ミューザ川崎 シンフォニーホール
● 開演は午後3時半。チケットはAとBの2種。つまり,座席は指定される。当日券を購入。A席で2,500円。
● この楽団,2001年からマーラーの全交響曲の連続演奏を行ってきたらしい。次回で完結。ぼくが聴くのは今回が初めて。
曲目は次のとおり。
ハチャトゥリアン ピアノ協奏曲変ニ長調
マーラー 交響曲「大地の歌」
● 指揮は井上喜惟さん。この人がこの楽団を立ちあげたようだ。音楽監督を務める。こういう情熱家というか活動家がいて,ぼくのようにわざわざ栃木から聴きに行く人がいて。
って,彼とぼくを同列に並べてはいけないのだが,コンサートが成立するには3つの条件が整わないといけないと何かで読んだのを思いだしたもので。
ひとつには聴衆の存在。あとの二つは,大ホールと印刷術(楽譜の印刷)。ぼくのような者でも,サハラ砂漠の一粒の砂程度には,音楽に寄与しているのかなと思った。
● まず,ハチャトゥリアンのピアノ協奏曲。CDを含めても初めて聴いた。ピアノはカレン・ハコビヤン。アルメニア生まれのアメリカ人とのこと。
生命力にあふれた感じ。生物としての強さが礼儀正しさに包まれているっていうか。ぼくなんかがうっかり近づくとはじき飛ばされそうだ。
● オーケストラはアマチュアということになっているけれども,普通にアマチュアという言葉から想像するところのものと同一視してはいけない。アマチュアといってもいろいろあるんだなということ。
というかねぇ,これほどの人たちがこうして演奏しているのと見てると,自分が生まれ育ったこの日本という国の底知れなさというか,層の厚さというか,そういったものをゾゾッとするほど感じる。
● 「大地の歌」はCDでは何度か聴いている。とりとめがないという印象をもってしまっていた。
● そう思ってしまう理由のひとつは,この曲が交響曲という枠組みには収まらないからだろう。交響曲とは4楽章で構成されている器楽曲という,こちらのプリミティブな思いこみからはみ出る部分があまりに大きいからだ。
6楽章で構成されているってことになるんだろうけど,この曲においては楽章という概念を維持することに意味があるのかとも思われる。この塊は楽章と呼んでいいものなのか,っていう。
● 蔵野蘭子さん(アルト)と今尾滋(テノール)の独唱は,どう考えればいいんだろう。独唱とオケは競うこともあれば,オケが退くこともある。これはカンタータなのか。
というわけで,いろんな要素の集合体で,そういうものに慣れていない自分には,とりとめがないなぁと思えてしまうのだろう。
● Wikipediaには「この曲から聴き取れる東洋的な無常観,厭世観,別離の気分は,つづく交響曲第9番とともに,マーラーの生涯や人間像を,決定的に印象づけるものとなっている」とあるんだけども,ぼくはこの曲から「東洋的な無常観,厭世観,別離の気分」を感じることがないんですよ。
● 独唱の歌詞(李白の詩)の和訳はプログラムノートに載っている。そこにはそういう意味のことが書かれている。中国風のメロディーが奏されるところもたしかにある。
けれども,この曲から無常観や厭世観を感知することが,ぼくにはできない。
● その印象は生で聴いても変わらなかった。この曲がしっくりと馴染むようにするには,ぼくは何をすればいいのだろうなぁと思いながら聴いていた。
ハコビヤン氏も客席で聴いていた。聴いている彼の姿もなんだか良くてね。ときどき,ステージから視線を彼のほうに移したりしてたんですけどね。
● 中学生と思われる(小学生の高学年だったかもしれない)男の子がふたりで聴きに来ていた。最後まで行儀良く聴いていた。マーラーはこういう男の子まで呼ぶのか。
たぶん,彼らのほうが素直にマーラーに溶けこめるのだろうな。にしてもですよ,中学生がこういうコンサートに来れる国って,日本以外にどれだけあるのかね。
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