2018年10月31日水曜日

2018.10.28 高根沢町立阿久津中学校吹奏楽部 Rainbow Concert 2018

高根沢町民ホール

● 4年前に一度聴いている。この時期は県内でもコンサートが増える時期で,だいたい複数が重なることが多い。3年間の空白ができたのもそれが理由だ。
 今回も直前まで別なところに行く予定にしていた。昨日,駅に貼ってあったポスターを見て,この演奏会があることを知り,急遽,予定を変更して高根沢町民ホールにやってきた。

● 阿久津中学校は県内でも吹奏楽部の水準が高い。もちろん,阿久津中学校以外にもそうした中学校はいくつもあるけれども,東関東に進めるんだから,相当なものだ。
 中学生をなめてはいけないことは,もう何度か実地の演奏で教えられている。彼ら彼女らの可塑性,吸収の速さに対して,中高年は畏れを抱いていなければならないというのが,ぼくの変わらぬ信念だ。
 咄嗟のときに素早く判断して的確に対応することも,彼ら中学生は大人と遜色ないか,あるいはそれ以上だと思っている。

● 開演は午後1時半。入場無料。
 プログラムは3部構成。曲目は次のとおり。1部はコンクール・ステージ,2部はアンサンブル・ステージ,3部は客席サービス・ステージ。

 一ノ瀬季生 マーチ・ワンダフル・ヴォヤージュ
 片岡寛晶 海峡の護り-吹奏楽のために
 クロード=ミシェル・シェーンベルク ミス・サイゴン
 ヤン・ヴァン・デル・ロースト アルセナール

 片岡寛晶 クラリネット五重奏「波影」
 田村修平 金管八重奏「楽市楽座-さくらの抄」
 山澤洋之 打楽器四重奏「花回廊/風龍」

 和泉宏隆 オーメンズ・オブ・ラブ
 ロバート&リチャード・シャーマン 小さな世界
 小諸鉄矢 ムーンライト伝説
 田中公平 ウィーアー!
 水森英夫 きよしのズンドコ節
 和泉宏隆 宝島

● わかりやすく巧さが伝わってくるのはパーカッション。もちろんのこと,パーカッションに限らず,木管金管とも相当なもの。高根沢町の無形文化財に指定してもいいくらいのものだと思われた。
 2部のアンサンブルはいずれも聴かせるものだったけれども,ぼくは打楽器四重奏「花回廊/風龍」に唸ることになった。

● 3部では「ムーンライト伝説」には大いに笑わせてもらったし,「宝島」はいやがおうにも盛りあがった。
 ないものねだりをさせてもらえるならば,ジャズを組み込んでもらえるとさらにありがたかったかなと思う。ジャズってどうもぼくにはピンと来なくて,隔靴掻痒の域に長らく住まっている。たぶん,ピンと来ないままに終わるのだと思ってはいるんだけれども,こういう中学生の演奏を聴いて勉強したい。

● この水準をもってしても,東関東では銅賞になってしまう。峻険だねぇ,東関東。その代わり,東関東を抜けられれば,自動的に全国でも上位に食い込むことができそうではある。
 千葉県が凄すぎるんだよね。千葉は県大会のあとダイレクトで全国大会でいいような気がするわなぁ。東関東は千葉県抜きで開催しようよ。
 千葉には何かあるんだろうか。とんでもない指導者が続いたとか。小学校から吹奏楽に力を入れているとか。過ぎたるは及ばざるがごとしということもあるから,必ずしも千葉をロールモデルにしなくてもいいとは思うんだけどね。

● 千葉,千葉と言ってしまったけれど,おそらく東関東を突破して全国に行った中学校と阿久津中の違いは微差なんだと思う。おそらく,だけど。
 その微差が大差なのだという,黴が生えたような言い方はしたくない。が,その微差を埋めるにはどうすればいい?

● ぼくに処方箋があるわけではないけれども,東関東に行ければいいと思っているのなら,それを捨て去らなければいけない。そう思っているんだったら,東関東で終わる。目的を達したのだから,その先がある道理はない。
 もっと先に目線を向ける。遠くを見る。そのうえで,楽しくない練習,楽しいはずがない練習をどこまで楽しんでやれるかという,そこのところにかかってくるのだろう。

● そこをどう工夫できるか。ゲームにするという言い方もしばしば耳にする。そういう卑近なあるいは些細な工夫を積みあげて継続できるか。そのあたりなんだろうかなぁと思っているんだけどね。
 その工夫は個人単位でやらなければいけない。部としての練習方法をどうするという問題ではない。あくまで自分による工夫でなければ効果がない。
 アンサンブルって,ひっきょう,個人プレーだもんね。つまるところは,個人の技量にかかってくるわけだから。

● じゃあおまえがやって見せろよと言われると,とても窮するんだけどさ。言うだけなら誰でも言える。実行するのはそういうわけにいかない。
 でもさ,差っていうのは,下から見上げると,実際より大きく見えるものだからね。阿久津中の部員が思っているほど,千葉のトップクラスと阿久津中の差はないんだと思うよ。

2018年10月29日月曜日

2018.10.27 栃木フィルハーモニー交響楽団 第47回定期演奏会

栃木市栃木文化会館 大ホール

● この楽団の演奏を聴くのは,これが2回目。6年前に第41回定演を聴いている。なにゆえこれほどに間が空いたのかといえば,栃木市は遠いからだ。
 ぼくのような県北で呼吸をしている人間にとっては,栃木,佐野,足利というのは,別世界のエリアになる。宇都宮線(東北本線)で動けるところは距離に関係なく近い。が,小山で乗り換えなければならなかったり,東武電車を使わないと行けないようなところは,極端な話,東京よりも遠い。

● 別世界なのだ。栃木に着いてもこの別世界感がついて回る。自分の住んでいるところの県名が栃木県であることが,すこぶる妙な具合に思えてくる(県名なんてどうでもいいのだけど)。
 なにゆえ別世界と感じてしまうのか。東京でこの別世界感を味わうことはないのだ。大宮でも横浜でもそんなものを感じることはない。

● ひょっとすると,劣等感のせいかもしれないと思ってみる。栃木や足利は栃木県における上方であり,文化の先進地域であって,栃木県では南西から北東に向かって文化の風が吹いてきたのである,と。
 巴波川の水運の残り香がかすかに漂う栃木の市街地を歩いたり,足利の悠揚迫らぬ余裕を感じさせる,たとえば足利女子高の前の通りを歩いていると,宇都宮などただの小汚い田舎町に過ぎぬと思えてくる。まして,ぼくの住む県北エリアなど,場末も場末,化外の地だ。

● そのような理解はたぶん間違っているはずだ。そんな単純な文化史は聞いたことがない。
 であっても,そのあたりが別世界感の所以ではないか。とすれば,その別世界感はぼくが勝手に作ったものだという結論になる。
 ではなぜ,そんな勝手なものを作ってしまうのかといえば,このエリアは,東京や横浜以上に自分にとって遠いものだからだ。こうして円環構造が完成してしまう。滅多に行かない→別世界→遠い→滅多に行かない・・・・・・という具合だ。

● というわけで,別世界感に包まれながら,栃木文化会館の片隅に背中を沈めたのだった。
 開演は午後6時半。チケットは1,200円(当日券)。
 曲目は次のとおり。オール・ロシア。指揮は大浦智弘さん。
 チャイコフスキー バレエ音楽「くるみ割り人形」より抜粋
 グラズノフ ヴァイオリン協奏曲 イ短調
 ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 ニ短調

● よく練られたアンサンブルであることはすぐにわかる。偉そうな言い方をしてしまうと,栃木県内にそれなりの数がある市民オケの中でも,ここは水準の高い部類に入るだろう。
 対外的な活動は年に1回の定期演奏会だけらしいのだけども,1年なんてすぐに過ぎる。今年ももう11月になるのだ。

● グラズノフ「ヴァイオリン協奏曲」のソリストは横山奈加子さん。この曲はソリストの比重が高いというか,ほぼ出ずっぱりになるというか。管弦楽を黙らせての数分間に及ぶ独奏部分があったりする。
 こういうのって,緊張するのは当然として,かえってやりやすかったりするんだろうか。逆に,いやなものなんだろうか。

● 何気に超絶技巧を要求してくる。困ったことに(いや,困ったことでは決してないんだけれど),名手が弾くと,超絶技巧が超絶技巧に見えないという現象が起こる。なんか普通にやってるね,って感じになる。
 横山さんもそう。その横山さんのヴァイオリンを聴けたのもラッキーだった。

● 野球でも内野の名手はファインプレーをファインプレーに見せないのと同じだ。見る人が見ればわかるけれども,大向こう受けはしない。だから意外に人気がでない。
 同じようなことが音楽の世界でもあるんだろうか。この世界,芸の追求の場でもあるけれども,一方ではショービジネスの要素も色濃くある。そこを高次元で統合できる人って,でもいるんでしょうねぇ。

● ロシアを代表する作曲家は,チャイコフスキーではなくショスタコーヴィチであるべきだと思っている。生きた時代が時代で,少し取っつきにくいのが困るし,中公文庫から出ている『証言』のような偽書(ではないという説もいまだにあるが)が大手を振ってまかり通れる余地があることが,少々以上に厄介ではあるのだが。
 何といっても量がすごい。ここまで量産できた(させられた?)理由はあえて問う必要がない。どんな理由だとしても,それができたことは才能によるとしか言いようがない。

● 中でも今回の5番は演奏される機会が多い。ショスタコーヴィチの代表作だろう。向こう受けする数少ない楽曲だということかもしれない。“よく演奏される曲=名作”とは限らないという留保ははずすわけにいかないけれども,この5番は名作だということにしておきたい。
 パンフレット冊子の曲目解説にも「3か月間で作曲した」と紹介されているけれど,3か月もあればショスタコーヴィチには充分だったろう。拙速が名作を生む例は,音楽に限らず,いろんなところにあるのではないか。

● 地方の小都市にこういう演奏をする市民オケがあるということにも,驚いた方がいいのかもしれない。
 この楽団は栃木市にとどまっていて,外にアピールしようとはしていない(たぶん)。市民オケはそれでいいのかもしれない。というか,そうあるべきなのかもしれないのだが(どこの市民オケもそうだ),実力に比して知名度が低いのでは。機会を見て外に打って出てみてはどうか。
 彼らからすれば,ぼくが別世界にいる人間なので,そのように見えてしまうのかもしれないんだけどね。それに,知名度など得たところで,いいことは何もないかもしれないのだけど。

2018年10月26日金曜日

2018.10.20 千代田区 第39回オーケストラフェスティバル

日経ホール

● 今日は特に行こうと決めていたコンサートはなかったんだけど。“オケ専”を見ていたら,明治大学OB交響楽団がブラームスの4番を演奏するコンサートの案内があった。
 この1曲だけなのか,それでもいいか,と思って「休日おでかけパス」で東京駅に降り立ったわけなんでした。

● ところが。受付でプログラム冊子をもらって,表紙に記載されているプログラムを見ると,ありゃりゃりゃ。とんでもなく盛りだくさんというか,盛りだくさんすぎるというか。
 プログラムは次のとおり。休憩を含めて4時間半の長丁場。開演は午後2時半。入場無料。

 千代田フィルハーモニー管弦楽団
  ボロディン 交響詩「中央アジアの草原にて」
  チャイコフスキー 交響曲第2番「小ロシア」

 化学オーケストラ
  ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」

 明治大学OB交響楽団
  ベートーヴェン コリオラン序曲
  ブラームス 交響曲第4番

 Musica Promenade
  富貴晴美 大河ドラマ「西郷どん」テーマ
  ヨハン・シュトラウスⅡ 美しく青きドナウ
  ボロディン 歌劇「イーゴリ公」より “序曲” “だったん人の行進” “だったんの娘たちの踊り” “だったん人の踊り”
  グリエール 偉大なる都市への賛歌

● 日経ホールは初めて。オーケストラを乗せるためのホールではない。ステージもオーケストラを乗せるには少し手狭かもしれない。
 音響はどうか。悪いと言うつもりはないけれども,良いとも言えない。基本,直接音の世界のように思えた。

● さて。そういうホールで,まずは千代田フィルハーモニー管弦楽団。指揮は和田一樹さん。絵に描いたような市民オケ。というのは,まず年齢のばらつきがかなりある。“演奏したい”人たちが集まって時間をかけてひとつの曲を仕上げているのだと思う。
 にしては,定演は年2回の開催だし,定演以外にも今回のような演奏会をはじめ,いろいろと動いているようだ。

● チャイコフスキーはやはり後期の3曲が聴き応えがある。今回の2番は玄人受けする曲なんだろうか。生でも何度かは聴いていると思うんだけど,あまり記憶に残っていない。
 金管に出せるだけの迫力を出させるのが,ロシアの伝統なのか。金管の前に座っている木管奏者の鼓膜は無事だったのかと余計な心配をしたくなった。

● 化学オーケストラ。「音楽好きの日本化学学会会員が中心となって,2002年に結成されたオーケストラ」とのこと。若い学生もいる。ので,こちらも年齢のバラツキがけっこうある。
 といっても,働き盛りの人は,なかなかオケ活動を継続するのは難しいのだろう。若い人と60歳を過ぎた人がいて,中間がいないという印象もある。極端にいえば,なんだけど。

● でも,こういうオーケストラがあったとは,まったく知らなかった。一般向けの定期演奏会などはやっていないようだ。
 化学者というからには女性は少ないかといえば,そうでもあり,そうでもなし。普通にある市民オケと比較すると,女性の占有率は低い。が,弦に限れば女性が多い。

● 指揮は宮野谷義傑さん。指揮者っていうのは,体力と運動神経が生命線ではないかと思っているのだけど,下半身が使えないとなると,それを補うための工夫,本人が工夫と思わないでやっていることを含めて,が詰まっているはずだ。
 それはたとえばどんなことなのか。そこまではわからなかったけれど,特注の車椅子を使って指揮をする姿は,悲壮感とかそういうものを微塵も感じさせない。ここに至るまでに,人には言えないようなことを含めて,内面の戦いがなかったわけがないのだ。それらの始末をすべてつけて,今あるようにここにある。

● 明治大学OB交響楽団。この楽団の演奏は一度聞いている。冒頭に申しあげたとおり,この楽団のブラ4しかない演奏会だと思っていた。で,それを聴くためにここに来たということなのだ。
 そのブラームスの4番。指揮は夏田昌和さん。満足した。
 少しもの悲しい旋律で始まり,それが多彩に展開していく。それを担うのは主には弦なんだけれども,ヴァイオリンの流れるような,たゆたうような,そして時に弾けるような,身を預けるのにちょうどいい調べが連続する。

● 生で聴く以外には,ぼくはもっぱらウォークマンで聴いているんだけども,何を一番多く聴いているかというと,以前はモーツァルトのクラリネット協奏曲だった。今はブラ4かもしれない。
 カルロス・クライバー+ウィーン・フィルで聴いている。なんかね,気がついたら聴いているという感じね。

● Musica Promenade。これも初めて聞いた名前。指揮を務めている瓦田尚さんが2003年に立ちあげた。瓦田さんは釜石の出身。となると,東日本大震災を思いだすわけだけれども,この楽団が結成されたのは,大震災が発生するずっと前だ。
 その瓦田さん。都立高校の社会科の先生らしい。大学も音大ではなくて早稲田。高校の先生というのは,長時間労働を旨としている職業人の代表だと思っている。それで,オーケストラを主宰するというのは,いかなる魔法によるものか。

● ならば,オーケストラも音大抜きのメンバーで構成されているのかといえば,どうもそうではないようだ。
 “だったん人の踊り”が特にそうだったと思うのだが,気が入った演奏。

● 終演は午後7時。ダブルヘッダーで聴いたようなものだ。こういう“フェスティバル”があったんですねぇ。

2018年10月19日金曜日

2018.10.13 第23回コンセール・マロニエ21 本選

栃木県総合文化センター メインホール

● このコンセール・マロニエ21,ここのところ,声楽とピアノが続いたような気がする。数年前に2部門開催から1部門開催になった。そのあたりも関係しているのかもしれない。
 今回は弦楽器部門。ここは異論もあるだろうけど,聴いていて楽しいのは第1に弦,第2に木管。というわけなので,いそいそと出かけていった。

● コンクールが始まる前に,配られたパンフレット冊子に目を通す。審査員長の沼野雄司さんの挨拶文を読む愉しみがある。時候の挨拶ではなく,営業方針が書かれているのだ。
 審査員長の立場でこんなことを言うと妙に思われるかもしれませんが,コンクールの成績など,音楽家にとって本来はどうでもいいことです。
 小気味いいではないか。コンクールでの優勝や入賞は,履歴書に箔を付ける効果はあるのかもしれないけれども,その程度の効果しかないように思われる。

● N響や読響が団員を採用するときに,そうした履歴書だけを見て,採否を決めることはないだろう。実際に演奏を聴いて,面接をするはずだ。一緒に演奏できる人かどうかを判断したいわけだから,当然のことだ(いったん採用すれば首にはできないのだろうから,なおさら)。履歴書(コンクールの受賞歴)などさほどに(あるいは,まったく)問題にはされないだろう。
 ということで,こういうものは素人にしかアピールしないんでしょう。聴衆の多くは素人だから,集客力が多少は違ってくる?

● パンフレット冊子に載っている出場者プロフィールにもこれまでの受賞歴が記載されている。東京音楽コンクール,全日本学生音楽コンクール,チェコ音楽コンクール,KOBE国際音楽コンクール,秋吉台音楽コンクール,岐阜国際音楽コンクールなど。
 それらのコンクールで1位とか最優秀賞を取っている。もうそれで充分じゃないかと思ってしまうのは,事情を知らない素人ゆえなんでしょうね。っていうか,コンセール・マロニエはかなりプレステージの高いコンクールのようだ。

● 審査員は2階席に陣取っている。お辞儀をするときに,その2階席を見る人と聴衆のいる1階席を見る人の,二通りに分かれる。どちらがいいという問題ではない。
 素人意見としては,審査員席を見る見ないにかかわらず,審査員の存在に負けているようでは話にならないと思う。おまえに俺の演奏がわかるのかというくらいの構えが必要ではないか(実際,審査員を超える才能の持ち主がいるはずなのだ)。
 ま,そうは言っても,なかなかに困難なのではあろうけれど。が,それも才能の一部のように思える。

● さて。演奏が始まった。聴くだけの聴衆にとっては好ましい緊張感が,客席にも漂うのだ。
 トップバッターは藤原秀章さん(チェロ)。藝大院(修士)の2年生。エルガーのチェロ協奏曲の第1,4楽章を演奏。ピアノ伴奏は吉武優さん。
 こういう曲を聴けるのが,このコンセール・マロニエの余慶というべきで,この先この曲を生で聴く機会が訪れるかどうか。
 初音を鳴らすときの切っ先の鋭さと角度の的確さ,わずかのズレもないタイミング。そんなのは初歩以前の問題ですよ,と言われるのかもしれないけれど。

● 藤井将矢さん(コントラバス)。新日フィルのコントラバス奏者。すでにプロとして立っている人か。
 演奏したのは,ロータ「ディヴェルティメント・コンチェルタンテ」の第1,3,4楽章。伴奏は秋元孝介さん。
 この曲はさらに聴く機会はないだろう。後にも先にも今日だけではないか。CDも持っていない。聴くだけならYouTubeで聴けるはずだが。
 コントラバスの柔らかさは格別。眠りに誘う効果も高いんだけどね。

● 堀内星良さん(ヴァイオリン)。メンデルスゾーンのホ短調協奏曲の第1,3楽章。伴奏は山崎早登美さん。
 高校生のとき,メンデルスゾーンが一番だと言う友人がいた。メンデルスゾーンのどこがいいのかといった突っこんだ話はしなかったのだが(突っこめるほどぼくは聴いていなかった),たぶん,彼の頭にあったのはこのホ短調協奏曲の第1楽章ではなかったか。
 初めて生で聴いたときのことははっきりと憶えている。那須野が原ハーモニーホールの小ホールで,田口美里さんのヴァイオリンだった。鳥肌が立った。鳥肌が立つという言い方は比喩的なものだと思っていた。そうじゃなくて本当に鳥肌が立つことを,そのときに知った。
 それから幾星霜。あの頃には戻れない。ということを,堀内さんの演奏を聴きながら思っていた。

● 水野優也さん(チェロ)。桐朋の3年生。チャイコフスキー「ロココ風の主題による変奏曲」。伴奏は五十嵐薫子さん。
 で,五十嵐さんのピアノに驚いた。年齢よりも若く見える顔立ちなのだろう,天才少女現るの感があった。天才の発揮を封印して,懸命に伴奏に徹そうとしている気配を感じたのだけど,そこまで言うと少々思い入れがすぎることになるか。
 水野さんの演奏はといえば,コンクールなのに楽しんでいるという印象。曲調の然らしめるところもあるのかもしれない。淡々と,しかし,気持ちをこめてしんでいる。

● 三国レイチェル由依さん(ヴィオラ)。藝大の2年生。今回の出場者の中で最も若い。ウォルトンのヴィオラ協奏曲。第1,2楽章。伴奏は高木美来さん。
 演奏から感じたのは清潔ということ。若さゆえだろうか。透き通っている感じ。
 努力にはすべき時があるのだろう。その時期を外してしまうと,努力が努力にならないという。25歳を過ぎてからいくら練習しても,技術が上向くことはおそらくないだろう。彼女はその“時”をまだ持っている。

●  齋藤碧さん(ヴァイオリン)。藝大の3年生。シベリウスのヴァイオリン協奏曲第1楽章。伴奏は林絵里さん。
 とんてもない才能を与えられた人がいる。これほどの才能を持ってしまうと,“選ばれし者の恍惚と悲惨”を一身に引き受けて生きていくしかない。他の人生はない。それが幸せなのかどうか,答えのない問いを詮索したくなるんだけども,大きなお世話というものだろう。
 齋藤さんの演奏を聴いていて感じたのは,そういうこと。

● 中村元優さん(コントラバス)。藝大院(修士)。トマジのコントラバス協奏曲。伴奏は笹原拓人さん。
 軽妙な演奏だと思った。そういうふうに演奏すべき曲なのだろうか。スイスイスイと進んでいった。

● この本選は,回を追うごとに観客が増えている。今回は弦だったゆえに尚更か。小学生の男の子が一人で聴いていた。ヴァイオリンを習っているんだろうかな。
 これほどの演奏をまとめて聴けることはそうそうない。しかも無料。聴かないと損。観客が増えるのはだから,理にかなっている。

● けれども,数が多くなると,中には変なのが出てくるのもやむを得ない。演奏中に水(かどうかはわからないけど)を飲む人がいた。飲むだけ飲むと,ボトルの蓋をカチッという音を発して締めてくれる。
 年寄りにもいるんだよね。ペットボトルの水を飲んたり,プログラム冊子を隣の椅子に音をたてて置く爺さんとかね。唾棄すべき田舎者がどうしても出てしまう。

● でも,演奏中にケータイの着信音が鳴るという現象はなくなりましたね。さすがにコンセール・マロニエでそれに出くわしたことはないけれども,普通のコンサートではわりかしあった。
 が,これがなくなった。年寄りもケータイやスマホの取扱いに慣れてきたってことですかねぇ。

2018年10月12日金曜日

2018.10.08 シュトゥットガルト室内管弦楽団 meets ワルター・アウアー

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。席はS,A,Bの3種で,それぞれ3,500円,2,500円,1,500円。なぜこんなことを書いているかというと・・・・・・。
 このコンサートが宇都宮でしか開催されないなんてことはない。全国各地で演奏旅行を行っている。で,ヨソでは5,000円のところが多いんですよね。岡山が安めだけど,それでも4,000円。宇都宮だけなんでこんなに安いの,と思ったわけなんでした。

● ちなみに,ぼくはB席のチケットをだいぶ前に買っておいたんだけど,1階15列9番という,なんでこれがBなの,という席なんでした。年末の「第九」なんかだと,この席は間違いなくSになると思う。
 ヨソの県の人が5,000円払って聴いた演奏を,ぼくは1,500円で聴いたよ,ってことなんですけどね。ありがたいには違いないんだけど,腑に落ちない感じが残ったよ,と。

● 曲目は次のとおり。
 モーツァル アイネ・クライネ・ナハトムジーク
 プロコフィエフ フルート・ソナタ ニ長調
 バーバー 弦楽のためのアダージョ
 チャイコフスキー 弦楽セレナード ハ長調

● 演奏する曲目を選ぶとき,何を重視するんだろう。自分たちが演奏したい曲を選ぶっていうのは,アマチュアじゃないんだから,あまり優先順位は高くないと思う。どんな曲でもお望みのものをご披露しますよってことだろうからね。
 集客を考えて,誰でも知っている有名な曲を入れるっていうのはあるかもしれない。加えて,これ知ってた? 知らなかったでしょ,でもいい曲なんだよ,勉強になったでしょ,憶えて帰ってね,っていうのを入れておく。
 その場合,聴衆のアベレージはこの程度っていう値踏みがあるはずだよね。

● 初っ端はモーツァルト。正直,ぼくの鑑賞能力を超える。これほどアグレッシブな「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聴いたのは初めてだったというにとどまる。
 これが世界標準なのか。そんなことはないだろう。CDはイ・ムジチ合奏団のものを聴いているんだけど,ここまで大きく前のめりにはなっていないように感じる。

● この感想は,しかし,視覚に幻惑された結果かもしれない。コンミスが大きく動くので。ずっと彼女を見ていたからなぁ。
 終始,演奏をリードしていた。ここに来るまでに何度もリハーサルを重ねているんだろうけど,他の奏者もピッタリ合わせていた。

● チームワークで勝負すると日本人は強いと言われる。が,こういう演奏を間近にすると,それって本当なのかと思えてくる。
 赤の他人が集まって,一緒に何かをするというときに,その場を作ることにかけては彼らの方が上手いんじゃなかろうか。場ができなくても何とかしてしまえるのは日本のお家芸かもしれないけれども,きっちりと場を作って,そこに構造物を拵えるということになると,ぼくらは彼らに負けるかもしれない。

● ワルター・アウアーを迎えての曲は,プロコフィエフ「フルート・ソナタ」。世界最高峰のフルートはこういうものか。これまた,ぼくの判別能力の限界を超えているんだけどね。
 闊達自在というのはわかる。けれども,具体的にどこがどうということになると,皆目。
 アウアーのアンコールは,グルック「精霊の踊り」。

● バーバー「弦楽のためのアダージョ」が,“知らなかったでしょ,でもいい曲なんだよ”と言われた曲。初めて「ボレロ」を聴いたときに感じた驚愕と同じとは言わないけれど,気持ちの良い驚きがあった。
 “静か”は遠くまで届くことがある。そんなことを思わせる。
 ところで,この曲のCDをぼくは持っていたんでした。アラララ,早速ウォークマンに入れよう。

● 〆はチャイコフスキー「弦楽セレナード」。盛りあげて終わる。そこはチャイコフスキーだもんなぁ。
 アンコールはモーツァルト「カッサシオン」から“アンダンテ”と芥川也寸志の「弦楽のための三楽章 トリプティーク」より第3楽章。
 室内管弦楽団とは言いながら,今回は弦のみの合奏だった。管も聴きたかったと言いたいのではない。充分に堪能できた。
 で,前に戻るんだけど,これで1,500円ってありなのか。

● シュトゥットガルトなんぞという横文字の楽団が来ると,普段は音楽なんか聴かない人がやってくる。で,楽章間で逡巡のない拍手が起こってしまう。
 それに対して,奏者側は寛大なように見受けられた。折込み済みということか。が,あまり気分の良いものではないんだよってのは,時々,態度で示していた。

● ところがね,彼らはいいお客さんなんだよね。つまり,ホワイエで販売しているCDやグッズを買ってくれるのは,主に彼らだから。めったに来ないんだから,記念になる。だから記念グッズを買う。
 一方で,擦れちゃってるやつらは,CDショップさながらのCDをすでに保有しているだろうし,保存する場所がないのに買ってどーすんだよ,と配偶者に白い目で見られるだろう。だから,意外に買わないんじゃないかと思うんだけど,このあたり,どうなんだろ。

2018年10月9日火曜日

2018.10.07 慶應義塾大学医学部管弦楽団 第42回定期演奏会

川口総合文化センター・リリア メインホール

● 開演は午後3時。曲目は次のとおり。指揮は佐藤雄一さん。
 リムスキー=コルサコフ 「皇帝の花嫁」序曲
 シューベルト 交響曲第7番「未完成」
 チャイコフスキー 交響曲第5番

● この楽団の演奏を聴くのは,今回が二度目。6年前に第36回定演を聴いている。場所も同じ川口リリア。そのときのメインもチャイコフスキーの5番だった。
 かなりの満足感が残ったことを記憶している。なのに,6年も間があいたのは何ゆえか。

● 医学部管弦楽団といっても,医学部の学生だけで構成されているわけではないことは,前回でわかっている。他学部や他大学の学生もいて,数はそちらの方がずっと多い。
 少人数の医学部だけでオーケストラを構成するのは,いかな慶応でも難しいだろう。慶応には「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ」という全国に冠たるオーケストラもある。ぼくはまだ聴く機会を得ていないけれども,その名声は届いている。それとは別に,医学部でオーケストラを立ちあげるのはなかなか。中には両方をかけ持ちしている学生もいるかと思うんだけど。
 半世紀近くも続いている。そのこと自体,賞賛されて然るべきかと思う。

● 入場料は取らない。カンパも募らない。つまり,この演奏会に要するコストは,その全額を演奏者側が負担している。
 N響といえども,チケット収入だけで賄えているはずがない。NHKからの助成金がなくなったら,たぶん消滅するしかないだろう。
 まして,アマオケの場合,チケット収入など楽団運営の屁のつっかい棒にもならないかもしれない。にしても,演奏者側が全額を負担している。

● 曲ごとにコンマスが交替する。ので,曲ごとに指揮者は全員を立たせる。
 メインのチャイコフスキーが圧巻だった。まず気がいくのは,第2楽章冒頭のホルン独奏だけれども,これを危なげなく演奏できれば,相当な技量の持ち主と考えていいのだろう。
 細く儚げな不安定感を表現しなければならない。不安定を安定して表現できれば,それは相当なものだ。

● トロンボーンの技量に一驚を喫した。抑えが効いている。第1楽章はもちろん,第4楽章の怒濤の行軍のところでも,トロンボーンに感じたのは抑制の美とでもいうべきものだった。
 演奏中に凜々しさを通したのもいい。素人はそうした絵的なところに反応するものだ。っていうか,そうしたものにしか反応できないと言った方がより正確かもしれないけれど。

● 曲そのものの力もある。演奏はすべからく作曲家とオーケストラの合作だと思うのだが,力のこもった演奏に導かれて,長い旅を終えたような気分だ。
 録音音源をいくら聴いても,この感興はまず味わえまい。これこそが生演奏の,ライヴの醍醐味だ。

● この演奏をぼくは素晴らしいと思ったのだけれども,素晴らしさを構成するものは何だろうと考えてみたくなる。技術はもちろんある。けれども,畢竟,若さが持つ何ものかという気がするのだ。
 若さが持つ真摯さ,若さが持つ柔軟性,若さが持つ向こうっ気のようなもの。そうしたものが織り合って,攪拌されて,沈殿して,また攪拌されて,そうしてできあがったものが,独特の香気を放つということではないだろうか。

● 佐藤さんの指揮も若々しい。胃袋がいくつあっても足りないのが指揮者という商売ではないかと思うんだけど,この学生たちと曲を磨いていくのは,佐藤さんにとっても楽しい時間なのではないか。
 基本,素直な学生たちのように思われるし,向上心も持ち合わせているだろうから。

● というわけで,今回も満足感とともにリリアを後にすることができた。