2018年2月5日月曜日

2018.02.04 栃木県交響楽団 第104回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,200円。これは必ず前売券を買っておく演奏会のひとつ。
 曲目は次のとおり。指揮は小森康弘さん。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 モーツァルト クラリネット協奏曲 イ長調
 ラフマニノフ 交響曲第2番 ホ短調

● 30分前に開場。で,開場時点では長蛇の列。これを見ると入りきれるのかと思うんだけど,人間の視覚というのは,客観性を欠くものだね。オッと思うと,実人数よりも多いと捉えてしまう。
 勝手に自分の定位置と決めている,2階右翼席の奥(最も中央寄り)に座ることができた。

● メインはラフマニノフの2番。が,今回に限ってはモーツァルト「クラリネット協奏曲」を聴くために来た。CDで最も多く聴いているのが,たぶん,この曲だ。
 人類の至宝だと思っている。世界遺産などというレベルではない。そんなものと比べるわけにはいかない。
 言ってしまおうか。モーツァルトのこの曲に比べれば,日光東照宮などゴミも同然だと思っている。

● モーツァルトの天才をもってしても,この曲が顕現するには,彼の最晩年(といっても,35歳)を待たねばならなかった。
 突き抜けた明るさが全編をおおう。明るさをいくら煮詰めたところで,明るさを尽き抜けることはない。突き抜けるためには,幾分かの悲しみ,諦念がなくてはならぬ。その悲しみや諦念を濾過する辛い過程を踏んでいないと,突き抜けることはできないものだろう。

● その悲しみを湛えた透明感が,真っ直ぐにこちらに迫ってくる。透きとおっていて,濁りというものがまるで見られない。その深い透明感がどうにも・・・・・・。
 その突き抜けた明るさと透明感を合わせると,高貴なる何ものかになる。第1楽章から第3楽章までのどこを切っても,その断面から高貴なるものが溢れでるように思える。

● 小林秀雄は「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」と言った。が,この曲においては,悲しみは疾走しない。静かにそこにたたずんでいる。
 あるいは,スピノザの神のごとく,この曲のあらゆるところに遍在している。

● 文は人なり,書は人なり,という言い方がある。その伝でいえば,曲は人なり,と言えるだろうか。モーツァルト本人は,エゴイスティックな俗物であったらしい。高貴なるものとモーツァルトは結びつかない。
 ○○は人なり,という言い方には,途方もない緩さ,ぬるま湯的な甘えがあるのかもしれない。人を磨けば作品もそれに相応して良くなるはずだ,というとんでもない楽観が。モーツァルトのこの曲を聴くたびに,そのことを思う。

● クラリネットのソリストを務めたのは,藝大1年生のときにコンセール・マロニエを制した近藤千花子さん。役者に不足はないと言うべきだ。
 が,この曲の出来を決めるのはバックの管弦楽だ。これはもう圧倒的にそうで,この曲の醍醐味は,管弦の音の粒の連なりが,渓流のごとく流れ下っていく様を味わえるところにある。特に第1楽章はほとんどそれに尽きるだろう。

● ゆえに,この曲に関する限り,管弦楽にわずかのミスもあってはならない。跳ねっ返りの解釈も要らない。限りなく保守的であってほしい。革新は無用だ。栃響はさすがであった。
 とはいえ,どうせ聴くなら名手のクラリネットで味わいたい。それもまた満たされたわけだ。
 しかし,わずかに,第2楽章の終わりに,やや不用意な収束を見せてしまったような・・・・・・いや,こちらの勘違いというか,無知がそう思わせるのかもしれない。あれで完璧なのかもしれないのだが。

● いや,堪能できた。大満足だ。ずっと息を詰めるような思いで聴いていた。終わったあとはボーッとしてしまった。そのボーッとした状態で,ラフマニノフの2番を聴いてしまった。
 ので,ラフマニノフの印象がほとんどないのは困ったことだ。イメージ喚起力が強い曲だとは思った。いろんなところにこの曲が使われるのには理由がある。
 反面,この曲を嫌う人もけっこういるのじゃないかと思う。ショスタコーヴィチはいいけれども,チャイコフスキーもラフマニノフもダメだと言う人,いるんじゃないかなぁ。

● というわけで,今回はクラリネット協奏曲がすべて。ぼくは極めて貧弱なオーディオ設備しか持っていないんだけど,いいやつがほしいなぁと思うことが,年に一度か二度ある。今日はそれにあたった。
 いいオーディオ設備を整えたうえで,CDでこの曲を聴きたいものだ。億のお金があればそうするんだが。いや,ほんとにね,そうしてCDを聴きながら,1億円なんて小銭だよ,なんてうそぶいてみたいものだね。

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