2015年3月31日火曜日

2015.03.29 第4回音楽大学フェスティバル・オーケストラ

東京芸術劇場 コンサートホール

● 一昨年昨年に続いて,3回目の拝聴になる。
 上野学園大学,国立音楽大学,昭和音楽大学,洗足学園音楽大学,東京音楽大学,東京藝術大学,東邦音楽大学,桐朋学園大学,武蔵野音楽大学。首都圏の9つの音大がひとつのオーケストラを組んでの演奏会。

● 開演は午後3時。チケットはS席でも2,000円。おそらく,各大学間で熱の入れようには差があるだろう。が,この料金でこれだけの演奏が聴けるとなれば,行かないと損をした気分になる。
 今回のプログラムは次のとおり。指揮はユベール・スダーン氏。
 グリンカ 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
 レスピーギ 交響詩「ローマの松」
 ムソルグスキー(ラヴェル編) 組曲「展覧会の絵」

● ぼくの席は前から5列目。いくら何でも前すぎる。弦の奏者で視界が埋まってしまう。管や打楽器奏者がまるで見えない。
 この席しか残っていなかったということではない。チケットはだいぶ前に買ったので,席なんか選び放題だった。にもかかわらず,この席を選んだわけだ。何を考えていたんだ,あのときのオレよ。

● でも,前のほうだといいこともある。まず,奏者(弦)の表情や身のこなしがよく見える。
 昔,奏者は楽譜しか見てないんだから,指揮者なんて誰だって同じじゃないかと思ったこともあるんだけど,指揮者を見ているものだということも,前のほうにいるとよくわかる。

● で,登場した奏者たちは,20歳をいくらか出たか出ないかの坊ちゃん嬢ちゃんたちなわけですよ。そういう顔をしている。
 が,演奏が始まったその刹那,坊ちゃん嬢ちゃんが消えるんですね。これは感動的といってもいい変化で,れっきとした奏者の顔になる。で,いったんそうなると,坊ちゃん嬢ちゃんが浮かんでくることは二度とない。

● 彼ら彼女らを見ながら思うんですね。自分にこういう変化を人に見せる機会があっただろうか。即行で答えはでる。なかった。
 まったく,見事に,一度も,なかった。自分の人生は何だったんだろうと,黄昏にたたずむ時期になって思うわけですねぇ。

● この演奏会には「ローマの松」のような大編隊の楽曲が登場する。できるだけ多くのパート,多くの学生に出場機会を与えたいということなんでしょうね。
 逆にいうと,こうした大編隊の演奏を聴こうと思う人にとっては,ここは狙い目だと思う。演奏水準は文句ないわけだから。

● 「展覧会の絵」にはアラビアンナイトを思わせるエキゾチシズムがあるように思う。中東のお伽噺を聞いているような気分になる。こちらの勝手な受け取り方ですけどね。
 あるいは,こちらがアラビア的なものと受けとめているものが,じつは,スラヴの味が入ったものだとか,そうしたことがあるのかもしれない。

● 演奏中に奏者にしばしば笑顔が現れていたのも印象的。どうやら,指揮者のユベール・スダーン氏と顔が合うとそうなるようだった。
 しかめっ面でオーケストラに緊張を強いるタイプからは遠い位置にいるんでしょうね,スダーン氏が。学生が相手だから最初から多くを求めなかった,というわけではないだろう。リラックスさせて力を引きだそうとする指揮者なんですかねぇ。それができるのは,力のある指揮者だからなんだろうねぇ。

2015年3月30日月曜日

2015.03.28 喜連川公方太鼓

さくら市氏家公民館

● さくら市制十周年記念式典というのがあって。ぼくも行ってみたんですけど。県知事や国会議員の挨拶があって。
 まぁ,そういうのがないと式典になりませんわね。

● ただ,式典本体の前に披露された喜連川公方太鼓に少し以上に驚いたので,そのことについて記しておこうと思う。
 2009年の「東京国際和太鼓コンテスト」で最優秀賞。皇太子ご夫妻の御前で演奏したこともあると紹介された。

● 太鼓というのは陣太鼓がルーツのはずだと勝手に思っている。戦国時代,戦場で打ち鳴らされた太鼓。
 殺すか殺されるか。文字どおりの命のやりとりをするわけだから,兵士の恐怖感も並ではなかったろう。その恐怖感を麻痺させるために陣太鼓は効果があったのだろうと思う。

● 音の高低は限られるから,強弱とリズムの勝負。基本は単調になる。それを延々聴いていると,たしかに前頭葉がボーッとしてくるように思われる。敏感な人ならトランス状態に入れるのかも。
 ただし,前頭葉をボーッとさせるような強弱とリズムを具現化する太鼓を聴いた記憶はない。今回が初めて。さくら市にこういう太鼓集団があったことは,知らずに来た。

● 登場したのは総勢12名。うち,男性は4名で,8名が女性だ。しかも,見目麗しい若めのレディたちだ。
 リーダー格は年配の男性が務めていたけれども,彼女たちが自在に打ち鳴らすのを見てて,こういう分野も女性が支えるようになったのだなぁと,あらためて現実を見せつけられた感じがした。

● 銅鑼も登場するので,いよいよ男性的というか,野趣が濃くなる。その男性的なるものも,じつは女性が支えているのかもしれないね。ひょっとすると,昔からそうだったのかもしれない。

● 時間にすれば10分程度だったろうか。肩,上腕,肘,手首にかかる負荷は相当なものだと思われる。
 が,最後まで見事なアンサンブルが崩れなかった。このアンサンブルがないと前頭葉はボーッとしないわけで,何にせよ一芸をここまで仕上げてくるとはたいしたものだ。
 相当な鍛錬を重ねているのだろう。しかも,嫌々ながらの鍛錬では効果もあがるまいから,好きこそものの上手なれは古今の真理なのだろう。

2015.03.22 第17回青少年の自立を支える会コンサート

栃木県総合文化センター メインホール

● このコンサートは,過去2回,聴いている。エレクトーンの倉沢大樹さんが中心になっていた。長らく務めた倉沢さんたちが引退(?)してからは,今回が初めて。
 開演は午後5時だったけれども,ぼくは15分ほど遅刻した。チケットは1,000円。当日券を購入。
 出演者は無料で引き受けている。チケット収入は,主催者が運営する児童施設の運営に充てられるのだろう。

● 今回は「魂の響き Japanese&African Soul」と題されていた。第1部はアフリカンダンス&ミュージック。アフリカの太鼓(ジェンベというらしい)を生で聴くのは初めてのことだ。ギニア出身のモモ ケイタさんがセンターで,あとは日本人のメンバー。
 和太鼓や鼓笛隊の小太鼓とは当然,材質も音質も違うんだと思うけど,音の違いがぼくの耳ではよくわからない。音よりもリズムですよね,たぶんね。

● アフリカのリズムって,ぼくの場合,吹奏楽でしばしば演奏される「アフリカン・シンフォニー」から入っちゃってるわけですよ。それを聴いて,これがアフリカなんだと思っている。実際は違うんだろうと頭ではわかっているつもりだけれど。
 アフリカって地図で見たってあれだけ広いんだから,全部ひっくるめてアフリカとまとめてしまっていいとも思われない。地域差がないはずがない。地域差っていうのを超えて,まったく別といっていい音楽がアフリカ大陸にはいくつもあるに違いない。

● が,イメージ先行。イメージが先行しちゃうと,そのイメージからはみだしているものは受けつけないという笑えない現象が起きる。
 だから,こちらのイメージに合うアフリカンミュージックが紹介されているんだろうなぁと,やや醒めた思いで聴いていたところもある。聴き方としては皮相に過ぎるだろうな。
 日本的なアレンジが,アレンジと意識されないで入りこむこともあるだろう。でも,日本的なアフリカンでいいのだと思う。いいも悪いも,必ずそうなるものだろう。

● あとは,聴き手としてどこまで乗れるか。こういうのは乗ったもの勝ちだ。ステージと客席に距離を作らないようにすること。頭を介在させないこと。
 ぼくもそうだけれども,多くの日本人はこれが苦手でしょうね。椅子に座らされているわけだから,なおさらね。立っていたらまた違うんだろうけど。

● ダンスでは際立って巧い女性が一人いた。ら,それがインストラクターの石川典子さんで,彼女ほどではないにしてもかなり巧い人が他にも数人。すべて女性。
 で,見ていると,簡単にできそうな気がするんだよね。ところが,見るとやるとじゃとんでもない違いがある,と。

● 第2部は古田佳子と舞琉華瑠(ブリューゲル)。プログラムノートのプロフィール紹介によれば,古田さんは,平成14年の日本民謡協会全国大会で優勝しているらしい。
 つまり,第2部は民謡。楽器は,尺八,津軽三味線,二胡,鳴り物(打楽器をこう呼ぶらしい)。

● 今の民謡は,元のものからだいぶ変容を受けていると聞いたことがある。その昔,ラジオ放送が始まったとき。とにかくラジオに載せるコンテンツがない。じゃあ,民謡を流せばいいじゃないか。
 ところが,そのまま電波に乗せるのは憚られるような歌詞だったっていうんですよね。ソーラン節にしたって,今のような詞ではなかったという。
 で,歌詞を変えたっていう話なんですけどね。もともと,日本は性に関しては大らかすぎるお国柄だったようだ。それが民謡の歌詞にも現れていたってことなんでしょ。

● そんなことを思いだしながら,古田さんの民謡を聴いていたんだけど。
 いくら人工的に変えられたといっても,元々の猥雑さがそこかしこに残っているはずだよなぁ。が,歌唱も洗練されてきたんでしょうね。土臭さといったものはあまり感じないもんね。
 どうも民謡に関しては,ぼくの耳が開いていないようだ。どれを聴いても同じに聞こえるっていうか。もちろん,節回しとか違うんだけど,違いを超えた同じさの方が目立ってしまう。

● が,ともかく生民謡を聴きましたよ,得がたい機会でしたよ,と。

2015年3月25日水曜日

2015.03.22 宇都宮ユース邦楽合奏団《邦楽ゾリスデン》演奏会

宇都宮市文化会館 小ホール

● 一昨年は当日券が買えなかった。ので,以後は前売券を買うようにしている。今回も同様。今回は当日券も残っていたようだったけれども,ホール内はほぼ満席となった。
 開演は午後2時。チケットは1,000円。

● まず,「六段の調」(八橋検校)から。箏の群奏。
 バレエでいえば,コール・ドにあたるものですか。バレエでもスターダンサーのウルトラCよりコール・ドのほうが,見てる分には楽しい。初心者向きともいうのかもしれないけれども。
 聴いて良し。見て良し。礼の所作も美しい。一粒で三度美味しい。

● 次は,箏,三絃,尺八による「さらし幻想曲」(中能島欣一)。ここでいう「さらし」とは「布を川水にさらす作業」のことだと,プログラムノートの解説にあった。そのイメージが表現されている,と。
 調べのたゆたいを味わえばいいものだろうけれども,この種の曲は意外に聴き手の鑑賞能力を問うところがあるように思う。西洋の音楽でいうと,ドビュッシー的なものかもしれない。ぼくはドビュッシーを楽しめるようになるまでにだいぶ時間がかかった。

● ミュージカル&ドラマメドレー。これはもう客席サービスの塊。楽しんでください,というもの。邦楽はどこまでポピュラーになれるかという挑戦でもあるんだろうか。

● ここで前半が終了。このあと,小学生たちが登場して,ワークショップ成果発表。ここで練習してきた結果を見てもらいますよというもの。
 やはりというか,圧倒的に箏に人気が集まるようだ。

● 次は「モザイクの鳥」。名倉明子さんが作曲。
 「さらし幻想曲」以上にドビュッシー的というか,難解というか。この曲がわからなくても,いいと思えなくても,あまり自分を責めないほうがいいと思う。

● 最後は「道灌」(宮城道雄)。箏,三絃,十七絃,尺八のほかに,胡弓と打楽器も加わる。曲じたいも有名だし,楽器の構成も華やかだし,謡も入る。
 聴いているほうも楽しいというか,納得しますよね。最後は大いに盛りあがって終わりたいからね。

● ところで,邦楽ゾリスデンの鮎沢京吾さんが出光音楽賞を受賞したとの紹介があった。まず賞ありきではないだろうし,本人もさほどに重いと考えているわけでもないんじゃないかと思うけどね。
 その鮎沢さんがアンコール曲を演奏して,本当に終わり。

2015年3月23日月曜日

2015.03.21 ユーゲント・フィルハーモニカー第9回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● このユーゲント・フィルハーモニカーの演奏は聴き逃したくないと思っている。今年も聴くことができた。
 開演は午後6時半。チケットは1,000円。当日券を買えなかったことは今までに一度もないけれども,すみだトリフォニーがほぼ満席になる。思うことはみな同じということか。

● 今回のプログラムは次のとおり。
 リヒャルト・シュトラウス 交響詩「ドン・ファン」
 ブラームス 交響曲第3番
 バルトーク 管弦楽のための協奏曲
 重量級を3つ並べた。ブラームスの3番のあとにバルトークの「管弦楽のための協奏曲」をやるんだから,演奏するほうも大変だろうけど,聴く側も体力を求められるね。
 指揮は今回も三河正典さん。

● けれども,演奏が始まってみれば,すぐに入っていける。気がついたら,1曲目が終わっていたみたいな。
 こういうときだけ,東京に住んでる人を羨ましいと思う。ぼくは終演後に電車に乗っても,今日中に家には辿りつけないのでね。新幹線に乗れば別だけどさ。安宿に泊まることにしてるんだけど。

● まぁず,巧いこと。アマチュアオーケストラって,好きだからやってますよというのから,プロになろうと思えばなれた人もけっこう混じっているなと思えるのまで,幅が大きいと思うんだけど,この楽団は後者の典型。相当なものだ。
 最前列のヴァイオリンのきれいなことと言ったら。音もきれいだし,見映えもきれいだし。最前列だからどうしたって目立つわけですが。

● 木管も金管も,裂け目がないですもんね。「管弦楽のための協奏曲」をここまで仕上げてくる楽団ってそんなにないんじゃないですかね。
 いかに志のある個人の集団とはいっても,意見の対立やら人間関係の不調和はないはずがないと思うんだけど,演奏は渾然として一体になっている。

2015.03.21 マリア・カラス 伝説のオペラ座ライブ

シネマライズ

● 1958年の収録。マリア・カラスがパリのオペラ座にデビューしたときの様子をそっくり撮影したもの。
 これは見ておいた方がいいぞと思って,渋谷のシネマライズへ。上映は今日から4月9日まで。1日1回,14時10分から。チケットは2,500円。プログラムは別売で1,000円。

● よくぞ撮っておいてくれた,と思う。これがマリア・カラスなのか。客席を圧倒するオーラ。あきれるほどにチャーミング(ステージ上では)。
 その日の客席には,チャップリンをはじめ,ブリジッド・バルドーやイブ・モンタンもいた。フランスの大統領も。

● 映像は当然モノクロだけれども,画質は悪くない。1週間前に見た「椿姫」の映画では,スクリーンとの間にかなりの距離を感じたものだけれども,今回は,臨場感があった。ぼくもオペラ座に座席を占めて,彼女のライヴを見ているような気分になった。
 というと,いささか以上に言いすぎなんだけど,実際のライブを録画したものであることが大きいんだと思う。ドキドキしながら見ることができた。

● もちろん,本物のライヴに比べれば,入ってくる情報量は数分の1だと思うんですよ。それは仕方がない。
 観客の様子をもう少し映してくれるとよかったかなとも思う。

● ライヴは2部構成。
 第1部は,ヴェルディ「運命の力」序曲から。管弦楽はもちろん,パリ・オペラ座国立劇場管弦楽団。指揮はジョルジュ・セバスティアン。
 そのあと,マリア・カラスが登場して,ベッリーニ「ノルマ」から4曲,ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」から3曲を歌う。
 再び,管弦楽がロッシーニ「セビリアの理髪師」序曲を演奏し,カラスが「セビリアの理髪師」から“今の歌声は”を歌って,幕が下りる。

● 客席へ挨拶は,首をちょっと曲げるだけ。腰を折ることはない。その仕草がまぁエレガント。
 ドレスを着たら日本式の腰を折るお辞儀はいけませんね。折るとしても,ごく浅くでいいと思う。

● 「綺羅星のようなセレブリティが列席」していた。フランスの上流が好むのはこういうものか。わかりやすいのが好きなんだなと思った。オレとあんまり変わんないじゃん,的な。
 が,チャップリンやイブ・モンタンが楽しみのためだけに来ていたとは思いにくい。ぼくの考えが浅はかなのだろう。

● 第2部はプッチーニ「トスカ」の第2幕。これはもう感涙もの。歌はもちろんだけれども,演技の素晴らしさはどうだ。
 共演したティト・ゴッビも絶品。役に入るというより,役を磨きあげてる感じがした。
 スクリーンなのに,終わったらかなり疲れていた。椅子から立ちあがるのがけっこう億劫だったから。

● 無頼の設えにも興味があった。オペラ座ともなれば,ましてマリア・カラスのガラ・コンサートともなれば,本格的な設えになるんだろう。
 その本格的な設えをぼくは見たことがない。スクリーンでもいいから,どんなものなのか見てみたかった。で,その渇は癒やされた。そうか,本場のオペラはこういうふうに設えるのか,わかったよ,って感じで。

2015年3月17日火曜日

2015.03.15 矢板中央高等学校吹奏楽部第9回定期演奏会

矢板市文化会館 大ホール

● 宇都宮北高校作新学院高校の吹奏楽部の演奏会は,それぞれ3回ずつ聴いている。どちらも大したものだと感心する。
 しかも,それが一発花火ではなくて,学年を超えて受け継がれていくのが,不思議でもあり,すごいものだなぁと思っている。

● 両校とも実績も知名度も充分。では,それ以外の高校はどうなんだろう。ありていにいうと,どの程度の差があるものなんだろう。
 という,無礼な方向からの興味もあって,矢板に出向いてみた。開演は午後2時。入場無料。

● お決まり(?)の3部構成。第1部のスタートは「北天の陽」。吹奏楽コンクールで演奏した曲だとのこと。
 「一番思い入れのある曲」だとあるけれども,その思いはしっかり客席に届いてきた。これで,初っ端,客席をガッと掴むことができた(と思う)。

● プログラム・ノートには「少人数編成の私たちは他のパートをカバーすることには慣れていますが,今回は特にパーカッションが2人しかいないため,様々な工夫をして1人が沢山の楽器を演奏しました」ともある。
 たしかに少数精鋭での演奏。しなくてすむならそれにこしたことはない工夫のはずだろう。持ち場を変えて動く部員が何人もいた。そうしながら,ここまで完成度を高めてくるんですな。

● 第2部はマーチング。この部門で県代表になった。この人数で県代表というのはすごくないですか。
 マーチングだから,演奏以外の構成も出てくるわけでしょ。ユニフォームのデザインも大事だったりするんじゃないか。そういうのは誰が考えるんだろ。
 マーチングの指揮はOGがやっていたようだ。彼女が企画担当なんだろうか。

● 数で勝負するわけにはいかない。ラインを伸ばしたり縮めたりして,ラインの変化で魅せるっていうのも,おのずと限度があるだろう。
 ここも工夫なんでしょうねぇ。工夫した結果がこれで,これで関東大会に行ってきたんだぞ,と。

● 第3部はポップスステージ。ジブリメドレーとか,アナ雪とか,アニメソングメドレーとか。サービス精神満載のステージになった。
 ただ,サービス精神だけでサービスになるかといえば,そうはいかない。サービスにできるだけの腕がないと。
 で,その腕は充分にあったんでした。OB・OGも加わっていて,音も分厚くなっていた。クラリネット,フルート,サクソフォンなど,各パートの水準も高い。中にめっぽう巧い奏者がいる。

● 最後に部長挨拶。感極まったんだろうな。いい挨拶でしたよ。
 3年生のほとんどが初心者だったって言ってたんだけど,本当なのか。それとも,へりくだってみせた? ここで妙にへりくだる必要はないはずだから,本当なんだろうな。
 ということは,高校に入って初めて楽器に触れたってことだよね。それでも3年間でここまでの水準に到達できるのだとすると,高校生の可塑性の豊富さっていうか,柔らかさっていうか,伸びしろの大きさっていうか,素晴らしいよなぁ。
 中高年にはそれに抗する術がない。

● 特別な練習メニューというか,この高校に特有のシステムがあるわけではないと思うんですよね。顧問の先生が熱心だとか,OB・OGが指導に来てくれるとか(OB・OGの指導って,ときに迷惑だけど),そういうことはあるにしても。
 地味な練習を重ねるしかなかったはずだ。ステージが華やかなものほど,練習は地味になるもんね。

● 大変で何度もやめたいと思った,とも部長さんは語っていた。
 まったくの初心者から始めてここまでになったのだとすると(なったわけだけど),やめたいと思ったことも,そりゃあったろうな。
 でも,やめないで続けて,よかったよな。

● ほのぼのとした元気を分けてもらえた演奏会だった。ありがとうと言いたい。
 高校生のパワーをなめてはいけない。これまでに何度も思わされたことを,今回もまた思わされた。自分よりはるかに若い人たちに,そのことを実地に教えてもらえるのは,年寄りの役得のひとつだと思う。

● ひとつ,気になることがある。この定期演奏会の時点で,部員は19名。そのうち,3年生が12名。4月からどうする? 新入部員がたくさん来てくれればいいけど。

2015年3月16日月曜日

2015.03.14 オペラ映画「椿姫」上映会

銀座ブロッサム

● お金に糸目をつけないで作られた舞台で演じられるオペラを観てみたい。けれども,糸目をつけなかったお金は誰が負担するのか。当然,観客が分担して負担することになる。
 ではその額はいかほどか。糸目をつけないんだから,想像を超えるはずだ。そんなお金を自分は出せるか。どうも自信がない。

● では,次善の策をというわけで,この映画を観に行くことにしたんだけど。
 2回上映で,1回目は午前11時,2回目は午後2時。2回目を観ることにした。チケットは2,500円。これくらいだったら,出せるからね。

● 1982年の作品。監督はフランコ・ゼッフィレッリ。
 ヴィオレッタにテレサ・ストラータス,アルフレードにプラシド・ドミンゴを配し,ジェルモンはコーネル・マクニール。管弦楽は,レヴァイン指揮のメトロポリタン歌劇場管弦楽団。
 第2幕のバレエシーンにも,ボリショイ・バレエのエカテリーナ・マクシーモワとウラジミール・ワシーリエフを起用している。
 セットも絢爛。じつにお金に糸目をつけていない。映画だからこその豪華版だ。ゼッフィレッリの執念が結実したという感じ。

● 結果,「オペラ史において,また映画史においても燦然と輝く,特筆すべき傑作」になったということなんだけど,たしかにそうなんだろうなと思う。
 という言い方をするのも,なんかピンと来なかったからなんだよね。映画としてではなく,オペラとして観てしまったからだと思う。

● テレサ・ストラータスは美しかったし,ドミンゴの声量にも圧倒される思いがするんだけれども,いかんせん距離がありすぎる。
 彼らは画面に閉じこめられているわけだからね,無限の距離がある。その代わり,画面のなかで時空を超えて存在する。

● 実際,ぼくは泣きませんでしたからね。「椿姫」は2回,生のオペラを観たことがあるんだけど,最後,泣いちゃうでしょ。ありえない筋書きだとわかっていても。
 終わったあと,泣き顔を見られないように,けっこう苦労することになるものでしょ。

● 絢爛たる光景は頭の中で想像すれば足りる。リアルに視覚化してもらう必要は必ずしもないのだった。自然の美しい光景も同じ。
 ヴィオレッタとアルフレードが川に落ちて,濡れたまま手をつないで帰る幸せなシーンも,映画でしか表現できないものだけれども,これがないと困るかといえば,そうでもない。

● つまり,これほどに絢爛豪華でなくても,生の舞台の方がこちらに訴えかけてくるものはずっと多いと思った。あたりまえだろ,と言われますね。
 そのあたりまえのことを感じたわけで。

● けれども,冒頭のフラッシュバック技法はやられてみるとアッと思う。最後のシーンの先取り。映画だとこれができるか,と。
 序曲にどういう映像を付けるのかと思ってたんだけど,この手があったか,序曲の処理はこうすればいいのか,っていう発見。
 やられてみれば,こうすればいいというより,これしかないのではないかと思えてくる。

2015.03.13 宇都宮短期大学・附属高等学校音楽科 第47回卒業演奏会

栃木県総合文化センター サブホール

● 昨年に続いて二度目の拝聴。開演は午後5時半。入場無料。
 入り口にOBの阿久澤政行さんが立って入場者を迎えていた。団結が強いんだなぁと思ったんだけど,母校で講師を務めているんですね。っていうか,この演奏会にご自身も登場するんでした。

● 冒頭の学長の挨拶によれば,短大では28年度から邦楽も学べるようになるらしい。ホームページを見ると,和久文子さんを客員教授に招くことになっているようだ。
 「総合音楽短大」の陣容を備えることになる。

● 聴衆の数は昨年以上。バルコニー席もほぼ埋まった感じ。写真を撮る人はバルコニー席からお願いしますとのアナウンスもあった。
 適切な措置かと思われる。この種の演奏会では,聴衆の多くは生徒の保護者や友人のはずで,通常の演奏会と同じ水準で撮影禁止を求めるのは現実的ではない。かといって,野放しでどうぞというわけにもいかない。他の聴き手の集中を切ってしまう。
 全面的に禁煙を強制するわけにはいかないけれども,場所を決めてそこで喫ってもらう分煙が,まぁまぁ妥当なところ。

● 前半は研究科と高校の部。昨年は電子オルガンが多かったのに対して,今回はフルート,トランペット,サクソフォン,マリンバと多彩な演奏になった。このあたりは学年によって波があるんですかねぇ。
 それと,高校の卒業生に男子が何人かいる。昨年はひとりしかいなかったと記憶しているんだけどね。

● 大勢の女子に囲まれて羨ましいっちゃ羨ましいんだけど,それにも限度があって,男子が自分ひとりだけっていうんじゃ辛すぎるもんなぁ。
 まったくの蛇足ながら,いくら恵まれた環境にいても,モテないやつはモテないんだよな。女子2人,男子98人という環境でも,モテるやつはその2人にモテる。それはそういうものなんだけど。

● 最も印象に残った演奏は,古谷真唯さんのサクソフォン。グラズノフの協奏曲変ホ長調。巧いものだなぁと思った。
 それだけで片づけられては本人としてはご不満かもしれないけれども,ぼくの聴き手としての水準がその程度のものなので。

● 最も印象に残った奏者は,ピアノの吉原麻実さん。自身が演奏したシューマンの幻想曲ハ長調のほかに,伴奏で登場すること四度。ほとんど出ずっぱりの感じ。
 で,その伴奏が良かったと思う。いい具合に力が抜けていたんですか。シューマンも聴き応えがあったという前提で,伴奏が良かったと言いたい。

● 男子も2人登場。貴重な存在だ。マリンバの村上優太さん。巧いのかそうでもないのか,じつはぼくにはわからない。が,かっこよかった。
 マリンバってこれがあるんだよなぁ。見せる要素が大きい。ステージでやるんだから「見せる」は大事なことだ。
 一ヶ所に立ってればいいわけじゃない。4本のマレットを持って動き回る。運動神経,反射神経がものを言いそうだし,筋力(特にインナーマッスル)を鍛えておくのも大事なのだろうなと思わせる。

● その動き回る様を見ながら感じたことは,知の迸り,だ。反射神経や筋力やリズム感やマレットの操り方や,その他諸々の要素があるんだと思うけれども,それらが総合されると知=インテリジェンスの表現になる。
 知の現れ方はひと通りじゃない。勉強ができるとか,飲みこみが早いとか,一を聴いて十を知るとか,そういうのだけが知じゃないんだなと思った。

● 後半は短大の部。特に女子について感じることだけれども,高校生になるとレディのオーラを出す。これが短大になると,さらに大人びた風情を見せる。
 といっても,20歳なんだよね,まだ。このあたり,ステージ効果というかドレス効果というか。わかっていても,騙される。

● 最後は合唱。三善晃「女声合唱のための三つの抒情」から“或る風に寄せて”と“北の海”。女声合唱なんだけど,男子がひとり入っていて,しかもちゃんと声を出していた。

● というわけで,県内の音楽基地から発信される上質な演奏会,今回も堪能。金曜日の夜の贅沢。

2015年3月12日木曜日

2015.03.11 春風亭昇太 落語独演会

高根沢町町民ホール

● 番外編。開演は午後7時。チケットは1,500円。
 管弦楽を聴きに行くことが多いんだけど,基本,舞台芸術は何でも好きだ。ステージで展開されるものは何でも。オペラやバレエなど音楽が絡むものはもちろん,ライヴで観たことはまだないんだけど,能のような抽象性が高いものでも,ぼくの中から拒否反応が出てくることはまずあるまいと思う。
 ライヴで観たことがないものは,能のほかにもたくさんある。落語もそのひとつ。

● ぼくの場合,ずっと,落語=「笑点」だった。寄席というのは典型的な都市型施設で,落語を聴きたければ東京に出向くしかないと思っていた。
 が,最近は,大きなホールで落語が演じられる機会が多くなっている。業界側の事情もあるんだろうし,そちこちにできたホールの運営側の事情もあるんだろう。
 栃木県でもいくつかのホールで毎年,落語の独演会,二人会が催行されている。

● CDもいくつか持ってはいるんだけど,熱心に聴いている方ではない。微々たるものだ。
 その微々たる中から申しあげると,古今亭志ん生は天才だとぼくも思っている。音域が広い。出せる声のバリエーションがとんでもなく多い。

● 噺家というと,遊びを極めた人っていうイメージも強い。吞む,打つ,買う,の三拍子が揃っている人たちという印象。
 特に,「買う」。その道の追求をやめない人たちが落語家なんだろう。小沢昭一『雑談にっぽん色里誌 芸人編』には小沢さんと4人の対談相手が登場するけれども,その4人はみんな噺家だ。
 吉原を舞台にした噺もある。実際,遊びが芸の肥やしになる典型的な職業が噺家なのだろうなと思っていた。

● ひょっとすると,噺家と遊女は似たような職業で,互いに惹かれるところがあるのかもしれないなと思ったりもする。
 よんどころない事情で,世の中に居場所を見つけられない。あるいは,世の中から拒絶される何かを持っている。そういうところが共通しているのかな,と。

● が,客席から昇太さんを見ている限りでは,彼にそんな風情は感じられない。はみだし者という感じは皆無だ。他の職業,たとえば雑誌の編集者になっても,いい仕事をした人ではなかろうか。
 遊女っていうのも今は昔の話だし。遊びが芸の肥やしになるっていうのも,遊び人の自己弁護的なところもありそうだ。遊びに占める吞む,打つ,買う,の比率も下がってきている。

● Wikipediaによれば,学生時代にテレビ東京の『大学対抗落語選手権』で優勝している。結局のところは,才能でしょうね。才能って言葉をだすと,議論が強制終了になってしまうけれども。
 昔,「ほぼ日」で「これが落語ですというものは本当はないんです。その噺家がどう演じ,どう面白くするかが重要なだけで」と発言していた。落語を外からキチっと見る視点も当然あるわけで,落語に絡めとられたままではいないわけですよね。頭も柔らかい人なんだな。

● 冒頭,昇太さんが私服で登場。ここで客席をガバッとつかむ。このつかみは天性のものなんだろうなぁ。努力や工夫も重ねているんだろうけど。

● 本編に入って,弟子の春風亭昇羊さんが登場。演目は「初天神」。これがぼくの生落語の初体験となった。
 昇羊さん,真面目の塊という印象。愚直に(もちろんほめ言葉だ。念のため)修行を重ねていると見える。大変だろうけどなぁ。
 こういう真面目な若者が遊びを肥やしにできるのかねぇ(まだこだわってる)。

● 次いで,昇太さん。「時そば」を演じたんだけど,「時そば」に行く前の,前段の喋りが面白かった。
 「そばを食べる場面において麺を勢い良くすする音を実際と同じように表現することが本作の醍醐味であり,一番の見せ場である」らしい。たしかに。すごいものだと感じ入った。

● 後半は,三増紋之助さんの江戸曲独楽。一球入魂。ワンステージごとに勝負なんだろうなぁ。
 最後は,再び昇太さんの落語。演目は「猿後家」。笑い転げた。ホールで大勢で聴くと,たくさん笑えるものだ。人の笑いにつられるということもある。

● 管弦楽の場合,CDで聴くのと生演奏を聴くのとでは,まったく別の体験になる。これはわかりやすい。異を唱える人はいないだろう。
 が,落語のような独り芸は,生と録音との違いはそんなにないのではないかと思っていた。ところが,そうじゃなかった。入ってくる情報量がまるで違うのだった。一度は名手の芸に生で接してみるものですな。
 これで,CDを聴く時間が増えるかもしれない。ひょっとすると,いわゆるひとつの転機になる2時間になったかもしれないぞ。

● 管弦楽だと,アマチュアオーケストラの演奏でもアマチュアであることが気になることはあまりない。メジャーの野球だけが野球じゃないのと同じだ。高校野球の試合がメジャーのそれよりつまらないとは限らない。
 けれども,落語は違う。アマチュア落語のほとんどは,忍耐なくして聞くのは難しい(一度,とある病院で,ボランティア落語を聞いたことがある)。その分,CDに頼ることが多くなるはずだ。
 そのCDに向かわせてくれるキッカケを得たとすると,けっこう以上に大きな収穫だったといえる。

2015年3月10日火曜日

2015.03.08 那須野が原ハーモニーホール合唱団第9回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● この合唱団のメンバーは,ハーモニーホールを運営する那須野が原文化振興財団が実施している合唱団養成講座の受講生でもある。したがって,これは那須野が原文化振興財団の主催事業になる。
 それかあらぬか,チケットは200円。開演は午後2時。

● ともあれ,9回目にして初めて聴きに行くことになった。なぜ今回行くことにしたのかといえば,演目がフォーレの「レクイエム」だったからだ。
 1月末に,同じハーモニーホールで宇都宮合唱倶楽部の「レクイエム」を聴いているけれども,一回聴いたから気がすむということではない。何度でも聴けるときに聴いておきたい。

● その「レクイエム」。宇都宮合唱倶楽部のときはピアノ伴奏だったけれども,今回は管弦楽が入った。
 地元のモーツァルト合奏団。弦以外はすべてエキストラになるのは仕方がないところ。
 オルガンはジャン=フィリップ・メルカールト氏。ソプラノは袴塚愛音さん。バリトンは押川浩士さん。指揮は片岡真理さん。

● 管弦楽が入るか入らないかで,印象がぜんぜん違ってくる。当然だ。音の色がモノクロからカラーになる。それ以前に音の厚みだ。まったく違ってくる。管弦楽なればこそ,オルガンも映える。
 ステージで演じられる以上,オーケストラであれ室内楽奏であれピアノやヴァイオリンのリサイタルであれ,聴くだけで完結することはない。観る楽しみがある。管弦楽が入ることによって,この観る楽しみが何倍にもなる。

● 合唱団は洗練されているとは申しあげにくい印象だ。が,神を讃える,あるいは神の前に跪くのに,さほどに洗練が必要だとも思われない。
 伝わるべきもの(とこちらが勝手に判断しているところのもの)は充分に伝わってきた。

● 山高きがゆえに尊からず。合唱も巧けりゃいいというものではない(のだと思う)。
 拙より巧がいいに決まっている。それはそうなんだけれども,そして巧であればそれ以外の傷の大半は覆い隠されるものだと思うんだけれども,巧において不充分であっても,真摯さであったり素朴さであったり,そういうものが巧における不充分を補うことはある。
 むしろ,そういう場合のほうが,客席に届くものが大きくなることがある。もちろん,聴衆が求めるものとの相関がある。求めるものはそれぞれ違うから,一概に場合分けはできないのだけれど。

● 一番の収穫は袴塚さんのソプラノを聴けたこと。
 栃木県のしかも大田原市の出身とのことなんだけど,おそらく生まれたのがたまたま大田原だったってだけで,栃木県の空気を吸った期間はそんなに長くはないのではあるまいか。
 なんでかっていうと,雰囲気がアーバンだったからね。栃木がどっかに染みているって感じは皆無だったから。

● それはともかく。透きとおるようなっていうのは,彼女の声のためにある言葉じゃないですか。今まで存じあげないままで申しわけありませんでした,っていう気分になった。
 という次第で,フォーレ「レクイエム」を満喫できた。楽しませてもらったなという感じ。

● その前に野口雨情の童謡がメドレーで披露された。「七つの子」など全部で9曲。ピアノ伴奏は藤本美玲さん。
 こういうのを聴くと,自分は自分で思っている以上に日本人なんだなと実感する。ここでこう反応するのは自分が日本人だからなんだろうなと思うことは,じつにしばしばある。ところが,自分が意識できないところにも日本が詰まっているんだなぁ,っていう。

● 野口雨情って,童謡の歌詞から想像されるのとは違って,相当以上に不羈奔放というか勝手気儘というか,周りに迷惑をかけることを厭わないというか,直情径行の人だったように思う。
 名家に生まれて,なに不自由なく育って,東京の大学に入って,文学にかぶれて,反体制に入れあげて(半ば以上は気分でやっていたのではないかと思う),結婚して,芸者に入れあげて,人妻といい仲になって,離婚して。そして,後世に名を残す。
 ま,彼だけが特別ということではないんだけど。それくらいの人じゃないと,作品を結晶化させることはできないのだろうけど。

● が,ぼくらにとっての問題は,彼の人がらとか性格ではなくて,彼が残した詩(詞)だ。ある時代の日本の一断面がぎゅっと圧縮されてこめられている。それができるのは,ごく限られた人だけだ。
 こうして童謡になって,今でも聴くことができる。聴けば自分に染みいってくるのを感じることができる。あってくれてよかったと思える公共財のひとつだ。

● 「花は咲く」も。震災復興応援歌という前提で聴いてしまうので,「叶えたい夢もあった」というところでグッとくる。津波に吞まれた幼稚園児や小学生,中学生,高校生。
 プロのサッカー選手になりたい。宇宙飛行士になりたい。看護師になって人の役に立ちたい。きれいなお嫁さんになって元気な赤ちゃんを産みたい。
 それこそ,叶えたい夢が亡くなった人の数だけあったに違いないのだ。

● モーツァルト合奏団も,バッハの「二つのヴァイオリンのための協奏曲」を演奏。以前,自治医大管弦楽団の演奏会で,「オーボエとヴァイオリンのための協奏曲」を聴いたことがあった。かなりのお得感があった。
 今回も同じ。バッハのこの種の曲って,生で聴ける機会があまりない。けれども,聴いてみると何ともいえない充実感がある。

2015年3月5日木曜日

2015.03.02 峰が丘の響き

栃木県総合文化センター サブホール

● 開演は午後7時。チケットは1,000円。当日券を購入。
 主催者は宇都宮大学教育学部声楽研究室・作曲研究室。「宇都宮大学教育学部音楽科の教員とその卒業生による歌曲・室内楽演奏会」ということ。

● 同じく宇大出身のRADIO BERRY(FM栃木)のアナウンサー,渡辺裕介さんが司会を務めた。奏者へのインタビューもあって,それも含めて楽しいコンサートになった。
 ただし,というか当然のことなんだろうけど,聴衆も宇大の同窓生であることを前提にしていたようで,同窓生を前にして昔話に花を咲かせる的な色彩が濃厚だった。

● 宇大にはエンもユカリもないぼくのような者は,疎外感を味わうことになる。
 かといえば,そんなことはなかった。奏者の背景やエピソードは知っておいて損はない。しかも,奏者自身が語るわけだから。
 けっこう美味しい話も聞けた(ように思う)。特に,栗田智水さんとゲストの渋谷陽子さんの話は面白かった。それぞれ,パリとローザンヌに音楽留学してたときの話なんですけどね。

● ま,1回目だからね。リキが入った結果こうなったところもあるかもしれない。PR効果も狙いたいだろうし。
 宇大色をどこまで出すか。一般公開の演奏会である(しかも,少額とはいえ入場料もとる)こととの兼ね合いで,少々厄介な部分が出てくるかな。

● プログラムは多彩でもりだくさんだったんだけど,まずは栗田智水さん(フルート)と菊地由記子さん(ピアノ)の,プーランク「フルート・ソナタ」とピアソラ「リベルタンゴ」。
 栗田さんのフルートは,伸びやかなうえに,清潔感があるというか,上品というか。そうだ,気品があるといえばいい。この言い方がピッタリだ。当然にしてキレもある。か細く長く,もお手のもの。
 プーランクもピアソラも,おそらく吹き慣れているのではないか。自家薬籠中のものなんでしょ。
 菊地さんは作曲が本業かと思うんだけど,妙な自己流を入れない素直なピアノ(のように思われた)。

● ベネットの「4つの小品組曲-2台のピアノのためのディヴェルティメント」も面白かった。演奏したのは,新井恵美さんと益子徹さん。
 プログラムノートにも「譜面に描かれた音符を奏すると,あたかもアドリブで演奏しているかの様になり,クラシックとジャズを融合した,肩の力を抜いて楽しめる小品組曲である」と紹介されているけど,なるほどと思った。
 お二人がジャムセッションをやっているのかと思うところがあった。そうか,楽譜のとおりに弾くとこうなるのか。
 軽く楽しめるエンタテインメントという印象。

● もうひとつ。木下大輔「追分」。無伴奏チェロ曲で,チェロは渋谷陽子さん。どんな楽器でも名手が弾くとこうなるっていう,ひとつの範例。
 栗田さんのフルートに感じたところと同質のものを,彼女のチェロにも感じた。もう少し聴いていたいかなというところで,唐突に曲が終わる。

● 月曜日の夜の2時間をこういうふうに過ごせる,しかも栃木で。ありがたかった。
 ないものねだりをするならば(しても仕方がないんだけど),休憩時にワインなんか飲めるとありがたい。そんなことをしても絶対赤字になるはずだから,ほんとにないものねだりなんだけど。

2015年3月3日火曜日

2015.03.01 那須フィルハーモニー管弦楽団第16回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● この楽団の音楽監督を務めている大井剛史さんが,この演奏会を最後に退任されることは知っていた。ご自身がTwitterに書いておられたから。
 今回は16回目の定期演奏会というより,大井さんの退任記念演奏会であるのだろう。

● 大井さんの指揮ぶりを見るのが一番の楽しみだったりするので,ここは何をおいても行かずばなるまい。
 というわけで,今回は前もってチケット(1,000円)を買っておいた。当日の天気は雨。開演は午後2時。

● プログラムは次のとおり。
 ドヴォルザーク スラヴ狂詩曲第3番
 ブラームス ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲
 ブラームス 交響曲第2番

● 「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」のソリストは,執行恒宏さん(ヴァイオリン)と松本ゆり子さん(チェロ)。実力者による圧巻の熱演。
 管弦楽もソリストに引っぱられてか,気合いのこもった集中を切らすことなく,演奏しきった感じ。演奏終了後の客席の拍手の濃度がそれを現していた。
 数か月前の「第九」の演奏とはだいぶ違っていた。というと,失礼にもほどがあると叱られるだろうか。

● 第2番もそのテンションで。松本さんがチェロの列に加わっていた。執行さんはと思って見れば,2ndに入っていた。
 午前中にゲネプロをすませているんだろうから,「そのテンションで」っていう言い方は当たらないようにも思うんだけど,本番には本番の風があるのだと思いたい。客席に観客がいることによって生まれる何ものか。

● 終演後,大井さんの挨拶があった。そのあと,アンコール。ヨーゼフ・シュトラウスのポルカ「憂いもなく」。
 ところで。大井さんの後任は田中祐子さんとのこと。これまた,ひじょうに楽しみ。彼女の指揮を年に2回,那須で見ることができると思うと,ちょっとワクワクする。