2020年11月30日月曜日

2020.11.22 第11回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 上野学園大学・昭和音楽大学

東京芸術劇場 コンサートホール

● 10月18日,新交響楽団の演奏を聴くために東京芸術劇場に行った。1階のプレイガイドに置いてあるチラシを見ていたら,音大フェスのチラシがあった。
 今年はコロナで開催されないと思いこんでいた。が,やるんですな,音大フェス。ポッと気持ちに花が咲いた感じ。

● コロナによる演奏会の中止は,ぼくの場合,3月末の音楽大学フェスティバル・オーケストラの中止から始まった。その後に続く,怒涛のチケット払戻し。一番大変だったのはホールのスタッフだろうけど,そこから鬱陶しい時間が流れ始めたのだった。夏まで。
 だものだから,今年も例年と変わらず音大フェスが実施されることを知って,トンネルを抜けたようなホッとした感じを覚えたというわけだった。

● 加えて,4月から晴れて自由の身になった(つまり,サラリーマンを辞めた)ので,時間だけはある。今年は4回とも聴きに行けるだろう。
 というわけで,速攻で通し券を買った。一般席にあまりいい席は残されていないっぽいのだけども,それでも笑っちゃうほど格安だ。1回あたり750円。
 ということは,一般客に費用を負担してもらおうとは主催者は考えていないということだろう。枯れ木も山の賑わいで,来てくれればいいですよ,でもタダってわけにもいかないのでまぁ気持ちだけ乗せときますよ,その代わりいい席は関係者が使いますからね,よござんすね,ってな感じでしょ。

● 藝大は今年も不参加。残念だけども,仕方ないのでしょう。来年3月に予定されている関係大学の選抜チームによる音楽大学フェスティバル・オーケストラには藝大も加わる。

● ということで,4回にわたる音大フェスの,今日は第1回目。
 まず,登場したのは上野学園大学。曲目は次のとおり。指揮は清水醍輝さん。
 ベートーヴェン 「エグモント」序曲
 バルトーク 組曲「ハンガリーの風景」
 ドビュッシー 「管弦楽のための映像」より「イベリア」

● ベートーヴェンの堂々たる「エグモント」の後,小粋なバルトーク「ハンガリーの風景」。さらにドビュッシーは独特の色彩感。まったく味わいの違う短編を読むような面白さがある。
 「ハンガリーの風景」はたぶん初めて聴く。CDも含めて。なぜなら,この曲,CDも持っていなかったから。元になったピアノ曲のCDはあったと思うんだけど。ドビュッシーの「管弦楽のための映像」も持ってないや。ピアノ曲の「映像」はあるんだけどね。
 ちなみに,プログラム冊子に載せられている “楽曲紹介”,最後の4行はない方がいいと思った。

東京芸術劇場
● 色合いの違った短編を複数重ねるのも決して悪くないと思うんだけども,長編には長編の良さがある。おそらく,ホールとの相性もある。これくらい大きなホールになると,長編の方がしっくり来るのだろう。
 で,次は昭和音楽大学。ショスタコーヴィチの交響曲第5番。長編も長編,大を付けてもいいくらいの長編だ。指揮は時任康文さん。

● 時の政治体制との関係で色々と言われるけれども,実際にショスタコーヴィチにとっては命がかかっていたのだと思うけれども,そうしたこととできあがった作品とは,いったん切り離した方がいいのじゃないかと思う。
 第4楽章の最後の盛りあがりはたしかに体制の賛美するものかもしれないが,“体制” という文字の代わりに “人間” をあてても,“世界” を代入しても,それぞれに成立する。それだけの汎用性がある。
 この世は苦だと説いた仏陀も,最期が近くなった頃にアーナンダにこう言ったという。

 アーナンダよ ベーサーリーは楽しい
 ウデーナ霊樹の地は楽しい
 ゴータマカ霊樹の地は楽しい
 七つのマンゴの霊樹の地は楽しい
 タフブッダ霊樹の地は楽しい
 サーランダ霊樹の地は楽しい
 チャーパーラ霊樹の地は楽しい

 それをこの曲の第4楽章に見ようとすれば見えてしまう(たぶん)。融通無礙だ。
 汎用性があるとはそういうことで,リアルのショスタコーヴィチが生きた時代に押し留めない方がいいのではないかと,ショスタコーヴィチの作品を聴くたびに思う。
 それがまた,ショスタコーヴィチの才能に敬意を払う所以でもあるような気がする。

● 演奏も素晴らしかった。充分な音圧があり,起伏があり,うねりがあった。終局後もしばらくは興奮冷めやらずの状態が続いた。
 これだよ,これ。これが音大フェスなんだよ,と秘かに悦にいって,ホクホクしながら地下鉄の駅に向かったのだった。

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