2015年12月31日木曜日

2015.12.27 TBSK管弦楽団第5回定期演奏会

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● プログラム冊子の「インスペクター挨拶」に,楽団名の由来についての解説がある。「初顔合わせをとある居酒屋で行った際に,指揮・久世武志先生が手羽先を頬張りながら「手羽先オケなんてどう?」と仰ったことがきっかけで決まったのです」ってね。
 そうか。TBSKは手羽先(てばさき)と読むのか。指揮者が手羽先ではなくて,豚の串焼きを食べてたら,BTKY管弦楽団になってたのか。
 まぁ,そうじゃないよね。手羽先だったからサッと決まったんだろうな。あるな,そういうこと。その流れに乗ったほうがうまくはまるんだよね,そういうときって。

● 開演は13時30分。入場無料。ただし,チケット制。入場者を正確に把握したいということですか。
 曲目は次のとおり。指揮者は久世武志さん。
 R.シュトラウス 歌劇「サロメ」より7つのヴェールの踊り
 R.シュトラウス ホルン協奏曲第1番
 マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調

● 男性は黒のスーツにボウタイ。女性は黒のスカート(orパンツ)に白のブラウス。で,黒が勝っている。全体的に黒っぽい。
 つまり,女性より男性がずっと多い。そういうオーケストラって,こういうと女性には叱られるかもしれないんだけど,たいてい水準が高い。N響を御覧なさいっていう感じね。

● かといって,ウィーン・フィルとかベルリン・フィルは女性が少なすぎる。あれは何なんだろうね。
 ヨーロッパって案外,封建遺制を引きずってるところがあるんですか。サッチャーさんとかメルケルさんとか,女性が首相になったりしてるのにね。

● いや,そういうことではないんでしょうね。プロの演奏家になるには,小さい頃から英才教育を受けなければならない。日本だと女の子はそのチャンスに恵まれるけれども,男の子はそういうものから遠ざけられがちだ。
 ヨーロッパはそうじゃないってことなんでしょうね。歌舞音曲は女のものっていう空気がないのだろうな。想像で言ってるわけですけどね。

● この楽団が巧いのは,その前からわかってましたけどね。入場するときにね,スタッフの応対がね,巧い楽団のそれだったんですよね。それこそうまく言えないんですけどね,あるじゃないですか,そういうの。
 そもそもがね,ミューザで定演をやるっていうところでね,これはかなり巧いはずだよってわかるわけで。

● ホルン協奏曲のソリストは,イルジー・ハヴリークさん。チェコ・フィルのホルン奏者。こういう人を引っぱってこれるのもね,おそらく指揮者の久世さんの人脈によるものかもしれないけれども,この楽団の実力なのだろう。

● ところで,この楽団は首都圏の複数の大学の学部生,院生で構成されているようだ。音大ではなく普通の大学。
 インカレオーケストラってことになるんだろうか。おそらく,彼らの多くは所属する大学のオケ活動にも関わっているんだと思うんですよね。それに加えて,このオケにも入っている,と。
 所属大学のオケでは満たされないものがあるのか,精鋭だけでレベルの高い演奏をやってみたかったのか。それはどうあれ,この種の勤勉さをぼくは奇妙なものを見るような感じで受けとめる。自分にはなかったものだから。

● この演奏会を聴いたのはいくつかの偶然が重なった結果。それらの偶然に感謝。
 ちなみに,3曲のうち,最初に聴いた「7つのヴェールの踊り」が最も印象に残っている。文字どおり最初に聴いたからだ。清新な演奏でおぉっと思った。

2015.12.31 ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会2015

東京文化会館 大ホール

● この壮大かつ破天荒なイベントを4年連続で聴きに行っている。今年はどうするか。じつのところ,気がすんだ感もある。
 同じ日に同じ会場の小ホールではベートーヴェンの弦楽四重奏曲の演奏会が,これまた毎年行われている。さすがに16曲を一気に演奏するわけではないけれども,連続2回ですべてを聴くことはできるはずだ。

● ぼく的には弦楽四重奏曲ってハードルが高い感があって,そろそろそっちに動いて,“ハードル高い感”を払拭しておかないといけないなと思ったりもして。どっしようかなあ,と。
 結局,決められないまま12月を迎えた。

● 席はS・A・B・C・Dとあって,S席が2万円。あとは5千円きざみ。C席が5千円となる。D席は2千円。
 過去4回のうち,3回はヤフオクでチケットを入手している。今回も否応もなくヤフオクに頼った。C席を1万円でゲット。ヤフオクを通すとだいたい,こんなものになる。
 C席は4階の左右両翼席がメインになるようなのだけど,1列目と2列目では天地の差になる。たとえ倍払ってもいいから,1列目に座りたい。ヤフオクにその出物があれば,倍額覚悟で取りにいく。

● えっ,だったら,正規にB席を取った方がいいんじゃないですか,って。そりゃそうだ。「チケットぴあ」でも扱っているんだから,発売開始日にパソコンかスマホにはりついて,正規料金でCの1列目を狙えばもっといいのだと思う。
 ま,今回は最後まで迷っちゃったもんだから。

● でね,会場に着いてしまえば,何で迷っていたんだろう,来る一手だったじゃないかと思うんですよね。大晦日の午後から深夜まで,これ以上はないと思える豪華メンバーの演奏で,ベートーヴェンの交響曲を1番から9番まで聴けるのだ。
 日本を代表する音楽ホールのひとつであろう東京文化会館にしても,今日ほどの華やぎを見せるのは,年に何度もないのではないかと思われる。その華やぎの中に自分を滑りこませる快感っていうのも,たしかにある。

● ともあれ。結局,5年連続5回目の拝聴とあいなったわけね。開演は午後1時。陣容は,ぼくが聴き始めた2011年からまったく不動。
 指揮は小林研一郎さん。管弦楽は「岩城宏之メモリアル・オーケストラ」で,コンマスはN響の篠崎史紀さん。奏者の入替えはあるのだろうけど。

● C席とはいえ,1列目だから視野をさえぎるものがない。邪魔な他人の頭もない。ステージからの距離は少々あるけれども,S席の最もしょぼい席よりはこっちのほうがいいんじゃないかなぁと思う。
 たしかなことはわからないけどね。S席なんて座ったことがないんだから。
 今まではずっと左翼席だったんですよ。それが今回は初めての右翼席。コンマスの篠崎さんをはじめ,ヴァイオリン奏者が正面に見えることになる。この光景も新鮮だった。

● こんなブログを書いていると,演奏や指揮についてああだったこうだったと,まぁ,あれこれ書かなくちゃと思うものだから,それ前提で聴いてしまうことになる。
 で,今回はそんなことを書くのはやめようと思った。これほどの演奏について素人が小賢しいことを書いても仕方がない。
 ただ聴こう,心をむなしくしてたんに聴こう。そう思った。

● 1番の第1楽章。ヴァイオリンが正面に見えることの効果。弓を扱う腕の動きのきれいさ,敏捷さがストンと伝わってくる。
 さらに,気持ちの乗せ方,あるいは自分の解釈の表現の仕方といったもの。
 まぁね,ここまで言ってしまうと,それは君の勘違いか思いこみだよ,と自分で突っこみたくもなるんだけどね。

● 第3楽章に入ったところで,1万円の元は取れた感じがした。このあと,1番の第4楽章から先は,そっくりぼくの利潤になる。
 2番の第1楽章を聴いているとき,ぼくの左目からツーッと涙が流れたのがわかった(右目からは流れなかったな)。どう処理していいのか,ぼくの脳が対応できないとき,こういう身体反応が出るんだと思う。
 でもね,2番の第1楽章ですよ,どう考えても泣くところじゃないでしょ。自分の身体反応ながら,理解に苦しむところだ。ただし,こういうときって,身体反応が正しくて,理解なんてどうでもいいんだろうなとも思うんですよ。

● コンマスの篠崎さんの貫禄というか,ありゃあ凄いね。指揮者も彼を立てて,彼を通してオーケストラに対峙していこうとしているように見えた。
 彼が入ってくるとき,先に待機しているメンバーはゴッドファーザーのテーマを奏でてもいいんじゃないですか。彼の所作とゴッドファーザーのテーマはピッタリはまって,客席は大いに沸くに違いない。

● でも,あれだ,このオケが常設だと仮定して,メンバーが篠崎コンマスの言うことを聞くだろうか。たぶん,聞きやしないね,このメンバーは。
 チューニングのときの“音くれ”の合図や,終演後の“全員立て”の合図にはしたがうだろうけど,それを越える指示に対しては,無視をもって応えるんじゃないかな。
 無視はしないか。反論するだろうね。言葉をもって言いたいことを言いそうな感じだな。
 いやいや,もちろんわかりませんよ。わかりませんけど,そんな感じなんだな。

● 4番が終わったあとに,主催者の三枝さんが登壇。プログラム,2,000円するんだけどさ,面白いこと書いといたよ,役に立つと思うからさ,よかったら買ってよね,という口上。
 今までは,この他に,奏者を呼んでインタビューしたりっていうのもあったんだけど,今回はそれだけにとどまった。

● あとは,小休止,中休止,大休止をはさみながら,淡々と進んでいく。1番から4番までが1部,5番と6番が2部,7番から9番までが3部,という感じ。
 人によっては,9番を4部とする向きがあるかもしれないけど。

● 自分は今とんでもない演奏を聴いているのだぞ,と言い聞かせてみる。淡々と進むから,あるいはチケット代がかなり抑えられた価格だから,どうもありがた味が上昇してこないきらいがあるけれども,今聴いている演奏は凄いんだぞ,と。
 指揮者もオケの演奏に付いていくように棒を振っていると思われるところもあったし。

● 最後は「第九」。「第九」の陣容も昨年と変わらず。合唱は武蔵野合唱団。ソリストは,森麻季(ソプラノ),山下牧子(アルト),錦織健(テノール),福島明也(バリトン)の諸氏。
 唯一,バリトンの青戸知さんが体調が悪くなったらしく,福島明也さんがピンチヒッターに立った。
 管弦楽も合唱団もソリストも,もう何も言うことがない。素晴らしいとはこういうことだ。

● 今回は年明けに10分ほど残して,年内の終演になった。
 このあと,ロビーコンサートがある。ヨハン・シュトラウスのワルツをいくつか。
 どんだけサービス精神に富んでいるんだか。っていうか,サービス精神だけではここまでやれないと思うので,やらせるだけのドーパミンが出ているはずだよな。

● じつはロビーコンサートまで聴いたのは,これが初めてだった。2016年の大都会の空気を吸いながら,大晦日の定宿になっているホテル(ただし,カプセルホテル)に向かった。

2015.12.28 宇都宮大学管弦楽団第80回定期演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後7時。チケットは800円。
 さて,ここでつまらない,あまりにつまらない話をしなければならない。いや,しなければらないってことはぜんぜんないんだけど,しておきたい。
 初めてこの楽団の演奏を聞いたのは2009年の7月,第67回の定演だった。そのとき,アンケートに答え,アンケート用紙に住所と氏名を書いてだした。
 ら。次からは招待状のハガキが届くようになった。

● が,どうもその,タダで聴くってのが面白くない。チケットは800円なのだから,その800円を払ったうえで聴きたい。
 終演後に指揮者とコンマスに花束を贈呈することが多いじゃないですか。自分が払った入場料が,その花束の花の1本の何分の1かに化けているんだなと思えたほうが気持ちがいい。払っていないと,あれは人のお金で成りたっているもので,自分はまったく与っていないなと思わなくちゃいけない。あまり愉快ではない。

● 大学オケってカンパを募るところもあったりする。宇大オケもそれをやってくれれば,安んじて招待状で聴けるんだけど,ここはそういうことはやらないようだ。
 となると,招待状があってもチケットを買って入場することにするか。

● ところが,ここでまたイジイジと考えてしまう。招待状を出すにも手間とコストがかかっているはずだ。最低でも52円の郵送料はかかるんだし,プリンターのインク代とかね,細々とかかる。何より時間がかかる。
 そうやって投函してくれた招待状を使わないのも申しわけないのじゃないか。気持ちは千々に乱れるわけね。

● でね,チケットを買ったうえで,招待状で入場したこともあるんですよ。でも,これもどこかおかしい。神経症的な感じも受ける。
 結局,チケットを買うのと招待状で入場するのを,交互に採用することにした。今回はチケットを買う番。
 長々とした前振りは以上で終わり。

● 曲目は次のとおり。
 ヴェルディ 歌劇「ナブッコ」序曲
 チャイコフスキー バレエ組曲「くるみ割り人形」
 ブラームス 交響曲第1番 ハ短調

● 指揮は北原幸男さん。貴族的な顔立ち。藤原摂関家の血筋につながるんじゃないかっていうようなね。
 って,そういうことはどうでもよくて,指揮者って反射神経とスピード感なんだと思うんですよね。頭なんか使ってたんじゃ音楽は停まってしまう。
 彼のシャープな動きを見て,そう思う。

● 「くるみ割り人形」は優美であるよりも骨太であることを優先したようだった。なるほどねと思いながら聴いてたんだけど,ピンぼけな感想かもしれない。

● 現在まで残っている交響曲の中で,最も質量(=エネルギー量)の大きい曲はどれか。ベートーヴェンの第九でもなく,マーラーでもブルックナーでもなく,ショスタコーヴィチの7番でもなく,ブラームスのこの第1番ではないかと思うことがある。
 構想20年は関係ないはずだ。サラサラ書いたか苦吟したか。それと作品の質量とは何の関係もない(と思う)。
 けど,ブラームスの1番に関してだけは,ブラームスの長きにわたる怨念というか焦りというか魂というか,それが練り込められて質量に転化しているようにも感じられる。

● こういう曲に対面するとき,奏者側はどう覚悟するんだろうか。覚悟っていうか,気持ちの始末をどうつけるのか。
 どんな楽曲でも,演奏するときには,それ相応の気持ちの整理が必要で,この曲に限った話ではないんだろうけどさ。

● 弦を中心にOB・OGが助っ人に入っていた。それもあってか,あるいはそれがなくても同じだったか,きっちりと大人のブラームスになっていた。
 大人のブラームス? 何だそれ? 書いていて自分で突っ込みを入れたくなった。
 安定していた。少しくらい押されても崩れないぞっていう感じの演奏だった。
 ますますわからないね,これじゃね。

● 曲が奏者をインスパイアするってことが絶対にあると思う。ステージの奏者たちがブラームスにインスパイアされていたと思われた。
 集中,そしてまた集中。それはインスパイアの結果であったか。

● アンコールはブラームス,ハンガリー舞曲からおなじみの5番。満足した。満ち足りたという意味の文字どおりの満足だ。
 いやいや,800円払ってチケットを買って良かったよ。

2015年12月21日月曜日

2015.12.19 真岡市民交響楽団 第52回定期演奏会

真岡市民会館 大ホール

● 事情はあったのだけれど,真岡市民交響楽団の定演を聴くのは,1年半ぶりになってしまった。われながら不本意だ。
 東日本大震災で壊滅的な打撃を受けた真岡市民会館も復旧した。その復旧なった真岡市民会館に出向くのも,今回が初めてだ。
 こけら落としは昨年7月のN響の演奏会だったのだが。

● ここでちょこっと言い訳を言わせていただくと,わが家には車が1台しかなく,その1台は奥さまがお使い遊ばされている。
 わが家から真岡までは30㎞弱。近いのだ。車が使えれば。が,その車が使えないとした場合,公共交通機関利用はほぼ論外となる。
 ないわけではない。ないわけではないのだけれども,公共交通機関を使うと,真岡は東京よりも遠いところになってしまう。

● ではどうするか。自転車だ。自転車で行くのにピッタリの距離なのだ。ただし,天気が良ければ。
 で,この日は天気が良かったのだ。やれやれ。

● リニューアルというか,すっかり新しく建て替えられた市民会館。バリアフリー化が徹底され,音響も良くなり,トイレ等の付帯施設もレベルアップ。
 椅子も長時間座っていても疲れないタイプのものになったような気がしたけれど,これは勘違いかもしれない。
 特に,音響は劇的に改善された。今回は1階席で聴いたけれども,この構造なら,次は2階席で聴いてみたい。

● 開演は午後6時。すっかり暗くなってからだ。チケットは500円。当日券を購入。
 曲目は次のとおり。指揮は佐藤和男さん。
 エルガー 威風堂々第1番
 ボロディン 中央アジアの草原にて
 ディーリアス 楽園への道(歌劇「村のロメオとジュリエット」から)
 シベリウス 交響曲第2番

● 緻密なアンサンブルをめざすのは,どこのオケでもやっていることだと思う。このオケもそうであることは言わずもがな伝わってくる。
 問題はどこまでめざしたところに到達できたか。あるいはめざしたところには行けなかったとしても,どれだけ粘れたか。
 それは演奏に現れるものだろう。というより,本番の演奏に現れるものって,ほとんどそれだけではあるまいか。

● それゆえ,巧けりゃいいでしょってものでもなく,稚拙だからまるでダメだねってものでもない。聴くべきものはそれ以外にもある。
 もし技術の巧拙だけしか味わうものがないというのであれば,ステージで,つまり聴衆の目の前で,演奏する意味合いはゼロになる。
 とは言わないけれども,その意味合いが相当減殺されることにはなりそうだ。

● ステージのきわに薄い幕をめぐらせて,演奏しているところを見えないようにしたら,ライヴで聴く意味の8割は失われるだろう。ステージが発している音はそのまま伝わってくるとしても。
 視覚から入ってくるものが大きい。その視覚で感知できる情報の主たるものが,練習でどこまで粘ったかといった,そのあたりの履歴なのではないか。
 ただし,その視覚情報は攪乱要因でもある。視覚に騙されることがある。聴く側としては,自分の視覚に騙されないようにしないとね。

● この楽団が聴衆に提供してくれるものは,その履歴の大きさだ。と,こちらは勝手に思っている。緻密なアンサンブルをめざして粘った,その粘りの長さ。
 おそらく,真面目な団員が多いのだろう。緻密をめざしながら,色を付けたり艶を加えようとする跳ねっ返りはいないようだ。基本に忠実だ。
 このあたりも好ましく映る。緻密から自ずと現れてくる色や艶が個性なのであって,故意に出した色や艶は下品なだけだ,という言い方でもいいかもしれない。

● 真面目な人たちの集団で,跳ねっ返りはいないようなのだけれども,ディーリアスを引っぱってくる人はいるんだな。過去にはウォーロックを演奏したこともあった。
 こういうのって,ぼくが知らないだけで,知る人ぞ知るの存在なのか。そんなことはないと思うんだけどね。

● シベリウスの2番はここのところ,何度か聴く機会に恵まれた。楽譜が同じでも,できあがる音楽は同じではない。真岡には真岡のシベリウス。
 しかも,平成27年12月19日の真岡のシベリウスであって,他では聴けない。そのとき,その場所に,自分を運んでくることを厭わなかった者だけが,聴くことができる。

2015年12月16日水曜日

2015.12.13 第8回栃木県楽友協会「第九」演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 今年で8回目になるこの第九演奏会。ぼくは第2回から聴いている。第4回は聴けなかったので,今回が6回目になる。
 ぼく的には年中行事になった感がある。この時期は第九。演奏するほうもそうでしょうね。この時期には第九を演奏するもんだって。8年間続いているんだからね。

● 今回もメインホールがほぼ埋まった。「第九」は間違いなくお客さんを呼べる鉄板なんだけど,それでも年々わずかずつ,空席が増えているようにも思われる。すべての催事には飽きが忍びよるものだってか。
 ということより,問題はもっと具体的で,新規参入者がいないのだろうな。高齢で外に出れなくなった人がいるはずだ。その分を補うだけの新規参入者がいない。そういうことなのだと思う。

● が,それはぼくが考えたところで,どうなるものでもない。ぼくは自分が楽しむことだけを考えればいいのだ。
 そう。楽しめばいい。休日の午後,カフェでもなくレストランでもなく,デパートでもなく遊園地でもなく,コンサートホールに来るのは楽しめると思うからだ。

● 管弦楽は栃木県交響楽団。厳密には違うらしいのだが,まぁ栃響と言ってしまっていいのだろう。指揮は荻町修さん。
 ソリストは,高島敦子さん(ソプラノ),栁田明美さん(メゾ・ソプラノ),上野尚徳さん(テノール),村山哲也さん(バリトン)。
 合唱団は栃木県楽友協会合唱団。第1回からずっと皆勤している団員もいるのではないかと思う。

● 「第九」の前に,ワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲。
 毎年,同じ曲を演奏していても,年によって出来不出来ができることは避けられないはずだ。演奏開始後早々に,今回の演奏がどのくらいの出来になるか,奏者側は見当がつくんだろうな。
 なぜかというに,客席にいてもわかるんだから。

● 今回の演奏は第1楽章が始まってすぐに,けっこうすごいことになるんじゃないかと思わせた。
 ぼくは第1楽章が最も高揚する。第1楽章が終わると,あぁ第九を聴いたな,と思う。
 今回は聴きごたえのある第1楽章になった。第1楽章が終わったあと,客席から拍手が起きてしまったけれども,拍手したくなる気持ちには共感できた。

● 第1にオーボエの功績であり,第2にフルートの功績であり,第3にクラリネットの功績であり,第4にホルンの功績である,と単純化したくなるんだけれど,そういうものではないよねぇ。
 木管やホルンから引き継いだあとの弦の豊かさ。艶やかにうねって,密やかに沈んでいく。

● 「第九」は毎年一度ならず聴くものだから,ぼくとしては一番ポピュラーなクラシック楽曲になっている。ぼくに限らず,そういう人は多いのではないかと思う。
 で,馴染みがあるものだからつい,奏者に求められる技術の高さのことを忘れてしまう。この曲をここまで演奏してもらって,それを1,500円で聴かせてもらえれば,聴衆はもって瞑すべし,かもしれないよね。

● 途中,何事もなくとはいかないにしても,順調に進んで,第4楽章。
 あの有名な旋律が現れる。コントラバスとチェロが奏で,ヴィオラに引き渡し,1stヴァイオリンが引き継ぎ,ついには管弦楽全体が響かせる。この間の荘重感は,ベートーヴェンというより音楽界が,あるいは人類が,到達しえた最高地点のひとつかもしれない(というと,最高がいくつもあることになって,言葉的には具合が悪いんだけど)。

● 人の声はあらゆる楽器を超えて,聴衆の耳目をひくもので,合唱が登場してしまえば,その場を支配するものは合唱になる。
 中でもソプラノが目立つ。独唱も合唱も。高島さん,リラックス感をただよわせていた。

● この「第九」を聴くと,今年の終わりが見えてきたような気になる。だけど,まだ24分の1は残っているんだよね,今年が。
 諦めちゃいけないよ。まだ,終わってないよ。と,自分に言いきかせておく。

2015年12月14日月曜日

2015.12.12 モーツァルト合奏団第17回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。入場無料。

● 曲目は次のとおり。
 ヘンデル 合奏協奏曲第12番 ロ短調
 ラター 弦楽のための組曲 ニ長調
 モーツァルト ディヴェルティメント ニ長調
 ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第8番 ハ短調

● ぼくのおめあても,最後のショスタコーヴィチ。ひじょうに気になる作曲家でありながら,実際に聴くことは少ない。実聴するのにけっこうハードルを感じさせる。
 15ある弦楽四重奏曲も,そのすべてをCDで聴こうと思えば聴ける環境にある。今どきだから,CDなど持ってなくても,ネットで拾うことができるだろう。音源は無料で手に入る時代だ。
 なのに,なかなか聴くことをしないでいる。

● 共産ソヴィエトに生きて,しかもスターリンと同時代。これが面倒なイメージを彼に与えてしまっている。今回のプログラム・ノートの曲目解説にも面倒なことが書いてある。
 表向きには「ファシズムと戦争の犠牲者」に献呈するように見せつつ,圧政により精神的荒廃に追い込まれた自身への献呈として,1960年7月12日から14日のわずか3日間でこの曲を作曲したのである。
 3日間で作曲したのはそのとおりだとして,それ以外はそのとおりなのかそうではないのか,厳密には誰にもわからない。上の解説にも何かの典拠があるんだろうけど(っていうか,Wikipediaのコピペなんだけど),その典拠もたぶん想像の産物のはずだ。

● このあたりが彼の面倒なところだ。できれば,この面倒なところとはあまり関わりたくない。
 で,関わらないのが正解なのだと思う。ショスタコーヴィチが置かれた環境は考えないで,音楽だけを聴いてみる。それで,どう感じるか。
 気楽に構えてCDを聴けばいいのだ。ショスタコーヴィチについては,それ以外に対面の仕方がないのではないか。

● 実際のところ,ショスタコーヴィチのように生命の危機に具体的にさらされたことはないとしても,深刻な苦悩を抱えていなかった作曲家などいないに違いない。
 作品を味わうのに作曲家の内面との関わりをよすがにしてしまうのは,こちら側の想像の放埒を許すことでもある。他人の内面などわかるはずがないのだから。彼本人にもわからないことのほうが多いだろう。

● そんなことを考えて,実聴するのを逡巡する。その点,ライヴだと否応なく聴かされるから,優柔不断なぼくのような者にはありがたいわけだ。
 実際に聴いてみると,まず感じるのは緊迫感だった。苦しくなるほどの。というと,少し大げさかもしれない。が,息をするのが辛くなるような感じは受けた。

● 弦楽四重奏曲全般について,ぼくには苦手意識がある。ベートーヴェンであれ,チャイコフスキーであれ, ドヴォルザークであれ。
 弦楽四重奏曲っていうのは,“違いのわかる男”じゃないと楽しむのは難しいのじゃないかな,っていうね。
 このショスタコーヴィチの8番は,むしろ曲としてはわかりやすいように思う。情景が浮かびやすいという点で。

● 演奏する側は何度も練習したろうから,この曲はよくわかっているはず。
 で,モーツァルトのディヴェルティメントを演奏しているときから,気持ちはショスタコーヴィチに行っていたってことはあるんだろうか。次はショスタコか,っていう。
 いや,モーツァルトのこの曲もけっこう重く感じたものですからね。もっと軽い曲じゃなかったかなと思って。

● ラター「弦楽のための組曲」はたぶん,初めて聴く。楽しい曲だった。

● ヘンデルはバッハとの比較で語られることが多い。が,ヘンデルはヘンデルで,曲作りの職人という感じですよね。
 いろいろ聞かされて予備知識ができてしまうのも考えものだ。まっさらな状態で聴きたいものだ。

2015年12月10日木曜日

2015.12.08 Ave Maria in Christmas-サンクトペテルブルグ室内合奏団

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後6時半。チケットは4,500円。座席は指定される。メインホールで料金は一律。
 行こうか見送ろうか,当日まで決めかねていた。

● が,どうやら行けそうだ。となれば,行けるときに行っておけ。というわけで,総合文化センターに自分を運んでいくことにした。
 客席は,平日の夜であることを考えれば,まぁこんなものかと思われる入り。2階席や1階の両翼席はガラガラだった。一律料金であればいい席から埋まっていく。
 でも,“いい席”もけっこう残っていて,当日券でもぜんぜんOKだった。聴く側としてはありがたいんだけどねぇ。

● 6時半開演ということは,夕食を食べる暇はないわけで,したがって,腹がくちて眠くなるってことはない。もし眠くなるなら,別の理由に寄るものだ。

● さて,この合奏団,率いるのはイリヤ・ヨーフ氏。ハープを入れて17名。うち,男性が9名。
 今回の日本公演は5日を皮切りに25日まで。東京オペラシティを中心に19回の公演。今日は3回目。

● サンクトペテルブルグ室内合奏団とはいっても,当然ながら,スラブ人だけで構成されているわけではない。もっとも,スラブ人っていうのが雲を掴むようなもので,よくわからないんだけどね(それをいうなら日本人だって同じじゃないか,と言われるのかも)。
 毎年,だいたい同じプログラムで,この時期に来日公演しているようだ。宇都宮に来るのは今回が初めてなのか。

● まず,ヘンデル「合奏協奏曲(作品6-5)」の第1楽章。バッハ「G線上のアリア」。巧いのはわかる。ただ,客席との距離が思うように縮まらない。
 客席もステージの腕前を計ろうとしている感じでしたかね。

● これを一気に打開したのが,次のヘンデル「オンブラ・マイ・フ」。ソプラノのナタリア・マカロワ,登場。彼女の声と美貌が客席をググッと引き寄せた。
 これで客席とステージの間に一体感が生まれた。

● ハッペルベルのカノン。合奏団も楽しそうで,ぼくもこの曲を聴いて,楽しいと感じられるようになりたいなと思いましたね。
 つまり,今は楽しいと思えないわけで,たぶん頭で聴いちゃってるんでしょうね。頭で聴いていいんだけども,頭の中にとどまっているというかね。

● バッハ(グノー編曲)のアヴェ・マリアで,再び,ナタリア嬢が登場。客席はどうにでもして状態だったのではないか。ステージの彼女は気分が良かったはずだ。
 歌い終えて袖に引っこむときに,彼女の背中が見えるわけだ。肩が張っている。なで肩が多い日本人女性とは骨格が違う。こういう骨格の持ち主と競わなければならない声楽家は大変だな。
 と思いがちなんだけど,たぶん,そんなのは関係ないんだろうな。

● 日本人には向かないスポーツと言われてきたテニスでの錦織の活躍を見ると,日本人には向かないとか,文化的に合わないとか,そんなのは,その時点での状況を説明するための方便でしかなかったのだなとわかる。
 確たる理由があるわけではなく,印象を語っていたに過ぎないのだろう。運動中は水を飲むなとか,身体を鍛えるにはウサギ跳びがいいといったことと同類で,同じことが,音楽でも言われていたりはしないんだろうか。
 声楽家は太っていたほうがいい,とか。こういうのは事実によって否定されたと考えていいのか。

● マスネ「タイスの瞑想曲」のあと,レスピーギの「シチリアーナ」。ローマ3部作以外に,こういうしっとりと歌うような曲もレスピーギは作曲しているんですよね。CDも持っているのに,聴かないできちゃったなぁ。

● カッチーニのアヴェ・マリアで,ナタリア嬢,三度目の登場。
 終わって袖に消えていく彼女を目で追いながら,こういう女性と対等に渡り合える日本人の男性が,これからはどんどん出てくるんだろうなと思った。
 スポーツとかバレエとか音楽とか,そうした分野で渡り合えるっていうにとどまらず,世界を舞台に生活したり恋愛したりできるっていう意味。

● 今までの日本男児って,内弁慶で,大和撫子しか恋愛対象にできずに,しかも内部では威張るしか能がない的なイメージがあったじゃないですか。だけど,これからは日本を超えて世界に通用するライフスタイルを備えた日本男児が出てくるじゃないかと思ってるんですよ。
 女性は昔からそういうコスモポリタンを輩出してきたじゃないですか。これからは,男性からもどんどん出そうな気がする。根拠は何もないんですけどね。
 にしても,ナタリア嬢は色々とこちらの想像を刺激してくれる,魅力に満ちた女性でありますよ。

● ヴィヴァルディの「四季」より“冬”。この合奏団流の演奏なのだろうか。それともこれがオーソドックスな演奏なのか。CD(イ・ムジチ)で聴いている音とはけっこう違うところがあったように思ったけれど。

● 以上で前半が終了し,15分間の休憩。
 後半の最初は,バッハ「シンフォニア」。ソプラノは選手交代し,後半はマリーナ・トレグボヴィッチさん。風味絶佳。

● モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(第1楽章のみ),チャイコフスキー「エレジー」(弦楽セレナーデ 第3楽章)と進み,グノー「私は夢に生きたい」でマリちゃん再び登場。
 「エレジー」は,今回の数多くのプログラムの中で,ぼく的には最も聴いて良かったと思えたもの。

● サン=サーンスの「白鳥」。はい,チェロが素晴らしかった。若い頃のさだまさしが,この曲をパクっていたというか,自分の曲の中に取りいれていたなぁ。
 マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」より“間奏曲”。そのあとに,3曲目のアヴェ・マリア。最後はシューベルト。
 続いて,モーツァルト「ハレルヤ」。マリちゃんの熱唱が続いた。

● 後半は,駆け足で通り過ぎてしまってけれど,聴きごたえがあったのは,後半にむしろ多かったように思う。
 ぼくら観客が合奏団に慣れてきたからだろうね。ここが大きいと思う。で,慣れてきた頃は,もう終盤に入っているというのがお約束ごと。

● アンコールは,ナタリア嬢とマリちゃんの二人で,モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。
 そのあと,「きよしこの夜」を二人が途中まで日本語で歌った。途中で何語なのかわからなくなった。それくらいでちょうどいいのである。
 投げキッスを振りまきながら二人が去って,最後は,合奏団だけでチャイコフスキー「12月クリスマス週」。

2015年12月8日火曜日

2015.12.06 第6回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 東邦音楽大学・東京音楽大学・国立音楽大学

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 今回の音楽大学オーケストラ・フェスティバルもこれが4回目。つまり最終回となる。3回目に行けなかったのは残念だけれども,4回中3回行ければ,上々だろう。僻遠の地(栃木)から行くわけだし。

● 今回の会場はミューザ川崎。国内のコンサートホールのすべてに行ったことがあるわけではないけれど,ぼくが行った中では,座っていて一番気分がいいのが,ここミューザだ。
 座席の間隔が他よりあいているわけでもない。どうして気分がいいと感じるのかよくわからないんだけど,でもともかく気分がいい。
 あるいは,スタッフの多くが発散している柔らかさのようなものが与って力あるのかもしれないと思ってみたりする。

● 東邦がシベリウスの2番,東京音大がムソグルスキー(ラベル編曲)「展覧会の絵」,国立がラフマニノフの2番。シベリウスの2番は,先月8日に洗足学園も演奏しており,「展覧会の絵」は武蔵野音大が演奏している。
 ダブりをなくせないかなどと言うつもりはない。まったく問題はない。何度聴いてもいい曲だもんね。
 ただし,こちら側に両者を比較するというベクトルが生まれてしまいかねない。このベクトルだけは自分の中に存在することを許してはいけないと思うだけだ。

● まず,東邦音楽大学管弦楽団。指揮は田中良和さん。
 シベリウスの2番は彼のイタリア滞在の果実だ,とはよく言われることだ。実際そうなんだろうけど,この曲から感じるのはどうしたって北欧の澄んだ空気がベースになったものだ。遠くまで見晴らしがきくような風景,あるいは森林。そういったイメージが湧いてくる。
 透明で涼やか(ときに冷涼)で,雑踏や原色的風景とはほど遠いもの。

● ロシアに対するフィンランドの反発や独立心を示しているとの解釈を見ることもあるけれども,ぼくにはそういうところは感じ取れなかった。その時代にはそう思えたのかもしれない。
 このあたりは,当時の空気を共有した人にしかわからないところがあるのだろうと思うほかはない。

● 東京音楽大学シンフォニーオーケストラ。指揮は現田茂夫さん。
 元々はピアノ曲。辻井伸行さんの演奏をCDで聴いた程度。それはそれでしっとりするんだけれども,やはり管弦楽版のほうを聴きたくなる。
 ラヴェルのオーケストレーションの巧さ,すごさを思い知ることになる。輝度の高さは誰もが認めるところだろう。これはムソグルスキーの功績なんだろうけど,大衆性も備えている。

● 第2曲で登場するサクソフォン。華々しく活躍したあとは,最後まで出番がない。その間,背筋を伸ばして凜として座っていたのが印象的。
 これ,できそうでなかなかできないことじゃないですか。

● 国立音楽大学オーケストラ。指揮は尾高忠明さん。
 国立というと,声楽が注目されることが多いという印象。ところがどっこい,器楽も相当なもの。このラフマニノフは熱演というのか,見事な集中とアンサンブル。

● 緩徐楽章はあまりにも有名だけれども,ぼくには正直,ピンとこないところがあって,自分の感覚を疑いたくもなっていた。みんながわかるところを自分はわからないのか,ってね。それならそこに居直るしかないな,と。
 が,今回わかりましたよ。いいんですね,これ。いいんですよ。
 この楽章を支える屋台骨はクラリネットとオーボエだと思えたんだけど,そのクラリネットとオーボエがね,艶っぽかったですね。艶っぽい,この言い方がピッタリくるように思う。

● 長生きしたいと思った。長生きして,こういう演奏を聴きたい。生命が迸っているような,若い彼らにしてもそう何度もはできないであろう,こういう演奏を。
 そのためには長生きしなきゃ。足繁くホールに足を運ばなきゃ。ムダ弾を何発も撃つのは覚悟のうえで。そうすると,たまにこういう演奏に遭遇できる。