2017年5月29日月曜日

2017.05.21 東京藝術大學同声会栃木県支部 トーク&コンサート

栃木県総合文化センター リハーサル室

● 2014年に続いて2回目の拝聴。トーク&コンサートとある。プログラムから察するに,フォルテピアノについてのレクチャーと演奏,エリック・サティについての解説と彼の曲の演奏だろう。
 正直,レクチャーはいいから(そういうものはネットをググればまとまった情報を得ることができるだろう),演奏だけ聴かせてくれないかなと思って,出かけていったわけなんだが。
 チケットは2,000円。当日券を購入。開演は午後2時。

● まず,フォルテピアノ。トークも演奏も村山絢子さんが担当。フォルテピアノは何度か聴いているから,その音色を知らないわけではなかった。
 だけども,言われて初めて気づくということがあって(っていうか,そればかりなんだけど),現代ピアノに比べて,フォルテピアノは音の滞空時間が短いというのもそのひとつ。言われてみれば,この違いは大きいでしょうね。

● メインは演奏の方で,特に最後のベートーヴェンの月光ソナタには圧倒された。村山さんはこの曲を数え切れないほど演奏しているに違いないけれど,その中でも今回の演奏は会心の出来だったのではないかと愚考する。
 「月光」って激しい曲だ。その激しさは静かな第1楽章があるがゆえに際立つ。その第1楽章の静けさがジーンと来たなぁ。

● ノーベル賞を受賞したたしか益川敏英さんだったと思うんだけど,「月光」について語っていたのを新聞で読んだことがある。「月光」の第1楽章はつまらない,第3楽章だけ演奏すればいいのでは,と中村紘子さんに言ったところ,第1楽章がなかったら第3楽章もないでしょ,とたしなめられたという話。
 音楽はクラシックしか聴かないとも言っていた。何というか,さすがはノーベル賞受賞者で,けっこう偏っているようだ。

● 第1楽章がつまらないというのも,独特の感性だ。益川さんが「月光」の第1楽章をつまらないと感じる所以はわからないけれども,フォルテピアノのこの演奏を聴いたら,ひょっとしたら前言撤回となるかもしれない。
 いや,ならないか。そこは偏りが身上の偉人だもんなぁ。

● 後半はエリック・サティ論。こちらはレクチャーがメイン。キーワードはダダ(ダダイズム)。
 ダダという言葉を初めて知ったのは,吉行淳之介の『詩とダダと私と』を読んだとき。父親の吉行エイスケ氏がダダの体現者であったらしい。
 このエッセイ集は1979年に出ている。ぼくが読んだのはその数年後。
 けれども,ダダとはそも何ものなのかはよくわからなかった。モボ・モガとか,タケノコ族とか,要するに若者が既存秩序に反抗して見せるパフォーマンスをいうのかと思っていた。したがって,ダダ的現象はいつの時代にでもあり得るものなのかな,と。

● 浅薄すぎる理解だった。今回の浦島真理さんのレクチャーでこのあたりの疑問が氷解した。
 ダダイズムは1910年代にヨーロッパで起こった「芸術思想・芸術運動」だった。背景には第一次世界大戦に対する虚無感がある。
 既成秩序への反抗を中核とするものの,理性や作為を否定するというところまで行くというのは,今回のレクチャーで知ったこと。

● それが美術においては,たとえばデュシャンの「泉」になる。男性用小便器にサインをしただけのものがなにゆえ芸術として認められるのか。
 作品としての「泉」をいくら見つめたところで,理解できないだろう。時代背景を踏まえて初めて,理解に至るかどうかは別として,そういうことなのかとわかった気になる。
 したがって,今,誰かがデュシャンと同じようなことをしたところで,一笑に付されて終わるしかない。小学生ですら洟もひっかけないだろう。時代の拘束力というか空気というか,その力は絶大なんでしょうね。

● 音楽家のサティにおいては,音楽はBGMであれ,ということになるわけか。「音楽」ではなく「音響」でなければならない,と。人の邪魔をしない音楽。
 もともと,サティには反抗精神があったようだ。上流の人たちが行儀よく聴くものであった音楽に対して,ザケんなよ,それがナンボのもんだよ,という。

● しかし,そもそもそこに矛盾がある。当時の大衆には「音楽」も「音響」もない。たとえ「音響」であっても,演奏されるものをわざわざ聴きに行くなんてことはまずしなかったろうから。ゆえに,サティの影響力は限定的なものにならざるを得ない。
 音楽の大衆化が実現するには,録音の技術とそれを再生するプレーヤーの普及を待たなければならなかった。日本でそれが本格化するのは1970年代ではなかったか。

● そして,時代は変わった。大衆も「音楽」を「コンサートホールで行儀よく聴く」ようになった。少なくとも日本ではそうだ。
 邪魔にならない音楽をことさらに求める必要もなくなった。今のぼくらは,BGMとしてたとえばモーツァルトのセレナーデやディヴェルティメントを選ぶ。サティへの需要はあまりないだろう。

● さらに時代は進んで,音楽はデジタルデータに還元されるものになった。こうなると,クラシックもジャズもロックもポップスも,デジタルデータとして横一列になる。
 クラシック音楽がまとっていた文化性,教養性,芸術性といったものは,もうすでに半ば剥ぎ取られているのではないだろうか。大衆化が極まると自ずとそうなるのかもしれない。

● 繊細に時代に寄り添うと,後の時代の人たちには顧みられなくなる。しかし,その時代にこういう人が生きたのだという足跡は残る。
 デュシャンもサティも時代を生きた人であった。それで充分ということだろう。というか,ほとんどの人はそれができない。繊細であることはかなり難儀なことだから。

● 実演の方は,齊藤文香さんが「スポーツと気晴らし」をピアノで演奏。

● ところで。この日はTシャツに半ズボン,素足にサンダルといういでたちで出かけてしまった。どう考えたって,音楽を聴く場に行くのに似つかわしい恰好ではない。奏者にも失礼だ。
 だけど。暑くてどうしようもなかったんですよ。靴なんかはいたんじゃ,足が溶けてしまいそうだったんですよ。
 でもそんな格好をしていたのはぼくの他にはいなかった。無礼千万でありました。

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