,お披露目の記念公演ということ。

● 開演は午後2時。チケットは2,000円(前売券)。曲目は次のとおり。
 R.シュトラウス 13管楽器のためのセレナーデ 変ホ長調
 ベートーヴェン 管楽8重奏のためのロンディーノ 変ホ長調
 磯部周平 きらきら星変奏曲Ⅲ
 モーツァルト 12の管楽器とコントラバスのためのセレナーデ 変ロ長調

● シュトラウスのこの曲が初演されたとき,シュトラウスは18歳。この分野には天才がキラ星のごとく,雲霞のごとく,存在している。
 科学者にも天才はあまたいるだろうし,ぼくなんぞが見ると,囲碁や将棋の世界には天才しかいないと映る。が,音楽の世界は天才の天才性が際だっているというか。

● セレナーデは小夜曲と訳される。が,13もの楽器を使う小夜曲って何? って感じがするね。これだけの楽器が入ると,華やかだし賑やかだ。
 小夜というイメージではなくなる。小夜という字面に引きずられすぎかなぁ。

● この合奏団の設立の中心になったのは神長秀明さんのようだ。メンバーも彼が指揮者や副指揮者を務める,鹿沼フィルや栃木フィルのメンバーが多い。
 作るは易く,継続は難し。たぶん,そういうものなのだ。このくらいの人数ならば,まとまっていけるのではないか。と,外部の人間は勝手な感想を持つんだよね。

● ベートーヴェン「管楽8重奏のためのロンディーノ 変ホ長調」はWoO 25となっている。つまり,ベートーヴェン自身は自身の作品としての番号は付けなかった。小品ゆえだろうか。
 ベートーヴェンの若い頃の作品。苦悩を通して歓喜に到れ的な重さというか,深さというか,そういうものはこの曲にはない。演奏時間が6分の曲だからということではない。“苦悩を通して歓喜に到れ”を6分で表現することは,たぶんできる。
 が,ベートーヴェンはそればかりの作曲家ではないってことなんでしょ。

● 磯部周平「きらきら星変奏曲Ⅲ」は面白かった。じつは,これが一番印象に残った。軽妙で。
 オーボエ,クラリネット,ファゴットの3人で演奏。木管三重奏とも言う。
 おそらく,今回の曲目は,吹く方も大変だろうけど,聴く側にもそれなりの鑑賞能力を求めるものなのだ。ので,なかなか付いていけないところがあった。でもって,この曲は箸休め的なというか,気分転換の役割を果たしてくれた。

● プログラム冊子の曲目紹介によれば,「きらきら星」の旋律はヨーロッパに古くから伝わるもので,モーツァルトの独創によるものではないらしい。
 「英語圏では「ABCの歌」,フランスでは「ああ,お母様」,ドイツでは「サンタクロースは明日来るよ!!」として広く歌われて」おり,「このメロディーを少し変えると「子狐コンコン」になり,「オーボエ四重奏曲の終楽章」になり,「イスラエル国家」になり,スメタナの「モルダウ」にも,サッチモの「この素晴らしき世界」にもなって,時代,国境を越えて,愛され続けています」ということ。
 なるほど。眼から鱗が3枚は落ちた。

● 最後は,モーツァルト。7つの楽章,演奏時間が50分を超える大曲。じつに「グラン・パルティータ」なんだけど,いよいよこれがセレナーデなのかという思いも。
 ぼく的には,セレナーデといえばアイネ・クライネ・ナハトムジークがその代表という思いこみがあって,なかなかその思いこみから自由になれない。

● モーツァルトが生きていた頃,こうした曲は貴族の館で演奏されたのだろう。聴くのも高等遊民というか,人の働きを掠めて喰うことが許されていた貴族たちだった。
 で,その貴族たちの,こと音楽に関する造詣の深さはただものではなかったはずだと思われる。自身で演奏もし,作曲もするというレベルのやつがかなりの数,いたに違いない。そうでなければ,この楽曲をホイホイと楽しめたはずがない。

● 最初の響きは,ベートーヴェン「管楽8重奏のためのロンディーノ」よりもベートーヴェン的というか。
 天才はそれぞれに天才で,他と交わるところはないと思う。だから,どうしてもモーツァルトとベートーヴェンの間に線を引きたくなるんだけど,そういう区分をしてしまうのはあまり高級な態度ではないようだ。すべては連続体と考えた方がいいのでしょう。

● アンコールは「魔法の笛」。日本では「魔笛」と呼ばれている。が,「魔笛」と言ってしまうとおどろおどろしさが勝って,あるいはユーモアが減じてしまって,この歌劇の内容を推測させるタイトルとしては上出来ではなくなるきらいがある。
 「魔法の笛」と直訳(?)した方がまだいくぶんいいと思うけど,“魔”を使わないですむ訳語がないかね。不思議な笛,っていうのも変だしねぇ。

2017年3月11日土曜日

2017.03.09 間奏55:音楽は好きなんだけど

● クラシック音楽のコンサートを聴きに行くことが,しごく大げさにいえば,ぼくの生きる甲斐になっている。その感想を文章に置き換えてブログにすることも含めて。
 だが,しかし。この文章に置き換える作業が問題だ。

● 自分でもはっきり自覚しているのだが,演奏そのものに言及することは,以前にもまして少なくなっている。周辺のことがらをウダウダと書いている。
 なぜかといえば,その方が楽だから。演奏について語ることを億劫がって(あるいは,怖がって)“周辺”に逃げているのだ。

● ぼくのブログを読んでくれてる人の多くは,ステージに立って演奏している人たちのようだ(ありがたくもあり,光栄でもある)。
 とすれば,一番読みたいのは自分(たち)の演奏に対する評価だろう。もっとピントを絞った言い方をすれば,演奏に対するほめ言葉だ。的確にほめてほしいと思っているはずだ。

● それが少なくなっている。このあたりを心して書かなくてはいけない。
 “周辺”については,ぼくのにわか仕込みの知識など,演奏者にとっては常識にすぎない。彼らの音楽知識は,ぼくなぞよりはるかに上位にある。

● 虚心に演奏を聴いて,その結果を自分の言葉で語ること。外部情報を遮断して,自分の内部に意識を集中すること。箔を付けようとして,ネットで他の人の感想をチェックしたりしないこと。
 そこから沁みてくる言葉を捉えて,たとえそれが幼稚であろうと貧弱であろうと,妙な化粧を施さず,そのまま差しだす勇気を持つこと。

● それ以前に,たとえば寝不足の状態でライブを聴くなんてことのないようにすること。十全な体調で聴けるよう生活を整えること。
 そして可能ならば,ライヴ以外の音楽体験を充実させること。CDを聴くこと。作曲家の生涯や彼が生きた時代背景,音楽史における位置づけ等について,最小限の心得は持っておくようにすること。

2017年3月8日水曜日

2017.03.05 那須野が原ハーモニーホール合唱団 第11回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開催は午後2時。チケットは200円。タダではなくて,200円でチケットを売るのがいいところだ。今回の演しものはハイドン「戦時のミサ」。
 それだけではないので,以下に曲目をあげておく。

 パレストリーナ 水を求める鹿のように
 ビクトリア アヴェ・マリア
 松下 耕(谷川俊太郎 作詞) 信じる
 新実徳英(岩間芳樹 作詞) 聞こえる
 猪間道明 編曲 TOKYO物語
 ハイドン 戦時のミサ

● つまらない理由で,今回は遅刻してしまった。時間にすれば15分ほど。残念でもあり,演奏する側に対しては申しわけなくもあり。
 ぼくが座席に着いたときには,「信じる」までは終わっており,「聞こえる」からの拝聴とあいなった。

● ぼくだけの都合でいえば,聴きたかったのはハイドン「戦時のミサ」だから,損失はほとんどなかったと言っていいんだけどね。
 どうやっても遅刻だとわかったときは,行くのをやめようかと思ったんだけど,諦めないで行ってよかったと思う。

● 声楽が入るミサ曲などの宗教音楽っていうのは,CDで聴くことがあまりない。CDは持っているんだけども,ほぼ聴かない。こういうものは生で聴ける機会をとらえていかないと。
 といって,管弦楽+合唱団+ソリスト,と大がかりな編成になるから,地方だとその機会も多くはない。ゆえに,今回のような演奏会は貴重。

● で,その「戦時のミサ」。
 指揮は片岡真理さん。ソリストは袴塚愛音さん(ソプラノ),谷地畝晶子さん(アルト),藤井雄介さん(テノール),村林徹也さん(バリトン)。
 管弦楽はモーツァルト合奏団。あたりまえだけれども,木管,金管,ティンパニは,賛助でまかなった。

● 「戦時のミサ」を聴いた感想を申せば,ミサ曲なのにあまり宗教臭を感じなかった。世俗の曲という印象を受けた。
 プログラム冊子の曲目解説によれば,ハイドンがこの曲を作った1796年は,ナポレオン軍がウィーンを制圧し,北イタリアに進軍していた。その「フランスの脅威に対する怒りの表明といえる」ということだ。
 なるほど,それで,と理解すればいいのかもしれない。理路整然としていて腑に落ちる。

● ただ,ぼくは理路整然としているものをあまり信用しないところがあって,それ以外に何かあったのじゃないかと考えたくなる。が,考えるヨスガは何も持っていないので,妄想を逞しくするという域を出ることはない。
 とにかく,世俗臭のするミサ曲という印象だ。

● だものだから,ぼくとしては楽に聴くことができた。たとえばバッハの「マタイ受難曲」を聴かなければならないとなると,たとえCDであってもそれ相応の覚悟を要する。
 日本人のぼくらがキリストの受難曲を聴くとなれば,どうしたってそういうことになる。わりと重苦しい行為になるという意味。
 が,ハイドンのこのミサ曲はそういった重苦しさを感じずに聴くことができる。

● この合唱団の定演を聴くのは,これが二度目だ。一昨年の第9回を聴いている。フォーレの「レクイエム」だった。そのとき袴塚さんのソプラノを初めて聴いたのだった。
 で,今回もまた袴塚さんのソプラノを聴くことができた。満足だ。他の3人もたいした歌い手で,ソリスト陣には1ミリの文句もない。

● 合唱はいっそうそうだ。この合唱団の活動は年1回の定演だけではないと思うけれど,でもこの定演が最も高い山になっているはずだ。そこに向けて1年間練習してきた。
 細かい部分を言えば,それは色々ある。抑えなければいけないところでやや走りすぎてしまうとか,逆に冒険を避けるあまり声を出し惜しんでいるとか。
 しかし,そうした細かいところはどうでもいいような気がする。それは教授陣にとっての課題ではあっても,客席側がどうこういう話ではない。
 80歳代の団員もいるらしい。声に恵まれた人たちばかりではないだろう。それでよい。ここまでできればよしとする。