2019年9月17日火曜日

2019.09.15 新国立劇場 公演記録映像上映会 ワルキューレ

新国立劇場 情報センター

● ワーグナーの「ニーベルングの指環」の2作め。先週,「ラインの黄金」を観てしまった以上は,最後まで付き合うほかない。
 “指環”はここから動き出す。ゆえに,これが第一夜。「ラインの黄金」は舞台を整えるための「前夜」。

● ジークムントとジークリンデの双子の兄妹の邂逅とフンディングとの対峙。ここから物語が動き始める。
 兄妹はヴォータンが人間との間に作った子。その不義を妻のフリッカに責められて,ヴォータンは妻に歯が立たない。ジークムントを助けるはずが,フンディングを勝たせることに政策(?)を転換する。
 同じくヴォータンと予言者エルダの間の子ブリュンヒルデは,ヴォータンからジークムントを助けるように言われていたのに逆のことを命じられて,おおいに戸惑う。しかし,兄妹を救うべく動く。

● そのブリュンヒルデとヴォータンが,互いの言い分を吐露してディベート(?)を尽くす第3幕が圧巻。
 ヴォータンは支離滅裂だ。おまえは黙って俺の言うことを聞いてればいいんだ的な,老人の癇癪を爆発させているだけ。きっかけは夫婦喧嘩に負けたことにあるのだから,そうなるのも当然なのだが。
 ヴォータンは基本,バカ役。今回は“指環”が物語を動かす契機としては登場しないのだが,一度は“指環”をわが物にしようとした自らの愚かさを愚痴る場面がある。
 全体を通じて,ヴォータンが何も考えずに動いた結果,「神々の黄昏」がもたらされたという印象もあって,「神々の黄昏」はどうにも避けようがない時代の必然ではなく,ヴォータンという愚か者がもたらした人災。
 ワーグナーはそれを一個の行為者に帰せしめず,壮大な運命劇に仕立てようとしているのだと思うが,さてうまく行っているのかは,最後まで観ないとわからない。

● 対して,覚悟を決めたブリュンヒルデの凛々しさは比類がない。ここは,脚本家としてのワーグナーの筆が冴えているところ。
 ブリュンヒルデは眠りにつかされ,目覚めさせた男の妻になることを余儀なくされる。しかし,卑怯者,臆病者の妻になるのだけはご免だと主張。
 女戦士ブリュンヒルデの面目躍如といったところなのだが,ここでのブリュンヒルデは迫力に満ちている。

● ワーグナーのオペラがベルディやプッチーニと何が違うか。ワーグナーが自らの作品に楽劇という名称を与えたのは,どういう理由によるか。
 ひとつには物語性の優位。「椿姫」や「蝶々夫人」とは質の違う物語の展開。壮大すぎる空間性。
 歌のための物語はない。物語のための歌があるだけだ。したがって,アリアがない。独唱はあるのだが,それが終わった後に拍手が許されるような,物語から独立した歌ではない。

● 下準備の「ラインの黄金」では,ワーグナーの創作力は新海誠さんより下だと思うわけだが,準備が整って物語が動き出したあとの,躍動感はワーグナーしか為し得なかったものかと思われる。
 音楽も印象的だけれども,空間構成やワープとでも呼びたくなるような空間の遷移を用意できたのはワーグナーだけだ。というか,そういう空間の多様性を不自然と感じさせない物語を生みだせたのはワーグナーだけだ。
 結局,ワーグナーに後継者は出なかった。出るはずもなかったろう。この方向はワーグナーが極めてしまった。この先に行こうとしても,そこに待っているのは“破綻”の2文字であろうかと思われる。

● 先週,「ラインの黄金」を観たときには,次の「ワルキューレ」は今日より少なくなるだろうと思った。途中で帰る人がいたからだが,少なくなることはなかった。座席に残はほとんどなかったようだ。
 ただし,昼休み休憩後に戻らなかった人は何人かいたと思う。

● 次回は「ジークフリート」。ここまで来た以上,見逃すわけにはいかない。何とか先着40名限定の枠に入れるよう,栃木のわが家からお江戸に向かうとしよう。
 ヴォータンとフリッカの演者は,「ラインの黄金」とは別人だった。「ジークフリート」ではどうなのだろう。ブリュンヒルデはあのブリュンヒルデがまた登場するんだろうか。そういうことも楽しみになってきた。

● もし,運よく「神々の黄昏」まで観ることができた暁には,俺ね,ワーグナーの“指環”を全部見たんだよ,新国立劇場でね,と自慢することにしよう。生ではなくて録画だったんだけどね,というのは黙っておこう。
 あと,手元のDVD,やはりもう一度観ておくべきだな。

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