2015年8月17日月曜日

2015.08.14 東京大学音楽部管弦楽団サマーコンサート2015 宇都宮公演

宇都宮市文化会館 大ホール

● 東大オケのサマーコンサートを聴くのは,今回が5回目になる。つくばで2回,大宮で1回,東京で1回。
 毎年,全国5つの都市で開催するようなのだが,今回は4都市。その中のひとつが宇都宮。宇都宮でやるのは15年ぶりになるらしい。

● この楽団の演奏を地元で聴けるのなら,行かない手はない。早くにチケット(1,000円)は買っておいた。
 開演は午後6時半。長蛇の列ができるだろうから,早めに並んでおこうと思って,そのようにした。

● が,意外にそうでもなかったのだった。けっこう空席があった。東大オケのサマーコンサートでこれほどの空きがあるのは,5回目にして初めて遭遇した。
 といっても,この日は平日の夕方。しかもお盆中だ。帰省している息子や弟と家で飲んでいる人も多いだろう。ぼくにしたって,2,3の不義理をして,ここに来ているわけだが。

● ということは,演奏している学生さんたちも帰省せずに活動しているわけだ。16日は札幌で演奏するのだから15日は移動日だろう。まさに,彼らにお盆はない。

● 指揮は三石清一さん。曲目は次のとおり。
 モーツァルト 「魔笛」序曲
 R.シュトラウス 交響詩「ドン・ファン」
 ブラームス 交響曲第2番

● この楽団の実力は承知しているつもり。
 同時に,自分は洗脳されているのかと思ってみたりもする。他の演奏を聴くときにも,この楽団の演奏を規矩にしてしまっているのじゃないか,っていう。

● 「魔笛」序曲を聴きながら思ったことは,彼らは自分たちが大学生であることを潔しとしていないのではないかってこと。手練れの演奏をしたい,大人の円熟をめざしたいと思っているのかなぁ,と。
 若い人たちが円熟をめざすのは,年寄りが若作りをしようとするのとは真逆のベクトル?
 ではないのかもしれないけれども,これはわりと好意的に受けとめられるものだろう。

● ただ,彼らにそんなつもりがあるとは思われない。上手くなりたいと思って一所懸命に練習し,曲の背景を解説した文献を読んで,解釈を深めたいと思っているだけだろう。
 結果,こういう演奏になる。それができるのを実力があるというのかもしれない。

● 「ドン・ファン」もブラームスの2番も大きな曲だけれども,自家薬籠という言葉を思いださせる。自家薬籠中のものにするっていう言い方。
 破綻は最小限だし,曲に負けて縮こまっている部分は皆無だ。積極果敢に攻める。神経をとがらせて攻めている。

● ある曲を演奏することは,その演奏自体が曲に対する批評であると言ったのは,吉本隆明さんだったか。シュトラウスに対する,あるいはブラームスに対する,彼らの批評。それをぼくらは聴いているのか。
 が,批評は誰にでもできるというものではないだろう。批評が批評たり得るためには,批評する側に懐の深さのようなものがなければならない。それを備えている学生オケの希有な例がこの楽団だという言い方をしてもいい(他にもあることは知っているけど)。

● アンコールはハンガリー舞曲の6番だった。当然,アンコール曲に至るまで,彼らに手抜きはない。
 さらに,恒例の「歌声ひびく野に山に」の“少々長めの前奏”にこめるサービス精神にも。

● ちなみに申しあげれば,この恒例の曲は開催地出身の団員が指揮をする慣わしだ。で,その地元出身の学生が紹介されたときの,客席の盛りあがりは過去5回で最大級のものだった。
 何だろうね,彼の友人や知り合いがたくさん来てたんですかねぇ。あるいは東大崇拝度が他の地域より高いってことか。それは少々考えにくい気もするんだけどね。

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