2015年12月31日木曜日

2015.12.27 TBSK管弦楽団第5回定期演奏会

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● プログラム冊子の「インスペクター挨拶」に,楽団名の由来についての解説がある。「初顔合わせをとある居酒屋で行った際に,指揮・久世武志先生が手羽先を頬張りながら「手羽先オケなんてどう?」と仰ったことがきっかけで決まったのです」ってね。
 そうか。TBSKは手羽先(てばさき)と読むのか。指揮者が手羽先ではなくて,豚の串焼きを食べてたら,BTKY管弦楽団になってたのか。
 まぁ,そうじゃないよね。手羽先だったからサッと決まったんだろうな。あるな,そういうこと。その流れに乗ったほうがうまくはまるんだよね,そういうときって。

● 開演は13時30分。入場無料。ただし,チケット制。入場者を正確に把握したいということですか。
 曲目は次のとおり。指揮者は久世武志さん。
 R.シュトラウス 歌劇「サロメ」より7つのヴェールの踊り
 R.シュトラウス ホルン協奏曲第1番
 マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調

● 男性は黒のスーツにボウタイ。女性は黒のスカート(orパンツ)に白のブラウス。で,黒が勝っている。全体的に黒っぽい。
 つまり,女性より男性がずっと多い。そういうオーケストラって,こういうと女性には叱られるかもしれないんだけど,たいてい水準が高い。N響を御覧なさいっていう感じね。

● かといって,ウィーン・フィルとかベルリン・フィルは女性が少なすぎる。あれは何なんだろうね。
 ヨーロッパって案外,封建遺制を引きずってるところがあるんですか。サッチャーさんとかメルケルさんとか,女性が首相になったりしてるのにね。

● いや,そういうことではないんでしょうね。プロの演奏家になるには,小さい頃から英才教育を受けなければならない。日本だと女の子はそのチャンスに恵まれるけれども,男の子はそういうものから遠ざけられがちだ。
 ヨーロッパはそうじゃないってことなんでしょうね。歌舞音曲は女のものっていう空気がないのだろうな。想像で言ってるわけですけどね。

● この楽団が巧いのは,その前からわかってましたけどね。入場するときにね,スタッフの応対がね,巧い楽団のそれだったんですよね。それこそうまく言えないんですけどね,あるじゃないですか,そういうの。
 そもそもがね,ミューザで定演をやるっていうところでね,これはかなり巧いはずだよってわかるわけで。

● ホルン協奏曲のソリストは,イルジー・ハヴリークさん。チェコ・フィルのホルン奏者。こういう人を引っぱってこれるのもね,おそらく指揮者の久世さんの人脈によるものかもしれないけれども,この楽団の実力なのだろう。

● ところで,この楽団は首都圏の複数の大学の学部生,院生で構成されているようだ。音大ではなく普通の大学。
 インカレオーケストラってことになるんだろうか。おそらく,彼らの多くは所属する大学のオケ活動にも関わっているんだと思うんですよね。それに加えて,このオケにも入っている,と。
 所属大学のオケでは満たされないものがあるのか,精鋭だけでレベルの高い演奏をやってみたかったのか。それはどうあれ,この種の勤勉さをぼくは奇妙なものを見るような感じで受けとめる。自分にはなかったものだから。

● この演奏会を聴いたのはいくつかの偶然が重なった結果。それらの偶然に感謝。
 ちなみに,3曲のうち,最初に聴いた「7つのヴェールの踊り」が最も印象に残っている。文字どおり最初に聴いたからだ。清新な演奏でおぉっと思った。

2015.12.31 ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会2015

東京文化会館 大ホール

● この壮大かつ破天荒なイベントを4年連続で聴きに行っている。今年はどうするか。じつのところ,気がすんだ感もある。
 同じ日に同じ会場の小ホールではベートーヴェンの弦楽四重奏曲の演奏会が,これまた毎年行われている。さすがに16曲を一気に演奏するわけではないけれども,連続2回ですべてを聴くことはできるはずだ。

● ぼく的には弦楽四重奏曲ってハードルが高い感があって,そろそろそっちに動いて,“ハードル高い感”を払拭しておかないといけないなと思ったりもして。どっしようかなあ,と。
 結局,決められないまま12月を迎えた。

● 席はS・A・B・C・Dとあって,S席が2万円。あとは5千円きざみ。C席が5千円となる。D席は2千円。
 過去4回のうち,3回はヤフオクでチケットを入手している。今回も否応もなくヤフオクに頼った。C席を1万円でゲット。ヤフオクを通すとだいたい,こんなものになる。
 C席は4階の左右両翼席がメインになるようなのだけど,1列目と2列目では天地の差になる。たとえ倍払ってもいいから,1列目に座りたい。ヤフオクにその出物があれば,倍額覚悟で取りにいく。

● えっ,だったら,正規にB席を取った方がいいんじゃないですか,って。そりゃそうだ。「チケットぴあ」でも扱っているんだから,発売開始日にパソコンかスマホにはりついて,正規料金でCの1列目を狙えばもっといいのだと思う。
 ま,今回は最後まで迷っちゃったもんだから。

● でね,会場に着いてしまえば,何で迷っていたんだろう,来る一手だったじゃないかと思うんですよね。大晦日の午後から深夜まで,これ以上はないと思える豪華メンバーの演奏で,ベートーヴェンの交響曲を1番から9番まで聴けるのだ。
 日本を代表する音楽ホールのひとつであろう東京文化会館にしても,今日ほどの華やぎを見せるのは,年に何度もないのではないかと思われる。その華やぎの中に自分を滑りこませる快感っていうのも,たしかにある。

● ともあれ。結局,5年連続5回目の拝聴とあいなったわけね。開演は午後1時。陣容は,ぼくが聴き始めた2011年からまったく不動。
 指揮は小林研一郎さん。管弦楽は「岩城宏之メモリアル・オーケストラ」で,コンマスはN響の篠崎史紀さん。奏者の入替えはあるのだろうけど。

● C席とはいえ,1列目だから視野をさえぎるものがない。邪魔な他人の頭もない。ステージからの距離は少々あるけれども,S席の最もしょぼい席よりはこっちのほうがいいんじゃないかなぁと思う。
 たしかなことはわからないけどね。S席なんて座ったことがないんだから。
 今まではずっと左翼席だったんですよ。それが今回は初めての右翼席。コンマスの篠崎さんをはじめ,ヴァイオリン奏者が正面に見えることになる。この光景も新鮮だった。

● こんなブログを書いていると,演奏や指揮についてああだったこうだったと,まぁ,あれこれ書かなくちゃと思うものだから,それ前提で聴いてしまうことになる。
 で,今回はそんなことを書くのはやめようと思った。これほどの演奏について素人が小賢しいことを書いても仕方がない。
 ただ聴こう,心をむなしくしてたんに聴こう。そう思った。

● 1番の第1楽章。ヴァイオリンが正面に見えることの効果。弓を扱う腕の動きのきれいさ,敏捷さがストンと伝わってくる。
 さらに,気持ちの乗せ方,あるいは自分の解釈の表現の仕方といったもの。
 まぁね,ここまで言ってしまうと,それは君の勘違いか思いこみだよ,と自分で突っこみたくもなるんだけどね。

● 第3楽章に入ったところで,1万円の元は取れた感じがした。このあと,1番の第4楽章から先は,そっくりぼくの利潤になる。
 2番の第1楽章を聴いているとき,ぼくの左目からツーッと涙が流れたのがわかった(右目からは流れなかったな)。どう処理していいのか,ぼくの脳が対応できないとき,こういう身体反応が出るんだと思う。
 でもね,2番の第1楽章ですよ,どう考えても泣くところじゃないでしょ。自分の身体反応ながら,理解に苦しむところだ。ただし,こういうときって,身体反応が正しくて,理解なんてどうでもいいんだろうなとも思うんですよ。

● コンマスの篠崎さんの貫禄というか,ありゃあ凄いね。指揮者も彼を立てて,彼を通してオーケストラに対峙していこうとしているように見えた。
 彼が入ってくるとき,先に待機しているメンバーはゴッドファーザーのテーマを奏でてもいいんじゃないですか。彼の所作とゴッドファーザーのテーマはピッタリはまって,客席は大いに沸くに違いない。

● でも,あれだ,このオケが常設だと仮定して,メンバーが篠崎コンマスの言うことを聞くだろうか。たぶん,聞きやしないね,このメンバーは。
 チューニングのときの“音くれ”の合図や,終演後の“全員立て”の合図にはしたがうだろうけど,それを越える指示に対しては,無視をもって応えるんじゃないかな。
 無視はしないか。反論するだろうね。言葉をもって言いたいことを言いそうな感じだな。
 いやいや,もちろんわかりませんよ。わかりませんけど,そんな感じなんだな。

● 4番が終わったあとに,主催者の三枝さんが登壇。プログラム,2,000円するんだけどさ,面白いこと書いといたよ,役に立つと思うからさ,よかったら買ってよね,という口上。
 今までは,この他に,奏者を呼んでインタビューしたりっていうのもあったんだけど,今回はそれだけにとどまった。

● あとは,小休止,中休止,大休止をはさみながら,淡々と進んでいく。1番から4番までが1部,5番と6番が2部,7番から9番までが3部,という感じ。
 人によっては,9番を4部とする向きがあるかもしれないけど。

● 自分は今とんでもない演奏を聴いているのだぞ,と言い聞かせてみる。淡々と進むから,あるいはチケット代がかなり抑えられた価格だから,どうもありがた味が上昇してこないきらいがあるけれども,今聴いている演奏は凄いんだぞ,と。
 指揮者もオケの演奏に付いていくように棒を振っていると思われるところもあったし。

● 最後は「第九」。「第九」の陣容も昨年と変わらず。合唱は武蔵野合唱団。ソリストは,森麻季(ソプラノ),山下牧子(アルト),錦織健(テノール),福島明也(バリトン)の諸氏。
 唯一,バリトンの青戸知さんが体調が悪くなったらしく,福島明也さんがピンチヒッターに立った。
 管弦楽も合唱団もソリストも,もう何も言うことがない。素晴らしいとはこういうことだ。

● 今回は年明けに10分ほど残して,年内の終演になった。
 このあと,ロビーコンサートがある。ヨハン・シュトラウスのワルツをいくつか。
 どんだけサービス精神に富んでいるんだか。っていうか,サービス精神だけではここまでやれないと思うので,やらせるだけのドーパミンが出ているはずだよな。

● じつはロビーコンサートまで聴いたのは,これが初めてだった。2016年の大都会の空気を吸いながら,大晦日の定宿になっているホテル(ただし,カプセルホテル)に向かった。

2015.12.28 宇都宮大学管弦楽団第80回定期演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後7時。チケットは800円。
 さて,ここでつまらない,あまりにつまらない話をしなければならない。いや,しなければらないってことはぜんぜんないんだけど,しておきたい。
 初めてこの楽団の演奏を聞いたのは2009年の7月,第67回の定演だった。そのとき,アンケートに答え,アンケート用紙に住所と氏名を書いてだした。
 ら。次からは招待状のハガキが届くようになった。

● が,どうもその,タダで聴くってのが面白くない。チケットは800円なのだから,その800円を払ったうえで聴きたい。
 終演後に指揮者とコンマスに花束を贈呈することが多いじゃないですか。自分が払った入場料が,その花束の花の1本の何分の1かに化けているんだなと思えたほうが気持ちがいい。払っていないと,あれは人のお金で成りたっているもので,自分はまったく与っていないなと思わなくちゃいけない。あまり愉快ではない。

● 大学オケってカンパを募るところもあったりする。宇大オケもそれをやってくれれば,安んじて招待状で聴けるんだけど,ここはそういうことはやらないようだ。
 となると,招待状があってもチケットを買って入場することにするか。

● ところが,ここでまたイジイジと考えてしまう。招待状を出すにも手間とコストがかかっているはずだ。最低でも52円の郵送料はかかるんだし,プリンターのインク代とかね,細々とかかる。何より時間がかかる。
 そうやって投函してくれた招待状を使わないのも申しわけないのじゃないか。気持ちは千々に乱れるわけね。

● でね,チケットを買ったうえで,招待状で入場したこともあるんですよ。でも,これもどこかおかしい。神経症的な感じも受ける。
 結局,チケットを買うのと招待状で入場するのを,交互に採用することにした。今回はチケットを買う番。
 長々とした前振りは以上で終わり。

● 曲目は次のとおり。
 ヴェルディ 歌劇「ナブッコ」序曲
 チャイコフスキー バレエ組曲「くるみ割り人形」
 ブラームス 交響曲第1番 ハ短調

● 指揮は北原幸男さん。貴族的な顔立ち。藤原摂関家の血筋につながるんじゃないかっていうようなね。
 って,そういうことはどうでもよくて,指揮者って反射神経とスピード感なんだと思うんですよね。頭なんか使ってたんじゃ音楽は停まってしまう。
 彼のシャープな動きを見て,そう思う。

● 「くるみ割り人形」は優美であるよりも骨太であることを優先したようだった。なるほどねと思いながら聴いてたんだけど,ピンぼけな感想かもしれない。

● 現在まで残っている交響曲の中で,最も質量(=エネルギー量)の大きい曲はどれか。ベートーヴェンの第九でもなく,マーラーでもブルックナーでもなく,ショスタコーヴィチの7番でもなく,ブラームスのこの第1番ではないかと思うことがある。
 構想20年は関係ないはずだ。サラサラ書いたか苦吟したか。それと作品の質量とは何の関係もない(と思う)。
 けど,ブラームスの1番に関してだけは,ブラームスの長きにわたる怨念というか焦りというか魂というか,それが練り込められて質量に転化しているようにも感じられる。

● こういう曲に対面するとき,奏者側はどう覚悟するんだろうか。覚悟っていうか,気持ちの始末をどうつけるのか。
 どんな楽曲でも,演奏するときには,それ相応の気持ちの整理が必要で,この曲に限った話ではないんだろうけどさ。

● 弦を中心にOB・OGが助っ人に入っていた。それもあってか,あるいはそれがなくても同じだったか,きっちりと大人のブラームスになっていた。
 大人のブラームス? 何だそれ? 書いていて自分で突っ込みを入れたくなった。
 安定していた。少しくらい押されても崩れないぞっていう感じの演奏だった。
 ますますわからないね,これじゃね。

● 曲が奏者をインスパイアするってことが絶対にあると思う。ステージの奏者たちがブラームスにインスパイアされていたと思われた。
 集中,そしてまた集中。それはインスパイアの結果であったか。

● アンコールはブラームス,ハンガリー舞曲からおなじみの5番。満足した。満ち足りたという意味の文字どおりの満足だ。
 いやいや,800円払ってチケットを買って良かったよ。

2015年12月21日月曜日

2015.12.19 真岡市民交響楽団 第52回定期演奏会

真岡市民会館 大ホール

● 事情はあったのだけれど,真岡市民交響楽団の定演を聴くのは,1年半ぶりになってしまった。われながら不本意だ。
 東日本大震災で壊滅的な打撃を受けた真岡市民会館も復旧した。その復旧なった真岡市民会館に出向くのも,今回が初めてだ。
 こけら落としは昨年7月のN響の演奏会だったのだが。

● ここでちょこっと言い訳を言わせていただくと,わが家には車が1台しかなく,その1台は奥さまがお使い遊ばされている。
 わが家から真岡までは30㎞弱。近いのだ。車が使えれば。が,その車が使えないとした場合,公共交通機関利用はほぼ論外となる。
 ないわけではない。ないわけではないのだけれども,公共交通機関を使うと,真岡は東京よりも遠いところになってしまう。

● ではどうするか。自転車だ。自転車で行くのにピッタリの距離なのだ。ただし,天気が良ければ。
 で,この日は天気が良かったのだ。やれやれ。

● リニューアルというか,すっかり新しく建て替えられた市民会館。バリアフリー化が徹底され,音響も良くなり,トイレ等の付帯施設もレベルアップ。
 椅子も長時間座っていても疲れないタイプのものになったような気がしたけれど,これは勘違いかもしれない。
 特に,音響は劇的に改善された。今回は1階席で聴いたけれども,この構造なら,次は2階席で聴いてみたい。

● 開演は午後6時。すっかり暗くなってからだ。チケットは500円。当日券を購入。
 曲目は次のとおり。指揮は佐藤和男さん。
 エルガー 威風堂々第1番
 ボロディン 中央アジアの草原にて
 ディーリアス 楽園への道(歌劇「村のロメオとジュリエット」から)
 シベリウス 交響曲第2番

● 緻密なアンサンブルをめざすのは,どこのオケでもやっていることだと思う。このオケもそうであることは言わずもがな伝わってくる。
 問題はどこまでめざしたところに到達できたか。あるいはめざしたところには行けなかったとしても,どれだけ粘れたか。
 それは演奏に現れるものだろう。というより,本番の演奏に現れるものって,ほとんどそれだけではあるまいか。

● それゆえ,巧けりゃいいでしょってものでもなく,稚拙だからまるでダメだねってものでもない。聴くべきものはそれ以外にもある。
 もし技術の巧拙だけしか味わうものがないというのであれば,ステージで,つまり聴衆の目の前で,演奏する意味合いはゼロになる。
 とは言わないけれども,その意味合いが相当減殺されることにはなりそうだ。

● ステージのきわに薄い幕をめぐらせて,演奏しているところを見えないようにしたら,ライヴで聴く意味の8割は失われるだろう。ステージが発している音はそのまま伝わってくるとしても。
 視覚から入ってくるものが大きい。その視覚で感知できる情報の主たるものが,練習でどこまで粘ったかといった,そのあたりの履歴なのではないか。
 ただし,その視覚情報は攪乱要因でもある。視覚に騙されることがある。聴く側としては,自分の視覚に騙されないようにしないとね。

● この楽団が聴衆に提供してくれるものは,その履歴の大きさだ。と,こちらは勝手に思っている。緻密なアンサンブルをめざして粘った,その粘りの長さ。
 おそらく,真面目な団員が多いのだろう。緻密をめざしながら,色を付けたり艶を加えようとする跳ねっ返りはいないようだ。基本に忠実だ。
 このあたりも好ましく映る。緻密から自ずと現れてくる色や艶が個性なのであって,故意に出した色や艶は下品なだけだ,という言い方でもいいかもしれない。

● 真面目な人たちの集団で,跳ねっ返りはいないようなのだけれども,ディーリアスを引っぱってくる人はいるんだな。過去にはウォーロックを演奏したこともあった。
 こういうのって,ぼくが知らないだけで,知る人ぞ知るの存在なのか。そんなことはないと思うんだけどね。

● シベリウスの2番はここのところ,何度か聴く機会に恵まれた。楽譜が同じでも,できあがる音楽は同じではない。真岡には真岡のシベリウス。
 しかも,平成27年12月19日の真岡のシベリウスであって,他では聴けない。そのとき,その場所に,自分を運んでくることを厭わなかった者だけが,聴くことができる。

2015年12月16日水曜日

2015.12.13 第8回栃木県楽友協会「第九」演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 今年で8回目になるこの第九演奏会。ぼくは第2回から聴いている。第4回は聴けなかったので,今回が6回目になる。
 ぼく的には年中行事になった感がある。この時期は第九。演奏するほうもそうでしょうね。この時期には第九を演奏するもんだって。8年間続いているんだからね。

● 今回もメインホールがほぼ埋まった。「第九」は間違いなくお客さんを呼べる鉄板なんだけど,それでも年々わずかずつ,空席が増えているようにも思われる。すべての催事には飽きが忍びよるものだってか。
 ということより,問題はもっと具体的で,新規参入者がいないのだろうな。高齢で外に出れなくなった人がいるはずだ。その分を補うだけの新規参入者がいない。そういうことなのだと思う。

● が,それはぼくが考えたところで,どうなるものでもない。ぼくは自分が楽しむことだけを考えればいいのだ。
 そう。楽しめばいい。休日の午後,カフェでもなくレストランでもなく,デパートでもなく遊園地でもなく,コンサートホールに来るのは楽しめると思うからだ。

● 管弦楽は栃木県交響楽団。厳密には違うらしいのだが,まぁ栃響と言ってしまっていいのだろう。指揮は荻町修さん。
 ソリストは,高島敦子さん(ソプラノ),栁田明美さん(メゾ・ソプラノ),上野尚徳さん(テノール),村山哲也さん(バリトン)。
 合唱団は栃木県楽友協会合唱団。第1回からずっと皆勤している団員もいるのではないかと思う。

● 「第九」の前に,ワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲。
 毎年,同じ曲を演奏していても,年によって出来不出来ができることは避けられないはずだ。演奏開始後早々に,今回の演奏がどのくらいの出来になるか,奏者側は見当がつくんだろうな。
 なぜかというに,客席にいてもわかるんだから。

● 今回の演奏は第1楽章が始まってすぐに,けっこうすごいことになるんじゃないかと思わせた。
 ぼくは第1楽章が最も高揚する。第1楽章が終わると,あぁ第九を聴いたな,と思う。
 今回は聴きごたえのある第1楽章になった。第1楽章が終わったあと,客席から拍手が起きてしまったけれども,拍手したくなる気持ちには共感できた。

● 第1にオーボエの功績であり,第2にフルートの功績であり,第3にクラリネットの功績であり,第4にホルンの功績である,と単純化したくなるんだけれど,そういうものではないよねぇ。
 木管やホルンから引き継いだあとの弦の豊かさ。艶やかにうねって,密やかに沈んでいく。

● 「第九」は毎年一度ならず聴くものだから,ぼくとしては一番ポピュラーなクラシック楽曲になっている。ぼくに限らず,そういう人は多いのではないかと思う。
 で,馴染みがあるものだからつい,奏者に求められる技術の高さのことを忘れてしまう。この曲をここまで演奏してもらって,それを1,500円で聴かせてもらえれば,聴衆はもって瞑すべし,かもしれないよね。

● 途中,何事もなくとはいかないにしても,順調に進んで,第4楽章。
 あの有名な旋律が現れる。コントラバスとチェロが奏で,ヴィオラに引き渡し,1stヴァイオリンが引き継ぎ,ついには管弦楽全体が響かせる。この間の荘重感は,ベートーヴェンというより音楽界が,あるいは人類が,到達しえた最高地点のひとつかもしれない(というと,最高がいくつもあることになって,言葉的には具合が悪いんだけど)。

● 人の声はあらゆる楽器を超えて,聴衆の耳目をひくもので,合唱が登場してしまえば,その場を支配するものは合唱になる。
 中でもソプラノが目立つ。独唱も合唱も。高島さん,リラックス感をただよわせていた。

● この「第九」を聴くと,今年の終わりが見えてきたような気になる。だけど,まだ24分の1は残っているんだよね,今年が。
 諦めちゃいけないよ。まだ,終わってないよ。と,自分に言いきかせておく。

2015年12月14日月曜日

2015.12.12 モーツァルト合奏団第17回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。入場無料。

● 曲目は次のとおり。
 ヘンデル 合奏協奏曲第12番 ロ短調
 ラター 弦楽のための組曲 ニ長調
 モーツァルト ディヴェルティメント ニ長調
 ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第8番 ハ短調

● ぼくのおめあても,最後のショスタコーヴィチ。ひじょうに気になる作曲家でありながら,実際に聴くことは少ない。実聴するのにけっこうハードルを感じさせる。
 15ある弦楽四重奏曲も,そのすべてをCDで聴こうと思えば聴ける環境にある。今どきだから,CDなど持ってなくても,ネットで拾うことができるだろう。音源は無料で手に入る時代だ。
 なのに,なかなか聴くことをしないでいる。

● 共産ソヴィエトに生きて,しかもスターリンと同時代。これが面倒なイメージを彼に与えてしまっている。今回のプログラム・ノートの曲目解説にも面倒なことが書いてある。
 表向きには「ファシズムと戦争の犠牲者」に献呈するように見せつつ,圧政により精神的荒廃に追い込まれた自身への献呈として,1960年7月12日から14日のわずか3日間でこの曲を作曲したのである。
 3日間で作曲したのはそのとおりだとして,それ以外はそのとおりなのかそうではないのか,厳密には誰にもわからない。上の解説にも何かの典拠があるんだろうけど(っていうか,Wikipediaのコピペなんだけど),その典拠もたぶん想像の産物のはずだ。

● このあたりが彼の面倒なところだ。できれば,この面倒なところとはあまり関わりたくない。
 で,関わらないのが正解なのだと思う。ショスタコーヴィチが置かれた環境は考えないで,音楽だけを聴いてみる。それで,どう感じるか。
 気楽に構えてCDを聴けばいいのだ。ショスタコーヴィチについては,それ以外に対面の仕方がないのではないか。

● 実際のところ,ショスタコーヴィチのように生命の危機に具体的にさらされたことはないとしても,深刻な苦悩を抱えていなかった作曲家などいないに違いない。
 作品を味わうのに作曲家の内面との関わりをよすがにしてしまうのは,こちら側の想像の放埒を許すことでもある。他人の内面などわかるはずがないのだから。彼本人にもわからないことのほうが多いだろう。

● そんなことを考えて,実聴するのを逡巡する。その点,ライヴだと否応なく聴かされるから,優柔不断なぼくのような者にはありがたいわけだ。
 実際に聴いてみると,まず感じるのは緊迫感だった。苦しくなるほどの。というと,少し大げさかもしれない。が,息をするのが辛くなるような感じは受けた。

● 弦楽四重奏曲全般について,ぼくには苦手意識がある。ベートーヴェンであれ,チャイコフスキーであれ, ドヴォルザークであれ。
 弦楽四重奏曲っていうのは,“違いのわかる男”じゃないと楽しむのは難しいのじゃないかな,っていうね。
 このショスタコーヴィチの8番は,むしろ曲としてはわかりやすいように思う。情景が浮かびやすいという点で。

● 演奏する側は何度も練習したろうから,この曲はよくわかっているはず。
 で,モーツァルトのディヴェルティメントを演奏しているときから,気持ちはショスタコーヴィチに行っていたってことはあるんだろうか。次はショスタコか,っていう。
 いや,モーツァルトのこの曲もけっこう重く感じたものですからね。もっと軽い曲じゃなかったかなと思って。

● ラター「弦楽のための組曲」はたぶん,初めて聴く。楽しい曲だった。

● ヘンデルはバッハとの比較で語られることが多い。が,ヘンデルはヘンデルで,曲作りの職人という感じですよね。
 いろいろ聞かされて予備知識ができてしまうのも考えものだ。まっさらな状態で聴きたいものだ。

2015年12月10日木曜日

2015.12.08 Ave Maria in Christmas-サンクトペテルブルグ室内合奏団

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後6時半。チケットは4,500円。座席は指定される。メインホールで料金は一律。
 行こうか見送ろうか,当日まで決めかねていた。

● が,どうやら行けそうだ。となれば,行けるときに行っておけ。というわけで,総合文化センターに自分を運んでいくことにした。
 客席は,平日の夜であることを考えれば,まぁこんなものかと思われる入り。2階席や1階の両翼席はガラガラだった。一律料金であればいい席から埋まっていく。
 でも,“いい席”もけっこう残っていて,当日券でもぜんぜんOKだった。聴く側としてはありがたいんだけどねぇ。

● 6時半開演ということは,夕食を食べる暇はないわけで,したがって,腹がくちて眠くなるってことはない。もし眠くなるなら,別の理由に寄るものだ。

● さて,この合奏団,率いるのはイリヤ・ヨーフ氏。ハープを入れて17名。うち,男性が9名。
 今回の日本公演は5日を皮切りに25日まで。東京オペラシティを中心に19回の公演。今日は3回目。

● サンクトペテルブルグ室内合奏団とはいっても,当然ながら,スラブ人だけで構成されているわけではない。もっとも,スラブ人っていうのが雲を掴むようなもので,よくわからないんだけどね(それをいうなら日本人だって同じじゃないか,と言われるのかも)。
 毎年,だいたい同じプログラムで,この時期に来日公演しているようだ。宇都宮に来るのは今回が初めてなのか。

● まず,ヘンデル「合奏協奏曲(作品6-5)」の第1楽章。バッハ「G線上のアリア」。巧いのはわかる。ただ,客席との距離が思うように縮まらない。
 客席もステージの腕前を計ろうとしている感じでしたかね。

● これを一気に打開したのが,次のヘンデル「オンブラ・マイ・フ」。ソプラノのナタリア・マカロワ,登場。彼女の声と美貌が客席をググッと引き寄せた。
 これで客席とステージの間に一体感が生まれた。

● ハッペルベルのカノン。合奏団も楽しそうで,ぼくもこの曲を聴いて,楽しいと感じられるようになりたいなと思いましたね。
 つまり,今は楽しいと思えないわけで,たぶん頭で聴いちゃってるんでしょうね。頭で聴いていいんだけども,頭の中にとどまっているというかね。

● バッハ(グノー編曲)のアヴェ・マリアで,再び,ナタリア嬢が登場。客席はどうにでもして状態だったのではないか。ステージの彼女は気分が良かったはずだ。
 歌い終えて袖に引っこむときに,彼女の背中が見えるわけだ。肩が張っている。なで肩が多い日本人女性とは骨格が違う。こういう骨格の持ち主と競わなければならない声楽家は大変だな。
 と思いがちなんだけど,たぶん,そんなのは関係ないんだろうな。

● 日本人には向かないスポーツと言われてきたテニスでの錦織の活躍を見ると,日本人には向かないとか,文化的に合わないとか,そんなのは,その時点での状況を説明するための方便でしかなかったのだなとわかる。
 確たる理由があるわけではなく,印象を語っていたに過ぎないのだろう。運動中は水を飲むなとか,身体を鍛えるにはウサギ跳びがいいといったことと同類で,同じことが,音楽でも言われていたりはしないんだろうか。
 声楽家は太っていたほうがいい,とか。こういうのは事実によって否定されたと考えていいのか。

● マスネ「タイスの瞑想曲」のあと,レスピーギの「シチリアーナ」。ローマ3部作以外に,こういうしっとりと歌うような曲もレスピーギは作曲しているんですよね。CDも持っているのに,聴かないできちゃったなぁ。

● カッチーニのアヴェ・マリアで,ナタリア嬢,三度目の登場。
 終わって袖に消えていく彼女を目で追いながら,こういう女性と対等に渡り合える日本人の男性が,これからはどんどん出てくるんだろうなと思った。
 スポーツとかバレエとか音楽とか,そうした分野で渡り合えるっていうにとどまらず,世界を舞台に生活したり恋愛したりできるっていう意味。

● 今までの日本男児って,内弁慶で,大和撫子しか恋愛対象にできずに,しかも内部では威張るしか能がない的なイメージがあったじゃないですか。だけど,これからは日本を超えて世界に通用するライフスタイルを備えた日本男児が出てくるじゃないかと思ってるんですよ。
 女性は昔からそういうコスモポリタンを輩出してきたじゃないですか。これからは,男性からもどんどん出そうな気がする。根拠は何もないんですけどね。
 にしても,ナタリア嬢は色々とこちらの想像を刺激してくれる,魅力に満ちた女性でありますよ。

● ヴィヴァルディの「四季」より“冬”。この合奏団流の演奏なのだろうか。それともこれがオーソドックスな演奏なのか。CD(イ・ムジチ)で聴いている音とはけっこう違うところがあったように思ったけれど。

● 以上で前半が終了し,15分間の休憩。
 後半の最初は,バッハ「シンフォニア」。ソプラノは選手交代し,後半はマリーナ・トレグボヴィッチさん。風味絶佳。

● モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(第1楽章のみ),チャイコフスキー「エレジー」(弦楽セレナーデ 第3楽章)と進み,グノー「私は夢に生きたい」でマリちゃん再び登場。
 「エレジー」は,今回の数多くのプログラムの中で,ぼく的には最も聴いて良かったと思えたもの。

● サン=サーンスの「白鳥」。はい,チェロが素晴らしかった。若い頃のさだまさしが,この曲をパクっていたというか,自分の曲の中に取りいれていたなぁ。
 マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」より“間奏曲”。そのあとに,3曲目のアヴェ・マリア。最後はシューベルト。
 続いて,モーツァルト「ハレルヤ」。マリちゃんの熱唱が続いた。

● 後半は,駆け足で通り過ぎてしまってけれど,聴きごたえがあったのは,後半にむしろ多かったように思う。
 ぼくら観客が合奏団に慣れてきたからだろうね。ここが大きいと思う。で,慣れてきた頃は,もう終盤に入っているというのがお約束ごと。

● アンコールは,ナタリア嬢とマリちゃんの二人で,モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。
 そのあと,「きよしこの夜」を二人が途中まで日本語で歌った。途中で何語なのかわからなくなった。それくらいでちょうどいいのである。
 投げキッスを振りまきながら二人が去って,最後は,合奏団だけでチャイコフスキー「12月クリスマス週」。

2015年12月8日火曜日

2015.12.06 第6回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 東邦音楽大学・東京音楽大学・国立音楽大学

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 今回の音楽大学オーケストラ・フェスティバルもこれが4回目。つまり最終回となる。3回目に行けなかったのは残念だけれども,4回中3回行ければ,上々だろう。僻遠の地(栃木)から行くわけだし。

● 今回の会場はミューザ川崎。国内のコンサートホールのすべてに行ったことがあるわけではないけれど,ぼくが行った中では,座っていて一番気分がいいのが,ここミューザだ。
 座席の間隔が他よりあいているわけでもない。どうして気分がいいと感じるのかよくわからないんだけど,でもともかく気分がいい。
 あるいは,スタッフの多くが発散している柔らかさのようなものが与って力あるのかもしれないと思ってみたりする。

● 東邦がシベリウスの2番,東京音大がムソグルスキー(ラベル編曲)「展覧会の絵」,国立がラフマニノフの2番。シベリウスの2番は,先月8日に洗足学園も演奏しており,「展覧会の絵」は武蔵野音大が演奏している。
 ダブりをなくせないかなどと言うつもりはない。まったく問題はない。何度聴いてもいい曲だもんね。
 ただし,こちら側に両者を比較するというベクトルが生まれてしまいかねない。このベクトルだけは自分の中に存在することを許してはいけないと思うだけだ。

● まず,東邦音楽大学管弦楽団。指揮は田中良和さん。
 シベリウスの2番は彼のイタリア滞在の果実だ,とはよく言われることだ。実際そうなんだろうけど,この曲から感じるのはどうしたって北欧の澄んだ空気がベースになったものだ。遠くまで見晴らしがきくような風景,あるいは森林。そういったイメージが湧いてくる。
 透明で涼やか(ときに冷涼)で,雑踏や原色的風景とはほど遠いもの。

● ロシアに対するフィンランドの反発や独立心を示しているとの解釈を見ることもあるけれども,ぼくにはそういうところは感じ取れなかった。その時代にはそう思えたのかもしれない。
 このあたりは,当時の空気を共有した人にしかわからないところがあるのだろうと思うほかはない。

● 東京音楽大学シンフォニーオーケストラ。指揮は現田茂夫さん。
 元々はピアノ曲。辻井伸行さんの演奏をCDで聴いた程度。それはそれでしっとりするんだけれども,やはり管弦楽版のほうを聴きたくなる。
 ラヴェルのオーケストレーションの巧さ,すごさを思い知ることになる。輝度の高さは誰もが認めるところだろう。これはムソグルスキーの功績なんだろうけど,大衆性も備えている。

● 第2曲で登場するサクソフォン。華々しく活躍したあとは,最後まで出番がない。その間,背筋を伸ばして凜として座っていたのが印象的。
 これ,できそうでなかなかできないことじゃないですか。

● 国立音楽大学オーケストラ。指揮は尾高忠明さん。
 国立というと,声楽が注目されることが多いという印象。ところがどっこい,器楽も相当なもの。このラフマニノフは熱演というのか,見事な集中とアンサンブル。

● 緩徐楽章はあまりにも有名だけれども,ぼくには正直,ピンとこないところがあって,自分の感覚を疑いたくもなっていた。みんながわかるところを自分はわからないのか,ってね。それならそこに居直るしかないな,と。
 が,今回わかりましたよ。いいんですね,これ。いいんですよ。
 この楽章を支える屋台骨はクラリネットとオーボエだと思えたんだけど,そのクラリネットとオーボエがね,艶っぽかったですね。艶っぽい,この言い方がピッタリくるように思う。

● 長生きしたいと思った。長生きして,こういう演奏を聴きたい。生命が迸っているような,若い彼らにしてもそう何度もはできないであろう,こういう演奏を。
 そのためには長生きしなきゃ。足繁くホールに足を運ばなきゃ。ムダ弾を何発も撃つのは覚悟のうえで。そうすると,たまにこういう演奏に遭遇できる。

2015年11月30日月曜日

2015.11.29 COCKTAIL BAR R-METS

ホテル アール・メッツ宇都宮 5Fラウンジ

● カクテルを飲みながらジャズを聴くという催し。午後3時からと5時からの2回制。5時からの部に参加。
 カクテル2杯とおつまみが付いて,チケットは1,000円。かなりお得というか,限りなくタダじゃん,これ,みたいな。

● 主催者はJR。この催しを知ったのも,最寄駅にあったチラシでした。
 演奏者は,島田絵里(フルート),長島佑季(ピアノ),瀬戸竜介(ベース)。

● 島田さんのフルートは「青少年の自立を支える会」のチャリティーコンサートで何度か(といっても2回か)聴いたことがある。彼女のフルートが聴けるんだったら,これは行く価値があるでしょ。
 というわけで,事前に申し込んでおいた。

● 至近距離で彼女のフルートを聴くことができた。自在闊達っていうんでしょうね。どんな注文でもお受けしますよ,っていう感じ。
 聴いてる絶対量があまりに少ないからなんだろうけど,これがジャズなんだっていうイメージがこちら側にない。これがそうなんですよと言われれば,あぁそうなんですか,と答えるしかないっていう。そこが隔靴掻痒っていうか,なんとなく乗り切れない部分を作ってしまう。

● ジャズファンってけっこう年輩者が多いのかと思ってたんだけど,これは当たってもいそうで,そうではないようでもあった。
 今回は1,000円でカクテルが2杯飲めるんでね,そっちに惹かれて来たお客さんもけっこういると思うんですよね。若者のグループもいたし,女性の二人連れもいた。一方で,けっこうな年輩の男性もいて(ぼくもそうなんだけど),客席の年齢はかなりばらけていたようだ。

● そのカクテル。好きなものを自由に注文できるのかと思っていたんだけども(もしそうなら,ギムレットを2杯飲もうと思っていた),この時間内でそんなことができるはずもなく,カクテルは予め定められていた2種。
 ひとつは,苺(とちおとめ)を使った甘めのカクテルで,もうひとつはアキュム(烏山線に導入された蓄電池駆動電車の愛称)という名称の,これもやや甘めのサッパリ系,涼やかな色合いのカクテル。ロンググラス(というかコップ)に注がれる。

● つまみもホテルクオリティー。経費節減の気配を感じるところもあったけれども,その分,あ,これは工夫かも,と思わせるもので,ぼく的にはまったく満足。
 これで1,000円なら,先に申しあげたようにタダみたいなもの。またやってくれないかな,と思った。

● 何だかんだいって,JRにはお世話になっている。ぼくは車の運転をあまり好まないので,それとわりと酒を飲むほうなので,宇都宮に出るにも電車を使う。
 電車の中で飲む缶酎ハイはどうしてこうも旨いのかと思う。動くパブタイム。時に朝から飲むことがあるんだけども,じつにもって極楽だ。
 車を運転してたんじゃ,これはできない。運転士が電車を運転してくれるからこそだ。お世話になっていますよ。

● それに電車の中は(座れればだけれども)最高の読書室になる。若い頃は,車内で本を読むためにだけ電車に乗ることもあった。こういうとき,「青春18きっぷ」は魔法のような威力を発揮する。
 電車は移動の手段にとどまるものではない。(特に山手線がそうなのだが)世相を知るためのスペシャルボックスであり,美人を盗み見れる眼福の部屋でもある。
 ぼくの知らない使用法がほかにもあるに違いない。

2015.11.29 県立図書館第151回「県民ライブコンサート」-弦楽アンサンブルとファゴットによるコンサート

栃木県立図書館 1階ホール

● 昨日(11月28日)は音楽大学オーケストラフェスティバルの3回目の演奏会(ミューザ川崎)があった。全4回のうち,この3回目が最も楽しみにしていたものだった。
 桐朋がストラヴィンスキーの「火の鳥」を演奏したんだからね。

● のだが,ここ数年間,とりわけここ1年間はわが家は火宅になっている。檀一雄的な「火宅」ではないんだけど。
 で,28日はぼくにとっても愚妻にとっても,そして豚児にとっても,おそらく生涯忘れることのできない1日になってしまった。あるいは,これが良い方向に向かう転機になるかもしれないけれど。逆に,ドツボにはまる契機になってしまうかもしれないけれど。

● が,それから1日明けて。明日からまたゴタゴタするんだろうけど,今日1日は壺の中から天を眺めていられる。
 で,栃木県立図書館主催のミニコンサートに出かけてみた。

● 「ららっつあんさんぶる」の弦楽(+ファゴット)合奏。メンバーは次の人たち。
 大和俊晴(ファゴット),螺良マサ子(第1ヴァイオリン),斉藤礼子(第2ヴァイオリン),小野博子(ビオラ),矢野茂生(チェロ)。
 賛助で,増山一成(コントラバス),澤田奏恵(チェンバロ)のお二人。澤田さんを除くと,メンバーの平均年齢は60代の半ばってところだろうか。要するに,ベテランのグループだね。

● 曲目は次のとおり。
 第1部
 ハイドン セレナーデ
 ドヴォルザーク ユーモレスク
 赤とんぼ,冬の夜,荒城の月,故郷,川の流れのように
 久石 譲 魔女の宅急便より「海の見える街」

 第2部
 マスカーニ 「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲
 君島 茂編曲 四季の詩(花-夏の思い出-もみじ-冬景色)
 ヴィヴァルディ ファゴット協奏曲 ホ短調 RV.484

● 第1部では「海の見える街」が白眉。ファゴットの大和さんとコントラバスの増山さんの演奏。お二人とも,宇短附音楽科から藝大に進んだ。増山さんは読響のOBだそうだ。
 切れのいいファゴットと伸びやかなコントラバス。
 加えて,大和さんは県立高校の校長先生まで勤めあげた人のようで,喋りが上手。ファゴットの特徴までわかりやすく解説してくれた。

● 第2部ではヴィヴァルディのファゴット協奏曲を聴けたのがまず,収穫だった。3楽章とも演奏。この曲はCDも持っていない。
 こういうときって,一期一会だと腹を決めて聴いたほうがいいんでしょうね。これはあとでCDを入手して聴き直そうとか考えないで。

● ちなみに主催者が用意した椅子はすべてうまった。っていうか,足りなくなっていくつか追加したようだ。地元では知る人ぞ知るの演奏団体だったのかもしれない。

2015年11月24日火曜日

2015.11.22 コンセール・マロニエ21 20周年記念コンサート

栃木県総合文化センター サブホール

● コンセール・マロニエ21が発足して,今年で20年になる。で,「これまでの上位入賞者の中から各分野で活躍中のアーティストを招き,記念の演奏会を開催します」というのが今回のコンサート。
 楽しみにしてたんですよ。どのくらい楽しみにしてかといえば,チケットを二度買ってしまったほどに。早々に買ってたんですよね。それなのに,そのことを忘れてて,もう一度買ってしまった。
 余ってしまったチケットは友人にもらってもらえたので,基本,損失は出さなくてすんだんですけどね。

● このコンサート,開演は午後3時で終演予定は午後6時半。普通のコンサートの約2倍の長さ。弦,ピアノ,木管,金管,声楽の各部門から「上位入賞者」を招いてプログラムを組み立てるとすれば,このくらいの長さにはなるんだろう。
 これで2,000円なんだから,かなり美味しいコンサートだと思っていた。

● けど,ぼくのような者でも,時によんどころない事情に襲われる。わかっていても行けないっていうやつ。
 で,いったんは諦めたんだけど,その友人からまだ間に合うからと言われて,気を取り直して出かけた。もちろんそれで正解で,ぼくが会場に到着したのは5時を過ぎていたけれども,後半を聴くことができた。

● このコンサート,3部構成だったんだけど,ぼくが聴いたのは第2部の途中から。トリオ・ラ・プラージュ(ピアノ:渚智佳,ヴァイオリン:田口美里,クラリネット:近藤千花子)の演奏からだった。
 チャイコフスキーのバレエ組曲「くるみ割人形」。全曲ではなく,トリオ・ラ・プラージュ(主には渚さんだと思うが)が編曲した圧縮版。

● それから,バルトークの「コントラスツ」。この曲はピアノ,ヴァイオリン,クラリネットの三重奏曲だから,まんまの演奏が聴けたはずだ。
 この曲名のコントラスツというのは,ヴァイオリンとクラリネットの対比ってことだろうか。ピアノはちょっと退いた位置にあるようだ。
 20世紀の曲だけれども,こちらが予想するような展開にはなってくれない。ジャズっぽいところもあって,変幻自在な感じもあり。そうなるとぼくにはついていくのが難しい。

● 久しぶりにお三方の演奏を聴けて嬉しかった。ぼくはライヴを聴くようになってから比較的早い時期に,田口さんの演奏でメンデルスゾーンのホ短調協奏曲を聴いて(第1楽章だけだったけど),鳥肌が立つような思いを味わったので,個人的に少しばかりの思い入れがあるんですね。

● 休憩後に第3部。シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」。ヴァイオリンが田口さん,ヴィオラが大島亮さん,チェロが金子鈴太郎さん,コントラバスが岡本潤さん,そしてピアノが渚さん。
 このメンバーでこの曲を聴くのは,今回が最初にして最後になるはずだ。ぼく的にはオールスターチームだ。奏者の5人もオールスターゲームのようにリラックスしているように思われた。
 そりゃそうだね。このコンサート自体がお祭りのようなものなんだからね。

● でもね,こうなると聴けなかった前半が残念に思えてきますね。逃した魚は大きいに決まっている。
 牛腸さんたちによるエワルド「金管五重奏曲第3番」があったわけだし,大貫裕子,村越大春,秋本悠希,寺田功治の4人による“乾杯の歌”もあったわけでね。

● コップの水を半分飲んで,まだ半分も残っていると思う人と,もう半分しか残っていないと思う人がいるとは,よく言われることだ。前者がポジティブ,後者がネガティブ思考の持ち主だと言われるんでしょ。ぼくははっきり後者に属するタイプ。

● まぁ,しかし,後半だけでも聴けてよかったですよ。諦めないで出かけてよかった。

2015年11月23日月曜日

2015.11.21 ギターとヴァイオリンの出会い

さくら市ミュージアム エントランスホール

● 昨年の今頃,宇都宮の東武百貨店でヴァイオリンコンサートに出くわした。百貨店の売り場の一画で,店内の雑踏が入りこむ中だったけれども,ホールで聴くのとはまた違った面白さをたたえたコンサートだった。
 演奏者と観客の距離が近いうえに,少人数だったものだから,演奏者の息づかいや気持ちの切り換えのようなものまで伝わってきた。ライヴ感が大きいということ。

● 今回,このコンサートを知ったときに,思ったのはそのことだった。ああいう距離感でまた聴けるのかっていう。
 で,自転車で出かけた。開演は午後2時。ミュージアムの入館料が300円かかるけれども,それ以外に費用は要らない。

● だが,しかし。大変な人出なのだった。主催者が予め用意した椅子では足りなくなるほどで,ホールには収まりきらず,展示室のほうまで列ができたのではないか。
 ぼくの席もけっこう後ろのほうになった。

● 演奏者はギターが渡邊洋邦さんで,ヴァイオリンが渡邊弘子さん。
 まず,洋邦さんが登場して,ヴァイス「ファンタジー」,ルビーラ「愛のロマンス」(映画「禁じられた遊び」に出てくる有名すぎるメロディーですな),タレガ「アルハンブラの思い出」の3つを演奏。
 当然ながら,座って演奏する。演奏会用の専用ホールではないから,客席に段差はない。ぼくの席からは彼の演奏している姿はまったく見えなかった。距離が近いどころではない。

● この3つはギター曲では最もポピュラーというか,よく知られたものなのだと思う。ぼくにとってはそうではないんだけどね。
 その音色がともかく直接響いてくるわけで,CDだったらここまで身を入れて聴けたかどうかわからない。否応なく(たぶん不充分だろうけど)集中させてくれるのがライヴのいいところだね。

● このあと,渡邊弘子さんが入って,ギターとヴァイオリンのアンサンブルになった。弘子さんの首から上はぼくの席からも見えたので,だいぶ気が楽になった。
 気が楽になるというのも変な言い方だけど,奏者が見えるって大事なこと。ライヴの価値の何割かはここにあると思う。

● 映画音楽を3曲演奏して,ピアソラの「タンゴの歴史」。このコンサートの白眉はここにあったといっていいでしょうね。
 楽章ごとに解説を入れるというサービスぶり。解説は最初にまとめてやってもらって,曲は通して演奏したほうがよかったかなとも思う。が,このあたりは難しいところで,これが正解というのはないんだろうな。

● 「タンゴの歴史」はCDを持っていたんでした。が,今まで聴いたことがなかったんですよ。「リベルタンゴ」一辺倒でね。
 こうして軌道修正を促してくれるのもライヴの恩恵のひとつだ。ライヴを聴きに行って,そこで初めて出会う曲って相当以上にある。そのすべてを以後聴くようになるかといえば,そんなことはもちろんないんだけど,それでも今回のような経験をすることがあるわけで。

● 洋邦さんも弘子さんも,音楽に投じてきた時間は膨大なはずで,それあればこその高みにいるんだと思う。聴衆にはどうしたってわかってもらえないことも,多々あるのじゃないか。
 であれば,孤高の音楽家的な雰囲気があっても不思議じゃないと思うんだけども,そういう演奏家って見たことがないんですよね。
 演奏を具体化するためには聴衆の存在は絶対で,演奏家は聴衆へのサービス業という色合いを免れない。相手がお客さんとあれば,愛想も振りまかなければならない。

● って,そういうことではなくて,もともと陽性の人が多いような気がする。今回のお二人もそうで,「サービス」を苦にしないというか,自分が偉いなんて思っていないというか,演奏や音楽については圧倒的な差があるはずの聴衆とイーブンなやりとりが自然にできるようだった。
 それを社交性と呼ぶんだろうか。よくわからない。

● おそらく,演奏ってぼくが思う以上に運動性が強いものなのだろう。“演奏=スポーツ”と捉えると,演奏家はアスリートであって,しじゅう身体を動かしている人だ。
 つまらぬことで内向しないクセが早期にできるのではないかと推測している。

2015年11月20日金曜日

2015.11.19 羽石道代プラス山本楓-ヒンデミット生誕120周年を記念して

栃木県総合文化センター サブホール

● 山本楓さんのオーボエを聴いてみたいと思った。と思ったからには,一度は聴いたことがあるわけだ。2年前のコンセール・マロニエで聴いている。
 そのコンクールでは彼女は2位。なぜ1位じゃなかったのか,ぼくにはよくわからないんだけれど。

● とにかく,山本さんのオーボエをまた聴くことができるとなれば,たとえ平日でも行くしかないでしょ。
 開演は午後7時15分。チケットは2,500円。当日券を購入。

● このコンサートは,羽石さんが主催する「羽石道代プラスシリーズ」の8回目。コンセール・マロニエで山本さんのピアノ伴奏を務めたのも羽石さんだった。

● 曲目は次のとおり。
 バッハ 無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調
 バッハ トッカータとフーガ ニ短調
 ヒンデミット イングリッシュホルンとピアノのためのソナタ
 ヒンデミット 組曲「1992年」
 ヒンデミット オーボエとピアノのためのソナタ
 (アンコール) バッハ 羊は安らかに草を食み

● 「無伴奏フルートのためのパルティータ」を山本さんがオーボエで演奏。黄金色の響きがホールに充ちた。それだけで気がすんでしまった。
 あとは,たぶん,ボーッと聴いていたはずだ。

● 羽石さんとの合奏が2曲(アンコールを含めれば3曲)。満足だ。
 若干気になったのは,山本さんの人がらの良さ,お嬢さんっぽさ。競い合いになると,自ら一歩退いてしまうようなところがあるんじゃないかな,と思わせるところがあった。
 いや,これは勇み足の感想ってことになるんだろうな。そんなところまでわかるものか。

● ヒンデミットは初めて聴いた。今回聴いた3曲については,CDも持っていない。
 ぼくは音楽を聴き始めたのがかなり遅かったので,聴いた絶対量があまりにも少ない。バッハ,モーツァルト,ベートーヴェンにしたって,すべてを聴いているわけではない。っていうか,聴いていない曲の方がずっと多い。
 が,その少ない中にも,繰り返して聴きたい曲がいくつもある。

● ヒンデミットのほかにも,ニールセンやファリャなど気になる作曲家はいるんだけれど,なかなかそこに分け入ることができない。
 お気に入りを繰り返し聴くほうに向かってしまう。

● 音楽を聴くこと以外にも,時間を使いたいことはいくつかある。困ったことに,ぼくに残された時間はそんなに長くはない(と思う)。
 中途半端なままに終わるのだろう。最期の息を引き取るときには,後悔の塊に襲われるに違いない。アレは最初から捨てればよかった,あそこでちゃんと突っ込むんだった,あそこで逃げるかおまえ,と,まぁ,色々と。

● かといって,意識して“選択と集中”に向かうのは,どこかが違うような気がする。気がついたら,選択して集中していたというのが理想だろうけど,凡人にはなかなか以上に難しい境地だね。

● とはいえ,今日聴いたヒンデミットの曲はCDを揃えたいね。熱が冷めないうちにCDを聴いておさらいをしておきたい。
 おさらいをして,その後は一度も聴かなかったってことになってもいいから。

2015年11月17日火曜日

2015.11.15 第6回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 上野学園大学・東京藝術大学

東京芸術劇場 コンサートホール

● 「首都圏9音楽大学と2つの公共ホール(東劇とミューザ)が連携して行う音楽大学オーケストラ・フェスティバル」の今回は2回目。開演は午後3時。

● まずは,上野学園大学。指揮は下野竜也さん。
 曲目は次のとおり。いずれも「死者の追悼のために書かれた」もの。
 ストラヴィンスキー 管楽器のためのシンフォニーズ(1947年版)
 ペルト カントゥス-ベンジャミン・ブリテンの思い出に
 ブリテン シンフォニア・ダ・レクイエム

● 木管と金管だけが入って,「管楽器のためのシンフォニーズ」。プログラムノートの楽曲紹介によれば,「ドビュッシーを追悼して」という副題が付されている。
 静かに時が過ぎていく。

● 「カントゥス-ベンジャミン・ブリテンの思い出に」もまたしかり。「三和音の純粋な響きと単純な旋律の反復」なんだけど,奏者は気を抜けない。
 「弦楽合奏の清冽な響き」とは楽曲紹介に出てくる言葉の引き写し。そのとおりで,清冽という言葉がじつにピッタリくる。

● 下野さんの指揮ぶりはどう表現すればいいだろう。かつて将棋で,中原は自然流,米長は泥沼流,谷川は光速流と言われた。そのひそみに倣えば,火の玉流とでもいうか。
 内に秘めて,秘めたところを表現するのではなく,ありったけを外に出す。出してオケにぶつける。同時に,奏者に気にするなとか,そうそうそれでいいんだという,指示や評価も示す。

● 藝大はR.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を持ってきた。指揮は山下一史さん。
 一言もって評すれば,しなやかな演奏だった。そう,しなやか。二十歳をいくらか超えたくらいの年齢の若者たちのオーケストラだからこそ,と思えた。
 いやいや,それにしたってこうまでしなやかな演奏はそうそう聴けるものではないように思う。

● それを典型的に体現していたのがコンミスで,ぼくはもう呆れてしまった。
 こういう演奏を見せられると,さすがに藝大の底力はすごいという印象になる。

● こうして,音大フェスティバルの前半が終了。次回は所を替えて,ミューザ川崎で11月28日。

2015年11月11日水曜日

2015.11.08 第6回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 武蔵野音楽大学・洗足学園音楽大学

東京芸術劇場 コンサートホール

● 今年も開催される首都圏の音楽大学オーケストラ・フェスティバル。著名な指揮者が音大の学生オケを率いて競演する。チケットは1,000円。破格の安さだ。ぼくは通し券を買っているので,750円。
 問題は,自分を会場まで運んでいくための電車賃が3,790円ほどかかること(自治医大駅でいったん降りて,「休日おでかけパス」を買う)。しかし,それでも聴きに行く価値は充分にある。今回で3年目になる。

● 初回の今日は,武蔵野音楽大学と洗足学園音楽大学。開演は午後3時。
 武蔵野音楽大学管弦楽団はシベリウスの2番。指揮は梅田俊明さん。

 今,ここで演奏している学生たちの多くは,演奏家ではない道を進むのだろう。そこは音大だからといって他の学部とあまり異なるところはないだろう。
 問題は,法学部や経済学部,文学部といった普通の学部であれば,普通に高校生をやっていればいい。そのために意識して抑制することなど何もなくてすむ。何もなくてすむと言い切ってしまっていい,とぼくの経験から言っておく。

● ところが,音大に入るためには,子どもの頃から楽器をやっていなければならない。1年か2年,受験勉強的に楽器の練習をして入れるものではないだろう。
 楽器の練習のために,やりたいと思ったのにやれなかったことも多かったに違いない。そこが普通の学部とは違う。

● 入学前に投じてきた時間と労力(たぶん,お金も)がまるで違うのだ。加えて,入学時にすでに進路の幅を大きく制限されることを,自ら受け入れているように思われる。会社員や公務員といった普通のサラリーマンになりたいとは思っていないだろうから。
 入学後も,法学部や経済学部の学生は勉強などしないですむけれども,音大だとレッスン漬けになるのではないか。入学後の過ごし方も他とはだいぶ異なるものになる。

● にもかかわらず,学生の多くはサラリーマンになる。そこの屈折はいかほどのものなのか。案外,そういうものだと受け入れているのかもしれないけど。
 そういう目で見てしまうからなのか,ステージの学生たちに純なるものを感じてしまう。ま,こちら側のたんなる感傷なのだろうけどね。

● してみれば,多くの学生にとっては,今回の演奏が今までの20年近いあれやこれの体験の集大成なのだろう。
 プロの演奏家になるのでもない限り,卒業後にこれまでと同じ質量のレッスンを継続することは難しいはずだから,それぞれ自分史上最高の演奏をするのが今回なのかもしれない。

● という気持ちでシベリウスを聴く。しみじみとした演奏だった。終演後はいくつかブラボーの声が飛んだ。ぼくの隣のお父さんも叫んでいた。

● 洗足学園音楽大学管弦楽団は「展覧会の絵」。指揮は秋山和慶さん。
 3日にも聴いたばかりの曲だ。そのときは,サクソフォンをクラリネットと間違えるというチョンボを犯した。
 今回はそこはさすがに誤らなかったけれども,さて,どこまで聴けたものやら。

● ぼくはプロオケの演奏はさほど聴いた経験がないので,あまり語る資格がないんだけど,たぶん,プロの演奏を聴いても,ここまで襟を正す気持ちになるかどうか。
 演奏に載せているものの大きさ。それが彼らは違うように思う。そこが直截に伝わってくるというか。
 終演後はこちらも疲れている。もちろん,心地のいい疲れではある。

● ただし,それもこちらの感傷のせいかもしれない。聴くという行為にもたぶん創造的な部分があるのだと思うけど,そこを聴き手が自在に操れるものではないのだろう。

2015年11月5日木曜日

2015.11.03 ル スコアール管弦楽団第39回演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 2年前の7月に34回目の演奏会を聴いた。それ以来の二度目になる。
 そのときは,ベートーヴェンの7番をやってから,ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を演奏したのだった。ベートーヴェンでこちらの聴く体力はほぼ消耗してしまって,「ペトルーシュカ」にはまったくついていけなかった。

● そのことを思いだしながら,今回のプログラムを見てみる。
 ムソルグスキー 禿山の一夜(原典版)
 ムソルグスキー(ラヴェル編) 展覧会の絵
 ラフマニノフ 交響曲第3番
 「展覧会の絵」の管弦楽版を全曲聴いたあとに,ラフマニノフの3番が来る。最近のコンサートって,交響曲を2つとか,重量級のプログラムが多くなっている印象があるけれども,それにしても。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。指揮は橘直貴さん。
 客席は満員御礼。前回もそうだった。ル スコアール管弦楽団は,都内にあまたあるアマチュアオーケストラの中でも,屈指の水準を誇る楽団のように思われる。このあたりはお客さんはよくわかっているのだろう。

● 「展覧会の絵」の第2曲。クラリネットのソロが素晴らしいと思った。クラリネットでこんな音が出せるのかとシミジミした。が,その後,そのクラリネットの出番がない。あれっと思ったら,クラリネットじゃなくてサクソフォンだったんでした。
 クラリネットとサクソフォンを間違えますかねぇ,普通。ま,その程度の聴き手だってことですなぁ。

● そのような聴き手であっても,クラリネットあらためサクソフォンの音色は印象的だった。ここはムソルグスキー,じゃなくてラヴェル,のうまいところなんだろうか。
 ここだけ,じつにここだけは他の楽器ではダメで,サクソフォンでなければならない,と。それが功を奏しているってことなんですか。

● そうだとしても,ムソルグスキー(じゃなくてラヴェル)云々と言えるには,それが言えるだけの演奏水準が確保されていることが前提で,その前提が成立していると,聴き手の想像の領域が拡がる。遊びの余地が大きくなる。
 それがつまりいい演奏ということになる。今のところは,そう思っている。

● ラフマニノフの2番は聴く機会が多いけれども,3番はそうではない。生で聴くのは今回が初めて。
 おおらかにゆったり構えている部分もあり。時にマーラーを連想させるところもあり。めまぐるしいところもある。プログラムノートの曲目解説には「狂詩曲風」という表現があったけれども,なるほどと思った。
 何度か聴かないと,腑に落ちてこなそうだ。というわけで,これは自分の宿題になった。

2015年11月4日水曜日

2015.11.01 くるみの会創立40周年記念 特別演奏会

宇都宮短期大学 須賀友正記念ホール

● くるみの会音楽振興会というのがあって,それが創立40年を迎えましたよ,と。その特別演奏会を開催しますよ,と。
 そのくるみの会がどういう経緯で設立されてどんな活動をしているのか,詳しいことはぼくは知らない。

● この演奏会を聴いてみようと思ったのは,著名なピアノ協奏曲が4つも聴けるから。
 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番 ハ短調
 グリーグ ピアノ協奏曲 イ短調
 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調
 ウェーバー ピアノ小協奏曲 ヘ短調

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。

● バックを務める管弦楽が素晴らしかった。「くるみの会音楽振興会が主催する栃木県ピアノコンクールのコンチェルト部門本選会でのオーケストラパートを受け持つために2009年に結成されました」とあるんだけれども,指揮は増井信貴さんで,コンサートミストレスは北川靖子さん。ファゴットには東京フィルの古澤真一さんがいるし,ヴァイオリンには大久保修さんの顔もあった。宇短大の先生方も加わっているようだ。
 栃木県ピアノコンクールのためにここまでのオーケストラを設えるのは,くるみの会の実力か。

● この管弦楽を聴けただけでも,2,000円の元は充分以上に取れた感じ。この管弦楽で,ベートーヴェンのピアノ協奏曲を2つも聴けたんだから。
 管弦楽の質の高さを堪能できたことと,ベートーヴェンの怪物性を再確認できたことが,今回の演奏会の収穫。
 かつてなかった交響曲を9つも作り,弦楽四重奏曲を16,ピアノ協奏曲を5つ。とんでもない多作。量は質に転化するというけれど,転化を待つ必要もない。ベートーヴェンの場合は。最初から質を備えているんだから。

● まずはベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。管弦楽が主旋律を重厚に奏ではじめる。これで掴みは充分だ。曲の然らしめるところだけれども,その曲を支えるのがオーケストラの表現力。
 ピアノは宇短大附属高校1年の飯野愛純さん。曲が進むにつれて,彼女がどんどんきれいになっていく。もちろん,こちら側の錯視ということになるんだけど,不思議な光景を見るような気がした。

● 次のグリーグでは,第1楽章のみ宇大2年生の阿部光希さんが弾き,あとを松本明さんが引き継いだ。さすがに位が違う。彼のピアノを聴けたのも,また今回の収穫。

● ベートーヴェン5番のピアノは鈴木奈穂さん。この曲はあまりに高名だけれども,ぼく的には3番のほうが好きだ。食いついていくのにとっかかりがあるっていうか。
 食いついていくという聴き方はどうなんだろうという問題が別にあるけれど。

● ウェーバーのピアノ小協奏曲。ピアノは坪山恵子さん。ここまでの演奏ができるようになるまでに費やした時間と労力を考えると,ため息がでそうになる。
 分け入って行くにも勇気が必要な分野かもしれないなぁ。どんな分野でもそうかもしれないんだけれども,音楽の演奏ってそこのところが見えやすいんだと思う。
 趣味でやっている分にはいいけれども,これを仕事にしようとするところまで行くと,茨の道を覚悟しなければならない。

2015年10月31日土曜日

2015.10.30 小菅優ピアノ・リサイタル

栃木県総合文化センター サブホール

● 先週の24日にコンセール・マロニエ21のピアノ部門の演奏を聴いたばかり。ぼくにはそれで充分すぎる,というのもおこがましいほどだ。
 ぼくのような耳しか持っていない者に,小菅さんのピアノを聴かせるのはいかがなものか。聴かせる甲斐があるのか。
 と思いながらも,3千円を投じて,総合文化センターのサブホールに出向いた。開演は午後6時30分。

● 平日の午後6時半といえば,多くの人たちは仕事に追われているはずだ。こういうときに悠々と出向ける人というのは,第一線を退いて年金で暮らしている人,時間が自由になるビジネスエリート,逆に出世を見切ってドロップアウトに甘んじているかそれを良しとしている人,のいずれかではないかと思う。
 ぼくがそのいずれに属するか,言わずもがなのことである。
 とはいえ,時間のやりくりをしての結果だろう,直前にあるいは遅れて駆けつけてくる人もけっこうな数いた。

● ともあれ。音楽雑誌で見知っているとおりの小菅さんが登場。ペコリと一礼して,ピアノの前に。
 曲目は次のとおり。
 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第5番
 ブラームス 4つのバラード
 ショパン 12の練習曲

● 茂木健一郎さんがよくお使いになる言葉,ホームとアウェイ。今回は小菅さんにとってはホームの最たるものになるのだろう。
 自分のリサイタルだと知って,それを聴きにくるお客さん。自分を指名してくれたお客さんばかりだ。そのお客さんを相手に弾けばいい。
 幸せな時間なのではないかと想像する。

● 観客にとっても同様だ。聴きたいと思ってチケットを買ったのだ。その聴きたい人の演奏が聴けるのだ。観客にとってもまた,この場はホームである。
 というか,ホームしか選ばない自由がお客には保証されているわけだ。いやなら,チケットを買わないだけだもんな。

● さて,小菅さんの演奏を聴いての感想。ターボエンジンを3基ほど積んだスポーツカーだ。加速がすごい。いや,加速以前の問題か。スッと集中モードに入る。その集中度が並みじゃない感じがした。
 演奏するときに集中しない人なんていないだろう。だれもが集中しているはずだ。が,その度合にはたぶん人によって浅深があるはずで,たくまずして深い集中に入れるかどうか。それがつまり才能ってことなのかもしれないと思った。

● 息を詰めて演奏する場面ももちろんある。その詰めた様子が客席にも当然伝わってくる。聴くほうも息を詰めて彼女の演奏を見守ることになる。
 が,当然ながら聴く側は彼女の集中にはついていけない。それがもどかしくもあり,癪の種でもある。

● ベートーベン,ブラームス,ショパンと弾きわけるわけだけれども,そのどれもが小菅優なのだった。これをもっと煮詰めていくと,バッハのゴルドベルク変奏曲におけるグレン・グールドに行きつくのかもしれない。そこに行くのがいいのかどうかは別として。
 って,そういう単純な話じゃないんでしょうね。単純化は観客の特権だけれども,奏者からすればだいぶピンぼけた話になるんだろうな。

● アンコールは次の2曲。
 シューマン 献呈
 ショパン エオリアン・ハープ
 小菅さんはホームを満喫したように思われた。

● このレベルになってしまうと,ぼくに書けることなんてほとんどない。にもかかわらず,こんなブログなんかを書いていると,書かなきゃと思って聴いてしまう。それが聴く楽しみを相当減殺しているのじゃないかと思う。
 こちらも聴く楽しさを満喫したい。ステージの演奏にすべてを委ねてウットリしたい。書かなきゃっていうのがあると,そこに賢しらな知を入れてしまうんだな。われながら愚かなことだと思う。このあたりは本当に考えどころだなぁ。

2015年10月26日月曜日

2015.10.24 第20回コンセール・マロニエ21 本選

栃木県総合文化センター メインホール

● 客席にいると,ステージに対して,批評家や評論家,審査員になりがちだ。ちゃんとした評論家や審査員なら,それに相応しい技能や資質を備えているはずだが,観客の多くは,ぼくをはじめとしてだけれども,そうではない(ように思える)。
 ビールを呑みながらテレビでプロ野球を観戦して,監督の采配にあれこれ言っているお父さんと同じ水準かと思われる。その水準での評論モドキや審査モドキだ。

● プロ野球でも球団がファンサービスに努めるように,プロ・アマ問わず演奏する側は客席にいろんなサービスをする。ぼくはあまり好きじゃないんだけど,演奏前に行う指揮者トークとかね。
 何といっても需要が伸び悩んでいる。霞を食べて生きていくわけにはいかないんだから,需要喚起・集客に努めなければならない(一方で,フライング拍手に対する啓発とかもしなきゃいけないんだから大変ですな)。要するに,観客を甘やかせてあげないといけない。

● 客席にいればお客さんだ。お客は強いものだ。何を言っても,相手方が強く反論してくることはない。安全地帯に身を置いていられる。安心してなんでも言える。
 だからこそ,客席側としても,評論家モドキや審査員モドキに墜ちることを回避する努力をすべきなのだと思う。
 プロ野球の監督なんかとても務まらないのに,現役監督の采配の結果が出たあとに,だから言わんこっちゃないっていうような,後出しジャンケン的なみっともない所業は慎まなければならない。

● 評論家や審査員の立場に自らを置くことには快感がある。上から目線で語る快感を味わえる。地面すれすれの実力しかないのに,他者を批判すると,その他者の高みまで昇ったような錯覚に浸ることができる。
 簡単にその錯覚に行かないようにしたいと思う。大人だろ,おれたち。

● というようなことを時々考える。
 今回はコンクールだ。れっきとした審査員がいるわけだ。彼らはぼくら観客とは違って,それぞれ専門家だ。
 その専門家と観客では鑑賞眼はもちろん違うとして,それ以外に見方そのものが違うはずだ。審査と楽しみでは,自ずと聴き方が変わる。
 だから,公表された審査結果に対してオヤッと思うこともあるんだけれども,これはそのような理由によるもの。

● 問題は,こうしたコンクールだと,ぼくらまでいっそう審査員の目線になりがちなこと。こういうときにこそ,審査員の目線から離れて,若き演奏者が紡ぎだす音楽を楽しみたい。
 どこまでそれに徹することができるか。大げさにいえば,それが自分との勝負だと思っている。ま,勝負っていうと,その時点で固くなりすぎていると思うけど。

● 開演は正午。今回はピアノと金管。このコンクールはピアノ,声楽,弦,管を2つずつ開催している。管は木管と金管を相互にやっているので,木管と金管は4年に一度ということになる。
 このコンクールを聴くのはこれが6回目になるんだけど,前回の金管は聴き逃している。
 会場はメインホール。審査する側ではメインホールでの響きを確認したいんだろうから,会場をサブホールに変えることは考慮の外であるはずだ。

● 終演は午後5時。無料でタップリ聴ける。しかも,普段は聴く機会がない曲を聴ける。考えようによってはかなり美味しいわけで,そのせいかどうかは知らないけれども,年々,観客が増えているように思う。
 以前はほんとにチラホラとしかいなかった。ここ2年ほどはガラガラではあるんだけどチラホラではない。

● まず,ピアノ部門。出場者は5人。
 トップバッターは久保亮太さん。シューマン「ピアノ・ソナタ第1番」の第1楽章と,ラヴェルの「クープランの墓」より“1.プレリュード”“5.メヌエット”“6.トッカータ”。シューマンからラヴェルに移ったときの印象が鮮烈。当然,これは曲調によるもの。ラヴェルの絵画的なっていうか,ラヴェルだとすぐにわかるポンポンと弾むようなっていうか,シューマンとの対比がくっきりしてて,それも選曲の理由かと思った。が,これは穿ちすぎというものでしょうね。
 まだ18歳。曲と対話しているというか戯れているというか,誤解を恐れずにいうと楽しそうに弾いていたのが印象的。

● 次は木邨清華さん。藝大の4年生。曲はプーランクの「ナゼルの夜会」。こういう曲を聴けるんだから,このコンクールは観客的にも美味しいわけだ。
 ピアノだから,奏者を側面から見ることになる。そのラインが美しい人だった。見栄えがする人だと思った。

● 中島英寿さん。桐朋の2年生。ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」の主題による15の変奏曲とフーガ。それとバルトークの「戸外にて」から“4.夜の音楽”“5.狩”。
 ベートーヴェンさん,こんなんでいかがでしょう,よろしいでしょうか,と言っているかのような演奏。
 これまでの3人もそうだったし,これから登場する人たちもすべてそうだったんだけど,コンクールで緊張しているといった様子はうかがえない。普段どおりというか落ち着いているというか。むしろリラックス。
 たいしたものだと思うが,いまさら平常心を失うのは困難なほどに,こうした場数は踏んできているんでしょうね。評価される場に慣れているようだった。

● 中村淑美さん。東京音大の4年生。曲はラフマニノフのピアノ・ソナタ第2番。この曲をそっくり聴けるというわけだ。
 スッとやってきて,サラッと弾いて,いかがでしたかという風情でサッと去って行く。ファインプレーをファインプレーに見せない技術の持ち主。

● 最後が井村理子さん。出場者の中では最年長。シューベルトのピアノ・ソナタ第19番の1,2,4楽章を演奏した。
 技術はもちろん,表現力というんだろうか,演技力といってもいいのかもしれない,客席への差しだし方まで一点の隙もないほどに考えているという感じ。群を抜いていたように思う。
 が,このコンクールは彼女にはそぐわないようにも思えた。ここの1位を狙いに来るような人ではないのじゃないか。

● 次は金管部門。ファイナルに残ったのは8人。ホルン2,トランペット3,チューバ3。
 まず,ホルンで森井明希さん。東京音楽大学3年。演奏したのはF.シュトラウスの「ファンタジー」。
 この曲もそうだけれども,以後に出てくる曲はすべて今回初めて聴くものだった。そりゃそうだ。金管がメインの曲を普通のコンサートで聴くことはまずもってないわけだから。それぞれの楽器分野では超有名な曲なんだろうけど,ぼくにはまったく不知の世界。
 森井さん,ドレスではなく練習着(?)で登場した。ぜんぜんOKだと思う。ただ,ドレス効果というのはあるんだね。愛くるしいお嬢さんという印象だったけど,これがドレスだったらきちっとレディに見えたはずでね。

● トランペットの椎原正樹さん。桐朋の2年生。ピアノ伴奏は岩瀬成美さん。ひょっとして桐朋の同級生だったりするんだろうか。
 トランペットって金管における百獣の王,ライオンのようなものなんですか。まっすぐに音が届いてくる。

● 続いてトランペット。刑部望さん。男性。今年,早稲田の文学部を卒業したらしい。一方で,桐朋のカレッジディプロマコースにも在籍中。
 演奏したのは,J.ギイ・ロパルツ「アンダンテとアレグロ」,V.ブラント「コンサートピース」。はぁ,こういう曲もあったんですかって思う程度の聴き手なんだな,こちらは。
 ピアノ伴奏は刑部佳子さん。ひょっとして彼のお母さんなのかもしれない。

● チューバの西部圭亮さん。東京学芸大音楽科の2年生。ヤン・クーツィール「チューバとピアノ小協奏曲」。ピアノは渡辺悠莉子さん。
 チューバという楽器。ドがつくほどの迫力があるということはわかった。が,それしかわからなかった。
 西部さんは,とにかくイケメンで,それが際立っていたものだから,そっちのほうに気が行っちゃってましたね。羨ましいなぁ,と。これをあと10年20年と保てたら,すごいことになるんじゃないか。

● ホルンの江村考広さん。クロール「ラウダーツィオ」,グリエール「ロマンス」,フランセ「ディヴェルティメント」。
 ホルンは難しい楽器だと推測はつく。名手はその難しい楽器を使って安定した音を出すのだ。そのあたりまではわかるんだけど。

● トランペットの鶴田麻記さん。藝大の3年生。テレマン「トランペット協奏曲」とジョリヴェ「トランペットとピアノのためのコンチェルティーノ」。ピアノ伴奏は下田望さん。
 彼女,子供の頃はヒダリマキッと呼ばれてからかわれたんじゃないかと,まったく関係のないことを思った。マキって名前の子がいて,ぼく自身,そう呼んでからかっていたからな。ある程度の年齢になってからならいいけれど,あんまり小さい頃からそう言われたんじゃ傷つくよなぁ。
 素直な演奏だと思った。トランペットと仲がいいといいますか。

● チューバの田村優弥さん。今回の出場者の中で唯一の地元出身者。現在は藝大の院に在籍しているけれど,作新学院吹奏楽部の出身で,今月12日の作新学院吹奏楽部の定演にゲスト出演していた。
 そのときに彼が語ったところによると,陽西中でチューバを始め,高校は作新に行くと決めていたらしい。作新で吹奏楽をやりたい,と。
 藝大は入るのも大変だけれども,入ったあとも大変で,藝大といえどもプロとして立っていけるのはごく一部だから,という話をされていた。そうなのだろうなと納得。
 演奏したのは,ペンデレツキ「無伴奏チューバのためのカプリッチョ」とウジェーヌ・ボザ「チューバのためのコンチェルティーノ」。
 後者のピアノ伴奏は大川香織さん。

● 最後は,小沼悠貴さん。国立音大を卒業して,自衛隊の音楽隊の隊員になっている。演奏した曲は田村さんと同じ,ボザの「チューバのためのコンチェルティーノ」。
 ピアノは松岡亜希子さん。

● すでに審査結果は出ていて,主催者のホームページに公表されているはずだ。ぼくも予想を述べたくなるが,やめておく。こんな聴き手が審査の真似事をするのは厳禁だ。
 出場者はよくわかるのだろう。あ,こいつは自分より巧いや,とか,自分のほうが少しいいかな,とか。

● が,ぼく的に最も印象に残った奏者は,ピアノでは中島英寿さん,金管では鶴田麻記さんだった。
 この程度は申しあげても許されるのではないかと思う。

2015年10月19日月曜日

2015.10.17 グローリア アンサンブル&クワイアー第23回演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 今回はハイドンの『オラトリオ天地創造』。このCDはたしか2枚持っている。アーノンクールとカラヤンだったか。
 だったかというのは,どちらも聴いたことがないからで,なぜ聴いたことがないかといえば,歌詞の意味がわからないからだ。
 オペラのCDもあるけれども,はやりまず聴くことがない。理由は同じ。

● 部屋に座ってゆったりと聴くということをぼくはしない。だいたいスマホにイヤホンをつないで聴いている。つまり戸外で聴く。そういうのを聴くというのかという意見もあるだろうけれども,そういった聴き方しかしていない。
 となると,歌詞カード(?)を見ながら聴くことはありえないし,オラトリオやオペラのような長い曲は,結果的に敬遠することになりがちだ。

● であればこそ,グローリアが年に1回,声楽が入った大曲をやってくれるのがありがたい。しかも,宇都宮で。
 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。

● で,『天地創造』である。当然,「旧約聖書」の「創世記」から取っている(第3部はミルトンの「失楽園」)。
 客席にいたほとんどの人がそうだと思うんだけど(ステージで演奏していた人たちも同じだろう),ぼくも聖書は読んだことがない。ので,「創世記」ってこういう話だったのかと,今回,初めて知ったというわけだ。
 率直にいって,このストーリー,じつに深みがない。幼稚なつじつま合わせにすぎない。
 重箱の隅を突く言い方になってしまうけれども,神が光りあれと言われてから,太陽を創造するまで間があるのだ。その間,光はどんなあり方をしてたんだろうと思ってしまう。

● 日本の古事記に出てくる神話も同じだし,ギリシャ神話もしかりだ。それに深みを見つけるのが,神話学なり宗教学の仕事なのだろう。
 逆に,こういう話に小学校の理科程度の知識でもってチャチャを入れるほうが,人間性を疑われるべきなのだろう。

● 神が自らの似姿をもって人間を創造してからは,一夫一婦制の賛歌になる。人間が地に満ちなければならないんだから,それが当然だ。男と女が夫婦になって子を産まなければならない。
 ここでは,神はまず男を創って,男の一部から女を創る。常識的に考えると,女が産む性なんだから,まず女を創って,女の一部から男を創るのが理にかなうように思われるんだけど,ユダヤの神はそういう創り方をされなかったのだ。

● 曲調は軽い感じ。おどろおどろしくない。ハイドンは過度に神々しくはしなかったようだ。
 神の御業を称えるための曲だ。何をもって称えるかといえば,まずは声楽の言葉をもってするわけだが,器楽もまたそれに寄り添う。器楽が言葉を霞ませてしまうような事態を避けたのだろうか,と埒のないことを思ったりした。

● 第3部はグングンと上にあがっていく。神が自分たちを創造してくれたことを,アダムとエヴァが全身全霊で言祝いでいるようだ。
 現代的(?)な視点で見れば,やったぜ,創ってもらっちゃえばあとはこっちのもんだぜ,と大喜びしているふうでもある。
 が,ここに焦点を当てすぎて一夫一婦制が原理主義的な色彩を帯びるようになると,かえって不幸な人を増やすことになる。ほどほどにしておかないとな。すべての男女が結婚するなんて,あり得ないわけだから。
 結婚は人生において必須のものではなく,あくまでオプションのひとつにすぎない。男が男を,女が女を,好きになってはいけないということもない。このあたりは徹底的に自由たるべし。
 劇中と実人生は区別しておかないと。

● と,勝手な聴き方をしたわけだけれども,ともかくハイドンの大きな曲をひとつ,生で聴くことができた。得がたい体験だ。
 指揮は片岡真理さん。ソプラノが藤崎美苗さん,テノールが中嶋克彦さん,バリトンが原田 圭さん。この布陣でグローリアの合唱と管弦楽。管弦楽は栃響有志のように思われる。
 原田さんのバリトンが最も印象に残っている。合唱は各パートに途方もなく巧い人がいる。特にソプラノ。

● 字幕がありがたかったのは言うまでもない。これでCDを聴く準備も整った。あとはこちらの心がけ次第。
 しかし,だ。『天地創造』を初めて生で聴いて,この程度のことしか書けないのか。何だかなぁ。

2015年10月13日火曜日

2015.10.12 作新学院高等学校吹奏楽部第50回記念演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 第47回から聴いている。今回が4回目になる。開演は午後3時。チケットは800円(前売券)。

● 開場前から長蛇の列で,結果,立ち見客まで出た。大変な盛況だけれども,チケットの売り方に問題はなかったか。
 が,この高校の吹奏楽部の,しかも記念演奏会ともなれば,これだけの観客が入るのは頷ける。学校の関係者が多かったんだろうけど,ぼくのように何のゆかりもない人間もいたはずだし,吹奏楽をやっているのかと思われる中学生も聴きに来ていたようだった。

● 例年のとおり3部構成。演奏された曲目を羅列するのはやめるけれども,第1部のスタートは舞踏劇『ラ・ペリ』より“ファンファーレ”。
 この曲を聴いただけで,あぁと思った。巧いなぁっていう「あぁ」ですね。現時点で県内随一。それもぶっちぎりだろう。そう断言してしまおう。

● 個々の奏者の技量が高い。指導の問題ではなく(いや,それもあるんだろうけど),素質のある生徒を集めている結果だ。
 そうした生徒が作新の門をたたこうとする。これまでの実績が彼ら彼女らを誘う。それがまた新たな実績につながる。伝統の力だ。

● 音楽科でもない高校の部活でやっている生徒たちがここまでの演奏をするのを聴くと,大げさにいえば,いわゆるひとつの奇跡を見るようだ。
 佐藤邦弘「チューバとウィンドアンサンブルのための協奏曲」ではOBの田村優弥さんが登場。その田村さんと絡んで,フルート,オーボエ,サックスに気後れがないのは,あっぱれというしかないではないか。

● 第2部はポップス・ステージ。第1部に比べると,気を抜けるというか,観客サービスのための一格下のステージと受けとめがちだったけれども,違っていた。
 何度も独奏を見せた女子生徒のフルート。レガートってこういうものだよという見本のようなもの。男子生徒のトランペットも客席をうならせた。しかも,それらは一例にすぎない。
 客席を楽しませるのは大変なのだ。

● 春の「フレッシュグリーンコンサート」でも演奏した曲が多かったんだけれども,そのひとつが真島俊夫「カリビアン・サンダンス」。
 スティールパンをまた聴くことができたのは,眼福ならぬ耳福だった。

● 2部で何度か登場したダンスも何気に巧い。少なくとも手を抜いていない。
 清楚なお色気って,この年齢の女の子が踊ると,自然に出るものなんですかねぇ。これ,こちらに対抗する術がないんだよねぇ。やられるしかない。

● 第3部はドリル。これも「フレッシュグリーンコンサート」でやっており,今回のはその完成形といってよいものなのだろう。
 ラインの動きの滑らかさ,速さ。ラインの交わりもスムーズ。

● というわけで,ひととおり見せてもらったわけだけれども,これでも東関東を突破して全国に行くのは叶わなかったとなると,全国に行ける吹奏楽というのは,どんなものなのか。
 聴きに行けばいい話なんだけど,一般人でも入れるんですかね。

● 終演後の部長挨拶もこの演奏会の名物に数えていいかもしれない。立派な挨拶をするものだ。文言は事前に作っておくんだろうけれども,気持ちが入っている。
 大人ではまずできないであろう挨拶をする。今回もしかり。

● さらにその後に余興(?)がある。1,2年生だけの演奏があった。「学生時代」だったか。もう充分に巧いわけで,あと1年間は県下の覇者は作新で,それが揺らぐことはあるまいと思われた。

2015.10.11 マロニエ交響楽団第3回定期演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 2年に一度の定期演奏会。4年前の一度目の演奏会で感じた鮮烈な清新さは,今でも印象に強い。
 演奏される曲目が何であっても聴きに行くつもりでいるけれど,今回はショスタコーヴィチの5番。
 有名な曲のわりに生で聴く機会はさほどない。さほどっていうか,ぼくはこれまで一度も聴いたことがない。

● というわけで,出かけていった。開演は午後1時半。チケットは1,000円。曲目は次のとおり。
 ベートーヴェン 序曲「レオノーレ」第3番
 ドヴォルザーク チェロ協奏曲 ロ短調
 ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 ニ短調

● 指揮は曽我大介さん。曽我さんの指揮ぶりも鑑賞の対象であることは言うまでもない。
 大きく躍動的な指揮。身体が柔らかい。指揮台が小さくて落ちないかと思うほどだったんだけど,そこは足裏がすべて憶えているんだろう。
 それぞれのパートに入るタイミングを明確に指示する。奏者にはわかりやすくていいね(と思う)。これじゃどこで入ったらいのか,オケはわからないだろうな,と思わせる指揮者もいないわけじゃないもんな。

● この楽団の一番の特徴は何だろうかと考える。一途さ? 真面目さ? ストイックなところ? 狎れから免れているところ?
 その前提としてやはり技術の問題がある。指揮者のいじりに応えられる技術。指揮者にいろんなオプションを提供できる技術。
 この楽団のメンバーの多くは宇都宮大学管弦楽団のOB・OGで,音大卒ではない(と聞いている)。でもここまでやれますよ,という範例でしょ。
 子どものころから楽器を始めた人もいるだろうし,音大に行こうと思えば行けた人も多いんだろうし,宇都宮大学管弦楽団の優秀な卒業生ではあっても,宇都宮大学を卒業したと言うには若干憚りがあるという人もけっこういるんだろうけど。

● ベートーヴェンのレオノーレ3番。偉そうな言い方を許していただければ,ベートーヴェンの非凡さ,傑出ぶりは,5番や9番を聴かなければわからないというものではない。この短めの曲を聴けば充分だ。
 このあたりは,しかし,生で聴けばこそというところもある。CDだと(ベートーヴェンの序曲は2枚しか持っていないんだけど)ピンと来ないところもある。来る人のほうが多いんだろうとは思うんだけどね。
 さらに言い募れば,ある程度以上の水準の演奏を生で聴けばこそ,というところがある。

● ドヴォルザークのチェロ協奏曲。ソリストは伊藤文嗣さん。言わずと知れた東京交響楽団の首席。
 協奏曲は,でも,いくつかの例外を除いて,ソリストではなく管弦楽で決まると思っている。この曲もそうで,ソリストの聴かせどころは多々あるにしても,底の水準を決めるのは管弦楽だ。で,底の水準こそ重要だ。底が全体を作る。

● とはいえ,伊藤さんのチェロを聴けることなんか滅多にない(ぼくはプロオケの演奏をあまり聴かないので)。お得感がかなりある。
 コンサートの費用をチケット収入だけで賄えるはずもないので,要は,団員の負担でこちらが得をしているということになる。申しわけないような気がする。

● さて,ショスタコーヴィチの5番。ショスタコーヴィチを聴くのに厄介なのは,彼がソヴィエト・ロシア(しかも,スターリンの時代)に生きた作曲家だということだ。
 作曲家の自由な芸術創作vs社会主義の圧迫,という図式。ショスタコーヴィチの場合は,生命の危機と隣り合わせだったと言われる。
 これを自分の中でどう折り合いをつけたらいいのかという脳内作業が発生する。この作業,落とし所がない。

● プログラムノートにも,「当時のスターリン独裁政権への批判を込めて作曲」しているとか,「スターリンの政治思想を強要され,思い通りの作曲活動が出来ない苦悩を感じ取ることが」できるとか,「恐怖で心を毒されながらも踊りを強要されるバレリーナ」のようだとか,ショスタコーヴィチの苦悩に思いをはせる解説が出てくる。
 それがいかほどのものだったのか,想像のしようがない。それ以前に,本当にそうだったのかという思いもある。

● 彼の成果物である音楽を聴きながら,同時に作曲した彼の外部環境から彼の想いを想像して,その想像を音楽にフィードバックしたうえで,音楽を味わわなければならない。大変困る。脳に負荷がかかりすぎる。
 音楽から彼の苦悩を感じとろうとすれば感じなくもない。このあたりにスターリンへの反発が窺われるのかと思いながら聴けば,なるほど窺われなくもない。
 が,別の聴き方もいくらでもできるわけでね。どの聴き方が正解かということもないんだろうし。

● 落ち着きのない曲だなとは思った。初演が「ロシア革命20周年を祝う演奏会」だったから,社会主義を称揚しなければならなかったのだろう。一方で,自分が盛りこみたいのはこれじゃないということだったのか,と想像することはできる。結果,落ち着きを欠くことになったのか,と。
 が,二度三度と聴けば,また違った印象を持つことになるかもしれない。

● 要するに,わからない。わからないものはわからないままにして,自分の中で飼っておくことだと思う。長いスパンでお付き合いすることが大事でしょ。簡単にわかろうとしないほうがいい。

2015年10月5日月曜日

2015.10.04 東京楽友協会交響楽団第99回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 東京楽友協会交響楽団の演奏会にお邪魔するのは,今回が初めて。すでに99回目の定演になるのだから,かなり古い楽団なのだろう。っていうか,古いわけですね。長く続けてきた実績のある楽団。
 開演は午後1時半。チケットは1,000円。当日券を購入した。

● 指揮は寺本義明さん。本職(?)はフルート奏者。プログラムノートの紹介によると,東京都交響楽団の首席を務めている。
 大学は音大ではなく京大文学部。音大に在籍したことはないようだ。それでもって,日音コンクールで第2位になっている。
 都響のサイト情報によれば,小4でフルートを始めているんですね。芸大も考えたけれども,京大に進んだとあった。勉強そっちのけで音楽に没頭していたんだろうと思いたいんだけど,勉強もそこそこ以上にやっていたらしい。
 困るなぁ,こういう人にいられると。

● ところで,その都響サイトの団員紹介「私の音楽はじめて物語」は読みごたえがありますな。たとえば,田口美里さんなんか,桐朋高校時代は学校で夜10時まで練習して,帰宅は0時。朝は4時に起きて親に車で学校まで送ってもらって,1限目の授業が始まるまで練習したとある。
 そういう人たちがプロの奏者になっていくわけだ。こちらはお気楽にその演奏を聴いて,勝手な感想を持つわけだけれども,彼ら彼女らがそこまでやっていた一時期を持っていることは知っておくべきなんでしょうね。

● さて,プログラムは次のとおり。
 マーラー 交響曲第10番 嬰ヘ長調「アダージョ」
 マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調
 マーラーの5番は8月にも聴いているしな,どうしようかな,と少し迷った末に出かけたわけなんだけど,いや,出かけて正解でした。

● ぼくはプロオケの演奏ってあまり聴いたことがない。理由ははっきりしていてチケットが高いからだ。今のところはとにかく回数を聴きたいなと思っていて,財布と相談すれば(相談するまでもないんだけど)アマオケの演奏に足が向くことになる。
 で,しばしば思うことは,アマチュアといっても相当な水準の楽団が,特に東京には多いってこと。呆れるくらいに上手なところがある。

● 実際のところ,演奏を聴いて,そこからこちらが持ち帰れるものの質量は,必ずしも奏者側の技術には比例しないところがある。聴衆の一人として巧さが絶対だとは思っていない。
 こめた思いだとか,一回にかける真摯さとか,演奏に影響を与える要素は技術のほかにもある。だから,中学生や高校生の演奏のほうが,プロの演奏より長く記憶に残ることだってある。

● とはいえ,技術があってそこに思いや真摯さが加わった演奏をされれば,こちらとしてはグーの音も出ないわけで,それが一番いいに決まっている。
 そういう演奏って,初発の音が届いた瞬間に,こちらの雑念を吹き飛ばしてくれる。ぼくはコンサート禅と言っているんだけど,脳内が音で満たされる。無心になれる。

● 普通に人生をやっていれば,日々の8割は苦に染まる。楽しいこと,ワクワクすること,そうしたものだけで1日,1週間を過ごせる人なんて,学生の中にだっていないだろう。年齢にかかわらず,人は苦に翻弄されるものだろう。
 ホールに足を運んで現に演奏を聴きながら,でもそうした苦の断片が次から次へと去来してやまなかったことも,一度や二度ではない。

● であればこそ,コンサート禅に入れる演奏に出会えると,しみじみとありがたく思える。今回の演奏はそれだった。
 これがマーラーだったのかという感慨もあった。これがマーラーだ,なんてのは実際にはあるわけがない。もしそんなのがあるんだったら,それでマーラーは終わってしまう。
 それぞれの1回ごとの演奏がマーラーの表現であって,もちろんそれが前提なんだけれども,マーラーってこうだったのかと,客席のぼくは思った。
 個々のパートがどうのこうのという話ではなく,交響楽ってこういうものだったのか,とも。よく使われる表現だけれども,オーケストラというひとつの楽器になっているのだった。

● これまでマーラーは何度か聴いているけれども,最もこちらの芯に響いてきたといいますか。聴き終えたあとの満足感。
 視覚的にも美しい楽団だった。もちろん,演奏中の話。

● ステージ上の奏者だって,人生の8割は苦というのは同じはずだ。彼らだけが苦とは無縁なんぞということはあり得るはずがない。
 ひょっとしたら音楽それそのものが苦の種になっているかもしれない。ぼくにとっては,音楽は楽しみの対象で貫徹しているけれども,それは百パーセント聴く側にいるからだ。
 楽団を運営する責任を担っている人は,それで胃が痛くなる思いをしているかもしれない。その分,それを越えてやりとげたあとの達成感が一入なのだとしても。

● 同時に,彼ら彼女らにとっては,楽器に触れ,あるいはステージに立つことが,苦を忘れる方便なのだろう。そう考えないと,こちらは人を踏み台にして,自分の苦から逃れる時間を作っていることになってしまう。
 彼ら彼女らはボランティアで,こちらはそのボランティアで癒やされる側になってしまう。それはそれでイヤな立ち位置ではないのだけれども,可能であれば,持ちつ持たれつだと思いたい。

2015年9月30日水曜日

2015.09.30 間奏46:2回続けてドジを踏んだ

● 今月20日に開催された栃響の特別演奏会。もちろん聴いたんだけど,じつは19日にも聴きに行った。栃響の特別演奏会を,だ。
 当然,1日早かったわけだから,聴くことはできなかった。あ,明日だったのか,と現地で気づいてすごすごと引き返すことになった。

● その日(19日)はやらなきゃいけないこともあって,奥様のご機嫌を損ねるというとんでもないコストを払って出かけたわけなんですよ。
 それなのに。

● そういうのはちゃんと手帳に書いておいて,間違えないようにしなよ,と言われますか。
 じつはね,手帳には書いてあったんですよ。ちゃんと20日のところにね。その手帳,何度も開いて見てたんですよ。
 それでもこういう間違いをおかす。間違えるときにはそんなものですかねぇ。

● 11月に開催されるコンサートのチケットを買った。早めに買っておかないとな,指定席なんだから。
 で,帰宅してから気がついた。このチケット,もう買っていたんだった。発売早々に買っていたんですよ。わぉ!
 同じ本を二度買ったことは何度もあるんだけど,コンサートのチケットを二度買いしたのは初めてだ。

● たいていのコンサートは当日券で入れる。だから,そのようにしている。前売券を買うのは座席が指定されていていい席を取りたいときと,前売券だと安くなるときに限られる。
 だから,たくさん買っていてこんがらかるなんてあり得ないわけですよ。でも,こういうことをしてしまう。

● 1枚を捨てることになってはもったいない。かといって,ぼくの家族は絶対にコンサートには行かない。行ってもらえそうな人を探すことになる。
 が,ここで決定的なのは,ぼくには友人と呼べる人はいないってこと(なんとか一人,確保できたんですけどね)。

● というわけで,短い間に二度続けて,ドジッちまいましたよ。要は,思いこみなんですよね。いけませんな。

2015.09.27 県立図書館第150回「県民ライブコンサート」

栃木県立図書館 1階ホール

● 栃木県立図書館が年に数回開催している「県民ライブコンサート」,久しぶりに出かけてみた。開演は午後2時。入場無料。

● このコンサートの特徴は,ステージと客席の距離が近いこと。問題は,客席に段差なんてないので,後の椅子に座ると奏者が見えなくなること。
 で,後の席になってしまった。

● 今回は斎藤享久さん率いる小オーケストラ。オーケストラのメンバーは栃響の有志がメインだったようだ。したがって,これは聴かないと損でしょ的な。
 プログラムはオール・モーツァルト。
 ディヴェルティメント K.213 
 ピアノ協奏曲 K.413
 弦楽四重奏曲 K.157
 交響曲第25番 K.183

● ときどき思うことは,こういうタダで聴ける演奏会しか聴かないと決めてしまうのもありかなってこと。それでも音楽を聴くという部分は充分に満たされるかも。足りないところはCDで補う,と。
 栃木のような地方でも,地元で開催される演奏会のすべてをフォローするのはとても無理だ。であれば・・・・・・。って,まったく現実的な話ではないけどね。

● ま,そういうことを考えるのも,今回のような演奏会があると,タダで王侯貴族になった気分を味わえるからですね。
 こう近い距離で演奏してもらえると,奏者と聴き手の一体感が高くなる。一体感が高くなると,自分のための演奏だと思えてきたりする。

● もうひとつ。斎藤さんが,ディヴェルティメントはBGMのようなもので,貴族が歓談しているときに背後で演奏した曲のことだと解説していたこと。
 小さな構成で演奏してたんでしょうね。歓談の邪魔にならないように。部屋もでかかったんだろうけど。
 そうか,貴族はこういうのを演奏させて歓談していたのか,待てよ,だったら歓談こそしないけれど,今のオレって貴族じゃん。

● 普通にコンサート用のホールで聴いているときには,こんなことを考えることはない。図書館の小さなホールで聴いてるからだ。物理的な環境の影響はモロに受けるわけだなぁ。
 それとモーツァルトだったことも大きい。ベートーヴェンやマーラーの交響曲を聴いてるときに,こうしたことを考えることはあり得ないもんね。

● 2時間の本格的なコンサート。モーツァルトを堪能できた。市中で行われる演奏会でモーツァルトを聴く機会ってそんなにない。オペラの序曲くらいか。
 このシリーズで斎藤さん率いる小オーケストラの演奏を聴くのはこれが2回目なんだけど,前回もモーツァルトだった。
 それ自体が,ひとつの特徴たり得ているというか,とんがっているという印象になる。モーツァルトを演奏するのがとんがっているというのもおかしなものだけどね。
 でも,こういう機会を逃すと,モーツァルトってなかなか聴けないのはたしかなわけで。

● この県立図書館の「県民ライブコンサート」で最も印象に残っているのは,2009年9月の「ヴァイオリンとピアノによるコンサート」。廣瀬麻名さん(ヴァイオリン)と大岡律子さん(ピアノ)だった。
 あのとき,最後に聴いたベートーヴェンのクロイツェル・ソナタ。あれは凄かったなぁ。音楽をライヴで聴くようになってからまだ数ヶ月しか経っていないときだったんだけど,けっこう以上に衝撃だった。
 以後,クロイツェル・ソナタはCDで数えきれないくらい聴くことになった。そのキッカケを作ってくれたのがあの演奏で,ぼく的には思いで深い。

● というわけで,今回の演奏もそうなんだけど,“無料”に惑わされてはいけない。チャチなものを連想しがちなんだけど(実際,チャチなものもあるから),そのパターンにはまってしまうと,大きな損失を招く。