その程度のことで見合わせるようなヤツはそれだけのヤツなのさ,と切って捨てることもできるだろうが,ぼくもそういうことがあるんで,切って捨てられる側の人間だからなぁ。
● グローリアは管弦楽と合唱が合体した大曲を地元で聴ける機会を提供してくれる,じつにありがたい楽団だ。この楽団の存在を知ってからは,年に1回の演奏会は聴き逃していないはずだが,途中にコロナもあったし,聴き逃しはないと断言はできない。けれども,今年もこうして会場に自分の身体を運んできた。
過去にはハイドンの「天地創造」やベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」など,生で聴ける機会などないだろうと思っていた(かつ,CDで聴こうとはあまり考えない)オラトリオやミサ曲を地元で聴けたんだからね。
西洋におけるキリスト教の存在感というのは,いささか想像しかねるところがあって,想像しかねることが鑑賞の妨げになるとまでは思わないのだけれども,隔靴掻痒の思いはするんだな。
● 次はヴィヴァルディ「グローリア RV589」。「ヴィヴァルディの宗教作品では有名な楽曲であり,演奏頻度が高い作品でもある」のだけれども,ぼくはCDも持ってませんでしたよ。
素人鑑賞家にはこういう偏りがある。偏差値が高いんだな。が,それが困ったことなのかどうかはわからない。避けられないだろうしね。
ただし,それをチェックする機会はあった方がいいかもしれない。こうした演奏会がその機会になる。
● モーツァルト「レクイエム」を生で聴くのは,今回を含めても,片手で数えられるが,この作品はそもそもモーツァルト作と言っていいのかどうか。ジュスマイヤー作とすべきではないのか,という意見があるのかないのか。
しかし,モーツァルト作としてよろしいんでしょうね。ジュスマイヤーはモーツァルトが敷き始めたレールを完成させたわけだから。モーツァルトがバクトルの向きを決定づけている。
● というどうでもいい理屈はさておき。モーツァルトが最晩年に到達した境地がどういうものだったのか。クラリネット協奏曲を聴くたびに,そのことを思うんですよ。この世ではなく,天国の調べですもんね。
それは「レクイエム」でも同じで,間もなくこの世を去るモーツァルトがどういう心境でいたのか。そっちの方が気にかかる。
● 指揮は片岡真理さん。ソリストは藤崎美苗さん(ソプラノ),布施奈緒子さん(メゾソプラノ),中嶋克彦さん(テノール),加耒徹さん(バリトン)。「グローリア」には望月万里亜さん(ソプラノ)も。
布施さんのメゾソプラノは生きているうちに一度は聴いておきなさいと云々。
● ぼく自身は奏でることも歌うこともできないので,それができる人は凄いなぁ,と。せめて聴くことで参加しようと思っているわけだが,それもいつまで続くか。
まだ大丈夫だけれども,引き際を考えるようにはなっている。聴覚だっていつまで保つか。
そうならないうちにそうなった後のことを考えても仕方がないのだが(なるようにしかならない),考えてしまうことが増えたかな。
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