2016年9月20日火曜日

2016.09.18 那須フィルハーモニー管弦楽団 名曲コンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 台風16号の影響か,かなりの降りだ。この雨の中を電車に乗って大田原まで出かけていくのは,ちょっと億劫だな。
 最大の問題は,自宅から最寄駅までの1キロ弱の道のりにある。道路が湖状態(?)になっている箇所が3つはあるはずなのだ。

● あえて素足にサンダルで出かけることにした。靴下なんかはいてたんでは,ビショビショに濡れて気持ち悪くてしょうがない。
 一番いいのは長靴なんだけどね。さすがに長靴で行く気にはならないのでね。
 が,西那須野駅に着く頃には,ほぼやんでいた。ふぅぅむ。

9月14日の下野新聞
● 開演は午後2時。チケットは500円。那須フィルの定期演奏会は1,000円なのに,名曲コンサートは500円。ずっとそうなんだけどね。
 指揮は田中祐子さん。曲目は次のとおり。
 チャイコフスキー 「白鳥の湖」より“情景” “4羽の白鳥の踊り” “王子とオデットのパ・ダクシオン” 「くるみ割り人形」より“行進曲” “トレパーク” “花のワルツ”
 ショスタコーヴィチ 交響曲第5番
 アンコールは「眠れる森の美女」より“ワルツ”。

● 「白鳥の湖」の“情景”のあの有名すぎる旋律は,白鳥にされてしまったオデットが,私はここよ,と王子に告げる音的アイコンだ。
 白鳥なんだから言葉を持たない。だから王子には伝わらない。白鳥にされたオデットにもそれはわかっている。わかったうえで,私はここよ,ここにいるのよ,と切なく告げる。
 したがって,曲の基調もまた切なさでなければならない。楽譜のとおりに演奏すれば自ずとそうなるんだろうけれども,胸をキュッと締めつけるような切ない叙情を湛えた演奏であってもらいたい。

● 前半はクラシック音楽のポピュラーソング。後半は一転して,ショスタコーヴィチの5番という,何とも得体の知れない難曲を持ってきた。
 で,ひじょうに無礼なことを申しあげるんだけれども,前半の「白鳥の湖」と「くるみ割り人形」を聴いて,これでどうやってショスタコーヴィチの5番を演奏するのかと思った。いや,本当に無礼極まる言い方なんだけど。
 そのように感じさせるのは管楽器。弦の安定感はまずもって不安をさし挟む余地はなかったので。

● ところが。このショスタコーヴィチが素晴らしかった。重いところはずっしりと重く,弾むところは軽やかに弾んでいた。重から軽,軽から重への転換もいたってスムーズだった。
 わからない。どうしてこういうことが起こるのか。

● 終演後,田中祐子マエストロの目が潤んでいたようにも見受けられた。田中さんが発する念力が奏者のひとりひとりに届いたってことか。
 田中さんの渾身の指揮は印象的だったけれども,受け手がボケたままじゃ,届くものも届かないわけでね。

● 田中さんは感情家,多情家,感激屋のようだ。どんな世界でも,リーダーとして精彩を放つ人やひと角の人物には,感激屋が多い。
 ビジネスの世界でもそうだ。冷静沈着は大切な属性なのだろうけれども,それしかないというのでは,大事を為す人物にはなり得ないように思う。
 ぼくのような凡庸な人間があまり多くを語ってはいけないところだけれども,田中さんには人を引っぱっていくのに必要な,大切な要素が備わっているようだ。

● 以下,どうでもいいことを述べる。
 プログラム冊子の曲目解説。おそらくどこかから引っぱってきたものだと思うんだけど,「ロシア帝政を象徴したとされるこの曲の大半で表現される苦しみと悲しみは,実はスターリンの独裁体制とその粛清による民衆の苦悩の表現なのである」というのは,現時点では過剰にわかりやすい言い方で(ステレオタイプといっていいだろう),スッと入ってくる。
 しかし,本当にそうなのか。ショスタコーヴィチが後年,そのように語っているんだろうか。仮にそう語っているのだとしても,本当にそうなんだろうか。

● さらに,「私は信じない」のところは,だいぶ昔に流行った,万葉集を古朝鮮語で読む的なバカバカしさを思いださせる。
 いや,実際はわからない。ここに書かれているとおりのことをショスタコーヴィチは仕込んだのかもしれない。わりとしたたかな男だったようだし。
 ともかく,こうした厄介さがショスタコーヴィチにはありますよね。

● ソ連だのスターリンだの社会主義だの生命の危険だのっていう,ショスタコーヴィチを取りまいていた諸々の事情を一切捨象してしまって,ただ彼の音楽を聴く。それで自分がどう反応するか確かめる。そういう聴き方をするしかないと,今のところは,思っている。

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