2019年9月24日火曜日

2019.09.22 新国立劇場 公演記録映像上映会 ジークフリート

新国立劇場 情報センター

● 今日は新国立劇場で「ジークフリート」の録画を見る予定。この録画を観るためだけに新宿まで行かなければならないのかと思うと,けっこうな億劫感がこみあげてきた。布団の中でグズグズしてしまった。
 これ,開始が10:30であることも影響している。14時開演とかなら億劫さはだいぶ薄いものになる。6時台に家を出なきゃいけないのが億劫さを作っている理由のひとつなんだよね。
 今日に限っていえば,地元で聴くつもりの演奏会があったってこともある。

● でも,出かけた。今回は赤羽での乗換えがスムーズに行ったというか,グズグズしてムダな時間を作ってしまうこともなかった。
 新宿から京王新線に乗って,初台には9:40頃に着いた。これはこれで少し早すぎるのだが,少し早すぎるくらいでちょうどいいのだ。

● 限定40名という定員があるので,せっかく行っても入れなかったどうしようと思うわけだが,今回は,席に余裕があった。前回,前々回より来場者は少ない。
 この長いオペラ自体が淘汰装置になる。ま,ぼくも上に述べたような次第で危うかったのだが,できれば食らいついた方がいいんですよ。
 これだけの超長大な作品になると,強制装置がないとなかなか最後まで辿りつけないからだ。この作品のDVDを持っている人は多いと思うのだが,最後まで観たという人は意外に少ないのではないかと,失礼ながら愚察申しあげる。

● ワーグナーオペラに出る歌手は歌えればいいというわけにはいかない。かなりのレベルで演じることのできる俳優である必要がある。それは「ラインの黄金」からそうなのだが,今回の「ジークフリート」においてはいよいよそうだ。
 演技まで要求されるとなると,演者のルックスの問題が出てしまう。つまり,いくら歌が上手くても劇中人物とかけ離れたルックスでは困るわけだ。歌だけで勝負できるなら,あとはこちらが想像力で補えばいいという話が成立するが,演技まで入ってきてしまうと,想像を飛ばせる余地はかなり限定される。

● “指環”全体を通して,最も重要な登場人物は出ずっぱりでもあるヴォータンであることは明らかなのだが,ヴォータンを別にすれば,今回のジークフリートだろう。
 この“楽劇”におけるキーワードは「英雄」であって,それを体現するのがジークフリートだからだ。ジークフリートの登場前と登場後をジークフリートによってどうつなぐか(あるいは,つながないか)は,この“楽劇”の基本色を決めるくらいに重要かもしれない。

● 今回の白眉も第3幕。ジークフリートがブリュンヒルデの目を覚まし,2人が生の喜びを爆発させるところ。太陽を引き合いにだして,あくまで生を肯定する。当然,そこには性愛も含まれるが,それらをすべてひっくるめて,生きるって素晴らしい,と。
 ワーグナーは,しかし,ジークフリートを英雄のままにはしておかない。ここまで劇的な,そしてブリュンヒルデにとっては願っていたとおりの展開になったにもかかわらず,ブリュンヒルデはジークフリートを信じ切ることができなかった。次の「神々の黄昏」において明らかになるはずだ。

● 今回は「さすらい人」として登場するヴォータンは,前回の「ワルキューレ」と同じ,グリア・グリムスレイが演じていたが,ブリュンヒルデは別の人だった。「ラインの黄金」に続いて登場のエルダ,アルベリヒ,ミーメは同じ人。
 「ラインの黄金」は2015年10月,「ワルキューレ」は2016年10月,「ジークフリート」は2017年6月に新国立劇場で上演されたものだ。録画とはいえ,それをまとめて1ヶ月の間に観ることができるとは恵まれている。億劫だなどと言っていては罰があたるとしたものだ。

● ここまで来れば,来週の「神々の黄昏」を観ないなどということは考えられない。万難を排して(排すほどの難は訪れないと思うが)出かけるだろう。

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