2020年1月28日火曜日

2020.01.19 新交響楽団 第248回演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● アマチュア最高峰の呼び声高い新交響楽団の演奏を聴きに来た。2018年4月の第241回以来,二度目。
 開演は午後2時。当日券を購入。S席(3,000円)が残っていた。限りなくAに近いSになるのは仕方がない。が,SとAの料金差は500円にすぎない。

● ここでも1人で来ている男性客が多い。ぼくの両隣も前もそうだった。ごく近年の現象だと思うんだけど,こうなった理由は那辺にあるんだろうか。わかる人がいたら,ぜひ教えてもらいたいものだ。男性のクラシック音楽ファンがにわかに増えたとは思いにくいんだが。
 ぼくもそうだけれども,1人で来るからには,ともに語れる同好の士が近くにいないのだろう。これまた,ぼくがそうであるように,同好の士などというものがいなくてもまったく痛痒を感じない人たちだろう。わが道を行くというある意味オタクっぽいオーラを感じる。ぼくも同じオーラを発しているんだろうか。

● ぼくは演奏を聴くためにホールに来ている。が,コンサートホールに来るのは,なにも演奏を聴くという楽しみだけに留まるのではない。女性のお客さんを見ていて,時々,感じることだ。
 まず,お洒落をして出かけるという楽しみがあるだろう。お洒落をしてクラシックの生演奏を聴く私,を演出する楽しみと言い換えてもいい。
 まともなホールならバーコーナーがある。開演前や休憩時間にワインを飲むことができる。元来ケチな性分のぼくは,ワインを飲んだことは二度しかないし,コーヒーを飲んだのも二度か三度に留まるが,なかなかにいい気分のものだ。そういう楽しみもある。
 人によってはホールでしか会わない友だちというのがいるかもしれない。いろんな楽しみ方があるのだと思うが,1人で来ている男性客にはそのいずれも関係ないような感じなんだよなぁ。

● 曲目は次のとおり。指揮は飯守泰次郎さん。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 ハイドン 交響曲第104番「ロンドン」
 チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」

● ハイドンを生で聴く機会はあまりない。生で聴かないとCDで聴くこともなくなる。ぼくはそうだ。ぼく程度の聴き手はかなりの数いるだろうから,ハイドンはあまり聴かれていないということになる。
 この楽団の曲目解説によると,「第104番は最後の交響曲でハイドンの集大成ともいうべき作品で,とても活き活きとした躍動的な曲」とのことだ。そうだと思うのだが,といっても,たとえばベートーヴェンの7番の躍動とは躍動の中身が違う。躍動という様式があって,その様式に則って書かれたという印象になる。静的な躍動だ。あるいは,礼儀正しい躍動だ。

コンサートホール入口付近の天井
● チャイコフスキーの6番は久々に聴いた。ぼくらはCDを含めて何度もこの曲を聴いているから,こういう曲だとわかっているけれども,当時の人たちはこの終わり方には驚いたろうねぇ。納得できなかったでしょうね。
 先駆者が社会に容れられないのは,音楽でも同じでしょ。ぼくが理解できないもの,いいとは思えないもの。その中から次代を牽引する曲が出るんだろうなぁ。そういうものは千に三つかもしれないとしても。

● これまた曲目解説によれば,「「悲愴」という副題はチャイコフスキー自身が付けたものですが,ロシア語を日本語に直訳すると熱情的という意味になる」とある。ここはけっこう大事なところで,そうと知ったうえで聴いた方がいいと思う。日本語の「悲愴」でイメージしちゃうのではなくて。
 ちなみに,モーツァルトの「魔笛」だって,タイトルとしてしっくり来るかどうか。原題をそのまま訳しただけだよと言われれば,それはそうなのだろうけれども,日本語で「魔」っていうのはねぇ。妙なものが絡まってきてしまう。

● 年に4回の定演を催行しているアマチュア・オーケストラは,この楽団以外にぼくは知らない。団員名簿に職業まで書いてあるのだけど,それによると医師,弁護士,都庁の役人,高校教師,銀行マン,東大生などの集まりだ。音大出身者で固めているというわけではない。
 そうはいっても,子供の頃から習い事以上に楽器をやっていた人たちに違いない。そう考えないと,目の前の演奏ができあがっている所以を想像することができなくなる。

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