2018年12月31日月曜日

2018.12.31 ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会2018

東京文化会館 大ホール

● ベートーヴェンの9つの交響曲を,1番から9番まで順番に演奏するこの演奏会,8年連続で8回目の拝聴。今年で最後にしようと2,3年前から思っている。が,できないで今年も来ましたよ,と。
 この日,小ホールでは「ベートーヴェン弦楽四重奏曲演奏会」も行われているのだ。こちらはさすがに全曲とはいかないけれども,2年続けて行けば全曲を聴くことができるはず。
 こちらの方が通っぽいじゃないか。交響曲は華やかだけれども,その華やかさに惹かれてしまうのは,どこかにミーハーの気配を残すじゃないか。

● 開演は13時。終演はたぶん来年。指揮者(小林研一郎)とコンマス(篠崎史紀)は不動。管弦楽は岩城宏之メモリアル・オーケストラ。メンバーは毎年入れ替わっている。
 今回の席は3階左翼の2列目(B席)。昨年は4階右翼の1列目(C席)だった。そっちの方が良いと思う。このC席はかなりお得。
 ただし,この席を取るには,スマホかPCをスタンバイさせておいて,発売開始と同時に申し込まないといけない。3時間後では遅い。今回,ウッカリしてしまったのだ。
 とはいえ,B席でも1万円なわけで,この演奏会を1万円で聴けるとは,タダ同然といっていいかもしれない(S席でも2万円なのだ)。あまり席のことで文句を言ってはいけない。

● 1番と2番を続けて演奏して,休憩を挟んで3番,さらに4番。こういうのを聴かされると,今年でやめようと思ったところで,そうもいかないよなぁと思う。
 この演奏会は,演奏する側にとってもお祭りの気味合いが多少なりともあるのではないかと思う。プロ野球のオールスターゲームと一緒で,真剣にやっていないわけではないけれども,ペナントレースと同じ構えではないだろう。それぞれが所属するオーケストラの定期演奏会に臨むときとは違うはずだ。
 何がいいたいのかというと,リラックスしているんだろうなってこと。だからいけないというのではない。逆だ。リラックス効果というものがあるような気がする。

● ただね。この演奏会の客席の水準はそんなに高くないよ。おまえが言うなって話だけど。演奏中にプログラム(別売,2,000円)を見るバカがいるし,プログラムを落とすヤツもいるしね。
 さすがに楽章間の拍手はない。ほんのちょっとしかない。電波が遮断されるので,ケータイの着信音がなることはない。

● 4番が終わった後に主催者の三枝成彰さんの話があった。「日本(アジア)と欧米における文化評価の違いについて」というタイトルになっていたが,それはまぁそれとして,この演奏会のコストの話があった。ぼくはこちらの方に興味がある。
 チケット収入ではとても賄えない,と。トヨタをはじめ協賛企業の資金提供があればこそ。当然そうだろう。例年,チケットは完売になるのだが,そもそも破格に安いわけだから。
 出演者には4回分のギャラを払っている。そうだったのか。付帯経費を含めると,相当な額になる。

● ということは,セコい話だけども,聴かなきゃ損ということ。チケット代の半額(かどうかは知らないが)補助を受けているようなものだから。
 協賛企業が全額負担して,自社の社員を客席に派遣するなんてことになったら,コンサートは成立しない。客席にはどんな動機であれ,聴きたいからここに来たという人がいなければならない。だから,あまり遠慮しないでゴチになったらどうか。

● ここで45分の中休止。館内のレストランではビールやワインも商っている。もちろん,悪いことではない。まともなホールならバーコーナーくらいはある。
 リラックスして聴けるし,それが楽しみだという人も少なくないだろう。自分は演奏を楽しむために来ているのだ,勉強しに来ているわけじゃない,と。
 それぞれなりの楽しみ方をすればいいのだと思うが,それでもアルコールはどうなんだと思うのだ。昨年,自分もそれでだいぶ損をしたと思っているので。

● 楽しみ方は人それぞれだとしても,全員に共通する前提がある。「聴く」がそれだ。「聴く」を妨げるような要素は排除した方がいいのでは。
 その「聴く」にもいろいろあるだろうと言われれば,それはそのとおりだと返すしかないのだが。耳をすますのではない聴き方もたしかにあると思うので。子守唄がわりに聴くというのだってありだと思うし。
 でも,コーヒーにとどめておいた方がいいのでは,と思ってしまうのだ。ぼくらはお金を払ってチケットを買った,サービスを受ける側の人間であることに間違いはないのだけれどもね。

● 中休止のあと5番。例年,5番と7番で熱く盛りあがるというふうになる(もちろん,9番は別格)。演奏者も聴いてる側も同じなのだから,曲そのものの然らしめるところと解する他はない。
 冷静に(?)そう解してみても,皮膚がビリビリするような感触を味わうのだ。マイクで拾ってアンプで増幅してるわけじゃない。生音でこの音量。多彩な音の粒が巨大なひとつの塊になる。オーケストラって凄いなと思うわけだよね。

● 6番はやや退屈と感じたこともある。が,同じ旋律にバリエーションをつけて巨大な構築物にする手法は,5番より徹底しているかもしれず,その構築物ができあがってゆく過程を堪能すればいい。
 要所要所で存在感を示すオーボエが素晴らしい。音色の明晰さが非常によくわかる。

● 6番が終わった後は90分の大休止。夕食タイム。当然,レストランでビールやワインを嗜む人も多い。が,先に申しあげたような理由で,アルコールは終演まで我慢するのが吉かと存ずる。
 客数に比してテーブル席は圧倒的に少ないので,ワイングラスを片手に立って喋っている人も多い。ピッと背筋を伸ばしていると,文句なくカッコいい。
 あ,見られることを意識しているな,こいつ,とか思う。エッへへへ,だから来てるんじゃないか,って。いや,気持ちはよくわかる。
 ロビーからレストランに至る石の階段に腰をおろしている人はもっと多くいる。でもって,おにぎりとか食べてる。堅実派。これまた,気持ちはよくわかるっちゃわかる。
 ぼくは朝のうちに1日分のカロリーを摂取しちゃってるんで,夕食は抜き。

● 大休止の後に7番と8番。7番はやはり盛りあがった。終演後,立ちあがって拍手するヤツが出る。気持ちはわからんでもないが,すこぶる目障りだ。座っていることがなぜできぬ?
 それからブラボーの専門家もいる。こいつのブラボーが早すぎるんだな。一拍置けと言いたくなる。こういうバカを摘みだす方策はないものか。
 場内放送で言ったらどうかね。下品なブラボーは他のお客様のご迷惑になりますので・・・・・・

● 音楽とは何の関係もない話なんだけど,女子奏者にはドレス着用を義務付けてほしい。稽古着なのかよく知らないけど,レオタードみたいなのは困る。体の線がくっきりでる。
 それでなくても演奏中の奏者はセクシーなのだ(演奏中だけセクシーなのだが)。どうしても見てしまうのだ。見るなというのは酷である。よろしくご配慮をお願いしたい。

● 8番が終わった後,指揮の小林さんが客席に話しかけた。これだけの音は超一流じゃないと出せないと思うんですよ・・・・・・。
 で,客席がヤンヤの拍手。そっか,その超一流の演奏に,今,俺は立ち会っているんだ,やったぜ。オーケストラへの称賛というより,その満足感の方が勝っていたように思えた。
 どんだけ根性がひん曲がってんだ,おまえは,と言われますかねぇ。

● ここでまた45分の中休止。そうして「第九」となる。日本で1年の最も遅い時間帯に演奏される「第九」だ。この時間に声を出さなければならないのも大変だと思う。
 ソリスト陣は昨年と同じく,市原愛(ソプラノ),山下牧子(アルト),笛田博昭(テノール),青戸知(バリトン)の諸氏。合唱はこれまた不動の武蔵野合唱団。

● 何というのか,ぼくの耳には,完璧以上。何ものかを孕みつつある混沌を描いたかのような第1楽章からして,どこに飛んでいくのかわからないほどに,ダイナミックでワイルド。が,フォーメーションは1mmも崩れない。
 低弦部隊もヴァイオリンも木管も金管も打楽器も,そして合唱陣も,それぞれの役割を果たして,何というのか空白がないという感じ。いやはや,何とも。

● 会場を出たときには年があらたまっていた。年なんかどうだっていいと思った。
 さて来年(いや,今年)はどうするか。9回連続にするか,弦楽四重奏曲演奏会にするか。
 ベートーヴェンにあやかって9回は聴くかな。そうしてから,小ホールの客になるか。そのあたりがまとまりのいい結論っぽいな。

2018年12月24日月曜日

2018.12.23 第36回宇高・宇女高合同演奏会(第九「合唱」演奏会)

宇都宮市文化会館 大ホール

● この演奏会は第27回からほぼ1年おきに聴いてきたんだけども,34回から3年連続になった。じつのところ,今年は見送るつもりでいた。この演奏会に出かけるのはかすかに億劫なのだ。
 その理由は非常に単純で,半端なく混むからだ。あまりの混雑は鬱陶しい。開演は13時30分で,会場は45分前。が,45分でも足りるかどうか,と思うくらいの長い行列ができる。

● 世の中には並ぶのを苦にしないというか,むしろ嬉々として並ぶのを楽しめる人たちがいるようで,appleの新製品の発売日前夜から行列を作る人もいる。TDRもそういう人たちのおかげで商売ができている。
 appleにしてもTDRにしても,それだけのコンテンツや話題性を提供しているのだと思うが,その列に加わるのは,相当な理由があるのでなければ御免こうむりたい。

● いつだったか,ソフトバンクが吉野家牛丼の無料クーポンを配布したことがあった。380円の牛丼を無料で食べるために,とんでもない行列ができた。
 ソフトバンクもソフトバンクだが,380円の牛丼をタダで食べるために,1時間以上も並べる輩がこんなにいるというのは,ぼくの理解を超えた。こういうのって,祝祭性を帯びるんだろうか。
 だとしても,世の中は暇人で溢れかえっているのだと感じたことだった。時間コストを気にしなくてすむのは,暇な証拠だから。
 ラーメン店や飲食店にできる行列も理解しがたいもののひとつだ。並んでまで食べるに値するものが,この世にあるわけもない。

● というと,ぼくはけっこう忙しい人間のように思われるかもしれない。そうではない。言っちゃなんだけど,ぼくはハッキリ暇である。ぼくほどの暇人がそんなにいるとは思えない。
 しかし,だね。行列に加わるのはねぇ。あれって見た目が下品だしね。旧ソ連に生まれなくて良かったとつくづく思うわけでさ。

● そこを押して,この演奏会は3年連続になった。その所以は以下においおいと述べることにする。
 混むのはわかりきっていたので,早めに並んだ。2階右翼席の最も左側に着座。ぼくはここが一番カンファタブル。
 チケットは1,000円。当日券はあるにはある。が,前売券の売れ残りではなくて,最初から当日券分として取り分けておいたものかと思われる。緊急避難用ではないか。
 ゆえに,この当日券はあてにしない方がいいだろう。前売券を買っておくのは必須。

● 3階席までギッシリ。両校の関係者が多いのかもしれないが,県内きっての名門ブランドの集客力もあるのかも。
 2階席中央に来賓席がかなり確保されていた。いささか確保しすぎたようだ。開演時には立ち見客もいたのだが,確保しすぎた分を彼らに開放することはなかったっぽい。
 そのあたりの臨機応変性というか機敏性を学校関係者に期待するのは,期待する方が間違っていることはわかっているけれども,少しもったいないような気がした。
 いや,この演奏はOB会が主催だった。それゆえかどうかは知らないが,学校長挨拶などというマヌケなものがないのはとてもいい。

● 今回は例年と違って,宇高合唱から始まった。オナーティン,磯部俶(詞:室生犀星),youth case(詞:小山薫堂)の「ふるさと」3つ。多田武彦の“鐘鳴りぬ”と清水脩「最上川舟唄」。
 宇女高合唱は「キャロルの祭典」から“入場”,“来たれ喜びよ”,“四月の朝露のごとく”,“この小さな嬰児”。この曲は3年連続となる。宇女高合唱の定番。
 シュミットとプーランクの小品をいくつか。今回の合唱の山はここになった(と思う)。

● そのあと,両校の合同演奏があって,第1部は終了。15分間の休憩。といっても,これだけビッシリと満席だと,休憩中に席を立つのも面倒くさくなる。
 左奥の席なのでなおさらだ。じっとしてる方がいいやとなる。

● 第2部は管弦楽。両校の管弦楽が乗るわけだから,大編隊になる。ちょっと窮屈そうだ。
 まずは管弦楽だけで,サン=サーンスの交響詩「死の舞踏」。この曲って,TDLの「ホーンテッド・マンション」を思い浮かべながら聴けばいい? あそこまでコミカルじゃなくて,あれをもっとシリアスにした感じの。って,そういうものじゃないでしょうねぇ。
 交響曲第3番のスケルツォ楽章を思いださせるような旋律があったりして,聴く側からすればお楽しみが多い曲だと思う。

● 最後は両校のオールキャストによるヘンデルの“ハレルヤ”と「第九」の第4楽章。
 昨年は「第九」より“ハレルヤ”が記憶に残った。こういうのって,演奏側がどうのこうのじゃなくて,主にはこちら側の事情による。極端な話,「第九」じゃなくて“ハレルヤ”に感動してやろうと思って聴くと実際にそうなる,という法則(?)だってありそうだ。
 今回もこの“ハレルヤ”にいたく感心した。

● この演奏会は今回が36回目。現在は宇都宮で開催される「第九」は2つある。日フィルと栃響によるもの。36年前にはどちらもなかった。
 だから,この演奏会は宇都宮においては生で「第九」を聴ける唯一の機会だったかもしれない。第4楽章だけであっても。が,今はそんなわけで,他に全楽章を聴ける機会が2つもある。
 だったら,「第九」はそちらにお任せして,こちらはたとえば“ハレルヤ”のみならず「メサイア」の全曲をやるとか(演奏時間が2時間半に及ぶ。まったく現実的ではないな),「第九」以外の一手を指してみるのはありかなぁと思った。

● そう思ったあとで「第九」第4楽章。宇高・宇女高といったって,構成員は毎年入れ替えがある。そうである以上,年によって波がある。
 何度か聴いたこの演奏会で,これならこの演奏で全楽章を聴いてみたいと思ったこともあるし,そこまでは思わなかったこともある。
 で,今回は,全楽章を聴いてみたいと切に思った。技術ではない何ものかが立ち上がっていると感じたから。

● その何ものかが立ち上がったのは,演奏開始とほぼ同時。では,その何ものとは何か。
 この演奏会における「第九」は高校生が演奏するところにアピールポイントがある。高校生でもここまでやれるのだという,そこのところを知らしめるためのものというか。
 であるから,主役はあくまで演奏する高校生であって,ベートーヴェンはその高校生を引き立てるための媒介に過ぎない。そういうものだと思って聴いている。
 感心したとか,巧いと思ったとか言っても,それはそういう範疇での話であって,それを超えるものではない。それが暗黙の前提としてある。

● しかるに何ぞ。ステージから客席に届いてくるのは,間違いなくベートーヴェンなのだった。ベートーヴェンが立ってゆらゆらと揺れている。
 演奏している高校生は背後に退く。主役が主役としての役割を全うすると,こういうことが起こるのだ。
 技術ではない何ものかとは,比喩的にいうとそういうことだ。あくまで比喩でしかないが。
 なぜそういうことが起こるのか。わからない。言葉にできないというのではない。そもそもわからない。

● 何ものかを立ち上げるためには,これだけの技術が必要なのだろうと思う。が,もっと巧いオーケストラはアマチュアの中にもある。あたりまえだ。
 そのもっと巧いオーケストラの「第九」を聴いても,ここまでくっきりとベートーヴェンを感じたことは,さて,何回あったか。

● それから。合唱,特に女声,が素晴らしい。お見事という他はない。練習時間はそんなに取れなかったろうに。

● 宇高・宇女高合同演奏会といっても,率直に申しあげて,合唱においても管弦楽においても,4分の3は宇女高が支えている。
 その分,奔放さにおいては宇高生が勝ると言えればいいんだけれども,これも意外にそうではない。型を想定してそこに自分を嵌め込もうとしているのは,むしろ男子に多かった印象がある。おそらく楽器の経験年数の違いかと思われるのだが。
 男子受難の時代はしばらく(ひょっとすると,半永久的に)続きそうだ。が,彼らの年代だと,彼は昔の彼ならずとなる可能性はいくらでもある。今はあくまで途中経過に過ぎない。演奏に限らない。

● とはいえ,数年前に比べると,宇高管弦楽団の水準が切り上がっているので,溶けあわない2種の油をひとつの容器に入れた感は薄くなった。
 というわけなので,第4楽章だけの第九は第九ではないとは誰でもわかる話だけれども,それでも聴いておいて損はない。混雑や長い行列に並ぶのを忍んでも,聴いておいた方がいいでしょう。

2018年12月17日月曜日

2018.12.16 第11回栃木県楽友協会「第九」演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● ベートーヴェンの「第九」は大世界遺産だと思う。凡百の世界遺産が100個束になってかかっても足下にも及ばないほどの,大世界遺産。
 この大世界遺産の素晴らしいところは,CDで好きなだけ聴けることだ。所有できる世界遺産だ。
 しかも,リッピングしてWALKMANやスマホに転送すれば,いつでもどこでも好きなときに聴けるのだ。世界遺産をポケットに入れて持ち歩ける。この一点だけでも,ぼくらは恵まれた時代を生きている。

● 音質が良くなっている。昔日の比ではない。携帯音楽再生プレーヤーのほぼすべてがハイレゾに対応するようになった。たいていのスマホも同様だ。
 普通の圧縮音源でもハイレゾ相当に復元して再生してくれる。イヤホンもノイズキャンセリング機能が標準になりつつある。いやはや。

● 可能ならば音楽は生演奏で聴いた方がいいと思っていた。CDで生演奏並みの迫力を出すのは不可能ではないかもしれないけれども,環境の整備に億のお金を投じる必要があるだろうから,まったく現実的ではないと考えていた。
 が,ハイレゾが普通になってくると,ある程度の割り切りは避けられないものの,録音音源だけで充分かもしれないぞと思うようになった。ややもすると,ライヴ不要論に傾きそうになる。

● 実際のところは,ライヴの醍醐味は音だけではないので,録音音源の視聴環境がどれほど進化しようと,ライブが不要になることはあり得ない。
 そういう前提で,それでも演奏のみを聴ければいいというのであれば,もうWALKMANのみで足りるとぼくは思っている。

● ただし,「第九」に関しては,CDにはひとつだけ不満がある。合唱がちゃんと録音されていない。録音の仕方の問題なのか,合唱の録音がそもそも難しいことなのか,ぼくにはよくわからないが。
 ソリストの声はきちんと入っているのに,合唱がぼけてしまっている。合唱が遠くに感じる。空気を引き裂いて客席に届くあの迫力を,CDで感じることはない。オラトリオやオペラはどうなのだろう。
 だから,「第九」に関しては,ライヴを聴ける機会があったら,逃さない方がいいだろう。

● というわけなんだけども,11月に二度「第九」を聴いている。18日(鹿沼)24日(川崎)。もう今年は「第九」は聴かなくてもいいかとじつは思っていた。今日は栃響の「第九」なんだけども,見送るつもりでいた。
 が,「ライヴを聴ける機会があったら,逃さない方がいい」のだと自分に言い聞かせて,2日前にチケット(1,500円)を買ったのだった。
 結局ね,妙に斜に構えないで,聴けるときに聴いとくものだというのが結論。

● 開演は午後2時。指揮は荻町修さん。
 いつもは県の総合文化センターで開催されるのだけど,総合文化センターは絶賛改修中。だから使えない。ので,この会場(宇都宮市文化会館)になった。おそらく来年も同じではないかと思う。
 総合文化センターに比べると,こちらは収容人員が多い。1階席と2階席は埋まったが,2階の右翼と左翼,3階席には空席が多かった印象。
 といっても,この会場を3階席まで満席にする催事は,ぼくが知る限り2つしかない。ひとつは作新学院吹奏楽部の定期演奏会。もうひとつは,来週開催される宇高・宇女高合同演奏会。いずれも高校生を動員できるという。

● “さすがは栃響”の精緻なアンサンブル。互いの音をよく聴いているし,奏者それぞれが全体の音をイメージできているような気がした。ステージにいて客席の音をイメージするのは,なかなか以上に難しいのではないかと思うのだが。
 それを象徴するのが木管陣で,なかんずくフルートの1番に瞠目。躊躇なく前に出る小気味よさ。最近,小気味いいというのは女性の特性なのだと思うようになった。
 コンマスを別にすれば,最もしなやかさを感じさせたのが,彼女のフルート。が,彼女は最も目立ったものの,一例にすぎない。

● 栃響の「第九」では,2012年(第5回)の神がかったような演奏を忘れることができない。その再現はしかし,難しいようだ。
 “北京で蝶が羽ばたくとニューヨークでハリケーンが起こる”的な複雑系に属する出来事なのだろう。複雑系の回路はブラックボックスだ。初期値がわずかに違うのだと思うが,その初期値を解明することなど,誰にもできない。

● チェロとコントラバスが“歓喜の主題”を静かに奏し始め,これがヴィオラ,ヴァイオリンに渡され、ついには管弦楽全体が壮大に歌いあげる。ここが第4楽章の白眉。
 苦悩と戦って歓喜に至るという場合,これで充分じゃないかと思う。これ以外,何があるというのか。これで“歓喜”は表現され尽くしたではないか,とぼくなんぞは思ってしまう。
 が,ベートーヴェンはそれすら捨て去り,さらに前に進んでいく。前人未踏の境地に分け入るとはこういうことだ(いや,ここまでの道のりも前人未踏だったわけだが)。

● 超人だと思う。天才の技という段ではない。天才もしょせんは人だ。が,ここにおけるベートーヴェンの所為はもはや人為を超えている。
 これほどの捨て身の跳躍は,音楽以外の分野を含めて,ぼくは他に知らない。「第九」が大世界遺産であると思う所以だ。

● これほどの壮大なドラマ(もしこれをドラマというならば,であるが)は,やはり良い演奏で聴きたいものだ。
 ベートーヴェンが残した,奏者のことをほとんど考えていないと思われる楽譜。そのとおりになぞどうやったって演奏できるわけがないじゃないか,と言いたくなる箇所がいくつもある楽譜。
 その楽譜を,ベートーヴェンの意を汲んで,精緻な演奏で表現しきることができるオーケストラが,そんなにたくさんあるとは思えない。栃木県ではひとり栃響のみと断言する勇気はぼくにはないけれども,ここまでの水準で「第九」を差し出してもらえれば,神がかってはいないとしても,まずもって文句はない。小さな事故は不問に付されて当然だ。

● ともあれ,栃響の「第九」が終わると,今年も暮れる。暮れたところで,今はまだ“来年”と呼ばれている“今年”がやってくるだけなんだけどね。
 といったあたりが,凡人が考えるせいぜいのところなのだ。凡人とベートーヴェンとの違いは,保育園の砂場の砂山とエベレストほどの違いであるだろう。

2018年12月11日火曜日

2018.12.09 真岡市民交響楽団 第58回定期演奏会

真岡市民会館 大ホール

● 1年ぶりの真岡市民交響楽団。開演は午後2時。チケットは500円。当日券を購入して入場。

● 曲目は次のとおり。指揮は佐藤和男さん。
 シューマン 劇音楽「マンフレッド」序曲
 ブラームス ハイドンの主題による変奏曲
 ブラームス 交響曲第2番 ニ長調

● 昨日,百田尚樹『至高の音楽』を読んだ。いわゆる名盤探しに血道をあげる人に対して,「演奏を聴くな,曲を聴け」と戒めている箇所がある。
 ぼくは同一曲について複数のCDを聴き比べることをほぼしないのだが(唯一の例外がバッハのゴルトベルク変奏曲。「第九」のCDは手元に7枚あるが,うち6枚は一度も聴いたことがない。それもどうかと思う),演奏を聴いて曲を聴かないという戒めは自身にも適用すべきだろうと思った。

● というのも,ライヴをメインに据えているからで(というより,CDをあまり聴かないわけだが),それだとどうしたって視覚に引きずられる。奏者の姿形とか,ヴァイオリンなら右腕の動きの速度とか角度とか,身体のゆれ具合とか。
 視覚はコンサートホールにおいても聴覚より優位であるようで(ぼくだけか),それが曲を聴くことを妨げているかもしれない。客席にはときに瞑目して聴いている人がいるが,それではホールに来る意味がないだろうと思っていた。のだが,それもありなのかもしれない。時々は視覚を遮断した方がいいのかも。

● というわけで,「演奏を聴くな,曲を聴け」と自分に言い聞かせて客席に着いた。けれども,曲は演奏に体化されているわけで,演奏と曲を切り分けるのは難しい(っていうか,できない)。
 外見と中身といわれる。が,人の外見と中身を峻別することはできない。外見は中身の表層という言い方はまったく正しい。外見に現れたところの中身を見るのだ。あるいは,外見を通して中身を推測するのだ。外見と切り離して,中身をダイレクトに把握する術はない。
 というのとパラレルではないんだけれども,演奏と曲を分けることは甚だしく困難だ。

● レコードもテレビもラジオもなかった昔は,音楽を聴く手段は生演奏しかなかった。その機会を得られたのは貴族に決まっているのだけれども,当時の貴族は楽譜で曲を鑑賞できたらしい(できた人もいたらしい)。
 スコアを読んで,相当な細部あるいはディテールまで脳内で再生できたのだろう。人は道によって賢し。
 こちらはそんな芸当のできるはずもないから,曲を聴くには演奏に頼るしかない。演奏にしか頼れないんだから,いよいよ曲と演奏を切り分けることはできない。というわけで,演奏を聴くことにした。

● クラシック音楽を生で初めて聴いたのは,2009年の5月9日。この真岡市民交響楽団の演奏だった。それもブラームスの2番。
 初心に帰らねば。というかですね,何も知らなかったあの頃が聴く楽しさを最も直截に味わえたような気がするんですよ。コンサートのたびにドキドキした。ふぅぅっとため息をついて帰途についていた。

● ところが,あの頃の真岡オケと今の真岡オケはたぶん別物になっている。指揮者は変わらないが,メンバーはその多くが入れ替わっているのではないか。むしろ,当時から賛助で参加していたメンバーの方が不動度(?)が高いような気がする。
 メンバーが替わっても,変わらず残るものがあるのかもしれないが。

● 「マンフレッド」序曲から,演奏はたしかだ。小さな地方都市にこれだけのレベルの市民オケがあるのは,それ自体が驚きだ。が,その賞賛は賛助参加者に帰せられるべきものかもしれない。
 それほどに弦には賛助が多い。ゲストコンサートマスターの上保さんをはじめ,トレーナーも加わっているし,栃響のメンバーが多数いる。

● 市民オケを維持して運営していくのは,傍が思うほど楽ではないようだ。人集めから始まって,オーガナイズして,演奏会まで持っていくのは,かなり骨の折れることなのだろう。
 なかんずく,最初の人集め。地方の市民オケはリクルート合戦を繰り広げている印象がある。少ない人材の奪い合い。今はどの世界でもそうなんだが。

● しかし。賛助が少ない管とパーカッションも,かなりの水準にあると思えた。オーボエ,フルート,クラリネット。あとホルンもね。
 最も刮目したのは,ブラームス2番のティンパニ。構えが柔らかい。360度どこから攻撃されても対応可という風情。マレットの捌きも細やか。ティンパニは客席から見ると指揮者の次に目立つから,ここが締まると演奏以上に見た目が締まる。彼,前からいたんだっけ。

● 今回は,そういうわけで,地方の市民オケが置かれた状況の厳しさをちょっと感じた演奏会。
 どこもそうなんだけど。賛助なしで成りたつところなんてないんだけど。お互いに融通し合っているものだと思うんだけど。

2018年12月10日月曜日

2018.12.08 第9回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 東京音楽大学・東邦音楽大学

東京芸術劇場 コンサートホール

● 音大フェスの4日目,つまり最終回。今回は皆勤することができた。
 どんだけ暇なんだよ,おまえは,と言われるかもな。言っちゃなんだけど,暇人は最強だからな。暇があって,そこにSome Money(大金の必要はまったくない)が加われば,ほとんど天下に敵なし。天上天下唯我独尊の世界になる。

● 東京音大はR.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」。指揮は広上淳一さん。
 オルガンも加わる大編隊。大編隊を要する楽曲がしばしば取りあげられることを,この音大フェスの特色のひとつに数えていいかもしれない。
 大学によって演奏に何か特徴があるかといえば,当然ながらそんなものはない。実力は伯仲しているかもしれないが,桐朋はこう,芸大はこう,国立はこう,というようなそういう特徴はないし,あったらむしろおかしい。

● 世はあげてグローバル化の時代なのだ。いかに外に向けて自身を開くかが問われているのであって,ウチに籠もって自らの特色を模索してみても仕方がない。やってもいいが,それは停滞と呼ばれるものになる。まして世界言語の音楽なのだ。
 というわけで,東京音大のこれが特徴だというものは,ぼくには捉えることができない。しかし,これまで聴いてきた各大学と同様に,素晴らしい演奏だというのはわかる。今の彼らにしかできない演奏で,強烈な一回性,一期一会の出会いを感じる。

● 広上さんは高名な指揮者であるけれども,彼の指揮に接するのは,ぼくは今回が初めて。頑固一徹な職人という風情。空気を読むなどということは,間違ってもやらなそうな感じ。学生にとっては怖い先生なのかもしれない。
 舞台袖から指揮台まで歩いてくるその歩き姿は,とてもコミカルなんだけど。

● 東邦音大はサン=サーンスの3番。こちらも大編成。オルガンの他にピアノも加わる。指揮は大友直人さん。
 この曲で最も耳を打つのは,(普通に数えれば)第3楽章の冒頭の部分だろう。何ごとが起こったのだと思わせる。
 以下,荒唐無稽なことを言うんだけど,ぼくはここでナポレオンの登場を想起する。そこから先は進軍に次ぐ進軍。ウィーンを落とし,ベルリンを落とす。それまで歯が立たなかった宿敵プロイセンを木っ端微塵に蹴散らして,パリに凱旋する。歓喜するパリ市民に迎えられて大団円。

● 徒しごとはさておき。この曲は長らくぼくには難解だった。“フランス”を頭から追いだして聴くのがいいと思う。
 そうじゃないと脳が勝手にこの曲の中に“フランス”を見つけようとしてしまうのだ。明るさとか軽さとか気分とか自由とか非様式とか,そういうものを探そうとしてしまう。
 そういうものをフランス的なるものとするのはそもそもどうなのよ,ということもあるわけで,ぼく程度の聴き手は注意しないといけない。

● この曲の全体を何とか脳内に収めることができたかと思ったのは,今年の6月に鹿沼ジュニアフィルハーモニーオーケストラの定演でこの曲を聴いたときだ。が,そうなると今度は,その鋳型に合わせて聴こうとしてしまう。
 いったんできた鋳型は壊さなければいけない。ぼく程度の聴き手は,ここでも注意しないと。

● 指揮の大友さん。あの髪型は大切な商売道具なのだろうな。大友さんの一部になっている。髪は女の命というけれど(本当だろうか),大友さんの場合はそれ以上の存在という気がした。
 無駄な贅肉がなくダンディだ。密かにかおおっぴらにかはわからないけれども,身体を鍛えているんだろうし,食事にも気を遣っているのだろう。放っておいたんじゃ(自然にしてたんじゃ)ああはならないものね。

● 今日も客席はほぼ満席。お客さんはよくわかっている。
 素晴らしい演奏で,これさえ聴いとけば,他は聴かんでもいいのでは。今年も終わったという気分になった。

● 終演後,「音楽大学フェスティバル・オーケストラ」のチケットを購入。9大学の合同チームによる演奏会。
 来年3月の30日と31日の2回公演なのだが,31日のカルッツ川崎でのチケットを購入した。ミューザではなくカルッツ川崎。川崎の旧市街(?)にある。川崎も駅とミューザの間(数百メートル)しか知らないから,旧市街を歩く機会を得られるのはありがたい。
 指揮は小林研一郎。「ひたむきに,一心不乱に自分の生き様を音に託して精進する学生諸君との共演。心が踊っている」と語っている。リップサービスではないはずだ。

2018年12月5日水曜日

2018.12.01 第9回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 昭和音楽大学・国立音楽大学・洗足学園音楽大学

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 音大フェス,3日目。この音大フェスは国内で最も上質な演奏を聴ける場ではないかと,本気で思っていたりする。会場まで日帰りできる距離に住んでいることのラッキーを噛みしめている。
 自宅から川崎や池袋に出ることはまったく苦にならない。幸いなことに,電車が好きだ。乗れたうえに,川崎や池袋に移動できるんだから,電車という乗物はじつにどうもありがたい。

● 客席はほぼ満席状態。熟年夫婦が多い印象。ぼくの両隣もそうだった。クラシック音楽のコンサートもそうだし,(ぼくは行ったことがないけれども)歌舞伎のような伝統芸能の公演も,女性客が多いのだろうと思う。男性客が多いのはプロ野球かボクシングの試合くらいのものだろう。
 けれども,クラシック音楽に関する限り,男性客が増えてきたような気がする。一人で来ている男性がけっこう多くなった。どういう理由によるものか。って,ぼくもそうなんだけどね。

● 今回は3大学なので,けっこう長丁場になった。3番目に登場するところは,少し割を喰う。さすがに帰るお客さんが出るので。
 この音大フェスに行きだした頃は,お客さんのかなりの部分がその大学のOB・OGとその家族なのだろうと思っていた。自身の出身大学の演奏だけを聴きにきているのだ,と。そうではない。普通のクラシックファンが,安い料金で高水準の演奏を聴けると知って,これだけの動員になっている。
 そのクラシックファンでも,メインの曲目を3つ聴くのはなかなか大変ということなのだろう。あるいは,開演が15時なので,最後までいると帰りが遅くなりすぎるということかも。

ミューザのクリスマス飾り
● ミューザは,音響,ホール内の動線,スタッフの対応,いずれの点でも,ぼくの知る限り国内最高水準。最も優れたホールだと思う。サントリーホールよりもミューザがいい。
 ミューザがサントリーホールに負けているのは,唯一,場所が川崎だということくらいだろう。向こうは赤坂だもんね。その代わり,北関東から出向く際の便の良さは,ミューザが勝る。駅前という立地も助かる。
 実際,ミューザならサッと行く気がするのに,みなとみらいホールとなると,かすかに億劫さが兆す。川崎なら宇都宮から乗換えなしで行けるのに対して,みなとみらいホールに行くには横浜で乗り換えなければいけない。それも理由かもしれないんだけどね。

● 昭和音大はリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」。指揮は齊藤一郎さん。
 コンミスをはじめ,各パートのトップは責任重大。で,今年の昭和音大はすごかった。ナイフを入れれば赤い血がバッと噴き出しそうな「シェエラザード」。
 曲中のシェエラザード姫は命をかけてシャリアール王に対しているのだ。その緊迫感と言ってしまってはちょっと違うのだけれど,濃密感がハンパない。説得力のある「シェエラザード」だったと感じた。
 これですよ,これ。これが音大フェスなんですよ。

● 国立音大はチャイコフスキーの5番。指揮は現田茂夫さん。
 今回のぼくの席は3階席の中央。ステージはやはり遠い。が,目線を動かすことなく全体を見渡せる。
 この曲を演奏するために,奏者に要求される運動量が相当なものであることがわかる。この運動量を全員分合わせたら,膨大なものになる。その運動量が演奏にこれだけの起伏を生むのかと思ってみた。

● 洗足学園はバルトーク「管弦楽のための協奏曲」。指揮は秋山和慶さん。
 1日目に藝大の演奏で同じ曲を聴いたばかり。洗足には洗足のバルトーク。曲そのものを自分が受容できているかどうかまだわからない。わからないが,ズシンと来る演奏なのだ。

● ぼくの年齢になると,指揮者の秋山さんが気になる。御年77歳(たぶん)。なのに贅肉などなくスラリとしている。ダンディを絵に描いたようだ。
 指揮者ってほんとに若い人が多い。その理由のひとつが,こうして若い奏者で構成されている楽団を指揮していることにあるのは間違いあるまい。日常,若い学生たちと接していること。それも秋山さんのように,自分が持っているものを若い人たちに伝えるという関係を築ければ理想的だ。

● コンサート会場の客席に座るには申しわけないような恰好で,ぼくは行く。が,今日はぼく以上の人を目撃した。半袖Tシャツに素足にサンダルで来ていた猛者がいたのだ。暖冬とはいえ12月なんだが。
 ともあれ。頑張ろうぜ,猛者君。お互いに,な。いや,頑張らなくてもいいか,そんなところで。つーか,頑張らないから猛者になっているのかもしれないもんな。

2018年11月30日金曜日

2018.11.25 第9回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 上野学園大学・桐朋学園大学

東京芸術劇場 コンサートホール

● 音大オーケストラ・フェスティバル2日目。上野学園と桐朋。開演は午後3時。
 今回の席は少し前すぎ。管の奏者は見えない。その代わり,ヴァイオリン奏者を間近で見ることになる。上腕筋の動きまでわかる。今,息を吐いたとか吸ったとか,呼吸の具合までわかる。

● 上野学園はレスピーギ「交響詩 ローマの噴水」とプロコフィエフ「〈3つのオレンジへの恋〉による組曲」。指揮は清水醍輝さん。
 清水さん,ヴァイオリンでその名のとおり輝かしい実績を残しているのだけど,最近は指揮活動に力を入れているんだろうか。

● 上野学園って,他の音大に比べると馴染みが薄い。この音大フェスに参加するようになったのも,2年前からだった。
 経営問題が取りざたされることも,イメージを悪くしている。が,そういうことはそういうこと。一般報道だけでイメージを作ってしまうと,たぶん実態から離れることになるだろうし。
 ステージ上の学生は,当然ながら,そういったこととは無縁でいるように思われた。

● 「3つのオレンジへの恋」を生で聴くのは初めて。CDはぼくの手元にもあったはずだが,そのCDを聴いたこともない。こういう機会に蒙を啓いてもらえるのだが,では今後,この曲を聴くことがあるかといえば,あるかもしれないし,ないかもしれない。
 やっぱ,オーケストラだよなと思った。室内楽も独奏もいいんだけれども,オーケストラの華って動かしがたいよね。

● 桐朋はホルスト「惑星」。指揮は沼尻竜典さん。これだけの大編成を組みながら,一切,水準を落とさないでやりきるのは,さすが横綱の貫禄ということか。
 この曲もまるごと生で聴くのは初めて。「木星」を単独で取りあげているのは何度か聴いているのだけど。

● ホルストは「占星学で説かれている惑星のイメージを音で再現してみようと考えた」とはよく言われることで,実際,そうなのだろう。
 で,ナントカ占いで使われるアレでいうと,ぼくは八白土星なんですよ。土星は老年の神。ありゃりゃ。火星(戦争の神)や金星(平和の神),海王星(神秘の神)の方がよかったなぁ。
 しかも,土星って「人に対して冷徹で,陰気な性格を持つとされる」らしいんですよ。当たっていないとは言わないけれど,何だかなぁ。

● ところが,実際に桐朋の演奏で土星を聴いてみると,“老年の神”っていうイメージではぜんぜんない。「惑星」全体で最も高揚するのが土星じゃないか。何だかホッとしたというか,嬉しくなったというか。
 最後の海王星では,舞台の袖から女声合唱がかすかに聞こえてくる。これ,効果的ですなぁ。神秘の神という感じがする。
 終演後,彼女たちがステージに登場した。この合唱団も当然自前なのだろう。何かさ,ぼくらの若い頃とは日本人の体型って様変わりしてるよね。身体が細いのに胸が大きいって,昔はなかったよ。オヤジ丸出しの言い草で申しわけないけれど。

● 桐朋の演奏は,プロオケと比しても何ら遜色ないように思われた。が,桐朋の学生といえどもプロとして立っていくのは少数なのだろう。
 若い人は割を喰っているなぁと思う。なにせ空きが出ないのだ。若い才能の行き場がないのだ。
 入替戦を作ったらどうかね。あるいは,プロオケには40歳定年制を義務付けるとか。そんなことは無理だから,割りを喰うことになるんだが。

2018.11.24 第9回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 東京藝術大学・武蔵野音楽大学

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 死ぬ間際に,どれかひとつだけ食べられるとなったら,何を選ぶだろうか。豚肉と野菜のハウスバーモントカレーか,永谷園のお茶漬け海苔か,納豆ご飯か,子供の頃に母親が作ってくれた醤油味の焼き飯か。寿司とかラーメンにはならないような気がするが,けっこう迷って決められない。
 しかし,音楽のコンサートをひとつしか聴けないとなったら何を選ぶか。これに関してはほとんど迷いがない。このコンサートにすると思う。厳密には4回あるんだけれど,まとめてひとつということで。

● 音楽を専攻する若き学生たちの,1回に込める思いの質量の絶対的な大きさが,ヒリヒリするような緊張感に満ちた演奏を生む。
 通し券を買っていたこともあるんだけど,4回全部を聴くことは,ぼくのような暇人にも難しい。が,今年は,たとえ行けない回があろうとも,通し券を買ってしまおうと思う。

● 8月26日にミューザに行ったので,音大フェスの通し券を購入。1回1,000円のところ,通し券だと750円になる。が,通し券用の席はあまりいいところは用意されていないようだ。
 たぶん,1回券を買った方がトータルではお得かもしれない。ということを,前にも言ったような気がする。ま,気は心というやつで,通し券を買っておこうと思ったわけだから,それでかまわないと思っているんだが。

● さて,今日はその1日目。開演は午後3時。
 客席はほぼ満席。空席はそれなりに見受けられたのだが,たぶんチケットは買ったものの,都合がつかなくなった人がそれなりの数いたのだろう。その程度の空席。
 このフェスティバルは,首都圏の音大生が渾身をこめて演奏するし,わが国を代表する錚々たる指揮者が指揮をするし,会場はミューザと芸劇だ。演奏,指揮,会場と3拍子揃っているわけで,それでいてチケットはたったの1,000円なのだ。
 とりあえずチケットは買っておくかという人がいて当然。万難を排して都合をつける価値がある演奏会だと思うのだが。

● ぼくの席は,ステージの(客席中央から見て)左側。1st.Vnの奏者の背中を見る感じのところ。指揮者の表情や動きはよく見える。
 こういう席も悪くはない。というか,こういう席があるホールはそんなに多くない。ミューザの他にはサントリーホールくらいしか知らない。“みなとみらい”もそうだったか。

● 藝大はバルトーク「管弦楽のための協奏曲」。指揮は梅田俊明さん。
 迫真の演奏というか。この曲はわりと演奏される機会が多いが,これほど真に迫った(という言い方は変か)演奏を過去に聴いたことがあったろうかと,記憶をまさぐってみた。うぅん,あったかもしれないのだが,記憶にはひっかかってこない。

● 何なんだろうかなぁ,空気をパリーンと凍らせるようなというか,呼吸をするのも許さないというかなぁ,そういう緊張がステージから発し,あっという間にホール全体を覆ってしまう。
 音楽の楽しみ方って,揺り椅子でくつろぎながらというものではないんだよねぇ。いや,そういうのもあるんだろうけど,それだけじゃない。
 そんな聴き方をしたんじゃ,こちらが呑まれてしまう。客席でこちらも演奏に対峙するというか,迎え撃たないと,“楽しむ”こともできない。
 でもって,そういう聴き方を強いられることにも,ある種の快感がたしかに存在するのだと思わされる。

● 武蔵野音楽大学は「第九」を持ってきた。指揮は北原幸男さん。ソリストも当然,自前。合唱団も同じだろう。
 難しさに満ちていると思われる緩徐楽章も,さすがは音大と思わせる仕上がり。こういうふうにやればいいのか。って,頭ではわかっても実際にやれるかというとね。

● おばちゃん(おじちゃん)とお婆ちゃん(お爺ちゃん)がいない合唱団は,それだけでとてもいい。何もしないで立っているうちから,見た目の美しさが違う。ということを,お爺ちゃんのぼくが言ってはいけないのだが。
 「第九」を聴くのは今年2度目なんだけど,こういうのを聴くと,今年は「第九」はもういいかなぁと思ってしまう。満たされた。「第九」のシーズンはこれからなんだけど,今年はもういいか,と。

● ところで。北原さんは暗譜で振っていた。「第九」ではそれが普通なんだろうか。って,そんなことはないと思うんだけど。
 とまれ。1日目から美味しかったよ。大満足で,千里の彼方にある自宅を目指したんでした。

2018.11.23 宇都宮高等学校創立140周年記念演奏会

栃木県教育会館 大ホール

● この演奏会を知ったのは,今月の3日。東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会が宇都宮市文化会館であって,そこにチラシが置かれていた。速攻で行くことに決め,その場でチケット(1,000円)を買った。
 東武から西へはしばらく行っていない(JR駅から東武駅の間が宇都宮だと思っている)。そっち方面に用があるわけではもちろんないんだけど,久方ぶりに“そっち方面”の空気を吸ってみるか。

● 開演は午後2時。それなりに空席はあったのだが,当日券は取り扱っていないようだった。
 第1部が合唱。第2部が管弦楽。いずれも宇都宮高校の音楽部OBによるもの。曲目は次のとおり。

 木下牧子 鷗
 伊勢正三 なごり雪
 清水 脩 男声合唱組曲「月光とピエロ」

 ベートーヴェン エグモント序曲
 ベートーヴェン 交響曲第7番 イ長調

 指揮は藍原寛治さん(合唱)と水越久夫さん(管弦楽)。2人ともOBであるのは言うまでもない。

● 合唱で聴きごたえがあったのはどうしたって「月光とピエロ」。中でも「秋のピエロ」。合唱ってぼくはあまり聴いたことがないんだけど,「月光とピエロ」は男声合唱の決定版だと,勝手に思っている。男声でしかこれは表現できないという意味で。
 堀口大學の詞が染みてくる。ピエロに人生の悲しみを投影する。ピエロってたしかにそういう存在だ。道化が自ずと表出するものの中にそれがある。笑いの創出者が持つ,どうしようもないやるせなさのようなもの。

● さて,と。ぼくはベートーヴェンの7番を聴きに来た。“のだめ”効果があってか,ひと頃はだいぶ演奏されていた。が,最近は聴く機会が減ったような気がする。“のだめ”に関係なく,これは素晴らしい曲だから,これからもしばしば聴く機会には恵まれることは間違いないんだけど。
 あと,コンサートで演奏される曲目って,わりと偏る傾向があるような。チャイコフスキーの5番が続いたり,ブラームスの4番が続いたり,ドヴォルザークの8番が続いたり。そういうことがけっこうある。

● ベートーヴェンの曲って,曲中のエレメントの数はそんなに多くはないように思える。その多くはない要素を使って,これほど巨大な建築物を構築できるのはなにゆえかと思うことがある。
 その解答らしき話も聞いたことがある。フレーズの繰り返し,オフビート,っていう。たしかにそうなんだけど,どうもそれらは本質ではないように思われる。フレーズの繰り返しとオフビートだけでベートーヴェンの交響曲を作れるかという話だ。

● というわけで,不思議は残る。が,解けるはずのない不思議にかかずらっていても仕方がない。まずは曲を聴かないとね。
 宇都宮高校は男子校なんだけども,各パートに女性がいた。栃響の定演で見かける顔が多かった。OBにも栃響の団員が何人かいるようだ。その栃響団員のOBがコンマスやパートの首席を務めていたし,助っ人陣も協力だった。
 だからと言ってしまってはいけないのかもしれないが,最後まで安定感は崩れず。無難というか破綻がなかったというか。7番を聴いたなという気分になった。

● でも,この種の演奏会っていうのは,破綻があった方がむしろ面白かったりしない? しないか。ちょっとそうした面白さを期待してもいたんだが。
 合唱にはそれがあったから,むしろ合唱の方が印象に残ってしまった感じなんだよなぁ。

● 観客の多くもOBとその家族なのだろう。が,高齢者が多かったようだ。
 働き盛りのOBはなかなかね。今日も仕事だったかもしれないし,休日はゆっくり休みたいだろうし,家族のリクエストでどこかに行楽に出かけたかもしれないし。
 同窓会とはそもそもそういうもの。同窓生の多くには関心を持たれないものだ。それでこれだけ客席が埋まったんだから,大したものだ。宇都宮高校の吸引力か。

● ともあれ,いきおい,高齢者が多くなる。ぼくもその一員に足を突っこみつつあるわけだけれども,彼らから感じたのは寂しさだった。高齢者は寂しかりけり。
 その寂しさを安易に散らそうとしないで,寂しさの内に踏みとどまれるかどうか。もうすぐ同じ境遇に入る自分に言い聞かせるのはそこのところかなぁと思って,会場をあとにした。

2018.11.22 ITALIAN VIOLIN GARDEN スペシャルコンサート

三井住友銀行東館 ライジング・スクエア1階 アース・ガーデン

● 代々木にあるカポラレ&オチャンド弦楽器専門店が主催する「イタリアン・ヴァイオリン展」が,三井住友銀行東館のアース・ガーデンで開催されている(11/21~23)。ストラディバリをはじめ,ガルネリやガダニーニなどがガラスケースに入って並べられている。
 それに合わせて成田達輝さんの演奏会が組み込まれた。当初は21日だけの予定だったらしいのだが,22日も追加公演が行われることになった。その追加公演の方に行ってみることにした。

● このコンサートはTwitterで知った。東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団のツイートで。成田さんは,この楽団のトレーナーを務めているらしい。
 ともあれ。そのツイートからリンクを辿って,予約申込みをしたというわけだった。

● 開演は午後6時半。入場無料。
 会場は大手町の中心部にある。永代通りと日比谷通りが交差する角。その繁華な道路とはガラス(かなり分厚いガラスだが)で仕切られているだけだ。出入口からはコンサートを聴きに来たのではない人も出入りする。時間が時間ゆえ,あまり多くはないのだが。
 要するに,ロビーコンサート的なものだ。っていうか,ロビーコンサートそのものだ。

● 演奏したのはヴィヴァルディ「四季」。奏者と客席の距離が近い。加えて,今回はすごい。何がすごいかというと,楽器がすごい。
 主催者によると,成田さんと成田さん率いる合奏団が使用した楽器は次のようなもの。

  Antonio Stradivari 1711 “Tartini”
  Antonio Stradivari 1716 “Nachez”
  Antonio Stradivari 1667 “Jenkins”
  Guarneri del Gesu c.1730
  Andrea Guarneri 1638
  Antonio Stradivari 1699(Cello)

 総額で65億円になるらしい。何だ,ハシタ金じゃん,と思いたいわけなのだが,思えるわけもない。65億円という金額には,1万円の札束が6,500束集まった額という以上のイメージは持ちにくい。

三井住友銀行東館
● 「名器の生音を是非ご体感ください」と言うのだけれど,いかな名器といえども,自分で音を発するわけではない。誰かが奏でる必要がある。たとえばそれがぼくだったりすれば,名器もクソもないという話になる。
 名器は名手が奏でてこそ。問題はここからだ。名手が奏でるのであれば,特段ここまでの名器である必要もない。必要ないというのは,ぼくにとっては,ということね。ヤマハのYVN500S,いやもっと安い20万円か30万円の楽器であっても,ぼくの耳で音色の違いを聴き分けることはできない。

● おそらく,ぼくだけではないと思うんだよねぇ。名手の演奏で,その名手が使っている楽器が何かを目隠しして当てるなんてことは,当の名手でも無理なんじゃないか(いや,本人ならさすがに気がつくか)。
 では,名器とは何かという話になる。ひとつだけハッキリしていることは,時の流れという篩にかけられて,ずっと生き残ってきた楽器だということだ。しかし,これでは何も言っていないに等しい。

● ヴィヴァルディ「四季」は大人しい曲だと思っていた。メロディーもたおやかだし,どちらかといえば女性的な曲だな,と。
 成田さんが演奏する「四季」はそうじゃなかった。グングン踏み込んでいく。ヴィヴァルディがロックになることを知った。いやはやすごいものだと思って,CD(イ・ムジチ)を聴き直してみたら,CDもロックだった。
 そっか,ヴィヴァルディはロックだったんだ。長らく気づかずに来た。今回のコンサートの収穫はこれ。

● 終演後,成田さんがあらためていくつかの楽器で同じ旋律を演奏してみせた。やはり,違いはわからない。記憶の保持時間が短くて,4つめの楽器で聴くときには1つめの音色を忘れているということもある。
 言葉でも説明するんだけれども,まったく知らないものについては,どう説明されてもわからない。わかったふりをして聞いていたけどね。

● ガラス越しにこれらの名器を美術品,工芸品として鑑賞できる。さすがに時間が心配でゆっくりはできなかったけれども,たとえゆっくり見たにしても,ぼくには豚に真珠であったに違いない。

2018年11月19日月曜日

2018.11.18 第20回 鹿沼市民歌の集い

鹿沼市民文化センター 大ホール

● この催事を知ったのは9月16日の鹿沼フィルハーモニー管弦楽団の定演を聴きに行ったとき。「第九」の全楽章を演奏するらしい。ソプラノは鹿沼出身の大貫裕子さん。
 入場無料だが整理券が必要。ということは,かなりの聴衆が集まるのだろう。鹿沼市民の鹿沼市民による鹿沼市民のための催事なのだろう。
 となれば,部外者は遠慮しておくのが吉だろう。整理券を取るために鹿沼まで往復するのも億劫だ。

● と思って静観するつもりだったんだけど,惹かれるものがあった。惹かれるものがあるのであれば,そこに素直になった方がいいだろう。
 というわけで,某日,整理券を取りに鹿沼に行ってきた。鹿沼市立図書館でもらってきましたよ。もちろん,1枚だけね。

● わざわざ取りに行かなくても,当日も整理券を配布しているのではないかとも思った。のだけど,これは事前に取っておいて正解だった。
 当日,整理券を配布している様子はなかったし,会場はほぼ満席だった。空いている席もなくはなかったけれども,整理券は取ったものの都合で来れなくなった人がいるのだなと思う程度の空席しかなかった。

● 開演は午後1時半。内容は2部構成で,「第九」は第2部。大貫裕子さんのソプラノで「第九」を聴けますよ,と。しかも,無料でね。鹿沼市民でもないのに申しわけない。
 聴衆のごく一部に,どうしようもないのがいた。が,部外者の自分がそれに対してどうこう言う筋合いはない。筋合いがないというか,その資格がない。そのまま受けとめておく。

● 管弦楽のメンバーの多くはジュニアオケの団員かと思われる。鹿沼西中と東中に管弦楽部があることの効用は絶大で,それなしにこの「第九」は成立しない。
 加えて,高校生や中学生が「第九」を演奏することにも少し驚く。少ししか驚かないのは,ジュニアの定演でこれまで演奏してきた曲目を知っているからだ。マーラーやブルックナーをやってのけるのだから,「第九」をやっても不思議はない。

 緊張感がピンと張りつめた見事な「第九」だった。中でも第2楽章の木管(特にフルート)の歯切れの良さと,緩徐楽章のヴィオラの艶っぽさ。 
 第4楽章の,あの有名な旋律をチェロ・コントラバス→ヴィオラ→ヴァイオリンと受け渡し,最後は管弦楽全体で歌いあげるところが,この曲の第一のハイライトかと思うんだけど,そこもスムーズ。
 中小の事故はあった。が,それなしに「第九」を渡りきったアマチュアオーケストラの演奏をまだ聴いたことがない。仕方がない。いや,本当にこれは仕方がないのだと思う。

● 指揮者からすると,「第九」で最も表現に気を遣うのは緩徐楽章ではないかと思っている。ちょっと気を抜くと散らかりやすい。散漫になる。
 木管が歌わなければ話にならないのだが,かといって響かせすぎは致命傷だ。どこまでの音量にとどめおくか。あまたの先例が録音されてはいるものの,現場では悩むことになるのではないか。
 奏者も何度も「第九」を経験しているわけではない。初めての人もいるだろう。加減の仕方を経験的にわかっているわけではないだろう。
 
● つまり,ですね。ん???と思ったところもあって,それは緩徐楽章に集中していた。聞こえすぎもあったし,逆にちょっと萎縮しちゃったかなと思うところもあって。
 “緩徐”の演奏はそもそもが難しいのだろうけど。ぼくには聞こえすぎでも,いやあれくらいがちょうどいいと思う人もいるだろうし。考えだすとキリがない。

● その指揮は益子和巳さん。東中オーケストラ部の顧問の先生。最も異論の出ない人選だと思うのだが,この人,教師としての仕事の他に,ジュニアオケの指導やこうした催事にもかりだされて,尋常ならざる活躍ぶり。
 たぶん,大学で指揮法を習ったわけではないと思う。自己流で身につけたものだろう。暗譜で振っていた。ぼく一個は暗譜がいいとも思わないのだが,うぅん,尋常ならざる精進ぶりだな。おろらく,本人はそうは思っていないと思うんだが。

● ソリストと合唱団は第4楽章の前に登壇。最初からいるのが一番いい。のだが,それはなかなか。第3楽章の前に入るパターンが多いんだろうか。
 第3楽章から第4楽章へは間をおかず,アタッカ気味に入ってもらうのが,自分としては好みだ。対照の妙というか,唐突な変化というか,何が起きたのだという驚きというか,そういうものを味わいたい。だから,第3楽章の前には登壇していてもらいたいのだけど。

● ともあれ,第4楽章。管弦楽の舞踊を経て,バリトンが一段落してから,ソリスト4人が立って,“さて,アテナイ人諸君,君たちが私の告発者たちによって・・・・・・”と語りかけるところ(→ 嘘)で,少し涙腺が緩む。
 「第九」が日本において年末の風物詩になった由縁はぼくの知るところではないし,「第九」も数ある管弦楽曲のひとつに過ぎないと思おうとするんだけど,やはり「第九」は特別なのかもしれない。どんな由縁であるにせよ,毎年,年末になると日本のソチコチで演奏されるのは,「第九」だからこそ,か。

● ソリスト陣は大貫さんのほか,城守香(アルト),安藤純(テノール),坂寄和臣(バリトン)の4人。今回のこの催しは市制70周年記念という冠がつく。それゆえの豪華布陣だったかもしれない。
 その豪華布陣で客席も盛りあがった。半日つぶして整理券を取りに行ってよかった。

2018年11月12日月曜日

2018.11.03 東京フィルハーモニー交響楽団演奏会「ブラームスはお好き?」Vol.2

宇都宮市文化会館 大ホール

● 地元出身の大井剛史さんが東京フィルハーモニー交響楽団を指揮して行う,ブラームス・チクルス(ではない)のこれが2回目。全4回の予定。年に1回だから,あと2年。
 開演は午後6時。ぼくのチケットはB席で2,000円。このホールでぼくが好んで座る席がこうした指定席のコンサートではB席になることを以前に知って,オッと思った。今回は2階の左翼席なんだけれども,オーケストラの全体が見えて,ぼくはわりと好きなのだ。特に,管楽器の奏者がまるごと見えるのは,何気に嬉しいのだ。

● 曲目は次のとおり。
 ハンガリー舞曲第3番
 ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調
 交響曲第2番 ニ長調

● ピアノ協奏曲のソリストは横山幸雄さん。彼の特徴は,タメを作らないでサッと演奏に入るところ。ピアノの前に着座するやいなや,鍵盤に指をおろす。電光石火。もちろん,独奏曲での話。協奏曲では待ち時間ができるのは当然ね。
 舞台袖にいる間にガッとテンションを高めているんでしょうね。着座してから間をおいてしまうと,せっかく高めたテンションが下がってしまうのかもしれない。
 だから,彼に付いていくためには,こちらも予めテンションを高めておかなければならない。聴く体勢を整えておくこと。

● オール・ブラームスでオーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団なんだから,ぼくに何の文句もあろうはずがない。2,000円でこれが聴けることをしみじみありがたいと思うだけだ。
 団員の平均年齢がだいぶ若いように思う。新陳代謝が正常なのだろうか。あるいは,過剰なんだろうか。

● 大井さんの端正な指揮がオーケストラを導いていく。指揮者を大きくカラヤンタイプとバーンスタインタイプに分けるとすれば(無茶な分け方だが),彼は明らかにカラヤンタイプ。
 動きに過剰感がないのはとてもいいと思う。指揮者はパフォーマーでもあるとは思うんだけど,パフォーマンスが前面に出てしまうのは,パフォーマーとしてもいかがなものか。指揮者は自らの意図をオーケストラに伝えればいいのだ。伝わればそれでいい。

● ところがね,今日は雑念が尽きることなく湧いてきて。これまでの失敗や,人には言えない恥ずかしすぎる振舞が,次から次へと。
 “ギャッと叫んでロクロ首”的な衝動にひたすら耐えていた。ので,終演後はいったい自分は何を聴いたのかという感じで。妙に疲れてしまって。
 こんなこともあるんだな。いや,こんなのは初めてなんだけど,いったい何がどうなったんだろうかなぁ。

2018年10月31日水曜日

2018.10.28 高根沢町立阿久津中学校吹奏楽部 Rainbow Concert 2018

高根沢町民ホール

● 4年前に一度聴いている。この時期は県内でもコンサートが増える時期で,だいたい複数が重なることが多い。3年間の空白ができたのもそれが理由だ。
 今回も直前まで別なところに行く予定にしていた。昨日,駅に貼ってあったポスターを見て,この演奏会があることを知り,急遽,予定を変更して高根沢町民ホールにやってきた。

● 阿久津中学校は県内でも吹奏楽部の水準が高い。もちろん,阿久津中学校以外にもそうした中学校はいくつもあるけれども,東関東に進めるんだから,相当なものだ。
 中学生をなめてはいけないことは,もう何度か実地の演奏で教えられている。彼ら彼女らの可塑性,吸収の速さに対して,中高年は畏れを抱いていなければならないというのが,ぼくの変わらぬ信念だ。
 咄嗟のときに素早く判断して的確に対応することも,彼ら中学生は大人と遜色ないか,あるいはそれ以上だと思っている。

● 開演は午後1時半。入場無料。
 プログラムは3部構成。曲目は次のとおり。1部はコンクール・ステージ,2部はアンサンブル・ステージ,3部は客席サービス・ステージ。

 一ノ瀬季生 マーチ・ワンダフル・ヴォヤージュ
 片岡寛晶 海峡の護り-吹奏楽のために
 クロード=ミシェル・シェーンベルク ミス・サイゴン
 ヤン・ヴァン・デル・ロースト アルセナール

 片岡寛晶 クラリネット五重奏「波影」
 田村修平 金管八重奏「楽市楽座-さくらの抄」
 山澤洋之 打楽器四重奏「花回廊/風龍」

 和泉宏隆 オーメンズ・オブ・ラブ
 ロバート&リチャード・シャーマン 小さな世界
 小諸鉄矢 ムーンライト伝説
 田中公平 ウィーアー!
 水森英夫 きよしのズンドコ節
 和泉宏隆 宝島

● わかりやすく巧さが伝わってくるのはパーカッション。もちろんのこと,パーカッションに限らず,木管金管とも相当なもの。高根沢町の無形文化財に指定してもいいくらいのものだと思われた。
 2部のアンサンブルはいずれも聴かせるものだったけれども,ぼくは打楽器四重奏「花回廊/風龍」に唸ることになった。

● 3部では「ムーンライト伝説」には大いに笑わせてもらったし,「宝島」はいやがおうにも盛りあがった。
 ないものねだりをさせてもらえるならば,ジャズを組み込んでもらえるとさらにありがたかったかなと思う。ジャズってどうもぼくにはピンと来なくて,隔靴掻痒の域に長らく住まっている。たぶん,ピンと来ないままに終わるのだと思ってはいるんだけれども,こういう中学生の演奏を聴いて勉強したい。

● この水準をもってしても,東関東では銅賞になってしまう。峻険だねぇ,東関東。その代わり,東関東を抜けられれば,自動的に全国でも上位に食い込むことができそうではある。
 千葉県が凄すぎるんだよね。千葉は県大会のあとダイレクトで全国大会でいいような気がするわなぁ。東関東は千葉県抜きで開催しようよ。
 千葉には何かあるんだろうか。とんでもない指導者が続いたとか。小学校から吹奏楽に力を入れているとか。過ぎたるは及ばざるがごとしということもあるから,必ずしも千葉をロールモデルにしなくてもいいとは思うんだけどね。

● 千葉,千葉と言ってしまったけれど,おそらく東関東を突破して全国に行った中学校と阿久津中の違いは微差なんだと思う。おそらく,だけど。
 その微差が大差なのだという,黴が生えたような言い方はしたくない。が,その微差を埋めるにはどうすればいい?

● ぼくに処方箋があるわけではないけれども,東関東に行ければいいと思っているのなら,それを捨て去らなければいけない。そう思っているんだったら,東関東で終わる。目的を達したのだから,その先がある道理はない。
 もっと先に目線を向ける。遠くを見る。そのうえで,楽しくない練習,楽しいはずがない練習をどこまで楽しんでやれるかという,そこのところにかかってくるのだろう。

● そこをどう工夫できるか。ゲームにするという言い方もしばしば耳にする。そういう卑近なあるいは些細な工夫を積みあげて継続できるか。そのあたりなんだろうかなぁと思っているんだけどね。
 その工夫は個人単位でやらなければいけない。部としての練習方法をどうするという問題ではない。あくまで自分による工夫でなければ効果がない。
 アンサンブルって,ひっきょう,個人プレーだもんね。つまるところは,個人の技量にかかってくるわけだから。

● じゃあおまえがやって見せろよと言われると,とても窮するんだけどさ。言うだけなら誰でも言える。実行するのはそういうわけにいかない。
 でもさ,差っていうのは,下から見上げると,実際より大きく見えるものだからね。阿久津中の部員が思っているほど,千葉のトップクラスと阿久津中の差はないんだと思うよ。

2018年10月29日月曜日

2018.10.27 栃木フィルハーモニー交響楽団 第47回定期演奏会

栃木市栃木文化会館 大ホール

● この楽団の演奏を聴くのは,これが2回目。6年前に第41回定演を聴いている。なにゆえこれほどに間が空いたのかといえば,栃木市は遠いからだ。
 ぼくのような県北で呼吸をしている人間にとっては,栃木,佐野,足利というのは,別世界のエリアになる。宇都宮線(東北本線)で動けるところは距離に関係なく近い。が,小山で乗り換えなければならなかったり,東武電車を使わないと行けないようなところは,極端な話,東京よりも遠い。

● 別世界なのだ。栃木に着いてもこの別世界感がついて回る。自分の住んでいるところの県名が栃木県であることが,すこぶる妙な具合に思えてくる(県名なんてどうでもいいのだけど)。
 なにゆえ別世界と感じてしまうのか。東京でこの別世界感を味わうことはないのだ。大宮でも横浜でもそんなものを感じることはない。

● ひょっとすると,劣等感のせいかもしれないと思ってみる。栃木や足利は栃木県における上方であり,文化の先進地域であって,栃木県では南西から北東に向かって文化の風が吹いてきたのである,と。
 巴波川の水運の残り香がかすかに漂う栃木の市街地を歩いたり,足利の悠揚迫らぬ余裕を感じさせる,たとえば足利女子高の前の通りを歩いていると,宇都宮などただの小汚い田舎町に過ぎぬと思えてくる。まして,ぼくの住む県北エリアなど,場末も場末,化外の地だ。

● そのような理解はたぶん間違っているはずだ。そんな単純な文化史は聞いたことがない。
 であっても,そのあたりが別世界感の所以ではないか。とすれば,その別世界感はぼくが勝手に作ったものだという結論になる。
 ではなぜ,そんな勝手なものを作ってしまうのかといえば,このエリアは,東京や横浜以上に自分にとって遠いものだからだ。こうして円環構造が完成してしまう。滅多に行かない→別世界→遠い→滅多に行かない・・・・・・という具合だ。

● というわけで,別世界感に包まれながら,栃木文化会館の片隅に背中を沈めたのだった。
 開演は午後6時半。チケットは1,200円(当日券)。
 曲目は次のとおり。オール・ロシア。指揮は大浦智弘さん。
 チャイコフスキー バレエ音楽「くるみ割り人形」より抜粋
 グラズノフ ヴァイオリン協奏曲 イ短調
 ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 ニ短調

● よく練られたアンサンブルであることはすぐにわかる。偉そうな言い方をしてしまうと,栃木県内にそれなりの数がある市民オケの中でも,ここは水準の高い部類に入るだろう。
 対外的な活動は年に1回の定期演奏会だけらしいのだけども,1年なんてすぐに過ぎる。今年ももう11月になるのだ。

● グラズノフ「ヴァイオリン協奏曲」のソリストは横山奈加子さん。この曲はソリストの比重が高いというか,ほぼ出ずっぱりになるというか。管弦楽を黙らせての数分間に及ぶ独奏部分があったりする。
 こういうのって,緊張するのは当然として,かえってやりやすかったりするんだろうか。逆に,いやなものなんだろうか。

● 何気に超絶技巧を要求してくる。困ったことに(いや,困ったことでは決してないんだけれど),名手が弾くと,超絶技巧が超絶技巧に見えないという現象が起こる。なんか普通にやってるね,って感じになる。
 横山さんもそう。その横山さんのヴァイオリンを聴けたのもラッキーだった。

● 野球でも内野の名手はファインプレーをファインプレーに見せないのと同じだ。見る人が見ればわかるけれども,大向こう受けはしない。だから意外に人気がでない。
 同じようなことが音楽の世界でもあるんだろうか。この世界,芸の追求の場でもあるけれども,一方ではショービジネスの要素も色濃くある。そこを高次元で統合できる人って,でもいるんでしょうねぇ。

● ロシアを代表する作曲家は,チャイコフスキーではなくショスタコーヴィチであるべきだと思っている。生きた時代が時代で,少し取っつきにくいのが困るし,中公文庫から出ている『証言』のような偽書(ではないという説もいまだにあるが)が大手を振ってまかり通れる余地があることが,少々以上に厄介ではあるのだが。
 何といっても量がすごい。ここまで量産できた(させられた?)理由はあえて問う必要がない。どんな理由だとしても,それができたことは才能によるとしか言いようがない。

● 中でも今回の5番は演奏される機会が多い。ショスタコーヴィチの代表作だろう。向こう受けする数少ない楽曲だということかもしれない。“よく演奏される曲=名作”とは限らないという留保ははずすわけにいかないけれども,この5番は名作だということにしておきたい。
 パンフレット冊子の曲目解説にも「3か月間で作曲した」と紹介されているけれど,3か月もあればショスタコーヴィチには充分だったろう。拙速が名作を生む例は,音楽に限らず,いろんなところにあるのではないか。

● 地方の小都市にこういう演奏をする市民オケがあるということにも,驚いた方がいいのかもしれない。
 この楽団は栃木市にとどまっていて,外にアピールしようとはしていない(たぶん)。市民オケはそれでいいのかもしれない。というか,そうあるべきなのかもしれないのだが(どこの市民オケもそうだ),実力に比して知名度が低いのでは。機会を見て外に打って出てみてはどうか。
 彼らからすれば,ぼくが別世界にいる人間なので,そのように見えてしまうのかもしれないんだけどね。それに,知名度など得たところで,いいことは何もないかもしれないのだけど。

2018年10月26日金曜日

2018.10.20 千代田区 第39回オーケストラフェスティバル

日経ホール

● 今日は特に行こうと決めていたコンサートはなかったんだけど。“オケ専”を見ていたら,明治大学OB交響楽団がブラームスの4番を演奏するコンサートの案内があった。
 この1曲だけなのか,それでもいいか,と思って「休日おでかけパス」で東京駅に降り立ったわけなんでした。

● ところが。受付でプログラム冊子をもらって,表紙に記載されているプログラムを見ると,ありゃりゃりゃ。とんでもなく盛りだくさんというか,盛りだくさんすぎるというか。
 プログラムは次のとおり。休憩を含めて4時間半の長丁場。開演は午後2時半。入場無料。

 千代田フィルハーモニー管弦楽団
  ボロディン 交響詩「中央アジアの草原にて」
  チャイコフスキー 交響曲第2番「小ロシア」

 化学オーケストラ
  ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」

 明治大学OB交響楽団
  ベートーヴェン コリオラン序曲
  ブラームス 交響曲第4番

 Musica Promenade
  富貴晴美 大河ドラマ「西郷どん」テーマ
  ヨハン・シュトラウスⅡ 美しく青きドナウ
  ボロディン 歌劇「イーゴリ公」より “序曲” “だったん人の行進” “だったんの娘たちの踊り” “だったん人の踊り”
  グリエール 偉大なる都市への賛歌

● 日経ホールは初めて。オーケストラを乗せるためのホールではない。ステージもオーケストラを乗せるには少し手狭かもしれない。
 音響はどうか。悪いと言うつもりはないけれども,良いとも言えない。基本,直接音の世界のように思えた。

● さて。そういうホールで,まずは千代田フィルハーモニー管弦楽団。指揮は和田一樹さん。絵に描いたような市民オケ。というのは,まず年齢のばらつきがかなりある。“演奏したい”人たちが集まって時間をかけてひとつの曲を仕上げているのだと思う。
 にしては,定演は年2回の開催だし,定演以外にも今回のような演奏会をはじめ,いろいろと動いているようだ。

● チャイコフスキーはやはり後期の3曲が聴き応えがある。今回の2番は玄人受けする曲なんだろうか。生でも何度かは聴いていると思うんだけど,あまり記憶に残っていない。
 金管に出せるだけの迫力を出させるのが,ロシアの伝統なのか。金管の前に座っている木管奏者の鼓膜は無事だったのかと余計な心配をしたくなった。

● 化学オーケストラ。「音楽好きの日本化学学会会員が中心となって,2002年に結成されたオーケストラ」とのこと。若い学生もいる。ので,こちらも年齢のバラツキがけっこうある。
 といっても,働き盛りの人は,なかなかオケ活動を継続するのは難しいのだろう。若い人と60歳を過ぎた人がいて,中間がいないという印象もある。極端にいえば,なんだけど。

● でも,こういうオーケストラがあったとは,まったく知らなかった。一般向けの定期演奏会などはやっていないようだ。
 化学者というからには女性は少ないかといえば,そうでもあり,そうでもなし。普通にある市民オケと比較すると,女性の占有率は低い。が,弦に限れば女性が多い。

● 指揮は宮野谷義傑さん。指揮者っていうのは,体力と運動神経が生命線ではないかと思っているのだけど,下半身が使えないとなると,それを補うための工夫,本人が工夫と思わないでやっていることを含めて,が詰まっているはずだ。
 それはたとえばどんなことなのか。そこまではわからなかったけれど,特注の車椅子を使って指揮をする姿は,悲壮感とかそういうものを微塵も感じさせない。ここに至るまでに,人には言えないようなことを含めて,内面の戦いがなかったわけがないのだ。それらの始末をすべてつけて,今あるようにここにある。

● 明治大学OB交響楽団。この楽団の演奏は一度聞いている。冒頭に申しあげたとおり,この楽団のブラ4しかない演奏会だと思っていた。で,それを聴くためにここに来たということなのだ。
 そのブラームスの4番。指揮は夏田昌和さん。満足した。
 少しもの悲しい旋律で始まり,それが多彩に展開していく。それを担うのは主には弦なんだけれども,ヴァイオリンの流れるような,たゆたうような,そして時に弾けるような,身を預けるのにちょうどいい調べが連続する。

● 生で聴く以外には,ぼくはもっぱらウォークマンで聴いているんだけども,何を一番多く聴いているかというと,以前はモーツァルトのクラリネット協奏曲だった。今はブラ4かもしれない。
 カルロス・クライバー+ウィーン・フィルで聴いている。なんかね,気がついたら聴いているという感じね。

● Musica Promenade。これも初めて聞いた名前。指揮を務めている瓦田尚さんが2003年に立ちあげた。瓦田さんは釜石の出身。となると,東日本大震災を思いだすわけだけれども,この楽団が結成されたのは,大震災が発生するずっと前だ。
 その瓦田さん。都立高校の社会科の先生らしい。大学も音大ではなくて早稲田。高校の先生というのは,長時間労働を旨としている職業人の代表だと思っている。それで,オーケストラを主宰するというのは,いかなる魔法によるものか。

● ならば,オーケストラも音大抜きのメンバーで構成されているのかといえば,どうもそうではないようだ。
 “だったん人の踊り”が特にそうだったと思うのだが,気が入った演奏。

● 終演は午後7時。ダブルヘッダーで聴いたようなものだ。こういう“フェスティバル”があったんですねぇ。

2018年10月19日金曜日

2018.10.13 第23回コンセール・マロニエ21 本選

栃木県総合文化センター メインホール

● このコンセール・マロニエ21,ここのところ,声楽とピアノが続いたような気がする。数年前に2部門開催から1部門開催になった。そのあたりも関係しているのかもしれない。
 今回は弦楽器部門。ここは異論もあるだろうけど,聴いていて楽しいのは第1に弦,第2に木管。というわけなので,いそいそと出かけていった。

● コンクールが始まる前に,配られたパンフレット冊子に目を通す。審査員長の沼野雄司さんの挨拶文を読む愉しみがある。時候の挨拶ではなく,営業方針が書かれているのだ。
 審査員長の立場でこんなことを言うと妙に思われるかもしれませんが,コンクールの成績など,音楽家にとって本来はどうでもいいことです。
 小気味いいではないか。コンクールでの優勝や入賞は,履歴書に箔を付ける効果はあるのかもしれないけれども,その程度の効果しかないように思われる。

● N響や読響が団員を採用するときに,そうした履歴書だけを見て,採否を決めることはないだろう。実際に演奏を聴いて,面接をするはずだ。一緒に演奏できる人かどうかを判断したいわけだから,当然のことだ(いったん採用すれば首にはできないのだろうから,なおさら)。履歴書(コンクールの受賞歴)などさほどに(あるいは,まったく)問題にはされないだろう。
 ということで,こういうものは素人にしかアピールしないんでしょう。聴衆の多くは素人だから,集客力が多少は違ってくる?

● パンフレット冊子に載っている出場者プロフィールにもこれまでの受賞歴が記載されている。東京音楽コンクール,全日本学生音楽コンクール,チェコ音楽コンクール,KOBE国際音楽コンクール,秋吉台音楽コンクール,岐阜国際音楽コンクールなど。
 それらのコンクールで1位とか最優秀賞を取っている。もうそれで充分じゃないかと思ってしまうのは,事情を知らない素人ゆえなんでしょうね。っていうか,コンセール・マロニエはかなりプレステージの高いコンクールのようだ。

● 審査員は2階席に陣取っている。お辞儀をするときに,その2階席を見る人と聴衆のいる1階席を見る人の,二通りに分かれる。どちらがいいという問題ではない。
 素人意見としては,審査員席を見る見ないにかかわらず,審査員の存在に負けているようでは話にならないと思う。おまえに俺の演奏がわかるのかというくらいの構えが必要ではないか(実際,審査員を超える才能の持ち主がいるはずなのだ)。
 ま,そうは言っても,なかなかに困難なのではあろうけれど。が,それも才能の一部のように思える。

● さて。演奏が始まった。聴くだけの聴衆にとっては好ましい緊張感が,客席にも漂うのだ。
 トップバッターは藤原秀章さん(チェロ)。藝大院(修士)の2年生。エルガーのチェロ協奏曲の第1,4楽章を演奏。ピアノ伴奏は吉武優さん。
 こういう曲を聴けるのが,このコンセール・マロニエの余慶というべきで,この先この曲を生で聴く機会が訪れるかどうか。
 初音を鳴らすときの切っ先の鋭さと角度の的確さ,わずかのズレもないタイミング。そんなのは初歩以前の問題ですよ,と言われるのかもしれないけれど。

● 藤井将矢さん(コントラバス)。新日フィルのコントラバス奏者。すでにプロとして立っている人か。
 演奏したのは,ロータ「ディヴェルティメント・コンチェルタンテ」の第1,3,4楽章。伴奏は秋元孝介さん。
 この曲はさらに聴く機会はないだろう。後にも先にも今日だけではないか。CDも持っていない。聴くだけならYouTubeで聴けるはずだが。
 コントラバスの柔らかさは格別。眠りに誘う効果も高いんだけどね。

● 堀内星良さん(ヴァイオリン)。メンデルスゾーンのホ短調協奏曲の第1,3楽章。伴奏は山崎早登美さん。
 高校生のとき,メンデルスゾーンが一番だと言う友人がいた。メンデルスゾーンのどこがいいのかといった突っこんだ話はしなかったのだが(突っこめるほどぼくは聴いていなかった),たぶん,彼の頭にあったのはこのホ短調協奏曲の第1楽章ではなかったか。
 初めて生で聴いたときのことははっきりと憶えている。那須野が原ハーモニーホールの小ホールで,田口美里さんのヴァイオリンだった。鳥肌が立った。鳥肌が立つという言い方は比喩的なものだと思っていた。そうじゃなくて本当に鳥肌が立つことを,そのときに知った。
 それから幾星霜。あの頃には戻れない。ということを,堀内さんの演奏を聴きながら思っていた。

● 水野優也さん(チェロ)。桐朋の3年生。チャイコフスキー「ロココ風の主題による変奏曲」。伴奏は五十嵐薫子さん。
 で,五十嵐さんのピアノに驚いた。年齢よりも若く見える顔立ちなのだろう,天才少女現るの感があった。天才の発揮を封印して,懸命に伴奏に徹そうとしている気配を感じたのだけど,そこまで言うと少々思い入れがすぎることになるか。
 水野さんの演奏はといえば,コンクールなのに楽しんでいるという印象。曲調の然らしめるところもあるのかもしれない。淡々と,しかし,気持ちをこめてしんでいる。

● 三国レイチェル由依さん(ヴィオラ)。藝大の2年生。今回の出場者の中で最も若い。ウォルトンのヴィオラ協奏曲。第1,2楽章。伴奏は高木美来さん。
 演奏から感じたのは清潔ということ。若さゆえだろうか。透き通っている感じ。
 努力にはすべき時があるのだろう。その時期を外してしまうと,努力が努力にならないという。25歳を過ぎてからいくら練習しても,技術が上向くことはおそらくないだろう。彼女はその“時”をまだ持っている。

●  齋藤碧さん(ヴァイオリン)。藝大の3年生。シベリウスのヴァイオリン協奏曲第1楽章。伴奏は林絵里さん。
 とんてもない才能を与えられた人がいる。これほどの才能を持ってしまうと,“選ばれし者の恍惚と悲惨”を一身に引き受けて生きていくしかない。他の人生はない。それが幸せなのかどうか,答えのない問いを詮索したくなるんだけども,大きなお世話というものだろう。
 齋藤さんの演奏を聴いていて感じたのは,そういうこと。

● 中村元優さん(コントラバス)。藝大院(修士)。トマジのコントラバス協奏曲。伴奏は笹原拓人さん。
 軽妙な演奏だと思った。そういうふうに演奏すべき曲なのだろうか。スイスイスイと進んでいった。

● この本選は,回を追うごとに観客が増えている。今回は弦だったゆえに尚更か。小学生の男の子が一人で聴いていた。ヴァイオリンを習っているんだろうかな。
 これほどの演奏をまとめて聴けることはそうそうない。しかも無料。聴かないと損。観客が増えるのはだから,理にかなっている。

● けれども,数が多くなると,中には変なのが出てくるのもやむを得ない。演奏中に水(かどうかはわからないけど)を飲む人がいた。飲むだけ飲むと,ボトルの蓋をカチッという音を発して締めてくれる。
 年寄りにもいるんだよね。ペットボトルの水を飲んたり,プログラム冊子を隣の椅子に音をたてて置く爺さんとかね。唾棄すべき田舎者がどうしても出てしまう。

● でも,演奏中にケータイの着信音が鳴るという現象はなくなりましたね。さすがにコンセール・マロニエでそれに出くわしたことはないけれども,普通のコンサートではわりかしあった。
 が,これがなくなった。年寄りもケータイやスマホの取扱いに慣れてきたってことですかねぇ。

2018年10月12日金曜日

2018.10.08 シュトゥットガルト室内管弦楽団 meets ワルター・アウアー

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。席はS,A,Bの3種で,それぞれ3,500円,2,500円,1,500円。なぜこんなことを書いているかというと・・・・・・。
 このコンサートが宇都宮でしか開催されないなんてことはない。全国各地で演奏旅行を行っている。で,ヨソでは5,000円のところが多いんですよね。岡山が安めだけど,それでも4,000円。宇都宮だけなんでこんなに安いの,と思ったわけなんでした。

● ちなみに,ぼくはB席のチケットをだいぶ前に買っておいたんだけど,1階15列9番という,なんでこれがBなの,という席なんでした。年末の「第九」なんかだと,この席は間違いなくSになると思う。
 ヨソの県の人が5,000円払って聴いた演奏を,ぼくは1,500円で聴いたよ,ってことなんですけどね。ありがたいには違いないんだけど,腑に落ちない感じが残ったよ,と。

● 曲目は次のとおり。
 モーツァル アイネ・クライネ・ナハトムジーク
 プロコフィエフ フルート・ソナタ ニ長調
 バーバー 弦楽のためのアダージョ
 チャイコフスキー 弦楽セレナード ハ長調

● 演奏する曲目を選ぶとき,何を重視するんだろう。自分たちが演奏したい曲を選ぶっていうのは,アマチュアじゃないんだから,あまり優先順位は高くないと思う。どんな曲でもお望みのものをご披露しますよってことだろうからね。
 集客を考えて,誰でも知っている有名な曲を入れるっていうのはあるかもしれない。加えて,これ知ってた? 知らなかったでしょ,でもいい曲なんだよ,勉強になったでしょ,憶えて帰ってね,っていうのを入れておく。
 その場合,聴衆のアベレージはこの程度っていう値踏みがあるはずだよね。

● 初っ端はモーツァルト。正直,ぼくの鑑賞能力を超える。これほどアグレッシブな「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聴いたのは初めてだったというにとどまる。
 これが世界標準なのか。そんなことはないだろう。CDはイ・ムジチ合奏団のものを聴いているんだけど,ここまで大きく前のめりにはなっていないように感じる。

● この感想は,しかし,視覚に幻惑された結果かもしれない。コンミスが大きく動くので。ずっと彼女を見ていたからなぁ。
 終始,演奏をリードしていた。ここに来るまでに何度もリハーサルを重ねているんだろうけど,他の奏者もピッタリ合わせていた。

● チームワークで勝負すると日本人は強いと言われる。が,こういう演奏を間近にすると,それって本当なのかと思えてくる。
 赤の他人が集まって,一緒に何かをするというときに,その場を作ることにかけては彼らの方が上手いんじゃなかろうか。場ができなくても何とかしてしまえるのは日本のお家芸かもしれないけれども,きっちりと場を作って,そこに構造物を拵えるということになると,ぼくらは彼らに負けるかもしれない。

● ワルター・アウアーを迎えての曲は,プロコフィエフ「フルート・ソナタ」。世界最高峰のフルートはこういうものか。これまた,ぼくの判別能力の限界を超えているんだけどね。
 闊達自在というのはわかる。けれども,具体的にどこがどうということになると,皆目。
 アウアーのアンコールは,グルック「精霊の踊り」。

● バーバー「弦楽のためのアダージョ」が,“知らなかったでしょ,でもいい曲なんだよ”と言われた曲。初めて「ボレロ」を聴いたときに感じた驚愕と同じとは言わないけれど,気持ちの良い驚きがあった。
 “静か”は遠くまで届くことがある。そんなことを思わせる。
 ところで,この曲のCDをぼくは持っていたんでした。アラララ,早速ウォークマンに入れよう。

● 〆はチャイコフスキー「弦楽セレナード」。盛りあげて終わる。そこはチャイコフスキーだもんなぁ。
 アンコールはモーツァルト「カッサシオン」から“アンダンテ”と芥川也寸志の「弦楽のための三楽章 トリプティーク」より第3楽章。
 室内管弦楽団とは言いながら,今回は弦のみの合奏だった。管も聴きたかったと言いたいのではない。充分に堪能できた。
 で,前に戻るんだけど,これで1,500円ってありなのか。

● シュトゥットガルトなんぞという横文字の楽団が来ると,普段は音楽なんか聴かない人がやってくる。で,楽章間で逡巡のない拍手が起こってしまう。
 それに対して,奏者側は寛大なように見受けられた。折込み済みということか。が,あまり気分の良いものではないんだよってのは,時々,態度で示していた。

● ところがね,彼らはいいお客さんなんだよね。つまり,ホワイエで販売しているCDやグッズを買ってくれるのは,主に彼らだから。めったに来ないんだから,記念になる。だから記念グッズを買う。
 一方で,擦れちゃってるやつらは,CDショップさながらのCDをすでに保有しているだろうし,保存する場所がないのに買ってどーすんだよ,と配偶者に白い目で見られるだろう。だから,意外に買わないんじゃないかと思うんだけど,このあたり,どうなんだろ。

2018年10月9日火曜日

2018.10.07 慶應義塾大学医学部管弦楽団 第42回定期演奏会

川口総合文化センター・リリア メインホール

● 開演は午後3時。曲目は次のとおり。指揮は佐藤雄一さん。
 リムスキー=コルサコフ 「皇帝の花嫁」序曲
 シューベルト 交響曲第7番「未完成」
 チャイコフスキー 交響曲第5番

● この楽団の演奏を聴くのは,今回が二度目。6年前に第36回定演を聴いている。場所も同じ川口リリア。そのときのメインもチャイコフスキーの5番だった。
 かなりの満足感が残ったことを記憶している。なのに,6年も間があいたのは何ゆえか。

● 医学部管弦楽団といっても,医学部の学生だけで構成されているわけではないことは,前回でわかっている。他学部や他大学の学生もいて,数はそちらの方がずっと多い。
 少人数の医学部だけでオーケストラを構成するのは,いかな慶応でも難しいだろう。慶応には「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ」という全国に冠たるオーケストラもある。ぼくはまだ聴く機会を得ていないけれども,その名声は届いている。それとは別に,医学部でオーケストラを立ちあげるのはなかなか。中には両方をかけ持ちしている学生もいるかと思うんだけど。
 半世紀近くも続いている。そのこと自体,賞賛されて然るべきかと思う。

● 入場料は取らない。カンパも募らない。つまり,この演奏会に要するコストは,その全額を演奏者側が負担している。
 N響といえども,チケット収入だけで賄えているはずがない。NHKからの助成金がなくなったら,たぶん消滅するしかないだろう。
 まして,アマオケの場合,チケット収入など楽団運営の屁のつっかい棒にもならないかもしれない。にしても,演奏者側が全額を負担している。

● 曲ごとにコンマスが交替する。ので,曲ごとに指揮者は全員を立たせる。
 メインのチャイコフスキーが圧巻だった。まず気がいくのは,第2楽章冒頭のホルン独奏だけれども,これを危なげなく演奏できれば,相当な技量の持ち主と考えていいのだろう。
 細く儚げな不安定感を表現しなければならない。不安定を安定して表現できれば,それは相当なものだ。

● トロンボーンの技量に一驚を喫した。抑えが効いている。第1楽章はもちろん,第4楽章の怒濤の行軍のところでも,トロンボーンに感じたのは抑制の美とでもいうべきものだった。
 演奏中に凜々しさを通したのもいい。素人はそうした絵的なところに反応するものだ。っていうか,そうしたものにしか反応できないと言った方がより正確かもしれないけれど。

● 曲そのものの力もある。演奏はすべからく作曲家とオーケストラの合作だと思うのだが,力のこもった演奏に導かれて,長い旅を終えたような気分だ。
 録音音源をいくら聴いても,この感興はまず味わえまい。これこそが生演奏の,ライヴの醍醐味だ。

● この演奏をぼくは素晴らしいと思ったのだけれども,素晴らしさを構成するものは何だろうと考えてみたくなる。技術はもちろんある。けれども,畢竟,若さが持つ何ものかという気がするのだ。
 若さが持つ真摯さ,若さが持つ柔軟性,若さが持つ向こうっ気のようなもの。そうしたものが織り合って,攪拌されて,沈殿して,また攪拌されて,そうしてできあがったものが,独特の香気を放つということではないだろうか。

● 佐藤さんの指揮も若々しい。胃袋がいくつあっても足りないのが指揮者という商売ではないかと思うんだけど,この学生たちと曲を磨いていくのは,佐藤さんにとっても楽しい時間なのではないか。
 基本,素直な学生たちのように思われるし,向上心も持ち合わせているだろうから。

● というわけで,今回も満足感とともにリリアを後にすることができた。

2018年9月30日日曜日

2018.09.29 弦楽亭室内オーケストラ第4回コンサート 第1回那須クラシック音楽祭

那須町文化センター 大ホール

● 那須でクラシック音楽祭を催行するというニュースに接したとき,凄いものだなと思った。音楽祭ではなくても,こうした催しを自分が核になって作りあげることは,ぼくには逆立ちしたってできないことだ。
 となれば,せめてお金を提供することくらいはしないとなと思って,クラウドファンディングに些少の協力をしたのだった。もちろん,できるだけ多く聴きに行こうとも思っていた

● が,問題が2つあった。ひとつは,音楽祭が実施される9月にも,他の地域では例年どおりにコンサートが開催されるということ。この期間は那須で音楽祭があるようだから自分たちの演奏会は控えておこう,とはならないのだった。
 となると,そちらに引きずられて,那須に足を向ける機会がない。

● もうひとつは,わが家から那須町まではけっこう遠いということ。
 那須には何度も行ったし,県内では唯一泊まったことのあるエリアだ(仕事絡みでは,日光や塩原,鬼怒川,馬頭にも泊まったことがあるけれど,家族で泊まったのは唯一,那須のみ)。
 ので,距離感はわかっていたはずなんだけどねぇ。このあたりをうっかりしていた感じかなぁ。どうもチグハグ。
 主催者とすれば,わずかな金額でファンディングに応じてもらうより,コンサートに足を運んでもらう方がずっとありがたいはずだと思うのだけども,1ヶ月の音楽祭の間,那須に来たのは今日1日にとどまった。

● 開演は午後3時。入場料は1,500円。チケットというのはない。500円の回数券を買って,必要枚数を支払うことになっている。
 曲目は次のとおり。指揮は今回も柴田真郁さん。初めて柴田さんの指揮に接したのは2012年の1月だった。その頃と比べると,いくぶん太られたようだ。
 モーツァルト 交響曲第41番「ジュピター」
 ブラームス交響曲第3番

● 弦楽亭室内オーケストラはプロアマ混成の楽団なのだが,こちらに迫ってくるもの,訴えてくるものが立体的だ。立体的というか,実体としてそれが存在しているという感覚になる。
 迫ってくるだの訴えてくるだのっていうのは,こちらが勝手に感じているだけのものだけどね。

● 個人の集合体であるオーケストラにもし意思があるのだとして,その意思どおりにこちらが受けとめることは,僥倖としてもまずないだろう。ぼくに限ったことではないはずだ。
 普通は段差ができる。だからこそ聴衆がいる意味があるのだと居直りたいのだけれども,面倒なのは,この段差が小さければいいとか,逆に大きい方がいいとか,一義的には決まらないことだ。
 それ以前に,おそらくだけれども,奏者側に小さくない悔いが残った場合であっても,神様の目から見るとそれで正解だったということがあるに違いないのだ。その逆も。だからこその生ものなんだろう。

● ここまで重厚な「ジュピター」を聴いたのは,たぶん初めてだ。奏者側がそうしようと思ってそうしたのか。あるいはそうではないのか。そこはわからない。わからないけれども,ぼくには重厚だと聞こえた。
 で,ぼくはそれを良しとする。ということは,自分は重厚な演奏が好きなのかと自問してみる。だったらチャイコフスキーなんかたまらないんじゃないか。ところが,それもよくわからない。好きなのかそうでもないのか。

● モーツァルトが重厚なんだから,ブラームスは言うにや及ぶ。第2楽章が終わったところで席を立った人がいた。もったいない。後半が聴きどころなんだがな。
 あ,これがライヴなんだと思わせる。厚味と深味。コンマスの位置に矢野さんが座っているのがやはり大きいのか。

● これをCDやハイレゾ音源を元に,電気的な装置で再現できるだろうか。1億円もあれば再現できるだけの環境を作れるかもしれない。防音室も含めて。
 ところが,そのたった1億の金がない。

● 那須音楽祭では,その一環としてジュニアクラシックコンクールも実施しており,その上位入賞者の披露演奏もあった。
 トップバッターは群馬県の小学6年生の中村玲偉さん(ヴァイオリン)。バッハのヴァイオリン協奏曲第2番第1楽章。このメンバーをバックに演奏できるんだから豪勢なものだ。
 結局,彼のこの演奏が最も記憶に残った。幼さ(あるいは可愛らしさ)が惹きつける要素でしょう。これから幼さを失っていくわけだから,それを埋めるだけの技術なり表現力の進歩が求められるのだろう。目指せ,第2の葉加瀬太郎。彼,体育の授業は見学してるんだろうかなぁ。

● グランプリの本田歌音さん(東京音大附属高2年)のフルートはさすが。彼女が応募してくれて,コンクールの面目が立ったのではないかと思うほどだ。
 歌音という名前を付けるくらいだから,両親も演奏家で,娘も演奏家にさせようとしたわけだろうか。そうなら恵まれた環境というかサラブレッドというか。本人がそれをどう受けとめているかは別だけども。
 彼女が演奏したのは,バッハ「管弦楽組曲第2番」の2,5,6,7曲。コンクールの課題曲だったらしい。ともあれ,バッハをたくさん聴くことができた。

● 聴衆の数が多いとは言えなかったのは,会場がマイナーだったせいだろうか。
 あと,明日は台風24号が直撃するかもしれないわけでね。っていうか,台風に備えろとニュースでは言ってるもんねぇ。コンサートなんかに来てていいのかって感も,なくはなかったんだけどねぇ。

● 那須町文化センターをマイナーと言ってしまったんだけど,施設じたいは立派なものだ。もちろん,多目的ホールであるわけだが,大小のホールを備える。ホール以外の施設(会議室など)は別棟になっていて,両者を結ぶ通路部分に中央入口がある。
 人口が2万4千人の町にこれだけの施設があるとは,少し驚いた。あとは使い倒すだけか。それが難しいわけだろうが。

2018.09.24 間奏59:CDだけでは広がりを欠く

● 右はCSのクラシック音楽専用チャンネルの拡販チラシ。スカパーだと月額3,000円(+基本料金390円)。
 ま,元は取れないと思うので,導入する予定はない。ほとんど視聴しないで終わりそうだ。CDだって一生かかっても聴ききれるかどうかわかったものではないのだ。

● ただ,CDだとどうしても自分が聴きたいものしか聴かないことになりがちなので,幅が広がらない。
 その点,こういう番組を機械的(?)に見ている方が新たな発見を得やすいだろう。でも,そういうことに使うなら,NHK-FMの「クラシックカフェ」で充分だと思う。

● テレビでもクラシック音楽番組はあるけれども,ぼくは見たことがない。ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを一度見たことがあるだけだ。
 そのときも,番組の作り方がウザいと思ってしまって,以後,見る気にならないでいる。後にも先にもその1回だけだ。
 テレビを生活から排除してしまったってのもあるんだけど。

● ちなみにいうと,「音楽の友」も買って読んだことは一度もない。図書館でパラパラと見たことはあるけれども,図書館でも手に取らないことが多い。
 あれは業界誌だと思っているからで,そうそう業界の都合に付き合ってはいられない。

● コンサート情報や業界の動向を知りたければ,無料の「ぶらあぼ」で充分だ。じつはそれすら必要なくて,「ぶらあぼ」のTwitterをフォローしていれば足りる。ぼくはそれもやってないけど。
 そもそもが,プロの演奏家のコンサートやリサイタルにはあまり行かないしね。

● 話が逸れた。CDで聴きたいものだけを聴いていては広がりを欠くというところは自覚している。ここは修正しなくちゃなと思っている。
 やはり手軽なところで,NHK-FMか。「らじる★らじる」をスマホにインストールして,聞き逃しサービスで「クラシックカフェ」を聴くことにするか。
 とすると,スマホも音質がいいものに買い換えたくなるなぁ。

● ところが。「クラシックカフェ」は聞き逃しサービスの対象番組にはなっていないのだな。リアルタイムで聴くのは無理だよなぁ。録音というのも現実的じゃないな。
 どうしたものかな。番組表を見て,同じものをCDで聴くことにするか。