2021年1月31日日曜日

2021.01.30 ハイリゲンシュタット・フィルハーモニー管弦楽団 第1回演奏会

光が丘IMAホール

● 練馬区の光が丘にやってきた。このホールには過去に二度来ていると思っていたけれど,一度しか来ていないようだ。どうも,記憶はあてにならない。無から有を作ってしまう。
 そんなことはどうでも。コロナの緊急事態宣言のあと,予定していた演奏会を中止または延期するところが多くなってきた。致し方がないと思う。が,そうなると,昨年の春から夏にかけてのようなことにはなるまいとは思いつつも,聴けるものを聴いておかないとという切迫感も感じるようになる。

● というわけで,練馬区までやってきた。ハイリゲンシュタット・フィルハーモニー管弦楽団の第1回演奏会に立ち会えるわけだ。
 この楽団は「ウィーン・フィルの響きに魅力を感じ,その響きをアマオケで再現しようと」発足したらしい。「ウィーン・スタイルの管楽器(いわゆるウィンナ・ホルン,ウィンナ・オーボエ,アカデミー式クラリネット,山羊革と手回しチューニングのティンパニなど)を使用」する。それら楽器の解説はプログラム冊子にも載っている。

● ウィーン・フィルはたしかに不思議なオーケストラだ。何が不思議って,オーストリアの人口は880万人で,東京都より少ないのだ。それなのに,ウィーン・フィルは近年まで純血主義を続けてきた。しかも,女人禁制を敷いてきた。
 にもかかわらず,世界最高峰のほしいままにしてきた。これが不思議でなくて何だろうか。

● クラシック音楽は発祥こそヨーロッパであっても,今や世界の共有財産になっているし,日本に限ってみても約40の音大(音楽学部あるいは音楽学科を有する大学。教育学部の音楽専攻は含まない)があり,30を超えるプロのオーケストラが活動しているのだ。
 しかし,ウィーン・フィルの立ち位置は揺るがない。そこに日本のオーケストラが食い込む余地は,今のところは1ミリもない。日本人はオーストリアに留学に行き,オーストリア人は日本に稼ぎに来る。

● 現在のウィーン・フィルは純血主義は放棄したのだろうが,しかし白人しかいない(ベルリン・フィルとは好対照)。女性の奏者はいるにはいるが,ほんとに数えるほどだ。
 そんなことを続けていて,どうして世界一を維持できるのか。ウィーン・フィルは現代に残るギルドだと誰かが言っていた。父から子に一子相伝で伝えられていく何ものかがある(?)。
 楽器をウィーン・スタイルにしたところで,何がどうなるものでもないのだろうが,わかっていてもウィーンへの尽きぬ憧れがあるんでしょうねぇ。

● 楽器については聴く側の問題もある。ぼくがウィーン・スタイルの楽器での演奏を聴いたところで,それとわかるだろうかという疑問だ。
 たぶん(いや,きっと)わかるまい。自分を卑下しているわけではない。等身大に見ているだけだ。

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。この2,000円が聴いてみようと思った理由のひとつでもある。アマオケで2,000円取るのは珍しいから。腕に覚えがあるのだろう。
 曲目は次のとおり。指揮は内藤裕史さん。
 モーツァルト ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調
 メンデルスゾーン 交響曲第1番 ハ短調
 シューベルト 交響曲第1番 ニ長調

● まず,モーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」。独奏は鈴木響香さん(ヴァイオリン)と鈴木聡美さん(ヴィオラ)。
 二人は母娘。響香さんが娘で,聡美さんが母。娘さんは桐朋の学生。したがって(と繋いでも許されると思うのだが),娘さんの方が腕が立つ(言うまでもないが,お母さんも相当な腕前)。闊達であり,自在であり,想定外の事象に対する対応力に富む。危機管理能力が高いという言い方でもよい。
 お母さんは麻酔科医だそうだから,大学病院かそれに準ずるような病院で働いているのだろう。外科医ほどではないにしても,激務であろうかと思う。この楽団の団員でもあるようで,メンデルスゾーンになってからもヴィオラの列に加わっていた。

● メンデルスゾーンの1番もシューベルトの1番も,生で聴くのは今回が初めてだ。CDはどちらもカラヤンで聴いているが,聴いた回数は片手で数えられるほどでしかない。
 メンデルスゾーンのこの曲は,プログラム冊子の曲目解説で知ったのだが,彼が15歳のときの作品。この分野の天才は必ず早熟だなぁ。いきなりクライマックスから始まるような印象を受ける。何ごとが起こるのかと胸踊らせる効果がある。

● シューベルトの1番の出だしは,初夏の広葉樹の並木道を木漏れ日を浴びながら歩いているような気分にさせる。今の感覚なら,このときのシューベルトもまだ少年といっていい年齢なのだが,ここから悲しみが通奏低音になって全体を貫くような後の作品群に至るのが,不思議なような不憫なような,名状しがたい気持ちになる。
 神に選ばれてしまった者の栄光と悲惨を引き受けなければならなかった。シンドい人生だったろうなぁ。31歳で亡くなるとは本人も思っていなかったろうけれども,あれを50年も60年もやらなければならなかったとなると,それはそれでどうだったかなぁ,と。

● あるいはぼくの見間違いかもしれないんだけども,内藤さん,マスクをしたまま指揮していた。いや,だからどうこうじゃなくて,指揮ってマスクをしたままでもできるんだ,と思ったものだから。
 両手を胴体に縛りつけられても,顔を自由に動かせれば指揮はできるのもでしょ。指揮棒は補助で,メインは表情だ。指揮ってそういうものだと思ってた。
 マスクでこの下半分(3分の2か)を覆って見えなくしても,指揮ってできるんだな,と。眼力という言葉があるくらいだから,目が出ていれば指揮はできるんですかねぇ。

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