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2019年9月9日月曜日

2019.09.01 オーケストラ・ディマンシュ 第49回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 昨日に続いて,すみだトリフォニー。オーケストラ ディマンシュ。4月に続いて2回めの拝聴。
 じつは,今日は違うところに行くことにしていた。バッハのミサ曲を演奏するところがあって,そちらを予定に入れてた。
 のだが,昨日の「魁」の演奏会でもらったチラシの中にこれがあって,あっさり変更してしまった。変更した理由は,泊まっているホテルが水天宮前にあること。ここなら半蔵門線1本で来れる。予定してたところは乗り換えなきゃいけなかった。

● そうした即物的というか,言うも恥ずかし的な理由によるのだ。つまりは何でもいいのか,おまえは,と問われれば,何でもいいのだと答えるほかはないようなものなのだ。
 一応言っておくと,上述のとおり,この楽団の演奏は一度聴いているわけで,聴いて後悔することはないとわかっていたってのもある。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。
 曲目は次のとおり。指揮は金山隆夫さん。
 プロコフィエフ 交響曲第7番 嬰ハ短調
 サン=サーンス 交響曲第3番 ハ短調「オルガン付き」

● プロコフィエフの7番は“青春交響曲”と呼ばれることもあるそうだ。プロコフィエフ晩年の作品。
 で,そうと知って聴けばなるほどと思うとして,そういうことを知らずに聴いたら,はたしてこの曲に“青春”を感じ取れるかどうか。自分は感じ取れないだろうな。
 プロコフィエフの不思議なところは,スターリン統治下のソ連にわざわざ戻っていることだ。なぜそうしたのか。プロコフィエフにしかわからない。
 それをいえば,ショスタコーヴィチにも亡命のチャンスはあったはずで,それを活かさずにソ連にとどまったのはなぜかという話になる。親族に累が及ぶことを怖れたのか,そうではない理由があったのか。ショスタコーヴィチにしかわからない。ひょっとすると,ショスタコーヴィチにすらわからない。

● サン=サーンスの「オルガン付き」の前に指揮者の金山さんと奏者の髙橋光太郎さんのトークがあった。けっこう長目のトーク。
 オルガンについていくつかの蒙を啓いてもらった。とはいえ,ぼくらはしょせん聴くだけの人間であって,さてここで得た知識が聴くうえでどれだけ役に立つかというと,はなはだ心許ない。ま,知識というのはもともとそういうものではあろうけれど。
 髙橋さん,ボウデン「エレジー」を演奏してから,オケとの「オルガン付き」に。

● オルガンのレクチャーを聞いたあとだからか,オルガンの効果というか,ここでオルガンがこうかぶってくるのかというのが,わかりやすかった・・・・・・と思えたのは錯覚か。
 しかし,この曲はあくまで管弦楽曲であって,演奏の出来不出来を決めるのは,オルガンではなくて管弦楽だ。達者な演奏で聴くと気持ちがいい。
 アンコールもサン=サーンスの「糸杉と月桂樹」から“月桂樹”。オルガン付き。

● ゆえに,予定変更に後悔なし。
 ただし,おそらく,予定どおりでも後悔はなかったと思う。同時に2つを聴くことはできない以上,これ以外の結論は理論的にあり得ない。

2019年4月12日金曜日

2019.04.07 オーケストラ・ディマンシュ 第48回演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● オーケストラ ディマンシュ,すでに一度は聴いたつもりでいた。かなりの腕前だった記憶がある。ので,もう一度聴いておこうと,ぼくのスカスカの予定に入れておいたんでした。
 が,それが記憶違いで,今回が初めてだった。人間の記憶ってここまでいい加減なのか。ぼくだけかなぁ,これ。

● ともあれ。開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。
 曲目は次のとおり。指揮は金山隆夫さん。
 ビゼー 「カルメン」組曲より
 リヒャルト・シュトラウス 楽劇「サロメ」より “第4場への間奏曲” “7つのベールの踊り”
 チャイコフスキー 幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」

● 東京まで行って聴いてみようと思った理由のひとつは,この曲目にある。サロメの7つの踊りも,フランチェスカ・ダ・リミニも,生で聴ける機会がそうそうあるとは思えない。
 ぼくなんかCDでも聴いたことがない。どちらも他の曲とカップリングされて録音されているのが多いだろうから,CDじたいは持っていても,聴かないままで過ぎている。そういう人は多いのではないだろうか。

● ので,生で聴く前にCDで何度か聴いてみた。予習しちゃったよ,と。いいことじゃないかって。とんでもハップン。
 せっかく生で聴けるというのに,その前にCDで聴いてしまうのは,何ていうんだろ,愚劣という言葉はこういうことを指すためにあるっていうかな,阿呆なことをしてしまったよ。
 今まで聴くことがなかったんだから,生で聴いてからCDを聴くという順序にすべきだった。けっこう,後悔している。

● サロメはオペラそのものも見たことがない。が,“7つのベールの踊り”がどういうものかは知っている。ストリップなんだよね。上品にいうと,ストリップティーズ。
 シュトラウス自身は「徹底的に上品」にと規定していたようだけれども,実際にはなかなかね。この取り扱いが厄介なのは官能性が芸術(音楽にしろ美術にしろ)の核にあるものだからだ。官能性を感じさせないものは芸術にならない。たとえ,リンゴを描いた静物画であってもそうだ。
 宗教画ですらそうではないかと思っている。キリストの磔を描いた絵であっても,どこかに官能を宿していなければ,後生に残ることはないのではないか。

● さらに言い募ってしまうと,「サロメ」のこの場面について,あまりに哲学的な精緻な議論は不要だと思っている。オペラはもともと貴族の娯楽として発祥したものだ。脳みそに快を与えることが重要で,観客に考えさせるようでは,作品としては失敗だ。
 オペラは,誰でも楽しめる大衆性を有するものでなければならないという制約の下に誕生したものだろう。誰でも楽しめるものを,一部の貴族たちが正装して楽しみに行く。そこに観客(になり得る人たち)の密かな自己満足があったはずだ。

● 「サロメ」のような問題作についても,基本は変わらない。こういう場面は放っておけばよい。時々出るであろう跳ねっ返りも,そのまま放置しておけばいい。
 いずれ,落ち着くところに落ち着く。時代が動けば変わるかもしれないが,その場合もまた落ち着くところに落ち着く。

● ただし,官能性を完全消去するような演出はダメだ。それでは「サロメ」を殺してしまうことになるからだ。で,そのような演出がなされたことは,これまでただの一度もないはずだと思う。
 その官能性を器楽のみで表現することはできるか。理屈としてはできるはずだという結論になる。器楽って,ぼくらが思っている以上に雄弁で,場合によっては言葉の及ばない領域を抉りだすことがある。

● 理屈ではそうなのだが,この演奏を何らの予備知識なしで聴いたときに,ストリップを連想するほどの官能性を脳内でイメージできるかというと,それは難しい。
 スメタナの「モルダウ」を予備知識なしで聴いたときに,山間の清冽な流れがやがて大河となってプラハ城に至るイメージを構成できないのと同じだ。そんなことは不可能だ。

● チャイコフスキーの「ロミオとジュリエット」を聴くと,これを聴けばチャイコフスキーのすべてを聴いたことになると思うことがある。チャイコフスキーのすべてが投影されていると感じることが。
 「フランチェスカ・ダ・リミニ」ではそういう思いには至らない。チャイコフスキーはこういうこともするのかと思うだけだ。

● が,Wikipediaによると,チャイコフスキー自身はこの曲について「エピソードに刺激されて一時的なパトスで書かれた,迫力のないつまらない作品」と「自嘲気味な評価を下している」らしい。矜恃が言わせているんだろうか。
 作曲の契機になるのが“エピソードに刺激された一時的なパトス”ではダメなのか。大作曲家の考えることは,凡俗の徒には測りかねるところがある。

● この楽団には固定ファンが付いているっぽい。すみだトリフォニーの大ホールがほぼ満席。
 現時点で考えられるほとんど唯一の問題は,聴衆の過半を占める爺さん婆さんがホールに出て来れないほどに弱ったあとどうするのかということだ。さほど遠い将来の話ではない。ぼくにしてもあと15年だろうと思っている。もっと早く退役するかもしれない。
 ま,この問題はこの楽団に限ったことではない。年をとれば順繰りにクラシック音楽に興味を持つようになるという自然則があればいいのだが(この傾向はないわけでもないような気がするのだが),会社で仕事ばっかりだったサラリーマンが定年退職後にクラシック音楽に首を突っ込むことはあるにしても,それが長続きするかといえば,たぶんに疑問を呈さざるを得ないだろう。