● 中川右介『第九』(幻冬舎新書)の冒頭に次の章句が紹介されている。
第九交響曲を毎年何度もよくない演奏で聴くよりは,十年に一度よい演奏を聴いたほうが,はるかに有意義である。 フェリックス・ワインガルトナー滋味掬すべき言葉であるように思われる。第一,気がきいている。これに正面切って反論するのは難しい。
明日も生きていられるなんて保障はどこにもない。この局面では刹那主義を採用するのがよいように思う。聴けるときに聴ける演奏を聴いておけ,ということ。
● この時期に日本国内のそちこちで演奏されている「第九」は「よくない演奏」にあたるのかもしれない。
それでは「よい演奏」とはベルリン・フィルとかウィーン・フィルの演奏になるのかという話だけれども,極東の日本にいてそれを待つわけにはいかないではないか。
● ぼくの手元には「第九」のCDが5枚ある。フルトヴェングラー,カラヤン,バーンスタイン,小澤征爾,佐渡裕のものだ。もっぱら聴くのはカラヤン(1979年の普門館でのライヴ録音)。
今回の演奏は栃木県交響楽団だけれども,カラヤンのCDと栃響のライヴ,どちらがいいか。ぼく的には検討の余地がない。
CDの方がいいよと言う人がいるに違いないとも思う。皮肉でも何でもなく,そういう人をぼくは尊敬する。
● ともあれ。この演奏会,今回が5回目になる。節目だからってことなんだろう,指揮者とソリストを外部から招聘することにしたようだ。前回まではいわば内部調達だったんだけど。
指揮者は井崎正浩さん。ソリストはソプラノが大貫裕子さん,メゾソプラノが小野和歌子さん,バリトンが寺田功治さん。いずれも,コンセール・マロニエの優勝者。テノールだけは予定されていた小貫岩夫さんの都合が悪くなったようで,ピンチヒッターに菊川裕一さん。
それでもチケットは据え置きの1,500円。開演は午後2時。
● 早めに並んで1階の左翼席に。今回もほぼ満席。ただし,豪華キャストにもかかわらず,1階の最前列と上階席の奥の方には空きがあった。一昨年(昨年は聴きそびれているもので)よりは座席に余裕があった感じ。「第九」人気に衰えなしと言っていいのかどうか。
● それでも客席には熱気が充満。そちこちから黄色い声のお喋りが聞こえてくる。コンサートのお客さんは女性が多い。
コンサートホールに足を運ぶ人が文化的な暮らし(どんな暮らしだ?)をしているとは限らないし(自分を顧みればすぐにわかる),ミーハーもそれなりにいると思うんだけど,それでも女性の方が男性より彩りのある生活をしていることは認めるしかない。
なぜかといえば,理由はひじょうに単純だ。男より女の方が欲張りだからだ。衣食住遊学のすべてにおいて女性の方が貪欲。欲望に忠実で,諦めることを知らない。向上心が強くて,生きることにしぶとい。とんでもない高みにわが身を置こうとする。そのくせ,地に足が着いているのだから,これは何とも素晴らしい。
● じつに,今の日本は(日本に限らないのかもしれないが)女性でもっている。それはしばしば感じることだ。元気がいいし,明るいし,行動力がある。しょぼくれていない。それに,日本の女性はほんとにきれいになった。
何よりいいと思うのは,机上の空論的な理知を生理的に受け付けないと見受けられるところだ。実利に聡いところだ。
まぁね,内面はギラギラしているのに,そんなことはないわよという外見を作ることにこだわるとか,幸せごっこの演出に余念がないとか,そういうところを見せられると,ちょっとなぁと思うことはあるんだけどね。でもさ,それをちょっとなぁと思うのが,男のダメなところかもしれなくてさ。
● それと年寄り。元気だねぇ。お金も持ってるんだろうねぇ。彼らを見ていると,加齢と賢さや品格は関係ないなと思ったりもするんだけどね。
経験は人を賢くはしないものだ。経験が無意味なんじゃない。人の経験は,ごくごく限られた範囲のものでしかないからだ。限られたパターンを何千回,何万回と繰り返してきたに過ぎないからだ。バラエティーに乏しいのだ。そこから外れたものに対しては無知蒙昧なままなのだ。しかも,あるパターンの経験知を他分野に応用するなんてのは失敗の元でしかない,という厄介な現実もある。
経験の総体は海ほどもあるのに,人の一生なんて海からバケツに一杯の水をすくうようなもの。バケツ一杯の水でもって海を論じがちなのが,年寄りの通弊だな。っていうか,それが人ってものでしょうね。ぼくもそうだ。
● とはいえ,彼らがいてくれるからこそ,コンサートそのものが成立しているのは間違いない。どうぞ,いついつまでもお元気で。
でもね,ここでも爺さんより婆さんだよね。婆さんたちは明日から見も知らぬ外国に放りだされても,持ち前の無手勝流で間違いなく生きていけるだろう。爺さんたちじゃ,そうはいかない。
● 露払いは今回も,J.シュトラウスの喜歌劇「こうもり」序曲。続いて「第九」。
「こうもり」が始まったところで,エッと思いましたね。何に? 管弦楽にです。栃響の演奏でこの曲を聴くのは,これが3回目になるんだけども,過去の2回とは違っていたような。
栃響ってこんなに巧かったか。抑えるべきところできちんと抑制が効いている。これが効いてくると,全体が気品に満ちる。
「第九」になってから,いよいよその印象が強くなった。
● オーボエの1番,フルートの1番,クラリネットの1番,ティンパニ。じつにどうも匠の技。すべて女性奏者なんだけれども,栃響もまた女性団員でもっているのか。
「こうもり」でのピッコロの響きも心地よかった。それとヴィオラ。前からこういう演奏をしてたんだっけ?
● ぼくの勘違いならぬ「耳違い」かもしれない。けれども,狐につままれたような感じで最後まで聴いてましたね。
っていうか,終演後もボーッとしてて,しばらく立てなかった。
● ぼくの「耳違い」じゃないとすれば,その功績は指揮者の井崎さんに帰せられるべきもの。しかし,井崎さんが栃響を指揮するのは今回が初めてではない。直近では昨年2月の定演でも振っている。そのときは今回のような演奏はしていなかったと思うのだが。
栃木には栃響をはじめいくつものアマチュアオーケストラがあるわけだが,その中で栃響が図抜けた存在だと思ったことはない。のだが。うーん・・・・・・,来年2月の定演まで判断保留。
● 第2楽章が終わったところで合唱団と4人のソリストが登場。プログラムによれば,合唱団は総勢179名。詰め襟学生服の高校生もまとまった数で登壇。宇都宮高校と宇都宮女子高校の合唱部も参加したらしい。
これだけの数になると,さすがに迫力がある。ありすぎた。
● ちなみに,宇都宮で開催されるもうひとつの「第九」(日フィル)は,指揮者が西本智実さんであることから,チケット入手は最初から諦めていた。実際,数日間で完売になったらしい。
負け惜しみを言わせてもらえば,西本さんめあてで集まるような人たちと一緒に「第九」を聴くのは,あまりゾッとしない。
というと,なに様のつもりだ,おまえ,ってことになるんだけど,負け惜しみですから。本当は行きたかったんですから。
なぜかといえば,理由はひじょうに単純だ。男より女の方が欲張りだからだ。衣食住遊学のすべてにおいて女性の方が貪欲。欲望に忠実で,諦めることを知らない。向上心が強くて,生きることにしぶとい。とんでもない高みにわが身を置こうとする。そのくせ,地に足が着いているのだから,これは何とも素晴らしい。
● じつに,今の日本は(日本に限らないのかもしれないが)女性でもっている。それはしばしば感じることだ。元気がいいし,明るいし,行動力がある。しょぼくれていない。それに,日本の女性はほんとにきれいになった。
何よりいいと思うのは,机上の空論的な理知を生理的に受け付けないと見受けられるところだ。実利に聡いところだ。
まぁね,内面はギラギラしているのに,そんなことはないわよという外見を作ることにこだわるとか,幸せごっこの演出に余念がないとか,そういうところを見せられると,ちょっとなぁと思うことはあるんだけどね。でもさ,それをちょっとなぁと思うのが,男のダメなところかもしれなくてさ。
● それと年寄り。元気だねぇ。お金も持ってるんだろうねぇ。彼らを見ていると,加齢と賢さや品格は関係ないなと思ったりもするんだけどね。
経験は人を賢くはしないものだ。経験が無意味なんじゃない。人の経験は,ごくごく限られた範囲のものでしかないからだ。限られたパターンを何千回,何万回と繰り返してきたに過ぎないからだ。バラエティーに乏しいのだ。そこから外れたものに対しては無知蒙昧なままなのだ。しかも,あるパターンの経験知を他分野に応用するなんてのは失敗の元でしかない,という厄介な現実もある。
経験の総体は海ほどもあるのに,人の一生なんて海からバケツに一杯の水をすくうようなもの。バケツ一杯の水でもって海を論じがちなのが,年寄りの通弊だな。っていうか,それが人ってものでしょうね。ぼくもそうだ。
● とはいえ,彼らがいてくれるからこそ,コンサートそのものが成立しているのは間違いない。どうぞ,いついつまでもお元気で。
でもね,ここでも爺さんより婆さんだよね。婆さんたちは明日から見も知らぬ外国に放りだされても,持ち前の無手勝流で間違いなく生きていけるだろう。爺さんたちじゃ,そうはいかない。
● 露払いは今回も,J.シュトラウスの喜歌劇「こうもり」序曲。続いて「第九」。
「こうもり」が始まったところで,エッと思いましたね。何に? 管弦楽にです。栃響の演奏でこの曲を聴くのは,これが3回目になるんだけども,過去の2回とは違っていたような。
栃響ってこんなに巧かったか。抑えるべきところできちんと抑制が効いている。これが効いてくると,全体が気品に満ちる。
「第九」になってから,いよいよその印象が強くなった。
● オーボエの1番,フルートの1番,クラリネットの1番,ティンパニ。じつにどうも匠の技。すべて女性奏者なんだけれども,栃響もまた女性団員でもっているのか。
● ぼくの勘違いならぬ「耳違い」かもしれない。けれども,狐につままれたような感じで最後まで聴いてましたね。
っていうか,終演後もボーッとしてて,しばらく立てなかった。
● ぼくの「耳違い」じゃないとすれば,その功績は指揮者の井崎さんに帰せられるべきもの。しかし,井崎さんが栃響を指揮するのは今回が初めてではない。直近では昨年2月の定演でも振っている。そのときは今回のような演奏はしていなかったと思うのだが。
栃木には栃響をはじめいくつものアマチュアオーケストラがあるわけだが,その中で栃響が図抜けた存在だと思ったことはない。のだが。うーん・・・・・・,来年2月の定演まで判断保留。
● 第2楽章が終わったところで合唱団と4人のソリストが登場。プログラムによれば,合唱団は総勢179名。詰め襟学生服の高校生もまとまった数で登壇。宇都宮高校と宇都宮女子高校の合唱部も参加したらしい。
これだけの数になると,さすがに迫力がある。ありすぎた。
● ちなみに,宇都宮で開催されるもうひとつの「第九」(日フィル)は,指揮者が西本智実さんであることから,チケット入手は最初から諦めていた。実際,数日間で完売になったらしい。
負け惜しみを言わせてもらえば,西本さんめあてで集まるような人たちと一緒に「第九」を聴くのは,あまりゾッとしない。
というと,なに様のつもりだ,おまえ,ってことになるんだけど,負け惜しみですから。本当は行きたかったんですから。
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