2019年3月19日火曜日

2019.03.17 ユーゲント・フィルハーモニカー 第13回定期演奏会

杉並公会堂 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,000円(当日券)。曲目は次のとおり。指揮は三河正典さん。
 ニールセン 交響曲第3番「広がりの交響曲」
 コダーイ ハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲
 シベリウス 交響曲第5番

● ニールセンはデンマーク,シベリウスはフィンランド,あとノルウェーのグリーグが来れば,北欧の3巨匠の揃い踏みとなるところ,ハンガリーのコダーイを持ってきた。
 が,アンコールはグリーグの「ホルベアの時代から」前奏曲とスメタナの「モルダウ」。ドイツ圏をはずして,北欧と中欧ということだが,狙ってそうしたのかたまたまなのかはわからない。

● この楽団の演奏はすでに何度か聴いている。腕のほどはわかっている。裏切られることはない。
 これまで聴いたアマチュア・オーケストラの中でどれが良かったか,ひとつ選べ,と言われても,選べない。が,ユーゲント・フィルはかなり有力。こういうのって,つまりは好みだけど。
 端正な演奏。端正でいられるのは技術の裏付けがあるからだ。曲を選ばない表現の柔軟性も,技術の裏打ちがあってのもの。
 頭もいいんだと思う。それ以上にノリがいいんでしょうね。客席からは優等生の集団のように見えるんだけど,ノリが悪かったら端正と柔軟性の両立は説明できない。

● ニールセンは著名な作曲家だから,ぼくも何枚かのCDは持っている。だけども,なかなか手が伸びないというのが正直なところ。どうしたってモーツァルトやベートーヴェン,ブラームスを聴いてることが多い。
 既知の曲にしか気が行かない。否応なく聴かされないと,なかなか広がりが生まれない。自ら広がりを求めに行くってことが,ぼくにはあまりない。
 なので,たとえばNHK-FMの「クラシック・カフェ」を聴くのは悪くないと思っている。かといって,ではそうしているのかというと,それは別の問題になるわけでね。

● あとはこうした生の演奏で聴くこと。とはいえ,ニールセンは演奏機会が多いとは言えない。ぼくが飯田のは,以下がすべてだ。
 2011年2月にモーツァルト合奏団の演奏で聴いた「小組曲 イ短調」。5月に当時のマイクロソフト管弦楽団で聴いた交響曲第2番。2013年7月にル スコアール管弦楽団で聴いた「仮面舞踏会」序曲。2015年8月に日立フィルハーモニー管弦楽団で聴いた「ヘリオス序曲」。2017年10月に丸の内交響楽団で聴いた交響曲第4番。
 以上ですべてだ。しかも,どんな曲だったかほぼ憶えていない。聴いたことすら忘れている。ぼくの聴き手としての水準はこんなものだ。

● 我慢(?)して何度か聴いていると,ある日,唐突に視界が開ける思いがするのが,クラシック音楽を聴くことの醍醐味だとは思う。そのためにはCD(ネットでもいいが)を使うのが必須。
 問題はそのとっかかりをどう作るかということ。が,今までのところはニールセンに関してはそのとっかかりを作ることに失敗している。

● ニールセン3番の第2楽章にソプラノとバリトンの二重唱(今回は平中麻貴さんと菅谷公博さん)が入る。気持ちが洗われるようだった。
 ホルスト「惑星」の“海王星”にも女声合唱が入って,これが何ともいえない効果を生んでいる。この曲でも二重唱は効いていて,幽玄というのか神秘というのか,人間的ならざるものを産んでいる。人の声が人間的ならざるものを産むのは不思議なものだ。

● コダーイのこの曲は初めて聴く。CDも持っていない。チェロとコントラバスが主題を提示して,以後,16の変奏曲が続いていくというのは知識としては知っている。
 が,どこに主題が残っているのか,ぼくの耳ではわからない。何だかな。
 ま,この曲に限らないわけで,典型的にはバッハのゴルトベルク変奏曲がそうだ。あの30の変奏のどこに主題が残っているのか,ぼくには聴きとれない。グレン・グールドのピアノで聴いてもわからない。曽根麻矢子さんのチェンバロで聴いてもわからない。30個の独立した曲を聴いているようなものだ。

● シベリウスの5番はいくらか馴染みがある。少しホッとした。
 今回の曲目はメインを3つ重ねたようなもの。その後にアンコールが2曲。2曲目が「モルダウ」。これをアンコールに持ってくるとは畏れ入った。けっこう長いものね。
 難解な曲が続いたので,これなら知ってるでしょっていうサービスだったのかなぁ。

2019年3月18日月曜日

2019.03.16 ワグネル・ソサィエティー・OBオーケストラ 第85回記念定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● ワグネル・ソサィエティー・OBオーケストラとは「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラの卒業生を中心としたアマチュアオーケストラ」であって,読んで字のごとし。では,慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラとは何かといえば,「1901年に創立した日本最古のアマチュア学生音楽団体」で「ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーにちなんで名づけられた」ものらしい。
 残念ながら,その慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラの演奏を聴く機会はまだ得ていないが,名声は耳にしている。OB・OGが立ちあげた団体もこの楽団の他にもあるらしいのだが,いずれも聴いたことはない。今回が初めて。

● 開演は午後2時。それに間に合うためには,何時に家を出なければならないかは当然わかる。開演前に着席して,配られたプログラム冊子に目を通して,それを脳内メモリにコピー&ペーストしておく必要がある。それこみで,何時に家を出るかを計算する。
 のだが,今日はごく私的な事情があって,それが叶わなかった。ホールに到着したときは,午後2時を15分ほど過ぎていた。

● さて,どうする。スパッと諦めて街の雑踏の1人になるか,途中からでも聴くか。曲目は次のとおりだ。
 ブラームス 悲劇的序曲
 ドボルザーク チェロ協奏曲
 ブラームス 交響曲第2番
 今からだと,「悲劇的序曲」が終わったあとに入場することになるだろう。どうしようか。0.3秒ほども考えたろうか。後者を選択した。当日券(2,000円)を買って,ドアの前に並んでいる先達(?)たちの列についた。
 こういうときに大事なのは席を選ばないこと。近くに空いている席を見つけたらサッサと座ること。

● というわけで,ドボルザークのチェロ協奏曲から聴くことになった。こういうブザマを晒すのはたぶん初めてだ(と思いたい)。
 しかし,気分としてバタバタすることはなく,すぐに“聴くこと”に入っていけた(と思う)。独奏チェロは丸山泰雄さん。指揮は井﨑正浩さん。
 丸山さんのチェロを聴けるのはもちろんありがたい話で,謹んで拝聴したいと思うのだが,それでもこの曲は管弦楽を聴くためにあるような気がする。

● 大学オケの慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラについては,先に申しあげたとおり,名声はしばしば耳にするのだが,演奏を聴いたことはない。演奏を聴いたことはないのだが,名声はしばしば耳にする。で,だいたいこんなものではないのかなと頭の中で想像する。
 OBになった後もそれを維持するのは,常識的に考えれば不可能なはずだ。それが可能なのは演奏することを仕事にした場合だけのはずで,それに次ぐのが中学や高校の音楽教師になることだろうが,それだって現役時代の腕を落とさずにいるのは,なかなか容易ではないと思う。

● しかるに,事実は小説よりも奇なりという状況に遭遇することがある。辻褄が合わないではないかと異議を申し立てたくなる。
 落ちることがないところまで,技術を体内に固定化しているということだろうか。そこまではやったよ,と。

● コンミスがイケイケドンドンの人。怖いもの知らずという印象。といって,怖いものを知らなかったら,コンミスは務まらないだろうから,そこは緻密な計算があるのだろう。
 と思う。思うのだが,ひょっとするとそんな姑息な計算などないかもしれない。天然なのかも。そんな計算などしていたのでは間に合わないかも。だとすると,たいした豪腕だということになる。

● この楽団,層が厚い。ヴァイオリンだけ取っても,コンミスに何かがあっても,次の瞬間から代打に立てる人が,ゾロゾロいそうだ。
 今回の演奏では特にフルートが目立ったと思うんだけど,木管も金管もレベルが高い。そうして,個々の奏者のレベル差が少ない。

● ブラームスの1番と2番を並べてみると,とにかく不思議。曲想がまるで違うと思えるし,1番が構想期間も含めれば苦節ン十年なのに対して,2番は4ヶ月で書きあげたらしい。1番の(ベートーヴェンとの)苦闘があったからそれが可能になったのだよと言われれば,たしかにそうなのだろうけれど,にわかには信じがたい。
 投入したエネルギーと作品の出来は比例しないというのも,たしかにそうなのだろうけれど,直列処理ではなく並列で処理していたと考えた方が腑に落ちるかなぁ。
 どっちでもいいんだけどさ。彼ほどの天才になれば,こういう小賢しい詮索に対しては,お好きにどうぞという話にしかならないんでしょうからね。

● ところで,丸山さんのアンコール曲。ジョヴァンニ・ソッリマの「ラメンタツィオ」という曲らしいのだが,初めて聴くのはもちろん,名前も知らなかった。
 ラメンタツィオとは哀歌という意味らしいのだが,ぼくの耳では哀歌っぽさは感じ取れなかった。というか,チェロにこんな奏法があるのかという驚きが先にたって,そこから進めなかったというのが正直なところだ。
 チェロ奏者には有名な曲なのかもしれない。これを聴けただけで,チケット代の元は取れたような気がした。

● オケのアンコールはドボルザークのスラヴ舞曲第9番。チケットは強気の2千円だが,この演奏なら取っていいか。井﨑さんの指揮にも久しぶりに接した。

2019年3月11日月曜日

2019.03.10 宇都宮短期大学・附属高等学校音楽科 第51回卒業演奏会

宇都宮短期大学 須賀友正記念ホール

● 例年は平日の夜に,宇都宮市の栃木県総合文化センターで開催している。が,ただ今は総文センターが大規模改修中で使えない。
 という理由からだと思われるが,今回は自前のホールで開催。お客さんが来やすいのは,当然,総文センターの方だが,その代わりの休日開催。

● 良くも悪くも,長坂キャンパスの周りには何もない。コンビニもない。学生は食事も学内で賄っているんだろうか。途中で弁当を買ってくるんだろうか。
 そうだとすると,サラリーマンのようだな。ぼくも出勤途中にコンビニに寄って,その日の昼飯を調達しているのでね。菓子パンとカップ麺。ときどき,おにぎりも付ける。

● ま,そんなことはどうでもよろしい。この演奏会にお邪魔するのは2年ぶりになる。昨年は行かなかった。なぜかといえば,開催日時の情報を見逃したからだ。
 総文センターで開催するのであれば,総文センターのサイトで把握できるはずなのだが,それを怠ったということだ。

● 今回は自前のホールということなので,大学のサイトを確認してみたんだけども,この演奏会の告知は発見できなかった。階層の深いところに潜んでいるんだろうか。
 で,どうして知り得たかというと,地元の公共施設にチラシが置いてあったからだ。が,知ったのは7日。けっこう危うい。可能ならば,大学サイトのトップページに掲載しておいてもらえると嬉しいのだが。

● 開演直前には座席のほぼすべてが埋まった。大学や附属高校の関係者が多いのだろう。演奏会の性格からして,それが当然。
 何だかんだ言って,栃木県の音楽のセンターに位置する機関の少なくともひとつは,ここだ。人材の供給源というにとどまらない。

● 開演は午後2時。46回,47回,49回に続いて,4回目の拝聴になる。
 聴きに来た理由は2つ。第1に普段はなかなか聴く機会がない曲を聴けるからであり,第2に,若い人たちの演奏には,はぼ例外なく,生体としての美しさが体化されて宿っていることを,過去3回の演奏を聴いて確信しているからだ。
 彼ら彼女らの技術や表現力というのは,これから先,まだまだ進歩するのだとしても,技術なり表現力が限界に達したあとの演奏が良くて,発展途上の演奏はダメかといえば,そんなことはまったくない。

宇都宮短期大学
● というより,発展途上を感じさせない演奏など聴いてどうするのかと思わぬでもないのだ。円熟の域に達したとか,枯れた芸とか,そういう言い方をされるものにはあまり興味がない。
 正確にいうと,円熟しようと枯れようと,そこにかすかにでも“発展途上”を宿していないものを聴いても面白くないのではないかと思っている。
 70歳や80歳になってなおステージに立つ巨匠は昔もいたし,今もいるのだろうが,そうした人たちは,なお“発展途上”を抱えているに違いない。ぼくはそうした演奏を聴いたことがないので,想像だけで言うのだが。

● 若い人たちの“発展途上”は,発展前の途上だから,本当に発展するのかどうかも未知数だ。そこが良い。良いというと不穏当かもしれないが,若い人たちの魅力というのは,つまりはそういうところにある。
 ぼくらロートルは見守るだけだ。見守るだけのそのことが,ロートルにはけっこう以上の楽しみだったりする。わかってもらえるだろうか。いや,わかってもらえなくてもいいんだけどね。

● 過去の例を思いだすと,これはと思う傑出した演奏が2つ3つあったものだ。ところが,附属高校の今回の演奏ではそれがない。
 いや,逆の意味だ。それぞれレベルが高くて,2つ3つを抜きだすことができない。そこをあえてやってみようかとも思ったんだけども,恥をかくだけだからやめておく。

● あとは,毎回思うことを今回も思った。女子の場合,高校生は完全に一個の淑女だということだ。身体が大人のものになっている。
 男子の場合は高校生の時期が,まさに疾風怒濤のさなかで不安定を極める時期だと,自分の体験から思うのだけれども,女子の場合,疾風怒濤の時代は小学校高学年から中学1,2年くらいまでだろうか。高校生になると,もう安定期に入っているように思える。
 人体の成長過程からすれば,10代で出産し,20代で子育てを終え,30過ぎたら死ぬ,というのが最も自然であろうから,彼女たちはすでに出産の準備を整えている。一個の淑女であって当然といえばいえるのだが,その当然がなかなか腑に落ちてこないんだな。

● 短大&研究科では,伴朋美さんのソプラノと渕岡涼さんのサクソフォンが印象に残った。
 最後の合唱も。『女声合唱とピアノのための「こころの色」』の第3曲と5曲。グリーグの“朝”を思いだした。突飛な連想であいすまぬが。
 ざっとYouTubeを見たところでは,全部を聴くことはできないっぽい。CDは出ている。さぁて,どうしようか。

2019年3月5日火曜日

2019.03.03 オーケストラ・ダスビダーニャ 第26回定期演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● オーケストラ・ダスビダーニャの名前は知っていた。何せ,Wikipediaにも載っているのだ(書いてるのは,たぶん,中の人だと思うのだが)。「旧ソ連の作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチの曲を演奏することを目的に結成された。ショスタコーヴィチの曲を演奏することを目的に結成された専門オーケストラは他にLondon_Shostakovich_Orchestraが存在するが,アマチュア団体としては世界唯一であり,演奏曲目数もダスビダーニャのほうが多い」。
 ロシア音楽に特化して演奏している団体はいくつかあるけれども,ショスタコーヴィチに特化しているのは,Wikipediaの説明を信用するなら,世界に2つしかなく,そのひとつが日本にあるということになる。

● が,聴くのは今回が初めて。人と人との出逢いもそうだけれども,オーケストラとの出逢いにおいても,出逢うべき時期というのがあるのだろう。
 ぼくにとっては,この楽団と出逢うべき時期は今だったのだということ。これより早ければ早すぎたのだし,遅ければ遅すぎたのだ。
 そういう偶然の計らいをぼくはわりと信頼している。開演3秒後に,なんでもっと早くに聴いてなかったのかと思わぬでもなかったが,いやこのタイミングでよかったのだと思い直した。

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。早めに会場に着いて,当日券を購入。2階中央の3列目というかなりいい席が空いていた。
 曲目は次のとおり。指揮は長田雅人さん。
 映画音楽《マクシム三部作》組曲
 交響曲第2番「十月革命に捧ぐ」
 交響曲第6番
 長田さんはこの楽団の結成以来の常任指揮者であるらしい。ショスタコーヴィチの楽曲を最も数多く指揮した指揮者ということになるのかもしれない。

● いずれも,この楽団の演奏を聴くのでなければ,めったに聴く機会のないものだ。特に《マクシム三部作》はこの楽団が再度取りあげるのでもない限り,この先も聴けることはないだろう。
 で,これが度肝を抜くものだった。中江早希さんが客席からステージに上がって,短く歌って,パントマイムを繰り広げて去るという演出は,当然,この楽団の創案だろうけれども,じつに効果的。
 中江さんの演技上手(?)もさることながら,効果あらしめる場をこの楽団の演奏が作れていたということだ。この演奏あればこそ,中江さんが際立つ。

● ショスタコーヴィチについて語れるほど,ぼくは彼の楽曲を聴いたわけではない。したがって,素人の無責任な推測になるのだが,ショスタコーヴィチの才能は,交響曲や弦楽四重奏曲よりも,むしろ映画音楽の方に奔放に発揮されているのかもしれない。本道よりも脇道の方が,ショスタコーヴィチらしさに満ちているというか。
 チャイコフスキーだって交響曲よりもバレエ音楽の方に彼の真骨頂が見られると思われるし,ブラームスにしたって,さて4つの交響曲に彼を閉じ込めていいのか,という疑問もある。

● 第2番には合唱が入る。“オーケストラと歌うロシア合唱団”と“東京トリニティコール”という団体が担った。マーラーもびっくりという珍妙な楽器(?)も使われている。
 単一楽章のこの曲を交響曲といっていいのかどうかは,交響曲の定義による。で,交響曲といって何ら差し支えない。
 ぼくとしては《マクシム三部作》で抜かれた度肝を取り戻す前にこの曲を聴いてしまったものだから,正直,よく憶えていないというか,わりと印象がぼんやりしている。申しわけない。

● 休憩をはさんで,第6番。3楽章からなる。たしかに,???という印象を残す曲だと思った。
 が,そういうことよりも,この楽団の演奏が素晴らしい。ステージから発散されるエネルギーが並ではない。その演奏に圧倒されて,演奏を聴いて曲を聴いていなかった可能性がある。
 この楽団の力量については,これ以上はひと言も語る必要がない。聴けばわかる。

● 演奏は録音されていた。それも,せっかくだから録っておきましょというのではなく,カチッと録音している。
 次の演奏会で販売されるのだろう。つまり,今回も過去の演奏を録音したCDが販売されていた。3,500円という強気の値付けも,この楽団なら許されるかもしれない。実際,購入している人がけっこういた。
 ぼくも14番の録音を探した。ショスタコーヴィチ(交響曲)のCDはひととおり手元にはあるんだけど,14番の音質に少し不満があった。が,14番だけはないのだった。この曲だけはまだ演奏していないらしい。

● プログラム冊子もB5版で本文38ページという読みごたえがあるもの。同人誌の趣がある。
 曲目解説が複数載っている。頭のいい勉強家が何人もいるらしい。ひょっとして,東大オケのOB・OGもいるんだろうかと勘ぐったほどだ。
 が,巻末の“ダスビの日記帳”という,コラムというのか雑文というのか,そういうものを集めた数ページがあって,これが面白い。文才豊かな人もいるわけだ。

● この中で特に目を惹いたのが2つ。ひとつは指揮者の長田さんが書いた「奇妙であると謂う感触」というタイトルの,これは何というんだろうか,掌編小説のようでもあり,脳内妄想をそのまま文字化したようでもあり。
 舞台は学生運動華やかなりし頃の東京だろうが,別に東京でなくてもいい。不思議なテイストだ。音楽にたとえれば,ドビュッシーの小品の中にこんなテイストのものがあったような。

● もうひとつは,団員の1人が自身のウツ体験を綴ったもの。こういう体験を経験していない人に伝えようとすると,どうしてもくどくなる。言葉が過剰になる。そこを免れているだけでも大したものだ。
 彼は優秀で責任感旺盛なビジネスマンだったようだ。その優秀さが自分に牙を向けてしまったという側面があるかもしれない。
 仕事やお金は命を賭すほどのものではない。それは絶対にそうなのだが,命を賭していると見えるようにふるまっているヤツが幅を利かすという厄介な状況はある。

● ショスタコーヴィチというと「二重言語」や「純音楽を装った交響曲に隠されているメッセージ」の問題がどうしたって出てきてしまう。これをどう取り扱うか。ぼくの目下のスタンスは,あまり深入りするな,というものだ。
 『ショスタコーヴィチの証言』についていえば,ヴォルコフは余計なことをしてくれたと思っている。第5番の解釈で“反体制の暗号が散りばめられている”などと講釈されると,少しくウンザリする。大昔にあった,万葉集を古朝鮮語で読むというのを思いだしてしまう。

2019年3月4日月曜日

2019.03.02 洗足学園音楽大学オペラ公演 歌劇「ヘンゼルとグレーテル」

洗足学園 前田ホール

● 洗足学園音楽大学のサイトによると,演じるのは「オーディションで選ばれた学部生,大学院生,既にオペラの世界で活躍中の卒業生」。しかも,「バレエコースの学生による華麗なバレエシーン」まである,と。
 加えて,衣装・小道具は,「多摩美術大学演劇舞踊デザイン学科による」ものらしい。若々しくも豪華絢爛の匂いがする。

● 指揮は時任康文さんの予定だったらしいが,松田義生さんに変更になった。ステージを支えるのは,上記のとおり,洗足学園の学生たち。SENZOKU OPERAアンサンブル,SENZOKU OPERA合唱団。
 「入場無料 全席自由 予約不要」という最もありがたい催行方式。

● 演しものは,フンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」。序曲は生で聴く機会がこれまでにもあったし,これからもあると思うし,CDも持っているのだが,全体を聴く(見る)機会はなかなかなさそうだ。
 Wikipediaによると,「ドイツ圏では今なお上演回数上位に位置する人気作であり,英米でも比較的人気が高い」らしいのだが。

● ぼくはCDもDVDも持っていない。オペラはCDに気が行かない。歌詞の意味がわからなければどうにもならないからで,かといってCDに付いてくる対訳冊子を見ながら聴くなんてのは,かったるくてやってられない。
 DVDもあるに違いないのだが(ビデオテープは図書館で見たことがある),あえて探すことはしていなかった。あるいはYouTubeで見ることもできるかもしれない。
 が,生でってことになると,ぼくのアンテナにはあまり引っかかってこない。

● というわけで,ワクワクしながら家を出た。上野東京ラインができて,川崎に出るのが便利になった。乗換え時間や待合わせ時間を考えると,新幹線で行くより,宇都宮から熱海行きや小田原行きに乗ってしまう方が簡便だ。
 川崎で南武線に乗り換えて,武蔵溝ノ口。造作もない(今回に限っては湘南新宿ラインでもよかった。武蔵小杉で同じように南武線に乗り換えればいい)。

● 開演は午後3時。40分前には着いていたと思う。が,すでに長蛇の列。毎年来ているらしい爺さまが今年は多いねぇと言っているのが聞こえてきたんだけど,そうなのか,今年は特別なのか。
 ホールの座席では足りず,スタッフがパイプ椅子を並べていた。満席以上。

● 観客は子連れの家族が多い。「ヘンゼルとグレーテル」ゆえだろう。
 ここからは下司の勘ぐりだが,主催者の狙いもそこにあったろうと思う。未来の受験生になってくれるかもしれない。まもなく死んでいく老人よりは,年端もいかない子供に来てほしい。未来ある若者に来てほしい。健全思考というべきだ。
 とはいえ,(ぼくを含めて)暇な年寄りも多い。というか,全体としては年寄りの方が多い。

● 日本語上演。この歌劇は日本語で上演されることが多いんだろうか。劇中の主役は子供なわけだから,日本語の方が気持ちを籠めやすいという事情があるんだろうか。客席に子供が多いことは想定できるわけだから,だったら日本語でということだろうか。
 日本語でやることには文句はない。が,その場合であっても,字幕は出してほしい。そこはオペラなので,日本語であっても字幕がないと何を言っているのか聞きとれないのだ。子供たちも同様だろう。一番いいのは,原語でやって,ルビ付きの字幕を出すことだと思うのだが。

● 予想どおりだった。ステージのセットや衣装を含めて,何というか本格的。さほどにお金はかけていないと思うのだが,チープ感は皆無。
 バレエは第2幕の終盤で登場。雰囲気がガラッと変わる。神秘感が倍加する。このオペラにバレエが加わるのは普通なのか,今回が特別なのかは知らないけれど,もし後者ならずいぶん得をした気分。
 コール・ドといっていいんでしょうね。ポワントで揺らぐような動作を見せられると,女性美の極致を見ている気分になる。これ以上の視覚美ってこの世にあるんだろうかと思う。いや,大げさでなく。

● ヘンゼルとグレーテルは兄妹。といって,ヘンゼルにはメゾソプラノが充てられているから,女性が演じる。子供なのだからテノールやバリトンはあり得ないのだが,ともかく大人の女性が演じる。
 このあたり,脳内で視覚を補正する必要があるのかと思っていたのだが,わりとそのまま受けとめていいのだった。宝塚を持ちだすのは少し違うと思うけれども,女が男を演じて違和感が出ることは,むしろ少ないのかもしれない。まして子供ということになると,性差は問題にならないか。

● 原作であるグリム童話と大きく違うのは,「母親が実母で善人となっている」ところ。したがって,最後はハッピーエンド。閉じ込められていた他の子供たちも解放されて,歓喜のうちに終わる。ハッピーエンドはいいものだ。
 上演時間も2時間に満たない。これもフンパーディンクが観客の子供が飽きないように配慮した結果だろうか。

● というわけで,軽量級で子供向けってことになるのかもしれないが,子供が本気で楽しめるものなら大人も楽しめるというテーゼは成立するか。対偶をとって,大人が楽しめないようなものは子供だって楽しめないのだと言っていいだろうか。
 そうであるようでもあり,そうではないようでもあり。

● 同じ公演が昨日もあった。つまり,2回公演。おそらく,昨日が学内関係者向け,今日が一般向けという区分けができるだろう。
 入場時に配られたチラシを見ても,洗足学園は地域貢献をかなり意識しているように思える。この公演もだいぶ長く続いているらしい。演じる学生の勉強になるのは言うまでもないとして,それでも主眼は地域との交流にあるように思われる。

● 実際のところ,地域貢献を題目に掲げていない大学はない。が,一般大学の場合は講義の公開だったり,社会人相手の生涯学習講座を開講する程度のことだ。して,その中身はといえば,おざなりであろうと思う。文科省に対するエクスキューズを作っているだけという(推測だけで言っている。違っていたら申しわけない)。
 その点,洗足学園のような音大にはアドバンテージがある。音楽という武器を持っている。刺さる人には刺さる。逆にいえば,刺さらない人にはまったく刺さらないわけだが,そういう人はそもそも市場の人ではないのだから,全然かまわない。
 その武器の使い方が巧みだよね。洗足学園の存在を社会に知らしめる効果(PR効果)は,受験雑誌や音楽雑誌に広告を打つより,こうした催しの方が,一見は地域限定に見えるけれども,かえって遠くまで届くのかもしれない。

2019年2月26日火曜日

2019.02.24 フライハイト交響楽団 第45回定期演奏会

ティアラこうとう 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。
 曲目は次のとおり。指揮は高橋勇太さん。
 ブラームス ハイドンの主題による変奏曲
 ブルックナー 交響曲第5番

● 昨夜は東京のホテルに泊まった。せっかくだから何か聴いて帰ろうとなる。帝都東京ともなれば,休日の同じ時間帯に開催されるコンサートは1つや2つではない。
 その中から何を選ぶか。じつはいったんは別のところに決めていた。が,急遽こちらに変更したのだ。理由は,第1にホテルから行きやすかったこと。乗換えなしですむのだ。
 曲目のこともある。ブルックナーのしかも5番を生で聴ける機会がそんなに頻繁にあるとは思えない。
 要するに,この楽団に決めたのは,半ば以上は偶然だ。別のホテルに泊まっていれば,おそらく別の楽団の演奏を聴きに行ったに違いない。

● ちなみに,楽団のサイトを確認することはほぼしなくなった。けっこうな数の楽団の演奏を聴いたので,サイトよりは自分の経験をモノサシにすればいいと思ってしまっていることも理由だが,情報発信の主な媒体をFacebookに移動するところが増えたことが大きいかも。
 ぼくはFacebookに愛想を尽かし(Facebookに愛想を尽かされ)Facebookを閉じた人間なので,Facebookは閲覧できない。で,自分がやめたから言うわけなのだが,Facebookはもう見限るべきではないか。面白いかね,あの閉じられた空間の中でワイワイやるのは。

● ともあれ。というわけで,この楽団の演奏を聴くのは今回が初めて。
 で,結論から言うと,ここにして正解だった。偶然を信頼するべきだな。
 正解だったと思う所以を以下に述べる。

● この楽団は活性度が高い。モチベーションや意欲という言葉に置き換えてもいいものだ。もともとそういうメンバーが集まっているのか,この楽団がメンバーをそうさせる場になり得ているのか。
 たぶん両方だろうが,活性度の高さを感じた。活き活きしている。楽団としての躍動感が非常に濃いという印象。

● その原因なのか結果なのか,これまたそのいずれでもあるのだろうが,個々のプレーヤーの技術水準が高い。かなり高い。
 大学生のときにオケ活動に明け暮れていた人でも,卒業してサラリーマンにでもなってしまえば,学生時代の水準を維持するのは生半なことではないと思われる。
 もっと言ってしまうと,学生のときの水準を維持するというのは加齢に抗うことでもあって,加齢が相手とあっては,いくら抗ってみたところで,まずもって勝ち目はないとしたものだ。
 社会人になってもこれだけの水準を維持しているとなると,学生のときにはどんな演奏をしていたのか。

ティアラこうとう
● 演奏は技術だけで決まるものではないと思っている。ぼくらがステージから受け取るものの質量を決める要因は,技術だけではない。そうだとすれば,中学生や高校生の演奏から受けるものがあれほど大きいことの説明がつかない。
 しかし,どうも・・・・・・技術はやはり大きいらしい。というか,何をするにしてもその核になるのは技術だろうというのは,まぁ万人の共通了解事項ではあるのだけれど。

● それはやはり,ブルックナーの5番にわかりやすく現れる。長大で,頂点がいくつもあって,主題の長い再現があって,ややもするととりとめがないという印象を与えかねないこの曲を,これだけスリリングに差しだせるその駆動力の源にあるものは,やはり技術なのだろう。
 複雑精緻なアンサンブルを,70分を超える長丁場にわたって持続させるのは,そもそもが並ではないと思われるのだが,やってのけるんだねぇ。

● とりわけ,2nd.Vnのトップ奏者が,ぼくの視野の中心を占め続けた。ピチカートの軽やかさ。楽器と身体の一体感。こいつ,何者なんだ。
 トレーナーが出演しているのかとも思ったんだけど,どうもそういう雰囲気でもない。

● というわけだから,フライハイト交響楽団という名前は憶えておくべきだ。憶えたからといって,この楽団の年2回の演奏会に必ず行けるとは限らない。そのままならなさが,世の常ではあるんだけどさ。
 そうではあっても,この楽団の名前は脳内に留めておくべきである。

2019年2月25日月曜日

2019.02.23 大妻女子大学管弦楽団 第21回定期演奏会

大妻女子大学千代田キャンパス 大妻講堂

● 大妻女子大学に侵入した。ただし,同大学管弦楽団の定演を聴くため。
 女子高や女子大というと,男子には禁断の地。こういう機会でもないと,入ることなんてできない。ドキドキしましたよ。

● といっても,女子高や女子大のように女ばかり集まるところって,女をガサツにするのではないかとも思っていてね。どうしても地を出しやすいというか,出さざるを得ないというか。
 女子力を磨きたいと思っているのなら,高校も大学も普通に男子がいるところの方がいいのでは。
 女性が多い職場にも同じことがあてはまるような気がする。保育所や小学校や病院のように女性が溢れているところよりも,建設会社とか運送会社にいる女性の方が,女子力のレベルは高い印象。

● ただ,女子力っていう言葉には,男に媚びている気配も感じるよね。若い娘さんが男に媚びなければならない理由はほぼ皆無でしょ。結婚して専業主婦になるのが女の勝ち組の筆頭というのは,昭和50年代までの発想で,平成も終わるご時世にはいかにも時代遅れだ。
 磨かなければ出ないような女子力なんて,そもそも要らないものじゃないかな。あんまり踊らない方がいいような気がする。

● つまり,女子高や女子大で伸び伸びやれるんだったら,それもいいよねってこと。唯一,女しかいないところで女は伸び伸びできるものなんだろうか,という根本的な疑問があるにはあるんだが。
 ま,大きなお世話だね。アンタに言われたくないわよ,だな。

● 開演は午後2時30分。入場無料。曲目は次のとおり。指揮は長崎亜星さん。
 スッペ 「軽騎兵」序曲
 シベリウス 交響詩「フィンランディア」 
 シベリウス 「カレリア」組曲
 近年,重量級のプログラムがあたりまえになっているが,これは軽快な印象。胃にもたれないというか。
 この組合せ,どこかで体験しているなと思った。昨年5月に聴いた東京学芸大学管弦楽団の演奏会のプログラムと同じだ。
 シベリウスの「フィンランディア」と「カレリア」を並べてくるのは,わりとよくあることなんだろうか。

● 大妻講堂も立派なものだ。大学のサイトから引用すると,「地下1階から地上4階までの吹き抜けで,天井の高さは約15mです。客席は1階770席,2階席229席,3階席204席の計1203席あります。舞台はすべてヒノキ材で作られており,高さ8.5メートルのドイツ製のパイプオルガンが設置されています」ということだ。
 大学の講堂やホールには芸大の奏楽堂をはじめ,いくつか入ったことがある。東大の安田講堂,早稲田の大隈講堂,宇都宮大学の峰ヶ丘講堂,成城大学の澤柳記念講堂,宇都宮短期大学の須賀友正記念ホール。
 が,パイプオルガンまで備えているところはなかったような気がする(芸大の奏楽堂は別格)。

● パンフレット冊子に載っている演奏者名簿には55人の名前があがっている。その中で現役生は5人しかいない。現役生が1人もいないパートもずいぶんある。
 OGの助力を,それ以上に賛助の協力を仰いでいる。賛助の中には男性もいる。それも少なくない数で,奏者の3分の1強は男性だった。

● 部員の減少に苦しんでいる。それでも何とか維持しようという涙ぐましいまでの努力が見て取れる。
 体裁を整えるだけで手一杯ということだろう。1st.Vnでは3プルト,4プルトから発せられる音の方がよく響いてくる。そもそも誰もコンミスを見ていない。
 プログラムが軽量級であったのも,ひとつにはこれが理由だろうか。演奏は休憩時間を含めて1時間で終了した。

● 多事多難というのは,こういう状態を指すためにある言葉だと思うが,努力が報われてほしいと思う一方で,あまり無理をしても,とも正直思った。
 首都圏の大学オケの多くはインカレ方式というか,他大学の学生も受け入れているところが多いのではないか。2つ以上の大学でひとつのオケを作っている例もある。他大学のオケに参加するという形で,オケ活動を継続することは可能だ。

● ぼくは自分が卒業した高校や大学にまったく冷淡で,ほとんど何の思い入れも持っていない。同窓意識もない。
 ので,ピンと来ないところがあるんだけれども,名を残したいというのもあるんだろうね。OGの中には,家政学部や文学部を卒業したのではなくて,自分は管弦楽団の卒業生なのだと考えている人もいるんだろうし。
 女子大で単独のオーケストラを持っているのは,大妻の他には日本女子大くらいのもので,稀少性もある。
 当事者は,当然,部外者よりも多くの情報を持ち,真剣に対策を考えているはずだから,当事者が出した結論を最善解とすべきなのだ。そこは動かないのだが。