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2018年9月10日月曜日

2018.09.09 東京大学歌劇団 第49回公演 ヨハン・シュトラウスⅡ「こうもり」

三鷹市公会堂 光のホール

● 開演は午後3時。入場無料(カンパ制)。

● 面白かったね。まずは脚本と演出に拍手を送りたい。
 その演出を担当した南あかねさんが,プログラム冊子の“プログラムノート”で,どこに注目したか,どこに手をかけたか,どこはあえて放置したか,ということを述べているんだけれども,作る側はここまで自覚的なのかと思った。
 この解釈と姿勢に同感する人も,同感しない人もいるだろう。正解はない。っていうか,正解を持ってしまっているような劇は浅薄ですぐに見棄てられてしまう。

● 歌ではなく台詞でつなぐところが多いので,脚本が大事。作家(?)の腕の見せどころ。歌なしでいくわけだから,演者の演技も問われる。表情や仕草が大事になる。
 しかし,どうもそれ以上に声がものを言うようだ。となれば,台詞も歌の範疇というか,そもそもキャストの得意とするところというか,台詞について違和感を覚えた箇所はなかった。

● その脚本も,たぶん,あまり悩まないでササッとできあがったのではないだろうか。そんな感じがする。なぜそう思ったかというと,全体として台詞に勢いがあったからだ。
 あまり悩んでしまうと,つまり時間をかけてしまうと,その勢いを殺してしまうことがある。時間をかければいいものができるというわけではない。

● 際立っていたのはアデーレの造形ではないかと思う。「極端なほど子供にしてしまう」という。これ,演者が門上莉子さんだからそうしてみようと思ったのか,そうしてみることに決めたから門上さんをアデーレ役にもってきたのか。
 何か失礼なことを言ってる? そうではなくて,門上さんが演出にほぼ完璧に応えていたと思えたので。地でやっているのかと思えるほどに完璧。
 もっとも,こうした子供役の演技と蓮っ葉な女役の演技は,わりとやりやすいのだろうとは思う。これをやって絵にならない女優はまずいない。しかし,だから簡単だということではない。“やりやすい”と“簡単”は別のもの。

● オルロフスキーを演じた根岸優至さんがやはり目立ったよね。カウンターテナー。もう,わけがわからない。何,これ,っていう。わかりやすい異能。及川音楽事務所所属って,もうプロなんですか。
 アルフレードの伊藤悠貴さんも存在感を発揮。何で存在感を放っていたかといえば,やはり声だ。“乾杯の歌”を軽く歌いだしたところなど,ゾクッと来たよ。

● この歌劇団の公演は毎回楽しませてもらっているんだけれども(だから,今回も出かけたわけだ),今回,特に感じたのは,彼ら彼女らのキャパの大きさだ。
 東大生といっても,おそらく階層があるよね。彼ら彼女らは,上の方の階層に属するんじゃないかな。勉強ができる云々ではなくて,地頭がかなりいいんだろうと思う。回転が速いというか排気量が大きいというか。
 すでにOB・OGになっている人もいる。仕事をしているわけだ。その本業が楽にできるものとは思えない。並みの人だと根をあげそうだ。それをこなしながら,表現者としてもここまでできちゃうってのはねぇ。ぼくからするとルール違反じゃないのかと言いたくなる。

● 比較対象がぼくだというのが問題だけれども,こうまで性能が違うと,彼ら彼女らとぼくとでは,見えている風景がまるで違うはずだ。
 まして,類は友を呼ぶで,それぞれの水準に応じた世界ができるとすれば,そもそも住んでる世界が違うという様相を呈することになるだろう。

● ので,たとえば“プログラムノート”にしても,書き手の南さんが想定した内容でぼくに伝わっているかどうか,けっこう以上に心もとない。書き手の責任か読み手の責任かという話ではなくて,同じ日本語が同じ意味では伝わらないということが起こるのじゃないかと思う。
 ところが,そうした隔絶した違いがあるにもかかわらず,音楽や歌は両者に橋を架けることができるんだよねぇ。刺さる場所が,そうした性能差の出る部位じゃないってことでしょうねぇ。

2018年2月13日火曜日

2018.02.12 東京大学歌劇団 第48回公演 チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」

三鷹市公会堂 光のホール

● 開演は午後3時。入場無料(カンパ制)。

● 歌劇は総合芸術と言われるけれども,演劇的要素が強い分,舞台の設えや演者の衣装など,視覚に依存する部分が大きくなる。視覚の支配力が増すほど,それは大衆性を帯びやすくなる。抽象度が下がって,具体度が上がるわけだから。
 視覚とはそういうもので,音楽に関する限り,視覚は抽象度を下げる働きをする。たとえば管弦楽に比べると,観客側の参入障壁は低くなるはずだ。
 また,そうならなくては,つまり多くの観客を動員できなくては,催行に要したコストの回収が難しくなるだろう。

● オケはピットに入って,客席からは見えなくなる。舞台の演者がフロントで,オケは黒子になる。
 それを残念に思う人もいるかも。歌劇はコンサート形式がいいと思っている人。っていうか,ぼくにもその気がないわけではないんですよね。

● さて,「エフゲニー・オネーギン」。
 ストーリーはいたって単純だ。昔,手ひどくふってやった田舎娘が,艶やかな淑女に変わっていた。サナギが蝶になったように。そこで,蝶になった彼女に自分から言い寄ってみたものの,彼女から手ひどく拒絶されて終わる,という話。
 ストーリーは単純で骨太である方が,歌劇にしやすいのだろうね。単純である方がいろんな綾を付けやすいのかもしれない。

● その単純で骨太なストーリーをどこに求めるかといえば,男女の恋愛が一番だ。ワーグナーという重大な例外があるし,歌劇という歌劇がすべて恋愛譚であるわけではないのだろうけど,まぁ恋愛ものが最も多いよね,と。
 となると,劇中人物の年齢はだいぶ若く設定しないといけなくなる。「エフゲニー・オネーギン」ではだいたい二十歳前。恋愛をするにも能力が必要だ。恋愛能力がね。それは誰にも与えられているモノだけれども,使用期間は限定されている。10代,せいぜい20代の前半まで。それを過ぎると恋愛能力は大きく低下する。

● いや,そんなことはない,と言われるか。「自分は30歳になるが,この歳になると女(男)を冷静に見られるようになる。いっときの衝動で突っ走ることがなくなるから,むしろ幸せな結婚ができそうな気がする」,と。
 いっときの衝動で突っ走るのを恋愛というのだ。それができなくなったのは,恋愛能力が低下したからだ。今のように結婚年齢が30歳ということになると,文字どおりの恋愛結婚は皆無のはずだ。本人が意識するしないに関わらず,打算と計算で結婚しているはずなのだ。
 もちろん,それでいい。恋愛のみでした結婚は必ず破綻に至る。恋愛と結婚は関係ない。結婚は打算ですべきものだ(しなくてもいいものだ)。

● 恋愛能力がなくなっているのに,打算や計算ができないサンジューバカ(男性)が多すぎるのが,むしろ問題じゃないのか。
 ついでに申せば,女性は冷徹なほどにこの種の計算をしていることも知っておくがいい。これができない女性はいない。
 もっとも,あり得ないほどに自身を高く見積もってしまうのも女性性の特徴で,ときに唖然とさせられることもあるから,そのことも心得ておくように。

● しかし,ドラマになるのは恋愛だ。花火のようなものなのだから,大体において絵になるのだ。自身も経験しているだろうし,そうじゃなくても身近にその例を知っているだろうから,感情移入もしやすい。
 何より女性が計算をしないで突っ走るのは,唯一,恋愛に落ちたときだけなのだから,恋愛は物語にしやすいのかもしれない。何があってもおかしくないのだから。

● したがって,とつないでいいのかどうか,恋愛には必ず愚の臭いが伴う。純と愚は同じものの別名だ。
 この歌劇においても,たいていの歌劇がそうであるように,ストーリーの肝要なところは,登場人物の短慮かおバカが引き起こしている。そこが人間らしいところだと言えば言えるわけでしょう。

● さらに脱線。
 幸か不幸か,君が恋愛に落ちてしまったとする。あるいは,その瀬戸際にいるとする。この際,心得ておくべきことが2つばかりある。
 恋の駆け引きというが,この点において男は女の敵ではない。横綱と幕下以上の差がある。ゆえに,駆け引きで勝とうとしてはいけない。もし勝ったと思える局面があったのなら,それはそうなるように彼女が誘導した結果なのだ。
 だから,恋愛においては,自分が彼女に惚れている以上に,彼女に惚れさせなければいけない。駆け引きはそもそも成立しないものだと考えよ。

● もうひとつ。他者のために自分を殺せる度合いは,女の方が男より高い。ということは,恋愛関係においては男が優位なのかというと,まったくそうではない。
 逆だ。女に覚悟を決められたら,普通の男ではまず太刀打ちできない。必ず,女が男を搦め捕る。
 何を言いたいのかというと,この女性はピンと来ないなとわずかでも思うのであれば,初期段階で離れよ,ということ。せっかくだからちょっとイジッてみようかっていうのは,もちろん彼女に対するこの上ない無礼であるわけだけれども,それ以前に少々以上に危険すぎることなのだ。御身大切に。
 「ドン・ジョヴァンニ」になろうとしてはいけない。君にその資質はないのだ。たぶんね。

● 今度こそ,さて,「エフゲニー・オネーギン」。
 じつは,この歌劇のCDもDVDも持っている。だけど,何というのか,封を開けていないんですよ。
 当然,聴いたことも観たこともない。ので,今回の公演で初めて「エフゲニー・オネーギン」とはこういう歌劇だったのかと知ったわけなのだ。
 だから語る資格はないんですよね。舞台の設えがどうだったか。演出に工夫を加えたようなんだけども,それがどうであったのか。そういうところに口をはさむ資格は1ミリもない(と言いながら,はさんでしまうわけだが)。

● バレエについてはチャイコフスキーは燦然と輝く存在だけれど,歌劇においてはチャイコフスキーに限らず,ロシア産のものって,あまり取りあげられる機会はない(ぼくが知らないだけで,あるのかもしれない)。
 初手で観客を鷲づかみするインパクトに欠けるんだろうか。管弦楽曲ではチャイコフスキーはそれを得意としている印象があるんだけど。

● 歌劇ってやっぱり歌い手なんだよね。演出でどうにかできる部分は限られる。玄人筋には重要と捉えられることがあるにしても,ぼくレベルの,つまりほとんどの聴衆にとっては,気づくことすらできないことが多いだろう。
 演出が歌い手に影響を与え,その結果,歌い手が客席に届けるものが変わってくる,ということはあるかもしれないけれども,演出が直に客席と対峙することはあまりないんでしょうね。どうなんだろ。

● 主役級3人のソプラノ,バリトン,テノールはそれぞれ説得力があった。中でも,ソプラノの高音部の抜け方が特に印象的。天性のものでしょうね。ここを努力でどうにかできるとは思えない。
 オネーギン役のバリトンは,巧い以前にていねいだった感じ。しっかり準備を重ねてきたのだろう。
 フィリピエヴナを演じた大島麗子さん。この歌劇団の公演を初めて観たのは2013年1月だった。演物は「カルメン」で,そのカルメンを演じていたのが,当時JKだった大島さん。さすがの安定感。

● タチアーナがオネーギンに辛い言葉を浴びせられて,悲嘆に沈む。ここがおそらく,この歌劇の最大の見せ場。
 その時の表情や姿をどう作るか。演者も演出者もここが腕の見せどころなんでしょ。今回のがその解答のひとつ。正統派というか。
 テレビドラマや映画ではないのだから,抑えた演技というのは選択肢に入ってこないように思うんだけど,他に解答はなかったか。おそらく,ここはいろいろと議論したところなのだろうけど。

● 学生さんのエネルギーがギュッと濃縮されているのが見て取れて,そのエネルギーに圧倒される快感がある。
 それは終演後も続く。キャストが並んでお客さんを出口で見送るわけだ。達成感と安堵感に包まれた彼らが発するエネルギーは並じゃない。まともに受けたら跳ばされそうな気がする。彼らから離れたところを歩かなきゃいけない。

● 歌劇はもう,この歌劇団の年2回の公演を観るだけでいいのではないかという気がしている。
 いや,昨年はこの歌劇団の講演を1回観ただけで終わっているんだけどね。

2017年7月12日水曜日

2017.07.09 東京大学歌劇団第47回公演 ビゼー「カルメン」

三鷹市公会堂 光のホール

● 東京大学歌劇団の公演を見るのは,これが5回目になる。前回見たのは,2014年の12月。だいぶ間が空いてしまったが,その理由のひとつは,会場が三鷹市公会堂であること。
 つまり,遠いんですよね,ここ。栃木から行くんだから,どこだって遠いじゃないか,って?
 そうではない。三鷹駅までは近いんですよ。近いっていうか,電車が運んでくれるから,こちらは座っていればすむ。居眠りしててもいいし,雑誌を読んでてもいいし,音楽を聴いててもいい。

● 問題は三鷹駅から三鷹市公会堂までなんだよね。この距離がけっこうある。
 駅からはバスもある。ただ,乗合バスっていうのは,地元民しか乗りこなせない。ヨソ者としてはどのバスに乗ったらいいのかわからない。
 とはいっても,そんなのはネットをググればわかるんですよね。そのわずかな手間が面倒くさい。その面倒くささを避けてしまう。

● 避けた結果どうなるかといえば,駅から公会堂まで歩くことになる。距離にすれば2㎞くらいか。宇都宮でいえば,JR駅から東武駅くらい? もうちょっとあるかな。
 歩くのもまた面倒だ。それが間があいてしまった理由のひとつかな,と。

● が,いつまでもそうしてはいられない。頭のてっぺんに穴が空きそうな太陽光を受けながら,その2㎞を歩いて,三鷹市公会堂へ。
 大成高校のグラウンドでは野球部が練習をしていた。高校野球の季節だな。この炎天下でこんなことができるんだから,高校生ってすごいよな。ぼくらが同じことをやったら(できないけど),自殺行為になる。

● さて,「カルメン」だ。この歌劇の脚本で解せないことが2つある。
 ひとつは,ドン・ホセはなぜカルメンにここまで入れあげてしまったのか。しかも,入れあげた状態が長く続く。いっこうに冷める気配がない。
 カルメンは情熱的な美人で,いうならマドンナという設定になっているんだけれども,それにしたって。どうして,ここまで。
 もうひとつは,最後のカルメンの行動。ホセに殺されるとわかっていながら,友人の忠告をふりきって,ホセに会う。会って,さぁ殺せと言わんばかりにホセを挑発する。そして,殺される。

● この2つがどうもわからない。この2つは,でも,歌劇「カルメン」の根幹をなすところであって,そこに疑問を持ってしまったのでは,「カルメン」がどこかに飛んでいってしまう。
 しかし,わからないものはわからない。

● メリメの原作には,そういうわからなさはないんですよね。
 歌劇でのホセは内向的で母親思いの真面目な青年だけれども,原作でのホセは激昂しやすい男。カルメンをめぐって軍の上官と言い争いになると,上官を刺殺して,ダンカイロ盗賊団に身を寄せる。この盗賊団は殺人も躊躇なく行う極悪非道な犯罪集団だ(歌劇では愛嬌のある密輸団として描かれているのだが)。
 ホセは,カルメンがダンカイロの情婦であることを知ると,ダンカイロをも殺している。エスカミーリョが闘牛で瀕死の重傷を負ったことを知って,カルメンとヨリを戻そうと動く。
 そういうことなら,なるほどね,ですむ。わからなさは残らない。

● オペラの脚本は,原作をかなりコミカルに改変している。それは興業として成功させる必要があったからだろうけれども,ぼくらに与えられるのは改変された歌劇「カルメン」であって,それを自分に引き寄せて,自分をスッキリさせなければならないという作業が発生してしまった。
 原作と歌劇の最大の違いは,歌劇ではミカエラという重要なキャラクターが設定されたこと。これで劇的な面白さは増していると思う。増しているんだけど,ホセに対するわからなさも増すことになる。こんなに可愛い許嫁がいるのに,おまえは何やってんだよ,っていう。

● 田舎対都市というとらえ方もできるかもしれない。田舎の保守的な道徳が身体に染みこんだホセに対して,都会の奔放な風を思うさま受けながら生きているカルメン。
 故郷という帰れる場所を持つホセに対して,寄る辺なきカルメン。故郷というシェルターを持つホセに対して,ひとり風に向かって立ち続けなければならないカルメン。
 その違いは,生き方の差にならざるを得ない。切羽詰まった度合い,生に対する真剣さ,そういうものがホセとカルメンではだいぶ違う。カルメンは道徳とかルールとか,そんなものをかまっている余裕はない。
 田舎育ちのホセが都会育ちのカルメンに惹かれてしまった。田舎と都市が戦って,都市が勝利した。

● オペラを見る楽しみのひとつに,登場人物と自分を比較して,俺はあそこまでバカじゃねえぞ,と安心するというか溜飲をさげるというか,そんなものがあるんじゃないかと思う。
 「あそこまでバカ」の筆頭は,この歌劇「カルメン」に登場するホセでしょう。だから,そこで溜飲をさげて終わりにしてもいいんだけどねぇ。

● 次に,最後のカルメンの行動だ。どうしてわざわざ殺されに行くようなことをしたのか。
 女の矜恃を示すため? そんなものを示す必要は寸毫もない。
 カード占いで,何度やっても「死」しか出なかったので,もう生きていても仕方がないと思った? そんなバカな。
 ミカエラの説得に応じて,母親を見舞うために密輸団を離脱したホセを見て,自分の孤独感を深めた? 自由がなにより大事というのは自分を納得させるための方便だったとしても,その流儀はかなりのところまでカルメンの身になっていたはずだ。その自由人がその程度で孤独を深めることは,おそらくないだろう。
 ミカエラに嫉妬した? それもないよなぁ。あったとしても,だから自分がホセに殺されてもいいってことにはならないよ。
 寄る辺ない人生に疲れてしまった? それもねぇ。あのカルメンが,と思うよねぇ。

● 普通は,ストーカーと化したホセに対して,「しつけーんだよ,このクソ野郎」と引導を渡しに行ったと考えるべきところなんだろうけど,それも命をかけてやるほどのものではないでしょ。
 となると,考えられる理由はひとつしか残らない。カルメンは自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた。ホセになら殺されてもいいと思っていた。
 しかしねぇ。カルメンはホセに恋情を寄せたことは,たぶん一度もないんだよねぇ。ホセに利用価値があるときだけ利用した。気持ちを向けたことはない。わからないまま残るねぇ,これは。

● 女心の複雑さ,不可解さに還元してはいけない。女心はいたって単純にできている(と思える)。快不快の原則と自分中心主義で動いている(したがって,しっかりと地に足が着いている)。ドライといってもいい。
 問題はこの脚本を書いているのが(たぶん)男であることで,リアルの女と男の目に映った女はだいぶ違うでしょ。そのあたりを踏まえて解釈していかないとね。つまり,脚本家が女を描き損ねている可能性もあるってことね。

● 要するに謎が多い脚本だ。そこに説得力を持たせるにはどう演出すればいいかと,演出者はいろいろ悩むのだろう。オペラ解釈とは,つまるところ,そういうことかもしれない。
 オペラなんだから,大衆受けしなきゃしょうがない。それを前提にすると,この脚本は大成功でもあるわけなんだが。

● この歌劇団の公演を初めて観たのは2013年の1月。そのときも「カルメン」だった。が,今回の「カルメン」は前回のそれとはまったく違ったものになっていた。
 何が違うかといえば,まず演じ手の技量が違う。東大という冠が付いていても,東大生はむしろ少ないのじゃなかろうか。ひょっとして音大の声楽科の学生さんが入っていたりするんだろうか。
 カルメン,ミカエラ,ホセ。いずれも呆れるほどに上手い。特にミカエラは,歌が力強くて,その力強さが辺りを払うところがあった。払いすぎてしまって,ミカエラのホセを思う乙女的な純情さ,村娘の素朴さ,そういったものまで払われてしまった憾みが残るほどだった。

● 舞台のセットと衣装も本格的。前回は,いかにもお金がない学生劇団が手作りで設えた舞台っぽくて,それはそれで好感の持てるものだった。
 今回は,資金提供者がいたんだろうかと思うような,立派なステージでしたね。

● 演出も違っていた。カード占いをするところで,カルメンに「二人とも死ぬ」と言わせている(字幕にそう出たわけなのだが)。“二人とも”という字幕には初めてお目にかかった。“二人”とはカルメンとホセなのだろう。
 カルメンを刺したところで劇は終わるんだけど,このあとホセは,カルメンを刺したそのナイフを自分の首に突き刺したはずだ。
 先に「自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた」と言ったのも,この字幕に連想を刺激されたものだ。

● 初めてカルメンに出逢ったときのホセと,初めてエスカミーリョに出逢ったときのカルメンの様子がパラレルだ。気になるっちゃ気になるんだけど,努めて関心なさそうにしている,という様子。
 これは今回の演出の独自性というわけでもないように思うけれども,そこを強調していたように思われる。穿ち過ぎだろうか。

● 結論は,ここまで作り込めるのはすごい,ということ。演出はもちろんのこと,管弦楽も含めて,大道具や衣装からプログラム冊子に至るまで,相当な水準。
 何から何まで自前。アウトソーシングはしてないらしい。すべての工程が美味しいんだろうから,アウトソーシングしたんじゃもったいない。

● 会場に入りきれず,ロビーでモニター鑑賞を強いられたお客さんも,かなりの数,いたようだ。これはあまりよろしくないから,次回は会場を変えてはどうかね。
 「カルメン」だからこれだけのお客さんが入った? そうかもしれないけどね。

2014年12月29日月曜日

2014.12.28 東京大学歌劇団第42回公演 マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」&プッチーニ「ジャンニ・スキッキ」

三鷹市公会堂 光のホール

● 本格的な,たとえばローマ歌劇場やウィーン国立歌劇場の来日公演を見に行って,豪華な舞台装置や衣装に度肝を抜かれたいと思う。思うんだけど,料金がねぇ。S席だと5万円を超えてくるもんなぁ。
 そのくらい出せよ,それだけの価値はあるだろうよ,お金は小出しに使うな,まとめて使うもんだよ,と自分に言ってやりたいんだけど,言われても困るよっていう,もう一方の自分もいるわけでね。

● そこで,折衷案というか,現実を踏まえてというか,市民歌劇団がプロの歌い手を招いて催行するオペラを昨年は何回か観に行った。
 これならまぁまぁ出せる金額。財布にやさしい。そのうえ,オオーッと驚けるところもいくつも出てくる。ぼく程度の聴き手なら,それで充分すぎる。

● なんだけど,今年はそういったものに一度も行かずに終わった。その理由は自分なりに分析はしているんだけど,要は飽きてしまったようなんですね。
 で,残ったのは,プロがいなくて,100パーセント学生手作りの,この東京大学歌劇団の公演ですよ,と。

● 面白いんですよ。今回は2本立てだったんだけど,どちらもかなり面白かった。かけているエネルギーの総量なんでしょうけどね。それが伝わってくるわけで。
 玩具のオペラなんだと思うんですよ。設えだってチャチイんです。学生たちがやってるんだもん。お金,ないんだもん(親はお金持ちかもしれないけど)。

● ただし,歌い手も管弦楽の奏者も指揮者も本気で遊んでいるわけだよね。遊びに本気になっている。
 しかも,将来,自分がどこまで伸びるか,どうなっているか,なんてのは考えていないと思う。「今ここ」に集中している。
 本気で遊ぶって,なかなかできないよ。至高の境地かもしれないと思いますよ。
 その若い本気さが直球で客席に届くわけで,その結果が面白くないわけがない。

● 設えのチャチさだって味わえる。衣装が揃わなくて,それぞれの私服で出ているのだって。
 つまり,そういうことって,本気の邪魔はしないから。

● ともあれ。第38回,39回,41回に次いで,4回目の拝聴というか拝観というか。開演は午後3時。入場無料。カンパ制ってことですね。
 「カヴァレリア・ルスティカーナ」は男女の愛憎がらみの最後は悲劇の結末。「ジャンニ・スキッキ」はコミカルな喜劇。

● 両者に共通するのは,登場人物たちの住んでいる世界が閉じられていること。一方は,はるか昔のヨーロッパの田舎村。生活も人間関係もその村の中で完結している。
 もう一方は貴族の館。登場人物たちは館の外に住んでいるわけだけれども,劇中ではそこが世界のすべて。
 世界を閉じなければ,物語を動かせないんでしょうね。変数を制限しないと,とりとめがなくなってしまうんだろう。

● 過日,一部を駒場祭で観ているんだけど,今回の印象はそれとはまったく異なるものだった。
 駒場祭での印象記は全部削除したくなった。穴があったら入りたい。なかったら掘ってでも入りたい。

● 「ジャンニ・スキッキ」で標題役を演じた井出さんだけは,プロというか声楽の専門家で,彼の力量があってこそ,コミカルが成立した。歌の技量が表現の幅と深さを作る第一要因であることは,どうしたって動かしがたい。
 「カヴァレリア・ルスティカーナ」でも,同様の理由で,サントゥッツァとアルフィオのやりとりが一番聴きごたえがあった。お見事というほかはない。

● 何気に存在感があったのが「ジャンニ・スキッキ」のツィータ。プログラム冊子で確認したところ,これを演じていたのは20歳のお嬢さん。
 学生がやっているんだから,20歳で何の不思議もないんだけど,あの妖気(?)と色気は何事ならん。

● 終演は5時45分頃だったか。冬の日はとっぷりと暮れているわけだけど,寒さはさほど感じなかった。

2014年11月23日日曜日

2014.11.22 東京大学第65回駒場祭-東京大学歌劇団・東京大学ブラスアカデミー・東京大学フィルハーモニー管弦楽団

東京大学駒場Ⅰキャンパス900番教室(講堂)

● 駒場祭にお邪魔するのは,これが3回目か。今年は今日から3日間。この3日間は井の頭線の駒場東大前駅が混雑して,駅員が緊張を強いられる。その分,運賃収入もドンと増えるんだろうけど。
 ぼくは東大にいくつかある管弦楽団や吹奏楽団の演奏を聴くために来ている。それ以外に目的はないから,まっすぐ900番教室に向かう。演奏会のスケジュールはネットで調べてある。
 その演奏会,あたりまえだけど3日間にわたって開催される。したがって,3日間日参できればいいんだけど,そうもいかない。今年は今日だけ。

● 13時から東京大学歌劇団。来月の28日に正式な(?)公演を予定している。今回は正式公演の抜粋。2つあって,マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」とプッチーニ「ジャンニ・スキッキ」。
 公演ではピットに入っていて,客席からは見えにくい管弦楽がステージの上にいる。これはありがたい。んだけど,普通のホールと違って教室ですからね。諸々の制約があって,木管や金管の奏者は見えない。

● 「カヴァレリア・ルスティカーナ」は三角関係に悩むサントゥッツァを中心に,サントゥッツァとトゥリッドゥの争いの場面。
 サントゥッツァを演じる大島さんの役作り,役への没入の仕方が印象に残った。主役を張る風格みたいなもの。
 彼女,まだ20歳になるかならないかの年齢じゃないか。こういう場面を実地に経験したはずはないと思うんだけど,演劇やドラマを自分が使えるものはないかっていう視点で見る癖がついてるんだろうか。

● っていうかですね,不思議なんだけど,女の人ってこういう場面を自然にやれちゃうんだね。経験なんかなくたって。
 対して,男の方はそうもいかないから,どうしたって一本調子になってしまいがちだ。それゆえ,男優にとっては遊びが必須科目になる。真剣に遊ばないとダメだよね。芸に活かそうなどという下心を持たないで,遊びに没入しないと。

● ただし,遊べばそれが芸に反映されるという保証はないところが辛い。遊んだ結果,芸がおろそかになる,という可能性の方が高いのかもしれない。
 だとしても,遊びを省略しようなんてのは,怠慢が過ぎるんだろうな。1日24時間,1年365日,休んでる暇なんかないってことになりそうだ。

● ところが。「ジャンニ・スキッキ」を聴いて,上の考えは放棄することにした。遊びも芸の肥やし的な考え方は前世紀の遺物かもしれない。
 ジャンニ・スキッキ役のバリトンがとにかく巧い。何者だ,こいつ,と思うほどにね。
 結局,歌で表現できるんだね。あとはわずかな表情の変化,眉をあげたり斜めに俯いたり,で内面をシンボリックに表現できるようなのだ。遊ぶなんてのは余計なこと,かもしれないのだった。

● 次は,15時からブラス・アカデミーの演奏会。“ブラアカワールドツァー2014”と題して,世界各国を象徴する(と思われる)曲を演奏。アメリカだったら「星条旗よ永遠なれ」とか。
 われわれは飛行機に乗って世界を旅するというわけで,あいさつも“ご搭乗ありがとうございます”というもの。司会者(女子)もキャビンアテンダントのコスチュームで登場。

● こういう遊びは真剣にやってくれると,けっこう乗れるものだ。吹奏楽なればこそなんだろうけど,司会の女子学生なんか本物のCAかと見紛うほどだったからね。
 お客さんも立ち見が出るほどに入って,盛況だった。年配者の中には,東大生もこういうことをする時代なのかと思った人もいたかも。

● 最後は東大フィルハーモニー管弦楽団。16時30分から。東大の冠はついているけれども,他大学からの参加者も多い。コンミスは学芸大の女子学生。
 曲目はヴェルディの「ナブッコ」序曲とブラームスの2番。指揮は濱本広洋さん。

● 大学祭のざわめきが入り込んでくる。管楽器の奏者は見えない。が,そういうことはこの場においては支障にならない。若い学生たちの渾身の演奏は,それだけで充分に魅せるものがある。ブラームスはストーリーがよく見えるような気がした。
 来月の27日に,これにチャイコフスキーの「白鳥の湖」を加えた編成で,定期演奏会がある。それがいうなら本番なんだろうけど,ほぼ仕上がっているんですかね。

● 早めに着いたので,13時前にキャンパスの近くを歩いてみた。井の頭線は段丘の端にあって,南側(下側)に商店街がある。東大前商店街というささやかな商店街。
 弁当を商っている店で幕の内弁当を買った。450円。冷凍食品を解凍したと思われるエビフライと,茄子とチクワの天ぷら。がんもとコンニャクの煮物。卵焼きとシューマイ。黒豆の甘煮としば漬け。
 東大構内の小公園(?)で食べた。弁当はごはんが温かければ,それだけで80点。

● キャンパスの西側は高級住宅街。ここに住みたいとはさらさら思わないけれども(思ったって住めません)。商店街があるあたりも住宅地で,この辺は全体として所得の多い人たちが住んでいる印象。俗臭が少ないっていうかね。
 おしなべて面白みのないところだ。が,すぐそばに渋谷があるわけだからな。ここはこうじゃないと困るよね。

2014年7月21日月曜日

2014.07.20 東京大学歌劇団第41回公演 ヴェルディ「ドン・カルロ」

サンパール荒川 大ホール

● 「青春18きっぷ」が使える時期になった。経済的に東京が近くなる。心理的にも近くなる。
 というのは,「都区内フリーきっぷ」が昨年3月で廃止されているからだ。フリー切符があれば,都内は乗り降り自由だったのに,今はその都度切符を買わなきゃいけない。このメンドクササは何事であるか(「Suica」を使えば解決か)。
 「青春18きっぷ」はその面倒さからも解放してくれる。自動改札は使えないのが難ではあるけれど,その程度は我慢しよう。

● この歌劇団の公演を拝見するのは,これが3回目。予算は(たぶん)僅少。そこを学生たちの情熱と献身が補っている。
 プロをめざしているわけではない(と思う)。したがって,今が目的地への一里塚というのではない。これで完結した世界だ。
 ともあれ。開演は午後3時。入場無料。終演後にカンパを募る。

● 今回の総監督兼指揮者は理Ⅲの2年生。その彼が,この歌劇についてはヴェルディが何度も手を入れ,複数の版が残存している理由について,「多様な内容を含むことにより,膨らみきった台本の世界を音楽が受け止めきれなかった」からだろうと推測している。今どきの若者,畏るべし。いや,たぶん,昔もこうした異才はいたんだろうけど。
 実際に舞台を見,管弦楽を聴き終えた今,音楽に破綻はないように思える。たしかに,台本がいろんな要素を盛り込みすぎている。縦糸が何本もあって,それら縦糸相互の整理が足らない。ストーリーが散らかってしまっている。やや散漫な印象になる。
 登場人物の設定もしかりで,もう少し絞れなかったかと思う。

● では,このオペラが面白くないかといえば,そんなことはない。ストーリーはとりとめがなくても,登場人物がそれぞれ“人間的な,あまりに人間的な”という感じなのがいい。
 王妃の愛が自分に向いてないと悲嘆にくれるような男じゃ王様は務まらないだろうけれども,そういうことを言いだすやつは豚に喰われろ。そうした皮相なリアリズムは劇の敵だ。

● でも,つまるところ,オペラは歌と演技であって,個々の歌,個々のシーンの積み重ねだ。
 主役のカルロ(とっても,この劇ではいったい誰が主役なのだ?)を演じた男性団員が,歌で屋台骨を支えた。屋台骨が支えられていれば,並の地震ならまず揺らぐことはないものだろう。
 それと,エボリ公女。声が通っていたことに加えて,情感の入れ方が巧みだ(つまり,演技が巧い)。動きも切れる。ここでどう動けばいいか,それについて逡巡がない。
 これあってこそ,歌劇の面白さが成立する。

2013年7月29日月曜日

2013.07.28 東京大学歌劇団第39回公演 ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」

三鷹市公会堂 光のホール

● 前回行ってみて,東大歌劇団の力量は承知したつもり。今回も楽しみに出かけていった。生のオペラを楽しめる機会なんて,そうそうはないからね。
 何でもかんでも田舎に住んでいるせいにしたくはないんですけどね,この分野においても,東京と非東京ではだいぶ様相が違う。経済に限らず,学術,文化,エンタテインメント,ファッション,美食などなど,あらゆるものが東京に一極集中。
 それが悪いことだなんてぜんぜん思ってない。だって,しようがないもんね。人の集まっているところに,人以外のモノやコトも集まるのは道理というものだ。それじゃ,人為的に人を分散させる? それは悪の最たるもの。

● 開演は午後3時。入場無料(カンパ制)。
 だいぶ前に着いたので,開演前にプログラムを隅から隅まで読んだ。
 前回の「カルメン」で主役を張った女子高生が慶応の学生になってた。頭もいいんだねぇ。勉強する時間もそんなになかったろうに(逆にそれが良かったのかもしれないけど。受験だからといって勉強だけにフォーカスしてしまうと,かえってパフォーマンスが悪くなるのかもしれないものね)。
 彼女に限らず,皆さん,同じ。パンピー(死語?)からすれば,羨ましいぞ,かなり。

● 今回,総監督と指揮を務めたのは,学部の2年生。ぼくから見ると,ものすごい早熟。呆れるほどに。いるんだねぇ,こういう人がねぇ。
 その彼が「半年間,各団員が楽譜や台本を真剣に読み込み,作品の世界が成就するよう創り上げて参りました」と書いている。
 演出担当者も「人生の救いようのなさを直視してペシミズムを徹底的に煮詰めた先に,本当に生き生きとした生があるのではないか,そんなことを考えさせられる作品です」という。
 創る側は,そうですよね。原作も読み,時代背景も調べて,いろんなことを考えて考えて,そしてまた考えて,その結果や経過を形にしていくのだろう。

● では観る側にとってはどうか。自分を観る側の代表にするわけにはいかないから,あくまでもぼく一個のことなんだけど,オペラは憂さを晴らすためのものだ。
 見事なアリアに聴きほれたい。管弦楽の盛りあがりを味わいたい。
 劇中人物に対して,あいつらバカだなぁ,オレはもう少しマシだぞ,とホッとしたい。
 舞台上のレオノーラに,服毒のタイミングが早すぎだろ,マンリーコが助かるのを見届けてからでよかったろ,と突っこんでスッキリしたい。

● オペラから渡世の教訓を得たいとは思わない。人はどこから来てどこへ行くのかを考える糧にしたいとも思わない。
 徹頭徹尾,エンタテインメントであってほしい。浅い解釈でも楽しめるものであってほしい。

● いまどき(昔も同じだったろうけど),レオノーラの純愛にリアリティを感じることは難しい。瞬間風速的には,恋する女性の胸のなかにそうした気持ちがよぎることがあるのかもしれないけどさ。
 オペラのストーリーは作り事であり,フィクションであり,尾ひれどころか背びれも胸びれもつきまくりだ。
 もちろん,それでいいわけで,劇として面白く仕上がってれば,何も文句はない。

● やっぱりさ,オペラって,演出とかによってどうにかできることなんてしれててさ(そんなことはないのか),職人仕事が支えますよね,基本。歌い手の技量,管弦楽の巧みさ,そいういうもので決まるんでしょうねぇ。
 問題は,その技量に歌い手の解釈や自分はこう思うってのを織りこんでくれないと困るってことだ。迷っているなら迷っているように。
 だから創る側は浅い解釈じゃダメだよね。きちんと悩んでもらわないと。

● で,その真摯さがよく出ていたステージだったと思う。設えも少ない予算を効果的に使っていた感じ。
 主役のふたり,レオノーラとマンリーコが引っぱりましたかねぇ。特にレオノーラ役の真野綾子さんは,プロをめざしているセミプロですか。洒落にならない巧さ。
 そこに慶大生のアズチェーナが絡んでいく。こちらもお見事。ふてくされ方が巧いんだな,彼女。顔を伏せて寝ている姿勢で,あそこまでの声がでるのもすごいねぇ。

● 第4幕の展開が白眉なんでしょうね。フィナーレではこちらも心地良い疲れを感じた。
 1回の公演に膨大な手間がかかることは,客席にいても想像できる。衣装も手縫いだったりするらしいし。しかも,年2回の公演。
 次回は12月22日に,オッフェンバックの「ホフマン物語」。さっそく,明日から本読みや譜読みにとりかかるのだろう。頭さがります,ほんとに。

● オペラについては,まだまだ知るところが少ない。でも,無知蒙昧なこの時期こそ,最もオペラを楽しめるゴールデンエイジなのかも。妙に詳しくなったり,頭デッカチになったりしたくない。
 大満足で会場をあとにしながら,そんなことを思ったりした。

2013年1月7日月曜日

2013.01.06 東京大学歌劇団第38回公演 ビゼー「カルメン」


サンパール荒川 大ホール

● この団体のホームページによれば,東大歌劇団とは「オペラの完全自主公演を行う団体で」あり,「団内に合唱団,管弦楽団,舞台スタッフを抱え,オペラの舞台の全てを自分達の力で作り」,「選曲も団員全員で行い」,「指揮者,演出家,キャストも団員の中から選ばれ」,「舞台についても,大道具や小道具,衣裳・メイクから照明まで全て自分たちで用意」する。
 「年に2回,オペラを全幕上演する演奏会を行って」おり,東大の冠がついているけれども,「社会人も多く参加しており,練習に参加できる方なら誰でも入団でき」る,とのこと。

● とはいえ,音楽大学ではない普通の大学の学生たちが自主公演をするといったって,できるものなんだろうか。ひょっとして,好き者による「オペラごっこ」に過ぎないのじゃないだろうか。
 失礼ながら,そう思いつつ,会場へ。開演は午後3時。入場無料(カンパ制)。

● サンパール荒川の大ホールは小ぶりではあるけれども,約千人は収容できる。その大ホールがほぼ満席になった。
 当然ながら,ピットにはオーケストラがスタンバっている。
 舞台装置は手作りだ。安っぽい感じなのは免れない。が,それが当然だろう。学生たちが観客から入場料を取らないでやっているのだから。
 プログラムは洒落ている。っていうか,立派なものだ。表紙の絵も絵として鑑賞するに足るものだよね。
 
● 演芸っていうか芸能っていうか色物っていうかエンタテインメントっていうか,そういうものの原点に近い形を見せてもらったっていう気がしている。
 たとえば歌舞伎だって,現在の洗練を極める舞台になるまでには長い年月を経ている。出雲阿国が出雲大社勧進のために諸国を回って踊っていたのは,まだ10代の,今の言葉でいえば少女の頃だ。今の歌舞伎とはまったくの別物だったはずだ。
 屋台が常設の舞台になり,遊女歌舞伎,少年歌舞伎を経て野郎歌舞伎になり,音楽も舞踊も大道具も衣装も変遷を重ねて,現在に至っている。
 オペラだって今のスタイルになるまでには幾星霜も経てきている。その途中があったはずだろう。

● いや,そういう言い方は適当じゃないですね。今回の公演を,歌舞伎における出雲阿国にたとえてしまうのは,いくら何でも失礼の極みだし,かつての途中の姿を見せてもらったということでもない。この公演はあくまでも現代オペラの舞台だ。
 新国立劇場にかかる舞台がF1カーだとすれば(といっても,その舞台を観たことはないんですけどね),この公演はトヨタのラクティス(ぼくが乗っているクルマなんですけど)かもしれないけれども,とにかく自分で走れるクルマだ。お客さんを乗せて,どこにでも行ける能力は備えている。

● 「原点に近い」というのは,もの作りの現場って最初はこんな感じで始まったんだろうなってことなんですよ。
 高校の部活のノリ。一所懸命に,でも,やりたいからやってるっていう感じ。

● カルメンを演じた子は,今年の春に大学生になるという。「カルメン」の劇中人物の年齢は,ステージで歌っている学生たちと同じか,それより少し若いかだろう。要するに,演技者と劇中人物との間に落差がない(少ない)。乙女の役を乙女が演じている。
 オバサンが乙女を演じるときには,それらしく見せるために,いろいろ工夫をするんだと思う。その工夫が役柄にコクをもたらすってことが,ひょっとしたらあるかもしれない。
 今回はその工夫が基本的に要らない。いうなら素でやれる。それがいいことなのか,そうではないのか。

● ジプシーの話だし,盗賊団も登場するわけだから,全体的にもっとワルっぽさがあると良かったかなぁ,と。皆さん,とてもいい人っぽかったから。育ちの良さを消す作業が必要だったかもね。
 たとえば,ドアに手をかけて袖に引っこむところなんか,指が白くて細くてなめらかでねぇ。どう見たってお嬢さんの指で。ジプシーの女には見えないんだよなぁ。
 って,こういうのはないものねだりなんだろうなぁ。そこまでやれっていうのはね。

● (再び)カルメンを演じた子は,プログラムに「JK最後の半年を本公演に費やして参りました。大変でした,ほんとに」と書いている(JKって何だ? おじさんにはさっぱりわからんぞ。女子高生? 高校生には見えなかったんだがなぁ)。
 これはひとり彼女だけのことではないだろう。ここまで持ってくるには,大変な時間を費やしているわけですよね。

● 管弦楽の指揮は法学部の4年生が担当。彼が書いている挨拶文によれば,過去の公演を渉猟して,では自分たちはどうするか,そこをちゃんと考えて「カルメン」に向き合ってきたようだ。
 それを理想的に具体化するには技術も必要だし,お金もいるわけで,そこは現実と妥協しなければいけないけど,姿勢そのものはいたって真摯。遊び半分でやっているわけじゃない。恐れいるよなぁ。

● 元気をもらえる公演だったと思う。怖いもの知らずの部活のノリ。40歳になっても50歳になっても,これを維持できたらどんなにか素敵な人生になるだろう。
 加齢とともにそれができなくなるのは,ひとつには,肥えるからだと思う。舌が肥える,目が肥える,耳が肥える。じつにくだらん,そんなものは,と毒づいてみても,普通に生きてれば(人によって程度の差はあれ)肥えてしまうものだよねぇ。
 世に芸術とか教養とかいわれるものは,「肥え」を前提にしているようでもあるんだけどさ。

● この公演,学生たちがやっていることもあって,敷居が低い。こういうものを何度も見て,ストーリーと展開を頭に入れてから,プロがやっている公演に臨むのっては,方法論としてはありかなぁと思いました。こずるい考え方だけどね。
 しかし,これはこれとして楽しめることは確かで,くだらないことをあれこれ考えないで,目の前の公演(演奏)を楽しむという姿勢で行くのが真っ当というものでしょうね。

● この公演を観たおかげで,CDで「カルメン」組曲を聴いても,いっそう味わい深く聴けるようになった(ような気がする)。それだけでも大きなプレゼントをもらったようなものだ(これも肥えたということか)。
 次回は7月28日,ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」の予定。

2010年11月30日火曜日

2010.11.21 東京大学第61回駒場祭-東京大学フィロムジカ交響楽団・東京大学歌劇団・東京大学フォイヤーベルク管弦楽団


東京大学駒場Ⅰキャンパス900番教室(講堂)

● 今年は5月に東大五月祭,9月に芸大の藝祭に出かけているが,11月は東大駒場祭がある。21日から3日間の日程。また東大にいくつかある学生オーケストラの演奏をまとめて聴けるとあって,出かけてみた。

● 駒場東大前駅は相当な混みようで,駅員が整理にあたっていた。帰りの切符は今のうちに買っておけとアナウンスもしていた。駒場祭のおかげで京王電鉄の売上が増えるが,駅員の仕事も増える。
 五月祭のときは街の雑踏がそのまま本郷キャンパスに移動したといった趣だった。ホームレスまで歩いていた。ぼくがひとりでウロウロしててもまったく違和感を感じなかった。駒場祭もしかりなんだけど,来場者もきもち若い人が多いようだった。
 若い学生たちにとっては,ぼくのような年配者は眼中にないようだった。これはよくわかる。中年や初老の男女もけっこう多いので,目立つってことはないんだけども,主催者にとってはぼくは場違いなところに迷いこんだオヤジに違いない。

● さて,お目当てのコンサート。まずは13:35から東京大学フィロムジカ交響楽団。会場入口の前に長い行列ができた。後ろに並んだご婦人二人組の話だと,昨年はこんなに並ばなかったよね,すぐに入口から入れたわよね,ってことらしい。何か理由があるのかなと思ったのだが,入ってみれば問題なく席を見つけることができた。
 ぼくの前にいたのは50歳前後の女性。ちゃんと顔を作ってよそ行きの格好でしかもひとり。さすがにこれは珍しい。でも,こういう女性がいることがなぜか嬉しい。

● 場所は900番教室。駒場で一番の大教室なのだろう。五月祭は安田講堂だった。安田講堂は講堂だけれど,こちらは大きいとはいえ教室である。黒板もある。客席も椅子のみならず机が付いている。長机ですね。端に座られると,中の席が死んでしまう。ひとりで来ている人は中に座るようにするのがマナーでしょうね。
 ともあれ,会場が教室ゆえ,どうしてもステージに学芸会的雰囲気が漂ってしまうのは仕方がない。もちろん,オーケストラが演奏するにはだいぶ狭い。窮屈そうだ。

● 曲目は次の3つ。
 ムソルグスキー 交響詩「はげ山の一夜」
 スメタナ 連作交響詩「わが祖国」より「ブラニーク」
 ラフマニノフ 交響曲第2番より第1楽章のみ
 12月に定期演奏会があるので,この駒場祭はそのリハーサル的な位置づけになる。演奏時間は約1時間。通常のコンサートの半分ほどだ。
 演奏のレベルは確かだと思う。演奏はしっかりしている。安心して聴いていることができる。

● 彼らを羨ましいと思う。同時に,自分を卑下したくなる。彼らを見ていると,生き方に一本筋が通っていると思えるんですね。凜という言葉を思いだす。顔をあげて生活している感じ。また,彼らにはその資格があるなぁ,と。翻って自分は・・・・・・と思うわけですね。
 今さら卑下なんかしたって手遅れなんだけどね。

● 次は東京大学歌劇団。14:40から1時間の演奏。オッフェンバックの「天国と地獄」から抜粋しての演奏だった。
 自前で合唱団,管弦楽団,舞台スタッフを揃えているという。団員は東大生に限らず,他大学や社会人にも門戸を開いている。
 歌い手はまだ歌う体になっていない感じ。痩せすぎでしょと思うのが多かった。痩せているのがダメというのでもないのだが,まず体を作らなきゃねという感じ。声量も足りない。10月にコンセールマロニエのファイナル(声楽部門)を聴いたばかりなので,それと比較してしまうんだけどね。
 ただし,音楽大学でもない普通の大学の学生たちが手作りで作っている舞台だからね,非常に健闘していると言っていいと思う。っていうか,こんなことができるのは東大くらいだよねぇ。おまえら,頭がいいだけじゃ足りないのかよ,って文句を言いたくなるような感じだなぁ。

● 正直,歌劇団の演奏を聴くのは予定していなかったんだけど,今日の収穫の第一はこれでした。合唱の部分はさすがに迫力があった。来月26日に相模原市民会館で本公演を行う。
 管弦楽団がスメタナの「モルダウ」の演奏を付加したのだが,こちらはこれだけ聴くとやや不満が残る。でも,これも不満を言ってはいけない気がする。大学生がここまでやれればね。彼らの若さは自ずと表現されるわけで,その若さってやっぱりいいものですよ。

● 900番教室の脇でビールとフランクフルトを売っている模擬店があったので,ぼくも買った。少しはお金を落とさないとなと思って。でも,やっぱりね,売り手の学生があんまり嬉しそうじゃないんだよねぇ。おまえに売るために置いてるんじゃないぞっていう感じなんだなぁ。ぼくのようなオヤジは歓迎されざるお客なのだなと思った。いてはいけない場所にいるのかなぁと思ってしまった。
 ま,僻みすぎですよね。もっと軽く行きたいものですな。しかし,課題ができた。学生たちに邪険にされないオヤジを目指すこと。
 缶ビールはサントリーのプレミアムモルツだった。これが3百円だった。

● 次は東京大学フォイヤーベルク管弦楽団。五月祭と同じでオーケストラ演奏はせずに,小規模なアンサンブルを4つほど演奏した。五月祭のときは,1,2年生主体だったが,今回は上級生が登場した。
 モーツァルト ディヴェルティメント 変ロ長調
 ガブリエリ 「6曲のカンツォーナ集」より第1番「スピリタータ」
 ダンツィ 木管五重奏曲
 グリーグ 組曲「ホルベアの時代から」

● いずれも達者な演奏で高いハードルを軽々と越えているという印象。しかも,格好いい。男性奏者も女性奏者も。姿勢も動作も伝わってくるオーラも。充分な練習に裏打ちされた自信でしょうね。それが聴く側にもわかるんですね。
 自信に満ちた態度,いいものだ。奏者の自信に説得されたいっていうM願望?が聴衆にはあるのだと思う。逆に説得してくれないのに自信だけはあると見えるのは許せないわけだが。
 どうだ,何か不満があるか,おまえらにこの演奏がわかるかっていう,潔さも伝わってきて(これはぼくの独りよがりかもしれないのだが),それも逆に心地よかった。
 限りなくプロに近いセミプロだと思った。配られたアンケート用紙にも最大級の賛辞を呈しておいた。