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2025年6月10日火曜日

2025.06.08 栃木県交響楽団 第117回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開場前から長蛇の列。幾重にも折れ曲がって延々と続いている。チケットはあらかじめ買ってあるが,入れるのかと思ってしまう。
 ダラダラと延びた列というのは,視覚に過大に映る。ホールのきっちり詰まった座席に座らせると,何だこんなものだったのか,となるのは経験則でわかっているのだが,それでもこれだけ長い列を見るとね。

● 今回は栃響の創立50周年記念。本来ならとっくにやっているはずのものだったが,コロナで開催中止。5年遅れで,しかし,仕上げて,公開に漕ぎつけた,と。
 ちなみに,今回は50周年記念の1st.ステージ。2nd.もあって,マーラーの2番を演るらしい。時期は来年の今頃か。

● というわけで,今回は曲目が凄い。ドヴォルザークの9番とストラヴィンスキーの「春の祭典」。
 開演は14時。指揮は三原明人さん。

● ドヴォルザークの9番。ひょっとして,この楽曲には普段聴いているのとは違う,別版の楽譜があったのか,と思った。???と思ったところが数ヶ所あった。
 ???には単なるミスも含まれるけれども,ミスは仕方がない。人間が演奏しているのだ。プロでもやる。
 そうではなくて,緩急というか,テンポというか。指揮者のいわゆる解釈の範疇だろうか。異物感があった。
 だからダメと言うのではもちろんない。今まで聴いて来たのとは違う,と感じただけのことだ。

● 「春の祭典」は当然にして大編隊。この曲をなぜ演奏できてしまうのか。そこがまず不思議だ。
 音源があって,実際の演奏を何度でも聴くことができるからだ,というのがひとつの解答ではあろうけれども,縦の線を揃えるだけでも大変でしょ,これ。しかも,これだけの大人数なのだ。

● さすがは栃響。特に,弦の水準が全体を盛り上げていた感じ。
 盛り上げるというより,演奏の大枠を形作っていた。この弦があったから「春の祭典」が成立したんじゃないか,と思わせるっていうかね。
 急いで付け加えておくが,他がダメと言ってるのではない。そんなことは1ミリもない。ダメなパートがあったら,そもそも演奏にならないのでね。

● 打楽器のセンターに久しぶりの田村さん。賛助になるんだけれども,やっぱりここは彼女じゃなきゃって感じですか。
 終演後に指揮者に立たされたときにも,彼女への拍手がひときわ大きかった。ティンパニへの拍手が大きいのは演奏会の常ではある。目立つところにいるし,音も目立つ。けれども,今日の拍手は見事だったという客席側の意思表示でしょう。

● 唯一,残念だったのは,終演の1秒前,最後の一音がこれから鳴るというときに,ブラボーを叫んだバカがいたことだ。
 ブラボー屋って,若者が多いのかと思いきや,たいていは皮膚のひったるんだ中高年のオヤジであるのは,経験則の教えるところ。どうしようもない年代なんだな。

● あと,客席の照明を明るくするタイミングをひょっとしたら間違えたか。もう少し余韻を引いてもよかったかもしれない。

2025年2月9日日曜日

2025.02.09 栃木県交響楽団 第116回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 栃響の定演。開演は14時。チケットは,当然,前売券を買っておいた。
 今回の曲目は次のとおり。
 ワーグナー 歌劇「さまよえるオランダ人」序曲
 J.ウィリムズ 「スター・ウォーズ」組曲
 ブラームス 交響曲第1番

● 指揮は三原明人さん。栃響との共演もだいぶ回を重ねている。指揮者にとってもオケにとっても,ずいぶんとやりやすくなっているのだろうと思う。
 ちなみに,次回はストラヴィンスキー「春の祭典」を三原さんの指揮で演奏する。コロナ禍でいったん保冷庫に入っていたもの。

● メインはブラームスの1番だし,楽しみにしていたのは「スター・ウォーズ」だった。
 が,実際に聴いてみたら「さまよえるオランダ人」が最も印象に残った。わりとありがちなこと。

● 指揮者の三原さんが発するエネルギーが迸る。ワークライフバランスなどと言っていてはこうはならない。音楽に憑かれた人という感じね。
 この世界にはそういう人がゴロゴロいるんでしょう。そうした個々の奏者の “献身” がこの世界を支えていると思うことはしばしばある。世界を支えようと意図してそうしているわけではないんだろうけど,結果として支えている。

● これだけの演奏をするのだから,録音して音源として残せばいいのにと思うのだが,CDがどれだけ売れないかは一応知っているのでね。正直なところ,自分でも買うかどうかわからない。
 ポップスやロックは知らず,クラシックのCDが売れなくなったのは,ストリーミングの普及より,CD自体が飽和状態になっているのが原因ですかねぇ。同一曲のCDを何枚も買い揃えて聴き比べる,という情熱の持ち主はそんなにいない(と思う)。皆さん(ぼくもそうだが),もっとライトな聴き方をしているでしょ。
 といっても,カラヤンのCDが売れまくっていた頃から似たような状態だったもんねぇ。やっぱ,インターネットが,ブツとして質量を持つCDを,ユーザーから遠ざけさせたんですかね。

● おそらく,次はライヴの飽和が現れる。少子高齢化で観客は減少するのに,ライヴは増える。目にはさやかに見えねども,というゆっくりした速度でそれが進行する。どの世界もそうだろうが,なかなかに明るい未来は描きにくい。
 未来などに視野に入れる必要がないほどに,現在に没頭しているのがステージ上の奏者たちなのだとも思える。

● にしても。今年の冬は寒すぎるし,こんなに寒いのに花粉がすごすぎる。
 けど,今日は寒さも和らいだ。あと,日が延びてますよね。春近しを感じさせもしますよ。

2023年6月9日金曜日

2023.06.04 栃木県交響楽団 第113回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,200円(前売り。当日券は1,500円)。前売券を買っておいた。
 曲目は次のとおり。指揮は栃響では久しぶりの末廣誠さん。
 ラヴェル 古風なメヌエット
 マーラー リュッケルトの詩による5つの歌曲
 ブルックナー 交響曲第4番 変ホ短調「ロマンティック」

● 「リッケルトの詩による5つの歌曲」のソリスト(メゾソプラノ)は山下裕賀さん。ぼくからすると,異能の持ち主と言うほかはない。
 抜きん出た異能は香気を放つ。こういう言い方しかしかできない。

● 2016年のコンセール・マロニエで優勝したときも聴いているし,21年2月に開催された「林真理子の劇場で愉しむ “オペラ” なるもの」に出演したのも聴いている。
 他にも数回,聴く機会があった。演奏家というのは性格が陽性であることが,一番目に求められる資質なのではないかと思っているのだが,彼女の陽性は筋金入りのように見える。もちろん,思い屈することも度々あるのだろうけれども,基本色は陽性。そうでなければやっていけないのだろうとも思う。

● 栃響がブルックナーを取りあげるのは初めてらしい。指揮者末廣さんが,「113回もの定演を重ねているオケは少ないけれども他にもある。が,その間,ブルックナーをやったことがないというのは唯一無二の存在」といった意味のことを話していた。
 たしかに。言われてみれば。

● 今回,その唯一性を捨てたわけだが,初めてだからこそなのか,鮮烈なブルックナーが出現することになった。特に第4楽章の初め,マグマ大使がゴアゴンゴンの征伐に向かったときのような(わかる人はあまりいないと思うが),高揚と緊張がマックスになる場面があるのだが,そこではプロの演奏を聴いているような錯覚に陥った。
 やるなぁ,中高年,と思ったのだけども,いやいや,これはどういう機序によるものか。指揮者の末廣さんの功績に帰するのだろうか。

宇都宮市文化会館
● ブルックナーの4番は,CDはカラヤンで聴いている。同一曲のCDを何枚も持って聴き比べるってことはあまりしない。その1枚だけを聴いている。そもそもが長いからねぇ,その1枚もしょっちゅう聴いているというわけではない。
 それでも,ブルックナーのこの曲は起伏が多く,綾も細かいので,風景が小気味よく変化する,といった程度のことは感じていた。が,こういう演奏を生で聴けると,それ以外に質量の重さ・大きさといったものもズシンと伝わってくる。ブルックナーはただ者ではないことがわかる。

● アンコールはなし。当然かと思う。

2021年6月21日月曜日

2021.06.06 栃木県交響楽団 第109回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 栃響の演奏会は必ず聴いているかといえば,決してそんなことはない。ぼくのような者にも都合というものはあるし,田舎では滅多にないことなのだが同一日時に複数の演奏会が行われることもある。そういうときに,栃響ではない方の演奏会に行ったこともある。
 ではあるのだが,単純に聴いた回数を数えると,栃響が圧倒的に多い。第1には自分が栃木県に住んでいるからだが,それ以上に,栃響が年2回の定演の他に第九演奏会や特別演奏会など,アマオケとしてはかなりの活動を展開しているからだ。

● その栃響の演奏を聴くのは,しかし,相当に久しぶりだ。ひとえにコロナ禍によるもので,ひとり栃響に限らないはずなのだが,年に数回聴いていたのがバタっと途切れてみると,久しぶり感は相対的に強くなる。
 前回聴いたのは,昨年2月2日の定演だから,1年と4ヶ月ぶりということになる。その間,栃響も対外的な活動は停止を余儀なくされた。停止が解除されたのが今日というわけだ。
 Congratulations と言っていいでしょうね。ワクチン接種も進んでいるんだから,もう昨年のような状況に戻ることはないと思いたいよね。

● 今から考えてみると,この頃(昨年2月)にはすでにコロナウィルスが日本中にはびこっていたかもしれないねぇ。ただ今増殖中って感じだったのかも。
 中国が春節で,移動しまくる中国人を入国させるかどうかで喧しかったけれども,この時点ではもう遅かったのかもしれないよね。

● 開演は14時30分。チケットは1,200円(前売券)。そのチケットに名前と電話番号を書いて,受付で渡す。自分でモギってというんじゃなくて,チケットそのものを渡す。半券が手元に残ることはない。
 曲目は次のとおり。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 ハイドン チェロ協奏曲第1番 ハ長調
 ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調
 古典派をきれいに並べた感じ。積極的選択ではなくて,ステージにあがる団員を絞り(ソーシャルディズタンスの問題),その人数で演奏できる曲目でプログラムを作るとこうなったということ。このあたりの事情はプログラムと一緒に配られた,指揮者の三原明人さんの挨拶文(?)に書かれている。

● 三原さんといえば,彼の指導を受けた複数の市民オケのメンバーが集まって,ミハラシンフォニカなるオーケストラが結成されている。慕われるキャラクターなんでしょうかねぇ。
 こちらもコロナで延期を余儀なくされていたのだが,7月24日に復活開催が決定しているようだ。ベートーヴェンの全曲演奏を終えて,ブラームスに行くらしい。
 さっき,申込みをした。会場の都合で90人しか入れないらしい。聴けるかどうかは,現時点ではわからない。
 ちなみに,「オケ専」では7月25日となっており,会場も別のところになっている。当然,楽団のサイトが正しいのだろう。というか,オケ専って時々こういうことをやっちゃってる感じなんだよね。

● さて,栃響の演奏だ。聴いただけでこれは栃響だとわかる栃響サウンドというものがあるのか。指揮者によってどれほど変わるものなのか。
 演奏の録音を聴いてこれは栃響かどうか当ててみろと言われても,まず当たらないでしょうなぁ。そういう前提でだけれども,栃響サウンドはあると思っている。「魔笛」序曲の冒頭で懐かしさが迫ってきたから。

● ハイドンのチェロ協奏曲のソリストは佐山裕樹さん。先月16日に真岡市民交響楽団とのドヴォルザークを聴いているのだが,ひと月足らずで今度はハイドンを聴けたわけだ。
 妙な比喩だが,ドヴォルザークが中字の万年筆なら,ハイドンのこの曲は細字のガラスペンのようだ。キラキラしている。が,ちょっとでも迂闊に扱うとペン先が欠けてしまう。ペンとしての使い勝手は万年筆の方がずっといい。
 栃木県はチェリストの産地で,金子鈴太郎,宮田大,玉川克。他にもいたか。でもって,佐山さんが登場。錚々たるものでしょ。

● ベートーヴェンの5番は,コロナ禍に入ってから,聴く機会が増えたように思う。今年も2月以降は,毎月1回は聴いている。
 多くない人数でも支えられ,かつ客席にインパクトを残せる曲となると,この曲が選ばれやすいのだろう。あるいは,この状況に対する演奏者側の意思表示として選びやすいのでもあるだろう。
 ベートーヴェン生誕250周年である昨年は散々な年になった。合唱の入る「第九」はとりわけ悲惨で,演奏されることがあっても,合唱陣が10数名といったものだったと聞く。今年を1年遅れのベートヴェン・イヤーにするかという巧まざる思惑もあるかもしれない。

● 聴く側にしても,この選定に文句のあろうはずがない。栃響の「運命」は2015年の第99回定演以来。このときも指揮は三原さんだった。
 第4楽章冒頭のカタルシス。ここで感じるカタルシスは,広い意味での追体験だ。
 格闘の結果,地平を突き抜けて頭ひとつ上に登った。視界が一気に広がり,閉塞感が消えた。
 ここでのベートーヴェンは,格闘はするが逡巡はしない。優柔不断のかけらもない。きわめて男性的だ。
 と言ってしまったけれども,これは女性の特性だよね。「女々しい」は「男々しい」と書くべきなのだし,「雄々しい」は「雌々しい」と書くべきなのだよね。

● ともあれ,ここでカタルシスを得て,スッキリとしかし満ち足りた気持ちで帰途につくという段取りになる。
 もちろん,そのカタルシスで何かが変わるわけではない。嫌な上司は嫌な上司のままで,明日はその上司に会わなければならない。その憂鬱さは変わらない。
 けれども,ベートーヴェンの5番を聴くと,一旦は脳内を白紙にできる。この「一旦は」がじつに大きい。ずっと続くのと,ごく短時間でも一旦は遮断できるのとの差は,ぼくに言わせれば無限大だ。

● 音楽を聴くことの効用をそうした下世話なことがらに収斂させてしまうのはいかがなものかと,われながら思うけれども,しかしそうした実利もあることは知っておく方がよい(ほとんどの人は知っているだろうけど)。
 そのために音楽を聴きに行くことは当然あってよいわけだ。芸術性という,いくらでも恣意を潜り込ませることのできるタームで,音楽を語るだけが能ではない。

2020年2月4日火曜日

2020.02.02 栃木県交響楽団 第108回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 栃響の定演。開演は午後2時。チケットは前売券(1,200円)を買っておいた。
 プログラムはオール・ブラームス。大学祝典序曲,ヴァイオリン協奏曲,交響曲第2番。指揮は三原明人さん。

● 今回はヴァイオリン協奏曲に尽きた感じ。ソリストの関朋岳さんの貢献が大きい。ルックスを含めた見映え,舞台袖に引きあげるタイミングや歩き方,そういった事どもから,スター誕生を予感させた。
 というより,すでにして若きスターなのかもしれない。

● 第1楽章が終わったところで拍手が起きた。指揮者もそれを折込済みだったようだ。
 楽章間では拍手をしないのがマナーあるいはルールであることは知っているが,ここでブラボーがかかったとしても,ぼくなら許容する。
 まぁ,何というか,それくらいにインパクトのあるヴァイオリンだったということだね。

● 関さんのアンコールはミルシテイン「パガニーニアーナ」。もちろん,聴いたことはない。後刻確認したらCDはあって,聴こうと思えばすぐにも聴ける状態なんだけども,CDがあるということすら忘れていた。
 アンコールにしてはけっこう長い曲。こういうところで得したと思ってしまうんだよねぇ。この貧乏性,何とかならんか。

● ブラームスの交響曲は2番から始まるといってもいいでしょ。1番はね,西に向かって然るべき人間が,間違って東に行こうとしちゃったっていうか。ブラームスのことだから東に行こうとしても結果はきちんと残すわけだけれど。
 ブラームスって,何ものかを裡に秘めて,人生に雄々しく立ち向かうというベートーヴェン的な生き方は似合わないというか,もっと軽やかな人っていうか。
 ブラームスの真骨頂は美しい旋律にあると思う。交響曲の人ではないのかもしれない。

● というようなことを思いながら,第2番を聴いていた。今言ったことを撤回したくなった。正々堂々の布陣。中段に構えて,どこからでもかかってきなさいと言っているような。
 自分にはやましいところは一点もないから,文句があるなら出るところに出ようじゃないか,という一歩たりとも退かない不退転の決意。

● ベートーヴェンは女性にもてたらしい。最近の研究(?)ではそうなっているらしい。貴族の女性を好きになっても身分の違い云々で泣く泣くということではなく,身分の違いなどものともせず,女性たちの方からベートーヴェンになびいたらしい。
 これ,わかる気がする。そうだったはずだと思う。風に立つ孤高のライオンを女性たちが放っておくはずがない。

● ブラームスにはそのベートーヴェン的な魅力は感じられない。自ら相手に寄り添っていくというふうであったに違いない。両性具有の精神っていうか,女性的なものも感じる。
 だけど,ここから先は譲れないというのはキチッとあった人なんでしょう。人を見るときの足切線はあったのだろうな。
 2番を聴いてて浮かびあがってくるブラームス像っていうのは,そういうものだ。半ば,無理に浮かびあがらせているのだが。

● オケのアンコールはハンガリー舞曲第5番。昔,ブラームスがよくわからなくて,ブラームスといえばハンガリー舞曲しか聴かない(聴けない)時期があった。
 こちらが何もしなくても,勝手に飛びこんで来てくれるっていうか。現実に存在していた旋律なのだろうから,脳を介在させないでスッと入ってくる感じね。

2019年12月25日水曜日

2019.12.22 第12回栃木県楽友協会「第九」演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 風物詩というものがおしなべて訴求力を失っているように見える。それは昨日今日の話ではない。正月に羽をついたり,書き初めをしたり,凧をあげたりする風景は,田舎でも相当な昔に消えている。双六で遊ぶこともとっくになくなっているだろう。
 それがさらに進んで,今や,正月そのものが解体されつつあるように思える。第1の理由はインターネットだろう。時間の過ごし方を徹底的に個別化する装置がインターネットだ。

● 正月に限らず,バレンタインデーだの,エイプリルフールだの,クリスマスだの,年越しそばだのというのも,大衆の行動を支配する力をほぼ失っている。
 風物詩としては新参者のハロウィンもすでにピークは越えているように思える。渋谷のハロウィンの悪しき(?)盛りあがりぶりが話題になって,どうすればよいかが新聞種になったりもしているけれども,良くも悪くもあれだけのパワーがいつまでも維持されるわけはないと見る。

● 「第九」も年末の風物詩になって久しいのだが,はやり徐々に観客動員力を落としているように感じる。けっこう空席があるようになっている。ひょっとしたら「第九」が飽きられてきたのかもしれない。
 が,それ以上に年末行事だからではないかと思う。それでも,他の風物詩,たとえばクリスマスなどに比べれば,まだ衰勢は微弱ではある。

● ともあれ。年に1回の栃響の第九を聴きに来た。開演は午後2時。チケットは1,500円。事前に購入しておいた。
 付け合わせは,今回はモーツァルト「フィガロの結婚」序曲。

● 今回はヴァイオリンが対抗配置でなかった。だから何だというと,まぁ,何でもないのだが。
 第九は第1楽章がすべてだと思っていた時期がある。宇宙のビッグバンの音楽的表現だ,と。ビッグバン以前なのだから神も存在しないはずなのだが,ここにおいては神がビッグバンを司る。その神も一発では決めることができず,何度かやり直す。ビッグバンは難産だったのだ。

● しかし,今回,最も印象に残ったのは第2楽章だった。ベートーヴェンが意図したわけではないと思われるのだが,楽章全体から滴るような気品。その滴りまでも具現化した演奏でね。
 栃響は素晴らしい。今更で申しわけないんだけどさ。首都圏の名だたるアマオケと比べても,引けを取るまい。

● 罰あたりなことに,第4楽章はなくてもいいんじゃないかと思っていたことがある。愚かにもほどがあるというべきでしょうね。
 この楽章なくして第九はないですわねぇ。特に声楽が入る前の,歓喜のテーマの絢爛はどうしたって必要でしょ。歓喜のテーマが,チェロ・コントラバスから始まって,管弦楽全体で歌いあげるところまでが,第九の核心。
 特に,ここでヴィオラが奏でる歓喜のテーマを聴くと,ヴィオラという楽器はこのためにこそ生まれてきたのではないかと思ってしまうんですよ。

● 「管弦楽が前の3つの楽章を回想するのをレチタティーヴォが否定して歓喜の歌が提示され,ついで声楽が導入されて大合唱に至るという構成」であるわけだけれども,歓喜のテーマさえレチタティーヴォは否定しているように聴こえるんだけどねぇ。
 いったんは否定しても,やはりこれだってことになったんですかね。

● ソニーがCDの生産を開始したのが1982年10月。それ以前からレコードがあったわけだけれども,昨今のクラシック音楽の大衆化現象はCDなしにはあり得なかったろう。
 その理由は複数あるけれども,第1にレンタルに向いた音源だったこと。買わずに借りてすませることができるようになった。CDラジカセでカセットテープにダビングして,ウォークマンで聴く。第2にiTunesがリッピングを可能にしたことだ。
 おかげで,第九も日常的に聴くことができるようになった。この1年で第九を何度聴いたか。たぶん,30回を下回ることはないと思う。

● となると,第九はもう日常品だ。生活必需品の範疇に入ってくる。
 けれども,CDをリッピングしてウォークマンで聴くのはそうであっても,ライヴで聴くということになると,今なお第九は特別な曲なんだろうかな。
 来年はベートーヴェン生誕250周年。第九を聴ける機会が増えるかもしれない。さっそく,5月には宇都宮シンフォニーオーケストラが第九を上演(?)する。

2019年7月22日月曜日

2019.07.07 歌劇「歌法師 蓮生」 宇都宮市民芸術祭40周年記念事業

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。チケットはSとAの2種。行こうか行くまいか。後者に傾いていた。が,その傾きを押し返して,出かけてみましたよということ。
 なので,当日券を買って入場した。A席の当日券が3,500円。

● 鎌倉幕府の御家人であった,宇都宮家第5代当主の宇都宮頼綱が出家して実信房蓮生と号した。その蓮生が物語の主人公。
 「百人一首の生みの親「歌法師 蓮生」物語」というのが副題なんだけれども,いくら何でもそれは言いすぎだろうと思われることはさておく。

● さておくけれども,小倉百人一首は藤原定家が編纂したものであって,だからこそ価値を持つ。室町後期に出た「宗祇抄」によって,小倉百人一首は一般にも知られるようになった。それによって,蓮生の名も後世に残ることになった。
 蓮生は発注者には違いないし,発注できるだけの財と縁戚関係を築いていたことは間違いないけれども,触媒としての役割に限ってもその功績は限定的ではないか。蓮生は歌人としてよりもむしろ武人として,あるいは事業家として,時代に対して貢献しているように思われる。

● 蓮生は伊予国守護にも任ぜられている。彼自身が任地に赴いたのかどうかは知らないけれども,愛媛県の西部(大洲,八幡浜,宇和島あたり)には,かなりの数の宇都宮さんがいる。
 彼らのすべてが宇都宮氏の子孫かどうかはわからないが,宇都宮氏の子孫が宇都宮市に存在しているとは聞いたことがない。本貫の地ではなく遠く離れたところに命脈を保っているのは,しかし,普通にあることだろう。

● 蓮生は88歳で京都で没している。当時の88歳だ。歌にだけ没頭していた,内省的で青白きインテリであったはずがない。
 彼にとっての歌は,おそらくそれなしではすまないというものではなく,スタイルのひとつに過ぎなかったのではないかと思ってみる。宇都宮歌壇というのも,自分を装飾するもののひとつだったと見なしていたろう。
 若い頃の波瀾万丈や散財を思うと,遊びも派手であったろう。むしろ,そういうところにぼくは惹かれる。誰か彼の人物像を再造形してくれないだろうか。

● ところで,これはオペラなのかオペラとは似て非なるものなのか,面白いのかつまらないのか。どうもよくわからなかった。判別がつかない。
 まず,合唱を除くと歌らしきものがない。第2幕第1場の為家と小萩の二重唱が唯一の例外。あとは歌なのか節の付いた台詞回しなのか,どうもよくわからん。

● その台詞が冗長だ。冗長と感じるのは台詞で状況や経過の説明をしているからで,その説明はすべて要らないのじゃないか。
 なぜかというに,傀儡子を3人も登場させて,説明を請け負わせているからだ。それで背景は充分にわかる。

● それとは別に,言葉の刈り込みが足らないと感じた。というか,刈り込んでいない。足し算ばかりで引き算がない。
 まぁ,引き算は気づきにくいから,きちんと抑制は効かせてあったのに,こちらが感知できなかっただけかもしれない。その可能性は大きい。
 その上での話なのだが,その台詞を聴かされるのは,たとえ節が乗っていたとしても,けっこう辛い。

● 逆にいうと,この脚本でここまで持ってこれたのは大したものだとも思う。照明の使い方,セットの使い回しといった舞台設営の妙もあるのだけれど,蓮生の奥方の初瀬を演じた伊藤裕美さんの功績が大きい。
 それから,舞台袖に控えて尺八を担当した福田智久山さん。この尺八がじつにもって効果的で,空気を切り裂かないのに鋭角的に遠くまで吹き渡っていく。不思議な調べだな。
 千年前の京都という設定にうまくはまるのだ。この舞台の前提には“幽玄”が横たわっている。いや,そうであるはずだという前提にこちらが立ってしまっている。その浅はかな思い込みかもしれないこちらの姿勢に,尺八は絶妙に絡んでくる。

● 結局のところ,オペラっていうのは,演者の個人技の集積だと思っている。総合芸術には違いないんだろうけど,核にあるのは個人技。脚本だの演出だのは,その邪魔さえしなければそれでいい。
 どうもモヤッとしたものが残るのは,その個人技を十全に出させていなかったからではないか,と。

2019年6月3日月曜日

2019.06.02 栃木県交響楽団 第107回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 昨夜から東京のホテルに泊まっている。せっかく東京に来たからには目一杯,東京を満喫したい。東京を満喫するとはつまり,ホテルでマッタリするというのと同義だったりするわけだけども。
 が,朝食を時間をかけて食べただけで,すぐ宇都宮に向かう東武電車に乗った。午後2時から栃響の定演がある。前売券を買っている。

● というわけで,午後には宇都宮市文化会館にいた。チケット(前売券)は1,200円。曲目は次のとおり。指揮は末廣誠さん。
 ベートーヴェン 交響曲第8番
 R.シュトラウス 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」

● 演奏もこの順番。メインはシュトラウスの大曲ということなのだが,どちらかというとベートーヴェンの方が印象に残った。特に第1楽章。
 この曲は生でも何度も聞いているし,CDでもしかりだ。その視聴記憶というか,ぼくの耳に残っているベト8より,今回はわずかにテンポが速かった(と感じた)。その“わずか”の効果はわずかではない。

● 楽章間にあまり間を入れず,一気呵成に走り抜けたのも与っているのかもしれないのだが,緊迫感に満ちた演奏だった。ステージから目を離せない。つまりは吸引力が強いということ。
 栃木県内の他のオーケストラを聴くとそれぞれに届くものがあって,別に栃響なくてもいいかも,などと思うことがあるのだけども,こうして栃響の演奏を聴いていると,この曲をこんな形に造形できるのは栃響だけかもなと思う。
 ま,このあたりはかなりいい加減だ。ご都合主義というかね。

● ベートーヴェンはこの後に第9番という途方もないものを残してくれた。それゆえ,8番が陰に入ってしまっている感がある。
 が,もし彼が第10番を完成させることができたとしたら,おそらくそれは8番の系譜に連なるものではなかったかという気がする。9番の延長線上にあることはないだろう。あのテーマで9番の先があるとは考えられないからだ。

● ベートーヴェンにあと数年の寿命が与えられたら,モーツァルトが最晩年に見せた俗塵の全くない透明感を醸すに至ったろうか。至ったとすれば,その素地となるのは8番しかない。
 いや,ベートーヴェンはそこには行かなかったろうな。慟哭するような無垢な悲痛を見せたのではあるまいか。人間的な,あまりに人間的な。晩期の弦楽四重奏曲を聴くと,おそらくそうだったろうと思われる。

● ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」は各国語に翻訳されて,日本でも岩波文庫をはじめ文庫だけでも数種出ている。読もうと思えば今からでも読める。実際,中学生でこれを読んだという早熟な人もいるだろう。
 そういうおまえはどうなのだと言われれば,ぼくは読んだことがない。若い頃,最初にヘーゲルに手を出してしまったのだ。これがいけなかった。
 タイトルも忘れたが,『法哲学』ででもあったろうか。1行もわからなかった。翻訳が悪いのだろうと思ったが,ドイツ人がドイツ語で読んでもわからないらしいから,翻訳者の責めに帰すのは申しわけない。
 ともあれ,以来,ニーチェにもハイデガーにも手を出すのはやめることにして,今日に至る。

● ということになると,シュトラウスのこの曲を聴いても,隔靴掻痒になるのかならないのか。
 ニーチェの作品を読んでなければ,シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を味わうことはできないとは決して思わないが,しかし,何やらモヤモヤ感は残る。読んだからといって消えるとも限るまいがね。

● ともあれ,シュトラウスは読んでいるわけだ。哲学科の学生だったのだから当然だということではない。
 Wikipediaによれば「1883年2月にわずか10日間で第1部が執筆され,同年6月に出版。続いて,同年夏に2週間で第2部、翌1884年1月に10日間で第3部が執筆され,4月に第2部,第3部が合わせて出版されたが,ほとんど売れず反響もなかった。最後に1885年に第4部が執筆されたものの,これは引き受けてくれる出版社がなく私家版40部が印刷され,その一部が親戚や知り合いに配布されただけであった」とある。が,その時点でシュトラウスはすべて読んでいる(らしい)。
 やはり,わかるかわからないかは別にして,目を通しておくべきかねぇ。指揮者の末廣さんは読んでいるだろうね,当然。

● こういうのって他にもある。「ペール・ギュント」にしたって,イプセンの戯曲を読んでる人は少ないだろう。
 それで何か困ることがあるのかといえば,ないかもしれないのだが(粗筋を知っていればいい),それでも読んでるに越したことはないだろう。原作はたぶん,退屈かもしれないのだが。
 「カルメン」もメリメの小説を読んで,オペラではストーリーをどう変えているのかを知っておいた方が解釈の役に立つかもしれない(立たないかもしれない)。

● というようなことを考えているうちに演奏は終わった。
 むむぅ,これで聴いたといえるのか。

2019年2月5日火曜日

2019.02.03 栃木県交響楽団 第106回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,200円(前売券)。
 お客さんはよく入っている。客席が埋まるのはけっこうなことだが,行列に並ばなくてはならないのは億劫だ。
 以前からそうだったから行列に並ぶのには慣れている。慣れてはいるんだけれども,並ぶことの億劫さが年齢とともに増してきた。

● 曲目は次のとおり。指揮は地元出身の小森康弘さん。
 エロール 歌劇「ザンパ」序曲
 サン=サーンス ピアノ協奏曲第2番 ト短調
 ドビュッシー 交響詩「海」
 ラヴェル ボレロ

● 今回のおめあては「ボレロ」。この曲を生で聴くのは二度目。2016年の7月に,スペイン国立管弦楽団の演奏を栃木県総合文化センターで聴いた。
 延々と繰り返される旋律が次第に大きくなって,それが聴衆を呑みこむ。ホール全体をも呑みこんで,世界のすべてになっていく。それがもたらす陶酔感が半端ない。その陶酔感をまた味わいたいと思ったのだった。

● 小太鼓がリズムを刻み,管が絡んでメロディを奏でる。が、待ちのある弦の奏者も神経を消耗するのではないか。出方がわずかでも狂えば,この曲は台なしになる。最も消耗するのは指揮者かもしれぬ。奏者にとっては厳しい曲かと思う。
 が,それゆえにこそ,聴衆にとってはめっぽう面白い。奏者と聴衆の利害は,表層的には対立するのだ。

● が,今回の収穫の第一は,サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番だったか。天才の非常なる早書きでできあがった曲らしい。3楽章に分かれてはいるものの,ピアノも管弦楽も一気呵成に駆け抜ける。駆け抜けた後に残る余韻。
 第1にはソリスト(渚智佳さん)の力量と構えによる。しかし,特に第3楽章における栃響の応接はほぼ完璧だったのではないか。つまり,第2には栃響管弦楽の水準の高さによる。

● ぼくらは(いや,ぼくは,と言い直そうか),地元にあるそれやこれやを見くびりがちだ。地元にあるということは,すなわち,大したものではないという。
 栃響にもその法則(?)をあてはめてしまいがちだ。とんでもない話であって,このオーケストラのレベルの高さは,もっと称揚されて然るべきだろう。

● チェロ協奏曲は昨日も聴いたし,これまで何度か聴く機会があった。が,ピアノ協奏曲となると,2番に限らず,生で聴いた記憶はない。この先もおそらくないんじゃないかと思う。
 が,この演奏を聴いたあとでは,それでもいいかなと思える。CDはあるんだから,CDを聴けばいいのだ。

● エロールという作曲家がいたことは,今日知った。Wikipediaによれば,代表作の「ザンパ」は「フランスとドイツで非常に人気があり,両国では今なお随時舞台化される」ものであるらしい。
 ぼくは名前も知らなかったくらいだから,CDも持っていない。YouTubeで聴くことはもちろんできる。それでよしとするか。

2018年12月17日月曜日

2018.12.16 第11回栃木県楽友協会「第九」演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● ベートーヴェンの「第九」は大世界遺産だと思う。凡百の世界遺産が100個束になってかかっても足下にも及ばないほどの,大世界遺産。
 この大世界遺産の素晴らしいところは,CDで好きなだけ聴けることだ。所有できる世界遺産だ。
 しかも,リッピングしてWALKMANやスマホに転送すれば,いつでもどこでも好きなときに聴けるのだ。大世界遺産をポケットに入れて持ち歩ける。この一点だけでも,ぼくらは恵まれた時代を生きている。

● 音質が良くなっている。昔日の比ではない。携帯音楽再生プレーヤーのほぼすべてがハイレゾに対応するようになった。たいていのスマホも同様だ。
 普通の圧縮音源でもハイレゾ相当に復元して再生してくれる。イヤホンもノイズキャンセリング機能が標準になりつつある。いやはや。

● 可能ならば音楽は生演奏で聴いた方がいいと思っていた。CDで生演奏並みの迫力を出すのは不可能ではないかもしれないけれども,環境の整備に億のお金を投じる必要があるだろうから,まったく現実的ではないと考えていた。
 が,ハイレゾが普通になってくると,ある程度の割り切りは避けられないものの,録音音源だけで充分かもしれないぞと思うようになった。ややもすると,ライヴ不要論に傾きそうになる。

● 実際のところは,ライヴの醍醐味は音だけではないので,録音音源の視聴環境がどれほど進化しようと,ライブが不要になることはあり得ない。
 そういう前提で,それでも演奏のみを聴ければいいというのであれば,もうWALKMANのみで足りるとぼくは思っている。

● ただし,「第九」に関しては,CDにはひとつだけ不満がある。合唱がちゃんと録音されていない。録音の仕方の問題なのか,合唱の録音がそもそも難しいことなのか,ぼくにはよくわからないが。
 ソリストの声はきちんと入っているのに,合唱がぼけてしまっている。合唱が遠くに感じる。空気を引き裂いて客席に届くあの迫力を,CDで感じることはない。オラトリオやオペラはどうなのだろう。
 だから,「第九」に関しては,ライヴを聴ける機会があったら,逃さない方がいいだろう。

● というわけなんだけども,11月に二度「第九」を聴いている。18日(鹿沼)と24日(川崎)。もう今年は「第九」は聴かなくてもいいかとじつは思っていた。今日は栃響の「第九」なんだけども,見送るつもりでいた。
 が,「ライヴを聴ける機会があったら,逃さない方がいい」のだと自分に言い聞かせて,2日前にチケット(1,500円)を買ったのだった。
 結局ね,妙に斜に構えないで,聴けるときに聴いとくものだというのが結論。

● 開演は午後2時。指揮は荻町修さん。
 いつもは県の総合文化センターで開催されるのだけど,総合文化センターは絶賛改修中。だから使えない。ので,この会場(宇都宮市文化会館)になった。おそらく来年も同じではないかと思う。
 総合文化センターに比べると,こちらは収容人員が多い。1階席と2階席は埋まったが,2階の右翼と左翼,3階席には空席が多かった印象。
 といっても,この会場を3階席まで満席にする催事は,ぼくが知る限り2つしかない。ひとつは作新学院吹奏楽部の定期演奏会。もうひとつは,来週開催される宇高・宇女高合同演奏会。いずれも高校生を動員できるという。

● “さすがは栃響”の精緻なアンサンブル。互いの音をよく聴いているし,奏者それぞれが全体の音をイメージできているような気がした。ステージにいて客席の音をイメージするのは,なかなか以上に難しいのではないかと思うのだが。
 それを象徴するのが木管陣で,なかんずくフルートの1番に瞠目。躊躇なく前に出る小気味よさ。最近,小気味いいというのは女性の特性なのだと思うようになった。
 コンマスを別にすれば,最もしなやかさを感じさせたのが,彼女のフルート。が,彼女は最も目立ったものの,一例にすぎない。

● 栃響の「第九」では,2012年(第5回)の神がかったような演奏を忘れることができない。その再現はしかし,難しいようだ。
 “北京で蝶が羽ばたくとニューヨークでハリケーンが起こる”的な複雑系に属する出来事なのだろう。複雑系の回路はブラックボックスだ。初期値がわずかに違うのだと思うが,その初期値を解明することなど,誰にもできない。

● チェロとコントラバスが“歓喜の主題”を静かに奏し始め,これがヴィオラ,ヴァイオリンに渡され、ついには管弦楽全体が壮大に歌いあげる。ここが第4楽章の白眉。
 苦悩と戦って歓喜に至るという場合,これで充分じゃないかと思う。これ以外,何があるというのか。これで“歓喜”は表現され尽くしたではないか,とぼくなんぞは思ってしまう。
 が,ベートーヴェンはそれすら捨て去り,さらに前に進んでいく。前人未踏の境地に分け入るとはこういうことだ(いや,ここまでの道のりも前人未踏だったわけだが)。

● 超人だと思う。天才の技という段ではない。天才もしょせんは人だ。が,ここにおけるベートーヴェンの所為はもはや人為を超えている。
 これほどの捨て身の跳躍は,音楽以外の分野を含めて,ぼくは他に知らない。「第九」が大世界遺産であると思う所以だ。

● これほどの壮大なドラマ(もしこれをドラマというならば,であるが)は,やはり良い演奏で聴きたいものだ。
 ベートーヴェンが残した,奏者のことをほとんど考えていないと思われる楽譜。そのとおりになぞどうやったって演奏できるわけがないじゃないか,と言いたくなる箇所がいくつもある楽譜。
 その楽譜を,ベートーヴェンの意を汲んで,精緻な演奏で表現しきることができるオーケストラが,そんなにたくさんあるとは思えない。栃木県ではひとり栃響のみと断言する勇気はぼくにはないけれども,ここまでの水準で「第九」を差し出してもらえれば,神がかってはいないとしても,まずもって文句はない。小さな事故は不問に付されて当然だ。

● ともあれ,栃響の「第九」が終わると,今年も暮れる。暮れたところで,今はまだ“来年”と呼ばれている“今年”がやってくるだけなんだけどね。
 といったあたりが,凡人が考えるせいぜいのところなのだ。凡人とベートーヴェンとの違いは,保育園の砂場の砂山とエベレストほどの違いであるだろう。

2018年9月18日火曜日

2018.09.17 栃木県交響楽団特別演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● “コンセール・マロニエ21”の優勝者をソリストに迎えて開催する,栃響の演奏会。開演は午後2時。チケットは1,000円。
 当日券もあったようだけど,このチケットは前もって買っておくのが吉。この演奏会の価値はお客さんはみな知っている。

● 今回の主役はピアノの田母神夕南さん。曲目は次のとおり。指揮は荻町修さん。
 ボロディン 歌劇「イーゴリ公」より ダッタン人の踊り
 チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調
 チャイコフスキー バレエ「くるみ割り人形」組曲

● で,いきなり結論。今年ぼくが聴いたコンサートの中で,今回が最も出色。その理由は,第一に田母神さんの渾身のピアノにある。全力投球の私を見て,という。名花,咲く,の趣あり。鬼気迫るという形容の仕方でいいのではないかと思う。
 が,それだけでこういう演奏会になるかというと,たぶん,それだけではこうはならない。

● 栃響が彼女を包むわけだが,その包み方がひじょうにいい。企んだことではない。包み方を意図したわけではなく,あくまで結果としてそうなったということなのだが。
 栃響の団員が彼女を好ましく思っているとかいないとか,そういうことではない。そういうこととは別のもの。
 栃響が田母神さんのピアノに見事に応接した,ということとも違う。さすがは栃響で,余裕すら漂わせていたと思うのだけど,そういうこととは微妙に違う。

● 客席も与って力あったかもしれない。要は,“場”がうまい具合にできあがっていた。
 その“場”に乗って,田母神さんが存分に実力を示して,存在感を全開にした。それを栃響(と指揮者の荻町さん)がスッと受けとめて,細かくバックアップ。
 さらにそれを客席が許容するというか,押しあげるというか。そういう三重構造がサッサッサとできあがった。ソリストと管弦楽と客席のひじょうに好ましい関係が具現された。

● それを作る核になったものが何かといえば,“田母神さんの渾身のピアノ”であることは確かだから,その功績をしいて特定の誰かに帰せしめるとすれば,田母神さんということになる。
 田母神さんはこれから,あまたの会場であまたのオーケストラと共演するはずだけれども,今日のこの演奏会は,彼女の記憶に長く残るのではないかと愚察する。また,そうなってくれればいい。

● その田母神さんのアンコールはショパン「練習曲」の第1曲。お土産までもらってありがとう,という感じね。

● このピアノ協奏曲に登場していた,栃響のフルート。新顔かな。ぼくが気づかないだけで,前からいたのかもしれないけど。
 出番が多いからいきおい目立つことになるんだけども,彼女のフルートに瞠目。若い力が入ったのだなと思った。
 あと,「ダッタン人の踊り」のクラリネットにも。

● 休憩時にこんな話をしているお客さんがいた。
 わずか2時間のために,店を閉めるってリスクだよね。
 でも,1回だけのことだから。
 そうだね。1日の売上げだけだもんね。

 いやいやいや,あんまり良くないかもよ。店を閉めるってよくよくのことでしょ。
 1回だけのことっていうんだから,田母神さんの知り合いだろうか。店を閉めてわざわざ宇都宮までやって来た,と。
 こんなお客さんも来てたよ,ってことね。

2018年2月5日月曜日

2018.02.04 栃木県交響楽団 第104回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,200円。これは必ず前売券を買っておく演奏会のひとつ。
 曲目は次のとおり。指揮は小森康弘さん。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 モーツァルト クラリネット協奏曲 イ長調
 ラフマニノフ 交響曲第2番 ホ短調

● 30分前に開場。で,開場時点では長蛇の列。これを見ると入りきれるのかと思うんだけど,人間の視覚というのは,客観性を欠くものだね。オッと思うと,実人数よりも多いと捉えてしまう。
 勝手に自分の定位置と決めている,2階右翼席の奥(最も中央寄り)に座ることができた。

● メインはラフマニノフの2番。が,今回に限ってはモーツァルト「クラリネット協奏曲」を聴くために来た。CDで最も多く聴いているのが,たぶん,この曲だ。
 人類の至宝だと思っている。世界遺産などというレベルではない。そんなものと比べるわけにはいかない。
 言ってしまおうか。モーツァルトのこの曲に比べれば,日光東照宮などゴミも同然だと思っている。

● モーツァルトの天才をもってしても,この曲が顕現するには,彼の最晩年(といっても,35歳)を待たねばならなかった。
 突き抜けた明るさが全編をおおう。明るさをいくら煮詰めたところで,明るさを尽き抜けることはない。突き抜けるためには,幾分かの悲しみ,諦念がなくてはならぬ。その悲しみや諦念を濾過する辛い過程を踏んでいないと,突き抜けることはできないものだろう。

● その悲しみを湛えた透明感が,真っ直ぐにこちらに迫ってくる。透きとおっていて,濁りというものがまるで見られない。その深い透明感がどうにも・・・・・・。
 その突き抜けた明るさと透明感を合わせると,高貴なる何ものかになる。第1楽章から第3楽章までのどこを切っても,その断面から高貴なるものが溢れでるように思える。

● 小林秀雄は「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」と言った。が,この曲においては,悲しみは疾走しない。静かにそこにたたずんでいる。
 あるいは,スピノザの神のごとく,この曲のあらゆるところに遍在している。

● 文は人なり,書は人なり,という言い方がある。その伝でいえば,曲は人なり,と言えるだろうか。モーツァルト本人は,エゴイスティックな俗物であったらしい。高貴なるものとモーツァルトは結びつかない。
 ○○は人なり,という言い方には,途方もない緩さ,ぬるま湯的な甘えがあるのかもしれない。人を磨けば作品もそれに相応して良くなるはずだ,というとんでもない楽観が。モーツァルトのこの曲を聴くたびに,そのことを思う。

● クラリネットのソリストを務めたのは,藝大1年生のときにコンセール・マロニエを制した近藤千花子さん。役者に不足はないと言うべきだ。
 が,この曲の出来を決めるのはバックの管弦楽だ。これはもう圧倒的にそうで,この曲の醍醐味は,管弦の音の粒の連なりが,渓流のごとく流れ下っていく様を味わえるところにある。特に第1楽章はほとんどそれに尽きるだろう。

● ゆえに,この曲に関する限り,管弦楽にわずかのミスもあってはならない。跳ねっ返りの解釈も要らない。限りなく保守的であってほしい。革新は無用だ。栃響はさすがであった。
 とはいえ,どうせ聴くなら名手のクラリネットで味わいたい。それもまた満たされたわけだ。
 しかし,わずかに,第2楽章の終わりに,やや不用意な収束を見せてしまったような・・・・・・いや,こちらの勘違いというか,無知がそう思わせるのかもしれない。あれで完璧なのかもしれないのだが。

● いや,堪能できた。大満足だ。ずっと息を詰めるような思いで聴いていた。終わったあとはボーッとしてしまった。そのボーッとした状態で,ラフマニノフの2番を聴いてしまった。
 ので,ラフマニノフの印象がほとんどないのは困ったことだ。イメージ喚起力が強い曲だとは思った。いろんなところにこの曲が使われるのには理由がある。
 反面,この曲を嫌う人もけっこういるのじゃないかと思う。ショスタコーヴィチはいいけれども,チャイコフスキーもラフマニノフもダメだと言う人,いるんじゃないかなぁ。

● というわけで,今回はクラリネット協奏曲がすべて。ぼくは極めて貧弱なオーディオ設備しか持っていないんだけど,いいやつがほしいなぁと思うことが,年に一度か二度ある。今日はそれにあたった。
 いいオーディオ設備を整えたうえで,CDでこの曲を聴きたいものだ。億のお金があればそうするんだが。いや,ほんとにね,そうしてCDを聴きながら,1億円なんて小銭だよ,なんてうそぶいてみたいものだね。

2017年12月20日水曜日

2017.12.17 第10回栃木県楽友協会「第九」演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● この「第九」演奏会も10回目になるのか。「第九」は12月の風物詩になって久しい。冬の季語として歳時記に載ってもいいのじゃないかと思うほどだ(ひょっとして載っているのか)。
 ぼくは10回の全部を聴いているわけではないのだけれども,それでも,ま,かなりの回数は聴いている。地元の「第九」だからね。
 開演は午後2時。チケットは1,500円。この金額もずっと変わらない。

● 10回目の今回は,ソリスト陣が豪華。コンセール・マロニエ声楽部門の優勝者を揃えた。ソプラノが石原妙子さん,アルトが秋本悠希さん,テノールに田口昌範さん(田口さんだけはコンセール・マロニエとは無関係),バリトンに高橋洋介さん。清新な実力者が並んだって感じでしょ。
 指揮は栃響の荻町修さん。管弦楽は栃木県楽友協会管弦楽団というレッテルの栃響。恒例の対抗配置。

● 演奏するのはもちろん「第九」。露払いにヨハン・シュトラウス2世のワルツ「南国のバラ」。
 「南国のバラ」は初めて聴いた。CDではたぶん聴いているはずだけど,印象は他の曲に紛れてしまっている。たしかに聴いたという記憶すら残っていない。
 でも,こうして聴いてみると佳品だなと思う。聴くときの環境にもよりますね。だから,環境を整えることは大事なんだけど,わかっていてもこの点に関して,ぼくはほとんど無頓着だ。

● 「第九」は第1楽章がすべてだと思っている。冒頭,ホルンが宇宙の開闢を告げる。物理法則を無視して,無から有が生じる瞬間だ。ここでゾクッとするのだ。演奏のスタートのその際に,“ゾクッ”が付いてくる。
 ここでのホルンはほんとに重要だ。全身全霊をこの一瞬に注いで,宇宙開闢を告げてほしい。あくまで静かに,だ。神の代役なのだぞ。神は大声を出さないものだ。

● 生まれたばかりの宇宙に弦が綾を付けていく。ここから宇宙はどう変成していくのか。第1楽章全体がその答えだ。うねって,跳ねて,伸縮を繰り返して,宇宙は形を整えていく。このようにして宇宙は成ったのだ。
 しかし,第1楽章の最後は閉じない。開かれたままだ。宇宙は成ったのではあるけれども,完成はしない。永遠の未完なのだ。それが宇宙というものだ。

● というわけで,第1楽章が終わった時点で,こちらはグッタリと疲れてしまう。もう帰ってもいいかと思う。
 もちろん,席に着いたまま第2楽章を待つわけだけどね。宇宙開闢の物語は第2楽章には持ちこまないことにしたい。

● 「第九」の第2楽章は激しい。ティンパニ協奏曲とはよく言ったものだと思うが,ではこの楽章の主役はティンパニかといえば,どうもそうではない。というか,主役なんていない。
 弦にも管にも,作曲家は全速前進を命じている。オーケストラに息をつく暇などない。いや,息はつけるけれども,気を抜いていい時間など,コンマ5秒もないだろう。

● そして,激しさから一転して,まどろむような緩徐楽章。Wikipediaは「神秘的な安らぎに満ちた緩徐楽章である」と解説している。
 このまどろみを演出するために,奏者はまどろむわけにはいかない。感覚をいよいよ研ぎ澄ませて,ヴァイオリン奏者は左手の指を忙しく動かすのだ。

● しかし,このたゆたうような心地よさは何ごとか。竜宮城で鯛や鮃の舞い踊りを鑑賞していた浦島太郎も,こんな気分を味わっていたのだろうか。
 ひょっとしたら,この世で一番のリゾートは,ホールで「第九」の第3楽章を聴くことかもしれない。いかんせん,リゾートというには,時間が短すぎるわけだが。かといって,長く聴いていられるかとなると,それはそれで難しいだろうから,やはりリゾートにはならないか。

● 第4楽章。普通に考えれば,ここが「第九」の「第九」たる所以。
 が,この曲はあくまで管弦楽曲であって,合唱も独唱もパートの一部に過ぎない。「第九」から声楽を取り除いてしまっても,依然として「第九」であり続けると思う。
 そこがたとえばマーラーの2番「復活」との違いだ。「復活」から声楽を除いてしまえば,「復活」はもはや「復活」ではなくなってしまう。
 いや,だからといって,何か言いたいことがあるわけではないんですけどね。

● あの有名な旋律をコントラバスとチェロが奏で,それをヴィオラが受ける。あそこまで美しくヴィオラが鳴る局面を,ぼくは他に知らない。
 さらにヴァイオリンが受ける。このところで,うっかりすると泣きそうになる。

● バリトンの高橋さんが先陣を切る。歌い手に不足はないはずだ。
 が,その高橋さんをもってしても,あの地を這うような,地中からわいてくるような,重々しさを表現するのは,なかなかに難しいようだ。

● どうしたってソプラノが美味しいところを持っていってしまうかなぁ。
 石原さんのソプラノを聴くのはこれが三度目になる。彼女が優勝したコンセール・マロニエと,東京アマデウス管弦楽団がコンサート形式で「カルメン」をやったときに,ミカエラ役で出ていたのを聴く機会があった。

● ここで大きく脱線。
 その「カルメン」のときのエピソードといいますかね,終演後,観客の誰かが石原さんのミカエラを評して言った言葉が忘れられない。その人は・・・・・・「巨乳のミカエラ」と言ったのだ。
 待て待て,誰かじゃなくて,それはおまえが言ったのだろう,と穿った見方をする人がいるかもしれない。鋭い洞察ではあるけれども,残念ながらそうではない。誰かが言ったのを聞いたのだ。ちなみに,そのときの会場はミューザ川崎だった。

● ソプラノに比べると,アルトは地味目で損(?)だ。が,秋本さん,とんでもない色気をまとっているように見えた。何かあったんだろうか。
 彼女の声を聴くのは,これが5回目になるはずだ。印象に残っているのは4年前の藝祭。シュニトケ「オラトリオ長崎」でソリストを務めていた。
 それから,栃響特別演奏会での「ふるさと」も。アカペラだったんだよな。

● ベートーヴェンが第九交響曲を残してくれた恩寵というものを思ってみる。この曲がある世界とない世界。
 栃響の演奏も見事なもの。多少の事故がなくはなかったけれども,問題とするに足りない。たいしたものだよ。栃木県に栃響があることの恩寵も思ってみるべきだよね。
 大晦日にもう一度,第九の全楽章を聴く機会がある。当面,それを糧にして生きていくことができる(大げさに言えばね)。

2017年9月26日火曜日

2017.09.23 栃木県交響楽団特別演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 16時から栃木県交響楽団の特別演奏会。前年度のコンセール・マロニエの優勝者をソリストに迎えて,毎年,行っているもの。今回のソリストは,メゾ・ソプラノの山下裕賀さん。
 チケットは1,000円。当日券を購入。

● 栃響の演奏を聴くのは久しぶりの感じ。今年の2月に第102回定演を聴いている。それ以来。
 第103回を聴いていないんだな。それゆえの久しぶり感。

● 曲目は次のとおり。指揮は荻町修さん。
 ビゼー 歌劇「カルメン」より “前奏曲” “ハバネラ” “セギディーリャ” “間奏曲” “シャンソン・ボエーム” “アラゴネーズ”
 ドニゼッティ 歌劇「ラ・ファヴォリータ」より“ああ,私のフェルナンド”
 ドヴォルザーク 交響曲第8番 ト長調

● さて,山下裕賀さん。昨年のコンセール・マロニエ本選も聴いている。彼女の優勝は,おそらく審査員の全員一致によるものだったろう。
 異能の持ち主だなぁ。楚々とした華やかさがあり,雄々しくもあり。すでにして大物感もある。
 自分が逆立ちしてもできっこないことを,軽々とやってのける人を見るのは,気持ちがいい。けれども,この分野でも,毎年,新しい才能が登場する。大変な世界なんでしょうねぇ。

● 山下さんのアンコールは,武満徹「小さな空」。この曲はもともと無伴奏なんですかね。生で聴くのは初めて。

● 栃響のポテンシャルにも注目。2012年の「第九」を聴いて,栃響への認識を改めたつもりなんだけど,まだ足りなかったかもしれない。
 ドヴォルザークの8番になって,いよいよそれを感じることになった。栃響の核は木管陣にあるのかも(いずれのパートもエースは女子)。
 この曲は木管が前面に出ることが多い曲のひとつだと思うんだけども,そういう曲で栃響は本領を発揮する。

● いや,この言い方だと木管以外はダメっていうふうに聞こえてしまう。そうではない。
 たいていのオーケストラは,木管が隘路になることが多いのではないかと思っている。ここがよく通れば,音の流れはスムーズで,詰まったり溢れたりしない。
 栃響はここで詰まることがないから,今日のような曲だと,木管,すごいじゃないか,って印象になるんだな。

● アンコールの「アルルの女」第2組曲“メヌエット”もぬかりはなかった。ほとんどフルートの独壇場。そのフルートがこれだけすごいんだからね。

● 今日のような演奏を聴けると,栃響が地元にあることの恩恵は大きいなぁと実感する。栃響が月に1回の演奏会を開いてくれれば,東京に出かける必要もなくなるだろうな。
 まさかそんなアマチュアオーケストラがあるわけもないから,年に何度かの東京行きが続くことになる。できれば栃木に沈潜したいんだが。

2017年2月9日木曜日

2017.02.05 栃木県交響楽団 第102回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 今回は宇都宮市ではなく,那須野が原ハーモニーホールでの開催。
 開演は午後2時。チケット(前売券)は1,200円(全席自由)。指揮は三原明人さん。

● 早めに家を出たんだけど,会場の近くにあるラーメン屋で昼食を食べるのに,ちょっと時間をかけすぎてしまって,会場に着いたのは開演15分前。
 すでにかなりの数のお客さんで,空席を見つけるのに苦労した。前から3列目に座ることになった。オーケストラの演奏を聴くには,いくら何でも前過ぎるんだけど,致し方がない。致し方ないんだけど,こうまで前だと,ヴァイオリン奏者しか見えないわけで。

● このあとも続々とお客さんがつめかけて,まったく空席はなくなった。それでもまだ来るので,スタッフがオルガンの下にパイプ椅子を並べた。それでも足りずに立ち見のお客さんが出た。
 どうしたんだろうか。座席の数以上にチケットを販売してしまったんだろうか。これだけ入っていると,演奏する側は気持ちいいんだろうけどね。

● 曲目は次のとおり。
 ドヴォルザーク 交響曲第8番 ト長調
 早川正昭 ハープ協奏曲「月児高」
 サン=サーンス 交響曲第3番 ハ短調「オルガン付」
 交響曲が2つという重量級のプログラム。最近はこういうのが珍しくなくなった。だから驚くことはないんだけど,演奏する方は大変だろうなぁ。

● ドヴォルザークの8番を聴くのは久しぶり。栃響は「第九」以外で対向配置を採用することはあまりない印象があるんだけど,今回はその対向配置。
 しかし,配置がどうのこうのより,演奏においては活きの良さって大事だなと思う。活きを生むのは,集中と思い切りなんだろうけど,集中できる,思い切りよく踏みこめるためには,巧くなければいけない。
 技術がすべてではないけれども,ある程度の技術がないと,音楽に限らず,表現行為は成立しないものなのだろう。文章表現もまた同じ。

● 地方で音楽を聴くというときに,一番大切だなと思うのは,安定供給が確保されていることだったりする。群馬には群響が,山形には山響があって,地元で数多くの演奏会を開催しているのだろう。群馬や山形ではその条件が満たされている。
 基本的にぼくは栃響の演奏水準に不満はない。これだけ活きのいい演奏を聴かせてもらっている。それ以上望むことはあまりない。栃木県に住んでいて,栃響でダメなら仕方がないのだとも思っている。

● が,栃響はアマチュア・オーケストラであって,定演が2回,特別演奏会と年末の「第九」,一般向けの演奏会はこの4回のみ。他に有志の活動もあるようだから,アマオケとしてはかなりハードに活動している。
 ただ,群馬や山形の住人に比べると,栃木県人は栃響への依存度を高めたくても高められないというところはある(だから,年間に数十回の演奏会を催行できるプロのオーケストラが栃木にもあった方がいい,とはまったく思わないのだが)。

● 第3楽章は3拍子の舞曲。たぶん,ここが8番の中で最も知られているところだろう。ここが聴きたいから,この会場まで自分を運んできたのだという人もいるかもしれない。
 こうした部分を突破口にしてクラシックを聴く人が増えてくれればと思う。というのも,クラシックに馴染めるかどうかは10代で決まると言われるからだ。10代のうちにクラシック音楽を聴いて,何らかの痕跡を残してもらわないと,一生,クラシック音楽とは無縁に終わるだろう,という言い方。

● ほとんどの人は小学生のとき,学校の音楽室でクラシックのレコードを聴かされたはずだ。中学校でも然り。自分には居眠りタイムだったという人も多いはずで,だから自分にクラシックなんかとなったりするんだろう。
 無理に聴く必要はさらさらないんだけど,10代云々という話をあまり真に受けない方がいいのじゃないかと思う。例外もけっこういるはずだからだ。ぼくもそのひとりだ。

● 演奏のプロになるなら5歳から楽器を始めていなくてはならないとしても,聴く方はそうじゃない。聴くことにおけるプロというのがもしいるとしても,そのプロになり得る有資格者は5歳から楽器を始めた人たちに限られる。ぼくはそう思う。
 世上,音楽評論家というのはいるけれど,間違えるのが評論家の仕事だ。評論家の言うところを深追いするのは,あまり賢いとは思えない。

● クラシックの側に自分がすり寄るんじゃなくて,クラシックを自分に引きつけて聴けばいいんだと思う。大御所には大御所の聴き方があり,ぼくらにはぼくらの聴き方がある。聴き方に優劣を持ちこんでも仕方がない。
 自分に引きつけるキッカケになる音楽の断片が,映画やドラマやテレビCMの中にあるかもしれない。ドヴォルザークの8番第3楽章の出だしのところにあるかもしれない。それらのどれかをガチッとではなく,フワッと掴んでもらえるといいのかなぁと思ったりする。

● ハープ協奏曲「月児高」が流れ始めたとたん,あ,これは日本人が作ったものだとすぐにわかるな,と思った。のだが。
 プログラム冊子に作曲者自身による曲目解説がある。それによると,台湾のレコード会社から「中国琵琶の古曲(独奏曲)にオーケストラをつけて協奏曲風にしてほしいとの依頼を受けて書いたのが発端」とのこと。作曲者とすれば,ことさらに和を強調しようとは思っていないんでしょうね。
 ちなみに,「月児高」とは「高い所に小さな月がかかっている,という意味」だそうだ。

● ハープ独奏は早川りさこさん。作曲者の説くところによれば,独奏ハープが月を引き受けている。つまり,月の四方山話の独白をハープが行う。その独白の内容がどんなものかは,聴き手ひとり一人によって違うのだろう。
 この曲は聴き手にとっては難解な部類に属するとぼくは感じたが,それはこの曲目解説にあるとおりに聴こうとすればということかもしれない。聴き方は自由なはずだ。

● サン=サーンスの3番はこのホールならでは。電子オルガンで代替すれば,その限りではないけれども。オルガンはこのホールの専属を務めているジャン=フィリップ・メルカールトさん。
 オルガンは独奏で聴くよりもこういう形の方が身体に染みてくる(ように思う)。

● サン=サーンスは「モーツァルトに匹敵する神童」であったらしい。しかも,音楽に限らず,戯曲や詩,小説から天文学や考古学,哲学に至るまで,幅広い分野の著書があるんだそうだ。本当かね。
 反面,母と叔母に溺愛され,束縛され,その結果としてマザコンの権化でもあった。マザコンでも哲学はできるんだな。
 と,凡愚は天才を茶化したくなるんだけど,サン=サーンスってこの交響曲第3番だけで歴史にその名を刻まれる人でしょうね。

● 壮大な曲だと思う。ライヴで何度か聴いているんだけど,たぶん,ぼくはこの曲を聴ききれていないだろう。
 聴ききるためにはどうすればいいのか。CDを何度も聴くとかね。そういうことしかないんだろうな。急ぐことはない。ボチボチ行こう。
 ぼくに残された時間はそんなにないと思うんだけど,だからといって急いだってしょうがないやね。

● アンコールはエルガー「威風堂々」。「威風堂々」を聴くとき,ひとつだけ困ったことがある。「キーテキテ,アタシーンチー,キテキテ,アタシンチー」というコトバが,頭の中に浮かんでしまうことだ。
 今回の曲目はアンコールまで含めて,脈絡がない。どういうわけでこのような選曲になったのだろう。もっとも,脈絡が要るのかと問われれば,そんなものは必要ないね,というのが回答になるわけだけど。

2016年12月20日火曜日

2016.12.18 第9回栃木県楽友協会「第九」演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● この「第九」演奏会も今年で9回目。ぼくは2回目から聴き始めて,第4回は聴けなかったんだけど,それ以外は聴いている。ので,今回が7回目になる。
 第5回のときだったか,客席に若干の空きがあるのを見て,「第九」人気に若干の陰りが出てるのかと思った。が,今回は3,4階のバルコニー席を除いてほぼ満席。「第九」人気は続いているのだった。

● 「第九」は合唱団とソリストが必要になるわけだから,装置を整えるだけでも大変。裏方の苦労は相当なものだと推察する。
 しかも,この「第九」は地元調達を基本方針としているから,表と裏がないまぜになっているだろう。表の苦労と裏の苦労の両方を引き受けている人もいるに違いない。

● 管弦楽は栃木県交響楽団。栃木県楽友協会管弦楽団というのが正式名称のようなんだけど,実質的には栃響で,そこにエキストラが何人か加わっているという感じ。
 昨日聴いた真岡市民交響楽団のコンミスもその“エキストラ”で入っていた。あるいは,昨夜の真岡オケの演奏会に賛助で出ていた栃響の団員が何人もいる。本番の連チャン。この時期は忙しいなぁ。

● 開演は午後2時。指揮は荻町修さん。ソリストは松野典子さん(ソプラノ),荻野桃子さん(メゾ・ソプラノ),岩瀬進さん(テノール),荒井雄貴さん(バリトン)。
 「第九」の前座(?)は,ヨハンシュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲。この演奏会では,この曲を持ってくることが多い。手慣れた曲にして管弦楽の負担を減らすためかとも思われる。
 栃響ってアマオケとしては,おそらく活動過多になっている。それでも一定水準以上にこなしてしまうのは,実力派が数多くいることの結果だ。
 そうはいってもこれ以上に負担を増やすのは,傍から見ていてもいかがなものかと思う。増えてもぜんぜんOK,むしろ望むところだ,という人たちもいるっぽいんだけど。

● ぼくは「第九」の肝は第1楽章にあると思っている。その第1楽章はホルン,オーボエ,フルートで決まる。演奏に対する印象というのは,演奏開始後の数分間で決まってしまう。その印象がその後の演奏によって覆ることは,まずないとしたものだ。
 しかし,何事にも例外というのはあるんだな。今回は,第4楽章の例の有名すぎる旋律を奏でる前のところで,ゾクッときた。
 あれは何だったのか。この数秒間に世界が凝縮されている,思想も宗教も何もかもすべてが詰まっている,といった感覚。

● 「第九」は生でCDで何度も聴いているけれど,こういう感覚を味わったのは初めてだ。もうないかもしれない。たぶん,ないだろう。
 どういう理由でそうなったのかはわからないけれど,この数秒間を味わえただけで,今回は良しとする。

● 「第九」はあくまでも管弦楽曲であって,合唱がメインではない。栃木県では栃響の演奏で満足できなければ,もうその後はないわけだ。
 強いていえば,もっと高い料金を払ってプロオケの演奏を聴きなさい,と言うしかない。日フィルの演奏会が毎年,宇都宮で催行されているから。
 なぜこんなことをウダウダと書いているか。数秒間の震えを味わえたものの,全体としてはかすかに“飽き”が自分の中に兆しているのを感じたからだ。

● 演奏する方はどうなんだろうか。この曲を演奏することに飽きる。あり得ないでしょうね。
 でも,聴く側のぼくには“飽き”が兆している。その理由は“聴きすぎ”にあるのかもしれない。それ以前に,弛みのようなものが出ているのだろう。
 しかし,次回は節目の第10回。何かサプライズがあるような気がする。

2016年9月19日月曜日

2016.09.17 栃木県交響楽団特別演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 前年度のコンセール・マロニエ21の入賞者を迎えて,栃響が管弦楽を務める演奏会。開演は午後4時。
 2時開演だと勘違いしてた。だいぶ早く着いてしまった。休日昼間の演奏会はたいてい午後2時開演,と勝手に思い込んでいたのがいけない。この演奏会も昨年は2時開演だったんだけどね。

● 昨年までは入場無料。今年から有料になった。1,000円。
 昨年,「ぼく一個は有料にしても構わないと思う。そうしてもお客さんの3分の2は残るのじゃないか」などと書いているんだけど,3分の2どころかほとんどのお客さんが残ったようだ。
 この演奏会のために会場まで足を運ぶお客さんっていうのは,8月のN響公演に来ていたお客さんより,聴き手としてのレベルは数段上だと思われる。というのが大げさならば,聴き手としての粒が揃っていると言い換えてもよい(おまえ以外はな,と自分で突っ込んでおこう。人に言われる前に)。
 ビッグネームだから聴いておこうという手合いがいないわけだからね。好きだから来ている人たちだと思うので。

● まず,栃響だけでモーツァルトの「魔笛」序曲。栃響の腕前を披露するのと同時に,場を整える効果があるんでしょうね。

● そうしておいて,次にフンメル「トランペット協奏曲」。トランペットを吹くのは刑部望さん(男性)。坊っちゃん坊っちゃんした童顔の持ち主で,ルックス的にはいじられキャラっぽい。
 おそらく,このあとに打ちあげがあるんだろうけど,その席では栃響のおば様方に人気絶賛なのではあるまいか。

● フンメルのトランペット協奏曲を生で聴ける機会など,そうそうないだろう。それがまた,この演奏会のありがたいところだ。
 刑部さんのアンコールは,バジーニ「カンタービレ」。リラックスして楽に演奏していた(ように見えた)。こういう演奏をコンセール・マロニエのときにできていれば,2位ではなくて1位になっていたか。そういうものではないか。

● ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。ピアノは井村理子さん。
 前年度のコンセール・マロニエのファイナルはぼくも聴いている。技量といい舞台捌きといい,井村さんは他の出場者を圧倒していた。
 ただ,ここまでになっていると,コンセール・マロニエに出てはいけない人なのじゃないかと思ってしまった。彼女にはもっと彼女に相応しい舞台があるのではないか。

● コンセール・マロニエは新人発掘の場だ。ところが彼女はすでにベテランの域に達しているように見えた。ゆえに,コンセール・マロニエの審査員もあえて彼女を(入賞から)外してくるのではないだろうかと思っていた。
 が,彼女が優勝。あれこれ考えないで,出来映えだけで判断すれば,それが当然の結果ではある。ぶっちぎりの優勝だったはずだ。

● で,今回の演奏。やはり,井村さんからは功成り名を遂げた人のオーラが出ているようなんだよなぁ。不思議な人だなぁ。
 演奏は優雅にして正確無比。ミスタッチがまったくなかったわけではないのかもしれないけれど,聴衆に気づかれるようなものじゃない。

● 井村さんのアンコールは,シューベルトの「即興曲」から。しっとりと聴かせてくれて,ため息のだめ押し。
 腕を後ろに組んでお辞儀をする。これ,かなりいいと思った。彼女のトレードマークにできるのじゃないか。こういった仕草にも磨きをかけるといいよねぇ。舞台に立つ人だもの。

● 最後に栃響だけでヨハン・シュトラウス「皇帝円舞曲」。アンコールも同じヨハン・シュトラウスの「こうもり序曲」。
 重厚さを表現する方が,軽快さを表すのに比べれば,楽なのかもしれない。ヨハン・シュトラウスは軽さが身上で,じつはこの曲を演奏するのはかなり難しいのかも。ベートーヴェンの5番の方がやりやすかったりするのかもね。

2016年7月26日火曜日

2016.07.24 オペラ「蝶々夫人」 栃木県オペラ活動30周年記念

栃木県総合文化センター メインホール

● だいぶ前にチケットを買っておいた。行かなきゃもったいないというケチ根性。席はS(4,000円)とA(3,000円)の2種。安い方のA席を買っていた。
 2階席でピットがよく見えた。収容人員が1,600人程度のホールだから,ぼくの席からでもそんなにステージが遠いというわけでもない(早い時期に買ったから,Aの中ではかなりいい席を取れてはいた)。

● 開演は午後2時。管弦楽は栃木県交響楽団で,指揮は荻町修さん。演出を担当したのは宮本哲朗さん。
 蝶々夫人に篠崎加奈子さん。ピンカートンが田口昌範さん。シャープレスを石野健二さんが,スズキを柳田明美さんが演じた。わりと大事な役どころのゴローは岩瀬進さん。
 皆さん,栃木県の出身者あるいは在住者。

● 「蝶々夫人」の生の舞台はこれまでに少なくとも二度は観ている。ただ,演奏会形式だったりハイライト形式だったりした。ので,完全版を観るのは今回が初めてだ。
 劇中の蝶々さんは15歳。が,それを劇の中で自身が語るシーンは,今回初めて観るものだ。

● この劇では,蝶々さんが悲劇のヒロインで,ピンカートンが悪役というか女の敵といった役回りになるんだろうけれども,実際には蝶々さんも困った人だよね。女としてあまりに未熟っていうかさ。
 どこが未熟かっていうと,3歳の息子の前で,あられもなく女に戻ってしまうところ。自分の母親が女に戻るのを見るのは,子ども心にも嫌なものだろうよ。男の子は,特に。
 極めつけは,その子どもの前で自害すること。子どもにしたらさ,母親に目の前で自殺されて,あげくに別の女性(母親を死に至らしめた父親の妻)に引き取られて異国で育てられるわけでね。これでグレるなって言うのは,言う方に無理があるよ。

● 息子にそこまでの重荷を背負わせて,自分は名誉に殉ずる? サイテーじゃん(シャープレスとケイトに子どもを預けるように説得(強制)された,というわけではあるんだけどさ)。
 ここを何とか緩和するのが,蝶々さんが死ぬ時点でまだ18歳だということだ。18歳なんだから,多少のことは大目に見てよね,っていうね。

● 純粋とか純愛とかっていう,純の付くものは,愚かの別名であることがほとんどだ(本当はすべてだと言いたいんだけど)。
 宗教でいうと原理主義。考えるという面倒な作業をとことん省略すると,原理主義に行き着くはずだ。原理主義を信奉すれば,何も考えなくてすむ。逆にいえば,考えなくてすませたければ,原理主義を信奉すればいい。

● 純粋なんていうのもそうだろう。競馬馬のようにブリンカーをかけられて,視野が一点に限定されている状態を純粋というのだ。
 一点しか見えてないんだから,それに向かって突き進めるわけだ。勢いもでる。はた迷惑な勢いだけど。

● ことほどさように,「蝶々夫人」に限ったことではないんだけれども,オペラのストーリーや人物設定は,現実離れしたものになっている。
 その現実離れしたストーリーや登場人物にリアリティーを与えなければならない。リアリティーを与えて,観衆を舞台に没入させなければならない。

● リアリティーを与える技法として,オペラでは歌を使う。この技法もまた現実離れしている。そういうコミュニケーションのあり方は,ぼくらの現実世界には1ミリもないからだ。
 あまりに荒唐無稽なストーリーや人物にリアリティーを与えるには,その技法もまた現実離れしたものにならざるを得ないのかもしれない。
 虚構にリアリティーの息吹を与えるのに,歌という虚構をもってする。歌という表現技法が,独自の虚構世界を作りだすのに与って力あることは,間違いないように思われる。

● 技法が歌であるとすれば,歌に説得力がなければならない。歌に説得力があるとはどういうことか。ごくザックリといえば,上手いってことだよね。
 上手いだけでは足りないのかもしれないけれど,上手くないんじゃリアリティーが立ちあがってこない。

● 今回の「蝶々夫人」はどうだったかといえば,揺るぎない真実性が舞台上にずっと存在していたと思う。
 主役の蝶々さんを演じた篠崎さんの功績に帰して差し支えないだろう。第2幕の前半は,蝶々さんのアリアだけで,劇を支えているといってもいいくらいだ。これがこけてしまったら,劇も舞台も面目を失ってしまう。彼女は見事に支えきった。

● 「ある晴れた日に」は,この歌劇で最大の聴かせどころだろう。これを聴きにきたのだというお客さんだっていたかもしれない。
 篠崎さんは,気負わず,しかし情感をこめて,このアリアを客席に差しだした。想像で申しあげるのだが,ここで泣いた人が最低でも50人はいたのじゃないか。

● さらに「かわいい坊や」で,“私のもとに天国から降りてきたおまえ”と子どもに語りかけるところ。
 脚本が蝶々さんに目いっぱいの気配りをしている。それを受けて,18歳の蝶々さんが子どもへの細やかな情愛を表現する。
 さらに,篠崎さんがそれを受けて,表現を具体化していく。この子を残して自分は死ぬと決めた母の覚悟,武家の娘の矜恃のようなもの,ピンカートンへの思い,捨てられた自分を持てあます自分。
 それだけではないのかもしれないけれども,万感をこめた“おまえ”という呼びかけ。

● 篠崎さんにしても,スズキを演じた柳田さんにしても,歌だけではなくて所作が美しい。
 着物を着ると,ひとりでにこうした所作ができるものなんだろうか。日本人なんだからあたりまえでしょ,ってものでもないよねぇ。
 日本舞踊とかも習っているんだろうか。この世界ではそうするのが普通になってたりするのかね。それとも,演出者の細かい指導が入るのかねぇ。(→“とちぎテレビ”で放送している「光れ!とちぎの楽士団」をネットで見て,疑問氷解。先生に来てもらって,そちら方面の練習もするんだね)

● 4年前にこの会場で「椿姫」を聴いて以来,いくつかのオペラ視聴体験を経てきた。DVDもいくつか手元に溜まってきた(なかなか聴けないでいるんだけど)。多少はオペラの何たるかをわかってきたかなぁ。
 そんなものはわかっても仕方がないのかもしれないけどね。知らない方がいいくらいなものかもしれない。が,(視聴)経験を重ねるうちに,嫌でも知ってしまうものだ。

● 問題は,ひとつひとつの作品を上手に,というか深く,聴けるようになってきているかということだ。オペラについて多く知るようになったからといって,深く聴けるようになるわけではない。
 もっといえば,オペラだけを聴いていたのでは,オペラを深く聴けるようにはならないだろう。生活全般がかかわってくるのだろう。ていねいに生きること(松浦弥太郎)が必要なのかもね。
 人生で遭遇することになる様々な出会いと別れ,喜びや悲しみ。それらをひとつひとつキチンと味わっていく努力と姿勢が,深く聴ける力を作っていくのだろう。

2016年6月13日月曜日

2016.06.12 栃木県交響楽団第101回定期演奏会-伊福部昭没後10年記念

栃木県総合文化センター メインホール

● 前回,第100回のアニバーサリー定演があって,今回は101回目の演奏会。開演は午後2時。チケットは1,200円(前売券)。
 しかし,内容的には今回のほうがとんがっている。伊福部昭特集だ。

● 北海道の釧路に生まれた伊福部が戦後,東京に出る途中,よんどころない事情で日光市久次良に居住した。日光に住んだのは1年足らずではなかったか。
 ではあっても,これは栃木県にはラッキーなことだった。こうして,日光ゆかりと称して,記念演奏会を催行できるのだからね。

● プログラムは次のとおり。指揮は伊福部さんの教え子でもある今井聡さんと,栃響の荻町修さん。
 管絃楽の為の音詩「寒帯林」
 舞踊音楽「プロメテの火」-第3景「火の歓喜」
 SF交響ファンタジー第1番
 ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ

● プログラム冊子と一緒に配られた「栃響だより」に,今井さんが「伊福部昭先生との思い出」と題するエッセイ(?)を寄せている。こうした具体的なエピソードを語ってもらうと取っつきやすくなるし,伊福部昭という人物が身近に感じられる。開演前に面白く読ませていただいた。
 ただし,具体的なエピソードをいくら重ねたところで,それだけでは焦点が合わない写真のようなものになってしまうのだろう。

● さらに,小林淳さんと永瀬博彦さんのプレトークも。いくつかの話題が出ていたけれども,最も印象に残ったのは,今日のソリストである山田令子さんの話。
 山田さんはピアノ科なので,作曲科の教授である伊福部さんのゼミを取ることはできない。そこで自ら動いて話をつけ,ゼミへの参加を認めてもらったという話。
 そこを山田さんご自身が語っているのがこちら。そこからひとつだけ引用しておこう。
 先生の言葉で印象的なのは「本当に良い味噌はミソ臭くない」 芸術ぶっているものは本当の芸術じゃないって事なんですよね。ゼミの時のメモを今でも見るのですが,とても役に立ちます。その時紹介された本なども今だに読みかえしています。
● 語るも愚かではあるけれども,伊福部についてぼくが知るところは,皆無に近い。過去に彼の曲を生で聴いたことは,あるにはあったと思うんだけど,記憶からは脱落している。ので,本格的に聴くのはこの演奏会をもって嚆矢とする。
 で,感想。すごい作曲家だと思った。力がこもっている。吹っ飛ばされる思いがした。ギュッと圧縮された高密度。圧倒的な作品の力。
 興奮冷めやらぬままに言うと,あのマーラーを凌ぐのじゃないかと感じる瞬間もあった。

● その作品を支える栃響の演奏もまた同じ。作品は演奏によって表現されるわけだから,作品と演奏は切り分けることができない。
 最近はやりの地産地消を支える哲学に身土不二の考え方があると思う。同じように,作品と演奏は不二であって,作品あっての演奏であり,演奏あっての作品だ。
 栃響の演奏には鬼気迫るものがあった。作品が栃響をインスパイアしたところもあったろう。作品と演奏が幸せな関係を取り結べた。そう思わせる演奏だったと,ぼくには思われた。

● 中でも,最後の「リトミカ・オスティナータ」が圧巻の迫力。あまり適切なたとえではないと思うが,指揮官が「押しだせーっ!」と号令すると,隊列を乱さず前へ前へと進む重騎兵隊を想像させるような演奏。
 荻町さんも渾身の指揮。

● ただ,やはりここは山田令子さんのピアノの貢献が大きかった。奏法のダイナミックさも絵として強烈な印象を残したけれど,乾坤一擲,この演奏に賭けてきたという気迫。
 多くの指揮者や演奏家と同じように,彼女も陽性の人のようだ。東京音大で伊福部さんのゼミに参加できたのも,彼女の行動力に由来するものだろう(思慮深さゆえではないと思う。思慮深さはこういうとき,抑制的に作用することになるだろうから)。ではその行動力はどこに淵源するかといえば,陽なる性格ではないか。

● こういう演奏を聴けば,よし伊福部昭をCDで聴きこんでみようと思う。ぼくが持っているCDはわずかだけれども,こういうご時世だ,まとめて入手するのはさほどに難事ではないだろう。
 今回の栃響の演奏も録音していたようだ。あとでCDになるんだろうか。そうならば,そのCDは必ず買う。

● が,4曲ともそうだけれど,生とCDとではだいぶ落差ができそうだな。録音でこの空気の振動をどこまでとらえることができるんだろうか。できるのか,今の技術なら。むしろ,ぼくの再生環境が問題か。
 CDを聴いて,今回の臨場感を脳内で再生できるかといえば,まるで自信はないけどね。

2016年1月31日日曜日

2016.01.31 栃木県交響楽団 第100回定期演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 100回目の節目。地元出身の宮田大さんをソリストに迎えて,ドヴォルザークの「チェロ協奏曲 ロ短調」。
 人気沸騰。14時から予定されていた公演のチケットは完売になったらしい。そこで急遽,18時半から同じ演目で追加公演を行うことを決定。

● ぼくが買えたチケットも追加公演のほうだ。その追加公演もほぼ満席となった。宮田効果というべきか。
 いやいや,何だかんだいって,栃響が地元に浸透しているってことだろうな。100回になるのか,よくやってきたな,栃響。そういうお祝い気分の然らしめるところではなかったか。

● チケットは1,500円。これまでは前売券は1,200円だったから,今回はやや高め(当日券は同じ価格)。今後はどうするのか。1,500円で行けばいいんじゃないかと思うが。
 曲目はドヴォルザーク「チェロ協奏曲」のほかに,ベルリオーズ「幻想交響曲」。指揮は末廣誠さん。

● チェロ協奏曲のソリストは世界の宮田。やはり,さすがというべきなのだろう。瞬時に客席を掴んで引き寄せる。聴衆は息をつめて,彼の演奏を見守る。
 しかし,だ。協奏曲の出来を決めるのは,管弦楽であって,ドヴォルザークのこの曲においても,それは同じだと思う。管弦楽なんですよ。

● だから協奏曲って面白いんじゃないですか。逆にいうと,ソリストの比重が高いもの,たとえばショパンのピアノ協奏曲,は,何でだか知らないけどつまらないんだよね。
 そういうことってないですか。え,ないですか。そうですか,ありませんか。

● 管弦楽とソリストの相互作用がないはずはない。宮田さんに引っぱられることはあったのだろう。
 これだけの演奏を管弦楽から引きだせたのは,ひとつには宮田さんの功績かもしれない。ただ,誰であっても,ないものは引きだせないわけでね。
 重厚な仕上がりになった。節目に相応しかった。結果において正しい選曲だったことになりますな。

● 宮田さんのアンコールは,バッハの無伴奏第3番から「ブーレ」。バッハの無伴奏組曲の中では,栃響の次の100回の航海を予祝するのに最も相応しいところかもしれない。
 ぼくとしては,宮田さんのアンコールを聴けるとは思っていなかったので,これは美味しかったよ,と。

● 今回の演奏会で配布された資料(下野新聞の記事)に,設立以後の栃響の歩みが紹介されている。海外で演奏したこともあるし,サントリーホールでも三度,演奏しているのだね。
 その時期を見ると,なんていうんだろ,時代に勢いがあったってことなんだろうな。そうした時代に乗って,栃響も外に打って出ることができたわけだろう。
 ともあれ,そのサントリーホールで演奏したのが「幻想交響曲」だったらしい。

● 高校生のときだったか,すでに大学生になっていたか,この曲をNHKのFMで聴いたことがあった。カセットテープに録音もした。
 が,何が幻想なのかぜんぜん理解できなかった。当時のぼくは,幻想という言葉に何を感じていたのだろう。男女の甘い恋愛ででもあったろうか。
 結局,録音はしたものの,放送は途中までしか聴かなかったし,テープを聴きなおすこともついにないまま,そのテープもどこかに行ってしまった。

● これは,事前に曲目解説を読んでおくべき数少ない楽曲のひとつでしょうね。そうじゃないと手も足も出ない。ベルリオーズが描こうとした舞台状況を音楽のみから想定するのは,何人にとっても不可能だろうからね。
 少なくとも,当時のぼくにとってはそうだった。
 ただし,ベルリオーズの意図を知ったからといって,それとは異なる自分なりの情景を思い浮かべるのは,聴き手の自由に属する事柄だよね。

● 今回の演奏は,ベルリオーズがこめた幻想の所以などどうでもいいかなと思わせるものだった。音楽として聴いているだけで充分で,その背後にある作曲家の意図は見えなくてもいいや,と。
 もともと,(聴く人が聴けば)音楽だけで屹立できる楽曲なのだろうけれど,それを完成度の高い演奏で再現(創造といったほうがいいのか)してもらえれば,音楽のみに寄りかかっていられる。

● 2012年12月の「第九」も素晴らしかった。あの演奏は,細心の注意をもって抑制すべきところで抑制することを維持できた効果だと思っているんだけれども,今回のはそうではない。
 前のめりの演奏だった。メリハリもあった。攻めた。攻めすぎては曲に負ける。負けないギリギリのところまで攻めた。結果,栃響は勝利を収めたといっていいだろう。栃響としても,一世一代の演奏だったであろうと(偉そうに)言っておく。

● アンコールは「ラコッツィ行進曲」。ここで手を抜いたらすべてがパーになる。もちろん,そんなことになるはずもなく,高いテンションを維持したまま,終演となった。
 今回の演奏は,見事のひと言に尽きる。栃響ってここまでできるんだっていう発見。常時,ここまでやれたら,相当以上に凄いことになりそうだ。