2021年12月9日木曜日

2021.12.08 宇都宮短期大学-まちなかクリスマス・コンサート

宇都宮共和大学 エントランスホール

● 2017年に続いて,2回目。開演は17時30分。入場無料。
 最初の30分は「mix bell」の歌謡ショーみたいな。2017年のときも同じだった。が,メンバーは違う。どんどん入れ替わっているようだ。
 現在は3人らしいのだけど,今回登場したのは2人。可愛らしいお嬢さんたちだ。

● 18時から宇短大音楽科の学生さんが登場。今年はチャイコフスキーの「くるみ割り人形」。もちろん,全曲やるわけではなく,抜粋になる。組曲版と同じだったか。最後は “花のワルツ” で盛りあがって終わる。
 弦と木管,ピアノ,エレクトーン,ユーフォニアムの構成で「くるみ割り人形」を舞台にかけるのは,宇短大ならではといっていいだろう。

● その前にトロンボーンの二重奏があった。トロンボーンという楽器は管弦楽の演奏で必ず聴くものだから,どんな音色でどんな効果があるかは一応知っているつもりだ。
 が,トロンボーンだけを聴くと,あっ,トロンボーンってこういう音を出していたのか,と改めて思うことになる。

● 短大の学生なのだから,年齢は18~20歳のはず。若い人たちの演奏はそれだけで価値があると,ロートルは思う。そう思う自分の気持ちを探ってみると,頼もしさのようなものを感じるゆえだろうととりあえず結論づけたくなる。
 自分は何ほどのこともしなかったし,できなかったけれども,彼ら,彼女らは何事かをやってくれるだろう。だから未来は良くなるはずだ。そう思って安心する。そういう機序が働くようだ。

● この演奏会は,どうぞ皆さん,楽しんで下さい,というものだ。楽しめばそれでいい。
 下手な演奏では楽しめないが,充分に楽しめる水準にある。だから,聴く側もあまり難しいことは考えなくていいし,考えている人もいなさそうだ。

● 大きなホールでのコンサートはもちろんいいものだ。フルオーケストラでチャイコフスキーの5番や6番を聴くのは,至福の時間になり得る。
 一方で,こういう小さな演奏会もいい。演奏会の原点はこちらにあるはずだろう。しかも,大ホールでのコンサートは毎週,土日はどこかで開催されている(東京まで視野に入れた場合はね)のに対して,こうした原点に近い形の演奏会はけっこう以上に貴重だ。
 宇都宮に短大の音楽科がある恩恵は間違いなくある。エンタテイメントの総量を増やしてくれる。ぼくらはその増分をちゃっかりと頂いて,ニンマリすればよいのだと思っている。

● 今日のコンサートの模様はとちぎテレビの「わいわいボックス」で放送されると mix bell のお嬢さんが言っていた。「わいわいボックス」と宇短大音楽科は仲がいいようだ。利害が一致するというか。
 この番組は栃木県内の中学校や高校の演奏会などをこまめに報じているようだ。ならば,そうした演奏会がいつ開催されるかの予定表として,同番組のサイトを活用できないかと思ったのだが,残念ながらそれは無理っぽい。2週間先の放送予定までしかサイトには上がっていないから。サイトに上がったときにはすでに終了しているようだ。

2021.12.07 第60回立教大学メサイア演奏会

You Tube 配信

● 開演は18時。会場は東京芸術劇場のコンサートホール。といっても,ホールまで足を運んだわけではなく,自宅で聴いた。つまり,You Tube を使ってのネット配信だったので。
 急遽,無観客にしてネット配信に変えたのではなく,最初からネット配信の予定だった。予定どおりネットで配信したということ。

● ヘンデルの「メサイア」全曲を生で聴いたのは1回しかない。2年前に新百合ヶ丘まで出向いて,昭和音楽大学のメサイア演奏を聴いた。
 そのときに,キリスト教系の大学ではこの時期にメサイアを演奏するところがあることを知った。ベートーヴェンの「第九」に比べると目立たないけれども,年末(というよりクリスマス)の風物詩になっているようだ。
 しかし昨年は,声楽で神を称えるこの曲が演奏されることはなかったろう。通常の器楽曲以上の逆境になったはずだ。

● 今年は昭和音楽大学は通常開催するようだ(ただし,演奏時間を圧縮)。青山学院も通常開催。愛知県の金城学院でも11月に開催し,ネットで全部を聴くことができる。京都の同志社は中止にしたらしい。立教は実施するけれども,観客は入れずにネット配信というわけだ。
 状況はこんなところだ。現状はほとんどゼロコロナ状態なので,一切の感染対策をしないで開催しても問題が起きる可能性はない。が,準備を始める時点ではそうではなかった。

● 指揮は上野正博さん。現田茂夫さんの予定だったが,変更になった。ソリストは佐竹由美(ソプラノ),山下牧子(アルト),小貫岩夫(テノール),久保和範(バリトン)。チェンバロ・オルガンが大藤玲子さん。
 合唱は立教大学グリークラブと立教学院諸聖徒礼拝堂聖歌隊。そのOB・OG。合唱団の中にはかなりの年配の人も混じっていた。管弦楽は立教大学交響楽団。

● YouTubeチャンネルにて生配信したあとは,アーカイブ動画を来年11月30日まで公開するとのことなので,今後1年間はいつでも都合のいいときに聴けるわけだ。時間に縛られない。
 のだが,まずはリアルタイムで視聴。本当はライヴを聴きたいのだがオンラインになった,というとき,奏者とリアルの時間を共にすることが,ライヴに近づけるためにけっこう以上に重要なことだと思っている。

● 入ってくる動画はいつでも同じなのだが,演奏は演奏として他と切り離されて屹立して存在するのではない。聴き手との関係性において立ち現れてくるものだ。
 ならば,聴き手,つまりこちら側の聴く態勢を整えなくてはいけない。環境整備が必要だ。その第1番目に来るものがリアルタイムで聴くということだ。
 途中で20分間の休憩時間があるのだが,その休憩時間も共有した方がいいのだ。トイレに行きたくなれば画面を止めていつでも行けるのだが,ホールで演奏を聴いているのと同じにした方がいい。トイレに行くなら休憩時間に行く。

● とはいえ,リアルの演奏をホールで聴いているときに,アルコールを飲みながらくつろいで楽しみたい,手許にコーヒーがあればなぁ,と思ったことがない人は少ないと思う。
 それはこういう機会に試してみるといいと思う。が,事前に準備を整えておくこと。途中で席を外してコーヒーを用意するというのではなくて。

● ネット配信で聴く演奏がどれだけリアルに近づくか。当然,はるかに及ばない。第1に,こちらの機材が貧弱極まるからだ。
 ネット配信だからパソコンかスマホ,タブレットで受信するしかないのだが,ぼくはノートパソコンに外付けスピーカをつないだ状態で受信している。おそらくXperiaかストリーミングWALKMAN(+ハイレゾ対応イヤホン)で聴いた方が音はいいのだと思うが,画面が小さくて視る楽しみが減殺される。
 ミニコンポを買ってパソコンをつないで聴くのがいいのだろうか。でなければ,ちゃんとした性能のスピーカを備えたデスクトップパソコンに買い替えてしまうか。NECや富士通から良さげなのが出てるんだけど,テレビ機能まで付けているのが大難。なんでそんな余計なものを。

● N響の演奏がEテレで放送されることがある。年末の第九とかね。昨年だったか,それを宿泊中のホテルのテレビで見たことがあった(だからテレビはけっこうな高級品)。
 が,まるでダメ。“ノートPC+外付けスピーカ” の方がまだ音が立っているような気がする。
 のだが,ネット配信がリアルのライヴに伴走するのがあたりまえになるのだとすると,対応を考えた方がいいのかもなぁ。たとえば,右のような機材でテレビの音響を補強するとか。

● ネット配信の画面は超絶S席になるか。ホールのどんな席で見るよりも特定の部分を高解像度で表示してくれるわけだから。
 残念ながら,これまたリアルには及ばない。全体を視野に入れたうえで特定の部分に注意を集めることができるのは,リアルならではだ。
 むしろ,特定の部分を必要以上に明瞭に示してもらうのは迷惑だと感じることもある。たとえば,ソリストの化粧の具合をここまでハッキリと見せてもらわなくてもいい。見えない方が幸せだ。

● 視聴者数が画面に出るのだが,“ハレルヤ” の時点で約670人だった。こんなものか。このあとアーカイブを視聴する人が出るのだろうが,どのくらいの数になるのだろう。
 リアルに開催して,地道に集客した方が,ネット配信よりも多くに人に聴いてもらえるということか。

● ネット配信の技術が現状のままということはない。どんどん良くなるだろう。受信用の端末の性能も同様だ。いずれはリアルのライブに肩を並べるところまで進歩するのかもしれない。
 え,まだホールで聴いてるの? 遅れてるな,おまえ,と言われる時期が来ることを夢想したりもする。現状はそうなっていないが,遠くない将来にライブとの差がかなり詰まってくることはあり得ると思っている。

● ネット配信がこれから増えるのだとしよう。すると,とても全部は聴ききれないという数になるはずだ(個人演奏的なものを含めれば,現状ですでにそうなっているのかもしれないが)。
 そのときにどれを聴くことにするか。はっきりしている。この演奏会がリアルであったらホールまで出かけて行って聴きたいかと自分に問い,Yesと答えられるものだけを聴くことになるだろう。
 この立教大学のメサイア演奏会が普通に観客を入れて開催されていれば,ぼくは今日,電車に乗って池袋まで出かけたはずだ。だからネット配信を視聴することにしたのだ。

● 合唱陣はマスクを付けて歌っている。先月の学習院輔仁会音楽部の第九もそうだったのだが,歌えるマスクという画期的な製品が出ているのかもしれない。
 けれども,当然ながら歌いづらそうで,見ていて気の毒だった。本当は歌ってはいけないのだが,マスクを付ければ特例的に歌ってもいいことにするというのでは,合唱陣の士気もあがるまい。
 マスクは付けないとダメなのかね。今の状況でもマスクを外してはダメだと言うなら,外せる時期は永遠に来ないのじゃないか。

2021.12.05 モーツァルト合奏団 第23回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは500円。当日券を買って入場。
 この合奏団の演奏は過去に5回聴いている。直近では2017年の第19回演奏会。そこから4年間,空いてしまった(昨年は開催していないだろうけど)。

● プログラム冊子の「ごあいさつ」でも,「練習会場の確保ができず,できたとしても時間制限が厳しく,なかなか練習時間が取れない」と苦心が語られている。
 コロナは人間の群生性を否定する方向に働いたのだから,引きこもり傾向の人には神風だったかもしれないものの,大方の人には不便と苦痛をもたらしたろう。
 好きな人の目を見て話す。友人と酒(お茶でもいいのだが)を飲みながら論談する。数人で共同作業をしてひとつの仕事を仕上げる。そうしたことが許されなくなった。勢い,楽しみの多くを失うことになった。仕事に喜びややり甲斐を見出そうにも,その取っ掛かりになるものが与えられない。

● しかし,一方で,少ない時間しか与えられないがために,練習の仕方に工夫をこらすなどの試みもやらざるを得ず,そこから得られたものもあったのではないか。
 否応なくムダを省く術を会得したとか,そういうことだ。制約が進歩を生むという,しばしば見られる現象があったのだと思いたい。

● 曲目は次のとおり。
 モーツァルト 弦楽四重奏曲 ニ長調 KV.155
 パーセル シャコンヌ ト短調
 ボッテジーニ コントラバス協奏曲第2番 ロ短調
 ドヴォルザーク 弦楽セレナード ホ長調

● モーツァルトのKV.155は弦楽四重奏曲第2番と言った方が通りがいいですかね。たまたま,モーツァルトの弦楽四重奏曲を順番にCDで聴いていたところだった。
 軽やかな小品というイメージで,これが弦楽四重奏というものだよなぁ,いきなりベートーヴェンの後期から聴くのは間違ってるよなぁ,と思ってたところ(いや,それが正解の人もいるんだろうけどさ)。

● そこで生演奏を聴いたからかもしれないんだけれども,ほっこりとした演奏だと感じた。
 演奏する側はほっこりとしてはいられないと思うのだが,音を合わせる楽しさは,大きなオーケストラよりこれくらいの少人数の方が濃厚に味わえるものだろう。全体を把握しやすいから。全体の中の自分が見える。何をどうすればいいかが明瞭にわかる。責任感も持ちやすい。
 大きなオーケストラだと大企業の社員になったようなものか。自分の働きが全体にどう影響しているのか実感しにくい。ゆえに,会社の経営が傾いていても社員はそれに気づかないというようなことも起こる。
 いや,オケの場合は,そんなことは起こらないですかね。

● 昔の合奏団とはメンバーはかなり入れ替わっているんだろうか。那須フィルのメンバーが主力になってるっぽいんだけども,前からそうだったっけ。
 どうも昔の記憶が不確かだ。が,別の団体になっているような気がした。いい悪いの話ではない。

那須野が原ハーモニーホール
● ボッテジーニのコントラバス協奏曲のソリストはN響の岡本潤さん。昨年10月の日比谷高校フィルハーモニー管弦楽団の定演でお見かけしている。2010年のコンセール・マロニエ21で優勝したときも,客席から見ている。たしか栃響のステージにも団員と一緒に上がっていたことがあった。
 この人の経歴はちょっと面白い。欧米に留学していないところが面白いのだ。プロを目指す人って,日本の音大や大学院を出てから,ヨーロッパやアメリカに留学するのが普通のような印象がある(そうではないのかもしれないが)。どんだけ大学で人に教えてもらうのが好きなんだよ,って。

● 留学するのが普通なのであれば,留学に価値はない。稀少性がないのだから。稀少価値以外の価値はないわけでね。
 留学くらいしなかったらスタートラインにも立てないんだよ,ということ? むしろ,留学なんかしてしまうのはわざわざ価値を捨てるようなものではないか。自分を “その他大勢の1人” にしているように思われる。
 しかも,留学って,時間のほかにお金もかかるんでしょ。時間とお金をかけて人並みを目指すって何なのよ,と思ってたんですよ。
 電車に乗ると同じ車両の乗客全員がスマホをいじっている光景に出くわすことがあるけれど,時間とお金をかけてスマホをいじる1人になることに何の意味があるんだろう,って。そこまでして幻想を追いかけてたんじゃダメなんじゃないの,って。見当はずれのことを言ってますかね。

● 岡本さんはその留学をしていない。そんなものを吹き飛ばせるだけの才能があったからなのかもしれないけれども,あるいは偶然・成行きでそうなったのかもしれないけれども,人と同じことをしないっていうのは,それだけでカッコいいというかね。
 てか,並みの留学って,そもそもが時代遅れになっていないんだろうかなぁ。

● 岡本さんのアンコール曲は,マラン・マレ「人間の声」。マラン・マレは17世紀から18世紀にかけて生きたフランスの作曲家,ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。
 って,わかったように書いているけれども,ネットをググって知ったこと。

● 休憩後はドヴォルザークの大作(岡本さんも演奏に加わった)。合奏団のアンコールはなし。団長のあいさつで締めとなった。地元でここまでの演奏を聴けるんだから,これ以上望むことはない。
 ので,コロナが収束した暁には,地元に沈潜したいと思う。県外に聴きに行くのは例外としたい。できるかどうかわからないが,目下のところ,そのように思っている。あとはCDをちゃんと聴ければいい(今はちゃんと聴けていない)。

● これも見当はずれのことを言うのだが,コロナに過剰反応する気配は地方ほど強くなる。良くいえば,律儀に対応している。
 結果,予定されていた演奏会の中止は,首都圏より地方において顕著であるように思われる。首都圏の方が緊急事態宣言やマンボーが出される頻度が高いにもかかわらず。
 ので,何はともあれ,コロナの収束が前提だ。オミクロン株がマスコミに飯の種を提供しているが,収束はそんなに遠い話でもないように感じる。あとは,政治が決断できるかどうかだけの問題になるだろう。首尾よく行けば,ぼくも地元沈潜と参りたい。

2021.12.04 第12回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 国立音楽大学・洗足学園音楽大学

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 今年の音大フェスも今日が最終日(4日目)。通し券を買って皆勤することができた。毎日が日曜日になった爺さまの,大いなる余録というやつでしょうなぁ。
 全席使用で観客を入れている。前方の左右のバルコニー席(厳密にはバルコニー席とは言わないのだろうが)にもお客さんが入っている。おそらく,今回が最高の入りになったのではないか。それでも当日券があるにはあった。

● まず,国立音楽大学。プログラムが異色。何が異色なのかといえば,このフェスではベートーヴェンやブラームス,ブルックナー,マーラー,チャイコフスキーの交響曲など,正統派クラシック楽曲が選ばれてきたからだ。
 ところが,今年の国立はアメリカの近現代を持ってきた。次のとおり。
 レブエルタス センセマヤ
 バーンスタイン 「ウエスト・サイド・ストーリー」より “シンフォニック・ダンス”
 コープランド 「ロデオ」より 4つのダンスエピソード

● 指揮は原田慶太楼さん。選曲にあたっては原田さんも噛んでいたんだろうかね。
 「センセマヤ」は初めて聴く。こういう曲があること自体,知らなかった。今どきだからネットで聴くことはできるとしても,名前を知らないんじゃ検索もできないわけでね。
 ニコラス・ギレンの詩に基づく「蛇殺しの唄」と知って,何となく納得。レブエルタスは芸術家の鏡と言いたくなるほどに後先を考えない生き方をした人なんですねぇ。こういう生き方しかできないから芸術家になった(なるしかなかった)ということですかねぇ。

● コープランドの曲は “「ロデオ」より 4つのダンスエピソード” となっているんだけども,ぼくは “ロデオ=4つのダンスエピソード” なのだと思っていた。
 「4つのダンスエピソード」を部分集合とする「ロデオ」というバレエ音楽があるんですか。CDを探してみるかな。

● 選曲だけではなく,曲間に原田さんのトークが入った。トーク自体はこれまでにもないわけではなかったけれども,これまでのトークは何というかオフィシャルなもので,半分は形作りのためだった。
 客席サービスのトークは初めてではないか。陽性が徹底している人だ。地なのか,心がけなのか。和製バーンスタイン候補の面目躍如。
 学生の気持ちも掴んでいるだろう。といって,学生の気持ちを掴もうとしてこの選曲をサジェストした(と決めつけている)わけではないだろう。そんな下心を持っていては学生に見透かされる。

● こちとら,不協和音を駆使されると現代的と感じてしまう幼稚な感性しか持ち合わせていない。それを畳み込んでくるようにして差しだされると,たとえばストラヴィンスキーを連想してしまう。現代音楽は北米も南米もロシアも似たようなものだな,となってしまう。ストラヴィンスキーが現代かどうかは考えないことにして。
 音楽はすべからく慣れの問題かもしれなくて,何度も聴いていると身体に入ってしまう。

● 洗足学園はサン=サーンスの3番「オルガン付き」。国立のアメリカも楽しかったけど,正統派は落ち着ける。
 いくらぼくでも,この曲はCDを含めて何度も聴いている。ぼくはカラヤンで聴けるものはカラヤンで聴く(例外はあるが)というつまらない男なので,この曲もカラヤン+BPO で聴いているのだが,カラヤンのCDが生演奏に勝ることはあり得ない。
 生の場合は視覚から入ってくる情報があるからだとずっと思っていたのだけれども,たぶんこちらの集中度,入れ込み具合が違うからだ。CDに集中するのは難しいのだ。視聴環境によるとは思うのだけれども,いかに機材を揃えようとCDから流れてくる音に集中できる度合いは限られるような気がする。

● 生演奏だとお金を払っている。会場までの電車賃もかかる。自分の身体を運んでいく面倒さもある。北関東の在から川崎まで行くとなれば,それ相応の時間も要する。
 でもって,同じ目的を持ってやってきた大勢の観客と一緒に聴く。集中するための道具立てが揃っている。ライヴの魅力を支える,それも大きな要素だろうな。

● それなのに,聴いている最中に寝てしまうことがあるのはどういうわけかね。かなり贅沢な睡眠になるよね。お金と手間暇をかけて作りあげた睡眠だな。
 今日は寝ませんでしたよ。聴きましたとも。プロの演奏よりいいんじゃないかと思いますよ。そう思わせるものは何なのか。一期一会感が強いということか。演奏者が込めている “気” が多いということか。

● 指揮は秋山和慶さん。80歳のダンディズム。体型も80歳とは思えないし,服装への気配りも年寄り臭くないし,何より指揮ができるわけだから。洗足学園で若い学生と接しているのも若くいられる理由のひとつですか。
 年齢のせいだろうが何だろうが,いかに赫々たる実績が過去にあろうと,機敏な指揮ができなくなればお払い箱にされる世界にいるわけだろう。その世界でなお第一線に立ち続けているのだから,これはもう怪物でしょうよ。壮年世代の指揮者は何をやっているのかということにもなるんでしょうかねぇ。

● というわけで,今年の音大フェスも終わってしまった。来年3月に9音大の選抜オーケストラの演奏会がある。チケットは買ってある。
 外に出れば冬の短い日は暮れてしまっている。その分,イルミネーションがはえるのだが,日は長い方がいいかなぁ。

2021年11月30日火曜日

2021.11.26 第12回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 上野学園大学・武蔵野音楽大学

東京芸術劇場 コンサートホール

● 夜の東京芸術劇場にやってきた。じつはちょっと早とちりをしていて,この音大フェスの開演時刻はすべて15時だと思っていた。今までがそうだったから。土日開催で15時から。
 ところが今日は平日の金曜日で,平日なら夜公演にしないとお客さんが来れなくなる。ので,今回だけは19時だったのだ。
 けれども,19時からの公演を最後まで聴くと,今日中に家に帰り着くことが難しくなる。北関東の在から出ていくと,こういう問題がある。

● ので,通し券を買っているけれども,今日だけは諦めるしかないという結論にいったんはなった。
 しかぁし。「一休」で都内のホテルをチェックしてたら,この日,3,072円で泊まれるビジネスホテルがあったのだ。これなら泊まれるぞ,と。
 ので,チェックインして風呂に入って,ここにやってきた。優雅なものだ。ホテルは浅草なので,銀座線 → 半蔵門線 → 丸の内線と乗り継いだ。

● ということで,開演は19時。結論は聴きに来て正解だったということ。
 上野学園はベートーヴェンの1番とシベリウス「フィンランディア」。指揮は福島康晴さん。
 どちらも何度も聴いている曲だが,ぼくは「フィンランディア」の方により大きく感応した。これほどしっとりと届く「フィンランディア」を過去に聴いたことがあったろうかと,記憶をまさぐってみる。

● こういう心的操作をすることが無意味であることはわかっている。過去に聴いたことがあろうとなかろうと,そんなことはどうでもいい。「今,ここ」に集中すべきなのだ。過去を探っても仕方がない。
 でも,まさぐってしまった。しっとりとじんわりと入ってくる。

● 武蔵野音大はブルックナーの7番。指揮はルドルフ・ピールマイヤー氏。ドイツ連邦軍中央音楽隊の隊長で,武蔵野音大の客員教授だそうだ。
 ブルックナーを聴くのは久しぶりだ。その久しぶりがこの音大フェスであったのは幸いだ。渾身とはどういうものか,こういうものだ。そういう演奏ですよね。

● プロの演奏よりも音大フェスを聴きたいとぼくは思っているのだけど,その理由になりうるキーワードのひとつが “渾身” だろう。彼ら彼女らにしても,今しかできない演奏じゃなかろうか。数年後にこのメンバーを招集できたとしても,今日と同じ演奏ができるか。できないのじゃないか。
 一期一会感が強烈にある。 “渾身” と “一期一会” がこの音大フェスの大いなる魅力といっていいのだと思う。

● 彼ら彼女らの中で,プロとして立っていける人はひと握りしかいないと言われる。ひと握りでも多すぎるとして,ひと摘みだと言う人もいる。
 そのとおりなのだと思うのだが,そのプロの演奏よりも,今日の只今現在の彼ら彼女らの演奏の方が力がある。刹那の力に過ぎないのだとしても,力がある。

● 東京まで出て聴くのはこの音大フェスに限ることにしようか。それ以外は地元に沈潜することにしよう。そうだ,そうしよう。いつから? 今日からだ。
 すでにチケットを買ってしまっている演奏会は聴きに来るけれども,それ以外に東京に出張るのはこの音大フェスに限る,と決めてしまおう。
 唐突にそう思った。年金生活者になってそろそろ使えるお金も限られてくるのでね。

● 開演時刻よりだいぶ前に着座したのだが,退屈することはなかった。武蔵野音大の機関誌があって,ご自由にお持ち下さいとなっていた。ここに将棋の佐藤天彦元名人の対談記事があったので,それを読んでいたからだ。
 元名人の趣味のひとつがクラシック音楽だというのは知っていたけれども,ここまで深く入れ込んでいたとは知らなかった。並みのクラシック音楽好きとは一線も二線も画している。渡辺名人の競馬と比べるとどうなんだろうか。
 将棋との関連で,「なかなか壁を突破できずにいたんですね。そんな時,これからの人生で将棋だけに傾注するのは少し寂しいなと感じ,ピアノを習おうと決心しました。そして,ピアノを始めてからそれほど時を経ずに,自分でも不思議な感覚でしたが,将棋の結果が出始めました」と語っている。

● 上野学園は学生募集をやめるとか学内ホールを売却するとか,なかなかシビアな状況にあるようなのだが,短大は今後も存続する。来年の音大フェスにも参加する。

2021年11月26日金曜日

2021.11.23 第12回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 東邦音楽大学・桐朋学園大学

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● ミューザにやってきた。今年はミューザに来る頻度がけっこう高い。7~8月の “フェスタサマーミューザ” のほぼ全公演(管弦楽はすべて)を聴いたからだ。
 自分には過ぎた贅沢だった。これほどの贅沢は今年が最初で最後でいいと思っている。
 が,毎年聴きたいと思ってやまないのが,“音楽大学オーケストラ・フェスティバル” だ。これだけは毎年聴きたい。

● ので,今年も通し券を買ってある。2013年の第4回から毎年聴いているので(毎回,必ず聴けていたわけではないのだが),今年が9回目になる。
 開演は午後3時。ぼくの席は3階席の1列目の中央。ステージは遠いが,視界を遮るものはない。S,A,Bといった席種に分けるとすると,ひょっとするとSにするところがあるかもね。

● 初日の今日は東邦音楽大学と桐朋学園大学が登場。東邦がチャイコフスキーの5番で,桐朋が6番。事前に演奏曲目を大学間で調整するということはやっていないっぽいので,これは偶然の結果だろう。
 で,聴いた感想はといえば,凄いとしか言いようがない。この凄さの所以を言葉に尽くせる人は,相当な文章の使い手だろう。北関東の蛮族がわざわざミューザに出向いてきた理由は,演奏を聴いていただければわかる,としか申しあげようがない。
 これで終わりにしたいくらいなんだけれども,以下に少々の駄言を弄してみよう。

● まず,東邦音楽大学管弦楽団。このフェスでは日本を代表する指揮者が登場するので,そちらも楽しみであるわけだが,東邦の指揮者は大友直人さん。
 コンマスが男性。コンマスが男性というのは,ずいぶん久しぶりのような気がする。

● チャイコフスキーの5番とくると,第2楽章のホルンのソロに注目が行く。実力に裏打ちされた危うさの演出。
 オーボエ,クラリネットなど木管陣が目立った印象がある。基本的に端正さを感じた。若い人たちの端正っていうのは,それだけで大きな魅力だ。
 闊達さも見られる。自分の家の庭で遊んでいる子供はこういう感じだろうかと,ふと思った。

● 桐朋学園オーケストラ。指揮は沼尻竜典さん。
 桐朋は別格なんだろうか。過去の演奏でも,第4回のストラヴィンスキー「春の祭典」や第9回のホルスト「惑星」は強烈な印象を残していったのだが,今回もまた。何なの,これは,という。

● 個々の奏者がそれぞれに一騎当千のつわ者だ。コンミスはもちろんとして,2nd.Vnのトップ奏者(男子)がその代表格かと思えるのだが,彼のみならずほとんど全員が同様だ。ぶんぶんと刀を振り回しているような感じと言いますか。その刀がおそらく名刀なのだ。知る人ぞ知る。うっかり近づくと怪我するよ。
 その様はじつにどうも圧巻であって,こんな演奏はプロでもできない。

● 「各大学の演奏の前には共演校からのエールを込めたファンファーレの演奏があります」ということで,演奏時間はわりと長くなる。終演は午後5時30分頃だった。

● コロナはもはやゼロコロナになったと言っていい状況だ。この状況でどうすれば感染できるのか教えてくれと言いたくなるほどだ。
 が,農耕民族は変化に素直に付いていくのを苦手とするようだ。近過去(夏の第5波)に引きずられているように見える。
 もはや制限のすべては無意味で,したがって全面的にコロナ以前の状況に戻せばいいのに,それができない。もし次の第6波が来ればそのときに対応すればいいだけの話だ。

● コンサートホールの対応も同様。
 以前からそうなのだが,首都圏のホールの方が地方よりもコロナに強い印象がある。今回も全席使用(かなりの座席が埋まっていた。が,当日券は販売された)。それで正解。
 しかるに,マスク着用はともかく,エリアごとの分散退場は無意味を通り越して滑稽なほどだ。

● それでも分散退場を徹底させようというのであれば,先発組がホール入口を出たのを確認して,後発組を退場させなければならないだろう。形だけの分散退場でお茶を濁していても仕方がない。
 と思ったのだが,ホール側にしたって,分散退場が無意味であることくらいわかっているだろう。が,上(オーナー自治体)からの指示には逆らえない。ならば,現場がスムーズに動くようにするには,形だけのこのやり方が一番いいというわけだろうか。

2021年11月21日日曜日

2021.11.20 学習院輔仁会音楽部 第65回定期演奏会

ウェスタ川越 大ホール

● 学習院輔仁会音楽部とはどういうものか。同部のサイトに説明がある。
 「管弦楽団,混声合唱団,大学男声合唱団,大学女声合唱団,女子大女声合唱団の5つの団体から成り立っています。現在,学習院大学・学習院女子大学の学生総勢200名程の部員が,各団の定期演奏会や合同での音楽部定期演奏会を中心に幅広い活動を精力的に行っています」ということ。
 インカレ団体ではなく,学習院の純正であるらしい。首都圏では純正の方が珍しいんでしょ。

● この楽団の演奏を聴くのは,これが二度目。2018年5月の管弦楽団第57回定期演奏会を聴いている。いたく感嘆し,この大学オケは追っかけるに値すると確信した。にも関わらず,3年半の空白ができてしまった。
 第一にはコロナの影響だ。中止あるいは無観客での開催を余儀なされた。特に今年5月の管弦楽団第60回定期演奏会は,チケット代を払い込んだ翌日に無観客で開催するとの決定がなされ,何と間の悪いことかと臍を噛んだことであったよ。

● と,まぁ,そういうことなんだけども,今回の定演はすごいよ。何がすごいかといえば「第九」をやるのだ。
 コロナに襲われた昨年はベートーヴェンの生誕250年。そちこちでベートーヴェンの楽曲が演奏されるはずだったろうし,ベートーヴェンにちなむ特別演奏会を企画していた楽団も少なくない数あったはずだろう。
 が,コロナによって一網打尽,木っ端微塵にされてしまった。第九は特にそうだった。

ウェスタ川越
● というわけで,ベートーヴェン生誕250年の昨年は第九を一度も聴くことなく終わった。第九って,歳時記に冬の季語として載せてもいいと思われるほどに年末の風物詩になっている分,年末以外の時期に演奏されることは稀だ。
 コロナと共存していくことになるのだとすると,第九の演奏時期もバラけていくんだろうか。
 
● その第九を聴くことができる。楽しみに出かけて行った。
 開演は17時30分。今回は入場無料。曲目は次のとおり。指揮は和田一樹さん。
 メンデルスゾーン 6つの歌
 オッフェンバック 喜歌劇「天国と地獄」より “序曲”
 ビゼー 歌劇「カルメン」組曲より “闘牛士” “前奏曲” “アラゴネーズ” “間奏曲” “ハバネラ” “ボヘミアの踊り”
 ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調

● 第九なんだから,そりゃぁね,小さな事故は起きますよ。細かいエラーというか。観客には気づかれないほどの微細なズレまで含めれば,けっこうあるでしょう。それは不可避というものだ。
 だから,そんなものは気にならない。それよりも全体のトーンを決定するうねりの有り様,暴れるところでどれだけ暴れているか,個々の奏者が(ミスりそうで)怖いという気持ちをどこまで克服できているか,そうしたことが客席に届く音楽の外枠の大きさを決める。
 枠だけあっても中身がないんじゃ仕方がないじゃないか,と言われるか。そうではない。枠があれば中身も必ずある。枠が大きければ中身もその分,密になる。そういうものだろう。

● 3階席のしかも後ろの方だったので,ステージがだいぶ遠くに感じるのだが,目を凝らしてステージを見つめてみると,大学に入ってから楽器を始めたと思える奏者もいるっぽい。
 それでもここまで大きな枠を作れるのかと感じ入ることができるのが,若い大学生の演奏を聴く醍醐味だ(高校生ならなお一層)。

● 合唱団は約60人。ソリストは和田美菜子(ソプラノ),野田千恵子(メゾソプラノ),宮里直樹(テノール),奥秋大樹(バス)の各氏。合唱団は第2楽章が終わったところで入場し,ソリストは第4楽章を演奏中に入ってきた。
 第九を聴くたびに思うのは,この曲の肝は第1楽章にある,第4楽章は管弦楽が歓喜のテーマを歌い上げたところで終わってもいいよなぁ,ということ。合唱は付かなくてもいいんじゃないかって。その方が余韻が残る。
 しかし,そういうものではないんだねぇ。何を今さらって話だけれども。

● 昨年は第九の生演奏を聴けなかった分,CDはかなりの頻度で聴いた。昔はカラヤンの1979年の普門館でのライヴ録音を聴いてたんだけれども,今は同じカラヤンの1962年版を聴いている。
 ピアノソナタや弦楽四重奏曲ならCDでほぼほぼ満足できる。生で聴くことへのこだわりはさほどにない。
 けれども,管弦楽曲は生じゃないとっていうところが大きい。CDと生の落差がこちらの想像力では埋めがたいほどにある。毎年,年末に第九を聴くというコロナ以前の習慣は,それに染まっていたからかもしれないけれども,なかなかに合理的だったのかもしれないな。

● 満ち足りた。これだけの規模の第九を聴けると,もうコロナは過去のものになったという気分になる。
 コロナに対する勝利宣言を出すには時期尚早かもしれないけれども,勝利宣言として最もふさわしいのはベートーヴェンのこの第九交響曲でありましょうねぇ。
 うん,満ち足りた。今日はいい日だった。

● メンデルスゾーン「6つの歌」は合唱のみ。全員がマスクを付けていたのに驚いた。マスクを付けて歌うのか,と。1ヶ月後はどうなっているかわからないが,現時点では事実上のゼロコロナだよ,なのにマスクで歌うなんてほとんど漫画の世界だよ,とか思った。
 ところが,実際に歌い始めると,声がくぐもることはないようだ。まったくないというわけではないのだとしても,声がちゃんと空気を切り裂いて客席まで届く。歌えるマスクというのが,そう言えばあったんだっけ。

● というようなことをチラチラ考えながら聴いてしまった。時間が過ぎていくことの儚さを歌っているのだろうか。が,詩の意味はわからなくても鑑賞の妨げにはならない。
 美しい旋律と人間の声の響きの精妙さを味わえば,もうそれで充分以上と言っていいのだろうから。

● 終演後,すぐに席を立って会場を後にした。終演後のセレモニーに加わらなかったのは幾重にも申しわけないのだけれども,そうしないと今日中に家に帰れなくなる可能性があったのだ。この時間帯の川越線は1時間に3本。20:45発に乗らないと,最終の黒磯行きに間に合わない。
 逆に言うと,それに乗れれば帰れるわけだ。もし都内で開催されていたとすると,新幹線で帰るか泊まるかしなければならなくなっていた可能性が高い(その場合は,泊まるの一択)。田舎から聴きに行くとはそういうことなのだよね。

2021年11月19日金曜日

2021.11.14 オーケストラ・ノット AFF特別演奏会 #3

かつしかシンフォニーヒルズ モーツァルトホール

● 開演は午後2時。チケットは1,500円。事前予約制。【teket】で事前に電子チケットを購入しておく方式。
 コロナとの関係で言えば,もう従前のやり方に戻しても何の問題もあるまい。感染対策は事実上不要になっている。紙の当日券を現金販売してもOKだし,もぎりを復活させても差し支えない。
 が,ぼく一個はコロナ収束後も【teket】を使った電子チケット制を維持してくれるとありがたいな,と思っている。面倒がないからだ。スマホで座席の指定と支払いまですませられるのだから,一切の煩わしさから解放される。

● このオーケストラは藝大をはじめ音大の現役学生が主体のようなので,れっきとしたアマチュアオーケストラであるのだが,活動の旺盛さにおいてはアマオケ界では全国一ではあるまいか。
 ぼくは2020年2月に第9回演奏会から聴いている。第1回が2018年6月だから,かなりの頻度で演奏会も重ねているわけだ。AFF特別演奏会 #2 を催行したのは先月だ。

● 事務的な作業を苦にしない熱心な推進者がいるからできる。それが楽団代表の高橋勝利さんなのだが,NPO法人設立にまで持っていくのだから,なかなかどうして生半なことではない。縁の下の力持ち的な役割も買って出ているようにも見える。
 「頑張っている若手音楽家をサポートする目的で」と言ってる。もちろん,それを疑うものではないのだが,それだけではなくて自分が若手と一緒にやりたいというのが,その前にあったのだろうと推測する。
 それがなくて,たんに若手音楽家をサポートするためだけなら,ここまではやれないのではないかと思うからだ。

● 曲目は次のとおり。指揮は山上紘生さん。
 ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲
 ベートーヴェン 交響曲第7番

● これはぼくに限ったことではないと思っているのだけど,観客の耳の解像度はけっこう粗い。日本の音大の現役生が演奏している音声とトッププロのそれを(目隠しして)聴いたときに,過たず区別できる人はさほどに多くはあるまいと思う。
 聴覚は9歳で完成するらしい。もしそうなら,細かい緻密な解像度を持つためには,9歳になるまでに然るべき訓練が必要になる。
 それをしないまま2桁の年齢になってしまった人が,今日の演奏はああだったこうだったとホザくのは,ビールを飲みながらテレビでプロ野球のナイター放送を見て,プロ球団の監督の采配についてああだこうだと評してやまないオトーサンと同じだ。
 そのホザきは,ほとんどの場合,錯覚に基づいている。ホザケるだけの情報量は持っていないはずだ。耳の解像度が粗いんだから。
 と言いつつ,これからぼくもホザくわけだが。

● まず,ヴァイオリン協奏曲。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ってこういう曲だったっけと思いながら聴いていた。
 これほどの曲ともなれば,いかなぼくでも,CDで何度も聴いている。どういう曲なのかは知ってるつもりでいる。が,既視感(既聴感)が薄かった。
 なぜそう感じたのかがわからない。変わった演奏だったというわけじゃない。ひょっとして,前半は寝てたのか,俺。

● 独奏は吉本萌慧さん。藝大院に在学中。すでに述べたとおり,彼女の演奏とすでにビッグネームになっているプロの演奏との違いが,ぼくにはわからない。
 小さい頃からヴァイオリンをやっていて,日々の中心にヴァイオリンがあり,そのヴァイオリンとたくさんの日々を重ねてきた。その結果の凄みのようなものはたしかに感じる。自分にはこれしかない,これで勝負するしかない,という潔さが凄みの下にあるのだろう。
 が,同時に将来への漠然とした不安もないはずがないと思うのだ。色んなものを抱えている。誰でもそうだといえば,それはたしかにそうなのだけど。

● 交響曲第7番は躍動が服を着てステージで踊っているような演奏で,客席が喜ぶまいことか。ぼくの斜め前の爺さまが,曲に合わせて指先を動かしたり,腕を上下させていた。それが気になってしょうがないというオマケまで付いた。
 この曲はフルートがカッコよく見える。男性の奏者だったが,やっぱりカッコいい。

● かつしかシンフォニーヒルズに来るのは何年ぶりになるだろう。駅前の様子,駅からホールまでの風景も変わりはない。緊急事態宣言中も今と同じようだったのではあるまいか。
 この街は銀座や大手町とは違う。ここで暮らしている人たちで成り立っている。コロナウィルスが猖獗を極めていようとそうでなかろうと,そこに暮らしがある以上,際立つような大きな違いが生じるはずがない。

2021年6月30日水曜日

2021.06.30 間奏68:電子チケットの普及

● コロナ禍でリモートワークが一気に導入された。もしコロナなかりせば,満員電車での通勤があたりまえの状態が続いていただろう。十年一日の如くに,だ。
 満員電車の地獄は首都圏のサラリーマン以外は実感できないから,これをどうにかしろという国民の声にはなりにくい。企業にとっても,兵隊以外の役職に就いている人たちにとっては,従来の一所集中型の方が管理が楽だから,企業側からリモートワークの推進が提唱されることもあり得ない。
 しかし,コロナが否応なしにリモートワークを推進した。

● 満員電車での通勤がなくなるとこれほど楽になるのか,と驚きをもって迎えた人もいるだろうし,嫌な上司や同僚と顔を合わせなくてすむようになったと喜んでいる人はさらに多いだろう。
 企業にしたって,リモートワークが始まってみれば,これほどのメリットがあったのかと驚く向きもあるだろう。
 都心部のオフィスの借上代が要らなくなる。社員に通勤手当を支払う必要がなくなる。役立たずの中間管理職(大量にいるはずだ)を炙りだしてリストラできる。コスト削減効果が大だ。
 社内行事の大半も要らなくなる。もともと要らなかった儀式だが,やらずにすませる大義名分ができた。
 一所集中のメリットももちろんあるので,リモートワークがメインストリームになることはないだろうが,リモートワークでやれることがわかっただけでも,大きな前進だ。

● そうしたコロナのプラス面はコンサートの開催においても現れている。電子チケットが普及したことだ。これもコロナが強制的に普及させた。
 紙チケットを廃止し,事前購入を原則とすることによって,現金と紙チケットの授受をなくさせる。
 当日の朝でもチケットを買うことができるから,当日券をなくしても,販売機会の逸失は最小限にとどまる。
 事前に連絡先を把握することができるから,受付時の情報収集作業は要らなくなる。

● チケット購入者のメールアドレスがわかるのだから,以後のプロモーションに活用できる。次回の演奏会を告知できる。これほど集客効果がある告知手段はたぶんないだろう。
 ついでにいえば,住所までわかるのだから,自分たちの商圏(?)がどの程度の広がりを持っているかも把握できる。
 入場者数も,チケット購入者のうち誰が来て誰が来なかったかも,正確にしかも自動的にわかる。このあたりは入場時に電子チケット(QRコード)をちゃんと読み取った場合の話だが(それをやらないところもある)。

● 催行者にとっても観客にとっても,電子チケット化のメリットは大きい。観客にとってはもう1つ,大きなメリットがある。発券手数料やシステム利用料を支払う必要がないことだ。
 アマチュアオーケストラの入場料は2,000円どまりだろう。それで手数料が330円というのは暴利だ,と感じる人は多いのではないか。
 というわけで,【teket】は “ぴあ” を過去のものにした感がある。というか,“ぴあ” を駆逐して欲しい。

● もう紙のチケットにこだわる時代じゃないと思うのだが,コンサートに行くとか美術館に行くとかは,誰にとっても非日常であって,そうであれば紙のチケットは記念品になる。手帳に貼って保存しておきたい,だからチケットは紙の方がいい,と考える人も多いだろう。
 そういうのがチケットの電子化を阻害する理由の1つになりそうだが,電子チケット側がこうした需要にも対応していく流れになるんだろうか。味も素っ気もないQRコードではなく,チケット然とした電子チケットで運用するようになるとかね。どうしても紙という人は,スマホから印刷してね,と。

● が,電子チケットといっても,全く使えない業者もある。“Ticketta!” がそれだ。
 クレジットカードが使えない(VISAとMasterに対応していないんだから,使えないと言っていいだろう)。代金を払うためにコンビニや銀行に行かなければならない。
 電子チケットなのにネット内で完結できない。電子チケットのメリットが何もない。笑い話以前だ。呪いたくなるほど面倒だ。リアルが介在するのだから手数料も発生する。

● “Ticketta!” を使っているところのコンサートには行かない,と決めた。おそらく,今後は,こうしたことも行く行かないを決める選別要因になってくるだろう。
 願わくば,コロナが収束した後も,電子チケットが本流であってくれますように。“ぴあ” などという迂遠なやり方を強制してくるシステムを,過去の遺物にしてくれますように。


(追記 2021.11.13)

● 東大オケの第107回 定期演奏会の通知が届いた。来年1月30日,東京芸術劇場。曲目はショスタコーヴィチの5番ほか。
 チケットの購入は “Ticketta!” からになっている。“Ticketta!” を使っているところのコンサートには行かない,と決めたのだけれども,東大オケが演奏するショスタコーヴィチは聴いてみたい。

● ので,“Ticketta!” のサイトから購入手続きに入ったんだけども,途中で腹が立ってきた。結局,買わない(行かない)ことにした。
 電子チケットなのに手数料を200円取る。どういうことなのかわからない。加えて,依然としてクレジットカードが使えない。コンビニか銀行で支払うことになる。銀行は論外だからコンビニということになるのだが,ここでまた190円の手数料が発生する。

● ここまでで手数料は “ぴあ” を上回る。“ぴあ” は紙チケットの発行を前提にしたシステムだ。電子チケットなのに,“ぴあ” を上回る手数料を取るのははっきり暴利だ。
 紙チケットにも対応しているのだが,その場合はさらに300円が上乗せされて,690円になる。

● チケットは2,500円(S席)なのだが,その本体価格に対して690円の手数料を取れると考えている時点で,“Ticketta!” は素人が運営しているのだと推測するしかない。
 その分,催行側から徴収する料金は安くなっているんだろうか。

● 実装の仕方にも抜かりがある。入力して送信するのに,この内容で送信していいかと訊いてこないで,いきなり送信してしまう仕様になっている。キホンのキができていない。
 システムができそこなっている(としか思えない)。悪い意味で素人性が濃厚にある。

● ひょっとすると,大学オケの連合団体のようなものがあって,そこが傘下の大学オケの催行負担を軽減するとかいう名目で作ったものなのだろうか。
 だとすると(あくまでも,だとすると,だが),存在自体が不要なものだ。互助会的なるもの,協同組合的なるものは,もう時代についていけないお荷物でしかない。
 そういうものを新たに作るのはそもそもが間違っている。プロがいるのだから,プロに委ねればよい。美味しそうだから自分たちでやろう,とすると,かえってコスト高にならないか。


(追記 2021.12.13)

● “Ticketta!” がVISAとMaster のクレカに対応していた。ので,チケット代金の1割弱の手数料を払うだけでよくなった。
 これならば,とりあえずは相手にしてもいいと思う。26日夜の某楽団の演奏会のチケットを購入した。

2021.06.27 東京アマデウス管弦楽団 第91回演奏会

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 15時開演の東京佼成ウインドオーケストラの演奏会が終演してすぐに(終演後のセレモニー拍手には参加しないで)会場を飛びだし,バス停に向かった。
 ほどなく来たバスに乗って,JR宇都宮駅に着いた。新幹線ホームに立った。

● 新幹線は自分には無縁の乗物だと思っている。新幹線に乗らなければ行けないようなところには行く必要がない,と嘯いてン十年生きてきた。とはいえ,数年に一度は萬やむを得ない仕儀がある。
 今日は19時には川崎に着いていたい。なぜなら,19:30からミューザで東京アマデウス管弦楽団の演奏会があって,何を考えていたのか,チケットを予約してしまったからだ。
 われながら痛恨のミスを犯してしまったのだが(つまり,予約したときには地元で東京佼成ウインドオーケストラの演奏会があるのを失念していたわけだ),自分のミスの落とし前は付けなきゃしょうがない。

● 宇都宮発17:47のつばさの座席指定を受けていたのだけど,1本前のやまびこに間に合ったので,やまびこの自由席に乗車した。新幹線はガラガラだと聞いていたが,そうでもないぞ。JRのためには慶賀に耐えない。
 東京から東海道線で川崎着。全ては順調。宇都宮市文化会館からのバスの時刻をはじめ,新幹線の時刻も事前に調べておいて,予想していたとおりの流れになった。

● しかし,だ。こういうことを人様にお勧めできるかといえば,まったくできない。ほとんどの人は,勧められても従わないと思うけどね。
 ダメなんだよね,こういうのは。なぜか。“聴きに行く” という力が分散されてしまうからだ。1つの演奏会に向けるベクトル量を10だとすると,ダブルヘッダー(しかも1回目と2回目の会場が離れていて,移動するのに時間がかかる)になると,0.5に減ってしまうのではなくて,0.3になってしまうのだ。力の総量が小さくなる。分ければ漏れる,ということね。力の向きも分散されるからね。

● しかも,22日から25日まで都内のホテルにいた。当初の予定ではもっと長く逗留しているはずだったのだけど,26日に地元の那須野が原ハーモニーホールで演奏会があったので,26日の朝に帰途に着いたのだ。
 そうして今日,27日は川崎に来て,19:30開演の演奏会を聴くのだから,今夜は泊まることになる。
 だったら,26日と今日の昼間の演奏会のチケットは放棄して,ずっと東京に泊まっていた方がよかったんじゃないかと,どうしたって思ってしまうわけだよね。
 しかし,ですよ。ともかくミューザに着いたわけです。新幹線の速さは偉大でありました。

● 東京アマデウス管弦楽団は「1973年,当時の東大オーケストラ卒団者を中心に結成された」。ならば聴く価値あり。2013年3月の第78回定演から聴き始めた。
 しかし,室内楽演奏会を含めても,現在まで5回しか聴いていないのだ。直近では2018年6月の第8回室内楽演奏会。コロナ期間を除いて考えても,ポツンポツンとしか聴いていない。どうしてこういうことになったのか。

● 開演は19時30分。全席指定。席種の別はなく,チケットは2,000円。
 プログラムは次のとおり。指揮は石川征太郎さん。
 ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番
 ブルックナー 交響曲第6番 イ長調(ノヴァーク版)

● ブルッフのヴァイオリン協奏曲では,プログラム冊子の写真よりはるかに美人の金川真弓さんが登場。しなやかでふくよかで思い切りが良くて。世界水準とはかくもあるか,と思った。
 日本を代表するヴァイオリン奏者といえば,五嶋みどりさんをはじめ,何人もいると思うのだけども,そうした人たちの演奏と今日の金川さんの演奏を聴き比べても,ぼくの耳ではその違いがわからない自信がある。
 それを困ったことだとはあまり思っていない。しょうがないでしょうよ。そこまで耳が開発されてないもん。開発されてるくらいだったら演奏する方に回ってますよ。
 っていうか,その違いってほんとにあるんだろうかと,どこかで疑ってもいるんですよ。その違い,皆さんにはわかるんですか。

● ブルックナーの6番。ブルックナーを生で聴くのは,ずいぶん久しぶり。緻密さを保った積極果敢という印象になりますか。相当なものでしょ。ブルックナーをここまでやれるところは,首都圏でもそんなにはないでしょ。
 が,ブルッフでの金川さんの存在感に圧倒されたまま(さらには,アンコールのバッハ「パルティータ第1番」 “サラバンド” にとどめを刺されて),メインのブルックナーを聴いてしまった。ので,フワフワしてて記憶が飛んでいる。

● というわけで,ダブルヘッダーの2つめも終了した。今からだと新幹線を使っても今日中にわが家にたどり着くことはできない。銀座のビジネスホテルを予約している。
 このやり方がベストだったか,もっと上手いやり方があったか。先に述べたように,人様にはまったくお勧めできない。のだが,やってしまった。
 やってしまった以上は,おそらくベストだったのだ。思考停止でいいから,そう思っておくのが,それこそベストというものでしょう。

2021.06.27 東京佼成ウインドオーケストラ演奏会 アザレアシンフォニーシリーズ

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は15時。席種はSとAの2種で,ぼくは安い方のA席チケットを持っている。
 中高生が団体で多数来ている。部活で吹奏楽をやってる子たちでしょ。プロ吹奏楽団の演奏を聴きに来た熱心な生徒たちということになるのだろう。プロの演奏は気になるものでもあるだろうし,憧れでもあるのだろう。

● 曲目は次のとおり。指揮は大井剛史さん。この楽団の正指揮者を務めている。
 A.リード サリューテイションズ!
 平山雄一 トイズ・パレード
 佐藤信人 龍潭譚
 宮川彬良 僕らのインべンション
 宮下秀樹 吹奏楽のための「エール・マーチ」
 尾方凛斗 吹奏楽のための「幻想曲」-アルノルト・シェーンベルク讃
 A.リード エル・カミーノ・レアル

 A.リード セレナード -クラリネットと吹奏楽のための-
 A.リード プロセルピナの庭
 B.アッペルモント ブリュッセル・レクイエム

 (アンコール)ヘンリー・フィルモア サーカス・ビー

● プログラムを見ると,今年のコンクール課題曲が並んでいる。それ以外はリードが4曲,アッペルモントが1曲。
 中高生に財布を開かせるための演奏会かと,一瞬,思ってしまった。課題曲の模範演奏を見せるからね,よく聴いてコンクール,頑張るんだよ,的な。
 あるいは,コンクールの課題曲とリードの曲を比べてごらんよ,ぜんぜん問題にもならないだろ,課題曲にばかりかまけていてはダメだよ,もっといい曲がたくさんあるんだから,視野を広く取り給えよ,と言いたかったんだろうか。

● 以上は,あえてした妄想であって,そんなことのあるはずがない。リードの曲が並んだのは,今年がリードの生誕100年にあたるからだろう。
 コンクール至上主義という言葉を聞くこともあるが(当然,批判的に使われるのだろう),生徒の方はコンクールを超えて多彩な楽曲を組み立てて定期演奏会を催行してもいる。
 頭が下がる。自分が何もしない暗いだけの3年間を送ってしまっているので,頭が下がるだけではなくて,羨ましさも感じることになるんだけど。

● ただし,そうしたことをやってのけるのは,コンクールの上位入賞校の常連になっている学校において顕著であって,というより,そういう学校に限られるように見える。
 一定の水準に達していないと何をするにしてもスタートラインに立てない。そういう厳しさはどの分野でも,大人でも子供でも,同じなのだろう。

● 課題曲を与えて,それをコンクールで演奏させ,その結果を評価するという方式は,評価する側にはありがたい方式だろうと思う。指導する側もやりやすいかもしれない。生徒だって手がかりがあった方がやりやすいだろう。いつまでも生徒をやっていられるわけではないのだから。
 その手がかりを上手く使って活かすことができるのは技術を持っている生徒だ,ということになってしまうのが,何かどうも・・・・・・。といっても,仕方がないねぇ。

● 「セレナード -クラリネットと吹奏楽のための-」のソリストは,瀧本千晶さんが担当。地元出身者。
 “作新学院高等学校英進部を卒業して” と紹介されているが,彼女が卒業したのはそこではない。作新は作新でも吹奏楽部の卒業生だ。
 吹奏楽をやりたいから,クラリネットを吹きたいから,作新を選んだはずだ。つまり,栃木県における吹奏楽のエリートコースを歩んでいるんだよね。
 そうした意思の通し方をその年齢でできるというのも,ぼくに言わせると才能の一部だ。それができる人はそんなに多くはないと思うよ。

● 今日聴いた曲のあらかたは,高校生の演奏で聴いている。高校生の演奏と東京佼成の演奏では,水準がまるで違う。それはぼくのような素人にもはっきりとわかる。
 しかし,そのこととこちらに届くものが正比例するかというと,それはそうではない。これまで聴いたいくつかの高校の定演を思いだして,妙な懐かしさを感じた。可能ならそちらをもう一度聴きたい,と。
 過去に聴いた記憶を美化しているだけかもしれないんだけどね。

2021.06.26 アフタヌーン・オルガンコンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 先月に続いてのハーモニーホール。今回もオルガンの演奏を聴きに来た。演奏するのは梅千野安未(ほやの あみ)さん。梅千野という苗字があるのを初めて知った。
 開演は午後3時。チケットは破格の500円。先月来たときに買っておいた。

● 破格の500円であっても,大ホールの客席は空席の方がはるかに多い。理由は言うまでもなく,コロナにある。
 ホール側で入場者数(チケット販売枚数)を抑制しているはずだ。律儀に外出を控えている人も多いだろう。
 総じて,都会よりも田舎,中央よりも地方の方が,コロナに対しては過剰に反応する傾向があるように感じている。よく言えば備えが厳重かつ慎重であり,マニュアルに忠実だ。悪くいえば,腰が退けている。それは,それを求める人の比率が,都会より田舎の方が高いからだろうと考えるほかはない。
 どちらがいいのか,良し悪しはわからない。そもそも,良し悪しなどないのかもしれない。

● 曲目は次のとおり。
 バッハ 来ませ,造り主なる精霊の神よ
 バッハ フーガ ト短調(小フーガ)
 バッハ 幻想曲とフーガ ト短調
 フランク プレリュード,フーガと変奏
 ルフェビュール=ヴェリー 演奏会用ボレロ
 アイルランド民謡(混同岳編曲) ロンドンデリーの歌
 デュリュフレ アランの名による前奏曲とフーガ

● 選曲の理由や曲目解説は梅千野さんから直接説明があったのだが,憶えていられるわけがない。ぼくの小さな頭(外見はデカイんだが)では無理だ。かといって,客席でメモを取るのは何か変だ。というか,かなり変だ。
 憶えておかなければいけないものでもないと思う。曲目解説の部分は,ググればとりあえずは解決するだろうし。

● ただし,バッハの大フーガと小フーガの話は憶えている(つもり)。オルガン曲については(も),ぼくは何もわからない。ともかくも,バッハを聴きたいと思ってやって来た。
 で,両方を聴いて,小フーガを愛でたい気持ちになった。これだけを聴いて,その余韻をそっと持って帰りたくなった。
 もちろん,CDは持っているし,持っているだけではなくて聴いてもいる。が,CDでこういう気分になるよう自分を誘導するのはかなり難しい。できる人もいるとは思うのだが,ぼくは上手くできない。

● フランクやデュリュフレは初めて聴く。このホールのオルガンはフランス式だと聞いたことがあるのだが(聞いたことがあるだけで,それがどういういうことなのかは承知していない),フランス音楽とは相性がいいんだろうか。
 それ以前に,ドイツとフランスの違いというのは明確にあるものなんだろうか。作曲家の個人差の方が大きかったりはしないんだろうかね。

● このホールの専属オルガニストであるジャン=フィリップ・メルカールトさんが譜めくりを担当した。たんに楽譜をめくるだけではなくて,オルガンのボタン操作もしているようだ。
 オルガンの譜めくりは誰でもできるというものではなさそうだ。なまじな人には怖くて頼めないっぽい。

● 梅千野さんの挨拶を聞いて感じるのは,演奏家には陽性の人が多いということだ。彼女も間違いなくそっちの気が強いのではないか。イジイジしたりクヨクヨしたり根に持ったり,そういうことをしなさそうだ。
 まったくクヨクヨしない人なんかいないだろうから,あくまで程度問題になるんだけれども,演奏家ってクヨクヨの度合いが少なそうだ。そうじゃないとやっていけない仕事なんですかねぇ。

2021.06.19 アンサンブル アコルト 第10回室内楽演奏会 ロマンティック4ーロマン派四巨頭,四重奏の競演

横浜市神奈川区民文化センター かなっくホール

● 室内楽(主には弦楽四重奏を想定しているのだが)を聴ける機会があれば,できるだけ捕まえて行きたい。稀少性だけを言えば,管弦楽より稀少だからだ。少なくとも,ぼくが見聞きする世界ではそうだ。
 もうひとつ。管弦楽より室内楽の方が,聴き手を選ぶ。いや,そんなことはないのかもしれないけれども,ぼくにはそう思える。
 つまり,自分が聴き手として室内楽を苦手としているからだ。苦手を克服しようなどという大袈裟なものではないけれど,苦手なままでは損をする。

● ということなので,この演奏会を知ってしまった以上,行かないわけには行くまい。栃木の在から電車を5回乗り換えて(というのは東武線を使ったので。宇都宮,南栗橋,曳舟,浅草,新橋で乗換えた),東神奈川にやって来た。
 開演は午後2時。入場は無料だけれども,お約束の事前予約制。

● 曲目は次のとおり。相当なボリュームになる。重量級だ。
 メンデルスゾーン 弦楽四重奏曲第3番 ニ長調
 シューマン 弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調
 シューベルト 弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」 ニ短調
 ブラームス ピアノ四重奏曲第3番 ハ短調

● アンサンブル アコルト がどういう団体なのかというのが,まずわからない。わからなくても何の支障もないわけだけど。
 最初にメンデルスゾーンを演奏した4人組はクアトロピラストリというらしい。シューベルトを演奏したのは,カルテットKeynz。そうしたいくつもの4人組が集まったのがアンサンブル アコルト というわけだろうか。
 出入り自由な開かれた団体なんだろうか。よくわからない。わからないけれども,今回で10回の演奏会を重ねる。

● 曲目解説も実奏者ならではのもので,色々と蒙を啓かれる。特に面白かったのがシューマンについて語ったもの。
 半拍ずらしが延々と続く。したがって,とんでもない苦労を強いられる。
 「もどかしいのは,自然に聴こえることが成功だから,この苦労が客席に伝わらないこと。この徒労感に耐え切れなくなった僕たちは,ついに,ずらされた裏拍スタートの記譜を表拍スタートに読み替えるという禁じ手の誘惑に負けてしまう」。
 アッハハハ。と笑ってはいけないところだろうけど,早々に負けるのが賢いのかもしれないよね。そこまでシューマンは折込済みなんだろうしね。

● 弦楽四重奏曲といえばベートーヴェンの後期と呼ばれる作品群が有名。変化と進化を止めないベートーヴェンを称えるのに,後期の弦楽四重奏曲はその好例として示される。それ以前とはガラッと変わっている,と。
 その嚆矢となる第12番を作曲したのは1825年。シューベルトの「死と処女」は1824年。ベートーヴェンの12番ができあがる1年前だ。その楽譜をベートーヴェンは見ているんだろうか。見ているんでしょうね。

● ベートーヴェンが孤高の一本杉であったとは考えにくい。他は知らず,われ独り行く,であったはずがない。
 手塚治虫が若い漫画家の画風やストーリーや背景に影響を受けて,自身の漫画を変えていったように,ベートーヴェンもまた自分より若く,自分を尊敬している若い作曲家から影響を受けていたんでしょう。

● その時期の手塚治虫を見ると,大家としてゆるぎない地位を確立してなお,自分を超える者が出るのが我慢できなかったのではないかと思えなくもない。要するに,かなりの負けず嫌いだったのじゃないか,と。
 ベートーヴェンも同じだったのだろう,ということにしておきたい。

● ともあれ,晩年のシューベルトはベートーヴェンに深い影響を与えたように思われる。シューベルトの何がそうさせたのかといえば,諦念のようなものではなかったか。
 悲しみを湛えた諦めのようなもの。何を諦めたのかはわからないが,自分を諦めたのか,あるいは人生を諦めたのか。否応なく終わりが見えた。そこから来る何ものか。

● 最後にブラームスのピアノ四重奏曲で優美に締めて,終了となった。
 たぶんだけれども,今回の奏者たちは,音大に行くという直截な手段を選ばずに,それに代わる方法で技術と読解力を磨いてきた人たちではないかと思う。つまり,狭義の正統派ではない。
 面白い人たちが集まっていると思えたのだが,失礼ねと言われちゃうかもしれない。

● こういう時期なので,使用座席は制限している。その制限下の座席はほぼ埋まっていた。
 これほどお客さんが入るのは初めてなので・・と主催者が言っていたけれども,こういう演奏をしていればお客さんはだんだん増えてくるものでしょ。お客さんって正直だもんね。
 多くの演奏会が中止になって,聴きに行ける演奏会がなくなってしまっているから,というのではないと思いますよ。

2021年6月23日水曜日

2021.06.15 西口彰子 ソプラノ・リサイタル

栃木県総合文化センター サブホール

● 総合文化センターの「ランチタイムコンサート」の,これが38回目になるらしい。開演は正午。約1時間のコンサート。
 チケットは1,000円。全席指定。使用する座席は半分に抑えているが,満席になった。当日券はなし(だったと思う)。
 平日の昼休みでこの状態になるのは驚きだ。しかも,ここは宇都宮なのだ。
 が,西口さん,お客を呼べるソプラノだから,かくもあろうかとチケットはだいぶ前に確保しておいた。

● ソプラノの魅力は那辺にあるかと考えてみたときに,ぼくはエリー・アーメリングを思いだす。といっても,そんなにたくさん聴いているわけではなくて,たとえばグリーグ「ペールギュント」の “ソルヴェイグの歌” だ。
 本当に落ち込むような事態に遭遇したときに,人は何をするか。まずは酒を飲んで気を紛らすと思うのだが,飲みに行く気力も湧いて来ないようなときはどうするか。
 エリー・アーメリングの “ソルヴェイグの歌” を聴くのはどうか。CDを取りだしてセットするのも億劫かもしれないけれども,そこはまぁ頑張ってもらうことにして。

● あの “ソルヴェイグの歌” は女神の調べだもんなぁ。どこが女神なのかといえば,結局は母性ということになってしまうかもしれない。ペールギュントのすべてを許すっていう。
 それゆえ,ソプラノの魅力は母性にあると言ってしまっては,いくら何でも短絡が過ぎるという誹りを免れないけれども,少なくとも男よりも女の方が神に近い場所にいることは間違いないだろう。

● 女が男に与え得るものは,そうした神的なもの,癒しであったり,励ましであったり,許しであったり,たくさんのものがあると思う。
 しかし,男は女に何を与えることができるか。ひと昔前なら経済的安定と言えたかもしれないが,もはやそういう時代ではない。男より稼げる女は佃煮にするほどいる。
 ぼくが思うに,男が女に与え得るものはたった1つしかない。それが何かといえば,“笑い” ではないか。男が女に与えられる快は “笑い” しかないと言い切ってしまっていいような気がする。

● それゆえ,女に “笑い” を届けることに意を尽くすべきでしょうね,男はね。笑わせることにおいて吝嗇であってはならない。あとは適度にスケベであればいい。
 女どうしで作る “笑い” は爛漫さに至るまで突き抜けることは少ないように思える。だから,バカバカしい “笑い” を提供することが,男が女にできる唯一かもしれない貢献だと心得て,一意専心励むべし。
 お笑い芸人がやたらモテるのも,つまるところは “笑い” の源泉を多量に持っていると思われているからではないですかね。
 換言すれば,それ以上に自分を縛る必要はない。大それたことは考えなくていいんですよ。

● さて,このリサイタルの副題は,「歌となったシェイクスピア,ゲーテの世界」となっている。曲目は次のとおり。
 モーツアルト すみれ
 シューベルト ガニュメート
 クィルター 来たれ,死よ
 プーランク Fancy
 グノー 歌劇「ロミオとジュリエット」より “私は夢に生きたい”

 ベッリーニ 歌劇「カプレーティ家とモンテッキ家」より “あぁ,幾たびか”
 グノー 歌劇「ファウスト」より “なんと美しいこの姿”

● 言葉を大事に扱いたいと,西口さんはおっしゃる。まず言葉があって,音楽はその後だ,と。
 どの言語でも,話し言葉は音楽を内包しているように思われる。アクセントやイントネーションはその萌芽だろう。
 日本語はすべての音素に同じ強さと同じ長さを与える言語だから,やや感じにくいけれども,リズムの原型も併せ持っていると見るのが妥当だろう。
 それら言葉が内包するものに反した曲を与えても,収まりが良くない。ポップスなんかはわかりやすくそうだと思う。

● しかし,オペラの場合は,日本語上演であっても字幕が欲しくなる。フランス人がフランス語のオペラを聴く場合でも同じではないか。
 言葉が内包する音楽性は問題にならない。たとえばヴィブラートがそんなものを軽くかき消してくれる。

● 西口さんが言われる言葉の大切さとは,だからそのような意味ではないのだと思うが,ではどういうことなのかといえば,確たることはわからない。言葉が指し示すものをしっかりイメージすることが大切だ,というあたりで受けとめておけばいいのだろうか。
 外国語ということもあって,ぼくらは言葉ではなく歌唱を受けとめることになる。言葉と歌唱の関係の深いところは,歌い手にしかわからないものだろう。

● ピアノ伴奏が黒岩航紀さんという豪華版。黒岩さんによるピアノソロが1曲。メンデルスゾーン「結婚行進曲」。
 1,000円で西口さんと黒岩さんの演奏が聴けるんだから,お得感はかなりのもの。それもチケット完売につながった理由の1つでしょう。

● ところで,真昼の栃木県総合文化センター。真夏日が去っていって,いや,いい気分。まことにもって,セブン! イレブン!!,・・・・・!! なのだった。
 これから梅雨がやってきて,鬱陶しい日が続くんだろうけど,今日の今日はいい気分を満喫したい。

2021年6月22日火曜日

2021.06.13 鹿沼ジュニアフィルハーモニーオーケストラ 第32回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 鹿沼市民文化センターにやってきた。文化センターの敷地内にある「青春の詩」という像なんですけど。この顔がオッサンにしか見えんのですよ。
 昔の若者は,若にしてすでに壮に近かったんですかなぁ。自分も昔の若者なんで,こんなふうだっんだろうかなぁ。だとすると,損をした気分になるなぁ。

● さて,ここに何をしに来たのかといえば,鹿沼ジュニアフィルの定演があることを知って,聴きに来たのだ。ただし,この情報に不安がある。
 どこで知ったのかといえば文化センターのサイトで,だ。開演時刻は未定となっているが,過去の例からすればおそらく開演は午後2時のはずだ。
 
● 問題は,それ以外に情報が一切出ていないことだ。特に,Twitterを検索しても何も引っかかってこないのが気になる。ジュニアのメンバーは中学生と高校生だ。Twitter仲間に聴きに来てねとつぶやくはずだ。つぶやかないではいられないはずだ。
 しかるに,それが出てこない。みんな鍵アカなんだろうか。過去につぶやいている人はいるんだけども,その人たちも今回は一切発信していない。

● ひょっとすると無観客開催なんだろうか。あるいは,保護者等の関係者のみに限定しているんだろうか。と,疑心暗鬼になってくる。
 コロナ禍でそういうことが頻繁に起こっているからね。ネットに開催情報が一切出ていないというのは,けっこう無気味。
 ま,行ってみればわかる。というわけで,けっこう早めに文化センターに到着した。

● 結果,14時から通常開催ということだった。チラシも文化センターには置かれていた。
 観客のほとんどは生徒の父兄だったようだから(あとは,中学校,高校の友人たち),内向けの発信でいいのだと思うんだけども,同時に鹿沼ジュニアフィルは当事者が思っているよりも大きな存在であるかもしれない。
 開催されるなら聴いておかないと損をした気分になる演奏会がいくつかあって,栃木県内でならその筆頭が鹿沼ジュニアフィルだからだ。ぼくの場合はそうだと言うに過ぎないんだけど。
  要は,外に向けての発信も欲しいかなってことなんですけどね。ネットがあるんだからお金をかける必要は全くない。誰かがネットにチョロっと流してくれるだけでいい。

● 入場無料。曲目は次のとおり。
 スッペ 喜劇「スペードの女王」序曲
 ムソグルスキー 交響詩「禿山の一夜」
 リムスキー=コルサコフ 交響組曲「シェヘラザード」第4楽章
 ドヴォルザーク 交響曲第8番

● 指揮したのは「スペードの女王」のみ植木孝浩さん,それ以外は益子和巳さん。
 以前からジュニアオケを統括していたのが,鹿沼東中オーケストラ部の顧問を務めていた益子さんだったっぽい。その益子さんがどうやら東小学校に異動になり,その後任が若い植木さんらしい。ジュニアオケの場合,指導者問題は付いて回るに違いないと思うのだが,とりあえず,その問題は回避されたと考えていいんだろうか。
  文化センターの「催物案内」を見ると,ジュニアオケの練習がかなり入っている。これに全部付き合うのだとすると(無給だろう),相当な負担になる。児童生徒から金銭的報酬ではない報酬をもらっているのだとしても,生半なことではない。

● スッペといえば「軽騎兵」。「スペードの女王」序曲を生で聴くのは初めてだ。
 ジュニアにしては力強いとか,ジュニアにしては縦の線が揃っているとか,そういう話になるんだろう。「ジュニアにしては」が付きものだ。
 が,このオケに関してはその接頭辞は余計なものだ。「ジュニアにしては」を取り払っても,力強いし縦の線も揃っている。

● 「シェヘラザード」では小学生がドッと登場。高学年の児童だけじゃない。東小学校の児童たちだろうか。合唱部をオーケストラ部に衣替えしたようなのだが。
 今回のプログラムも堂々たるものだが,過去にはマーラーやブルックナーも演奏していることを思えば,今回は控えめだとも言える。こういう事情があったのか。

● コンマスは曲ごとに交代した。「シェヘラザード」では女子。この曲ではその方が聴きやすいですかね。やっぱり感情移入しやすいよね。
 シェヘラザードは女性で,曲中では彼女が命を張って王に対峙している。その凛とした覚悟のほどをコンマスのヴァイオリンソロが奏でて行くわけだから。

● メインのドヴォルザーク8番。いや,立派なものだ。県内演奏界の一角に確かに存在していて,しかもその様は燦然としている。これほどのものがなぜ鹿沼にあるのかは,依然として謎だけれど。
 終演後,鹿沼駅までカラヤン+ウィーン・フィル(ベルリン・フィルじゃなく)のドヴォ8をウォークマンで聴きながら歩いた。が,聴くという体験価値の多寡の違いは歴然としている。
 生に勝るものはないと言ってしまえば,それで終わる話ではあるんだけれども,鹿沼ジュニアの力のこもり方には電車を乗り継いででも聴きに来させるだけのものがある。短く表現すれば,“価値がある” ということになる。称賛されて然るべきと思う。
 今回に関しては木管と金管,特にフルートの響きが印象に残っている。

● アンコールはビゼー「アルルの女」から “ファランドール”。最高潮に盛りあがって終わる。ステージと客席の一体感がいや増す。客席サービスにも抜かりはない。自分たちも盛りあがれるだろう。
 というわけで,絵に描いたような終演で,満足して帰途につけた。

● 唯一,課題を残したとすれば,客席だねぇ。自分の子や孫がステージにいるんだから仕方がないのかもしれないんだけれども,演奏中はスマホは消せという話だなぁ。フラッシュ撮影までしちゃっている婆さんもいて,さすがにちょっと。
 というわけで,もしできたら,自分の親や祖父母に,演奏はちゃんと録画録音しているから,素人がわざわざ撮らなくてもいいんだよ,と言ってくれないだろうか。
 あと,肖像権の話もしてあげた方がいいと思う。君たちの親や祖父母は,このあたりについては脇が甘すぎるはずだから。
 まぁ,言ったところで通じるようなタマでもあるまいけどさ。

2021年6月21日月曜日

2021.06.06 栃木県交響楽団 第109回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 栃響の演奏会は必ず聴いているかといえば,決してそんなことはない。ぼくのような者にも都合というものはあるし,田舎では滅多にないことなのだが同一日時に複数の演奏会が行われることもある。そういうときに,栃響ではない方の演奏会に行ったこともある。
 ではあるのだが,単純に聴いた回数を数えると,栃響が圧倒的に多い。第1には自分が栃木県に住んでいるからだが,それ以上に,栃響が年2回の定演の他に第九演奏会や特別演奏会など,アマオケとしてはかなりの活動を展開しているからだ。

● その栃響の演奏を聴くのは,しかし,相当に久しぶりだ。ひとえにコロナ禍によるもので,ひとり栃響に限らないはずなのだが,年に数回聴いていたのがバタっと途切れてみると,久しぶり感は相対的に強くなる。
 前回聴いたのは,昨年2月2日の定演だから,1年と4ヶ月ぶりということになる。その間,栃響も対外的な活動は停止を余儀なくされた。停止が解除されたのが今日というわけだ。
 Congratulations と言っていいでしょうね。ワクチン接種も進んでいるんだから,もう昨年のような状況に戻ることはないと思いたいよね。

● 今から考えてみると,この頃(昨年2月)にはすでにコロナウィルスが日本中にはびこっていたかもしれないねぇ。ただ今増殖中って感じだったのかも。
 中国が春節で,移動しまくる中国人を入国させるかどうかで喧しかったけれども,この時点ではもう遅かったのかもしれないよね。

● 開演は14時30分。チケットは1,200円(前売券)。そのチケットに名前と電話番号を書いて,受付で渡す。自分でモギってというんじゃなくて,チケットそのものを渡す。半券が手元に残ることはない。
 曲目は次のとおり。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 ハイドン チェロ協奏曲第1番 ハ長調
 ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調
 古典派をきれいに並べた感じ。積極的選択ではなくて,ステージにあがる団員を絞り(ソーシャルディズタンスの問題),その人数で演奏できる曲目でプログラムを作るとこうなったということ。このあたりの事情はプログラムと一緒に配られた,指揮者の三原明人さんの挨拶文(?)に書かれている。

● 三原さんといえば,彼の指導を受けた複数の市民オケのメンバーが集まって,ミハラシンフォニカなるオーケストラが結成されている。慕われるキャラクターなんでしょうかねぇ。
 こちらもコロナで延期を余儀なくされていたのだが,7月24日に復活開催が決定しているようだ。ベートーヴェンの全曲演奏を終えて,ブラームスに行くらしい。
 さっき,申込みをした。会場の都合で90人しか入れないらしい。聴けるかどうかは,現時点ではわからない。
 ちなみに,「オケ専」では7月25日となっており,会場も別のところになっている。当然,楽団のサイトが正しいのだろう。というか,オケ専って時々こういうことをやっちゃってる感じなんだよね。

● さて,栃響の演奏だ。聴いただけでこれは栃響だとわかる栃響サウンドというものがあるのか。指揮者によってどれほど変わるものなのか。
 演奏の録音を聴いてこれは栃響かどうか当ててみろと言われても,まず当たらないでしょうなぁ。そういう前提でだけれども,栃響サウンドはあると思っている。「魔笛」序曲の冒頭で懐かしさが迫ってきたから。

● ハイドンのチェロ協奏曲のソリストは佐山裕樹さん。先月16日真岡市民交響楽団とのドヴォルザークを聴いているのだが,ひと月足らずで今度はハイドンを聴けたわけだ。
 妙な比喩だが,ドヴォルザークが中字の万年筆なら,ハイドンのこの曲は細字のガラスペンのようだ。キラキラしている。が,ちょっとでも迂闊に扱うとペン先が欠けてしまう。ペンとしての使い勝手は万年筆の方がずっといい。
 栃木県はチェリストの産地で,金子鈴太郎,宮田大,玉川克。他にもいたか。でもって,佐山さんが登場。錚々たるものでしょ。

● ベートーヴェンの5番は,コロナ禍に入ってから,聴く機会が増えたように思う。今年も2月以降は,毎月1回は聴いている。
 多くない人数でも支えられ,かつ客席にインパクトを残せる曲となると,この曲が選ばれやすいのだろう。あるいは,この状況に対する演奏者側の意思表示として選びやすいのでもあるだろう。
 ベートーヴェン生誕250周年である昨年は散々な年になった。合唱の入る「第九」はとりわけ悲惨で,演奏されることがあっても,合唱陣が10数名といったものだったと聞く。今年を1年遅れのベートヴェン・イヤーにするかという巧まざる思惑もあるかもしれない。

● 聴く側にしても,この選定に文句のあろうはずがない。栃響の「運命」は2015年の第99回定演以来。このときも指揮は三原さんだった。
 第4楽章冒頭のカタルシス。ここで感じるカタルシスは,広い意味での追体験だ。
 格闘の結果,地平を突き抜けて頭ひとつ上に登った。視界が一気に広がり,閉塞感が消えた。
 ここでのベートーヴェンは,格闘はするが逡巡はしない。優柔不断のかけらもない。きわめて男性的だ。
 と言ってしまったけれども,これは女性の特性だよね。「女々しい」は「男々しい」と書くべきなのだし,「雄々しい」は「雌々しい」と書くべきなのだよね。

● ともあれ,ここでカタルシスを得て,スッキリとしかし満ち足りた気持ちで帰途につくという段取りになる。
 もちろん,そのカタルシスで何かが変わるわけではない。嫌な上司は嫌な上司のままで,明日はその上司に会わなければならない。その憂鬱さは変わらない。
 けれども,ベートーヴェンの5番を聴くと,一旦は脳内を白紙にできる。この「一旦は」がじつに大きい。ずっと続くのと,ごく短時間でも一旦は遮断できるのとの差は,ぼくに言わせれば無限大だ。

● 音楽を聴くことの効用をそうした下世話なことがらに収斂させてしまうのはいかがなものかと,われながら思うけれども,しかしそうした実利もあることは知っておく方がよい(ほとんどの人は知っているだろうけど)。
 そのために音楽を聴きに行くことは当然あってよいわけだ。芸術性という,いくらでも恣意を潜り込ませることのできるタームで,音楽を語るだけが能ではない。

2021年6月20日日曜日

2021.06.05 スクオーラ・デッラ・ムジカ 東京 第7回企画コンサート「華麗なるモーツァルト」

和光大学ポプリホール鶴川

● 場所は東京都町田市と川崎市麻生区のあわいにある和光大学ポプリホール鶴川。
 といっても,和光大学の施設ではない。ネーミングライツ(命名権)による名称であって,町田市が運営する施設だ。2階は図書館になっている。1階は交流サロン的なスペースになっていて,住民票も発行するらしい(土日も)。
 ホールは地下2階にある。300席ほどの小さなホールだが,音響はかなり良い。

● 元々は「町田市鶴川緑の交流館」と言ったらしい。それを和光大学が「和光大学ポプリホール鶴川」と命名する権利を町田市から買ったわけだ。年額450万円。安いのか高いのかは,素人にはわからないけどね。
和光大学ポプリホール鶴川
 ところで,和光大学って埼玉県和光市にあるのだとずっと思ってましたよ。和光市にあるから和光大学なのだろうと。
 ところが,埼玉県大和町が和光市になったのが1970年,和光大学の開学は1966年。和光に関しては,大学の方が市より早かったんですねぇ。

● 「スクオーラ・デッラ・ムジカ 東京」という団体の演奏を聴くのは初めてだし,じつは名前を知ったのも先日のことだ。コロナ禍にあって,器楽演奏であっても中止したり延期したりしているところがあるのに,声楽を入れて予定どおり開催するというので,では行ってみようとメールで予約をいれたのだった。
 30人程度の小さい演奏団体。この言い方はいかがなものかと言いながら,結局言ってしまうのだけれども,平均年齢もけっこう高い。

● 開演は14時。受付で名前を告げて料金(1,000円)を払って入場。まずは各パート1人ずつの弦楽合奏で「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第1楽章。全体で「フィガロの結婚」序曲。
 次いで,モーツァルトのオペラからアリアを。
 「フィガロの結婚」K.492より “恋とはどんなものかしら” “もう飛ぶまいぞこの蝶々” “神の愛よ,安らぎを与え給え”
 「ドン・ジョバンニ」より “シャンペンの歌” “お手をどうぞ”
 「魔笛」より “われは鳥刺し” “パパゲーノとパパゲーナの二重唱”

● ソプラノは高橋愛梨さん,バリトンは岩美陽大さん。人間が道具を使わず直接何かを表現すると(歌とかダンス),とたんに華やぎが生まれるものだね。観衆の眼を引きつけるものだ。
 舞台から大道具も小道具も衣装も照明も取り払って,演出を消してしまっても,歌手と管弦楽だけでオペラは成立するなとも感じさせる。このスタイルで「ドン・ジョバンニ」を全部やってくれないだろうか。

● 休憩後は器楽だけで。曲目は次のとおり。
 ロンド K.373
 アダージョ K.261
 フルート協奏曲第1番 K.313

● 独奏は,ヴァイオリンが鈴木葉子さん,フルートが新谷しのぶさん。鈴木さんはこの楽団とは長い付き合いのようだ。このとき以外はコンサートミストレスを務めてもいた。
 団員は大人になってから楽器を始めた人が多いように思えた。成人してから出会った趣味というのか,自分にフィットするものを長く慈しんできたということなのだろうか。
 なお,指揮は西上純平さん。