2017年7月17日月曜日

2017.07.17 宇都宮ジュニアオーケストラ 第21回定期演奏会-ファイナル・コンサート

栃木県総合文化センター メインホール

● ぼくの知る限り,栃木県内にジュニアオーケストラは3つある。宇都宮,鹿沼,足利。その中のひとつ,宇都宮ジュニアオーケストラが,今日の演奏会をもって活動を終了する。
 活動終了の最大の理由は団員の減少らしい。とすれば,これが先駆的な例になってしまう可能性もある。

● 音大卒は毎年積みあがる。プロへの道は彼らにとっても険しい。彼らがアマチュアとして演奏活動を続ける。あるいは音大ではなくても,演奏が好きでずっと続けていた人たちが,社会人になっても市民オケに入って,音楽を継続する。
 そのため演奏者は増える傾向なのに対して,聴衆が細ってきていると思っていた。聴衆の高齢化ははっきりしていて,彼らが抜けた分だけ新規参入があるとはとても思えない。
 この先,どうなってしまうのだろう。それはしばしば,思うことがあった。

● ところが,今まで存在していた楽団が消えてなくなるという事態は,まったく考えたこともない。ぼくの中では想定外。
 もちろん,一発オケというのもあるし,楽団内で運営方針が対立して,分裂したり消滅したりっていうのはある。それは昔からあることなので,考慮の外に置く。

● ジュニアの世界ではそれが起こっているのだな。少子化という言葉をことさら使うのも憚られるほどに,少子化は社会の前提になっている。実際に起きてみれば,こういう事態もあり得べし,だった。
 昨年の第20回の演奏会でも,OB・OGが多数参集してて,節目だから集めたのだなと思ったんだけど,そうじゃなかったんだ。そうしないとオーケストラとして成立しないくらいに団員が減ってたんだ。

● 宇都宮でもそうだとすると,厳しいんだろうなぁ。先月初めに聴いた鹿沼は元気そうだったんだけど。
 ぼくにできることは,ホールまで自分の身体を運んでいって,彼らの演奏を聴き,拍手を贈ることくらいだ。
 今日は,別の演奏会もあって,当初はそちらに行くつもりでいた。が,この楽団がファイナル・コンサートを催行するということであれば,行かないわけにはいかない。
 開演は午後2時。入場無料。

● 曲目は次のとおり。指揮は水越久夫さん。
 ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲
 シューベルト 交響曲第7番「未完成」
 ベートーヴェン 交響曲第5番
 最後にふさわしい王道のプログラムといっていいだろう。これしかないと言っていいかもしれないほどの。アンコールはブラームス(ハンガリー舞曲第5番)。最後に相応しく,ドイツの正統を並べてきた。

● 正々堂々のプログラムに対して,演奏もまた正々堂々。
 「未完成」を生で聴くのは久しぶりのことだ。あぁ,こういう曲だったなぁと思いだしたっていうか。最近,CDでもずっと聴いていなかったので。

● 「運命」は出色中の出色。特に第4楽章はお見事の一語に尽きる。高揚感がハンパなかった。
 「運命」はこうでなきゃという自分の中のイメージとピタリと合っていた。こういう演奏を聴くと嬉しくなる。

● ジュニアには最後という気負いはなかったように思われる。普段どおりというか,淡々と演奏していた印象。もちろん,それで良いのである。
 ファイナルコンサートだからといって,何か特別なことがあるわけでもない(団長の挨拶はあったけど)。アンコールが終われば,観客は三々五々に散っていく。

● ライヴは一期一会だ。演奏する側にとっても聴く側にとっても。今日の演奏でも,奏者のうちの誰が一人が入れ替わっていたら,この演奏はなかったわけで。
 そして,今後はこのオケとの出会いそのものが叶わなくなったというわけだ。

2017年7月16日日曜日

2017.07.16 栃木県立図書館第161回「県民ライブコンサート」-マニアックなクラシックのコンサート

栃木県立図書館ホール

● 栃木県立図書館の「県民ライブコンサート」。斎藤享久さんと栃響選抜メンバーによるハイドンとモーツァルト。
 開演は午後2時。入場無料。

● 今回の曲目は次のとおり。
 ハイドン オーボエ四重奏曲 ニ長調
 モーツァルト ピアノ四重奏曲第2番 変ホ長調
 モーツァルト ディヴェルティメント第17番 ニ長調

● 斎藤さんは,オーボエ四重奏曲ではオーボエを,ピアノ四重奏曲ではピアノを,ディヴェルティメントでは指揮を,それぞれ担当。
 ハイドンのオーボエ四重奏曲。フルートをオーボエに替えたものだろうか。ハイドンの曲はまずめったに生で聴く機会はない。

● モーツァルトは,お馴染み感がありますな。素人の印象を言わせていただければ,最小限の道具しか使わないで,とてつもなく緻密な建造物を構築してしまう。宮大工の棟梁のようなね。
 したがって,演奏する方も,超絶技巧は要求されないんだけれども,わずかのミスも許されないという緊張は強いられるんじゃなかろうか。

● 各曲の間にアンコール曲を入れる。箸休めというか,お客さんにひと息入れてくれっていう感じの。
 だから,アンコール曲が3つある。最後はアンダーソンの弦のピチカートだけで演奏されるやつ。「PLINK,PLANK,PLUNK!」だったか。小味な小品という感じの曲。

● というわけなので,演奏時間はたっぷり2時間。本格的なコンサートなのだ。侮ってはいけないのだ。無料の小規模な演奏会だからといって,なめたらいかんぜよ。
 これだけのハイレベルな演奏を,少なくとも栃木県で聴ける機会はそんなにない。ありがたいぞ,県立図書館!
 奏者と客席の距離が近いのもいい。その代わり,客席に勾配はついていないから,後ろの席だと奏者の全体を視野に入れることは難しくなるけどね。

2017年7月15日土曜日

2017.07.15 真岡フルートアンサンブル 第6回発表会

真岡市民会館 小ホール

● 真岡フルートアンサンブルの第6回発表会。開演は午後3時。入場無料。

● 初めての拝聴となるが,結成して15年になるらしい。
 技術の巧拙は問うところではない。こうして創る側(聴かせる側)に身を置き,練習を重ねて曲を形にし,その結果を聴衆に晒すというだけで,敬意を払われて当然である,と,ぼくは思う。
 演奏する側と聴く側を対置すれば,前者が常に上位だ。聴いて,その演奏に対してあれこれ言うのは,誰でもできる。

● 活動すること自体を目的にして活動しているのだろう。それでまったくOKだ。であれば,あまり細かい注文をだすのは余計なことだとしたものだ。
 余計なことをする輩をバカという。こんなブログを書いていることじたい,余計なことかもしれず,したがって自分はバカかもしれない,と時々思う(→時々かよ)。

● ただし,だ。言いたくなることはいくつかあったぞ。
 楽譜に集中するあまりなのか,指揮者を見ていなかったのではないか。終曲のタイミングが合わないのは,指揮者を見ていないからではなかったか。

● リズムを取るのに,靴を鳴らすのはやめた方がいいんじゃないか。
 開演前に会場に放送を流す。携帯電話をはじめ,音の出る電子機器のスイッチは切ってくれ,と。
 正当な要求だ。演奏中にケータイの着信音が鳴ったら,目もあてられない。演奏中に音楽以外の音が発生すると,演奏を壊してしまうことがある。
 同じように,演奏者も音楽以外の音を発生させてはいけないだろう。ごくたまに,楽器(特に弦の弓)を床に落とすのを目撃することがあるけれど。
 どうしてもつま先でリズムを取りたいというのであれば,音の出ないゴム底の靴に替えてはいかがか。たぶん,市販されているだろう。

● 指導者の遠藤淳子さんが,次の2曲を演奏。これを無料で聴いては申しわけない。
 マスカーニ 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より「間奏曲」
 ショパン 「フルートとピアノのための,ロッシーニ「シンデレラ」の主題による変奏曲」

● ショパンはピアノ曲しか作っていないという印象が強い。チェロ・ソナタがあることは知っていたけれども,フルート・ソナタまであったとは今日まで知らなかった。
 が,この曲は偽作の可能性が高いらしい。ただ,誰が作ったにせよ,ショパンだと言われると信じてしまうほどに完成度が高い。

2017年7月12日水曜日

2017.07.09 東京大学歌劇団第47回公演 ビゼー「カルメン」

三鷹市公会堂 光のホール

● 東京大学歌劇団の公演を見るのは,これが5回目になる。前回見たのは,2014年の12月。だいぶ間が空いてしまったが,その理由のひとつは,会場が三鷹市公会堂であること。
 つまり,遠いんですよね,ここ。栃木から行くんだから,どこだって遠いじゃないか,って?
 そうではない。三鷹駅までは近いんですよ。近いっていうか,電車が運んでくれるから,こちらは座っていればすむ。居眠りしててもいいし,雑誌を読んでてもいいし,音楽を聴いててもいい。

● 問題は三鷹駅から三鷹市公会堂までなんだよね。この距離がけっこうある。
 駅からはバスもある。ただ,乗合バスっていうのは,地元民しか乗りこなせない。ヨソ者としてはどのバスに乗ったらいいのかわからない。
 とはいっても,そんなのはネットをググればわかるんですよね。そのわずかな手間が面倒くさい。その面倒くささを避けてしまう。

● 避けた結果どうなるかといえば,駅から公会堂まで歩くことになる。距離にすれば2㎞くらいか。宇都宮でいえば,JR駅から東武駅くらい? もうちょっとあるかな。
 歩くのもまた面倒だ。それが間があいてしまった理由のひとつかな,と。

● が,いつまでもそうしてはいられない。頭のてっぺんに穴が空きそうな太陽光を受けながら,その2㎞を歩いて,三鷹市公会堂へ。
 大成高校のグラウンドでは野球部が練習をしていた。高校野球の季節だな。この炎天下でこんなことができるんだから,高校生ってすごいよな。ぼくらが同じことをやったら(できないけど),自殺行為になる。

● さて,「カルメン」だ。この歌劇の脚本で解せないことが2つある。
 ひとつは,ドン・ホセはなぜカルメンにここまで入れあげてしまったのか。しかも,入れあげた状態が長く続く。いっこうに冷める気配がない。
 カルメンは情熱的な美人で,いうならマドンナという設定になっているんだけれども,それにしたって。どうして,ここまで。
 もうひとつは,最後のカルメンの行動。ホセに殺されるとわかっていながら,友人の忠告をふりきって,ホセに会う。会って,さぁ殺せと言わんばかりにホセを挑発する。そして,殺される。

● この2つがどうもわからない。この2つは,でも,歌劇「カルメン」の根幹をなすところであって,そこに疑問を持ってしまったのでは,「カルメン」がどこかに飛んでいってしまう。
 しかし,わからないものはわからない。

● メリメの原作には,そういうわからなさはないんですよね。
 歌劇でのホセは内向的で母親思いの真面目な青年だけれども,原作でのホセは激昂しやすい男。カルメンをめぐって軍の上官と言い争いになると,上官を刺殺して,ダンカイロ盗賊団に身を寄せる。この盗賊団は殺人も躊躇なく行う極悪非道な犯罪集団だ(歌劇では愛嬌のある密輸団として描かれているのだが)
 ホセは,カルメンがダンカイロの情婦であることを知ると,ダンカイロをも殺している。エスカミーリョが闘牛で瀕死の重傷を負ったことを知って,カルメンとヨリを戻そうと動く。
 そういうことなら,なるほどね,ですむ。わからなさは残らない。

● オペラの脚本は,原作をかなりコミカルに改変している。それは興業として成功させる必要があったからだろうけれども,ぼくらに与えられるのは改変された歌劇「カルメン」であって,それを自分に引き寄せて,自分をスッキリさせなければならないという作業が発生してしまった。
 原作と歌劇の最大の違いは,歌劇ではミカエラという重要なキャラクターが設定されたこと。これで劇的な面白さは増していると思う。増しているんだけど,ホセに対するわからなさも増すことになる。こんなに可愛い許嫁がいるのに,おまえは何やってんだよ,っていう。

● 田舎対都市というとらえ方もできるかもしれない。田舎の保守的な道徳が身体に染みこんだホセに対して,都会の奔放な風を思うさま受けながら生きているカルメン。
 故郷という帰れる場所を持つホセに対して,寄る辺なきカルメン。故郷というシェルターを持つホセに対して,ひとり風に向かって立ち続けなければならないカルメン。
 その違いは,生き方の差にならざるを得ない。切羽詰まった度合い,生に対する真剣さ,そういうものがホセとカルメンではだいぶ違う。カルメンは道徳とかルールとか,そんなものをかまっている余裕はない。
 田舎育ちのホセが都会育ちのカルメンに惹かれてしまった。田舎と都市が戦って,都市が勝利した。

● オペラを見る楽しみのひとつに,登場人物と自分を比較して,俺はあそこまでバカじゃねえぞ,と安心するというか溜飲をさげるというか,そんなものがあるんじゃないかと思う。
 「あそこまでバカ」の筆頭は,この歌劇「カルメン」に登場するホセでしょう。だから,そこで溜飲をさげて終わりにしてもいいんだけどねぇ。

● 次に,最後のカルメンの行動だ。どうしてわざわざ殺されに行くようなことをしたのか。
 女の矜恃を示すため? そんなものを示す必要は寸毫もない。
 カード占いで,何度やっても「死」しか出なかったので,もう生きていても仕方がないと思った? そんなバカな。
 ミカエラの説得に応じて,母親を見舞うために密輸団を離脱したホセを見て,自分の孤独感を深めた? 自由がなにより大事というのは自分を納得させるための方便だったとしても,その流儀はかなりのところまでカルメンの身になっていたはずだ。その自由人がその程度で孤独を深めることは,おそらくないだろう。
 ミカエラに嫉妬した? それもないよなぁ。あったとしても,だから自分がホセに殺されてもいいってことにはならないよ。
 寄る辺ない人生に疲れてしまった? それもねぇ。あのカルメンが,と思うよねぇ。

● 普通は,ストーカーと化したホセに対して,「しつけーんだよ,このクソ野郎」と引導を渡しに行ったと考えるべきところなんだろうけど,それも命をかけてやるほどのものではないでしょ。
 となると,考えられる理由はひとつしか残らない。カルメンは自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた。ホセになら殺されてもいいと思っていた。
 しかしねぇ。カルメンはホセに恋情を寄せたことは,たぶん一度もないんだよねぇ。ホセに利用価値があるときだけ利用した。気持ちを向けたことはない。わからないまま残るねぇ,これは。

● 女心の複雑さ,不可解さに還元してはいけない。女心はいたって単純にできている(と思える)。快不快の原則と自分中心主義で動いている(したがって,しっかりと地に足が着いている)。ドライといってもいい。
 問題はこの脚本を書いているのが(たぶん)男であることで,リアルの女と男の目に映った女はだいぶ違うでしょ。そのあたりを踏まえて解釈していかないとね。つまり,脚本家が女を描き損ねている可能性もあるってことね。

● 要するに謎が多い脚本だ。そこに説得力を持たせるにはどう演出すればいいかと,演出者はいろいろ悩むのだろう。オペラ解釈とは,つまるところ,そういうことかもしれない。
 オペラなんだから,大衆受けしなきゃしょうがない。それを前提にすると,この脚本は大成功でもあるわけなんだが。

● この歌劇団の公演を初めて観たのは2013年の1月。そのときも「カルメン」だった。が,今回の「カルメン」は前回のそれとはまったく違ったものになっていた。
 何が違うかといえば,まず演じ手の技量が違う。東大という冠が付いていても,東大生はむしろ少ないのじゃなかろうか。ひょっとして音大の声楽科の学生さんが入っていたりするんだろうか。
 カルメン,ミカエラ,ホセ。いずれも呆れるほどに上手い。特にミカエラは,歌が力強くて,その力強さが辺りを払うところがあった。払いすぎてしまって,ミカエラのホセを思う乙女的な純情さ,村娘の素朴さ,そういったものまで払われてしまった憾みが残るほどだった。

● 舞台のセットと衣装も本格的。前回は,いかにもお金がない学生劇団が手作りで設えた舞台っぽくて,それはそれで好感の持てるものだった。
 今回は,資金提供者がいたんだろうかと思うような,立派なステージでしたね。

● 演出も違っていた。カード占いをするところで,カルメンに「二人とも死ぬ」と言わせている(字幕にそう出たわけなのだが)。“二人とも”という字幕には初めてお目にかかった。“二人”とはカルメンとホセなのだろう。
 カルメンを刺したところで劇は終わるんだけど,このあとホセは,カルメンを刺したそのナイフを自分の首に突き刺したはずだ。
 先に「自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた」と言ったのも,この字幕に連想を刺激されたものだ。

● 初めてカルメンに出逢ったときのホセと,初めてエスカミーリョに出逢ったときのカルメンの様子がパラレルだ。気になるっちゃ気になるんだけど,努めて関心なさそうにしている,という様子。
 これは今回の演出の独自性というわけでもないように思うけれども,そこを強調していたように思われる。穿ち過ぎだろうか。

● 結論は,ここまで作り込めるのはすごい,ということ。演出はもちろんのこと,管弦楽も含めて,大道具や衣装からプログラム冊子に至るまで,相当な水準。
 何から何まで自前。アウトソーシングはしてないらしい。すべての工程が美味しいんだろうから,アウトソーシングしたんじゃもったいない。

● 会場に入りきれず,ロビーでモニター鑑賞を強いられたお客さんも,かなりの数,いたようだ。これはあまりよろしくないから,次回は会場を変えてはどうかね。
 「カルメン」だからこれだけのお客さんが入った? そうかもしれないけどね。

2017年7月8日土曜日

2017.07.08 フラットフィルハーモニーオーケストラ 第5回演奏会

紀尾井ホール

● 四谷駅で降りるのは,今回が生涯で三度目だと思う。
 御茶ノ水は学生街であり,書店街でもあるので,若い頃にはしばしば訪れていた。新宿はあまり行きたいところではないけれども,それでも用事があったり私鉄への乗り換えがあったりで,降りざるを得ない駅だ。
 その間にある四谷にはまずもって用事がない。上智大学があるところという以外のイメージがない。四谷は新宿区にある。が,四谷駅は千代田区になるんでしょ。新宿,港,渋谷,千代田の区堺に位置している。面白いっちゃ面白いところなんだけど,上智大学以外に何かあるんだろうか。

● 逆に上智大学のイメージが強すぎるのかも。松原惇子さんのいうルイヴィトン大学(ブランド大学)の代表だ。偏差値も高い。間違ってもぼくが入れるところじゃない。
 かつては一億総中流と言われていた。日本の金持ちなんて知れてるんだし,庶民といっても日本の庶民はそこそこお金を持っている。上智とか青山とか聖心女子大とか慶応とか,坊ちゃん嬢ちゃんが集まる大学といっても,その他大勢とさして違うところはあるまいと,ぼくは思っていた。

● ところが,今に限らず,昔からそうではなかったらしいんだな。間違って入ってしまった庶民はけっこう疎外感を味わうらしい。本当かねとじつは今でも思ってるんだけど,どうもそうらしいのだ。
 しかし,だ。お金持ちが集まると,彼ら彼女らに独特の話題があり,雰囲気を醸すのだとしても,それが金持ち倶楽部のスノッブと言われるものかどうかにかかわらず,どう転んでも大したものではあるまいと思っている。
 と,わざわざ書くところがすでに,庶民の劣等感の裏返しかもしれないんだけどね。

● とにかく,その上智大学を見ながら歩くこと5分,紀尾井ホールに着いた。このホールに来るのは,今回が二度目。前回も暑い時期だった。
 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。

● 紀尾井ホール。華美でも絢爛でもないけれども,とんでもないお金をかけたホールだというのは,ひと目でわかる。椅子にしろ柱にしろ壁にしろ天井にしろ天井からさがっているシャンデリアにしろ,高級な部材でできている。
 世が世であれば,ぼくなんぞが出入りしてはいけないところであろうな。が,ぼくだけではない。お客さんの大半は,世が世であれば・・・・・・というのに該当しそうだ(暴言多謝)。日本ではクラシック音楽ファンの大衆化は,ほぼ完成の域に達しているのではあるまいか。

● 外は暴力的と言いたくなるほどの猛暑。が,ひとたびホールに入れば,冷房が完璧に作用していて,むしろ肌寒いほどだ。
 それ自体が,ぼくの年齢層の人間には,あっていいのかと思えるほどの贅沢に感じる。いや,“ぼくの年齢層の人間には”と言ってしまっては言い過ぎであろうな。“ぼくには”と言い換えておこう。

● フラットフィルハーモニーオーケストラの演奏を聴くのは今回が初めて。紀尾井ホールでやるくらいなんだから,腕には覚えがあるとみた。プログラムはオール・ブラームス。
 大学祝典序曲,ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲,交響曲第3番。指揮は平真実さん。ブラームスの4つの交響曲のうち,3番は比較的演奏される機会が少ないのではないかと思う。今日はその3番を聴くことができる。

● 女子奏者はそれぞれのカラフルなドレスで登場。こうあるべきだと思う。黒一色も悪くはないんだけど,黒一色の上品さと多くの色が織りなす華やぎとを比べれば,ぼくとしては後者に軍配をあげたい。
 女性はそれぞれが花。花は花らしくあるのがいい。どの花もみな黒いというのは,自然界にはありえないことだ。

● 「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」を聴ける機会はそんなにないだろう。ヴァイオリンはこの楽団のコンミスの田遠彩子さん。チェロはやはり首席奏者の塚本敦史さん。
 長大な曲で,これがなぜ交響曲にならなかったのか不思議。っていうか,ブラームスは交響曲として構想していたんですね。大人の事情ってやつで,協奏曲になった。

● が,あろうことか,ここでぼくは断続的に意識を失ってしまった。猛暑に晒されたあとの涼しさがいけなかったのか。昼食は食べていなかったので,食後の午睡ではないんだけどね。
 もちろん,戦いはしたんですよ。戦ったんだけれども,泣く子と睡魔には勝てないわけで。申しわけのないことだった。
 っていうか,これでチケット代の半分は捨てたも同然だな。

● 交響曲第3番。なぜこの曲だけ,演奏される機会が少ないのか。ひょっとしたら,ブラームスの4つの交響曲の中でも,最も奏者に運動量を要求するからなんだろうか。
 そんなことはないね。第3番は4つの中で最も演奏時間が短い曲なんだしね。

● 1楽章の強烈さ。激情というか情熱というか。大波がうねっているような。2楽章の雅。3楽章の憂愁。そして4楽章の躍動。そして,静かな終局。
 どう聴くかは聴き手の勝手。自分で自由にシーンを妄想することを保証してくれる。その自由を支えてくれるのがいい曲,という単純な見方をぼくはしているんだけど。

● この曲をCDで聴くときには,もっぱらカラヤンで聴いている。カラヤンって,今は非難を一身に引き受ける存在になった感があるけれど。
 が,いくらカラヤンでもベルリン・フィルでも,生演奏には敵わない。言うまでもないことだ。
 生の魅力って何なんだろうか。奏者の一挙手一投足が見えること。固唾をのむ大勢の聴衆の中で聴けること。部屋では聴けない音量を味わえること。それだけでは尽くせない何かがあるような気がするね。
 なのに,生演奏を聴きながら居眠りをしてしまうバカもいるんだな。

● 楽団紹介に「演奏者も団員もふらっと楽しめる演奏会を目指しています」とあった。それでフラットフィルという名前にしたのかね。
 ま,でも,団員が演奏会を楽しむためには,楽しくない練習を重ねる必要があるんでしょうね。

2017年7月2日日曜日

2017.07.02 さくらウィンドアンサンブル 第1回定期演奏会-サマーコンサート2017

さくら市氏家公民館

● 従来は「さくら吹奏楽フェスティバル」として開催されていたもの。開演は午後2時。入場無料。
 3部構成。須賀由美子さんが司会を担当。

● 第1部はホルスト「吹奏楽のための第一組曲」と酒井格「たなばた」。
 よくまとまっている吹奏楽団だと思った。演奏もだけれど,それ以前に団員の仲がいいような感じといいますか。本当はやめたいんだけど,大人の事情で我慢して付き合っているっていう人はいなさそうだ(いるのか?)。
 さくら市以外に住んでいる楽員もけっこういるらしい。さくら市はこのエリアでは交通の便の良さにおいて,かなりのアドバンテージを持っているから,ヨソからも集めやすいのかも。

● とはいえ,隣町の高根沢でも吹奏楽団結成の動きがある。日帰り温泉と同じで,各市町村にひとつの吹奏楽団なんてことになるんだろうか。
 日帰り温泉ならそれでもいいけれども,吹奏楽団がそうなったら,たぶん共倒れになる。おらが町にもひと揃えっていう抱えこみはよろしくない。自然発生ならいいんだけど。

● 第2部は「ジュニアウィンドハーモニーうじいえ」が次の3曲。
 宮川 泰 宇宙戦艦ヤマト
 中山晋平 シャボン玉
 山下国俊編 日本愛唱歌集

● 「宇宙戦艦ヤマト」といえば,ぼく的には2010年に公開された,木村拓哉主演の「SPACE BATTLESHIP ヤマト」だ。っていうか,アニメは知らない。
 ガミラスの放射能攻撃を受けた地球は,人類の滅亡まで残すところ1年余。地球防衛軍に唯一残された戦力である戦艦ヤマトが,放射能除去装置を求めてイスカンダルに向けて出発する。多大の犠牲を出しながらも,放射能除去装置を得ることができた。
 が,もうすぐ地球だというところで,ガミラスの残党が待ち構えていた。撃退する方法はただひとつ。波動砲だけだ。が,満身創痍のヤマトがここで波動砲を打てば,ヤマト自身が粉々になる。
 木村拓哉演じる古代進は,他の乗組員を救助艇に移し,ひとりヤマトに残る決心をする。そして,敵に照準を合わせて波動砲を発射する。
 その最後の場面では,どうしたって泣くわけですよ。

● この曲を聴くと,その最後の場面,ここまでの戦いで戦死した仲間たちの顔がフラッシュバックし,必死の面持ちで発射準備をし,準備が整って発射ボタンを押すときの木村拓哉の恍惚に近い最期の表情を思いだして・・・・・・ありゃま,泣いちゃいましたよ。

● パーカッションの男の子が勲一等かな。目立つところにいるからなぁ,そのせいかもしれないんだけど,かっこよかったね。

● そのあと,さくらウィンドアンサンブル(の選抜隊)が次の3曲。
 福田洋介 さくらのうた-five
 成舞新樹編 アメージング・グレイス
 久石 譲 「魔女の他急便」メドレー
 「さくらのうた-five」はクラリネット五重奏。女子奏者が浴衣で登場。やる方も聴く方も楽しんで,ってことなんだけど,まだ「宇宙戦艦ヤマト」の余韻が残っていて,わりとこの3曲の印象が薄い。
 指揮の村上さんが,団員に話を向けて楽屋話というか裏話を引き出していたのが面白かった。そこは憶えているんだけど。

● で,第3部。
 中村大八(福田洋介編) 上を向いて歩こう in Swing
 久石 譲(星出尚志編) となりのトトロ Highlights
 グラハム&ラヴランド(高橋宏樹編) ユー・レイズ・ミー・アップ
 ボーデュック(岩井直溥編) サウス・ランパート・ストリート・パレード
 第3部を命名すれば,何でもありステージ。最後の2曲はあまり聴く機会がないような気がする(YouTubeでならいくらでも聴けるんだが)。

● 「さくら吹奏楽フェスティバル」として開催してきた蓄積があって,そこで得たノウハウに添った運営のやり方だったと思える。が,団員の中にもこのやり方を変えたいという意見はあるんじゃないかと愚察する。バラエティーショーじゃないんだから,と。
 ただ,これはこれとして成立しているので,もし変えるとすれば,微調整ではなくてガラッと変えることになるでしょうね。

● 先によくまとまった楽団だと言ったけれども,市民吹奏楽団としては団員数も多くはなく,可愛らしいと形容してもいい。
 さくら市の重要無形文化財のひとつに数えていいものだろう。本当にね,こういうのは大事にしないといけないよ。行政が直に介入するとロクな結果にならないから,遠くから見守るだけでいいんだが。