2019年2月22日金曜日

2019.02.17 合奏団ZERO 第22回定期演奏会

なかのZERO 大ホール

● 2週間前に来たばかりの中野駅にまた降り立った。なぜか懐かしさを感じさせる雑踏。
 といって,他のところには用がない。まっすぐ“なかのZERO”に向かうだけだ。駅前の「中野屋」で蕎麦を食べるのを忘れてはいけないけれど。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。
 曲目は次のとおり。指揮は松岡究さん。
 R.シュトラウス 四つの最後の歌
 エルガー 交響曲第1番

● R.シュトラウスの「四つの最後の歌」を聴くのは今回が2度目。1度目もこの合奏団の演奏で聴いたのだった。5年前になる。
 そのときのソリスト(ソプラノ)は松尾香世子さん。今回は松尾祐実菜さん。同じ松尾で,姉妹なのかと思ったんだけど,同一人物なんでした。

● 1度目のときもそうだったんだけど,常任指揮者の松岡究さんが,プログラム冊子の“あいさつ”で,「四つの最後の歌」について熱く語っている。
 演奏曲目の選定については,松岡さんがイニシアティブを持っているんだろうか。

● エルガーは「威風堂々」と「愛の挨拶」くらいしか知らないわけだが,交響曲1番は思いのほかの大曲なのだった。CDで聴くのもシンドそうだ。
 長いというだけではなく,演奏するのも難しそうだ。並のアマオケでは手が出ないかもしれない。

● しかし,聴いてしまったよ,この曲をね。でもって,手元にはエルガーの全集版CDがあるのだ。当然,この曲も入っている。
 聴かなければなるまいねぇ。債務(?)がどんどん増える一方だ。

2019.02.16 Orchestra HAL 第17回定期演奏会

杉並公会堂 大ホール

● オーケストラHALの定演。今回が2回目の拝聴になる。前回は2012年の第4回定演だった。だいぶ間があいてしまったけれども,やっと裏を返すことができた。
 前回の印象をひと言でいえば,若い奏者による確かな演奏というもの。このあたりは好みの問題になるだろうけれども,成長するだけ成長して,そこから先のいわゆる円熟の境地に至った演奏に,ぼくはあまり惹かれなくて。
 伸びているときの勢いのある演奏に魅力を感じる。だから,中学生や高校生の演奏を聴くのも好きだ。技術よりも勢い。将来どこまで到達できるかではなくて,現在進行形の勢いに惹かれる。

● にしても,間が空きすぎた。特別な理由はない。結果的にそうなったというだけだ。にしても,空きすぎたわけだが。
 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。
 ただし,チラシを持参すれば無料にするとか,招待券とか,実質無料といっていい。そうしているアマチュア・オーケストラは多い。
 集客のためだと思う。実際,その効果はあって,客席はほぼ満席だった。第4回のときとは様変わり。

● が,ぼく一個は,そこまでへりくだってはいけないと思っている。“聴いていただく”一辺倒ではなく,どこかに“聴かせてやる”が混入しているべきだ。
 “聴かせてやる”のに無料はあり得ない。300円でも500円でも取るべきだ。徴収の手間が大変で,いっそ無料にした方がCPがいいのかもしれないが,それでも取るべきだ。

● 中には,無料にしたうえで,寄付を募るというやり方をしているところもある。それもダメだ。
 自分の作品には自分で値付けをするべきだ。それをしないで,どれほどの価値があったのか(あるいは,なかったのか)を観客に決めてもらおうというのは,本末を転倒している。
 稀に,これで金を取ってはいかんだろうと思える演奏に遭遇することもある。その場合だけは別だ。

● 曲目は次のとおり。指揮は石毛保彦さん。
 ワーグナー 「タンホイザー」序曲
 リスト 交響詩「レ・プレリュード」
 ブラームス 交響曲第3番

● 衒いのない演奏。変化球を繰りだすことには興味がないようだ。これを愚直ともいうのだが,愚直に何事かを付加するのはいいとして,愚直さそのものをなくしてしまっては,人間もオーケストラも一巻の終わり。
 その愚直さが好印象につながる。もっとも,変化球を繰りだすなんて,怖くてできないかもしれないが。

● 特に印象に残ったのは,ブラ3の第4楽章。切先が鋭い。活きがいい。良い意味で生意気な演奏だ。攻めに行っているから,“生意気”に映るわけで。
 そこが若い楽団の魅力の最たるもの。こうでなくちゃと思う。

● 2週間前にも同じ曲を聴いている。曲は同じでも演奏は別。聴くというときに,それは演奏を聴くのか曲を聴くのか。
 二にして一で,両者を切り分けることはできないのかもしれないが,演奏を通じて曲に至るとした場合,演奏に左右されない聴き手が聴き巧者となりそうだ。想像力を利かせられる人。
 一方で,その想像力をどう喚起するかは,演奏が左右する。喚起の仕方が多様であるのが良い演奏ということか。このあたりは,頭だけで考えると袋小路に入ってしまいそうだ。

● 「醜女は3日で慣れるが,美人は3日で飽きる」という言い方がある。これから結婚しようとする若い男(最近は,若くもない例が増えているが)に与える警句だ。
 醜といい美といっても,それは顔の造作ではなく表情で決まるものだ。笑顔なら誰でも美人だ。表情の変化の様,その多彩さがすべてなのであって,生まれつきの造作はまったく本質ではない。
 しかるに,若い男は面白いほどに女の造作に囚われがちだ。ゆえに,上の警句は有効性を持つ。

● のであるが,それは音楽にはあてはまらない。美人は永遠に美人であって,3日どころか,3年経っても30年経っても,飽きることは(おそらく)ない。ブラームスの交響曲に飽きることがあり得ようか。
 なぜ,音楽においては永遠なのか。誰か教えてくれないか。ただし,長い歳月を経て古典として残っているものだから,なんぞという薄っぺらな回答なら要らないぞ。

2019年2月5日火曜日

2019.02.03 栃木県交響楽団 第106回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,200円(前売券)。
 お客さんはよく入っている。客席が埋まるのはけっこうなことだが,行列に並ばなくてはならないのは億劫だ。
 以前からそうだったから行列に並ぶのには慣れている。慣れてはいるんだけれども,並ぶことの億劫さが年齢とともに増してきた。

● 曲目は次のとおり。指揮は地元出身の小森康弘さん。
 エロール 歌劇「ザンパ」序曲
 サン=サーンス ピアノ協奏曲第2番 ト短調
 ドビュッシー 交響詩「海」
 ラヴェル ボレロ

● 今回のおめあては「ボレロ」。この曲を生で聴くのは二度目。2016年の7月に,スペイン国立管弦楽団の演奏を栃木県総合文化センターで聴いた。
 延々と繰り返される旋律が次第に大きくなって,それが聴衆を呑みこむ。ホール全体をも呑みこんで,世界のすべてになっていく。それがもたらす陶酔感が半端ない。その陶酔感をまた味わいたいと思ったのだった。

● 小太鼓がリズムを刻み,管が絡んでメロディを奏でる。が、待ちのある弦の奏者も神経を消耗するのではないか。出方がわずかでも狂えば,この曲は台なしになる。最も消耗するのは指揮者かもしれぬ。奏者にとっては厳しい曲かと思う。
 が,それゆえにこそ,聴衆にとってはめっぽう面白い。奏者と聴衆の利害は,表層的には対立するのだ。

● が,今回の収穫の第一は,サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番だったか。天才の非常なる早書きでできあがった曲らしい。3楽章に分かれてはいるものの,ピアノも管弦楽も一気呵成に駆け抜ける。駆け抜けた後に残る余韻。
 第1にはソリスト(渚智佳さん)の力量と構えによる。しかし,特に第3楽章における栃響の応接はほぼ完璧だったのではないか。つまり,第2には栃響管弦楽の水準の高さによる。

● ぼくらは(いや,ぼくは,と言い直そうか),地元にあるそれやこれやを見くびりがちだ。地元にあるということは,すなわち,大したものではないという。
 栃響にもその法則(?)をあてはめてしまいがちだ。とんでもない話であって,このオーケストラのレベルの高さは,もっと称揚されて然るべきだろう。

● チェロ協奏曲は昨日も聴いたし,これまで何度か聴く機会があった。が,ピアノ協奏曲となると,2番に限らず,生で聴いた記憶はない。この先もおそらくないんじゃないかと思う。
 が,この演奏を聴いたあとでは,それでもいいかなと思える。CDはあるんだから,CDを聴けばいいのだ。

● エロールという作曲家がいたことは,今日知った。Wikipediaによれば,代表作の「ザンパ」は「フランスとドイツで非常に人気があり,両国では今なお随時舞台化される」ものであるらしい。
 ぼくは名前も知らなかったくらいだから,CDも持っていない。YouTubeで聴くことはもちろんできる。それでよしとするか。

2019年2月4日月曜日

2019.02.02 東京セラフィックオーケストラ‏ 第14回定期演奏会

なかのZERO 大ホール

● この楽団の演奏を聴くのは今回が初めてだ。なぜ聴く気になったのかというと,非常に下世話な理由だ。
 今夜,東京のホテルに泊まることにした。せっかく東京に出るんだから,行きがけの駄賃がないかと“オケ専”を探した。ら,さすがは東京で,いくつか引っかかった。その中からこれを選んだのは,曲目の魅力。
 いや,じつをいうと,先月聴いたJR東日本交響楽団の演奏会で,今回のチラシが配られたので,一応,目星は付けていたわけなんでした。

● なかのZEROは今日が初めてではない。何度か来ている。久しぶりに中野に行くのもいいなと思ったせいもある。
 中野って新宿の隣なのに,新宿とはガラッと様相を変える。下町的な雑踏がある。そういうの,嫌いじゃないので。中野駅からなかのZEROまでの短い距離を歩くだけで,その下町情緒(?)をタップリと味わうことができる。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。
 曲目は次のとおり。指揮は横島勝人さん。
 ベートーヴェン 献堂式序曲
 サン=サーンス チェロ協奏曲第1番
 ブラームス 交響曲第3番

● ベートーヴェンの序曲の中で,「コリオラン」や「レオノーレ」は聴く機会が多いけれども,「献堂式」を聴くのは,ひょっとしたら今回が初めてかもしれない。
 ぼくに語れることはあまりない。CDは複数持っているので,せいぜい聴いていかないとということ。

● 協奏曲というと,ぼくの頭にあるのはモーツァルトであって,特に最晩年のクラリネット協奏曲だ。この世のものとは思えない,清冽で気高さを感じさせる管弦の音の連なり。
 モーツァルトの協奏曲は管弦楽が主役で,独奏楽器を抜いてしまっても,基調はそのままでかなりの部分が残るような印象がある。ぼくは長らく,協奏曲とはそういうものだと思っていたのだ。

● ところが,サン=サーンスのチェロ協奏曲においては,管弦楽は後ろに退く感がある。独奏チェロが骨格を描いていく。
 その独奏チェロ,今回は飯尾久香さん。軽快な印象を受けた。重厚さはこれを排す,的な。したがって,曲全体の印象も同じようなものになる。

● ブラームスの4つの交響曲の中で,3番は比較的演奏される機会が少ない。といっても,そこはブラームスだから,それなりに馴染みはあるわけだが。
 ブラームスと古典的なソナタ形式は相性がいいのか,それとも反発するのか。そんなことを考えながら聴いていた。ベートーヴェンの後継者であり,ロマン派の中で古典派の枠組みを維持しようとした人というイメージがあったんだけど(ワーグナーとの対立が強調されたりするし),どうなんだろうね。

● 東京には限りなくプロに近い演奏をするアマオケがいくつかあると思うんだけど,演奏者の層の厚さは,地方とは隔絶している。一極集中の良し悪しを言ってみても仕方がないが(っていうか,ぼくは一極集中を望ましいものと考えているのだが),あきれるほどの東京一極集中。
 この楽団は“限りなくプロに近い演奏をするアマオケ”ではないと思うけれども,それにしても,ここまでの厚みでブラ3を造形できるんだから,何だか凄いよね,東京って。

2019年1月31日木曜日

2019.01.14 モーツァルト後期弦楽四重奏曲ツィクルス 2/2

豊洲シビックセンター ホール

● クラシック音楽を生で聴くという場合,どうしてもオーケストラが多くなる。視覚的にも華があるし,掴みどころがたくさんあるから,どうにかこうにか感想らしきものを持つことができるからだ。
 指揮者がどうの,ヴァイオリンがどうの,曲の作り方がどうのこうのと,まぁまぁ,素人なりの感想を持つことができる。

● しかし,オーケストラを聴いているだけでいいのか。独奏曲や室内楽曲も聴かなきゃダメじゃん,とか思うことは思っているのだ。
 ただし,こうした編成の小さい曲というのは,聴く側も試されるところがあって,なかなかに敷居が高い。遊べないというか,管弦楽曲を聴いているときよりももっと集中を要求されるというか。

● とりわけ,弦楽四重奏曲だ。ベートーヴェンだって,交響曲はもういいから,16ある弦楽四重奏曲を聴いてみるべきではないか。ぼくでもCDは用意してある(名盤趣味はないので,世に出ているCDならどれでもいいと思っている)。聴こうと思えばいつでも聴ける。
 っていうか,何度かは聴いてもいる。のだけれども,交響曲を聴く回数に比べたら,圧倒的に少ない。

● かくてはならじというわけで,その世界に踏み込めるようになるきっかけは逃さないようにしたい。CDがきっかけになることはあまりないと思うので,生で聴ける機会をできるだけ捉えていくようにしたい。
 地方にいるとなかなかその機会がない。というのは,ためにする言い訳であって,じつはそうでもない。けっこうあるのだ。が,スルーしてしまうのだ。なぜなら敷居が高いから・・・・・・という循環だ。
 その循環から抜けださないといけないわけなんだが。

● で,今日はたまたまこの演奏会を見つけたので,やってきたわけだ。モーツァルトの弦楽四重奏曲のうち,ハイドン・セットと呼ばれる6曲(第14番~19番)を続けて演奏する。
 ところで,この演奏会の主催者は誰なのか,プログラムにも詳しい紹介はない(なくてもいいのだが)。ネットをググってみると,「異素材コラボレーション(室内楽)」という名称の任意団体があって,「アマチュアでの室内楽,特に「弦楽四重奏曲」の向上,普及を目指しているプロジェクトです。コンサートごとに「テーマの作曲家」を決め,その作曲家の作品を3~6曲マラソン形式&対バン形式で,年に数回,不定期に開催しています」とあった。「異素材コラボレーション(室内楽)」というのは,そのプロジェクトを指す名称なのかもしれない。

● 今回も,一人で来ている男性の高年者が増えたなという印象を持った。自分もその一人であるゆえに,これはけっこうなことだとまずは思うんだけども,彼らの中には,演奏が始まるやいなや寝る体勢に入る者がいる。
 さすがに,何しに来たんだ,おまえ,と言いたくなる。何しにって,寝に来たんだよ,というのは,回答として成立する。が,だったら前に行くな,後ろの方が寝やすいだろ,と言いたいやね。

● 中学生だった頃,音楽の授業でレコード鑑賞になると決まって寝るやつがいた。当時,わが家にはステレオもレコードプレーヤーもなかったから,機械を見る楽しみもあって,ぼくは寝ないで過ごしていたんだけど,寝るやつの気持ちは理解できた。
 しかし,だ。さすがにこの年齢になれば,中学生の延長ではすまないぞ。しかも,学校の授業はこちらの都合や体調にお構いなく,向こうからドカドカとやってくるものだが,コンサートはそうじゃない。こちらから出かけていくのだ。

● と言ったうえでの話になるんだけども,弦楽四重奏曲は入眠剤として大変優れた効果を持つものだ。そこがつまり,“聴く側も試される”というところで,ここで神経が静かに興奮するかどうかなんだよね。
 では,そういうおまえはどうだったのだ? 3時間半の演奏になった。この間ずっと聴く態勢を持続することは,ぼくにはできなかった。しょうがないと思う。

● 全6曲のうち,4番目に登場したユニットが,最も印象に残った。男性の1st.Vnがほど良く引っぱっていた感じ。グイグイではなくて。
 総体としてバランスが良いと感じた。あんまりバランスが良すぎると,伸びしろがないという印象にもなるんだけど。

● 次は2月にハイドンを取りあげるらしい。耳に覚えのある人は出かけるとよいと思う。
 ただし,その日は同じ会場の大ホールで「第九」が演奏される。初心者(?)は「第九」に行っちゃうよね。ぼくも行くとすれば,たぶんそっちだ。

2019年1月15日火曜日

2019.01.13 港北区民交響楽団 第63回定期演奏会

横浜みなとみらいホール 大ホール

● この楽団の演奏を聴くのは,今回が初めて。開演は14時。入場無料。
 ただし,演奏会のチラシ(コピーでも可。スマホにダウンロードしたものでもよい)を見せることが条件とある。何故あってと思わぬでもない。
 ぼくはスマホにチラシ画像をダウンロードしておいたが,会場でチラシを配っていた。それをもらって受付で見せた。

● 曲目は次のとおり。指揮は冨平恭平さん。
 シューベルト 「ロザムンデ」序曲
 ブルックナー 交響曲第7番 ホ長調(ハース版)

● ブルックナーの「版」問題については,ぼくはもう追うのを諦めている。曲によっては原典版が複数あったりするのじゃないか。
 そんなこと(自作の書き直し)をしなければ,ブルックナーはもっと多くの交響曲を作曲できていたのではないかという意見がある。そうなのだろうと思う。そうなっていれば,今のぼくらが享受できる楽曲がもっと増えていたことになる。
 が,そういうことを言いだしてしまうと,バッハやシューベルトが作った曲の中に,失われてしまったものがどれほどあるかを嘆く方が先ではないかってことになる。

● 登場した楽員を見ての第一印象は,平均年齢が高いということ。年齢のバラツキが大きいと言った方がいいのか。
 仕事をしながら,あるいは家庭を持ちながら,楽器も続けて,年に1回か2回,ステージに立って交響曲や協奏曲を演奏して,聴衆に披露する。ということを,しかし,50歳になっても60歳になっても続ける人はそんなに多くはないようだ。
 この楽団にはその多くはない人たちがけっこうな数,いる。続けやすい雰囲気があるんだろうか。

● で,その演奏を聴きながら思った。音を奏でるのが好きな人たちがこんなにいるのかということ。何か奇妙な感慨のようなものが湧いてきた。
 首都圏に限った話ではあるのだけれど,いくつあるのか数える気にもならないほどに多くのアマチュアオーケストラが存在する。それほどに音を奏でるのが好きな人たちが多いのだという,奇妙な感慨。
 そのおかげで,生の演奏に接することができるのだ。それが原点だった。その演奏に対して偉そうに何かを語るのは,ぼくの役柄ではなかった。

● 有料にすると客足が落ちると考えているのだろうか。1,000円とか1,500円とか取ってもいいような気がしたが。手間が増えるほどの見返りはないんだろうか。
 オケ専のような告知サイトを見て,入場無料となっていると,技術はイマイチなのかと勘ぐってしまう向きもあると思うのだが。

● でね,第3楽章におけるティンパニは特に見応えがあったぞ。場所的に目立つのでね。思いっきり演技(?)のしがいがある位置だよなぁ。
 だったら,はじけないとウソだ。見せつけないとね。

● ブルックナーの演奏前に冨平さんの解説があった。嫌われる作曲家のアンケートを採ると,トップに君臨するのがブルックナーで,なぜ嫌われるのかといえば,理由は3つあるという話。
 第1に長い。第2に目立つメロディーがない。第3に物語性がない。第3に関しては,ブルックナーが亡くなったときに本は1冊もなかったらしく,曲に物語を与えることなどハナから考えていなかったというのだが,このエピソードは本当なんだろうか。

● 一方で,ブルックナー・フリークもいる。非常に数は少ないだろうけれども,ベートーヴェンが嫌いだという人もいるだろう(モーツァルトが嫌いな人は,たぶん,いないだろうけど)。
 長いからイヤだといっても,マーラーはOKな人もいるはずだ。なかなかに厄介だ。ロマン派以降の作曲家はとかく好き嫌いが大きくなる。
 おまえはどうなのだと言われると,嫌いな作曲家はいないというのが答え。モーツァルトとベートーヴェンとブラームスがいれば他はいなくてもいいかな,と思うことは時々あるけど。

2019.01.05 JR東日本交響楽団 第27回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 今年の聴き初めはこの楽団の定期演奏会になった。2011年以来,3回目の拝聴になる。
 今日は東京のロイヤルパークホテルに泊まる。ので,ならば東京でやっている演奏会はないかと“オケ専”の“演奏会カレンダー”を確認したところ,これを発見したというわけだった。
 錦糸町からなら地下鉄1本でホテルに入れるから好都合だ。という,不純な動機で出かけたもの。ぶっちゃけ,偶然というか。

● 開演は13時30分開演。入場無料。
 ただし,整理券が必要だとある。当日,残席があれば12時から会場で配布するとあった。ので,12時前に開場着。無事,整理券をゲット。
 それをするなら有料のチケット制にしてしまえばいいのにとも思うんだけど,そのあたりはいろんな事情があるに違いない。運営側が最善解を求めて試行錯誤しているのだろう。

● 曲目は次のとおり。指揮は小泉智彦さん。
 ムソルグスキー 交響詩「禿山の一夜」
 ベートーヴェン 交響曲第8番 ヘ長調
 ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 ニ短調
 呆れるほどの超ヘビー級。あまり無理するなと言いたくなった。

● それにこうも思う。まだ松の内が明けていないのに,コンサートをやるというのは,正月をつぶすということでもあるだろう。そこまでせんでも,という。
 実際のところは,松の内などという概念(?)はとっくに過去のものになっているだろうし,正月は休むものというのもどこの国の話だとなっている。コンビニのすべてとスーパーのほとんどは,元日だって休まないのだから。
 それより何より,JRは凡盆も正月も無関係な事業体だ。というより,この時期はかき入れ時だ。 
 だから,「そこまでせんでも」というのは,かなり時代がかった感想なのではある。

● 大晦日に「ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会2018」を聴いていて,さすがにその印象がまだ冷めやらない。
 比較するものではないし,比較してはいけないものだ,ということはわかっている。わかっているんだけれども,脳が勝手に対比する作業を始めてしまう。

● 逆に,ショスタコーヴィチは比較対象がないので没入することができた。
 何が言いたいのかというと,前に聴いた演奏会は速やかに忘れるべし。

● 場内はほぼ満席に近い状態。休憩時間に他のお客さんの話を聞いていたら,今日はここの他には葛飾でチャイコフスキーの演奏会があるだけらしかった。
 本当にその2つだけなのかどうかは知らないけれども,クラシック音楽なら何でもいいから聴きたいというお客さんがドッと集まった,ということはあるのかもしれない。

● で,客席を見ていて,最近感じることがある。こういうのって若よりも老が多いのは人口構成と身辺状況の然らしめるところだとしても,老の中の男女比に変化が見られる。つまり,男性が増えてきたような気がする。
 ひとりで来ている爺さんが多くなった。ぼくもその中のひとりなのだけども,その理由を測りかねている。

● コンサートにしろ観劇にしろ,外に出るのはもっぱら女性だと決めつけていたんだけどねぇ。男性も外に出るようになってきたんだろうかねぇ。
 オーケストラの演奏は,その契機として恰好なのだろうか。座っていればいいんだから。音が勝手に客席に飛びこんでくるんだから。文化・教養なるものに触れているという満足感もそこそこ与えてくれるだろう。

● しかも,日本はアマチュアオーケストラが多いから,無料か安い料金で生演奏を聴くことができる。
 そして,ここが大事なところだけれども,安かろう悪かろうというのは数からいえば少ない。多くは聴くに値する演奏を提供している。