2013年10月7日月曜日

2013.10.05 甲斐摩耶&海野幹雄デュオコンサート

宇都宮市文化会館 小ホール

● 「うつのみや文化創造財団」が主催するムジカストリートシリーズの一環。座席指定で500円。その座席なんだけど,販売対象は前方の4分の1で,残りは招待客。
 その招待客というのが小学生。休みなのになんでこんなところに連れてこられなきゃいけないんだよ,っていうのが彼らの本音かもね。引率の先生方もご苦労なことだ。

● これがつまり,ムジカストリートシリーズなのかもしれないけれど,高校生の修学旅行を連想してしまった。栃木県の高校生は今でも京都に行くことが多いのだろうか(北海道とか沖縄になっているのか)。ぼくのときは京都だった。当然,多くの寺社を巡ったはずだ。が,その記憶はとうの昔に脱落している。というか,最初から記憶に入らなかったのだと思う。
 並みの高校生が寺や神社を見て何か感じたり,はるかな歴史に思いを馳せたりするはずがない。正確には,できるはずがない。ひたすら疲れるだけで終わる。

● 修学旅行で連れていかなくても,そうしたものに興味を持つ人は,持つべきときにきちんと持つようになる。持たない人は一生持たない。それでいいではないか。
 興味や関心を向ける対象は,寺社以外にも無数にあるわけで,どれに興味を向けてどれには向けないか,それは個々の生徒に任せればいいことだ。大人が指し示してやる必要はない。示したところで効果もない。もっといえば,指し示せるだけの見識のある大人は,たぶん,めったにいないはずだ。
 慣習に流されての校内行事であることくらい,高校生ならわかる。あれは生徒にとっても教師にとっても壮大な徒労であったと思う。

● このホールにいる小学生たちもまた同じだろう。生の音楽に触れさせれば何かを感じてもらえると考えるのは,いくらなんでもナイーヴに過ぎるだろう。
 ひょっとすると,音楽は情操を育むなどと考えているのだろうか。一般的な命題として,これが成立するかといえば,明らかに否だ。もしそれが成立するならば,演奏する側にいる人間は例外なく,豊かな情操なるものを持っていることになる。
 しかし,それはぼくの経験則に反する。演奏する人としない人,音楽を聴く人と聴かない人の間に,情操云々について差異があるとは思えない。音楽が情操を培うというのは,なにかのスポーツに打ちこんだ人は健全な精神を獲得するというのと同様に,ほとんど幻想だろう。

● つまるところ,大人が作為したものは,だいたいダメだ。あてと褌は向こうから外れる,としたものだ。
 音楽に興味を持つ子は勝手に持つようになる。環境が大事だといってみたところで,こうした催事を1回や2回やってみても,環境を動かしたことにはならない。

● と書いてきて,いや待てよ,そうでもないのかもしれないぞ,と思えてきた。
 もう半世紀近くも前になるけれど,『二十歳の原点』というベストセラーがあった。自殺した大学生の日記だね。彼女は修学旅行で京都に行って,京都に惹かれ,立命館大学に入学したのだった。そういうこともあるわけだ。
 この催事に連れてこられた子のなかで,一人か二人,音楽なり楽器なりに対してオヤッと思う子がいれば,それは成功と呼ばれるべきなのかもしれない。

● で,お子さまたち,演奏中は静かにしていた。相当な忍耐を強いられたに違いない。よくぞ耐えたものだ。偉いなぁと思った。
 以上は余談。

● 開演は午後2時。奏者は甲斐さんと海野さんのほかに,ピアノの海野春絵さん。事情がどうあれ,この3人の演奏をわずか500円で聴ける。ためらわず,その実を取りに行った。
 まず,チェロの独奏から。バッハの無伴奏チェロ組曲第1番から「プレリュード」「サラバンド」「ジーグ」。次いでヴァイオリン独奏。同じくバッハの無伴奏パルティータ第3番の「ガヴォット」。
 ねぇ,曲にも奏者にも文句はないけれど,これ,けっこう音楽好きな大人にとっても厳しくないですか。これらを楽しめる人って,相当な上級者だと思うんですけど。

● しかし,工夫はしているわけで,全部を演奏するのではなくて,抜粋であること。演奏時間を短くしている。もうひとつは,曲間に,甲斐さんと海野さんのトークを入れたこと。
 このトークで教えられたこともある。ベートーヴェンが「田園」について,絵画的に表現したのではなく,どんな情景を思い浮かべるかは鑑賞者の想像にお任せすると言っていたこと。自分は感情を表現しただけだ,と。
 ホントか。曲を聴いて頭に情景が浮かぶ唯一の曲がこの「田園」なんですけど。これは絵画的に表現したものではなかったのか。

● 甲斐さん,男性性が適度に入っていて,魅力的。職場にこういう女子社員がいると,グッと雰囲気が良くなるだろうな。気が利いて,さばけていて,頭の回転が速くて。ぼく的にはひとつの理想型。もっとも,そうした女性からぼくは相手にされたことがない。ハナもひっかけてもらえない。修行中の身だ。
 海野さんは,逆に女性性がこれまた適度にあって,そうでなければ音楽はやれないのかもしれない。

● ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第2番から第3楽章。ここでピアノの海野春絵さんが登場。
 ベートーヴェンのヴァイオリンソナタは,5番以降はわりとCDで聴くんだけど,2番はあまり聴いたことがない。っていうか,初めてかもしれない。

● クララ・シューマンの「3つのロマンス」の第1曲とロベルト・シューマンの同じく「3つのロマンス」の第2曲。チェロとピアノ。
 シューマン夫妻からぼくは高村光太郎・智恵子を連想する。芸術家どうしが結婚すると,どちらかが(たいていは妻の方が)自分の才能を殺して相手を助けることになる。智恵子が精神を病んだのは,実家が破産したとかの事情もあったのかもしれないけれども,自分を殺して光太郎を助けることの手応えのなさにあったのではないかと,何の根拠もなく想像している。
 光太郎は智恵子に対してわがままと横暴が過ぎたのではないか。智恵子の才能を認めるところが少なかったのではないか。要するに,甘ちゃんの子供だったのではないか。たぶん,自尊心だけが肥大した,ちょっと醜悪な。

● その点,クララは幸運だった。と同時に不幸だった。夫の方が追い詰められてしまったからね。もっとも,その点についてクララに責任はない。
 10年間に8人の子どもを産んだ。妊娠していなかった期間がない。その間,自分の仕事をし,夫を助け,夫の死後は夫の作品を整理し,76歳で亡くなった。
 彼女の生いたちも幸せだったとは思いにくい。いや,本人にすればそうでもないのか。

● ヴァイオリンとチェロで,シベリウスの「水滴」とシューベルトの「魔王」。
 「水滴」はシベリウス9歳の作とのこと。ピチカートのみで,ポンポンポンと水滴が地面(じゃないかもしれないけど)を打つ音を表現。間違いなく聴くに耐える。

● このコンサートの前に,お三方は,宇都宮市内の瑞穂野中,宇都宮東高附属中,岡本西小,県立盲学校で実地指導をしているとのことだった。会場のお子さまたちは,その指導を受けた生徒たちだったのかもしれない。
 とすると,先に書いたことは全面的に取り消さないといけないかも。すでに音楽に何らかの関心を持っていた生徒たちだったってことだからね。
 そういう生徒たちならば,この3人の先生に指導を受けることができるのは,(名選手が必ずしも名コーチとは限らないとしても)大いなる幸運だったかもね。

● 休憩後は,ブラームスのピアノ三重奏曲第1番を,今度は全曲演奏。
 男が女に勝っている(勝り得る可能性がある)能力は集中力と瞬発力だけで,あとは万事,女が上。ぼくはそう思っている。女性が集中力を獲得すれば,鬼に金棒。
 で,甲斐さんの集中に脱帽。海野さんが合わせていくというふうだった。これはこれでリーダーの貫禄というもの。
 ずっしりと聴きごたえのある演奏で,聴き終えたあとの満足感も半端なし。

2 件のコメント:

  1. はじめまして。同じコンサートを聞いた者です。
    わたしも楽しめました。ところで、アンコール曲はなんだったでしょうか。
    わかっていたら、教えていただけませんか。

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    1. クライスラーの「シンコペーション」だったと思います。
      間違っていたらすみません。

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