2016年8月29日月曜日

2016.08.27 伊達管弦楽団第10回演奏会

北とぴあ さくらホール

● この楽団の演奏を初めて聴いたのは,2013年9月の第4回。翌年2月の第5回も聴いて,今回が3回目。
 「北とぴあ」に来るのは初めてのことだ。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。曲目は次のとおり。指揮は佐々木新平さん。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 ガーシュウィン ラプソディ・イン・ブルー
 ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」

● この楽団は「東北地方にゆかりのあるアマチュア演奏家によって設立されたオーケストラ」ということ。「伊達な演奏を」ともあるんだけれど,伊達な演奏ってどういう演奏のことをいうんだろう。
 ダテ→かぶく→人目を奪うような,ということか。

● 「魔笛」序曲を聴いて,この楽団の演奏はカチッとしていて,そういうものとは対極にあるように思えた。指揮者もプログラム冊子に「良くも悪くも優等生的な演奏が多かった」と書いている。
 カチッとした緻密なアンサンブルを基礎に置かない演奏はありえないだろうから,それを前提にしたうえで,さて,何を付け加えようというのだろう。

● 「ラプソディ・イン・ブルー」は先週も聴いたばかりだ。こういうことってわりとあるね。確率は偏るっていうかね。
 ピアノは西本夏生さん。スペインで修行したらしい。肘打ちや拳打ちはもちろんなし。正統派。伊達管には伊達管の「ラプソディ・イン・ブルー」。

● 「ラプソディ・イン・ブルー」での佐々木さんの指揮を見ていて感じた。佐々木さんの指揮もまた「良くも悪くも優等生的な」指揮なんじゃないかなぁ。
 優等生的って,わりと揶揄の気分をこめて使われるものだと思う。「良くも悪くも」が付くとなおさらだ。でも,優等生的っていけないことじゃないよね。優等生的を極めると何かが出てくるかもしれないものね(出てこないかもしれないけれど,それは何だって同じだ)。
 少なくとも,天然自然にふるまって優等生的になってしまう人なら,そうではない世界に跳ぼうとするより,優等生的を極めた方がいいような気がする。優等生的で何が悪いと居直ることも必要だと思うよ。

● ドヴォルザークの9番,久々に聴くような気がする。以前はCDでよく聴いていた曲のひとつだ。CDといっても,パソコンに落としてスマホに転送して,スマホ+イヤホンで聴いていたわけだけど。
 そのスマホ聴きをやらなくなって久しい。やめようと思ってやめたわけじゃないんだけど,何となく聴かない期間が継続している。
 スマホ+イヤホン以外の聴き方はしないので,つまりはライヴ以外に音楽を聴かなくなっているという状態だ。それが久々と感じる理由だな。

● 聴く度に歯がゆい思いをするのが第2楽章だ。“とおき やまに ひは おちて”っていう歌詞が浮かんできちゃうんだよね。これ,鑑賞の妨げになる。小学校の音楽の時間に教わってしまったことがとても残念。
 この歌詞を踏んづけたままにして浮かびあがらせまいとしても,ダメだね,浮かんできちゃう。

● 同じことはベートーヴェンの「第九」第4楽章についても言える。こちらは中学校のときだったか。“はれたる あおぞら ただよう くもよ”って,何でこんなものを教えてくれたんだよ。
 邪魔でしょーがねーんだよ。聴きながらこの歌詞が脳内を浮遊するんだから。どうしようもないよ。

● というわけなんだけれども,ま,それはそれ。久しぶりに生で,カチッとした演奏で聴いて,満足した。
 ぼくはカチッとした演奏が好きなのだろう。聴き手として「良くも悪くも優等生的な」のだ。

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