2019年12月31日火曜日

2019.12.31 ベートーヴェン弦楽四重奏曲【9曲】演奏会

東京文化会館 小ホール

● 大晦日に東京文化会館に来るのは,9年連続で9回目になる。人生の黄昏にさしかかってからのぼくの大晦日は東京文化会館とともにある,と言ってもいいくらいのものだ。
 昨年までは大ホールで開催される全交響曲連続演奏会を聴いてきた。ベートーヴェンの9つの交響曲をオールスターチームのオーケストラが小林研一郎さんの指揮で演奏する。
 今年も聴くつもりでいた。そろそろいいかなぁという気分も正直あったんだけども,ベートーヴェンに因んでどうせなら9回聴いてやめよう,と。

● が,交響曲は8回でやめることにした。で,今年はベートヴェンン山脈のもうひとつ,弦楽四重奏曲を聴いてみることにしたのだ。その動機をひと言でいえば,苦手の克服だ。
 つまり,ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴いても,ぼくはそこにベートーヴェンを感じることができない。弦楽四重奏曲に代表される室内楽について,自分は聴き下手なのだと思っている。それをどうにかしたいな,と健気にも考えたわけなんでした。

● 入場者の列に並んでいると,前の中年男性とお年を召した女性が話を始めた。一緒に来たのではなく,会うのは今日この場所が初めての2人だ。
 この演奏会は2006年から始まっていて,今日で14回目になるらしいのだが・・・・・・

 私,1回目からずっと来てるの。
 ぼくもですよ。疲れますよね。弦楽四重奏曲をこれだけ聴くとね。
 本当。私,席も毎回同じなの。
 えっ?
 今日のうちに予約しておくのよ。そうすると希望がとおるわ。私なんか来年来れるかどうかわからないけれど。

● そこに別の男性が話に加わった。

 終わったあとはどうするんですか。サントリーホールですか。
 ええ,ぼくなんか地方から来てますからね。せっかく来たんだからと思っちゃいましてね。サントリーホールに回ることにしてるんですよ。

 サントリーホール? あとでググってみたら,ジルヴェスター・コンサートのことを言っているようだ。ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団の年越し演奏会。サントリーホールで毎年開かれているっぽい。
 21時に開演して,年が明けた頃に終わる。この演奏会が終わってからサントリーホールに移動するのだから,半分も聴けないと思うのだが,凄い人がいるものだ。
 ぼくも栃木の在から9年連続でここに来ているわけで,それなりの入れこみようだと思ってたんだけども,いやいや上には上がいると言うのも憚れるほど,熱烈なファンがいるものだ。

● ともあれ。開演は午後2時。チケットは8,000円。大ホールは当日券はないのが通例だけれども,こちらは当日券があるようだ。いい席は残っていないのかもしれないけれど,ともかく思い立ったのが今日であっても,聴くことは可能だ。
 上に述べたように,弦楽四重奏曲をぼくは聴けていない。その弦楽四重奏曲に対して,これだけの人が集まるのかと少し驚いた。きちんと聴ける人たちなのだろう。東大の受験会場に紛れ込んだ気分。絶対に合格しないだろう自分が,受かりそうな人たちに囲まれている。劣等感を刺激されるなぁ。
 ・・・・・・などと思うわけがない。自分とさほど変わるまい。会場に集まった人たちの顔を見る限りでは,そのように思える。

● まず,登場したのは古典四重奏団(川原千真 花崎淳生 三輪真樹 田崎瑞博)。田崎さん以外は女性。7番,8番,9番を演奏。
 次が,ストリング・クヮルテット ARCO(伊藤亮太郎 双紙正哉 柳瀬省太 古川展生)。男性だけのユニット。都響等の首席が集まっているようだ。12番,13番,大フーガ。
 クヮルテット・エクセルシオ(西野ゆか 北見春菜 吉田有起子 大友肇)。14番,15番,16番を演奏した。

● 大ホールの全交響曲連続演奏会と同様,国内で望み得る最高水準の演奏かと思われる。これを聴いてダメなら諦めるしかない。
 演奏からベートーヴェンの表情が浮かんで来ないかと思ってたんだけど,ぼく,聴き手として相当にヘボかもしんない。先に聴衆に暴言を吐いてしまったのだが,謹んで訂正する。ぼくよりは聴ける人たちのはずだ。

● 演奏する側は消耗するようだ。汗が光ってたりする。印象に残ったのは,ストリング・クヮルテット ARCO の「大フーガ」。その消耗感がひときわでね。試合を終えたアスリートさながらのハァハァ言いながら引きあげるその風情に惹かれた。
 つまり,演奏や曲じゃないんですよね。このあたりが,何というか,ヘボのヘボたる所以ですかなぁ。

● クヮルテット・エクセルシオには華を感じた。若いからだ(といっても,20代や30代ではない)。したたるような華がある。
 そのクヮルテット・エクセルシオが演奏する第16番はベートーヴェンの死の5ヶ月前に完成したらしい。当然だけれど,枯れた感じはまったくない。この時点でベートーヴェンは自分が5ヶ月後に死ぬとは思っていない(たぶん)。

● この先にベートーヴェンが次の弦楽四重奏曲を作曲したとしたらどんなものになったろうか。それを思い巡らす自由はぼくらに残されていると思う。
 つまり,この16番に“途中”を感じるからだ。ひょっとするとそれはベートーヴェンの諦観の表れかもしれないのだが,ベートーヴェンの頭の中にはこの先があったのではないかと思う。
 モーツァルトの場合は,最晩年のクラリネット協奏曲の先を想像することはぼくにはとても覚束ない。極みに到達したように思える。

● 大ホールの交響曲は同じオーケストラをひとりの指揮者が指揮して演奏する。ので,中休止,大休止をはさんでつないでいくのだが,その中休止や大休止がいいメリハリにもなる。
 こちらは奏者が交代するので,15分や20分の休憩を入れて(30分というのが一度だけある)淡々と続いていく。9曲を聴くのはなかなかシンドイかなとぼくも思っていたのだが,終わってみればあっという間だったような気もする。

● 終演は22:50頃だったか。上野駅発22:02の宇都宮行き普通列車に乗った。今日中に家に帰るのは無理だ。新幹線に乗っても間に合わない。宇都宮のカプセルホテルに泊まって,元日に帰宅することになる。
 サントリーホール? 行かないよ。

● 記憶する限り,この9年間の大晦日の天気が悪かったことは一度もない。が,こんなに暖かい大晦日があったろうか。いいんだか悪いんだか。
 年末年始気分というのがなくなっているのは,寒くないのも理由のひとつかもしれないな。

2019.12.30 アーベント・フィルハーモニカー 第22回定期演奏会

国立オリンピック記念青少年総合センター 大ホール

● 今日もオリンピック記念青少年総合センター。アーベント・フィルハーモニカーの定演を聴くため。さすがにこの時期に演奏会を開く楽団はかなり少なくなるようで,オケ専でチェックすると,他にはないようだった。
 せっかく東京にいるんだから,聴けるものは聴いておきたいというスケベ根性もあって,再びこの場所にやってきたというわけだった。

● 開演は午後2時半。入場無料。曲目は次のとおり。大曲を2つ。
 ムソルグスキー(ラヴェル編) 組曲「展覧会の絵」
 ラフマニノフ 交響曲第2番

● 特筆すべきは,無人改札だったこと。入場ゲート(?)に誰もいない。テーブルに1枚紙のプログラムが置いてある。入場者はそれを勝手に取って,ホールに入る。
 その1枚紙も途中でなくなってしまって,たぶん過半の人は空身で着座したのではないか。ぼくもその口だけども,それで何か困ることがあるかといえば,特にない。
 ともかく,この割り切りには好感が持てる。

● この楽団のサイトの自己紹介(?)によると「アーベント・フィルハーモニカーは,プロフェッショナルな演奏家とアマチュア愛好家の協力による,新しいコンセプトのオーケストラとして2012年12月に第1回演奏会を開催。マーラーの交響曲をレパートリーの中心として、年3~4回の演奏会を行っており,短期間の集中リハーサルと低経費による運営によって注目を集め,新たな聴衆の拡大を目標としている」とあるのだが,なるほど無人改札も“低経費による運営”の一環であったか。

● 指揮は小柳英之さん。彼がこの楽団の創設者のようにもサイトでは読めるのだが,確かなことはわからない。これはわかる必要もない事柄に属するのだが,上の紹介文で“新しいコンセプトのオーケストラ”とあるところ,どこがどんな風に新しいのかがよくわからない。ここはもう少し具体的に説明して欲しいという気がする。
 演奏を聴いても,このオーケストラの“コンセプト”が那辺にあるのかよくわからなかったので。

● 「展覧会の絵」はおどろおどろしいというか。小さい子供が聴いたら怖くて泣きだすのではないかと思うような。カラヤンのCDで聴くのとはだいぶ印象が違う。
 どちらがいいかというテーゼは成立しない。どちらを好むかの問題になる。問題は,この楽団のこの演奏はこの1回しか聴く機会がないと思われることだ。

● ラフマニノフの2番も金管の存在感が強調されていた印象。金管の強調はロシアの代名詞的なところがあるのかもしれないのだが,ラフマニノフはその意味でのロシア臭が薄い作曲家だと思っていた。
 ところがどうして。そのことを教えてもらえたっていうかね。

● 明日は大晦日だ。そういう日に演奏会を設定する楽団もあれば,それを聴きに来るお客さんもこれだけいる。
 年末といい,正月といっても,要は365日の中の1日にすぎない。特別感は薄れているんでしょう。
 ぼく一個を取ってみても,年末だからといって何をするわけでもなく,こうして東京をふらふらしている。正月も同様だ。普段と違うことをするわけではない。要するに,休日だというだけ。
 大雑把にいうと,年末年始は旅行に行く日になった。旅行が年末年始の風俗を駆逐した。百貨店もスーパーもコンビニも飲食店もホテルも3が日は休むということになると,その不便さに強制されて何か新しいものが生まれてくるんじゃないかと思ったりもするのだが,そんなことが起こるはずはない。

● というようなことをぼんやり考えながら,代々木公園駅に向けてトボトボと歩みを進めたのでありました。その歩みの先には快適極まるホテルが待っている。そういうもので年末年始は埋め尽くされてしまう。
 ホテルが快適極まるのは年末年始に限らないわけだから,年末年始はやはり365日の中に埋もれてしまっているのだと思うほかはない。そういうことも考えさせてくれる演奏会だった。

2019.12.29 東京海洋大学・共立薬科大学管弦楽団 第84回定期演奏会

国立オリンピック記念青少年総合センター 大ホール

● 東京海洋大学・共立薬科大学管弦楽団というが,共立薬科大学は今現在,この世に存在しない。2008年に慶応が吸収合併し,現在は慶応大学薬学部になっている。
 にもかかわらず,東京海洋大学・共立薬科大学管弦楽団の名を維持しているのは,OB・OGに配慮したものか,歴史と伝統を重んじているのか。いや,それでいいと思うんですけどね。

● ともあれ,この演奏を聴くために国立オリンピック記念青少年総合センターにやってきた。1964年の東京オリンピックの選手村の跡地を利用した施設。国立青少年教育振興機構ってこの施設の管理者だったのね。
 この楽団の演奏を聴くのも,このホールに来るのも,今回が初めて。開演は午後2時。チケット無料。曲目は次のとおり。
 バラキレフ 3つのロシアの主題による序曲
 ボロディン 中央アジアの草原にて
 カリンニコフ 「皇帝ボリス」より“第5幕への間奏曲”
 チャイコフスキー 交響曲第5番

● 指揮者の中島章博さんは,早稲田の理工学部から東大の院に進み,博士後期課程に進学した後に,オーストリアに渡って指揮の勉強をして帰国したという変わり種。
 帰国後,院を修了したようなのだが,スパッと見切っちゃってるともっとカッコよかったのになぁと,他人事だから気楽な感想を抱いてしまった。
 修めたのが建築音響学だそうだから,色々と創造を逞しくすることはできるけれども,勇気のある進路変更だったに違いあるまい。

● プログラム冊子の「顧問ご挨拶」には「年々,現役団員が減ってきております。小さな大学の宿命ですが,アンバランスな編成での練習には様々な障害が付き物です」とある。たしかに,OB・OGと賛助を除いてしまうと,楽団として成立しない。団員の確保は大きな課題のように思われる。
 が,年の瀬の開催にもかかわらず,客席はほぼ満席になった。客席にもOB・OGが多いんだろうかね。だとすると,それぼどの求心力を持っているのは大したもの。ぼくも大学時代に部活はやっていたけれども,卒業後は一顧だにしたことがない。
 84回を数えるのだから,然るべき長さを経てもいる。こういうところはしぶといものだよね。

● 特にカリンニコフ「皇帝ボリス」の間奏曲を聴いてみたかった。今月8日に調布フィルハーモニー管弦楽団の演奏で交響曲第1番を聴いて,カリンニコフに興味を惹かれたのが主な理由だ。
 今日のこの曲に感じたのはある種の華やかさだ。カリンニコフ,CDを集めてみようと思う。
 チャイコフスキーの5番は全軍躍動。そういう曲ではある。木管,特にクラリネットとフルート,が記憶に残った。

● プログラム冊子のこちらは「指揮者ご挨拶」によると,「数年前に比べだいぶ人数が減っており,さらに大学に入学してから担当する楽器を始めた,という学生が非常に多いオーケストラ」だそうだ。そう見える奏者もたしかにいなくはなかった。
 けれども,それでもここまで持ってこれる。OB・OGと賛助の功績だとしても,それはそれ。

● 東京海洋大学とあっては,講義や実験を放擲して部室に入り浸りというわけにもいくまい。法学部や経済学部の学生とは違う。
 使える時間は限られる。あまり多くを求められては辛かろう。

2019.12.28 東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団 第42回定期演奏会

ティアラこうとう 大ホール

● 開演は19時。この楽団の冬の定演は毎回,このスケジュール。ので,冬はまだ一度も聴いたことがない。なぜというに,終演は21時を過ぎることになるからだ。
 つまり,その日のうちに自宅に帰り着くことができなくなる(新幹線を使えば可能だろうが)。

● が,今回は都内に宿を取っている。ゆえに,後顧の憂いなく(?),今夜は会場にやってきた。しかも,その宿が地下鉄で2駅という距離だ。
 開演は19時。入場無料(カンパ制)。ただし,チケット(整理券)が必要。が,当日も配っているので諦めるには及ばない(事前に取っておいた方がいいとは思うが)。

● 曲目は次のとおり。指揮は原田幸一郎さん。常任指揮者のような位置づけですかね。
 チャイコフスキー 歌劇「エフゲニー・オネーギン」より“ポロネーズ”
 スーク 弦楽セレナーデ
 ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」

● じつは,ここに来る前にホテルのラウンジでハイボールを3杯飲んでいる。ほんわか快適。こういう状態で演奏を聴くのはどうなのよという意見もこれあり。
 でも,たいていのホールでは酒を売るからね。休憩時間にワインやらビールを飲んでいる人はさほどに珍しくはない。相撲や歌舞伎じゃないんだけど,“楽しむ”にはアルコールがあった方がよいってことですかね。
 普段はそれをしないんだけど,今夜はどうも安心感ゆえ気がふわーっと緩んでいる。

● この楽団のアンサンブルはほとんどプロ級。ってか,第4楽章の迫力に満ちた重厚さは何事ならん。軽やかな重厚さっていうかね。疾走する様が小気味いい。
 ほんわか酔った状態でいるのだから,気分は王侯貴族だ。でもって,これだけの「新世界」を聴けるんだからたまらない。
 最高の年末だ。こんな過ごし方ができるのは,世界でも日本の東京だけと勝手に決めておく。

● ところで,オーボエの山本楓さんが賛助出演していたようなのだが,気づかなかった(ヴァイオリンに奥村愛さんがいたのはわかった)。山本さんが登場するくらいなのだから,レベルの高さも宜なるかな,でしょ。
 同じコンセールマロニエ21の弦楽器部門で第1位だった金孝珍さん(ヴィオラ)がやはり奏者に加わっていたことがあった。
 そういう楽団なのだということ。指揮者の原田さんが,学生オーケストラの中では一番上手,と言っていたけれども,まったくもって異存はない。

● 終演後,住吉の駅に向かう人たちが話す会話を聞いていても,満足して家路をたどっている様子だ。中には興奮さめやらぬという人も見受けられる。その気持ちはとてもよくわかる。
 絵画や彫刻でも,演劇でも,音楽でも,鑑賞するという行為に現世利益があるとすれば(あるのだが),おそらくはここに帰着するのだろう。
 これだけ多くの人をここまで高揚させるのだから,この楽団には力があるということになる。さよう然り,力があるのだ。

● ぼくは客席に1人でポツンと座っているのだが,客席の様子をうかがっていると,夫婦で来ている人,親子で来ている人もわりといるようで,その夫婦の片方と親子の片方が知り合いだったりするケースもある。そこに別の知り合いが絡んできて,ここはサロンかと思うような光景が展開する。
 ぼくは最近までこういう光景に接するのがかなり嫌だったんだけどね。今日に限っては,こういうのもアリかなぁと寛容な気分が最後まで続いたね。

2019.12.28 横浜国立大学管弦楽団 創立60周年記念第113回定期演奏会

カルッツかわさき ホール

● JRの上野東京ラインができて,宇都宮から乗換えなしで行けるようになった川崎。その川崎にやってきた。横浜国立大学管弦楽団の定演を聴くため。初めての拝聴になる。
 何せ,今日からぼくは9連休なのだ。晴々とした気分で,電車を降り,晴々とした気分で年末の川崎の街を“カルッツかわさき”まで歩いたわけなのだ。

● こういうときは,たいていのことは許せる気分になっている。矢でも鉄砲でも持ってこい,というのではなく,寛容の気に満ちているというかね。
 早く毎日が日曜日にならないかねぇ。そうなれば毎日こういう気分で過ごせるのかねぇ。
 ま,そうなったら収入も減るわけだから,電車賃を使って川崎に出るというそれ自体ができなくなるかもしれないけれども,そうなればなったでやりようはいくらでもある。

● ともかく,今日は川崎に来たのだ。まぁだ稼ぎがあるんでさ。開演は13:30。入場無料(カンパ制)。ただし,整理券が必要。が,心配無用。当日,配布しているのでね。
 曲目は次のとおり。指揮は栗田博文さん。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 シベリウス 「カレリア」組曲
 マーラー 交響曲第1番「巨人」

● 音大でもない普通の大学の部活のオーケストラが,マーラーをほぼ破綻のない水準で演奏してのけるんだからねぇ。どうなってんのよ,と訊きたいくらいだ。
 正確にいうと,破綻がないという水準を超えている。この楽団独自の色がついている。結果的についた色ではなくて,つけた色のように思われる。
 基本,弦のレベルの高さがあってのことかと思うんだけれども,木管も金管もパーカッションも相当なもの。
 大学オケのレベルの高さって,入試偏差値と相関しているようで,そこがイマイチ面白くないわけだが。

● ここのところを敷衍すれば,首都圏の大学オケ(音大は除く)についていうと,早稲田大学交響楽団東京大学音楽部管弦楽団,インカレ団体では東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団。この3つがとにかく凄いと思っていた(噂に聞く慶應のワグネルはまだ聴く機会を得ていない)。
 そこに,学習院輔仁会音楽部管弦楽団の演奏を聴いて4つめが来たと感じ,今回が5つめだ。

● ところで,この楽団も横浜国立大学純正ではなくて,他大学の学生も参加しているインカレ団体のようだ。明治学院大学や鎌倉女子大学などの学生もいるけれど,最も多いのはフェリス女学院大学の学生で,名簿を数えてみたら17人いる。おそらく,音楽学部の学生さんではないか。
 演奏の水準が高いのは,こうしたことも一因であるだろう。内に向けて閉じているのではなくて,外に開かれていること。

● 那須室内合奏団の演奏会で何度かお顔を拝見している白井英治さんも1st.Vnの列に加わっていた。トレーナーも参加していたってことね。これも水準の高さを作った理由のひとつであるかもしれない。
 けれども,そういうことは理由の一部であってね。ともかく演奏の水準は相当なものですよ,と。

● 顧問の先生がプログラム冊子に載せた“ご挨拶”の中で,滝廉太郎の「憾み」を紹介している。「23歳のうら若き天才が死と向き合いながら,神の領域まで駆け上がった感があります」。
 本当か。ならば,聴いてみなければなるまい。この曲を教えたもらったことも,今回川崎に来て得られた成果のひとつになるかもしれないではないか。

● いくら冬の日でも,終演後はまだ明るい。9連休といっても,あっという間に過ぎてしまうことは何度も体験してわかっている。
 が,今日はまだ始まったばかり。まだたんと残っている。若い学生さんたちの演奏を聴いて,エネルギーもチャージできた。駅に向かう足取りは軽い。

2019年12月25日水曜日

2019.12.22 第12回栃木県楽友協会「第九」演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 風物詩というものがおしなべて訴求力を失っているように見える。それは昨日今日の話ではない。正月に羽をついたり,書き初めをしたり,凧をあげたりする風景は,田舎でも相当な昔に消えている。双六で遊ぶこともとっくになくなっているだろう。
 それがさらに進んで,今や,正月そのものが解体されつつあるように思える。第1の理由はインターネットだろう。時間の過ごし方を徹底的に個別化する装置がインターネットだ。

● 正月に限らず,バレンタインデーだの,エイプリルフールだの,クリスマスだの,年越しそばだのというのも,大衆の行動を支配する力をほぼ失っている。
 風物詩としては新参者のハロウィンもすでにピークは越えているように思える。渋谷のハロウィンの悪しき(?)盛りあがりぶりが話題になって,どうすればよいかが新聞種になったりもしているけれども,良くも悪くもあれだけのパワーがいつまでも維持されるわけはないと見る。

● 「第九」も年末の風物詩になって久しいのだが,はやり徐々に観客動員力を落としているように感じる。けっこう空席があるようになっている。ひょっとしたら「第九」が飽きられてきたのかもしれない。
 が,それ以上に年末行事だからではないかと思う。それでも,他の風物詩,たとえばクリスマスなどに比べれば,まだ衰勢は微弱ではある。

● ともあれ。年に1回の栃響の第九を聴きに来た。開演は午後2時。チケットは1,500円。事前に購入しておいた。
 付け合わせは,今回はモーツァルト「フィガロの結婚」序曲。

● 今回はヴァイオリンが対抗配置でなかった。だから何だというと,まぁ,何でもないのだが。
 第九は第1楽章がすべてだと思っていた時期がある。宇宙のビッグバンの音楽的表現だ,と。ビッグバン以前なのだから神も存在しないはずなのだが,ここにおいては神がビッグバンを司る。その神も一発では決めることができず,何度かやり直す。ビッグバンは難産だったのだ。

● しかし,今回,最も印象に残ったのは第2楽章だった。ベートーヴェンが意図したわけではないと思われるのだが,楽章全体から滴るような気品。その滴りまでも具現化した演奏でね。
 栃響は素晴らしい。今更で申しわけないんだけどさ。首都圏の名だたるアマオケと比べても,引けを取るまい。

● 罰あたりなことに,第4楽章はなくてもいいんじゃないかと思っていたことがある。愚かにもほどがあるというべきでしょうね。
 この楽章なくして第九はないですわねぇ。特に声楽が入る前の,歓喜のテーマの絢爛はどうしたって必要でしょ。歓喜のテーマが,チェロ・コントラバスから始まって,管弦楽全体で歌いあげるところまでが,第九の核心。
 特に,ここでヴィオラが奏でる歓喜のテーマを聴くと,ヴィオラという楽器はこのためにこそ生まれてきたのではないかと思ってしまうんですよ。

● 「管弦楽が前の3つの楽章を回想するのをレチタティーヴォが否定して歓喜の歌が提示され,ついで声楽が導入されて大合唱に至るという構成」であるわけだけれども,歓喜のテーマさえレチタティーヴォは否定しているように聴こえるんだけどねぇ。
 いったんは否定しても,やはりこれだってことになったんですかね。

● ソニーがCDの生産を開始したのが1982年10月。それ以前からレコードがあったわけだけれども,昨今のクラシック音楽の大衆化現象はCDなしにはあり得なかったろう。
 その理由は複数あるけれども,第1にレンタルに向いた音源だったこと。買わずに借りてすませることができるようになった。CDラジカセでカセットテープにダビングして,ウォークマンで聴く。第2にiTunesがリッピングを可能にしたことだ。
 おかげで,第九も日常的に聴くことができるようになった。この1年で第九を何度聴いたか。たぶん,30回を下回ることはないと思う。

● となると,第九はもう日常品だ。生活必需品の範疇に入ってくる。
 けれども,CDをリッピングしてウォークマンで聴くのはそうであっても,ライヴで聴くということになると,今なお第九は特別な曲なんだろうかな。
 来年はベートーヴェン生誕250周年。第九を聴ける機会が増えるかもしれない。さっそく,5月には宇都宮シンフォニーオーケストラが第九を上演(?)する。

2019年12月19日木曜日

2019.12.15 新日本交響楽団 第103回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 新日本交響楽団は100回を超える定演を重ねているのだから,東京に数あるアマチュア・オーケストラの中でも重鎮というのか,名の知られたオーケストラなのだろう。
 が,ぼくは今回が初めての拝聴になる。

● 開演は13時30分。当日券(1,500円)で入場。曲目は次のとおり。指揮は橘直貴さん。
 ロット "ジュリアス・シーザー"への前奏曲
 ブラームス ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調
 ブラームス 交響曲第2番 ニ長調

● ハンス・ロットについては,ぼくは何も知るところがなかった。曲を聴いたこともなければ,CDも1枚も持っていない。
 今回の曲目解説によって,「"ジュリアス・シーザー"への前奏曲」は,25歳で亡くなったロットが19歳のときに作曲した曲であることを知った。
 Wikipediaによれば「不幸なことに,ロットはマーラーの堅忍不抜の精神を持ち合わせておらず,マーラーが生涯において数々の困難に打ち勝つことが出来たのに対して,ロットは精神病に打ちひしがれてしまう」と解説しているが,堅忍不抜の精神を持っているかいないかと精神病に罹患するかどうかは,ほぼ無関係だろう。こういう解説は害をなす。

● ともあれ,今回,初めてロットの曲を聴く機会を得たわけだが,ぼくにはいまいちピンと来なかった。が,彼の曲は演奏される機会が増えているらしい。
 CDを揃えるところから始めてみようかと思う。ネットで聴けるはずだと思うのだが,CDというユニットから自由になることが,なかなかできないでいる。

● ブラームス「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」のソリストは,石田泰尚さん(ヴァイオリン)と阪田宏彰さん(チェロ)。
 石田さんは不良高校生の学ランを連想させる恰好で登場。“石田組”と称して各地で演奏会を行っているのだが,ぼくは聴く機会を逸している。
 ヤクザ路線でのアピールは今のところ,巧くいっているんだろうかな。が,観客もいずれ飽きるだろうし,その前に自身が飽きてしまうかもしれないな,と思いながらステージを見ていた。喧嘩も弱そうだしなって。

● しかし,腕の方は,ぼくにはため息しかでない。はぁぁ・・・・・・という感じね。阪田さんと2人で盛りあげる,盛りあげる。
 けれども,オーケストラのレベルの高さがはっきりわかって,そちらの方にむしろ驚いた。ここのところをもう少し掘りさげてみると,驚きたいから驚いているのかもしれないんだけどね。
 ソロの名人芸より管弦楽に惹かれる性癖があるのだと思う。バレエでも花形ダンサーのウルトラCよりコール・ドを見たい。コール・ドがバレエの華だと思っている。
 ちなみに,石田さんと阪田さんのアンコールは,服部良一「蘇州夜曲」。

● ブラームスの2番。ベートーヴェンばりの“風に立つライオン”をやめたブラームスの,初めての交響曲といっていいだろう。
 ブラームス交響曲の真骨頂は20年を費やした1番ではなく,2番以降にあると思う。1番があるから2番以降があるのだと言われるだろうけどね。

● 勝手に溢れてくるように思われるメロディーが,細やかなラインでそちこちに散りばめられている。と,ぼくは勝手にそういう聴き方をしているのだが,ハイレベルな技術の演奏で聴くと,そのあたりがクッキリするように思われる。
 演奏は技術だけではないとは言いながら,技術だけではないのであって,技術を欠いた演奏など演奏ではないってことですか。

● ブラームスというと,ドヴォルザークにも親身なアドバイスを与えるなど,人の面倒見を惜しまなかった人という印象があるのだが,この演奏会の曲目解説で,そのブラームスがハンス・ロットには「才能がない」とこき下ろしたというエピソードが紹介されている。
 こき下ろされたのはロットの交響曲第1番なのだが,となるとその曲がどんな曲なのか聴いてみたくなるではないか。

● この時代,ブラームスは楽譜を見て,才能がないという最も厳しい言い方をしたのだろうが,ブラームスをもってしてもロットの才能を見抜けなかったのか,いややっぱりブラームスに共感するねとなるのか,聴いてみなきゃしようがないね。
 一度聴いたくらいでおまえにわかるのかと問われると,わからないだろうな。でも,とりあえず聴いてみないとね。こういう楽しみを得たのも,今回の収穫のひとつだ。

2019年12月18日水曜日

2019.12.14 昭和音楽大学 第44回メサイア

昭和音楽大学 テアトロ・ジーリオ・ショウワ

● 東武宇都宮線を起点に,北千住でメトロ千代田線,代々木上原で小田急小田原線に乗換え,新百合ヶ丘に降り立った。東武を使うとかなり遠いと感じる。
 それが嫌なのではない。たくさん電車に乗っていられるのだから。

● 新百合ヶ丘に来たのは,昭和音大の「メサイア」演奏会を聴くため。ところで,ここは行政区域でいうと川崎市麻生区になるのだな。
 洗足学園は同じ川崎市の高津区だった。川崎には音大が2つもあったのだな。川崎市が音楽の街を標榜する理由のひとつはここにあったのか。

● しかし,と思う。洗足のある溝ノ口からはJR南武線で1本で川崎駅に行き着くことができるが,新百合ヶ丘からは登戸で乗り換えなくてはならない。新宿までは乗換えなしで行く。溝ノ口からだって,川崎よりは渋谷の方が近いかもしれない。
 東京近郊都市の宿命だが,名目上は川崎だけれども,かなりのエリアが準東京になっているだろう。

● この演奏を知ったのは,11月30日の音大フェスでもらったチラシから。ネットでチケットを買っておいた。が,当日券もあったようだった。
 安いB席(1,700円)にしたのだが,ぼくの席からはステージの左半分が切れてしまうのだった。ここはケチるところではなかったかなぁ。
 開演は午後3時。

● 指揮は星出豊さん。ソリストも合唱団も管弦楽も当然,自前。佐藤寛子さん(ソプラノ),髙橋未来子(アルト),髙橋大さん(テノール),市川宥一郎さん(バス)。
 管弦楽は昭和音楽大学管弦楽団で,合唱は昭和音楽大学合唱団。

● イエスの一生と住民の関係を綴ったものだが,“ハレルヤ”で興奮は絶頂に達する。イエスこそ万軍の主であり,王の中の王だ。けれども,自分たち(民衆)はそのイエスを笑いものにした。
 その負い目を埋めようとするかのごとく,怒濤の勢いで,音楽は天上に駆けあがる。“ハレルヤ”が単独で演奏される機会が多いのはゆえなしとしないのだった。

● 全曲を生で聴くのは今回が初めて。その“初めて”がこの演奏だったことは,ラッキーだったのだと思う。管弦楽,ソリスト,合唱のいずれもね,この水準で聴ければね,ぼくからすると何の不満もない。
 全体を把握できた。これでCDを聴くことができる。

昭和音楽大学
● ぼくの隣はひとりで来ていた高齢の女性。たぶん,80歳にはなっているのではあるまいか。足も少し不自由そうだったが,真剣に耳を傾けておられた。
 率直に申しあげて,聴覚もだいぶ衰えていて不思議はない。それでもこの会場に来るのは,ひょっとして彼女はクリスチャンなのか。あるいは,この大学か「メサイア」という楽曲に何らかの思い入れがあるんだろうか。それにしては飄々とした感じだったけど。
 自分が彼女の年齢まで生きたとして,さてこうした会場に足を運んでいるかどうか,まったく自信はない。

● 終演する頃はすでに暗くなっている。新百合ヶ丘の駅前,ペデストリアンデッキにもクリスマスのイルミネーション。少し冷やかしてみたかったけれども,まっすぐ改札に向かってしまった。
 余韻を引きずらずに,すぐに娑婆に戻るのは,いいことなのかもったいないことなのか。

2019年12月10日火曜日

2019.12.08 調布フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会

調布市グリーンホール 大ホール

● 調布に来た。新宿で乗換。ため息が出るほど鬱陶しいね,新宿で乗換えるのはさ。渋谷での乗換もイヤだけど。
 ともあれ,初めての調布。新宿から準特急で4駅目,運賃はたったの250円。けど,だいぶ遠い。東京都下には違いないけども,東京とは別の文化圏でしょうなぁ。
 国立に住んでいる人は,都心に出ることを「東京に行く」と言うのだと,山口瞳さんのエッセイで読んだことがある。調布市民も同じだろうか。国立よりはだいぶ近いはずだが。

● 駅前広場が開放感を作っている。その広場を挟んでパルコが威容を誇る。チェーン店が軒を連ねる地方都市の趣。
 ぼくが知っている東京の街はそんなに多くはないけれども,それらの街とははっきり違う。ここは地方だという気がする。

● 京王で新宿まで行き,さらに電車を乗り換えて大手町や丸の内まで勤めに出てる人もいるんだろうかなぁ。考えただけで怖じ気をふるいたくなるな。ぼくには絶対できないね。
 ここに住んで働くなら地元がいい。それが無理なら西に向かうのがいいねぇ。電車が空いてるもんね。
 実際のところ,都心に出る必要に迫られることはあまりないはずだよね。だいたい地元で用が足りる。食べるのも飲むのも買うのも装うのも。

● 少子高齢化が進み人口減少が加速しても,東京の人口はさほど減らないと予測されている。その東京に調布が含まれるか。東京の西部,八王子や立川はもちろん,三鷹,吉祥寺から杉並,世田谷,練馬あたりまでは人口減少を免れまい。
 都庁が新宿に移転して,東京は西に向かって発展すると言われた時期もあったけれど,ウォーターフロントと羽田空港の国際線復活で,流れは変わった。
 東京は狭くなると思う。コンパクトシティの流れになるはずだ。都内の人口格差が進行することになる。

● 徒し事はさておき。調布に来たのは,調布フィルハーモニー管弦楽団の定演を聴くためだ。初めての拝聴になる。
 開演は午後2時。当日券(1,000円)で入場。曲目は次のとおり。指揮は尾崎晋也さん。
 ベートーヴェン 交響曲第4番 変ロ長調
 カリンニコフ 交響曲第1番 ト短調

● 都内の地名を冠した市民オケでは,豊島区管弦楽団の水準に驚いたが(都民響は聴きそびれている),今日,2つ目の驚きに遭遇した。立派なものだ。ベト4で感嘆し,カリンニコフで圧倒された。
 寄せては返す波のような弦のゆらぎ。強弱とか緩急というより,寒暖のつけ方が巧いという印象。何を言っているのだ。言っている側もよくわかっていない。
 音には温度がある。状況に応じて相応しい温度を与えなければならないのだが,当然,状況は常に変化する。時に大きく変わる。その変化にピッタリ寄り添って,的確な温度を維持している。そういう印象なんですけどね。いよいよわからんな。

● 木管ではまずオーボエ。どのパートもかなり凄いんだけれども,まずはオーボエ。1本の縦笛から繰りだされる七色の変化球。たとえが古すぎて,どうもいかんな。
 わずかな風のそよぎ。そのわずかの多彩さ。そよぎの幅の大小とそよぎが通る小径のありよう。
 こうなると,演奏を聴いて曲を聴いていないと言われそうだが,これは仕方がないね。ライヴで良い演奏を聴く醍醐味のひとつは間違いなくここにあるものな。

● 調布といえば,桐朋学園のお膝元。レベルが高いのはそのためかと思ってみる。桐朋の卒業生がけっこう入っているんだろうか。
 って,それは考えづらいよね。卒業後に何が悲しくて調布に残らなくちゃいけないんだよってね。全国に散るはずだよね,普通はね。あるいは,現役の学生が団員になっていたりするんだろうか。

● ところで,カリンニコフ。これ,曲もいいんだよねぇ。CD持ってたかな。この曲のCDだけ持っていた。カリンニコフで演奏される機会があるのは,この交響曲第1番だけなんだろうか。
 プログラム冊子の解説によると,35年の生涯。作品じたいが少ない。
 交響曲第1番も2番も「もほとんど病床で作曲されたものであるが,生への希望に満ちた明るさが感じられる」というのが,定まった評価であるらしい。ロシアの正岡子規のような感じかなぁ。過労がたたっての結核だったようだ。

2019年12月9日月曜日

2019.12.07 第10回ベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲演奏会

音楽の友ホール

● ヒエーッ,こんなのがあったんですか。1日でベートーヴェンの弦楽四重奏曲を全曲演奏しちゃう。しかも今年で10回を数えるという。
 11:00に始まって20:45に終る。7日は東京に泊まることになっているんですよ。行くしかないなぁ。

● 6部構成で約10時間の長丁場。1部ごとに感想や印象を書き留めておいが方がいいかもしれない。大晦日に東京文化会館で開催される全交響曲連続演奏会でもそんなことはしたことがないんだけれども,弦楽四重奏曲については曲ごとの独自性を捉えられる自信がないのだ。
 1曲聴くたびに上書きされてしまいそうだ。ので,メモしておこうかと。

● にしても,この演奏会,今年で10回目になるのに,今までその情報をキャッチできなかったのは,ぼくの目が弦楽四重奏曲に向いていなかったからだ。
 自分に無関係と思っている情報は,たとえ入ってきてもスルーしてしまう。そういうことだったのだろう。

● 以上のようなことを行く前には思っていたのだが,どうもそうではなかったようだ。過去の9回は一般公開はしていなかったっぽい。演奏する人たりが互いに聴きあうということだったのか。
 今回の10回目でこの企画は終了するようでもある。1回だけ一般公開した今回の演奏会を運よくキャッチできたということだ。ラッキーだったかも。

● 会場の音楽の友ホールは神楽坂にある。音楽の友社が運営しているんでしょ。大仰な看板は出ていないので,うっかりすると通り過ぎてしまう。ぼくも通り過ぎた組だ。
 だいぶ歴史を重ねてきたホールっぽい。古いホールだ。今となっては使い勝手に難があるかもしれないが,音楽界の文化遺産として保存すべきですかね。

● 演奏が始まっても騒々しさが収まらない。1楽章が終わるごとに客席に移動が発生する。どうも,客席にいる人の多くは奏者らしいのだ。
 ホールに楽屋がないんでしょうね。あるいはあったにしても,客席で聴きましょうということらしい。

● すると,どうなるか。客席が楽屋になるんだね。
 演奏が始まっても私語がやまない。演奏中にケースからヴァイオリンの弓を取りだして磨き始める人がいる。演奏中に立ちあがって後ろの席に置いた荷物からガサゴソと何かを取りだす人がいる。

● 観客も奏者の知り合いが多いらしい。知り合いの演奏が終わると帰って行く。
 だから何ということではないんだけれども,これは客席の水準をダダ下がりにする最大要因だというのが,ぼくの経験則だ。
 この時点で長居無用という結論に至った。せっかくだから20:45までいようと思っていたのだが,とても無理。

● とはいえ,聴けるだけは聴いていく。作曲順に演奏するらしい。第1部は3番,2番,1番。第2部は5番,4番,6番。第3部は7番,8番,9番。第3部ではその前にHess34(弦楽四重奏曲 ヘ長調 ピアノソナタ第9番の編曲)。
 以上で会場を後にした。後期を聴かずに帰るのでは何しに来たのかと思わぬでもないのだが,ま,このあたりが限界だった。客席が楽屋になっているというのを別にしても,このあたりが限界だったか。

● 大晦日に東京文化会館で開催される全交響曲連続演奏会では,1番から9番まで指揮者もオーケストラも変わらない(メンバーの変更は一部あるが)。ので,小休止,中休止,大休止と休憩を挟みながらつないでいくのだが,こちらは1曲ごとにメンバーは交代する。
 のだが,プログラム冊子によると,1~9回は2日かけてやっていたようだ。

● 今までに聴いた演奏の中で最も印象に残っているのは,2013年10月に宇都宮で聴いた兵庫芸術文化センター管弦楽団のブラームス4番だ。
 われながらヘボな聴き手だと思うのだが,それまでブラームスがわからなかったのだ。わからないというか,ブラームスの曲を聴いても,これのどこにブラームスがいるのか,ベートーヴェンの曲だと言われたら信じちゃうよ,みたいな。
 それが,この演奏を聴いている途中でこれがブラームスだっていうのが掴めたというか,パッとわかったというか。心臓がバクバクし始めた。ユーレカってなものだ。

● それと同じことをベートーヴェンのカルテットについて味わいたいのだ。つまり,現時点でぼくは16番まである弦楽四重奏曲について爪を立てられるところまで行っていない。
 何が何だかわからない。ベートーヴェンの表情がまったく見えない。「千と千尋の神隠し」のカオナシが作曲したのかと思う水準にとどまっている。

● まとめて聴くことによって,少なくとも曲間の違いくらいは見えてくるかもしれない。作曲順に演奏するとなれば,変化も時系列で見えやすくなるのではないか。
 CDでそれを試みたことがあるんだけれども,ダメだった。3日間で全部聴いたのだが(Hess34は聴かなかったけどね),何を聴いたのかすらわからないくらいの体たらく。3日もかけたんじゃダメなのかもね。

● 1日でしかも生で聴かせてもらえれば,どうにかなるのではないかという期待があった。第2部の途中で,それが来たかと思えた刹那があったんだけどね(4番の演奏が素晴らしかった)。でも,それを掴み切ることができなかった。指の間からさらさらと砂がこぼれるように消えてしまった。
 第3部では9番の演奏が印象に残ったのだが(特に1st.VnとVc),その第3部でもその刹那が再びやってくることはなかった。

● ので,もう少し粘ってみようかとも考えたんだけど,ここはいったん退くことにした。この演奏会は次はないのだから,ここで退くと敗者復活戦もない。
 のだが,大晦日は8年連続で聴いてきた全交響曲連続演奏会ではなく,弦楽四重奏曲の方のチケットを手当している。そこで何とかリベンジを。

● 結局ね,弦楽四重奏曲に限らず,室内楽曲というのは聴き手の質を問うてくるところがありますよね。何だよ,おまえヘボじゃん,ってね。
 自分でもわかっているんだけどさ,それを自分以外の何者かに指摘されるとまったく面白くない。

● プログラム冊子もA5で本文68ページという大部なもの。定価350円とあるのはユーモアか。
 今回の奏者は72名にのぼるわけで,彼ら彼女らがそれぞれの思いを綴るとこの量になる。
 サッと目を通しただけだけれども,それぞれの人に歴史ありという感がして,面白かった。といっては失礼かもしれないけれども,催行する側にとってのメモリアル冊子になっているのだろうね。

2019年12月3日火曜日

2019.12.01 第10回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 東京音楽大学・武蔵野音楽大学・洗足学園音楽大学

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 音大オケフェスについて感じることのあれやこれやについては,昨日,述べた。ので,今回は,単純に演奏について。あと,若干はどうでもいことに駄弁を弄するかもしれない。
 開演は午後3時。昨日の東京芸術劇場もそうだけれど,駅から近いのは助かる。それで最も困るのがサントリーホールだよね。地下鉄駅からだってけっこう歩くもんね。
 と,さっそく駄弁を弄してしまったけれど,開演は午後3時。

● まず,東京音大。バルトーク「管弦楽のための協奏曲」。指揮は石﨑真弥奈さん。
 女性の指揮者の活躍も,たとえば沖澤のどかさんとか,増えていると思うんだけど,スカートで指揮をしている女性指揮者ってまだ見たことがないよね。必ず,パンツ。
 これって,何でなの? そういう規則があるわけではないだろうから,スカートではまずい理由が何かあるんでしょうかね。スカートでは追いつけない運動量があるとかそういうこと? まさか女性性が強調されすぎるからなんてことではないんだろうからね。

● プログラム冊子の「楽曲紹介」が役に立つ。最初の8行。なるほど,そう考えればいいのか,と思った。
 ここまで割り切ってくれると小気味いいや。説得力もある。

● 武蔵野はじつにベートーヴェン「荘厳ミサ曲」。指揮は飯守泰次郎さん。昨年は「第九」だった。4日の演奏会が本番。今日はそのリハーサルというか,本番前の本番(?)。
 東京音大の「管弦楽のための協奏曲」もそうだけれども,冥途の旅の一里塚が今日のプレ本番ということのようだ。

● 4日は水曜日だから行けるはずもなく,今日聴けるのはとてもラッキーだ。
 当然,ソリスト,合唱団も自前。音大ならではの総合力の具現化。

● これはもう教会で神に捧げるために演奏するミサ曲ではないでしょ。世俗のミサ曲というか,ミサ曲を結界で守られる教会から巷に引きずり出したという感じですよね。
 そこにベートーヴェンの面目を見るかどうかは,その人のベートーヴェン観の問題だけれども,ベートーヴェンが生きた時代というのは,そういう時代だったのかもしれない。よくわからんが。

● 洗足はチャイコフスキーの4番。指揮は秋山和慶さん。
 絶品と申しあげておく。聴きながら何度も脈が速くなったり遅くなったりした(?)。
 第2楽章冒頭のオーボエが完璧に近い。どこで息継ぎをしたのか。息継ぎなしであれをやりとげたのか。
 ロシア音楽を形容するのに「金管の咆哮」という語句がわりと使われる。そのとおりなのだけれども,金管をあそこまで全開にすると音が割れるのが普通にあると思うのだが,そういうことが皆無。
 第3楽章の弦のピチカートも見事なもので,色気を感じた。

● チャイコフスキーは5番と6番がいいと思うのだが,今日よりしばらくは,「チャイコフスキー? 4番が一番だよ。4番を聴かなきゃダメだよ。ムラヴィンスキーでもカラヤンでもいいからさ,とにかく聴かなきゃダメだよ」てなことを言いそうな気がする。

● クラシック音楽→芸術→勉強しないとわからないもの=高尚なもの,という図式があるとして,いやそうでもないよというのをわかりやすく示してくれるのがチャイコフスキーだと思う。エンタテインメント性が濃いというかね。
 しかし,チャイコフスキーが見ていた何か深いものがあったはずで,その何かを抉りだすようにして,ほら,これでしょ,と差しだされたような,そういう感じの演奏ね。

● 差しだされて,なるほどこれか,とぼくが思えたのなら,“感じの”は省略していいのだが,聴き手がそこまでの水準には達していないので,“そういう感じの演奏”という表現になった。
 しかし。こういう演奏が聴けるのだから,このイベント,来年もあって欲しい。

● 3月には例によって,各大学を横断するオールスターチームで,ストラヴィンスキー「春の祭典」を演奏する。
 生とCDとの落差が大きい曲だ。ぜひ,聴いておきたいが,じつはチケットを買いそびれた。“ぴあ”で買っておくか。当日券もあると思うが。

2019年11月30日土曜日

2019.11.30 第10回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 昭和音楽大学・東邦音楽大学・桐朋学園大学

東京芸術劇場 コンサートホール

● この音大オケフェスも10回目を迎えたのか。ぼくは何回から聴いてたんだっけ。
 首都圏の9つの音大が参加するこのイベントも,今回は藝大が参加していない。従来は2大学ずつ4回に分けてやっていたのだが(したがって,4回のうち1回は3大学になる),今回は3回にまとめられている。
 そろそろ曲がり角にさしかかっているのかなとも思うわけだが,今回だけ何らかの事情でそうなったのかもしれない。そのあたりはわからない。

● チケットはだいぶ早めに買ったのだが,その時点であまりいい席は残っていなかった。これは毎回そうで,今までは通し券で買っていたので,通し券だからそうなのかと思っていたのだけどね。そういうことではなくて,いい席は最初からないのだと考えるべきだった。
 大学の関係者や招待者に当てられているのだろう。一般席はすなわち残り席のはずだ。

● だから不満かというと,そんなことはない。何せ千円なのだ。ほとんどタダみないなものだ。席について文句をいう理由はない。コストパフォーマンスは無限大だと言いたいくらいのものだ。
 ただし,今回は3階席。ステージはだいぶ遠い。ときどき,オペラグラスがあればなと思うことがあった。ニコンを持っている。持っているんだから,こういうときに使わないとね。
 でも,オペラグラスと集中は相性が悪い。オペラグラスを使ってしまうと,聴くことがおろそかになる。それが嫌で,オペラグラスは自宅の抽斗に放りこんだままになっている。

● 開演は午後3時。この日は昭和音大,東邦音大,桐朋学園大。
 まず,昭和音大。ムソルグスキー(ラヴェル編)「展覧会の絵」。指揮は渡邊一正さん。
 力がこもっている。力そのものを捉えれば,もっと持っている楽団はあまたあるに決まっている。プロオケはすべてそうだろう。
 けれども,持っている力を縦線とし,こめる大きさを横線とすれば,力では劣ってもその力を最大限にこめると縦横の面積ではプロを上回ることがある。
 この音大オケフェスでは,その逆転現象に出会えるからワクワクするのだ。ときめくと言ってもいい。

● 東邦音大はリムスキー=コルサコフ「シェエラザード」。指揮は現田茂夫さん。
 上記に加えて,若さのみが持つ勢いのようなもの。それを味わえることも音大オケフェスの魅力のひとつだ。それは自分のようにいたずらに年だけを取ってしまった者には,特に貴重なものに映るのかもしれないけれども。
 到達地点ではなくそこに至るまでの上昇カーブの勾配,上昇するスピード。そういうものが勢いとなって,客席に届く。その勢いに圧倒され,ため息をつく快感というものがたしかにあるのだ。

● コンサートマスターのソロの存在感がやはり大きい。劇中のシェエラザードは何歳なのだろう。利発で果断に富み,人の機微を捉える感受性に恵まれたこの娘,おそらく10代の半ば,今でいえば高校生くらいの年齢だろう。
 そのシェエラザードを奏でるのであるから,ここはやはりコンミスであって欲しいし,可能ならば贅肉の付いた(付き始めた)30過ぎのオバチャンではなく,娘を残す年齢の女性に弾いてもらいたいものだ。その方が想像力を無駄にかきたてなくてすむ。
 という意味からも,この音大オケフェスは大変にありがたいのだ。

● 桐朋は次の2曲。指揮は尾高忠明さん。
 ディーリアス 歌劇「村のロメオとジュリエット」より 間奏曲「天国への道」
 エルガー エニグマ変奏曲
 力のこもった熱演。熱演というだけでは足りない。彼ら彼女らの中でプロとして立っていく人はたぶんひと握りに過ぎないのだろうけども,では今あるプロオケのすべてがこの水準で演奏できるかというと,さてさて。

● 桐朋も奏者の圧倒的多数が女子。のだけれども,戦闘集団の感がある。戦う女たちっていうか。何と戦っているのかといえば,昨日までの自分だろうか。というと,綺麗事にすぎるか。
 切磋琢磨しながらここまで来たし,これからもそうであり続けるのだろうなと思わせる。生半な男は弾き飛ばされてしまうかもしれないね。

● というわけで,いずれも力の濃縮度が際立っている印象なんですよね。これを聴かなかったら何を聴くんだって気がするんですよ。
 チケットは一応,千円取るんだけど,実質は無料に近い。よろしく,聴くべし。これはね,聴くべきですよ。

● ただね,冒頭に申しあげたように,ひょっとするとこのイベントも終わりを迎えつつあるのかなとも思えるのでね。ちょっと心配。
 ただ,そうなればなったでさ,各大学ごとの演奏会もあるわけでね。選んで聴きに行けばいいだけだと言えば言える。が,可能であれば継続して欲しいなぁ。

2019年11月26日火曜日

2019.11.24 東京大学第70回駒場祭-東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団・東京大学フィロムジカ交響楽団

東京大学駒場Ⅰキャンパス900番教室(講堂)

● 渋谷から京王井の頭線で駒場東大前駅。駒場祭にやってきましたよ。
 じつは昨日も来る予定でいたのだけれども,昨日は宇都宮線で踏切事故があって,電車が止まってしまったのだ。
 ここまでの集客力を誇る大学祭は他にないでしょうね。東大ブランド,大したもんです。コンテンツも圧巻の充実ぶりなんでしょうけどね。

● 京王井の頭線も駒場祭開催中の3日間は乗車率が跳ねあがるのではないか。渋谷から乗った電車は田舎者には激しく混雑しているという状態で,その混雑を演出していた乗客の8割は駒場東大前で降りたような気がする。
 付近の住民にとっては,ひょっとすると迷惑な行事であるかもしれない。普段は静かな住宅街の道路がヨソ者で溢れてしまうのだ。

● 早く着きすぎた。ので,構内を歩いてみた。本郷もそうだけれど,ここも付近住民の恰好の散歩コースになっているのではないか。
 その昔,徳川将軍が鷹狩りをして遊んでいたのが,このあたりらしいね(鷹狩りは遊びではなく,統治上の重要な意味があったらしいのだが)。そう思って,ここに建物のひとつもなかった時代の景観を想像してみる。

● 東京大学の冠を付けている楽団は,東大純正の東京大学音楽部管弦楽団のほか,東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団東京大学フィロムジカ交響楽団東京大学フィルハーモニー管弦楽団のインカレ団体がある。さらに東京大学歌劇団があり,吹奏楽団が2つある。
 そのいずれも,演奏水準は相当なもの。もしくは,かなりなもの。

● さすがにラ・フォル・ジュルネに比するわけにはいかないと思うけど,これらの演奏をまとめて聴くことができる。駒場祭の凄いところはここにある。一般大学でここまでのメニューを提出できるところは,他にないだろう。
 ので,過去3回,この駒場祭にお邪魔している。2010年2012年2014年の3回だ。

● が,駒場祭に限らず,大学祭というのは,学生の学生による学生のための祭典,であるに違いない。
 その祭典にぼくのような年寄りがフラフラとやってきたのでは,景観を壊してしまうだけだろう。そういうことをするのは,主催者である学生さんのためにも避けるべきではないか。

● かく申すぼくにも学生であった4年間がある。ついこの間のことのような気がする。彼らも瞬きを2,3回する間に歳を取ってしまうのだ。過ぎてみればわかる。人はみな浦島太郎なのだ。
 であればこそ,その短すぎる若い時代にいる学生さんの空間に汚点を付けるようなことをしてはいけない。
 と思って,自重していたのだけれどもね。今回はその禁を破ってしまった。その理由はこの後すぐに申しあげる。
 同時に,今度こそ,これを最後にしようと思う。次はない。

 まずは,フォイヤーヴェルク管弦楽団(11:10-12:00)。メンデルスゾーンのホ短調協奏曲で,ソリストが奥村愛さん。
 行くでしょ,これ。禁を破った理由もじつはこれ。

● 特徴は指揮者がいなかったこと。実際のところ,このレベルになっていれば,指揮者なしでも交響曲の演奏くらいは難なくやってのけると思う。ヘボな指揮者ならかえっていない方がいいかもしれない。
 が,協奏曲はどうなのだろう。っていうか,これは奥村さんの弾きぶりってことになるんだろうか。

● 奥村さんの長いトークがあった。このオケとの付き合いはだいぶ長いらしい。黙って弾いているだけなら,観客(男性に限る)が勝手に誤解してくれる容姿の持ち主なのだが,喋ると地金が見える。
 その地金もまた演奏家はそうだよなと思わせるもの。演奏家として社会に伍していける人は,例外なく陽性な人のはずだと思っている。彼女もまたその例にもれない。
 必死に喰らいついて来てくれたとオケを讃えていたけれども,聴いてる分には,余裕こいて応接していたようにも見えた。そのあたりが芸ということか。つまり,必死を必死に見せないというね。

● 思いだした。900番教室は教室なのだった。大学祭の賑わいが聞こえてくるし,響きはないに等しいのだった。直接音の世界。
 そっか。これももう駒場祭はいいかなぁと思った理由のひとつだったかもしれない。

● さて,このあと,フィロムジカ,東大オケと続くんだけど,何か気がすんでしまったよ。どうしよっかな,帰るか。
 で,帰りそうになったんだけどね。せっかく来たのにそれでは少しもったいない。いったん駒場キャンパスを出て,付近を散歩して時間を過ごし,フィロムジカ(13:50-15:00)の演奏会に臨んだ。

● 曲ごとにメンバーの相当数が入れ替わる。最も印象に残ったのはチャイコフスキー「ロメオとジュリエット」。この曲が好きだからってのもある。チャイコフスキーの全てが詰まっている。
 メインの「幻想交響曲」は,全楽章聴きたかったら定演においで,ってことね。これも熱演だった。

● つまり,この楽団の演奏はプレ定演とも呼べるもの。フォイヤーや東大オケは定演とは接点のない独立した(?)演奏会になっているが,フィロムジカや歌劇団は定演に照準を定めていて,駒場演奏会はその一里塚のような位置づけ。
 いい悪いの問題ではない。楽団によって違うという,それだけのことね。

● 結局,東大オケ(東京大学音楽部管弦楽団)の演奏は聴かずに帰途についた。それじゃ何のために来たんだよって,われながら思わないでもないんですよね。
 駒場演奏会の最大の華は,何だかんだいって東大オケにあるんですよね。1,2年生のみで演奏する。その1,2年生の巧さに驚ける快感。
 それを聴かないことにした理由は2つ。ひとつは,貪欲さが摩耗してきてること。何でもかんでも歳のせいにはしたくないけれども,意欲の経年劣化はあるかもしれない。

● もうひとつは,東大オケの人気の高さ。フィロムジカの演奏が終わって,外に出たら,もう長蛇の列ができていた。次の東大オケの演奏を聴こうとする人たちの列がね。
 その最後尾についたところで立ち見確実という感じでね。もういっか,と思ったわけなんでした。

● もっとも,入替制ではないのかもしれない。次も聴きたい人は,そのまま座ったまま待っていてもいいのかも。それだとプログラムを受け取れなくなるはずなんだけどね。
 フィロムジカが終わって席を立つ人のところにやってきて,自分の荷物を置いて席取りをする人が1人のみならずいた。それはルール違反ではないのかもしれない。
 が,この場でのルール違反ではないとしても,そんな下卑たことはやりたくない。それは悪魔に魂を売るのと同じ。っていうか,悪魔だってそんな下品な魂は要らないだろう。

2019年11月21日木曜日

2019.11.17 宇都宮シンフォニーオーケストラ 秋季演奏会2019

宇都宮市文化会館 大ホール

● 栃木県の宇都宮でも聴いてみたい演奏会が被ることがある。今日は,こちらの文化会館にするか宇都宮短期大学にするか,最後まで迷った。どちらかが昨日だったら両方行けたのにと思うわけだけども,そういうことは言ってはいけないんだよね。
 結局こちらにしたのは,ひとつにはJR駅から近いということかな。案外そんなところで決まるんだよ。

● 開演は午後2時。当日券(1,000円)を買って入場。曲目は次のとおり。指揮は石川和紀さん。
 ワーグナー 歌劇「さまよえるオランダ人」序曲
 リスト 交響詩「前奏曲(レ・プレリュード)」
 ブラームス 交響曲第3番 ヘ長調

● 完璧にこちらの事情なのだが,昨晩はあまりうまく寝ることができなかった。やや寝不足の気味あり。
 ので,着座するや何だか身体が椅子に沈んでいくような,椅子に引っぱられるような感覚に襲われて・・・・・・。

● という状況を踏まえなければいけないんだけども,尻あがりに調子を上げてきた感があった。最も印象に残ったのはブラ3の第4楽章。
 アンコールのローエングリン前奏曲はさらに良かったような気がする。もうひとつのアンコール,交響組曲「ドラゴンクエストⅡ」より“この道わが旅”も気持ち良さそうに演奏していた(ように見えた)。

● プログラム冊子の団長あいさつに「もちろんプロのように素晴らしい音は出せないのですが,演奏会に向けて半年の間練習し,演奏に込めてきた情熱は,どこのオケにも負けないとの自負があります」という一説があるのだが,その自負はじつは多くのアマチュア・オーケストラが持っているものかもしれない。
 が,それでいいんでしょうね。その自負があることが,演奏会をやる資格の第1条でもあるんでしょ。

● もうひとつ。プロ並みの音を出す数秒間があるんだよね。なぜその数秒間が生まれたのかがわからないし,したがって再現もできない,としても。
 そこがプロとは違う所以であるわけだろうけど,その数秒間は,しかし,確実に存在していた。

● というのも,ブラームスの3番は2週間前に同じ会場で東京フィルハーモニー交響楽団が演奏している。どうしたって比べてしまう。
 東京フィルと同じ音,同じうねりが生じる数秒間があったと思う。複数回ね。

● 来年5月には「第九」を取りあげる。第4楽章だけではない第九は,栃木県では日フィルと栃響が12月に開催する(日フィルのは一度しか聴いたことがない)。
 昨年は鹿沼のオケ連合(主力はジュニアだったと思うが)が演奏し,数年前に那須フィルが演奏したこともあった。難物に違いない。どういうふうに仕上げてくるかね。
 来年はベートーヴェン生誕250年になるらしい。第九を演奏するところ,増えそうな気はするが,第九だらけになることは絶対にない。

2019年11月14日木曜日

2019.11.13 間奏61:大晦日のベートーヴェン,交響曲か弦楽四重奏曲か。併せて宿泊問題

● 大晦日に東京文化会館で催行されるベートーヴェンの全交響曲演奏会。今年も行けば9年連続9回目となって,数字的に収まりがいい。
 のだが,今年は小ホールの弦楽四重奏曲の方にしようかと思う。9曲演奏される。2年連続で行けば全曲聴ける計算。

● で,スマホで“ぴあ”にアクセスしてチケットを買おうと思ったんだけど,うまく行かない。支払方法でクレカを選択すると,有効期限や番号を確認することになるはずなんだが,その確認画面が出てこない。こちらが探さなければならないのか。
 今まで何度も“ぴあ”は利用している。PCとスマホではインターフェイスが違うんだろうかな。

● 今月中に東京に行く予定はあるんだけど,上野で下車する予定はない。発券手数料がかかっても“ぴあ”の方が手間いらずなんだが。
 ま,大したことじゃないけどね。PCでやれば今日中に片が付く。

● 問題は大晦日の過ごし方だ。全交響曲演奏会は13時に始まって翌年にかかる頃に終わるので,年越し蕎麦を食べるとか,静かにその年の来し方を振り返るとか,そういうことは少なくとも最近の8年間はやったことがない。
 それ以前も,旅行に出てたりしてて,そんなこととは無縁だったから,まぁ,そういうことはどうでもよい。
 っていうか,大晦日だから年越し蕎麦っていう人は,少数派ではないか,すでに。

● 交響曲を聴くか,弦楽四重奏曲を聴くか。結局,もうちょっと悩んでいたいなってことですかねぇ。
 悩んでいたくても,ま,結論は出ている。そこで次なる問題。

● 大晦日はホテルの確保に苦労する。都内のビジネスホテルに泊まろうとは考えない方がいい。第一に空きがないし,あったとしても料金が跳ねあがる。
 アパホテルが4万円だか5万円になったりするようなのだ。金に糸目をつけないという方針ならば泊まることもできようが,ぼくは糸目をつける方なのだ。つけざるを得ないっていうかさ。
 ので,カプセルホテルに狙いを絞った方が正解だ。寝るだけならカプセルでも問題はない。

● そのカプセルも大晦日は料金があがる。経済原則からして当然の話であって,受け入れるしかないのだが,昨年は朝食付きで7千円を超えた。カプセルで7千円超えですよ。
 馬喰町にある「北斗星」(ゲストハウスというのかドミトリーというのか)と山谷の安宿に泊まったことがある。それはそれで得がたい体験をさせてもらったと思うが,いつでも大浴場とサウナを使えるという点において,カプセルホテルが最も使い勝手がいい。

● 交響曲の方を聴くと泊まるしかなくなる。したがって,泊まる手配も考えなければならない。弦楽四重奏曲なら,宇都宮までは戻って来れる。宇都宮なら宿泊問題はだいぶ薄まる。ビジネスホテルに泊まることも可能だろう。
 終演後,東京で飲んでカプセルホテルに泊まるか。帰りの車中で動くパブを決め込んで,宇都宮に泊まるか。このあたりもちょっとした問題となる。
 どうせその日のうちに家に戻れないなら,宇都宮まで戻るのは一番つまらない選択肢であることは明白なのだけれども,宿泊問題との兼ね合いなんだよね。

● ぼくは男だからこんなものですむ。が,女性を受け入れているカプセルホテルは少ない。女性が地方から全交響曲演奏会を聴きに来た場合,宿泊場所を確保するのはけっこうシビアな問題になると思う。
 そういう人がいないわけはないと思うので,皆さん,どうしておられるのか。いい方法があったら教えてもらいたい。

2019.11.10 FReCS TRIO The 1st Concert

大谷石蔵スタジオ be off

● 南宇都宮駅前に大谷石蔵スタジオがあったなんて,知らなかった。何度もその前を通っていたのにね。
 正確に言うと,石蔵には気づいていた。このあたりは大谷石の石蔵が集まっているエリアで,レストランになっているところもある。けれども,そこにスタジオがあるなんて知りようもなかった。

● ともあれ,そこでFReCS TRIOなるメンバーによるピアノ三重奏の演奏会があった。8日に宇都宮市文化会館に行ったときに,このチラシを見つけた。
 開演は午後3時。ありがたいことに入場無料。

● メンバーは中村正大(ヴァイオリン),喜多 僚(チェロ),栗山頌平(ピアノ)の3人。3人とも栃木生まれ栃木育ちではなくて,よそ者。
 地域であれ業界であれ,賦活するのはよそ者だよね。 よそ者をどれだけ呼び寄せて,受け容れられるか。かなり大事だよね。大事というよりほとんど生命線。純血主義は滅びへの道だ。

● という一般論はともあれ,この3人は経歴が凄いんだね。超のつく一流大学を卒業しているし,自動車や電機のエンジニアだし。
 理系と音楽って相性がいいよねぇ。文学青年と音楽ってなると,どうもウェットな感じを受けちゃうんだけど,理系と音楽はサラッとしてて,腐れ縁的な感じがない。
 情緒的なイメージであって,エビデンスはありませんが。

● 曲目は次のとおり。
 ビゼー 歌劇「カルメン」より“第1幕への前奏曲”
 フランク・ブリッジ 「ミニアチュールズ」より“第7曲 ロシア風ワルツ” “第8曲 ホルンパイプ”
 ドビュッシー ピアノ三重奏曲 ト長調
 メンデルスゾーン ピアノ三重奏曲第2番 ハ短調

● オーケストラによる交響曲や協奏曲よりも,こうした室内楽曲を聴いていく方向に舵をきりたい。だから,こうした機会はありがたいものだ。
 室内楽の演奏会じたいがあまりないように思うし,あるのかもしれないけれども情報が入ってこない。たとえば,栃響の演奏会だったら栃響のサイトに行けばすぐわかるけれども,室内楽ってホール主催のものでもない限り,ネットで探しても引っかからないでしょ。

● ブリッジの“ホルンパイプ”が面白かったのだが,もちろんCDも持っていない。CDが出ているのかどうかも知らない。って,出ていないはずはないと思うが。
 ネットに落ちているに違いないが,できればCDで聴きたい。と思ってしまうのはネット社会に対応できていないからというより,クラシック音楽ではまだまだCDがユニットだからだよね。

● メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲は,いかにもメンデルスゾーンらしい“情緒”が載っていると思える。高校時代にメンデルスゾーン命の友人がいた。ぼくはその頃,音楽にほぼ興味がなかったから,彼の影響を受けているわけではないが,ホ短調協奏曲には捕まったクチだ。
 ずっと捕まったままになっていればよかったか。ときどき,その“情緒”が鼻につくようになったというかな。

● ドビュッシーはぼくには難解。理解しようと思うな,感じろ,ってことだと思うんですよ。理解の対象にしちゃいけないものだよね,そもそも。
 初めて聴いたのに,パッとこれいいと食いつける人がいるはずだ。頭デッカチじゃない人。頭悪いのに頭デッカチなヤツっているじゃん。一番始末が悪いよね。それ,自分のことなんだけどさ。

● 約80分のコンサート。200年前の欧州の貴族になったつもりで,こういうところに座って至近距離から届いてくる音の連なりと重なりに身を任せてみるのは,それじたいがなかなかに良きものだ。
 音楽に限るまい。小規模な演劇や朗読劇,落語など,用途はいろいろある。ここで興行的に元を取るのはどうやっても不可能だろうから,商業主義に毒される恐れもない(ぼくは商業主義って嫌いじゃないんだけど)。

● 脳内メモリに留めておくべきスポットだと思う。と,ここまで書いてきて,be off のサイトがあることを知った。時々はチェックするべし。

2019.11.09 テオフィルス室内管弦楽団 第63回定期演奏会

曳舟文化センター ホール

● 初めての拝聴。この演奏会をなぜ知ったかというと,東京で行われた演奏会でチラシをもらったからだ。
 行くことにしたのはなぜかというと,会場が曳舟だったからだ。このエリアにけっこう惹かれているのだ。

● なぜ惹かれるのかはわからない。東向島→(かつての)色街→人間に必要な裏側の街→永井荷風&吉行淳之介→生き方としての反体制 という流れが,自分の中にはあるんだけれども,それだけではない。
 何だかわからないけれども,この一帯に流れる空気は自分に近しいと感じる。演奏会を口実に街を歩けるじゃないかと思ったわけだ。

● その曳舟文化センター,駅から至近。開演は午後2時。当日券(1,000円)で入場。曲目は次のとおり。指揮は高畠浩さん。
 モーツァルト 「劇場支配人」序曲
 ワーグナー ジークフリート牧歌
 保科 洋 懐想譜(管弦楽版)
 シベリウス 交響曲第3番 ハ長調

● シベリウスの3番を生で聴いたことは過去にあったか。あったとしても,憶えていない。憶えていないんだから,初めて聴いたのと同じだ。
 1番,2番と比べると,北欧を感じる度合いが少ない。刺すような寒冷の気配はない。もっとも,“感じる”は聴き手の主観によるところが大きいから,違う印象を持つ人がいて当然なのだが。

● 保科さんは両国高校の卒業生であることを,プログラム冊子の曲目解説で知った。曳舟から見ても準地元。
 ぜんぜん関係ないけれども,勝海舟は本所の出だったか。墨田区界隈は多士済々の人物を輩出している。人材は下町から出る。

● テオフィルス室内管弦楽団の印象は,市民オケらしい市民オケというもの。テイストは先日やはり初めて拝聴した,江東シティオーケストラに似ているように思った。
 人間の集団だ。色々あるに決まっているのだが,まとまりの良さを感じた。普段は主張しないけれども,要所要所で舵を取るタイプの人がいるんだろうか。

曳舟文化センター
● 年に2回の定演を維持しているのだから,相応の実力がある。その相応の中でできることをやっているということだろう。
 率直に感じるのは,それぞれが仕事を持ちながら,演奏活動をしていることの,何というのか大変さであり,素晴らしさだ。眩しくもある。
 ぼくのように聴くだけなら誰でも造作なくできるけれども,作る側に回るのは誰でもというわけにはいかない。

● 仕事でメンタルに不調を来す人は,珍しくないというくらいには増えている。仕事に加えて,こうした活動まで引き受けているのは,単純に負担が2倍になることなのかといえば,たぶん,そうではないだろう。仕事で凹んだところが,演奏の練習で復元することもあるだろう。
 だとすれば,羨ましくもある。のだが,そんな絵に描いたような相乗効果はそうそうあるわけでもあるまいし,トラブルとの遭遇率も基本的には上昇するはずだ。

● というわけだから,ステージにいるのは上級国民で客席にいるのは下級国民という図式で,基本的にはよろしいと思っている。
 曲作りに精を出してステージでその成果を差しだす。それに対して,ああだこうだという輩には,だったらおまえがやってみせろ,と言いたくなるところがどうしてもある。

2019年11月13日水曜日

2019.11.08 ザ・メトロポリタンミュージック 創立六周年記念演奏会

宇都宮市文化会館 小ホール

● “ザ・メトロポリタンミュージック”の演奏会を聴くのはこれが2回目。2年前に一度聴いている。このときは,玉川克(チェロ),佐久間聡一(ヴァイオリン),桑生美千佳(ピアノ)のピアノ・トリオだった。
 そのときも今回も,財団の理事だという人の挨拶があったのだが,可能ならばこういうものはない方がよい。単純に邪魔だからだ。財団の都合もあろうから,あくまで可能ならという留保を付けておくが。

● 3日に同じ宇都宮市文化会館で行われた「ブラームスはお好き?」の演奏会で,このチラシを見て開催を知った。即,チケット(3,000円)を購入した。
 文化会館のサイトに行けば載っているはずなのだが,どうもそうした情報収集に熱心ではなく,見過ごしてしまうことが多い。自戒しておく。たぶん効果はないだろうが。
 開演は18時30分。終演は21時近かった。宇都宮で平日の夜の開催だ。お客さんの入りはこんなものかと思えるもの。

● 今回は2部構成。まずプログラムを書き写しておく。
 渡邊響子(ヴァイオリン)
  モーツァルト ハフナー・セレナードよりロンド
  サラサーテ ツィゴイネルワイゼン
 市橋杏子(ピアノ)
  リスト メフィストワルツ第1番 村の居酒屋での踊り
 相田しずか(チェロ)
  ドヴォルザーク 森の静けさ
  シューマン アダージョとアレグロ
 渡邊響子 市橋杏子 相田しずか
  メンデルスゾーン ピアノ三重奏曲第1番(第1楽章のみ)

 林峰男 宮地晴彦 玉川克 三森未來子
  レモ・ジャゾット(アルビノーニ) アダージョ
  カサド(フレスコバルディ) トッカータ
  パッヘルベル カノン
  ポッパー 演奏会用ポロネーズ
  チャイコフスキー 舟歌
  バッハ シャコンヌ

● 最も印象に残ったのは最後のバッハ「シャコンヌ」。5mくらい後方に吹っ飛ばされた気分。チェロ4本による「シャコンヌ」の破壊力たるや。抑制の効いた破壊力というかな。
 無伴奏ヴァイオリン曲。しかし,この曲の編曲版は数え切れないほどにある。ぼくが最も数多く聴いているのは,齋藤秀雄編の管弦楽版だ。下野竜也&読響のCD。
 何で聴いてもハズレはないと思うんだけど,チェロ4本だとこうなるということだなぁ。曲目解説によれば,ラースロー・ヴァルガによる編曲とのこと。と言われても,まったく知らない人だけどね。

● パッヘルベル「カノン」も。カノンってこういうことかというのがよくわかる。いやいや,それは聴く前からわかってろよ。
 単純に同じ旋律で異時間スタートというわけでもないんだよね。

● 渡邊響子さんの「ツィゴイネルワイゼン」は超絶技巧の嵐で,よくヴァイオリンを取り落とさないものだと思う。何もここまでにせんでもと,サラサーテに言いたい。が,聴いてる分にはすこぶる面白い。
 Wikipediaによれば,ツィゴイネルワイゼンとは「ジプシー(ロマ)の旋律という意味である」らしい。哀愁と言いたくなる色調があるのはそういうことかと安直に納得しておく。
 モンティ「チャルダッシュ」もそうだけれど,ジプシーが伝えてきた旋律というのは,何だか染みてくるよねぇ。日本人と相性がいいような気がする。何の根拠もなく言っているのだが。

● 市橋杏子さんはリスト「メフィストワルツ第1番」を演奏。といって,伴奏も務めていたわけなので,ずっと出ずっぱり。最後は肩で息をする状態だったのではないかと思う。最後のメンデルスゾーン「ピアノ三重奏曲」では客席から気を揉んだほどだが。
 聴いている分にはやはり「ツィゴイネルワイゼン」の伴奏が面白かったんですよね。と言われるのは本人には不本意かもしれないけれども,しようがないですね,ここはね。「ツィゴイネルワイゼン」の魅力なんですよね。

● 相田しずかさん。音大ではない普通の大学を卒業してOLをやっていた,と本人が語ってた。OLを辞めて,桐朋に入学し,今は桐朋の学生。
 音大に進むか一般大学にするか悩みに悩んで,結局,将来の生きやすさを考えて一般大学にしたのだろうと勝手に推測する。しかし,音楽への思い,やみがたく。

● となると,やはりあのとき,音大に進んでいればと思ってしまうのだろうか。ものごとにはそれをやるべき時季がある。その時季を逸してしまったという後悔。
 しかし。人生に無駄なことなどひとつもない,それもこれも必要だったから起きたのだ,という言われ方を信じていたい。なぜなら,根拠なくそれを信じてしまった方が得だからだ。過去は巻き戻せないのだから。

● 医師を辞めて音大に入り直した人もいるもんね。収入は激減することはわかっていたはずだが,それでもそちらに方向を向ける。他の職業を捨てさせてまで,彼女や彼を惹きつける魅力を発するのは芸術と呼ばれる分野に限られる。とりわけ音楽。
 何というのかなぁ,選ばれし者の栄光と悲惨というやつかな。音楽に翻弄される人生。選ばれなければそんな目に遭わないですんだのに。選ばれてしまったんだよなぁ。

● 相田さんの初々しい佇まいがとても新鮮なものに映った。トリオで演奏したときの渡邊さんのヴァイオリンを気にする仕草とか,客席に投げる視線の様とか。
 来年はもうこの初々しさは消えているのだろう。初々しさをいつまでも残しているようでは,ちょっと困る。というわけなので,ぼくらは貴重なものを見れたかもしれないんだよね。

● ところで,3人の演奏を聴きながら(観ながら),ショーガールという言葉が浮かんできた。彼女たちはアーティストに違いないのだ。パフォーマーでもある。
 しかし,ステージで演奏する以上,否応なく“受ける”ことを考えざるを得なくなるだろう。演奏以外の立居振舞の問題。
 その点でいうと,「林峰男と仲間たち」の三森未來子さんが他のメンバーと交わす愛嬌たっぷりのアイコンタクトは,ショーガールの模範と言うべし。

2019年11月12日火曜日

2019.11.03 東京フィルハーモニー交響楽団演奏会「ブラームスはお好き?」Vol.3

宇都宮市文化会館 大ホール

● 地元出身の大井剛史さんが東京フィルハーモニー交響楽団を指揮する「ブラームスはお好き?」の3回目。ブラームスの4つの交響曲を1番から順に演奏していく。今日を除けば,残りあと1回になった。
 ブラームスの前は,チャイコフスキーの後期交響曲3つについて同様の演奏会があった。ブラームスの後も継続されるのかもしれない。

● その場合は,誰を取りあげるんだろうか。ニールセンなんか面白いのじゃないかと思うんだけども,公立ホールの主催となると,あんまり尖った企画にはできまい。
 今さらベートーヴェンでもなかろうしなぁ。ぼくとしてはブルックナーなんかやってもらえると嬉しいんだけども,毎年ひとつの交響曲を取りあげるんじゃ,少し以上に息の長すぎる企画になってしまう。

● 開演は午後4時。ぼくのチケットはB席で2,000円。2回左翼席の前の方で,ここがBとはありがたい。Sでもおかしくないと思う。オーケストラの全体が見える。
 このチケット,6月16日に宇都宮駅東のファミリーマートの機会を操作して買っている。いい席をと思うならできるだけ早く買った方がいいということもある。Sでも限りなくAに近いSがあり,Bでも限りなくAに近いBがある。

● もうひとつ,行けるか行けないか予定がハッキリしないからという理由で買わないでいるのは最も良くないと思っているからだ。
 行きたいと思ったのなら,予定不明でも買っておいた方がいい。そうしておいた方が行ける確率が高くなるような気がしている。確たる根拠はないのだが。

● 曲目は次のとおり。
 悲劇的序曲
 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調
 交響曲第3番 ヘ長調

● ヴァイオリン協奏曲のソリストは神尾真由子さん。チャイコフスキー国際コンクールの覇者。
 今回の白眉はこのヴァイオリン協奏曲だった。神尾さんのふてぶてしいほどの迫力というか押し出しに満ちた所作が,ステージと客席をほぼ完全に支配した。自らを矜む気持ちの強さというかな。
 彼女にとってはこれが普通なのだろうな。これくらいで驚いてちゃダメよ,と言われるかなぁ。宇都宮でこの演奏を聴くことができた幸せを噛みしめておりますよ。

● ブラームスの3番は比較的,演奏される頻度が低いかに思えるけれども,ブラームスらしい質量に満ちた大曲。
 演奏しているのが東京フィルハーモニー交響楽団なんだから,何の文句もあろうはずがない。毎回思うことを今回も思った。団員の平均年齢がだいぶ若い。

● 今どき,プロの奏者になるような人,いや音大に進むような人っていうのは,幼少の頃から楽器に親しんできたに違いない。ぼくはひと筋の道に精進した人,職人というイメージを持ってしまうのだが,実際のところはどうなのだろう。
 どうなのだろうというのは,“ひと筋の道”は道として持ちながら,広い世界を確保してきた人も多いのかなという意味なんだけど。

● 彼らの演奏を聴きながら,同じように3歳や5歳で楽器を始めても彼らのようになる人とならない人がいるのは,なぜなんだろうなと思ってみた。
 で,次のような問題を自分に出してみたくなった。解答案は今のところない。
 超の付く一流と並の一流を分けるものは何だと思うか。各自,思うところを千字以内で記せ。ただし,次の語句を用いてはならない。 1 才能 2 環境 3 英才教育 4 運
● 大井さんの端正な所作も見所でしょ。指揮はたぶん所作だけで行うものではないのだが,客席からは(P席でもない限り)指揮者の表情は見えない。見えるのは所作だけなので,“所作=指揮”になりがちだ。
 しかし,まぁ,それで当たらずとも遠からずだろう。所作と表情が乖離するとは考えづらいのでね。

● というわけで。価値ある2千円,価値ある2時間。
 ちなみに,神尾さんのアンコールはパガニーニ「24の奇想曲」。オケのアンコールはハンガリー舞曲第4番。

● ところで。終演後,ちょっと近くをウロウロしてから宇都宮駅に向かうバスに乗ったんだけど,そのバスに大井さんも乗ってきてね。あれっと思った。
 車で移動しているのかなと思ってたもんで。指揮者のイメージってそうなんですよね。カラヤンにしてもカルロス・クライバーにしてもスピード狂。どこへでも自分で運転して行ってしまうというイメージ。
 常に必ず車とは限らないってことですか。にしても,主催者が駅まで公用車で送るってのもなしなのか。大井さんがその申し出を断ったのか。
 ともあれ。今日は新幹線で帰京して,明日はまた明日の現場に向かうのだろう。流れ渡世の職人のようだな。

2019年11月11日月曜日

2019.11.02 江東シティオーケストラ 第51回定期演奏会

ティアラこうとう 大ホール

● せっかく東京に出てきたのだからというわけで,今日はダブルヘッダー。すみだトリフォニーから地下鉄でひと駅離れたティアラこうとうに移動。
 もちろん歩いた。日がすっかり短くなって,夕方5時には街の灯り,正確には歓楽街というか飲み屋街というか,そうしたところの灯りがともる。願わくばそうしたところに吸い寄せられる虫のようでありたいが,目的地があるのでここで虫になるわけにはいかなかった。

● しかし,ま,こうしたところを歩くのは,それ自体が快を伴うものだ。錦糸町駅南口を出て東に歩けば横十間川にぶつかるから,川に沿って南に歩けば,ティアラこうとうに至る。この川も台風19号では溢水したんだろうかな。
 街の灯りと川っていうのも,けっこうな組み合わせだ。このあたりは東西南北に何本もの川が流れているのだが,川なのか運河なのか。後者だと思うのだが。

● 江東シティオーケストラの演奏を拝聴するのは,これが初めてだ。開演は午後6時。入場無料。
 曲目は次のとおり。指揮は田中健さん。ブルッフのヴァイオリン協奏曲のソリストは金子昌憲さん。
 エロール 歌劇「ザンパ」序曲
 ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番
 ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」

● 地名を冠した市民オケというのは,千差万別いろいろある。音大卒を揃えて,ストイックにアンサンブルを追求しようと志向しているところもあるやに思える。
 一方で,部活というより同好会的なものもある。楽しくやりましょ,っていうね。一生懸命にやらないと楽しくならないというのは基本だとしても,楽しくやるというのが目的になっているところ。
 どちらが良くてどちらが悪いという話では,当然ない。多様でいいのだし,多様でなければならない。その多様さを現実に展開しているところが,日本のアマオケ活動の凄さというか,層の厚さというか,そういうことなのだと思っている。

● で,たいていのところは,その中間にある。これまた当然で,別の言い方をすれば二兎を追っているわけだ。
 この楽団もそうだ。年に2回の定期演奏会を開催するとして,もう25年続いているわけだろう。たぶん組織の原則が働いて,楽団が継続していくためにこれしかないという細い道を通ってきているはずだ。それは偏った道であるはずがないのだ。

● 金子昌憲さん,当然だけども自分のスタイルがある。奏法云々ではなくて,立ち方,視線の向け方,場の作り方,集中の仕方・・・・・・そういったところのスタイル。
 そこから織りなす音色,勢い,緩急,昇降といったもの。そこにオケが応接する。ときにオケがここで暴れてくださいと場を作って提供していると感じることもあって。

ティアラこうとう
● ところで。ドヴォルザークの9番は聴くことなく,帰途についてしまったんですよ。これでこの演奏会を聴いたといえるのか。言えないな。
 なぜ前半だけで帰ったかというと,ここで帰途につかないと今日中にわが家に帰れなくなるかもしれないと思ったもんだからね。
 要するに,黒磯まで行く宇都宮線の最終電車にまにあわなくなる可能性があった。

● 要は,会場から錦糸町駅までをどうするかということなんだよね。住吉まで歩いて半蔵門線に乗るよりは,猿江公園を横切って錦糸町駅まで歩いてしまった方が早いような気がするんだけど,ここの時間がちょっと心配。
 結果からいうと,最後まで聴いても間に合ったと思う。しかし,万が一ということもあるのでね。

● でさ,こういう聴き方をするんだったら行くなよ,と思うわけですよね。どうもよろしくない。まず後味がよくない。
 つまり,せっかく東京に行くんだからと,ダブルヘッダーを組んだのが間違い。せっかく・・・・・・という発想はよくないね。

2019年11月7日木曜日

2019.11.02 ジェイソン・カルテット 第11回演奏会

すみだトリフォニーホール 小ホール

● ベートーヴェンが築いた大きな山脈はいくつもあるが,弦楽四重奏曲はその代表。弦楽四重奏曲に親しまなければベートーヴェンを聴いていると言ってはいけない。
 しかし,聴く機会はそんなにない。交響曲はいくらでもあるのだが,ピアノ協奏曲になるとグッと減り,弦楽四重奏曲になるとさらに減る。ひょっとすると,あってもぼくのアンテナがピンと立ってなくて,キャッチできないだけかもしれないのだが。

● もしアンテナがピンと立っていないのだとすると,その理由ははっきりしている。どこかで避けているからだ。
 なぜ避けるのかというと,聴いても歯が立たないというトラウマ(?)があるからだ。どうにも歯が立たない。つまり,自分の気持ちが音の響きにほとんど反応しない。錆びついているようだ。

● 対処法は1つ。聴き続けること。
 ので,少し前から意識して拾うようにしている。今回の演奏会もそうして情報をキャッチした。
 開演は午後2時。入場無料。曲目は次の2つ。
 ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調
 ハイドン 十字架上のキリストの最後の七つの言葉

● ジェイソン・カルテットのメンバー,どこかで見ている。しかも,複数回見ている。豊洲シビックセンターあたりか。
 この四重奏団,アマチュアとはいえ,水準は相当なもので,プロだと言われれば信じるだろう。その演奏で聴いても,ベートーヴェンの10番がわかるかというと,どうにも心許ない。こちら側の精進があまりに足りないということ。弦楽四重奏曲の醍醐味というのは何なのだ。

● ハイドン「十字架上の七つの言葉」は初めて聴く。CDでも聴いたことがない。聴き手として全然ダメか。
 序奏から始まって7つの“ソナタ”と終曲,併せて9曲。合間に朗読という形での場面説明が入る。その朗読は篠原英和さん。ヴァイオリン奏者なのだけども,こういう活動もやっているらしい。

● 場面はともかく緊迫するところだ。イエスの最期を音楽によって描写しようというわけだから。思いっきり緊迫させればいいというのなら,ハイドンにとっても楽勝だったのかもしれないが,この曲はそうではない。
 緊迫のみでイエスの最期を描いてしまうのは,キリスト教のお約束ごとに反するのかもしれない。よくわからんけどね。

● 当然だけれど,朗読なしで,つまり音楽だけで場面を想像できるかといえば,そんなことのできるはずもない。朗読はありがたい。あるいは,予めある程度詳しい曲目解説を読んで頭に入れておく必要があるだろう。
 ハイドンはたくさんのパーツを予め用意していて,場面に相応しいパーツをはめ込んでいくという曲の作り方をしていたんだろうか。そんな印象をちょっと受けた。ここ,曲ごとに乾坤一擲のベートーヴェンと違うところ。

● とはいえ,これは弦楽四重奏の大曲。演奏する側は相当に大変だ。演奏中にもそれは感じられたが,終わったあとのホッとした様子が印象的だった。ずっと息を詰めていたんだろうからね。
 入場は無料なんだけども,カンパ制ということになるのだろう。募金箱が置かれていた。ここまでの演奏を聴かせてもらえば,やはりいくばくかのお金は置いてくることになるだろう。けっこうな数の人が募金箱にお金を投入していたと思う。
 演奏の才があって,若いときから(あるいは,幼いときから)長い時間をかけて技を磨いてきた人たちの,その上澄みを披露してもらうのに,タダでいいということにはならない。

2019年10月31日木曜日

2019.10.27 マーラー祝祭オーケストラ 第17回定期演奏会

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● マーラー祝祭オーケストラの演奏を聴くのは,これが2度目。2015年8月に同じ会場で「大地の歌」を聴いている。「大地の歌」を生で聴いたのは,後にも先にもこれ1回だけ。
 今回の定演はマーラーではなく,新ウィーン学派の代表作を取りあげた。
 ベルン 管弦楽のための「パッサカリア」
 ベルク ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
 シェーンベルク 交響詩「ペアレスとメリザンド」

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券で入場。指揮は井上喜惟さん。
 「ある天使の思い出に」のソリストは久保田巧さん。この楽団とこのソリストの演奏で聴けるのだから,川崎まで来たのも宜なるかな。

● とはいえ,ぼく的には新ウィーン学派というのは難解の代名詞だ。それはおそらく,ぼくだけではないのだと思う。それかあらぬか,客席はけっこう空席が目立った。新ウィーン学派は集客には寄与しない。それも宜なるかな。
 しかし,にもかかわらず会場に足を運んでいるお客さんは,ぼくを別にすれば,けっこう聴き巧者が多かったようだ。開演前や休憩中の彼らの会話を聞いているとね。へえぇ,そんな見方もあるのか,と思うような話をしている。指揮の井上さんを個人的に知っているらしき人もいた。

● 木管,特にクラリネットに瞠目。が,依然として,ぼくには難解なままだ。正直言うと,よくわからんのだ,新ウィーン学派。
 CDで何度も聴けば,何かが開けてくるんだろうか。開けた先に何があるのか。すでにそれを見ている人はあまたいるのだろうが,ぼくはとてもその境地には至れていない。

● 作家の百田尚樹さんが著書『至高の音楽』において,バッハの「平均律クラヴィーア曲集」を取りあげ,十二音技法について言及している。
 この旋律は厳密にはロ短調だが,凄まじいばかりに半音階が使われていて,ほとんど無調性のように聴こえる。(中略)これは私の想像にすぎないが,おそらくバッハはドデカフォニーの原理を知っていたのだと思う。しかしドデカフォニーだけでは美しい音楽にならないことも同時に知っていた。だからこそ,その一歩手前で踏みとどまったのだ。(新書版 p30)
 百田さんは音楽アカデミーに属する人ではないから,この指摘もほとんど無視されているのだろうけれども,超素人の感想ながらストンと納得できる。そうだろうと思う。バッハのみならず,モーツァルトもハイドンも気づいていたんじゃなかろうか。

● ミューザ川崎,来るたびにいいホールだと思う。WALKMANでブラームスの3番を聴きながら,開演を待っていた。開演されなくて,このままずっとこの場所でWALKMANを聴き続けているのもいいなぁ,と思っていた。
 WALKMANで聴いているんだから,静かなところならどこでもいいわけだ(多少の雑音はあってもいいけど)。けれども,WALKMANから直接鼓膜にぶつかる音を聴いているのでも,このホールの1席に座って聴いていると何かが違うような。

● ぼくの乏しい体験からすると,ミューザ川崎が日本で最もいいホールだ。音響,導線,大きさ,スタッフの対応,使い勝手,などなどトータルクオリティで,たぶん,ここが日本一。たぶんと言うのは,西日本のホールはまったく知らないから。
 同じ日の同じ時間帯に複数の演奏会があることは,まぁよくあることだ。楽団や演奏曲目によって2つまで絞ることができた。さて,2つのうちのどちらにしようかというときに,ホールで決めるのはわりとあることではないか。

● わが家からだと,上野東京ラインの開通によって川崎まで乗換えなしで行けるようになった。川崎がグッと近くなった。
 末永くお世話になれればいいと思うのだが,さてさて。