2018年7月10日火曜日

2018.07.01 さくらウインドアンサンブル 第2回定期演奏会

さくら市氏家公民館 ホール

● 開演は午後2時。入場無料。

● 曲目は次のとおり。指揮は村上陽一さん。地元出身でこの楽団の音楽監督。
 郷間幹男 虹色の未来へ
 バーンズ アパラチアン序曲
 久石譲/森田一浩 もののけ姫セレクション

 本田拓滉 ある森の一日(クラリネット5重奏)
 坂井貴祐 さくらの主題によるラプソディ(金管5重奏)

 ピアソラ 「タンゴの歴史」より Ⅲナイトクラブ
 シュライナー/ハワード インマー・クライナー

 鈴木英史 ディズニー・プリンセス・メドレー
 プリマ/宮川成治 シング・シング・シング

● 吹奏楽の原型はおそらく軍隊の軍楽隊,鼓笛隊だろう。聴き手を鼓舞するためのもの。あわよくば,聴き手の神経を麻痺させて,戦場に飛びこませるためのもの。
 今の吹奏楽はずいぶん洗練されたというか,そういうものとは別のものになっているが,マーチが多いのはそうした沿革によるものだと,勝手に思っている。

● 軍隊ではなくても,人が人生を生きて行くうえでは,鼓舞されることが必要なのだろう。場合によっては神経を麻痺させてでも,そこに飛びこんでいかなければならないことがある。
 “そこ”とは職場であったり,学校であったり,配偶者の実家であったり,様々であろうけれど,会いたくもない人に会わなければならないことがあり,やりたくもないことをやらなければならないことがあるのが,つまり人生というものだ。いやいや,そういうもので満ちているのが人生というものだろう。

● それゆえ,軍隊の軍楽隊に相当するものを,ぼくらは必要とするのだ。鼓舞するものがなければ,生きるのがシンドくなるのだ。
 吹奏楽が一定の人気を保って存続しているのも,畢竟,このあたりの事情からではないか。

● ピアソラの“ナイトクラブ”は海老澤栄美さんのクラリネット。ピアノ伴奏は渡部沙織さん。ヴァイオリンでも良し,フルートでも良し,というわけなのだろうが,クラリネットでももちろん良し。
 ピアソラといえば「リベルタンゴ」。ピアソラはわりと好きで,1曲残らずというわけではないけれど,かなりの曲を聴いている(つもり)。その中で「リベルタンゴ」は別格だと思える。この曲はクラシックなんだろかとも思うんだけど,そんなことはどうでもいい話で,この曲だけでアルゼンチンが好きになれそうだ。
 というわけで,次は「リベルタンゴ」を聴かせていただきたいな,と。

● 「インマー・クライナー」では海老澤さんはソリストの役がら。遊びを仕込んだ曲で,吹奏楽ではこの種の遊びはさほど珍しくないような気がしている。
 芸術性(訳のわからない言葉だが)よりもエンタテインメント性を指向しているようだ。少なくとも管弦楽よりは大衆性を獲得できているのは,それが理由のひとつでしょう。

● 昨年もそうだったので覚悟はしていたんだけども,客席に問題が多い。乳幼児を連れてきちゃう母親がいるんだな。しかも,けっこうな数。
 指で耳を塞いでいる女の子がいた。小さい子をここまでの音圧に晒すのは拷問に近い。都会の雑踏とはわけが違う。そういうことが気になってしまって,演奏を聴くことに集中できなくなる。

● 親が聴くのを我慢すればいいだけのことだ。我慢できない理由が何かあるのか。知り合いが出演しているという程度のことは,我慢できない理由にはならんぞ。
 親同士の交友や旧交を温めるといったことは,別の場所でやったらよろしい。そもそも,旧交など温めても仕方があるまいと思うんだが,女の人にはそうもいかない事情があるんだろうか。

● しかし,そういうことを呑みこんでお釣りが来るほどに,ステージは工夫をこらした楽しいもの。和気藹々としているが,それだけではステージは成り立たないだろう。切磋琢磨といえばきれいな言葉になるが,いろんな軋轢があるだろうことは想像に難くない。
 まとめる立場の人は大変だろうけど,それあればこそ,ここまでのステージがあるわけで,どうか倒れない程度に眠れない夜を過ごしてもらいたいものだ。

● ただし,工夫の数々を外してしまって,直球で勝負してもいいような気もした。つまり,演奏がすべてを語るという行き方でもいいんじゃないか。ことさらにエンタテインメント性を演出しなくても,ステージは充分に成立する。
 が,ここはそういう行き方を採らないらしい。

● 司会進行にプロのアナウンサー(須賀由美子さん)を起用。起用する以上は活かさなければいけない。活かそうとしなくても,彼女が自ら動いてくれるだろうが。
 ときに彼女が演奏を喰うというか,ステージで主役を張る瞬間があった。それはおそらく彼女の本意ではないと思うが,やむを得ない。ときに,女性のルックスは演奏を喰ってしまうのだ。

2018年6月30日土曜日

2018.06.30 宇都宮大学管弦楽団 第85回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 昨夜に続いて,宇都宮市文化会館。開演は午後6時。チケットは800円。
 曲目は次のとおり。指揮は阿部未来さん。
 ロッシーニ 歌劇「セビリアの理髪師」序曲
 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 ハ短調
 ブラームス 交響曲第2番 二長調

● 5月と6月,わりと大学オケを聴く機会が多かった。いずれがアヤメかカキツバタということでもない。わりとわかりやすい差があるものだ。が,下手だからダメだとはぼくは思わない。下手でも気品があるという場合はある(少ないけれど)。
 宇都宮大学管弦楽団はどうかといえば,技術的にもかなり高い水準にあるのじゃなかろうか。

● 作家の伊集院静さんは立教大学の野球部にいた。身体を壊して退部するんだけれども,大学の野球部は高校までのそれとはまったく違ったとエッセイに書いている。大学の授業も午前中に開講されるものにしか出られなかっとある。
 小中学と野球をやっていた少年たちが,まず高校で篩にかかる。高校まで残っていた野球野郎が大学で篩にかかる。だから,大学で残った部員はかなりの猛者で,その猛者たちが切磋琢磨する。

● 管弦楽の場合はどうなんだろうか。おそらく,そうした篩はないだろう。むしろ,大学で楽器を始めた人もいるだろう。
 しかも,講義がある時間帯から練習を始めてしまうわけにもいかないのではないか。うるさいと苦情が来そうだ。防音がしっかりした練習室がいくつもあるなら話は違うけれども,普通の国立大学にそんな恵まれた環境は用意されていまい。

● が,授業にしっかりと出て,自学自習も怠らず,そのうえで残った時間を練習に充てているとも思えない。大学の教室にいた延べ時間よりは,部室なり練習室で過ごした時間の方が長いだろう(そうでもないのか)。
 一人でする練習もあるだろうし,アルバイトもするんだろうから,けっこう以上に忙しく過ごしていると思うんだけど,トータルとして,宇都宮大学の教育学部や国際学部や工学部や農学部を卒業しましたというよりは,宇都宮大学の管弦楽団を卒業しましたという気分が勝るのではないかと想像する。

● ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ピアノは米津真浩さん。この人,かっこいい。非常に下世話な感想だけれども,ピアノがチョー巧くてイケメン。モテるだろうな。
 リサイタルの口もかかるでしょうね。演者であれ奏者であれ,舞台に立つ以上はルックスを等閑に付すことは許されない。お客を呼べる要因はひとつでも多く備えていた方がいいに決まっているのだ。
 ザックリとした印象でいうと,東京音大って美女やイケメンの比率が他より高い? コンセール・マロニエで優勝した小瀧俊治さんも東京音大だったし,田母神夕南さんもねぇ。

● その米津さんのピアノに管弦楽も懸命の対応。といって,ピアノに付いていくという感じではない。がっぷり四つ。
 相撲じゃないんだから,基本,ピアノを立てていた。というか,まぁ,立てるしかないでしょうね。米津さんのオーラはすごかった。ということは,がっぷり四つではなかった? いや,あれはがっぷり四つと形容するのが正しい。

● ソリストと指揮者が去ったあと,管弦楽団の奏者が退場するときにも,客席から拍手が起こった。協奏曲でこういうことはあまりない(と思う)。
 もっとも,第1楽章が終わったところでも拍手があったから,拍手が好きなお客さんが多かったのかもしれない。というのは誹謗中傷。あの拍手はそれとは明らかに別種のもの。管弦楽の健闘を称えるものだった。

● ブラームスの2番。聴きごたえあり。小さな事故はあった。だけど,いいんですよ。ほんと,そんなのはどうでもいいと思う。だからあまり気にするなと言いたい。
 そんなことより,攻めてたってことだよね。それが客席に届くんですよ。で,最終印象を決めるのは,そこのところなんですよね。

● 弦の水準の高さはもはや鉄板かと思われた。フルートとオーボエがしっかりしている。他はダメかといえば,もちろんそうではない。
 県内にいくつかある市民オケ,大学オケの中で,最も心躍る演奏を聴けるのが,この楽団かもしれない。将来は知らず,今のところは。

2018.06.29 国立音楽大学栃木県同調会 くにたちコンサート2018

宇都宮市文化会館 小ホール

● 開演は午後7時。当日券で入場した。
 このコンサートは4年前に一度聴いている。今回から“音楽の歴史シリーズ”と題して催行するようで,まず今回はルネサンス音楽編。次回はバロック編になるようだ。
 構えずに楽しめる。コンサートとしては理想形のひとつかもしれない。

● その所以を述べておく必要がある。そのために,まずプログラムを紹介することから始める。
 モンテヴェルディ オペラ「オルフェオ」より“序曲”“プローロゴ”
 ソプラノ独唱
  本居長世 赤い靴
  團伊玖磨 紫陽花
  ロッシーニ 約束
  ドニゼッティ オペラ「ドン・パスクワーレ」より“あのまなざしに騎士は”
 ボロディン 弦楽四重奏曲第2番 ニ長調(第3楽章のみ)

 以上が第1部。最初の「オルフェオ」以外,ルネサンス音楽とは関係なし。モンテヴェルディは「ルネサンス音楽からバロック音楽への転換点に立つ音楽家」と言われるけれども,モンテヴェルディからバロックの匂いを嗅ぐことは,ぼくの耳では難しい。

● 続いて第2部。
 ダウランド おいで,もう一度。今,甘美な愛が
 レウト 愛の神よ,私に告げてください
 プレトリウス クーラント183 ブランレ・モンティランド ブーレ
 スザート ムール人の踊り ロンドⅠ ロンドⅣ バスダンスⅡ
 前半の2つは声楽,後半の2つが器楽。

● 要するに,室内楽的な器楽と声楽が交替で登場する。その規模といい長さといい,頃合いがいいんですね。そこがまず「構えずに楽しめる」所以。
 それと,ルネッサンス音楽というのは,古典だのロマンだのに比べると,数学的な精緻さを欠き,緩い感じがする。その分,聴き手をして勝手に遊ばせてくれる。

● 音楽界はこのあと,大バッハを生み,ベートーヴェンを登場させ,ついにはシェーンベルクを世に出した。でもって現代に至るわけだけれども,それはつまり,音楽が大衆性を失う過程でもあった。
 いや,この言い方は失当だな。電気と録音技術によって,ぼくらは複製を得たのだ。複製によって音楽は一挙に大衆性を獲得したのだから。
 が,音楽の敷居が高くなったのも事実だろう。

● 今回聴いたルネッサンス音楽とシェーンベルク以後の対比は,フェルマー最終定理とABC予想を対比することに相当するような。どちらも数学上の難問とされ,近年,解決されたもの(らしい)。
 フェルマーの最終定理はそれ自体は小学生でもわかるものだ。3以上の自然数nについて,x^n+y^n=z^n となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない,という定理のことだ(n=2なら(3,4,5)が存在する)。そういうことかと誰でも理解できる。だから,これが証明されたときには社会的な話題にもなった。
 が,ABC予想はそれがそもどういうものなのかが素人ではわからない。ので,証明されても(しかも,証明したのが日本人であっても)世間はあまり反応しない。

● もし,ルネッサンス音楽のままでとどまってくれていたら。いや,そんなことになったら現在の隆盛はやはりなかったろう。という,とりとめのないことを思いながら聴いた。
 で,そういうことをチラチラ思いながら聴いても,ルネッサンス音楽って楽しいのだ。構えないで聴けるから,疲れない。呼吸を止めて聴くということにはならないからね。
 
● 司会者の解説も役に立った。この時代は楽器の性能がイマイチだったから,どうしても声楽が中心になり,器楽はそれに添えられるものにとどまっていた,と。
 大方の聴き手にとっては常識になっているだろう。が,中にはぼくのような粗忽者もいるかもしれない。今の楽器で判断しちゃうという。

● ので,これで終わっても,ぼくは満足だった。が,このあと,大学の教員2人による演奏があった。
 ベートーヴェン ピアノソナタ第23番「熱情」
 フランク ヴァイオリンソナタ(フルート版 第1,3,4楽章)
 「熱情」は江澤聖子さん,フルートは大友太郎さん。これらは嫌でも構えて聴くことになるんだけど,この水準の熱情ソナタを生で聴けるのは,かなり美味しい。

● ここでもひとつ発見したよ。演奏中の江澤さんが乙女に見えてきたんですよ。一心に曲に向かっているときの女性は乙女に見える。これ,発見。
 同じことが男性についても言えるといいんだけど,大友さんが少年に見えることはついになかった。自分を顧みて言うと,男はもともと成熟を拒否する性であって,中身と外見が連動しないからね。

● もうひとつ。譜めくり女子に不美人なし,というやつ。砂川しげひささんがどこかで書いていた。譜めくり担当の女性は美人ばかりだ,と。
 今回は大友さんのピアノ伴奏を江澤さんが務めた。そのときに譜めくり女子が登場。なるほどなと思った。
 今回に限らず,たしかに譜めくり女子は美人ばかりだった記憶がある。ごく少ない例外はあったようななかったような,そこらあたりは曖昧だけど。

● というわけで,ごきげんなフライデー・ナイトになった。このコンサートは,たぶん,大学側の出捐行為であろうから,遠慮なくタカらせてもらうのが吉かと存ずる。これで1,500円は本当に安い。

2018.06.24 東京アマデウス管弦楽団 第8回室内楽演奏会

豊洲シビックセンター ホール

● 東京アマデウス管弦楽団の室内楽演奏会。2014年にアマデウス・ノネットの演奏会を聴いたことがあるんだけど,なんか頭がこんがらかりそうなんですが。
 今回の室内楽演奏会とアマデウス・ノネットはどういう関係? ノネットの他にも,ユニットがあるらしいんだけど,そういうものを吸収する形での室内楽演奏会なんだろうか。
 ま,そのあたりはこんがらかったままでも,特段の支障はないんだけどさ。

● 開演は13:30。入場無料。アマデウス・ノネットのときは有料だったんだけどね。
 まず,曲目を。

 シューマン ピアノ四重奏曲 変ホ長調
 ハイドン ピアノ三重奏曲 第21番 ハ長調
 メンデルスゾーン ピアノ三重奏 第1番 ニ短調

 シューマン ピアノ五重奏曲 変ホ長調
 モーツァルト 弦楽四重奏曲 第21番 ニ長調
 ストラヴィンスキー 「兵士の物語」三重奏版

 ブラームス 弦楽六重奏曲 第1番 変ロ長調
 ヴィラ=ロボス 「ジェット・ホイッスル」
 イベール 木管五重奏のための3つの小品

 ヴィヴァルディ 『調和の霊感』 第8番 イ短調,第10番 ロ短調
 エルガー 弦楽のためのセレナーデ ホ短調

● これだけやるんだからロングランになる。終演は18:45だった。これほどの長丁場に付き合うのは,2部門開催だった頃の「コンセール・マロニエ本選」以来。
 ほかに,ドヴォルザークのピアノ三重奏曲第21番も予定されていたが,これはなくなった。出演者体調不良のためとアナウンスされたんだけど,本当にそうなのかね。
 観客も次第に減って,最後の方は出番を終えた団員が客席で聴いていて,それが過半を占めていたかも。中には,厳しい目を注いでいた団員もいたようだ。

● ぼくのような浅い音楽ファンは,こうした室内楽曲を聴くことはあまりない。オーケストラ主体になる。CDでもあまり聴かない。やはり,オーケストラが主体になる。
 したがって,室内楽曲については聴いたという体験の絶対量が圧倒的に不足した状態だ。

● 室内楽曲は聴き手を選ぶんだよね。聴き手が試される。交響曲や協奏曲なら,とっかかりはいろいろありそうだけども,室内楽曲は待ったなし,みたいな。
 ポンと差しだされて,あんたにこれがわかる? と意地悪く訊かれたような。ヘボな聴き手はそう思ってしまう。

● それで困るのは,記憶が次々に上書き保存されてしまうことだ。前の曲の記憶が消えてしまう。ので,憶えているのは最後のエルガー「弦楽のためのセレナーデ」だけだったりする。
 これらすべてを並列保存して記憶にとどめることのできる人は,それだけでも相当な聴き手と言っていいのではないか。

● そこをあえて,印象に残ったものをあげると,まずはストラヴィンスキー「兵士の物語」。曲じたいがアグレッシブ。したがって,演奏も。
 ブラームス「弦楽六重奏曲」。ブラームスならどれを聴いても損はないという安心感。ヴィヴァルディ「調和の霊感」第10番。これ,CDは持っていたろうか。
 中でも「調和の霊感」第10番。これはCDを調達しないと始まらない。

● この楽団は東京大学音楽部管弦楽団のOB・OGによって結成されているらしいのだが,年代が幅広い。こうした楽団においては,年齢よりも実力が揃っていることの方が重要なのだろう。その意味で年代云々はあまり問題にならないのかもしれない。
 が(それはいったん置いておいて),異なった年代の人たちが集まって一緒にやると,何かいいことがあるんだろうか。つまり,それぞれの年代に属する人たちに裨益するところがあるんだろうか。若い人が割りを喰うことが多いような気がするんだが。
 大きなお世話ながら,そんなことをちょっと思ってみた。

2018年6月27日水曜日

2018.06.23 上智大学管弦楽団 第106回定期演奏会

新宿文化センター 大ホール

● 新宿文化センターにはすでに3,4回は行っている。が,それでも新宿駅から文化センターまで迷わずに行くことができない。田舎者にとって,新宿はまさしく魔都。
 だいたい人が多すぎるのだ。人の動きでメインストリートを嗅ぎ分けるのに,どの道路も人,人,人だから,訳がわからなくなるのだ。

● とにかく辿り着いたんだけど,最短距離をササッと通ってきたのか,だいぶ遠回りをしてしまったのか,それすらよくわからない。
 この街を自在に泳ぎ回れる人は,すごいと思う。ぼくはもう諦めている。

● この楽団の演奏を聴くのは,今回が初めて。事前に名声を聞いていたのでぜひ一度は聴いておきたいと思っていたということもない。東京でポッカリと空き時間ができることがわかったので,“オケ専”を眺めて決めたという,どうにも締まらない理由による。
 ただし,若い人たちの演奏っていうのは,それだけでこちらに届くものがある。大学オケなら聴いて後悔することがないのはわかりきっている。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。曲目は次のとおり。指揮は汐澤安彦さん。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 ドヴォルザーク チェロ協奏曲 ロ短調
 ドヴォルザーク 交響曲第7番 ニ短調

● チェロ協奏曲。プログラム冊子にも「非圧迫民族ニグロの音楽」という言葉が出てくるんだけども,この曲は,黒人霊歌やアメリカ先住民の音楽をドヴォルザークのホームであるボヘミア音楽と融和させた作品,として評価が定着しているらしい。
 つまり,交響曲9番と同じく,ドヴォルザークがアメリカに行ってなければ生まれることのなかった作品。

● が,黒人霊歌はともかく,ぼくにはどこがアメリカ先住民の音楽を引いているところなのかがわからない。何というお粗末。
 まぁ,あれだ。蟹が自分の甲羅に似せた穴を掘るしかできないのと同じで,聴き手も聴き手のレベルを超えた聴き方はできないという,あたりまえのことを感じたわけだ。いくら曲や演奏が良くても,それをどう受けとめるかは,聴き手の問題でね。
 その聴き手の問題であるものを,曲や演奏のせいにしないようにすることは,こちら側のせめてものエチケットだろうね。

● しかし,このチェロ協奏曲が今回の白眉だったろう。ソリストのドミトリー・フェイギン氏に負うところが大きいのだが,管弦楽もよく健闘していたと思う。
 チェロ独奏に絡むことの多かったオーボエとフルートが印象に残るのは当然。絡むというより,そちらの方がむしろ主役だと思えるところもあるわけで。

● ドヴォルザークの7番。8番と並んで,9番の次に演奏される機会が多いらしいのだけど,この曲を生で聴くのは,これが二度目か三度目か。8番に比べるとずいぶん少ないよねぇ。
 全体的にコンミスの存在感が圧倒的だった印象。最も目立つ位置にいるから,そうなりがちではある。もちろん,コンミスだけでオーケストラが成立するはずもないので,2ndヴァイオリンにもヴィオラにも名手がいる。
 個々の奏者間のばらつきは比較的少ない楽団だと思えた。

● こういうコンサート,ぼくはほぼ百パーセント,一人で聴きに行く。終演後にカフェやバーに立ち寄って,聴いたばかりの演奏を肴にして,誰かと何ごとかを語り合いたいと思ったことは,ただの一度もない。
 そんなことをしなくても,こうやって感想を書き留めておくことはできる。が,それ以上に,語り合えるほどの感想を持ち得る自信がないからだ。良くいえば,自らの分を弁えているのだね。
 それからもひとつ。語り合うという形にしてしまうと,話が具体的・瑣末的になりすぎるきらいがあると思っているゆえでもある。あそこでちょっと事故っちゃったねぇ,とかね。それは感想かね。バカバカしい。

2018年6月13日水曜日

2018.06.03 鹿沼ジュニアフィルハーモニーオーケストラ 第29回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 前回,初めて拝聴して,予想していなかった水準の高さに驚いたものだが,その驚きは一度しか味わえない。今回は,それは所与の前提になってしまっている。
 開演は午後2時。入場無料。

● 今回の曲目は次のとおり。
 ヴェルディ 歌劇「アイーダ」より“凱旋行進曲”
 サン=サーンス 組曲「動物の謝肉祭」
 サン=サーンス 交響曲第3番 ハ短調「オルガン付」
 何というか普通だ。何せこのジュニアオケは,マーラーの5番やショスタコーヴィチの5番,ベルリオーズの幻想交響曲まで演奏しているのだ。それに比べれば,今回はまぁ普通。

● 指揮は益子和巳さん。鹿沼東中オーケストラ部の顧問の先生ではなかったか。
 このジュニアオケは,東中と西中の卒業生が,卒業後も演奏活動を続けたいと考えたことから始まっているらしい。栃木県内の中学校で管弦楽部があるのは,この両校だけだし,高校でも管弦楽部があるところは少ない。両中学校の卒業生が演奏活動を続けようとすれば,そういう形を選ばざるを得なかったのだろう。
 現在では中学生も増えているらしいのだ。

● となると,ジュニアオケの活動に中学校の教師が関わらざるを得なくなるということだろうか。本来は学校とは関係のない楽団なのだから,運営も活動も責任の所在も,学校からは独立しているべきなのだろうが,なかなかそうもいかないのだろう。
 現状だと学校側の負担が過重になっていないか。少々気になるところではある。本来なら,ジュニアオケと指導者・指揮者は契約を結び,正当な報酬を受け取るのがあたりまえなのだろうが(ただし,公立中学校の教師が金銭を受け取れるかとなると,現行法制ではおそらく不可),現実は学校側がおんぶに抱っこの状態のように思われる。
 学校側といっても,学校が学校として対応しているとも思えないから,実際は顧問の教師個人の負担になる。

● その状態で29回も続いてきたのだとすれば,それ自体がほとんど奇跡のようなものだ。が,ではこれからもそのまま行けるかとなると,そこは何とも言えない。
 教師の熱心さ,無償の情熱に寄りかかっているのだとすると,基盤は脆弱だ。なぜなら,教師には人事異動があるからだ。

● メインはサン=サーンスの3番。第3楽章(ということにしておく)冒頭の,何事が起こったのだと思わせる緊迫感のある旋律に接するのが,この曲を聴く醍醐味のひとつだと思う。その旋律を懸命に奏でるヴァイオリン奏者の動作が美しい。
 管弦楽は視覚でも楽しめるのだ。だから目を閉じて耳だけをすますのはもったいない。しっかと目を見開いて,ステージが発するもののすべてを受けとめる(見届ける)のがいい。と,自分にも言い聞かせているのだが。

● オルガンはもちろんパイプオルガンではない。天から降ってくるような,それでもってオケ全体を包みこむような,ふくよかというかまろやかというか,そういう音色ではない。
 鋭角的な,主張のある,形を持った音色になるんですね,電子オルガンだと。電子オルガンには電子オルガンの良さがあるに違いないのだが。

● 「オルガン付」もさることながら,最初のヴェルディ「アイーダ」の“凱旋行進曲”が印象に残っている。冒頭のトランペットに限らない。演奏しているのは本当にジュニアなのかと思わせるほどの,見事な完成度の高さ。
 惜しむらくは,今回は(次回以降も)それが驚きの対象にならない。やっぱりねという確認事項になってしまうことだ。

● アンコールは「カルメン」前奏曲。サン=サーンス絡みでフランスのビゼーを持ってきたのか,他に理由があったのかはわからないけれども,とにかく「カルメン」前奏曲がアンコール。
 これも聴きごたえがあった。何でもできちゃう感じね。次回はオール・ラヴェルではどうだろうか。このジュニアの演奏で「ボレロ」を聴いてみたい。

● ジュニアとは言いながら,ステージ上には大人も奏者もけっこういる。ヴァイオリンには大久保修さんもいたりする。
 でね,これは本題とはまったく無関係の話なんだけども,生物としての造形の美というのを思った。つまりね,生物としては大人よりジュニアの方が美しいんだよね。これはもう文句なく圧倒的に。
 成熟した,開ききった大人の体型は,生物としては終わっているという印象になる。男も女も。何でかね。
 生物としてのヒトは,終わったあとに長く生きることになるんだけど,これはどういう理由によるものなんだろうか。ひとつは子育てのためだろうけど,子育てを終えたあとも長く生きるよね。何の故あって?

2018年6月12日火曜日

2018.06.02 オペラアマデウス第1回公演 モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

板橋区立文化会館 大ホール

● 開演は午後4時。チケットは4,000円。指揮は曽我大介さん。
 ドン・ジョヴァンニ(バリトン)に湯澤直幹さん,レポレッロ(バス)に武田直之さん,アンナ(ソプラノ)に遠藤紗千さん,エルヴィラ(ソプラノ)に結城麻子さん,オッターヴィオ(テノール)に佐々木洋平さん,マゼット(バス)に清水那由太さん,ツェルリーナ(ソプラノ)に佐藤瞳さん。合唱は一音入魂合唱団

● セミステージ形式とあるんだけど,このセミステージ形式というのがいまいちよくわからない。「ただ立って歌う演奏会スタイルではなく,簡単なセットの前で芝居をしながら進んでいくのがセミステージ方式」らしいのだが,いわゆるコンサート形式といわれるものでも,立って歌ってるのなんか見たことがない。必ず,芝居をつけている。
 たんにオケがピットではなくステージに上がっているのをコンサート形式というのだと思っていたのだが。セミステージ形式とは,そこからさらに舞台装置を簡略にしたものかと思えた。
 ま,どうでもいいか,そんなことは。

● 「ドン・ジョヴァンニ」とはドン・ファンのことで,つまり,この世に生存するすべての男性の永遠の憧れだ。かつ,憧れにとどまるものだ。生身の男性がドン・ファンになんかなれるわけがないんだから。
 そのやっかみが男性陣にあるからか,劇中の「ドン・ジョヴァンニ」はかなりの問題児として描かれている。最期は地獄に墜ちる。
 しかし,剣の腕は立つんだし,幽霊というのか亡霊というのか,得体のしれないものが現れても少しも怯まず,それに対峙していく。それだけで相当モテるはずだよなぁ。勇敢なんだもん。

● ただし,たしかに問題もある。関係した(しようとする)女性との間で問題を作ってしまうことだ。そんなことをしてたら,2千人を超える女性と関係を持つことなどできるわけないんだけどな。
 後腐れを残さないことは絶対条件だ。後腐れは足を引っぱるから。あくまで軽くなくては。そのためには,たかが人生,たかが人間,という達観が,ポーズとしてではなく,脳髄に染みこんでいなければならない。
 ところが,「ドン・ジョヴァンニ」はそこのところで少し重さを抱えてしまっているんだな。そうじゃないと劇にならないわけだが,これだと悩み多い人生になってしまうなぁ。

● この脚本は単純に観客を笑わせるために書かれている。特に,レポレッロの台詞は笑いを取るためにあるようなものだ。アンナやオッターヴィオのシリアスな部分も,(主にはレポレッロが放つ)笑いを際立たせるためにある。
 おそらく,当時のウィーンの市民はこの歌劇を見てゲラゲラ笑ったのではあるまいか。が,今のぼくらは,笑うことを抑えてしまっている。たぶん,オペラだからというそれだけの理由で。
 オペラを芸術として祭りあげるだけが能ではないのだ(と思う)。漫才やコントと同じレベルのエンタテインメントとして,オペラを扱うこともありなのだろう。
 現在のウィーン市民はどうなんだろう。この歌劇を見て笑うんだろうか。それとも神妙に見ているんだろうか。

● 出演者がそれぞれ芸達者なので,舞台がダレることは一瞬たりともなかった。レポレッロの武田直之さんは手練れという印象。レポレッロをどんな役柄として表現するか。武田さんのレポレッロはその模範解答であるんだろうけども,模範解答が先にあって,それを具体化しただけではないと思われる。彼の創造(場合によってはアドリブ)があったはずだ。
 アンナを演じた遠藤紗千さんのソプラノが異彩を放っていた。憶えておくべき名前であろうかと思われた。

● 管弦楽も堅実というか手慣れているというか,危なげのない演奏。その代わり(?),平均年齢がけっこう高め。
 しかし,客席の平均年齢はさらに高い。ぼくなんか若い方かもしれない。後期高齢者が過半を占めていた感がある。このあたりがちょっと課題というか。

● といっても,この課題を解決する方策はたぶんない。縮小再生産にならざるを得ない。それを所与の前提として,さて自分はどうするか。それをそれぞれが考えていけばいい。
 なぁに,そんなにバタバタしなくても,人生はすぐに終わるよ。自分がいなくなった後のことまでどうにかしたいと思うのは,それそのものが思いあがりかもしれないよ。

● 先月末に左手を骨折した。ので,拍手ができない。この拍手ができないことが自分にけっこう影響を与えるものだと感じた。
 具体的には,のめり込んでいけないといいますかね。自分とステージ,自分と他の聴衆,の間に距離ができてしまう感じ。こういう何でもない動作が,わりと自分の構えに影響するものだ。
 つまり,骨折なんかしない方がいい。