2018年12月17日月曜日

2018.12.16 第11回栃木県楽友協会「第九」演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● ベートーヴェンの「第九」は大世界遺産だと思う。凡百の世界遺産が100個束になってかかっても足下にも及ばないほどの,大世界遺産。
 この大世界遺産の素晴らしいところは,CDで好きなだけ聴けることだ。所有できる世界遺産だ。
 しかも,リッピングしてWALKMANやスマホに転送すれば,いつでもどこでも好きなときに聴けるのだ。世界遺産をポケットに入れて持ち歩ける。この一点だけでも,ぼくらは恵まれた時代を生きている。

● 音質が良くなっている。昔日の比ではない。携帯音楽再生プレーヤーのほぼすべてがハイレゾに対応するようになった。たいていのスマホも同様だ。
 普通の圧縮音源でもハイレゾ相当に復元して再生してくれる。イヤホンもノイズキャンセリング機能が標準になりつつある。いやはや。

● 可能ならば音楽は生演奏で聴いた方がいいと思っていた。CDで生演奏並みの迫力を出すのは不可能ではないかもしれないけれども,環境の整備に億のお金を投じる必要があるだろうから,まったく現実的ではないと考えていた。
 が,ハイレゾが普通になってくると,ある程度の割り切りは避けられないものの,録音音源だけで充分かもしれないぞと思うようになった。ややもすると,ライヴ不要論に傾きそうになる。

● 実際のところは,ライヴの醍醐味は音だけではないので,録音音源の視聴環境がどれほど進化しようと,ライブが不要になることはあり得ない。
 そういう前提で,それでも演奏のみを聴ければいいというのであれば,もうWALKMANのみで足りるとぼくは思っている。

● ただし,「第九」に関しては,CDにはひとつだけ不満がある。合唱がちゃんと録音されていない。録音の仕方の問題なのか,合唱の録音がそもそも難しいことなのか,ぼくにはよくわからないが。
 ソリストの声はきちんと入っているのに,合唱がぼけてしまっている。合唱が遠くに感じる。空気を引き裂いて客席に届くあの迫力を,CDで感じることはない。オラトリオやオペラはどうなのだろう。
 だから,「第九」に関しては,ライヴを聴ける機会があったら,逃さない方がいいだろう。

● というわけなんだけども,11月に二度「第九」を聴いている。18日(鹿沼)24日(川崎)。もう今年は「第九」は聴かなくてもいいかとじつは思っていた。今日は栃響の「第九」なんだけども,見送るつもりでいた。
 が,「ライヴを聴ける機会があったら,逃さない方がいい」のだと自分に言い聞かせて,2日前にチケット(1,500円)を買ったのだった。
 結局ね,妙に斜に構えないで,聴けるときに聴いとくものだというのが結論。

● 開演は午後2時。指揮は荻町修さん。
 いつもは県の総合文化センターで開催されるのだけど,総合文化センターは絶賛改修中。だから使えない。ので,この会場(宇都宮市文化会館)になった。おそらく来年も同じではないかと思う。
 総合文化センターに比べると,こちらは収容人員が多い。1階席と2階席は埋まったが,2階の右翼と左翼,3階席には空席が多かった印象。
 といっても,この会場を3階席まで満席にする催事は,ぼくが知る限り2つしかない。ひとつは作新学院吹奏楽部の定期演奏会。もうひとつは,来週開催される宇高・宇女高合同演奏会。いずれも高校生を動員できるという。

● “さすがは栃響”の精緻なアンサンブル。互いの音をよく聴いているし,奏者それぞれが全体の音をイメージできているような気がした。ステージにいて客席の音をイメージするのは,なかなか以上に難しいのではないかと思うのだが。
 それを象徴するのが木管陣で,なかんずくフルートの1番に瞠目。躊躇なく前に出る小気味よさ。最近,小気味いいというのは女性の特性なのだと思うようになった。
 コンマスを別にすれば,最もしなやかさを感じさせたのが,彼女のフルート。が,彼女は最も目立ったものの,一例にすぎない。

● 栃響の「第九」では,2012年(第5回)の神がかったような演奏を忘れることができない。その再現はしかし,難しいようだ。
 “北京で蝶が羽ばたくとニューヨークでハリケーンが起こる”的な複雑系に属する出来事なのだろう。複雑系の回路はブラックボックスだ。初期値がわずかに違うのだと思うが,その初期値を解明することなど,誰にもできない。

● チェロとコントラバスが“歓喜の主題”を静かに奏し始め,これがヴィオラ,ヴァイオリンに渡され、ついには管弦楽全体が壮大に歌いあげる。ここが第4楽章の白眉。
 苦悩と戦って歓喜に至るという場合,これで充分じゃないかと思う。これ以外,何があるというのか。これで“歓喜”は表現され尽くしたではないか,とぼくなんぞは思ってしまう。
 が,ベートーヴェンはそれすら捨て去り,さらに前に進んでいく。前人未踏の境地に分け入るとはこういうことだ(いや,ここまでの道のりも前人未踏だったわけだが)。

● 超人だと思う。天才の技という段ではない。天才もしょせんは人だ。が,ここにおけるベートーヴェンの所為はもはや人為を超えている。
 これほどの捨て身の跳躍は,音楽以外の分野を含めて,ぼくは他に知らない。「第九」が大世界遺産であると思う所以だ。

● これほどの壮大なドラマ(もしこれをドラマというならば,であるが)は,やはり良い演奏で聴きたいものだ。
 ベートーヴェンが残した,奏者のことをほとんど考えていないと思われる楽譜。そのとおりになぞどうやったって演奏できるわけがないじゃないか,と言いたくなる箇所がいくつもある楽譜。
 その楽譜を,ベートーヴェンの意を汲んで,精緻な演奏で表現しきることができるオーケストラが,そんなにたくさんあるとは思えない。栃木県ではひとり栃響のみと断言する勇気はぼくにはないけれども,ここまでの水準で「第九」を差し出してもらえれば,神がかってはいないとしても,まずもって文句はない。小さな事故は不問に付されて当然だ。

● ともあれ,栃響の「第九」が終わると,今年も暮れる。暮れたところで,今はまだ“来年”と呼ばれている“今年”がやってくるだけなんだけどね。
 といったあたりが,凡人が考えるせいぜいのところなのだ。凡人とベートーヴェンとの違いは,保育園の砂場の砂山とエベレストほどの違いであるだろう。

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