2021年6月21日月曜日

2021.06.06 栃木県交響楽団 第109回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 栃響の演奏会は必ず聴いているかといえば,決してそんなことはない。ぼくのような者にも都合というものはあるし,田舎では滅多にないことなのだが同一日時に複数の演奏会が行われることもある。そういうときに,栃響ではない方の演奏会に行ったこともある。
 ではあるのだが,単純に聴いた回数を数えると,栃響が圧倒的に多い。第1には自分が栃木県に住んでいるからだが,それ以上に,栃響が年2回の定演の他に第九演奏会や特別演奏会など,アマオケとしてはかなりの活動を展開しているからだ。

● その栃響の演奏を聴くのは,しかし,相当に久しぶりだ。ひとえにコロナ禍によるもので,ひとり栃響に限らないはずなのだが,年に数回聴いていたのがバタっと途切れてみると,久しぶり感は相対的に強くなる。
 前回聴いたのは,昨年2月2日の定演だから,1年と4ヶ月ぶりということになる。その間,栃響も対外的な活動は停止を余儀なくされた。停止が解除されたのが今日というわけだ。
 Congratulations と言っていいでしょうね。ワクチン接種も進んでいるんだから,もう昨年のような状況に戻ることはないと思いたいよね。

● 今から考えてみると,この頃(昨年2月)にはすでにコロナウィルスが日本中にはびこっていたかもしれないねぇ。ただ今増殖中って感じだったのかも。
 中国が春節で,移動しまくる中国人を入国させるかどうかで喧しかったけれども,この時点ではもう遅かったのかもしれないよね。

● 開演は14時30分。チケットは1,200円(前売券)。そのチケットに名前と電話番号を書いて,受付で渡す。自分でモギってというんじゃなくて,チケットそのものを渡す。半券が手元に残ることはない。
 曲目は次のとおり。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 ハイドン チェロ協奏曲第1番 ハ長調
 ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調
 古典派をきれいに並べた感じ。積極的選択ではなくて,ステージにあがる団員を絞り(ソーシャルディズタンスの問題),その人数で演奏できる曲目でプログラムを作るとこうなったということ。このあたりの事情はプログラムと一緒に配られた,指揮者の三原明人さんの挨拶文(?)に書かれている。

● 三原さんといえば,彼の指導を受けた複数の市民オケのメンバーが集まって,ミハラシンフォニカなるオーケストラが結成されている。慕われるキャラクターなんでしょうかねぇ。
 こちらもコロナで延期を余儀なくされていたのだが,7月24日に復活開催が決定しているようだ。ベートーヴェンの全曲演奏を終えて,ブラームスに行くらしい。
 さっき,申込みをした。会場の都合で90人しか入れないらしい。聴けるかどうかは,現時点ではわからない。
 ちなみに,「オケ専」では7月25日となっており,会場も別のところになっている。当然,楽団のサイトが正しいのだろう。というか,オケ専って時々こういうことをやっちゃってる感じなんだよね。

● さて,栃響の演奏だ。聴いただけでこれは栃響だとわかる栃響サウンドというものがあるのか。指揮者によってどれほど変わるものなのか。
 演奏の録音を聴いてこれは栃響かどうか当ててみろと言われても,まず当たらないでしょうなぁ。そういう前提でだけれども,栃響サウンドはあると思っている。「魔笛」序曲の冒頭で懐かしさが迫ってきたから。

● ハイドンのチェロ協奏曲のソリストは佐山裕樹さん。先月16日真岡市民交響楽団とのドヴォルザークを聴いているのだが,ひと月足らずで今度はハイドンを聴けたわけだ。
 妙な比喩だが,ドヴォルザークが中字の万年筆なら,ハイドンのこの曲は細字のガラスペンのようだ。キラキラしている。が,ちょっとでも迂闊に扱うとペン先が欠けてしまう。ペンとしての使い勝手は万年筆の方がずっといい。
 栃木県はチェリストの産地で,金子鈴太郎,宮田大,玉川克。他にもいたか。でもって,佐山さんが登場。錚々たるものでしょ。

● ベートーヴェンの5番は,コロナ禍に入ってから,聴く機会が増えたように思う。今年も2月以降は,毎月1回は聴いている。
 多くない人数でも支えられ,かつ客席にインパクトを残せる曲となると,この曲が選ばれやすいのだろう。あるいは,この状況に対する演奏者側の意思表示として選びやすいのでもあるだろう。
 ベートーヴェン生誕250周年である昨年は散々な年になった。合唱の入る「第九」はとりわけ悲惨で,演奏されることがあっても,合唱陣が10数名といったものだったと聞く。今年を1年遅れのベートヴェン・イヤーにするかという巧まざる思惑もあるかもしれない。

● 聴く側にしても,この選定に文句のあろうはずがない。栃響の「運命」は2015年の第99回定演以来。このときも指揮は三原さんだった。
 第4楽章冒頭のカタルシス。ここで感じるカタルシスは,広い意味での追体験だ。
 格闘の結果,地平を突き抜けて頭ひとつ上に登った。視界が一気に広がり,閉塞感が消えた。
 ここでのベートーヴェンは,格闘はするが逡巡はしない。優柔不断のかけらもない。きわめて男性的だ。
 と言ってしまったけれども,これは女性の特性だよね。「女々しい」は「男々しい」と書くべきなのだし,「雄々しい」は「雌々しい」と書くべきなのだよね。

● ともあれ,ここでカタルシスを得て,スッキリとしかし満ち足りた気持ちで帰途につくという段取りになる。
 もちろん,そのカタルシスで何かが変わるわけではない。嫌な上司は嫌な上司のままで,明日はその上司に会わなければならない。その憂鬱さは変わらない。
 けれども,ベートーヴェンの5番を聴くと,一旦は脳内を白紙にできる。この「一旦は」がじつに大きい。ずっと続くのと,ごく短時間でも一旦は遮断できるのとの差は,ぼくに言わせれば無限大だ。

● 音楽を聴くことの効用をそうした下世話なことがらに収斂させてしまうのはいかがなものかと,われながら思うけれども,しかしそうした実利もあることは知っておく方がよい(ほとんどの人は知っているだろうけど)。
 そのために音楽を聴きに行くことは当然あってよいわけだ。芸術性という,いくらでも恣意を潜り込ませることのできるタームで,音楽を語るだけが能ではない。

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