2020年11月30日月曜日

2020.11.14 ジェイソン・カルテット 第12回演奏会

すみだトリフォニーホール 小ホール

● こうして聴いた演奏会の記録を律儀に書き残しているのだが,シコシコとそんなことをしている理由は非常に単純だ。そこまでしておかないと聴いたことにならないからだ。
 聴きっぱなしでは,その記憶が記憶一般の中に溶けだしてしまう。溶けてしまった記憶は復元できない。記録を残したところで溶けだすことを阻止することはできないのだが,復元するためのよすがを作っておける。


● それでどの程度まで復元できるかといえば,いいところ半分だろう。できれば8割までは復元できると言ってみたいものだが,そうは問屋が卸してくれない。年月が過ぎれば,いったん復元したものもまた溶けだして,復元率はさらに低下する。
 しかし,それでも0(ゼロ)になることはない。全体を100とした場合,99と1の違いは,1と0の違いに比べれば,さほど問題とするに足りない。と考えているので,記録を残す作業をよく言えばコツコツと続けている。


● 今日はジェイソン・カルテットの演奏会。昨年に続いて2回めの拝聴。開演は午後2時。入場無料(カンパ制)。
 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を第3番,6番,15番と並べてきた。前期,中期,後期からひとつずつという。ベートーヴェン・イヤーゆえだろうけれども,ベートーヴェンを3本いっぺんに本番の舞台にかけるのがどれだけ大変かは,想像できるつもり。昨年は10番を演奏している。


● ベートーヴェンの弦楽四重奏曲という大きな山脈については,前期,中期,後期それぞれの特徴が説かれている。特に後期作品については,内面の掘下げが究極のとろこまで行っているとか言われるわけだが,なるほどそうだなと思って聴けたことはまだ一度もない。
 ぼくにとっては依然として難解な作品群だ。聴きこみがまるで足りないせいでもあろうけれども,聴きこむという行為は鑑賞者がやるにはあまり上品だとは思われない。
が,ここから入っていく以外に方法論はないのだろう。

● 電気のない,したがって蓄音機もレコードもない時代にこの作品群に接した人たちは,どうやって受けとめていたのだろう。
 楽譜を読むことが唯一の鑑賞法だったはずだ。音符の連なり具合から内面の掘下げを感じることができたんだろうか。できたんだろうな。

● 毎年,大晦日に東京文化会館の小ホールでベートーヴェン弦楽四重奏曲演奏会が開催されている。昨年,初めて客席に着座する機会を得た。
 今年もコロナ禍にもかかわらず開催されるようだ。チケットを購入済だ。聴く機会を増やさないとね。でないと,“自分にとっては難解だ” のままで終わってしまうから。機会を増やしても,“難解だ” で終わってしまうかもしれないのだが。


● 識者によれば,後期の作品群はシューベルトが一連の弦楽四重奏曲を書いた後に作曲されており,シューベルトを消化した後のベートーヴェンの水準を示すものであるらしい。
 永井豪の「ハレンチ学園」を見て,「やけっぱちのマリア」を描いた手塚治虫のようなものか。手塚治虫はかなりの負けず嫌いだったように思われるのだが。

● ところで,ジェイソン・カルテット。純度が高いというか雑味がないというか,没入しやすい演奏。
 おそらく本気でプロを目指したことのある人たちだろう。目指して叶わなかったのであれば,実力ではなくて,巡り合わせというか,時節の歯車がたまたまうまく噛み合わなかっただけのことかと思う。
 アマチュアではあり得べからざる水準の演奏。大晦日に東京文化会館で聴く演奏とさほどの差はないと感じる。


● 以前はあったけれども,今はなくなったもの。演奏中に鳴るケータイの着信音。この場面に最近は遭遇したことがない。
 高齢者がケータイ・スマホの取扱いに習熟してきたんでしょうね。慌てふためくことがなくなった。

● その代わり,相対的に目立つようになったのが,開演後に入場してくる人だ。キリのいいところで入ってくるのはいいのだが,入ってから席を探してウロウロしてしまう。
 まずはどこでもいいから空いてる席に座り,休憩時間になってから自分の席を探す(指定席の場合)というのを教えていかないといけなくなってきたか。今回感じたのはそのことだ。

● 一番いいのは開演前に着座することだが。開演までにプログラム冊子に眼を通して,書いてある内容を自分の脳内メモリにコピー&ペーストできるくらいの余裕を持つのが望ましい。
 というか,それがあたりまえだ。この余裕の有無が,聴くという体験の質を大きく左右することは明白なので。

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