2019年8月8日木曜日

2019.08.04 東京大学音楽部管弦楽団 サマーコンサート2019 栃木公演

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 東大オケの演奏を聴くのは昨年1月の第103回定演以来。サマーコンサートは2015年以来となる。
 このときのサマーコンサートも栃木公演で,宇都宮市文化会館で開催された。宇都宮のこととて,餃子でだいぶ盛りあげてくれたんだった。浜松市出身の団員がいてね。

● 東大オケのサマーコンサートっていうのは,東京を含む全国4都市でやるものだと思っていたんだけど,今年は東京と那須と札幌の3回。
 そうだった。その代わり,定演を2箇所でやるようになったんだったな。

● 東大オケのサマーコンサートってだいたい満席。当日券で入ろうと思って,ダメだったこともあった。当然,販売開始とほぼ同時に「ぴあ」で購入してた。
 が,今回,けっこう空席があるねぇ。1,200席でこれだけ空いてるっていうのは,ここが那須だから? そうは思いたくないんだが。
 そんなことを思いながら,開演を待ったのだが,開演時には“ほぼ満席”と形容しても嘘にはならない程度の入りになった。よかった,よかった。那須の面目が立った。
 ぼく,那須の生まれなんでね。って,それはどうでもいいんですけどね。

● 開演は午後2時。チケットは800円。曲目は次のとおり。指揮は田代俊文さん。
 ヴェルディ 歌劇「ナブッコ」序曲
 ストラヴィンスキー バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
 チャイコフスキー 交響曲第5番 ホ短調

● 過去に聴いたサマーコンサートの中で最も印象に残っている曲は何かと訊かれれば, 2013年につくば市のノバホールで聴いたブラームスの4番だと即答できる。
 しかし,それはその演奏が最も出色だったという意味ではない。こちらのそのときの欲望(?)にピタッとフィットしたということだ。ブラームスの4番を聴きたかったのだと思う。それがまずあっての話だ。

● その伝でいうと,今回,楽しみだったのはストラヴィンスキー「火の鳥」。この楽団がこの曲をどう調理して客席に差出してくるか。
 調理するといったって,楽譜があるわけだから,距離を置いて見た場合の仕上がりに差が出るわけはない。近づいて見たときの肌理の細かさであるとか,盛りつけのきれいさであるとか,そういう差になるわけなのだと思う。

● で,それが細かくてきれいなわけですよね。当然,技術の問題がある。その技術に関しては,不思議なほどに巧すぎる。音大でもここまではできてないところが・・・・・・まぁ,いい。
 では,技術だけの問題かというと,違うような気がする。“気”の入れ方,その“気”の揃い方,自分と場としてのオーケストラとの相性,などなどいくつもの非技術に属する因子があるだろう。
 それゆえ,出来不出来のばらつきが大きいのがアマオケの特徴でもあるはずだと思っているんだけど,このオーケストラはそのばらつきがない(たぶん)。やはり,技術が卓越しているということだろうかなぁ。

● チャイコフスキーの5番といえば,誰でも気にする第2楽章のホルンの長いソロ。不安定を安定的に表現しなきゃいけない。
 たとえ名人であっても,迂闊に踏みこむと足下を掬われることがあるのではないかと愚察する。表現された不安定が,天然の不安定の方に傾いてしまう分岐点があるような。
 その分岐点を不安定のどこまで深部に設定できるかが,奏者の腕
那須野が原ハーモニーホール
だとすれば,相当すごいんですよ。このオケのホルン奏者はね。


● そのホルンに絡んでいくオーボエ,第1楽章冒頭のクラリネット,最終楽章終結部の金管など,聴きどころ,聴かせどころはたくさんある。そういうところで決してはずさないんだな。というわけなので,楽しみにしていた「火の鳥」よりもチャイコフスキー5番の方が印象に残った。
 つまり,だ。サマーコンサートの中で最も印象に残っている曲は,依然として2013年のブラームス4番であり続けているということ。

● 演奏についての印象を大雑把にいえば,とにかく端正だ。端正を崩さない。“東大”と知っているので,ならば“端正なはず”というイメージを作っちゃっているのかもしれない。だとすれば申しわけない話だ。“東大=端正”は成立しないはずだからね。
 しかし,演奏はあくまで端正で折り目正しいという印象。奇をてらわないオーソドックス。余計なことをしていないのがいい。端正でありオーソドックスであり夾雑物がないという,そのありようが徹底している。

● 開演前に大田原市長の挨拶があった。なぜ市長が挨拶? おそらく百パーセント善意だよね。東大オケに敬意を表してのことでもあり,この施設の存在をアピールしたくもあり。
 が,可能であれば,この種の善意は毅然と断ってほしい。やっぱり場を冷やすんだよね。市長も短い挨拶で切り上げたのだが,それでも場を冷やす。演奏会には演奏以外のものがあってはならぬと,ぼくは思う。まして,クラシック音楽と市長挨拶なんて,ほとんど水と油だ。
 が,市長側からこの種の申し出があった場合,それを拒否するのは難しかろう。一番いいのは,市長側が自制してくれることなんだがな。ここは田舎だよって言ってるようなものだし。田舎なのは来てみりゃわかるんだから,わざわざ言う必要はないわけだよね。

● 演奏以外のものはない方がいいという場合,恒例になっている「歌声ひびく野に山に」を客席と一緒に歌うという試みはどうなのか。恒例になっているくらいだから,支持されているというわけなのだが,以下に考察する。
 短い歌だから,たんに歌うだけなら短時間で終了する。が,歌い始めるまでが長く,こちらに真骨頂がある。真骨頂の核はコント(?)で,たぶん複数の構成作家が関わっているのではないか。台詞はよく練られているし,話者もしすぎない程度の練習をしているだろう。
 「長めの前奏」も特徴的だ。栃木県民の歌などが折り込まれる。地元をよく研究して,サービスに努める。ソツがない(ほめ言葉になっているか)。これで観客がイヤな気分になるわけはない。というわけだから,このバラエティーは演奏のうちに含めることとする。

2019年7月31日水曜日

2019.07.28 大宮シンフォニーオーケストラ 15周年記念定期演奏会

彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール

● やっと梅雨があけた。日照不足が心配されていたが,あけたとたんに強烈な太陽光線が照りつけてるわ。今日もうんざりするほど暑い。
 何かさぁ,ぼくが子供の頃は(つまり,大昔なんだが)30度を超えると大台に乗ったと思ってた記憶があるんだよね。今みたいに35度とか37度なんていう暴力的な暑さはなかったよね。と,そういうことを言ってみても仕方がないんだけどね。

● その暑い中を与野本町駅からさいたま芸術劇場まで歩いたよ,と。たいした距離ではぜんぜんない。ないんだけれども,クランクラン来るよ。でもって,さいたま芸術劇場の中は冷房が効いてて,ワォッ,天国。
 どうでもいいんだけど,ここ,さいたま市じゃなくて埼玉県が運営してるんだからね。ほんと,どうでもいいんだけど。川口と所沢にも立派なホールがあったよね。埼玉,すげぇな。

● ところで,さいたま芸術劇場に何しに来たのかといえば,大宮シンフォニーオーケストラの定演を聴きに来たのだ。
 今日は東京も含めて,いくつもの演奏会が同じ時間帯にあった。で,どこに行こうかな,神様の言うとおり,とやったわけではないんだけど,わが家から最も近いさいたま芸術劇場にしたのだ。わりと安直な理由なのだ。この日,地元の栃木県で何かやっていれば,そちらにしたろう。

● この楽団の演奏は初めて聴く。開演は午後2時。当日券を買って入場。チケットは1,700円(前売券なら1,500円)。
 曲目は次のとおり。指揮は榎本範子さん。
 チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番
 モーツァルト 「ミサ・ブレーヴィス」より “キリエ”“アニュスデイ”
        「12のミサ」より “グローリア”
 ベートーベン 交響曲第5番

● 15年前にジュニアオーケストラで発足したそうだ。現在でも中学生の団員もいるらしく,その名残をとどめているっぽい。
 まず,チャイコフスキーのピアノ協奏曲。独奏は琴香さん。一般公募で選出したという。オーディションをやったってことだろうか。
 久しぶりに聴く。そうだよ,こういう曲だったよな,っていう。

● コンマスは福田悠一郎さん。トレーナーがそのままコンマスを務めたってことだろうかね。結局ね,その福田さんが客席を視線を集めていたと思うんですよね。
 この曲の演奏中は,何度もソリストに視線を飛ばし,弓で指揮までしていた。ソリストからは指揮者が見えづらかったんだろうかね。琴香さんに指揮を中継していたんだろうかな。
 ま,ともあれ。ダイナミックに身体を使うものだから,目立つこと,目立つこと。こいつ,何者なんだと思って,ずっと彼を見ていた感じね。

● ここで休憩。次がモーツァルトのミサ曲。小品をいくつか。「12のミサ」は偽作とされるが,小体の洒落た感じの曲だと思った。
 合唱は「大宮シンフォニア合唱団」と「合唱団Canetis」。後者は賛助出演。今どき珍しい男声優位。メンバーのうち誰がどちらの合唱団なのかはわからないが,「合唱団Canetis」は男声合唱団なんですかね。だとすると納得。

● 最後がベートーヴェンの5番。福田悠一郎さんのほかに,ゲストチェロ奏者に市寛也さん(N響)もいた。彼はトレーナーではないようなのだが。
 でね,彼らがいたからというわけではないんだけど,とわざわざ断らなければいけないほどに,この5番は聴き応えがあった。曲が曲なんだから,よっぽどヘマをやらなければ聴き応えがあるものだ,と言われればたしかにそうだ。
 それにしても,だ。堪能できた。1st Vnを例にとれば,男性のセカンド奏者もコンマスの後ろにいた女性奏者も,相当な腕前とお見受けする。

● あなた(ベートーヴェン)が最も気に入っているのは?
 エロイカです
 5番ではなくて?
 いえ,エロイカです

 っていうエピソードが伝わっているけれど,これは本当なのかね。後で誰かが作った話っぽいなぁ。日本の山々に例えれば,富士山にあたるのが5番だろうがなぁ。

● アマオケでね,チケットが1,700円っていうのはね,わりと強気っていうかさ,けっこう取るなという感じがする。
 が,それくらいは取ってもいいよね。この内容ならばね。琴香さんのピアノを聴けて,コンマスのパフォーマンス(?)が見られ,今どき珍しい(と思われる)高水準の男声合唱を聴くことができて,ベートーヴェンの5番。
 満足のうちに,熱暑の戸外を歩いて家路に就いたんでした。

2019年7月27日土曜日

2019.07.20 どこかで聴いたクラシック・唱歌の名曲選-ポリオ根絶チャリティーコンサート

宇都宮短期大学 須賀友正記念ホール

● 主催は宇都宮西ロータリークラブと宇都宮短期大学附属高校インターアクトクラブ。実際には会場も提供した,宇都宮短期大学音楽科が筋道をつけたのだろうが。開演は午後2時。入場料は1,000円。
 言っておくが,ポリオ根絶に協力しようなどという殊勝な志は,ぼくにはない。にもかかわらず,この演奏会に行ってみようと思った理由は2つある。

● ひとつには,オーケストラの演奏はしばしば聴く機会があって,実際に聴いているけれども,それ以外のソロとか室内楽といった小規模な演奏を聴く機会が少ない。
 いや,機会じたいはあるのかもしれない。そうした機会の告知を見逃しているだけなのかも。そうした演奏は聴き手のレベルも直裁に問われるようで,少し怖いと思っているから。
 ともあれ。今回はその少ない機会であるに違いない。しかも,“どこかで聴いた” となればとっつきやすい。

● もうひとつは,情報収集だ。コンサート開催の情報収集の手段はいろいろあるけれども,ぼくの場合だとネットよりも,コンサートに出向いた際に,入場時に渡されるチラシに依存している度合いが高い。プログラム冊子に折り込まれるチラシだね。
 で,オーケストラの演奏会で渡されるチラシはオーケストラのものが多い。オーケストラ以外の演奏会の情報が入ってこない。しかも,オーケストラ情報はネットでも容易に見つけることができるのだが,非オーケストラ情報はこれが意外に難しい。
 要するに,チラシをもらうため。だから,こうした演奏会でチラシが少ないと,何だか損をしたような気分になる。

● さて。前半はフルートの栗田智水さんとヴァイオリンの渡邊響子さん。
 まずはフルートから。曲目は次のとおり。
 ドップラー ハンガリー田園幻想曲
 ピアソラ リベルタンゴ
 村松崇継 EARTH

● 「EARTH」は初めて聴くものだが,あとの2曲はたしかに馴染みがある。「リベルタンゴ」は栗田さん自身のフルートで過去にも聴いたことがある。
 「リベルタンゴ」に限らず,よく聴かれる曲は大衆性を持っているからだが,大衆性の成分は何なのか。これがわからない。後講釈をしようと思えばできなくもないと思うけれども,つまるところはよくわからない。
 大衆性を持っているからよく聴かれるのではなく,よく聴かれる曲を大衆性があると言うのだ,と言うしかない。

● ここまでのフルート捌きは,ぼくからすればはっきりと異能だ。ここまでになるのにどれほどの時間とお金と心労を注ぎ込んできたのか。
 ぼくらは客席にいて,その上澄みをすくって飲んでいるようなものだ。一番得な役回りだ。
 奏者は批判されることがあるが,観客にそれはない。つまり,奏者は生きているが観客は死んでいる。絶対に批判されることのない側に身を置くことは,極端にいえばそういうことだ。
 しかし,その観客なくして音楽は(たぶん)成立しない。時々,やるせなくなることはないのかと思う。

● 渡邊さんのヴァイオリン。曲目は次のとおり。
 エルガー 愛の挨拶
 モーツァルト アイネ・クライネ・ナハトムジーク(第1楽章)
 クライスラー ネグロスピリチュアル
 ドヴォルザーク ユーモレスク
 モンティ チャルダッシュ

● いずれも耳に馴染みがある。かつ,いずれも聴き応えあり。
 その中からひとつあげろと言われれば「チャルダッシュ」。曲が “大衆性” を持っているのに加えて,奏者の技術がすごいんだわ。ため息が出る水準。ガッガッガッと攻めていて,その攻め方が的確なんでしょうね,小気味いいんですよ。
 おそらくジプシー音楽の成分が入っているのだろう(→ “チャルダッシュ” とはジプシーの民族舞踏の名前であるらしい),人生の切なさ,囲われていてそこから出ることができない虚しさのようなものが伝わってくる。

● モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」をソロで聴く機会もあまりない。こういう演奏で聴けるなら,むしろソロで聴いた方が紛れがない。
 ドヴォルザーク「ユーモレスク」を聴くと,雨,雨,降れ降れ,と詞をつけたくなるのは,どういう訳の訳柄だろう。
 ともあれ。ここまでのヴァイオリンを栃木で聴けるというのは少々以上の驚きで,彼女を追っかけてみたくなる。プライベイトでそれをやったのではストーカーだから,コンサートの追っかけというわけなんだけど,追っかけてみる価値は間違いなくあると感じた。

● 前半の最後はフルートとのヴァイオリンでドップラー「アメリカ小二重奏曲」。ここまで聴いて,募金をするために慌てて席を立った。入場料の1,000円だけですませていてはいけないような気がした。

● 後半は声楽とピアノ。まず,声楽。奏者は荒川茉捺さんと早川愛さん。
 リスト 愛の夢(荒川)
 プッチーニ 歌劇「ジャンニ・スキッキ」より “私のお父さん”(早川)
 その後は,お二人で日本の唱歌。
 滝廉太郎 花
 成田為三 浜辺の歌
 山田耕筰 赤とんぼ
 中田喜直 雪の降るまちを

● 前半からずっとピアノ伴奏は益子徹さんが務めた。声楽ではMCも担当。
 で,最後のピアノは大嶋浩美さんで,ショパンの「ノクターン」と「華麗なる大ポロネーズ」で締めた。

● というわけなのであって,チャリティーの趣旨は趣旨として,コンサートの中身だけ取り出すと,これで1,000円はあり得ない料金ということになる。
 と思うがゆえに募金もしたわけなのだ。かなり満足度が高い。

2019年7月25日木曜日

2019.07.15 ザ・シンフォニカ 第66回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは2,500円。当日券を買って入場。
 ザ・シンフォニカの名声はかねてから聞いている。実際に聴いたこともあると思い込んでいたんだけど,じつは今回が初めてなのだった。
 曲目はワーグナー(マゼール編)「言葉のない指環」。楽劇「ニーベルングの指環」を管弦楽のみで演奏できるように,マゼールが編んだ抜粋版であるらしい。指揮はキンボー・イシイ氏。

● 演奏時間は70分。「ニーベルングの指環」を70分に圧縮するんだから,抜粋の範疇を超えているかもしれない。
 不思議なテイスト。最初から軽い酩酊感に襲われた。次に睡魔。昨夜はたっぷり寝ているので,眠くなるはずがない。脳が酩酊感から逃れようとした結果かもね。

● 「ニーベルングの指環」を生で観る(聴く)機会が一度でもあるかどうか。たぶん,ないだろう。
 CDも持っているが,オペラだけはCDで聴く気になれないでいる。意味がわからないとどうにもならないからで,CDに付いている訳詞冊子を見ながら聴いても,付いてけるかどうか覚束ない。
 スカパーの“CLASSICA JAPAN”ではたぶん全曲を放送することがあると思うんだけども,そのためだけにスカパーに加入するのは面白くない。というより,スカパーって残れるのかどうかも疑問だ。
 YouTubeにもかなりの数の映像が上がっているが,さすがに全曲というのはまだないだろう。

● となると,DVDで観るのが現実的な選択ということになる。6年前の5月に一度,DVDで全部を見た
 「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々のたそがれ」を毎晩ひとつずつ観ていこうと思ったんだけど,とてもとても。かなりの日数をかけてしまった。
 ストーリーといい,場面の広がりといい,登場人物の多さといい,途方もなく大きな物語で,ぼくにはストーリーに付いていくだけで精一杯だった。いや,ストーリーをたしかに追えたかどうかさえ疑わしい。4つのそれぞれが普通のオペラより長かったりするんだもんね。
 なるほど,これを舞台にかけるのは生半なことではないとすぐに了解した。

● これほどの壮大さをワーグナーはひとりで作ったわけだ。物語の起伏も脚本も舞台設定も,もちろん音楽も。狂気と呼びたいほどの入れ込みようだ。
 で,情けないことに,DVDで観るのももう諦めていたというか。

● でも,今回の演奏を聴いて(ときどき,睡魔に負けてしまったのだが),リベンジの気持ちが兆してきた。せめてDVDは聴き直そうよ。
 が,その壮大さを映すにはパソコンの画面では小さすぎるかもしれない。映画館なみのスクリーンが必要かも。

2019年7月23日火曜日

2019.07.14 東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団 第41回定期演奏会

大田区民ホール・アプリコ 大ホール

● 開演は午後2時。入場無料。ただし,チケット制。確たることは言えないけれど,当日券があるとは思わない方がいいのではないか。事前に申し込んでおくのが吉。
 今回はシューベルトの2番とベートーヴェンの3番だった。アンコールがハイドン「驚愕」の第2楽章。指揮は原田幸一郎さん。

● 初めてこの楽団の演奏を聴いたときの,それこそ“驚愕”ははっきりと憶えている。巧すぎる。この楽団はインカレであって,東京大学を冠しているけれども,他大学の学生もいるし,卒業生(社会人)もいる。
 にしても,非音大が主体だ。それでここまで行けるのかという驚き。おそらく,音大を受けていれば合格できた人たちばかりだろう。

● ぼくからすれば,東大に合格するというのも異能なら,楽器を操るのも異能に見える。おまえもやってみろと言われたって,どちらもできない。
 その異能を2つも備えているのだ。“能”なしからすれば,文字どおり自分が形なしに見えるではないか。

● ぼくもそうだけれど,お客さんの過半はリピーターだろう。帝国ホテルの常連さんが帝国ホテルなら間違いないと思うがごとく(もちろん,ぼくは泊まったことがない),この楽団なら間違いないと思っている。
 その期待を裏切ることがない。インカレとはいえ,メンバーの入れ替えは毎年あるはずで,にもかかわらずこの水準を維持できているのは(厳密にいえば年によって波はあるにしても)それそのものが壮観でもある。

● シューベルトの2番は(たぶん)初めて聴くものだ。CDは持っているけれども,聴いたことはない。こういう曲だったのかと思うだけだ。
 が,この初めて聴いたのがこの演奏だったことはラッキーというべきだ。たぶんCDを聴くことになるだろうから。こうして広がりができていく。
 かどうかは,まぁ,こちら次第なんですけどね。4番もこの楽団の演奏で聴いて,同じように思ったんだけど,今のところ広がっていないから。少し,自分に喝を入れた方がいいかもな。

● ベートーヴェンの3番はもう圧巻としか言いようがない。特に第2楽章。葬送行進曲と言いながら,曲じたいにしめやかさはあっても湿っぽさはない。ときに,伸びやかに音が広がっていき,明るさがパーッと盛りあがる。
 むしろ,そこのところが聴きどころではないかと思っているのだが,聴きどころがこちらの期待以上に届いてくるのは,なんとも幸福だ。

● 穴というものがない。三遊間も鉄壁だし,一塁への送球も逸れることがないし,ライトもセンターもレフトも守備範囲が広い。取りこぼしがない。野球にたとえればそいういうこと。
 どのパートも水準が高い。トレーナーのプロ奏者も加わっているのだけど,彼らが引っぱっているという感じでもなく,個々の技量が確かなのだ。互いをちゃんと聴きあっているのは言うまでもない。
 その中でしいていうと,弦,特にヴァイオリンの滑らかさはいったい何事であるか。

● もうひとつ。ここは以前から女性のドレスに色制限がない。黒でなければいけないというんじゃない。ので,赤,青,黄,ピンク,緑などカラフルな装いで登場する。
 以前はウェディングドレスのような白もあったんだけど,こういうところにも流行があるんだろうか,今はおとなしめになっている。
 ぼくなんかは思いっきり派手にやってくれないかなと思う方なんだけども,とにかく目でも楽しめるわけなのだ。眼福とはこういうことを言う。

● 入場は無料だけれども,カンパを募る。アマオケの入場料なんかを勘案して,千円札2枚と決めている。ケチくさいこと言ってないで,万札2枚しろよ,ってか。実際,千円札以外の札を入れている人もいた。
 年2回の定演のどちらにも行けるんだったら,賛助会員になってしまうのが正解だと思う。ぼくは冬の定演が厳しいので,その都度払いにしてるんだが。

2019.07.13 ヨハネス・ブラームス・フィルハーモニカー 第15回演奏会

北とぴあ さくらホール

● 王子に来るのはこれが2度目。飛鳥山公園や王子神社が駅の近くにあって,退屈しないで数時間は過ごせるところ。今回も3時間前に到着して,それらの名所を経巡った
 それに王子といえば,かの中村天風さんが生まれたところ。当時は豊島郡王子村で,今の殷賑はなかったに決まっているけれども,天風さんは王子神社の境内を遊び場にしていたかもしれない。

● 開演は午後2時。チケットは1,500円。当日券で入場。
 この楽団の演奏を聴くのは,今回が初めて。曲目は次のとおり。指揮は福田光太郎さん。
 ブラームス ハンガリー舞曲第19番
 ドボルザーク チェロ協奏曲
 ブラームス 交響曲第3番

● ハンガリー舞曲はオペラでいえば序曲のようなもので,さぁこれからが本番ですよというわけだろう。
 で,ドボルザークのチェロ協奏曲。ソリストは印田陽介さん。新進気鋭の若手による演奏といっていいだろうか。ソリストのみならずオケもそうで,真面目かつ誠実に取り組んでいるという印象。

● いや,真面目じゃなく誠実でもないというアマチュアオーケストラにはまだ出会ったことがないから,それだけならば One of Them にすぎないわけだ。真面目かつ誠実が形になっていなければならない。つまり,演奏に出ていなければ。
 東京にはセミプロかと言いたくなるアマオケが十指を超えるだろうから,その中にあって存在感を出していくのは容易じゃない。そんなことのために楽器を続けているわけじゃないと言われるかもしれないけど。

● 実際,アマチュアでここまで演奏を聴けるんだったら,プロのオーケストラなんて要らないんじゃないの,と思うことがしばしばある。
 このオーケストラにも音大卒業者がかなりの数いるだろう。そうとわかる演奏をやっている。

● ブラームスの3番をひと言でいえば,熱いブラームスだった。熱いブラームスっていうのは,それだけだったらもう何度も耳にしているはずなのだが,その熱さ加減にオケの個性というのか,あるいは指揮者のベクトルかもしれないが,ならではものが出る。
 たぶん,解釈とかそういう人為を超えたものがあって,それが自ずと個性になる。

● と,どうも一般論しか言えないのは,じつはほとんど聴いていなかったからだ。いったい自分は波野をしにここに来て,この席に座っているのか。
 こちらのコンディションが最悪だった。ある特定の人物に対する喜怒哀楽の怒がマグマのように次から次へと脳内に噴出して,制御しかねた。
 せっかくの演奏にまるで入っていけなかった。こういうこともあるんだな。

2019年7月22日月曜日

2019.07.07 歌劇「歌法師 蓮生」 宇都宮市民芸術祭40周年記念事業

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。チケットはSとAの2種。行こうか行くまいか。後者に傾いていた。が,その傾きを押し返して,出かけてみましたよということ。
 なので,当日券を買って入場した。A席の当日券が3,500円。

● 鎌倉幕府の御家人であった,宇都宮家第5代当主の宇都宮頼綱が出家して実信房蓮生と号した。その蓮生が物語の主人公。
 「百人一首の生みの親「歌法師 蓮生」物語」というのが副題なんだけれども,いくら何でもそれは言いすぎだろうと思われることはさておく。

● さておくけれども,小倉百人一首は藤原定家が編纂したものであって,だからこそ価値を持つ。室町後期に出た「宗祇抄」によって,小倉百人一首は一般にも知られるようになった。それによって,蓮生の名も後世に残ることになった。
 蓮生は発注者には違いないし,発注できるだけの財と縁戚関係を築いていたことは間違いないけれども,触媒としての役割に限ってもその功績は限定的ではないか。蓮生は歌人としてよりもむしろ武人として,あるいは事業家として,時代に対して貢献しているように思われる。

● 蓮生は伊予国守護にも任ぜられている。彼自身が任地に赴いたのかどうかは知らないけれども,愛媛県の西部(大洲,八幡浜,宇和島あたり)には,かなりの数の宇都宮さんがいる。
 彼らのすべてが宇都宮氏の子孫かどうかはわからないが,宇都宮氏の子孫が宇都宮市に存在しているとは聞いたことがない。本貫の地ではなく遠く離れたところに命脈を保っているのは,しかし,普通にあることだろう。

● 蓮生は88歳で京都で没している。当時の88歳だ。歌にだけ没頭していた,内省的で青白きインテリであったはずがない。
 彼にとっての歌は,おそらくそれなしではすまないというものではなく,スタイルのひとつに過ぎなかったのではないかと思ってみる。宇都宮歌壇というのも,自分を装飾するもののひとつだったと見なしていたろう。
 若い頃の波瀾万丈や散財を思うと,遊びも派手であったろう。むしろ,そういうところにぼくは惹かれる。誰か彼の人物像を再造形してくれないだろうか。

● ところで,これはオペラなのかオペラとは似て非なるものなのか,面白いのかつまらないのか。どうもよくわからなかった。判別がつかない。
 まず,合唱を除くと歌らしきものがない。第2幕第1場の為家と小萩の二重唱が唯一の例外。あとは歌なのか節の付いた台詞回しなのか,どうもよくわからん。

● その台詞が冗長だ。冗長と感じるのは台詞で状況や経過の説明をしているからで,その説明はすべて要らないのじゃないか。
 なぜかというに,傀儡子を3人も登場させて,説明を請け負わせているからだ。それで背景は充分にわかる。

● それとは別に,言葉の刈り込みが足らないと感じた。というか,刈り込んでいない。足し算ばかりで引き算がない。
 まぁ,引き算は気づきにくいから,きちんと抑制は効かせてあったのに,こちらが感知できなかっただけかもしれない。その可能性は大きい。
 その上での話なのだが,その台詞を聴かされるのは,たとえ節が乗っていたとしても,けっこう辛い。

● 逆にいうと,この脚本でここまで持ってこれたのは大したものだとも思う。照明の使い方,セットの使い回しといった舞台設営の妙もあるのだけれど,蓮生の奥方の初瀬を演じた伊藤裕美さんの功績が大きい。
 それから,舞台袖に控えて尺八を担当した福田智久山さん。この尺八がじつにもって効果的で,空気を切り裂かないのに鋭角的に遠くまで吹き渡っていく。不思議な調べだな。
 千年前の京都という設定にうまくはまるのだ。この舞台の前提には“幽玄”が横たわっている。いや,そうであるはずだという前提にこちらが立ってしまっている。その浅はかな思い込みかもしれないこちらの姿勢に,尺八は絶妙に絡んでくる。

● 結局のところ,オペラっていうのは,演者の個人技の集積だと思っている。総合芸術には違いないんだろうけど,核にあるのは個人技。脚本だの演出だのは,その邪魔さえしなければそれでいい。
 どうもモヤッとしたものが残るのは,その個人技を十全に出させていなかったからではないか,と。