宇都宮市文化会館 大ホール
● 2015年11月から改修工事のため休館していた宇都宮市文化会館。工事を終え4月から運営再開。その宇都宮市文化会館で,作新学院高校吹奏楽部のフレッシュグリーンコンサート。
開演は15時。当日券を購入。1,000円(前売券は800円)。
● 会場時刻が近づくと長蛇の列。こんなに入りきれるのかと思うんだけど,行列って印象が強烈だから,実際の人数より多いと思ってしまうんですよね。文化会館の大ホールは収容人員が2千人超だから,この程度の行列なら問題なく飲み込める。
とはいえ,その大ホールがほぼ満席となった。1階最前列と2列目に空きがあったけど,あとは埋まっていたんじゃないか。
● 行列でぼくの隣にいたのは,宇都宮高校の生徒。幼顔だったからまだ1年生だろうか。一人で来ていた。おお,同士よ,若き友よ。
彼以外にも,他校生がかなりいる。中学生もいる。作新吹奏楽部はおそらく,吹奏楽の県内最高峰(社会人の吹奏楽団を含めて)。それだけ吸引力がある。
● 改修後も宇都宮市文化会館の基本的な構造は変わっていない。2階右翼席の前から7列目くらいの,一番左奥がお気に入り。そのあたりの造作もまったく変わっておらず,今日もその席に座ることができた。
音響もかなりよくなったと聞いていたのだが,吹奏楽だと音響の変化は感じにくいかもしれない。
● 例によって3部構成。第Ⅰ部はコンクールステージとでもいえばいいんだろうか。次のような曲目だった。
樽屋雅徳 ONE!
江原大介 スケルツァンド(吹奏楽コンクール課題曲Ⅰ)
木内 諒 マーチ・シャイニング・ロード(課題曲Ⅱ)
保科 洋 インテルメッツオ(課題曲Ⅲ)
西山知宏 マーチ「春風の通り道」(課題曲Ⅳ)
真島俊夫 復興
● 顧問の先生の説明によると,明日はコンクールの説明会があるらしい。今日はこのコンサートが終わった後に,その説明会に向けての練習(?)か何かがあるようだ。高校や,特に中学校の吹奏楽部の顧問の先生も1階前方に詰めているっぽかった。
今回,作新吹奏楽部が演奏した4つの課題曲は,あるいはそれらの人たちに向けての模範演奏という趣もあったのかもしれない。
● 間然したところがない。客席に届く音が二重線になっていない。いわゆる縦の線が揃っているというのとは別の話だ。縦の線も揃っているんだけども,それにとどまらない。
吹奏楽としての一体感というのか,吹奏楽というひとつの楽器があって,その楽器が鳴っているという印象。
● 「復興」の初めの方にトランペットの独奏がある。男子生徒が吹いていた。たんに楽譜をなぞっているだけではなかったろう。思いをこめていた。それを解釈といってもいいだろう。
本人が意識しているかいないかは別にして,彼は彼なりの解釈を加えたうえで演奏している。
● 第Ⅱ部はポップスステージ。
最も盛りあがったのは「栄冠は君に輝く」。昨年の定演でも歌っていた女子生徒がボーカル(?)担当。ためらいがないのがいい。度胸が座ってる子だ。
場の力も大きいでしょうね。度胸を据えるしかない場がステージにできあがっている。
● 聴いていてしみじみしたのは「スペイン」(真島俊夫編)。作新の技術の高さが遺憾なく発揮されていたといいますかね。
その「スペイン」と「ルパン三世のテーマ」ではダンスも登場。こういうときのダンスって,添え物というか,ついでにやるね,って感じになりがちで,作新といえどもその例外ではなかったと思う。
ところが,今回はそのダンスも見応えがあった。特に「スペイン」で中央にいた男子生徒。こちらの動体視力がとみに衰えているからかもしれないんだけど,動きが見えないときがあった。速いからだ。すっと消えたと思ったら,別の形になっているっていう。
● 第Ⅲ部はドリル。演し物は「オペラ座の怪人」。演じ手も用意して,ミュージカルの趣もある。が,ストーリーをステージの演奏や演技だけで追っていくのは無理だ。事前にプログラム冊子を読んでストーリーを頭に入れておいた方がいいでしょうね。
前回までフォーメーションの展開は打楽器奏者が中心になって担っていたように記憶しているんだけど,今回は打楽器は奥に陣取って,管楽器奏者が主にラインを作った。
● このドリル,見ている分にはすこぶる面白い。ストレスが吹っ飛ぶ。
が,演奏する方は大変でしょ,これ。タイミングがずれるとか,出だしの音程を取り損ねるとか,わりとありがちだろう。何より疲れるだろう。
こういうのって上手くやるコツがあるんだろうか。
● しかし,見事な仕上がりだった。この時期にここまでできているんだから,秋の定演が楽しみだ。
今年は50名を超える新入部員がいて,総勢110名になったという。50名を超える新入部員はすでにして精鋭の集まりだろう。吹奏楽をやりたいから作新学院に入学したという生徒ばかりだろう。
結果,作新吹奏楽部に死角はない。圧倒された。若い彼ら彼女らの前に,ぼくら年寄りは謙虚でなくてはならぬ。
今年度は東関東の高い壁を越えて,全国に駒を進めるに違いない,と予想しておく。
約2時間のコンサートが終了した直後の満足感は,他のものでは代替できません。この世に音楽というものが存在すること。演奏の才に恵まれた人たちが,時間と費用を惜しまずに技を磨いていること。その鍛錬の成果をぼくたちの前で惜しみなく披露してくれること。そうしたことが重なって,ぼくの2時間が存在します。ありがたい世の中に生きていると痛感します。 主には,ぼくの地元である栃木県で開催される,クラシック音楽コンサートの記録になります。
2017年5月30日火曜日
2017年5月29日月曜日
2017.05.21 東京藝術大學同声会栃木県支部 トーク&コンサート
栃木県総合文化センター リハーサル室
● 2014年に続いて2回目の拝聴。トーク&コンサートとある。プログラムから察するに,フォルテピアノについてのレクチャーと演奏,エリック・サティについての解説と彼の曲の演奏だろう。
正直,レクチャーはいいから(そういうものはネットをググればまとまった情報を得ることができるだろう),演奏だけ聴かせてくれないかなと思って,出かけていったわけなんだが。
チケットは2,000円。当日券を購入。開演は午後2時。
● まず,フォルテピアノ。トークも演奏も村山絢子さんが担当。フォルテピアノは何度か聴いているから,その音色を知らないわけではなかった。
だけども,言われて初めて気づくということがあって(っていうか,そればかりなんだけど),現代ピアノに比べて,フォルテピアノは音の滞空時間が短いというのもそのひとつ。言われてみれば,この違いは大きいでしょうね。
● メインは演奏の方で,特に最後のベートーヴェンの月光ソナタには圧倒された。村山さんはこの曲を数え切れないほど演奏しているに違いないけれど,その中でも今回の演奏は会心の出来だったのではないかと愚考する。
「月光」って激しい曲だ。その激しさは静かな第1楽章があるがゆえに際立つ。その第1楽章の静けさがジーンと来たなぁ。
● ノーベル賞を受賞したたしか益川敏英さんだったと思うんだけど,「月光」について語っていたのを新聞で読んだことがある。「月光」の第1楽章はつまらない,第3楽章だけ演奏すればいいのでは,と中村紘子さんに言ったところ,第1楽章がなかったら第3楽章もないでしょ,とたしなめられたという話。
音楽はクラシックしか聴かないとも言っていた。何というか,さすがはノーベル賞受賞者で,けっこう偏っているようだ。
● 第1楽章がつまらないというのも,独特の感性だ。益川さんが「月光」の第1楽章をつまらないと感じる所以はわからないけれども,フォルテピアノのこの演奏を聴いたら,ひょっとしたら前言撤回となるかもしれない。
いや,ならないか。そこは偏りが身上の偉人だもんなぁ。
● 後半はエリック・サティ論。こちらはレクチャーがメイン。キーワードはダダ(ダダイズム)。
ダダという言葉を初めて知ったのは,吉行淳之介の『詩とダダと私と』を読んだとき。父親の吉行エイスケ氏がダダの体現者であったらしい。
このエッセイ集は1979年に出ている。ぼくが読んだのはその数年後。
けれども,ダダとはそも何ものなのかはよくわからなかった。モボ・モガとか,タケノコ族とか,要するに若者が既存秩序に反抗して見せるパフォーマンスをいうのかと思っていた。したがって,ダダ的現象はいつの時代にでもあり得るものなのかな,と。
● 浅薄すぎる理解だった。今回の浦島真理さんのレクチャーでこのあたりの疑問が氷解した。
ダダイズムは1910年代にヨーロッパで起こった「芸術思想・芸術運動」だった。背景には第一次世界大戦に対する虚無感がある。
既成秩序への反抗を中核とするものの,理性や作為を否定するというところまで行くというのは,今回のレクチャーで知ったこと。
● それが美術においては,たとえばデュシャンの「泉」になる。男性用小便器にサインをしただけのものがなにゆえ芸術として認められるのか。
作品としての「泉」をいくら見つめたところで,理解できないだろう。時代背景を踏まえて初めて,理解に至るかどうかは別として,そういうことなのかとわかった気になる。
したがって,今,誰かがデュシャンと同じようなことをしたところで,一笑に付されて終わるしかない。小学生ですら洟もひっかけないだろう。時代の拘束力というか空気というか,その力は絶大なんでしょうね。
● 音楽家のサティにおいては,音楽はBGMであれ,ということになるわけか。「音楽」ではなく「音響」でなければならない,と。人の邪魔をしない音楽。
もともと,サティには反抗精神があったようだ。上流の人たちが行儀よく聴くものであった音楽に対して,ザケんなよ,それがナンボのもんだよ,という。
● しかし,そもそもそこに矛盾がある。当時の大衆には「音楽」も「音響」もない。たとえ「音響」であっても,演奏されるものをわざわざ聴きに行くなんてことはまずしなかったろうから。ゆえに,サティの影響力は限定的なものにならざるを得ない。
音楽の大衆化が実現するには,録音の技術とそれを再生するプレーヤーの普及を待たなければならなかった。日本でそれが本格化するのは1970年代ではなかったか。
● そして,時代は変わった。大衆も「音楽」を「コンサートホールで行儀よく聴く」ようになった。少なくとも日本ではそうだ。
邪魔にならない音楽をことさらに求める必要もなくなった。今のぼくらは,BGMとしてたとえばモーツァルトのセレナーデやディヴェルティメントを選ぶ。サティへの需要はあまりないだろう。
● さらに時代は進んで,音楽はデジタルデータに還元されるものになった。こうなると,クラシックもジャズもロックもポップスも,デジタルデータとして横一列になる。
クラシック音楽がまとっていた文化性,教養性,芸術性といったものは,もうすでに半ば剥ぎ取られているのではないだろうか。大衆化が極まると自ずとそうなるのかもしれない。
● 繊細に時代に寄り添うと,後の時代の人たちには顧みられなくなる。しかし,その時代にこういう人が生きたのだという足跡は残る。
デュシャンもサティも時代を生きた人であった。それで充分ということだろう。というか,ほとんどの人はそれができない。繊細であることはかなり難儀なことだから。
● 実演の方は,齊藤文香さんが「スポーツと気晴らし」をピアノで演奏。
● ところで。この日はTシャツに半ズボン,素足にサンダルといういでたちで出かけてしまった。どう考えたって,音楽を聴く場に行くのに似つかわしい恰好ではない。奏者にも失礼だ。
だけど。暑くてどうしようもなかったんですよ。靴なんかはいたんじゃ,足が溶けてしまいそうだったんですよ。
でもそんな格好をしていたのはぼくの他にはいなかった。無礼千万でありました。
● 2014年に続いて2回目の拝聴。トーク&コンサートとある。プログラムから察するに,フォルテピアノについてのレクチャーと演奏,エリック・サティについての解説と彼の曲の演奏だろう。
正直,レクチャーはいいから(そういうものはネットをググればまとまった情報を得ることができるだろう),演奏だけ聴かせてくれないかなと思って,出かけていったわけなんだが。
チケットは2,000円。当日券を購入。開演は午後2時。
● まず,フォルテピアノ。トークも演奏も村山絢子さんが担当。フォルテピアノは何度か聴いているから,その音色を知らないわけではなかった。
だけども,言われて初めて気づくということがあって(っていうか,そればかりなんだけど),現代ピアノに比べて,フォルテピアノは音の滞空時間が短いというのもそのひとつ。言われてみれば,この違いは大きいでしょうね。
● メインは演奏の方で,特に最後のベートーヴェンの月光ソナタには圧倒された。村山さんはこの曲を数え切れないほど演奏しているに違いないけれど,その中でも今回の演奏は会心の出来だったのではないかと愚考する。
「月光」って激しい曲だ。その激しさは静かな第1楽章があるがゆえに際立つ。その第1楽章の静けさがジーンと来たなぁ。
● ノーベル賞を受賞したたしか益川敏英さんだったと思うんだけど,「月光」について語っていたのを新聞で読んだことがある。「月光」の第1楽章はつまらない,第3楽章だけ演奏すればいいのでは,と中村紘子さんに言ったところ,第1楽章がなかったら第3楽章もないでしょ,とたしなめられたという話。
音楽はクラシックしか聴かないとも言っていた。何というか,さすがはノーベル賞受賞者で,けっこう偏っているようだ。
● 第1楽章がつまらないというのも,独特の感性だ。益川さんが「月光」の第1楽章をつまらないと感じる所以はわからないけれども,フォルテピアノのこの演奏を聴いたら,ひょっとしたら前言撤回となるかもしれない。
いや,ならないか。そこは偏りが身上の偉人だもんなぁ。
● 後半はエリック・サティ論。こちらはレクチャーがメイン。キーワードはダダ(ダダイズム)。
ダダという言葉を初めて知ったのは,吉行淳之介の『詩とダダと私と』を読んだとき。父親の吉行エイスケ氏がダダの体現者であったらしい。
このエッセイ集は1979年に出ている。ぼくが読んだのはその数年後。
けれども,ダダとはそも何ものなのかはよくわからなかった。モボ・モガとか,タケノコ族とか,要するに若者が既存秩序に反抗して見せるパフォーマンスをいうのかと思っていた。したがって,ダダ的現象はいつの時代にでもあり得るものなのかな,と。
● 浅薄すぎる理解だった。今回の浦島真理さんのレクチャーでこのあたりの疑問が氷解した。
ダダイズムは1910年代にヨーロッパで起こった「芸術思想・芸術運動」だった。背景には第一次世界大戦に対する虚無感がある。
既成秩序への反抗を中核とするものの,理性や作為を否定するというところまで行くというのは,今回のレクチャーで知ったこと。
● それが美術においては,たとえばデュシャンの「泉」になる。男性用小便器にサインをしただけのものがなにゆえ芸術として認められるのか。
作品としての「泉」をいくら見つめたところで,理解できないだろう。時代背景を踏まえて初めて,理解に至るかどうかは別として,そういうことなのかとわかった気になる。
したがって,今,誰かがデュシャンと同じようなことをしたところで,一笑に付されて終わるしかない。小学生ですら洟もひっかけないだろう。時代の拘束力というか空気というか,その力は絶大なんでしょうね。
● 音楽家のサティにおいては,音楽はBGMであれ,ということになるわけか。「音楽」ではなく「音響」でなければならない,と。人の邪魔をしない音楽。
もともと,サティには反抗精神があったようだ。上流の人たちが行儀よく聴くものであった音楽に対して,ザケんなよ,それがナンボのもんだよ,という。
● しかし,そもそもそこに矛盾がある。当時の大衆には「音楽」も「音響」もない。たとえ「音響」であっても,演奏されるものをわざわざ聴きに行くなんてことはまずしなかったろうから。ゆえに,サティの影響力は限定的なものにならざるを得ない。
音楽の大衆化が実現するには,録音の技術とそれを再生するプレーヤーの普及を待たなければならなかった。日本でそれが本格化するのは1970年代ではなかったか。
● そして,時代は変わった。大衆も「音楽」を「コンサートホールで行儀よく聴く」ようになった。少なくとも日本ではそうだ。
邪魔にならない音楽をことさらに求める必要もなくなった。今のぼくらは,BGMとしてたとえばモーツァルトのセレナーデやディヴェルティメントを選ぶ。サティへの需要はあまりないだろう。
● さらに時代は進んで,音楽はデジタルデータに還元されるものになった。こうなると,クラシックもジャズもロックもポップスも,デジタルデータとして横一列になる。
クラシック音楽がまとっていた文化性,教養性,芸術性といったものは,もうすでに半ば剥ぎ取られているのではないだろうか。大衆化が極まると自ずとそうなるのかもしれない。
● 繊細に時代に寄り添うと,後の時代の人たちには顧みられなくなる。しかし,その時代にこういう人が生きたのだという足跡は残る。
デュシャンもサティも時代を生きた人であった。それで充分ということだろう。というか,ほとんどの人はそれができない。繊細であることはかなり難儀なことだから。
● 実演の方は,齊藤文香さんが「スポーツと気晴らし」をピアノで演奏。
● ところで。この日はTシャツに半ズボン,素足にサンダルといういでたちで出かけてしまった。どう考えたって,音楽を聴く場に行くのに似つかわしい恰好ではない。奏者にも失礼だ。
だけど。暑くてどうしようもなかったんですよ。靴なんかはいたんじゃ,足が溶けてしまいそうだったんですよ。
でもそんな格好をしていたのはぼくの他にはいなかった。無礼千万でありました。
2017年5月17日水曜日
2017.05.14 矢板ロータリークラブ創立50周年記念 オペラ「泣いた赤鬼」
矢板市文化会館 大ホール
● この催しがあることを知ったのは,4月30日に矢板東高校のプロムナードコンサートを聴きに同じ会場に行ったとき。
隣にある市立図書館に「泣いた赤鬼」のポスターが掲示されていた。演者はプロのようだ。しかも,入場無料だ。じゃぁ行ってみようかという,わりと単純な理由。
● 絵本の『泣いた赤おに』は中年になってから読んだ記憶がある。梶山俊夫絵の偕成社版だったと記憶する。作は浜田廣介。
しかしながらというか,当然にしてというか,どういうストーリーだったかはすっかり忘れている。
● 開演は午後1時。ロータリークラブの記念行事のこととて,入場は無料。ただし,事前に申し込んで整理券を取っておく。
ネットで申し込んで,プリントアウトしたのを持参した。けれども,どうやら整理券などなくても入場できたようだ。受付の担当者は整理券など見ようともしなかったから。
客席は3割ほどしか埋まっていなかった。少し寂しい。が,こんなものか,だいたい。
● 「泣いた赤鬼」のストーリーはこうだった。
赤鬼は人間たちと仲良くなりたいと思って,遊びに来てよと立て札を立てた。が,人間は誰も遊びに来てくれない。
どうにかしたい赤鬼は友人の青鬼に相談する。青鬼は即座に提案する。自分が悪役になって人間たちをいじめるから,君はそこに助けに来い。そうすれば人間たちも君が優しい鬼だとわかるだろう。
その計画を実行すると青鬼の目論見どおり,人間たちは赤鬼の家に遊びに来るようになった。赤鬼は人間たちと楽しく遊ぶことができるようになった。
けれども,日数が過ぎるうちに青鬼が自分を訪ねてこなくなったことに気がついた。
そこで,青鬼の家を訪ねると,赤鬼へのメッセージが貼られていた。自分とつきあったのでは,君もまた悪い鬼だったと思われかねない。だから,ぼくは旅に出るよ。
赤鬼はそれを繰り返して読み,そして泣いた。最も大事な友だちを犠牲にして,その友だちを失ってしまった, と。
● このストーリーには色々と突っ込みどころはある。そんなの,事情を人間に話せばいいじゃないか,彼らもバカじゃないんだからわかってくれるよ,とか。
しかし,絵本の寓話であるのだから,これくらい骨太の単純なストーリーでいいのだろう。っていうか,それでなければならないのだろう。枝葉を削いで削いで,最後に残ったのがこれだ。
● それをオペラにしたというわけだ。約70分の1幕オペラ。伴奏は1台のピアノ(小笠原貞宗さん)。
演出は直井研二さん。塩谷町出身の人らしい。指揮は苫米地英一さん。
演じたのは埼玉県和光市に本拠を置く「オペラ彩」の皆さん。登場人物は7人。赤鬼が布施雅也さん(テノール),青鬼が星野淳さん(バリトン),木こりに伊東剛さん(バス),その娘に飯尾玲子さん(ソプラノ),百姓に大橋正明さん(テノール),その女房に和田タカ子さん(ソプラノ)。そして,歌うナレーターに蒲原史子さん(ソプラノ)。以上の布陣。
● 無料でここまでの劇を鑑賞できるのはありがたい。というのは置いておいても,世の中にこれは子供向け,これは大人向け,っていうのはないのかもしれない。いいものとそうでもないものがあるだけで。
大人が見て面白いものは,子供が見たって面白いのだろう。大人がつまらないと思うものは,子供だってつまらないと思うだろう。
● オペラ仕立てじゃない,普通の演劇もあるんでしょうね。ストーリーに少し枝葉を付け加えて,やはり70分程度の演劇にすることはできるだろう。
可能ならそちらも見てみたいものだ,と無難にまとめてしまおうか。
● この催しがあることを知ったのは,4月30日に矢板東高校のプロムナードコンサートを聴きに同じ会場に行ったとき。
隣にある市立図書館に「泣いた赤鬼」のポスターが掲示されていた。演者はプロのようだ。しかも,入場無料だ。じゃぁ行ってみようかという,わりと単純な理由。
● 絵本の『泣いた赤おに』は中年になってから読んだ記憶がある。梶山俊夫絵の偕成社版だったと記憶する。作は浜田廣介。
しかしながらというか,当然にしてというか,どういうストーリーだったかはすっかり忘れている。
● 開演は午後1時。ロータリークラブの記念行事のこととて,入場は無料。ただし,事前に申し込んで整理券を取っておく。
ネットで申し込んで,プリントアウトしたのを持参した。けれども,どうやら整理券などなくても入場できたようだ。受付の担当者は整理券など見ようともしなかったから。
客席は3割ほどしか埋まっていなかった。少し寂しい。が,こんなものか,だいたい。
● 「泣いた赤鬼」のストーリーはこうだった。
赤鬼は人間たちと仲良くなりたいと思って,遊びに来てよと立て札を立てた。が,人間は誰も遊びに来てくれない。
どうにかしたい赤鬼は友人の青鬼に相談する。青鬼は即座に提案する。自分が悪役になって人間たちをいじめるから,君はそこに助けに来い。そうすれば人間たちも君が優しい鬼だとわかるだろう。
その計画を実行すると青鬼の目論見どおり,人間たちは赤鬼の家に遊びに来るようになった。赤鬼は人間たちと楽しく遊ぶことができるようになった。
けれども,日数が過ぎるうちに青鬼が自分を訪ねてこなくなったことに気がついた。
そこで,青鬼の家を訪ねると,赤鬼へのメッセージが貼られていた。自分とつきあったのでは,君もまた悪い鬼だったと思われかねない。だから,ぼくは旅に出るよ。
赤鬼はそれを繰り返して読み,そして泣いた。最も大事な友だちを犠牲にして,その友だちを失ってしまった, と。
● このストーリーには色々と突っ込みどころはある。そんなの,事情を人間に話せばいいじゃないか,彼らもバカじゃないんだからわかってくれるよ,とか。
しかし,絵本の寓話であるのだから,これくらい骨太の単純なストーリーでいいのだろう。っていうか,それでなければならないのだろう。枝葉を削いで削いで,最後に残ったのがこれだ。
● それをオペラにしたというわけだ。約70分の1幕オペラ。伴奏は1台のピアノ(小笠原貞宗さん)。
演出は直井研二さん。塩谷町出身の人らしい。指揮は苫米地英一さん。
演じたのは埼玉県和光市に本拠を置く「オペラ彩」の皆さん。登場人物は7人。赤鬼が布施雅也さん(テノール),青鬼が星野淳さん(バリトン),木こりに伊東剛さん(バス),その娘に飯尾玲子さん(ソプラノ),百姓に大橋正明さん(テノール),その女房に和田タカ子さん(ソプラノ)。そして,歌うナレーターに蒲原史子さん(ソプラノ)。以上の布陣。
● 無料でここまでの劇を鑑賞できるのはありがたい。というのは置いておいても,世の中にこれは子供向け,これは大人向け,っていうのはないのかもしれない。いいものとそうでもないものがあるだけで。
大人が見て面白いものは,子供が見たって面白いのだろう。大人がつまらないと思うものは,子供だってつまらないと思うだろう。
● オペラ仕立てじゃない,普通の演劇もあるんでしょうね。ストーリーに少し枝葉を付け加えて,やはり70分程度の演劇にすることはできるだろう。
可能ならそちらも見てみたいものだ,と無難にまとめてしまおうか。
2017年5月12日金曜日
2017.05.06 間奏56:宇都宮北高校吹奏楽部の第31回定期演奏会に行けなかった件
● 今日は宇都宮北高校吹奏楽部の定期演奏会がある。チケットも前売券を購入済みだ。
が,4日から3泊の予定で,相方と東京に休みに来ている。
● 東京から宇都宮に出て,終演後にまた東京に戻るという酔狂をあえてしてまで,聴く価値があることはわかっている。
自惚れかもしれないのだけど,その模様を記したぼくのブログを楽しみにしてくれている生徒さんも何人かはいらっしゃるのではないか,とも思っている。
● だから,よほどその酔狂を実行してみようかと思ったのだけど,それを相方に言いだすことはできなかった。
何というのか,家庭の事情というやつで,目下のところは女房孝行を最優先にしないと。
● とはいえ,この演奏会を聴けないのは残念だ。黄金週間に穴が空いたような感じだ(高校生の吹奏楽の演奏会程度で何を大げさなと思われるかもしれないんだけど)。
基本,黄金週間にどこかに出かけてはいけないのだよね。こういう大きな取りこぼしが出てしまうから。
● 若い人たちの演奏っていうのは,若いというそれだけで,何らかの魅力を発する。逆に,30代か20代も後半になると,その「何らか」がなくなって,人(奏者)によっては悩む時期に入るのだろうとも思う。
ともあれ,その「何らか」を満喫するのに,宇都宮北高校吹奏楽部の定期演奏会は格好のものだ。というより,栃木県に限れば,それに代わるものがない(ま,このあたりは,ぼく一個の嗜好がかなり入りこんでいるはずだけど)。
● いや,東京で3日目になるんだけど,過ぎた2日間も楽しかったんですよ。ニューヨークにもロンドンにもベルリンにも行ったことはないんだけど,近くに東京があるのに何でそんなところまで出かけなければならんのかと思っているクチなんですよ。
東京でまだ行ったことのないところはたくさんある。そういうところをブラブラと歩いていると,東京って都市としては奇跡的に快適な集積を作っているのではないかと思える。
● しかし。東京にはいつでも行ける。正確にいうと,いつでも行けるわけではないけれど,今日の東京のほぼすべては明日になっても,変わらずにそこにある。
ところが,この演奏会は見事に一回きりなわけで,今日聴かなければ,もうそれっきりだ。
● けれども,今回はそれよりも大事なものを選んだのだと,自分を納得させている。
が,4日から3泊の予定で,相方と東京に休みに来ている。
● 東京から宇都宮に出て,終演後にまた東京に戻るという酔狂をあえてしてまで,聴く価値があることはわかっている。
自惚れかもしれないのだけど,その模様を記したぼくのブログを楽しみにしてくれている生徒さんも何人かはいらっしゃるのではないか,とも思っている。
● だから,よほどその酔狂を実行してみようかと思ったのだけど,それを相方に言いだすことはできなかった。
何というのか,家庭の事情というやつで,目下のところは女房孝行を最優先にしないと。
● とはいえ,この演奏会を聴けないのは残念だ。黄金週間に穴が空いたような感じだ(高校生の吹奏楽の演奏会程度で何を大げさなと思われるかもしれないんだけど)。
基本,黄金週間にどこかに出かけてはいけないのだよね。こういう大きな取りこぼしが出てしまうから。
● 若い人たちの演奏っていうのは,若いというそれだけで,何らかの魅力を発する。逆に,30代か20代も後半になると,その「何らか」がなくなって,人(奏者)によっては悩む時期に入るのだろうとも思う。
ともあれ,その「何らか」を満喫するのに,宇都宮北高校吹奏楽部の定期演奏会は格好のものだ。というより,栃木県に限れば,それに代わるものがない(ま,このあたりは,ぼく一個の嗜好がかなり入りこんでいるはずだけど)。
● いや,東京で3日目になるんだけど,過ぎた2日間も楽しかったんですよ。ニューヨークにもロンドンにもベルリンにも行ったことはないんだけど,近くに東京があるのに何でそんなところまで出かけなければならんのかと思っているクチなんですよ。
東京でまだ行ったことのないところはたくさんある。そういうところをブラブラと歩いていると,東京って都市としては奇跡的に快適な集積を作っているのではないかと思える。
● しかし。東京にはいつでも行ける。正確にいうと,いつでも行けるわけではないけれど,今日の東京のほぼすべては明日になっても,変わらずにそこにある。
ところが,この演奏会は見事に一回きりなわけで,今日聴かなければ,もうそれっきりだ。
● けれども,今回はそれよりも大事なものを選んだのだと,自分を納得させている。
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