2021年5月31日月曜日

2021.05.16 真岡市民交響楽団 第61回定期演奏会

真岡市民会館 大ホール

● 昨年の3月31日以来の真岡。良く言えば静かでしっとりしていて,落ち着きのある街だ。
 衣食住のほとんどは市内で揃うだろう。何かを買うために宇都宮に出る必要はない。車を運転しない人が,宇都宮に出るにはバスしかないから(片道千円),そもそも出る気にもならないと思うが。
 食の水準が高い。ぼくが想定しているのは飲み屋なのだが,フラッと出かけていって,ここはハズしたと思ったことがない。海なし県の端っこにあるのに(茨城県に隣接するわけだが),旨い刺身を出す。
 あと,旧二宮町ではどういうわけだかガソリンが安い。

● 久しぶり感がだいぶある真岡市民交響楽団の定演。当日券頼みで来てみたのだが,当日券がないなんてことはなかった。
 開演は午後2時。曲目は次のとおり。指揮は佐藤和男さん。
 メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟」
 ドヴォルザーク チェロ協奏曲 ロ短調

● 通常の演奏会の前半部だけで,後半部がない。メイン曲なしの片肺飛行だ。そうではあっても,ともかく開催できた。祝着と言うべきだ。
 このあたりの経緯については,プログラム冊子の団長あいさつでも言及されている。「団員が一堂に会して練習することさえままならず」という,ここのところだ。

● 2011年の東日本大震災では栃木県の東部,鬼怒川の東側,で甚大な被害があった。津波といえば山津波のことだと心得る内陸部のことゆえ,死者はゼロではないという数ですんでいるのだが,物的被害は大きかった。特に,真岡市と高根沢町。
 真岡市民交響楽団のフランチャイズである真岡市民会館も長く閉鎖,復旧工事が行われた。このときに被った痛手も相当なものだったと思うのだが,不自由ながら他のホールを使うことができた。練習も思うようにはできなかったと推測するが,思うようにはできなかったのであって,できなかったのではない。

● ところが,今回は,思うようにではなく,練習ができない。なぜなら,外に出ること,人と会うことをコロナが許さないからだ。
 コロナ禍は宿泊業界や飲食業界には激震になった(現在もなっている)が,その核はコミュニケーションを禁じることにある。したがって,コミュニケーションの場を提供する業種はことごとく打撃を受ける。
 典型的には酒場で語らうことができなくなったわけだが,それだけがコミュニケーションではない。オーケストラが奏でるアンサンブルも奏者同士のコミュニケーション,あるいは奏者と観客とのコミュニケーションだとすれば,そのコミュニケーションもまた許されない。人が人に会うことを許されない以上,そうならざるを得ない。

真岡市民会館
● ありとあらゆるコミュニケーションが封じられることになった。人間は群生動物なのだから,これではフラストレーションが溜まる。ずっと続けば,どこかで破綻せざるを得ないものだ。
 音楽活動をやっているのはコミュニケーション欲求の高い人たちではないかと思う。フラストレーションのたまり具合も並ではなかったかもしれない。

● 唯一の救いは,東日本大震災のときは音楽活動の継続に苦労したのは自分たちだけだったのに対して(栃木県内ではたぶん真岡だけだったろう),今回はどこも同じ目に遭っていることだ。自分たちだけではないと思えることは,けっこう大きいのじゃないか。
 それはそうだとしても,昨年度をそっくり棒に振ってしまったわけだ。何でもそうだけれど,ルーティンを回せていることによって維持できているものが,ぼくらが考えている以上に多いことも,今回のコロナ禍で思い知ったことだ。

● さて,と。演奏会の中身について申しあげれば,ドヴォルザークのチェロ協奏曲は出色。栃木県の小都市でここまでのコンチェルトを聴けちゃうんだからねぇ,何だか不思議な気がする。
 佐山裕樹さんのチェロが素晴らしすぎた。けれども,それだけではここまでの出来栄えにはならないわけで,オケの木管陣(特にフルート)の健闘やティンパニの貢献があったからだ。ティンパニの目盛りの細かい捌きは印象的だった。

● が,それだけでもない。他に何かがある。それをうまく掴めないもどかしさというかモヤモヤ感が残っている。とても気持ちの良い何かなんだけれども,ほら,これですよ,と示せない何ものか。
 技術が卓越しているといったことではないのだ。フルートをとってみても,最善手ではない手を指した局面が複数回あったと思う。けれども,そうしたことを越えて客席に迫ってくる何かがある。

● おそらく,この楽団の性格のようなものだ。それは指揮者やコンミスが作っているのではないと思われる。指揮者やコンミスは替わっても,変わらずそこに残るものだ。
 個々の奏者は入れ替わっているはずだ。が,長く続いている間に降り積もって濃くなった空気のようなものが,人は変わっても場をそのままに存続せしめているような。その空気のような何ものかが,とても好ましいものとして,ぼくの目には映る。

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