2013年5月16日木曜日

2013.05.15 間奏28:黄金週間にワーグナー「ニーベルングの指輪」を観る

● どこかに連れて行けとせがんでくる年齢を,わが息子ははるかに過ぎた。夫婦で行くのは近くのショッピングセンターくらいのものだ。
 ゆえに,ありがたくも黄金週間はどこにも出かけなくてすむようになった。黄金週間に限らない。年末年始も出かけなくなった。出かけなくなると,出かけたくもなくなる。いい悪いは別にして,そうなる。

● で,自ずと暇ができる。暇っていいもんだね。その暇にあかせて,今年はワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」を観ることに挑戦。
 ま,挑戦っていうほどのことでもないね。DVDを観るだけのことだからね。
 生でこのオペラを観る機会は,この先たぶん一度も訪れないだろう。しかし,今はDVDなるものがある。ありがたくも便利な時代になったものだ(昔だってVHSビデオがあったわけだけど)。

● DVDで観ても観たことにはならないよ,って言われるかもしれない。っていうか,自分でもそう思っている。管弦楽をCDで聴いても,聴いたことにはならないのかもしれないなぁ。
 これを厳密に適用すると,一生の間に観られる演目,聴ける曲目は,ほんのわずかだってことになりますな。観たり聴いたりするのは,なかなか難儀なことだ。
 でも,せっかく文明の利器があるんだからね。その利器を使うことによって,観るや聴くに近い体験が可能になるわけだから。あんまり厳密に考えるのはよしましょうよ,ってことで。
 DVDを観るうえで気をつけなければいけないことは,DVDが手元にあるんだから何回でも観れると思ってしまうことでしょうね。集中が甘くなる。それこそ観たことにならない結果になりがちかも。

● 「ニーベルングの指輪」はご承知のとおり4部作。ひと晩にひとつずつ観ていくことにしよう。
 使用したDVDは,小学館が出している『魅惑のオペラ』シリーズ。 演出はハリー・クプファー,指揮はダニエル・バレンボイム。
 その前に,「ニーベルングの指輪」がどんな作品なのか,「ウィキペディア」で確認しておく(DVDに付いてくる解説書は読まず)。こういうものはザッと知っておけばよい。精確でなくてもかまわない。観りゃわかるんだから。
 むしろ,事前に詳細かつ正確に知ってしまっては,鑑賞の妨げになるとしたものだ。日本版のウィキペディア程度でちょうどいい。

● 4月27日(土)に“序夜「ラインの黄金」”,28日に“第1夜「ワルキューレ」”,5月2日に“第2夜「ジークフリート」”,3日に“第3夜「神々の黄昏」”というスケジュール。

● 前提としてギリシア神話と聖書くらいは知っておく必要があるんでしょうね。ワーグナーは北欧の神話から着想を得たらしいんだけど,ヨーロッパの神話って地域差があまりないでしょ(あるのか)。ギリシア神話で代表させても,とりあえずいいかな,と。
 それをしないで,これだけ観ても,わかる度合いはかなり浅くなるのかもしれないね。もちろん,ぼくはどちらも知らない。聖書なんて一度も読んだことがないし,聖書を読んだところで,それだけでキリスト教に対する欧米人の感覚がわかるわけもない,と諦めてもいる。
 つまりは,「ニーベルングの指輪」を見ても,かの国の人たちがわかるわかり方には,ぼくらは至れないだろう。どうあがいてみても。あがくつもりもないけど。

● で,まず「ラインの黄金」。
 冒頭は地下の国に住む「水の精」3姉妹の踊りから。つまり,お色気から始まる。悪くない感じ。
 そこにニーベルング族の男(アルベリヒ)が忍び込んでくる。何が目的でやってきたのかはわからない。3姉妹を誘惑しに来たのかもしれないし,3姉妹におびき寄せられたのかもしれない。道に迷った結果なのかもしれない。
 当然にして誘惑は成就しないんだけど,3姉妹がラインの黄金の話を彼にしてしまう。で,黄金を彼に奪われてしまう。

● このあたりがさ,男が描いた女って感じがするね。コケティッシュでセクシーで,可愛らしくてちょっとおバカ。そんな女性がいるはずない(それを演じようとする女性は,ときにいる)。早い話が,バカと可愛らしさは両立しないからね。
 でも,物語の初発はここ。ちょっとおバカなお色気ネーチャンが,いうなら原爆の発射ボタンを押したわけね。

● 後半は神々が登場。キリスト教以前の神なんでしょうね,当然。あまりに人間的な神。欲望に負けそうになったり,奥さんを持てあましていたり。

● 「ワルキューレ」になってから,物語が活発に動き始める。ここでも最初の推進力は,神様の親分(ヴォータン)が奥さんを黙らせることができなかったことに発する。
 彼が奥さんを説得できていれば(浮気がらみだから,できっこないんだけど),ジークムントは幸せに生きることができたろうに。妹でもあるジークリンデの尻にしかれて。
 ま,それでは劇にならないわけだけどさ。

● ヴォータンがブリュンヒルデを岩に閉じこめる前の,二人のやりとりは圧巻。自分の眠りを最初に覚ました男の妻にならねばならぬと告げられたブリュンヒルデが,臆病者の妻にだけはなりたくないとヴォータンに懇願するところなんて,鬼気迫るものがありますな。
 でもさ,そんなに嫌なのか,臆病者の妻になるのが。とすると,ウチのヨメは可哀想だなぁ。
 言っておくけどね,臆病じゃない男なんてそうそういないよ。男って,基本,弱くて脆くて臆病なもんだよ。女のようなしなやかさは持ちあわせていないよ。だって,神さまがそう造ってるんだもん。

● DVDはパソコンで観ているんだけど,5月2日の夜,「ジークフリート」を観始めたところで,そのパソコンが逝ってしまった。予備機は持っていなかった。
 で,黄金週間中に「ニーベルングの指輪」を観終えることができなくなった。あらためて,5月12日(日)に「ジークフリート」を鑑賞。

● ジークフリートって勝手なガキだよ。育ててもらった恩を忘れて,ことごとくミーメに反抗する。それはないだろうよ。
 ミーメもジークフリートを操って指輪を手に入れようとするわけで(しかも,指輪を手にしたら,ジークフリートを始末しようと考えている),ワルっちゃワル。しかし,描かれ方がユーモラスでピエロっぽいから,ワルという感じは前面に出てこない。

● でもそうじゃなかったら,ドラマにならない。賢い若者だったら,どうにもなりませんな。
 賢は何も生まないが,愚はドラマを創る。賢は平板だが,愚は起伏に富む。賢者とは愚者になり損ねた者のことかもしれぬ。
 というようなことをチラチラ思いながら,展開を追った。

● ジークフリートがブリュンヒルデの眠りを醒ます。醒めた直後の彼女はまだ神だ。だんだん神としての知恵がかすみ,人間の度合いが増していく。そのさまを描くのに,執拗と思えるほど細かく歌を刻んでいく。見せ場だもんね。
 人間になったブリュンヒルデとジークフリートが手を取りあって,思いっきり歓喜を発散させて,「ジークフリート」は終了。ただし,このまま順風満帆に進んでいくはずはない。

● 「神々の黄昏」は14日と15日に分けて観た。寝不足が続く。黄金週間に観ることができてれば,ずっと楽だったんだけどね。
 パソコンのやつ,肝心なときに壊れてくれたなぁ。

● 前半の白眉は,謀られてブリュンヒルデを他の男に与えようとするジークフリートが,当のブリュンヒルデと対峙する場面。ストーリー的にもここは山場。管弦楽も効果的に緊張感を演出する。
 それにしても,いとも簡単に謀られてしまうんだなぁ。稀代の英雄も形なしじゃないか。って,そういうことを考えてはいけないね。これはお約束ごと。

● 結局,ブリュンヒルデはジークフリートを許すことができず,彼の唯一の弱点をジークフリートを謀ったハーゲンに教える。
 自分を裏切ったといっても,謀られてのことだぞ。自分をヴォータンの怒りから救ってくれた恩人だぞ。しかも,この人しかいないって決めた相手だぞ。
 それなのに殺してしまうのか。って,これも神話的ストーリーの常道であって,ここに異議をさしはさむのは,これまた,お約束ごとに反するだろう。

● 第3幕は大団円に相応しい盛りあがり。
 ただし,どうも細かなことが気にかかる。指輪にはアルベリヒが呪いをかけ,それを持った者は死を免れないことになっている。ただし,恐れを知らないジークフリートにはその呪いが効かない。けれども,この幕にいたって呪いが効くことに変わっていた。なんで? 謀られはしたけれども,臆病者になったわけじゃないんだけどね。
 最後の最後。神々の世界もジークフリートもブリュンヒルデも灰になって,何もかもが消滅したあとに,愛の復活ってことなんだろうけど,現代風のパーティー会場が現れる。そこで幼い男の子と女の子が手をつないで終わる。この演出,どうなんだろう。

● このオペラって傑作なのか? 傑作なんだろうけど,正直なところ,そのへんの判別がつかなかった。
 これをひとつの作品として捉えれば(4つの作品の集合とは看做しがたい),やはり長すぎる。冗長さを感じることはなかったんだけど,観る側もそれなりの覚悟と忍耐を要求される。それを支払ってまで観るに値するかといわれると,少々微妙なところ。
 ぼくには高級すぎたのかもしれない。将棋の初心者がプロ棋士の対戦棋譜を見ても,意味がわからないのと同じことかも。

● 終始,舞台をおどろおどろしさが支配する。舞台をおおう色は,基本的に黒。大衆性を獲得するにはマイナスだろう。オペラは芸術であって,大衆性なんて要らない? うん,そうかもしれないけど。

● やっぱりDVDじゃ観たことにはならないかもなぁ。オペラというより映画のように見えてしまうんだよね。
 登場人物のキャラ設定にしばしば破綻が見られるし,ご都合主義的な場面転換もある。生で観ていれば,その破綻やご都合主義は気にならないものだと思う。演者の歌やバックの管弦楽がそんなものは吹っ飛ばしてくれる(だろう)。劇に没入できる。オペラとはそういうものだと思うことができる。
 が,これが映画になってしまっては,そうはいかない。破綻として,ご都合主義として,映ってしまうんですね。

● 本来,破綻はあるのがリアルですよね。キャラが首尾一貫している人なんて,それこそドラマの世界にしか存在しないわけで。
 最古の物語である神話にも,この二つはふんだんにある。ギリシア神話にしても日本の神話にしても,これが付きものだ。

● DVDのもうひとつの問題点(問題とはいえないかもしれないけど)。
 ルックスが決定的に重要になりますね,DVDで観る場合は。いくら歌が上手くても,ルックスが役柄に沿っていないと,観ててかなり苦しい。
 生の舞台だったら観客に想像力の喚起を求めてよいと思うんだけど,DVDでそれをやれと言うのは,男に子供を産めと要求するようなものだ。
 これからオペラを楽しむ人が増えるのか増えないのか。もし増えていくとすれば,ぼくのような者も観ることになるわけだから,観客の鑑賞水準は下がるはずだ。鑑賞水準が下がれば,演者におけるルックスの比重は上がらざるを得ない。まして,DVDで観る人が増えるとなると,ルックスを等閑に付すことは許されなくなる。
 実際,この傾向はすでに出ているんだと思う。若手歌手のルックスって,昔に比べれば格段に良くなってない?

● ルートヴィヒ2世がバイエルンの国家財政を傾けるほどにワーグナーに入れあげていなければ,このオペラは上演される機会を得なかったかもしれない。でも,上演のあてがなくても,ワーグナーは作ったろうね,これを。
 結局ね,ある種の狂気だよなぁ,こういうのを作っちゃうのって。健全な社会人では絶対できないはずだよなぁ。作曲の才能の問題は考慮の外においても。

● ワーグナーの時代にこのオペラを観れた人って,ごくごく少なかったし,今でも少ないだろう。日本人なら尚更だ。当然,ぼくにしたって,DVDがなければ,話には聞くけどねぇ,で終わっていたはずだ。
 何を言いたいのかといえば,DVDを観ることができるだけでもありがたいと思え,ライヴを観れれば印象が違ってくるだろうなどと,たわけたことを言ってるな,ってことなんですけどね。

● ストーリーの詳細は頭に入ったわけだから,以後は映像なしのCDを聴くのが賢いかも。映像は自分の想像力で勝手に作ればいいんだもんな。DVDはCDへの橋渡し。
 とはいっても,これだけ長いんだから,CDでもそうそうは聴けないけど。

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