2020年3月9日月曜日

2020.03.07 クラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団 第2回定期演奏会

埼玉会館 大ホール

● 今日は埼玉会館で開催されるクラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に行こうと思っている。なぜなら,この言い方は失礼千万かと思うのだけど,軒並み中止または延期で,今日開催される演奏会はこれくらいだから。
 聴衆にもマスク着用を義務づけるらしい。こうしたやり方に遭遇するのはこれが初めてではない。先月の24日にもあった。そのときはこのやり方に反発して,聴かないで帰ってしまった。
 次のような次第だった。

● マスクはホールのカウンターで配っていると言うので,そのマスクを受け取った。のだが。コロナ・ウィルスを防げるようなものでないことは素人眼にも明らかで。お茶を濁すようなことをして,何ごとかをしている気になるのは最も拙いでしょ。
 ぼくでもわかるくらいなんだから,主催者もお茶を濁しているだけなのはわかっているはずだ。何かあったときに備えて,いやできることはやっていましたとエクスキューズを作っているんだろうか。だとしたら,限度以上に拙い。
 コロナ・ウィルスの拡散を怖れているのなら,演奏会を中止すべきだ。演奏会は,日常の平穏さが確保されて初めて成立するものだからだ。

● 主催者が払ってきた時間や労力や思いを優先してはいけない。左側を走らなければいけないことはわかっているけど,俺にはよんどころない事情があるんだから,今日に限っては右側を走らせろ,というのを認めるのと同断だ。あり得ない。それも主催者はわかっているはずだ。
 こんな茶番に付き合わなくちゃ聴けないよう演奏会なら聴かなくていい。で,聴かずに帰ってきた。これって個々の楽団ではなくて,ホール側の方針なんでしょうね。
 本当にコロナ・ウィルスの拡散を怖れているのなら,辛いだろうが公演自体を中止せよ。やるのであれば,茶番を付加するのはやめよ。

● というわけなのだった。
 街行く人の大半はとっくにマスクを付けている。にもかかわらず,この状況であることが,マスクに効果がないことの証明ではないかと思っている。
 そういうオールorナッシング的な考え方は,頭の悪いヤツの特徴なんだよと言われますか。

● その時点では,それを茶番と思える余裕があったわけだ。が,そんなことも言っていられなくなってきた。茶番が茶番でなくなってきた。空気が重くなってきた。
 ことここに至っては,空気にしたがう以外の選択肢はなくなっている。それを拒否したら聴ける演奏がなくなるんだから。
 ので,柔軟に対応することにしたよ。背に腹は代えられないものね。

● 本当のところはどうなんだろうか。わからないんだよねぇ。中止すべきなんだろうか。逆に,この自粛モードが異常なんだろうか。
 大阪ではライブハウスで感染クラスタが発生しているらしい。たまたまライブハウスだったけれども,それ以外のどこで発生しても不思議はないわけだ。

● ぼくは,基本,通常スタイルを変えないことにしているんだけど,不要不急の外出は避けた方がいいんだろうか。
 そうすると,外食業や物販業は参ってしまう。けど,一時的なものなのだから仕方がないと割り切るべきなんだろうか。

● もうひとつ,不思議なことがある。道行く人の大半がマスクをしているということそれ自体だ。ドラッグストアにもコンビニにもマスクはない状態がだいぶ続いている。どうしてマスクが買えるのだ?
 が,これは身近なところにいる奥さんに訊ねることで解決した。洗濯できるマスクがあるようなのだ。わが家では,ぼくはマスクを付けないで生活しているが,奥さんはマスクをすることにこだわっている。

● で,その中から未使用の黒いマスクを渡された。ところが,出がけにそれを鞄に入れるのを忘れてしまった。
 マスクなしで会場に向かうことになった。入場を断られたら,おとなしく退散しよう。

● 開演は午後2時。入場無料。全席自由。
 マスクは義務ではなかったようだ。つけてなくても何も言われなかった。実際,市中で買うことが現時点で不可能なんだからね。
 が,座席は指定された。バラけて座ってもらうための措置だろう。それができるほどに来場者が少なくなることが予め見込まれたということでもある。
 名前と連絡先(電話番号)を書き,それを元にスタッフが指定券を作る。手書き指定券だ。スタッフにとっても余計な手間だ。
 しかし,現状においてこれは必須の措置と言える。どれほどの効果があるのかは別の問題だが。

● 埼玉会館のトイレも,こういう措置がしてあった。開放性を確保する。羹にこりてないのに膾を吹く,か。備えあれば憂いなし,か。どちらなのかわからない。
 わからないけれども,これに対して,異議申し立てをする人はいないだろう。女性の利用者も黙っているだろう。

● 前置きが長くなりすぎた。ともかく,今日はこの楽団の生演奏を聴くことができるのだ。コロナ騒ぎに伴って発生する諸々の面倒は,そのすべてを主催者が背負ってくれる。ぼくらは会場に自分の身体を運んでいくだけでよい。
 予定どおり,午後2時に開演の運びとなった。ここまで非常事態に対応してきた(今日だけではなかったはず)スタッフのご労苦にまずはお礼申しあげたい。おかげで,ぼくらは演奏を聴くことができたわけだから。

● 曲目は次のとおり。
 ゲティケ 劇的序曲
 ボロディン 交響曲第2番 ロ短調
 グラズノフ 交響曲第5番 変ロ短調
 ボロディンとグラズノフはCDもあるし,記憶にはないが生でも聴いたことがあるかもしれない。が,ゲティケは全くの初耳で,CDも含めて彼の作品を聴くのは,今回が初体験。CDじたい,見たこともない。

● というわけで,この楽団はロシア音楽を演奏するために結成されたらしい。「Kプレミアムオーケストラの奏者およびそのOBOGを中心に発足」とある。慶應義塾大学の現役とOBOGがメンバーということ。
 それで納得するのは,プログラム冊子の質量だ。同人誌を読んでいるような気分になる。話材はロシア音楽であり,ゲティケでありボロディンでありグラズノフであるのだが,内容は義経の八艘飛びのごとし。
 書いている人は,団長の小秋元三八人さん(何て読むんだ? ショウシュウゲン サンパチヤッコ?)をはじめ特定の人に限られるのだが,これも同人誌と同じ。

● ここまで勉強している楽員が演奏するんだから,それに対してぼく程度の人間が何か言うのは,それそのものが僭越の誹りを免れない。聴かせていただくという謙虚な姿勢でいるのがいいんでしょうね。客席は謙虚で満ちているのでなければならない。
 それでも,脊髄反射で何ごとかを言いたくなるのが一般大衆の度しがたいところであって,ぼくもこれからそれをやろうとしている。

● 指揮者は山上紘生さん。先月,豊洲でオーケストラ・ノットの演奏会を聴いているのだが,そのときの指揮者が山上さんだった。そっか,彼は浦和高校から藝大に進んだのか。上野の藝大までは余裕で通える距離だな。そういうところ,羨ましいな。浦和は都会だよな。
 ラーメンの食べ歩きが好きなのか。指揮者の命はたぶん譜読み。自分が理想と考える音楽を脳内で何度も鳴らしているのだろう。ラーメンを食べているときもそうかもしれぬ。
 指揮者というのは,胃袋がいくつあっても足りない商売かと思えるのだが,思えば因果な職業を志してしまったものだ。もっとも,因果ではない職業がこの世にあるのかどうか,それはわからない。

● 山上さんは,今月,藝大の学部を終えたはず。指揮者も若いが,団員も若い。したがって,とつないでいいのかはわからないのだが,演奏も若々しい。渓流を流れ下っていく清流のごとき勢いがある(と感じた)。
 この腕なら,ロシアでなくても,何を中心にしても文句は言わない。次回は「十月革命」をテーマに,グリエール,カバレフスキー,ショスタコーヴィチを取りあげるらしいのだが,この尖りも若さゆえかもしれぬ。

● コンミスの躍動感が目を惹く。コンミスはそうして引っぱっていく。では,他は引っぱられるのかというと,そうではない。
 ロシアを演奏しているのだ。金管や木管が引っぱられていたのでは演奏は成立しないとしたものだ。
 アンコールはグラズノフ「勝利の行進曲」。

● 上に述べ来たったような理由で,この楽団の演奏を聴いたのは,コロナウィルスがもたらした偶然だ。それがなければたぶん東京に行っていたろう。
 が,流れには流されてみるものだ。僥倖だった。クラースヌイ・フィル,記憶に留めておくべき楽団だと思う。

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