なかのZERO 大ホール
● 2週間前に来たばかりの中野駅にまた降り立った。なぜか懐かしさを感じさせる雑踏。
といって,他のところには用がない。まっすぐ“なかのZERO”に向かうだけだ。駅前の「中野屋」で蕎麦を食べるのを忘れてはいけないけれど。
● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。
曲目は次のとおり。指揮は松岡究さん。
R.シュトラウス 四つの最後の歌
エルガー 交響曲第1番
● R.シュトラウスの「四つの最後の歌」を聴くのは今回が2度目。1度目もこの合奏団の演奏で聴いたのだった。5年前になる。
そのときのソリスト(ソプラノ)は松尾香世子さん。今回は松尾祐実菜さん。同じ松尾で,姉妹なのかと思ったんだけど,同一人物なんでした。
● 1度目のときもそうだったんだけど,常任指揮者の松岡究さんが,プログラム冊子の“あいさつ”で,「四つの最後の歌」について熱く語っている。
演奏曲目の選定については,松岡さんがイニシアティブを持っているんだろうか。
● エルガーは「威風堂々」と「愛の挨拶」くらいしか知らないわけだが,交響曲1番は思いのほかの大曲なのだった。CDで聴くのもシンドそうだ。
長いというだけではなく,演奏するのも難しそうだ。並のアマオケでは手が出ないかもしれない。
● しかし,聴いてしまったよ,この曲をね。でもって,手元にはエルガーの全集版CDがあるのだ。当然,この曲も入っている。
聴かなければなるまいねぇ。債務(?)がどんどん増える一方だ。
約2時間のコンサートが終了した直後の満足感は,他のものでは代替できません。この世に音楽というものが存在すること。演奏の才に恵まれた人たちが,時間と費用を惜しまずに技を磨いていること。その鍛錬の成果をぼくたちの前で惜しみなく披露してくれること。そうしたことが重なって,ぼくの2時間が存在します。ありがたい世の中に生きていると痛感します。 主には,ぼくの地元である栃木県で開催される,クラシック音楽コンサートの記録になります。
2019年2月22日金曜日
2015年8月27日木曜日
2015.08.23 合奏団ZERO第15回定期演奏会
杉並公会堂 大ホール
● 合奏団ZEROの演奏を初めて聴いたのは3年前のこの時期。以来,年に2回ある定演の1回は聴いている。今回が4回目。
開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。
● 腕のほどはすでに知っている。この演奏を1,000円で聴けるというのは,日本に生まれた恩恵のひとつだ。っていうか,この分野でも東京集中がくっきりしているわけだから,東京に日帰りできる距離に住居があることの恩恵か。
あと,“青春18きっぷ”が使えることもね。
● 指揮者はいつもの松岡究さん。プログラムは次のとおり。
ワーグナー 歌劇「ローエングリン」より第一幕への前奏曲
ブルックナー 交響曲第8番(ノヴァーク版第2稿)
● 「ローエングリン」第一幕への前奏曲,ヴァイオリンの高くかそけき響きから始まって,チェロ,コントラバス,木管が加わり,管弦楽全体に広がっていく。その都度,音が厚くなって,こちらを陶酔に誘う。オーケストレーションの妙。
短い曲だけれども(短いからこそ),音楽を聴く楽しさというものをわかりやすく味わえる。
● ブルックナーの8番。ブルックナーの聴き方のコツってあるんですかね。物語に寄りかかれないわけですよね。
ベートーヴェンの5番や9番だったら,苦悩を経て歓喜に到れ,っていうストーリーに寄りかかれる。6番だったらヨーロッパの田舎の風景が彷彿としてくるから,そのイメージに遊んでいればいい。
が,ブルックナーはそうはいかないようで。
● この楽団にしても,終演後は達成感に包まれたように思われた。80分に及ぶ大曲に加えて,相当に難易度が高い(ように思われる)。
ひょっとすると,演奏する側だって,拠りどころが楽譜しかないっていうのは不安なんじゃなかろうか。解釈のよすがが欲しいのではないか。指揮者が指示してくるであろうアレやコレがどうしてそうであるべきなのか,そこのところがモヤッとしててじれったくなることはないんだろうか。
● 最初の弦のトレモロ。原始の霧と呼ばれたりするらしんだけど,ぼくのレベルだと,混沌から何かが生まれてくるんだなというイメージはあるものの,その先に行けない。
そもそも,ブルックナーって,イメージを絡ませて聴いてはいけないんだろうか。要するに,聴く側にとっても難解だ。
● しかしながら。この曲が燦然としているということだけはわかる。わかるっていうか,そう感じる。それを芸術性と言ってしまってはいけないように思う。どうにでも掻き回せる安直な言葉ではない,別の言葉で表現する努力をしないといけない。
が,当然,ぼくの脳内にはその言葉がない。
● とにかく,相手がブルックナーだ。圧倒的に馴染みがない。これで何をどうやって書くというのだ?
知識が欲しくなる。ブルックナーを扱った書籍を読んで,ササッと納得したくなる。が,安直に知識を持ち,それに頼って聴くのもつまらない。格好悪くても,しばらくジタバタしたほうがいいんだろうな。
● こうして東京に出てきて,音楽を聴いて帰る。栃木から東京に出て,ピンポイントで音楽だけ聴いて,終わったらまっすぐ帰宅する。
それ以外に東京でお金を使うことがない。せいぜい「富士そば」やコンビニに寄るくらいだなぁ。あ,ときどき,本を買って帰ることはあるか。
東京にしてみれば,しみったれたヤツだな,おまえは,ってことだ。
● でも,ライヴを聴きにくると,それ以外のことはする気にならないものでね。それ以外のことをするんだったら,ライヴなしで,そのことのために上京しないとダメなんだよねぇ。
● 合奏団ZEROの演奏を初めて聴いたのは3年前のこの時期。以来,年に2回ある定演の1回は聴いている。今回が4回目。
開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。
● 腕のほどはすでに知っている。この演奏を1,000円で聴けるというのは,日本に生まれた恩恵のひとつだ。っていうか,この分野でも東京集中がくっきりしているわけだから,東京に日帰りできる距離に住居があることの恩恵か。
あと,“青春18きっぷ”が使えることもね。
● 指揮者はいつもの松岡究さん。プログラムは次のとおり。
ワーグナー 歌劇「ローエングリン」より第一幕への前奏曲
ブルックナー 交響曲第8番(ノヴァーク版第2稿)
● 「ローエングリン」第一幕への前奏曲,ヴァイオリンの高くかそけき響きから始まって,チェロ,コントラバス,木管が加わり,管弦楽全体に広がっていく。その都度,音が厚くなって,こちらを陶酔に誘う。オーケストレーションの妙。
短い曲だけれども(短いからこそ),音楽を聴く楽しさというものをわかりやすく味わえる。
● ブルックナーの8番。ブルックナーの聴き方のコツってあるんですかね。物語に寄りかかれないわけですよね。
ベートーヴェンの5番や9番だったら,苦悩を経て歓喜に到れ,っていうストーリーに寄りかかれる。6番だったらヨーロッパの田舎の風景が彷彿としてくるから,そのイメージに遊んでいればいい。
が,ブルックナーはそうはいかないようで。
● この楽団にしても,終演後は達成感に包まれたように思われた。80分に及ぶ大曲に加えて,相当に難易度が高い(ように思われる)。
ひょっとすると,演奏する側だって,拠りどころが楽譜しかないっていうのは不安なんじゃなかろうか。解釈のよすがが欲しいのではないか。指揮者が指示してくるであろうアレやコレがどうしてそうであるべきなのか,そこのところがモヤッとしててじれったくなることはないんだろうか。
● 最初の弦のトレモロ。原始の霧と呼ばれたりするらしんだけど,ぼくのレベルだと,混沌から何かが生まれてくるんだなというイメージはあるものの,その先に行けない。
そもそも,ブルックナーって,イメージを絡ませて聴いてはいけないんだろうか。要するに,聴く側にとっても難解だ。
● しかしながら。この曲が燦然としているということだけはわかる。わかるっていうか,そう感じる。それを芸術性と言ってしまってはいけないように思う。どうにでも掻き回せる安直な言葉ではない,別の言葉で表現する努力をしないといけない。
が,当然,ぼくの脳内にはその言葉がない。
● とにかく,相手がブルックナーだ。圧倒的に馴染みがない。これで何をどうやって書くというのだ?
知識が欲しくなる。ブルックナーを扱った書籍を読んで,ササッと納得したくなる。が,安直に知識を持ち,それに頼って聴くのもつまらない。格好悪くても,しばらくジタバタしたほうがいいんだろうな。
● こうして東京に出てきて,音楽を聴いて帰る。栃木から東京に出て,ピンポイントで音楽だけ聴いて,終わったらまっすぐ帰宅する。
それ以外に東京でお金を使うことがない。せいぜい「富士そば」やコンビニに寄るくらいだなぁ。あ,ときどき,本を買って帰ることはあるか。
東京にしてみれば,しみったれたヤツだな,おまえは,ってことだ。
● でも,ライヴを聴きにくると,それ以外のことはする気にならないものでね。それ以外のことをするんだったら,ライヴなしで,そのことのために上京しないとダメなんだよねぇ。
2014年8月31日日曜日
2014.08.30 合奏団ZERO第13回定期演奏会
杉並公会堂 大ホール
● 日本は音楽大国である。というときに,例証としてよく用いられるモノサシが3つある。
ひとつは,日本では4世帯に1世帯がピアノを持っていること。こんな国は日本以外に世界のどこにも存在しない。
● ただね,使われることはまずない。家具のひとつだ。ひと昔かふた昔前の,応接間(この言葉,もう死語ですよね)に置かれた百科事典と同じ。
けれども,使わないながら,オブジェとしてピアノを選ぶ心性には少々興味を引かれる。
● 2番目は年末の第九。この時期に日本国内で演奏される第九は数知れず。そのほとんどが満席になるほどお客さんが入る。
したがって,日本人の第九消費量は膨大なものになる。日本人の胃袋はどうなっているのか,そんなに強靱なのか,という話になる。
● けれども,それ以上に驚くのが3番目だ。つまり,アマチュア・オーケストラの数の多さと,活動の活発さ。
市民オケ,学生オケ,企業オケ。全部でいくつあるのか。正確に数えた人はいないだろう。“Freude”に載っているのがすべてではない(栃木県でいえば,峰ヶ丘フィルと那須室内合奏団が載っていない。中高校のオーケストラ部とジュニアオケも)。
2,000ではきかないだろう。3,000はあるかもしれない。それらのアマオケが年に1回か2回,演奏会を開催する。となると,1年間に開催される演奏会は5,000といったところか。とんでもない数になる。
数だけではない。マーラーやブルックナーをやってのけるところもあるんだから。
● その演奏会の大半は,土日か祝日に集中する。それらを容れられるだけのホールが存在するわけだし,それを聴きに出かける人たちもいるわけだ。
これをもって,音楽大国といわずして何というか。
● それらあまたあるアマチュア・オーケストラの腕前はピンキリだ。ひと言でアマチュアといっても,プロ並みといってもいい奏者を集めている楽団もあるだろうし,自分たちの楽しみのためにやっているところもある(それで全然OKだと思うが)。
で,そのアマチュア・オーケストラの上位に列する楽団の演奏を聴くと,プロオケはなくたっていいんじゃないのと思うこともあってね。だって,これで充分だと思うもんね。これ以上の演奏は,自分にとっては馬の耳に念仏だってね。
実際は,プロにもいてもらわなくては困るんだけど,理屈をこねてプロオケ不要論をでっちあげようと思えばできなくもないな。
● 合奏団ZEROの演奏を聴きながら,以上のようなことをつらつら思った。
開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入した。指揮は松岡究さん。
● ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調」。ソリストは米沢美佳さん(ヴァイオリン)とクライフ・カナリウス氏(チェロ)。ベルリン・コーミッシェ・オーパー管弦楽団のコンサートマスターとソロ首席奏者であり,妻と夫の関係でもある。
管弦楽団もきちんと応接していて,メリハリもあればきめも細かい演奏。危なげがないんですよね。安心して身を任せることができる。もう,どうにでもして,っていう感じ。
● ブルックナーの4番。ブルックナーを取りあげるのは初めてらしい。合奏団と名乗っているのに,管のレベルも素晴らしい。
気がついたら終わっていた。ひじょうに短く感じた。
● まぁ,どうでもいいっちゃどうでもいいことなんだけど。
スタッフがP席にもお客さんを案内した。とにかく空きがないんだから。
ところが,P席で大股開いて居眠りを決めてる人がいてね。けっこう,気が散るね,これ。正面に見えるんだから。当然,指揮者にも見えるだろう。
P席は客を選ぶかもしれないと思った。
● 日本は音楽大国である。というときに,例証としてよく用いられるモノサシが3つある。
ひとつは,日本では4世帯に1世帯がピアノを持っていること。こんな国は日本以外に世界のどこにも存在しない。
● ただね,使われることはまずない。家具のひとつだ。ひと昔かふた昔前の,応接間(この言葉,もう死語ですよね)に置かれた百科事典と同じ。
けれども,使わないながら,オブジェとしてピアノを選ぶ心性には少々興味を引かれる。
● 2番目は年末の第九。この時期に日本国内で演奏される第九は数知れず。そのほとんどが満席になるほどお客さんが入る。
したがって,日本人の第九消費量は膨大なものになる。日本人の胃袋はどうなっているのか,そんなに強靱なのか,という話になる。
● けれども,それ以上に驚くのが3番目だ。つまり,アマチュア・オーケストラの数の多さと,活動の活発さ。
市民オケ,学生オケ,企業オケ。全部でいくつあるのか。正確に数えた人はいないだろう。“Freude”に載っているのがすべてではない(栃木県でいえば,峰ヶ丘フィルと那須室内合奏団が載っていない。中高校のオーケストラ部とジュニアオケも)。
2,000ではきかないだろう。3,000はあるかもしれない。それらのアマオケが年に1回か2回,演奏会を開催する。となると,1年間に開催される演奏会は5,000といったところか。とんでもない数になる。
数だけではない。マーラーやブルックナーをやってのけるところもあるんだから。
● その演奏会の大半は,土日か祝日に集中する。それらを容れられるだけのホールが存在するわけだし,それを聴きに出かける人たちもいるわけだ。
これをもって,音楽大国といわずして何というか。
● それらあまたあるアマチュア・オーケストラの腕前はピンキリだ。ひと言でアマチュアといっても,プロ並みといってもいい奏者を集めている楽団もあるだろうし,自分たちの楽しみのためにやっているところもある(それで全然OKだと思うが)。
で,そのアマチュア・オーケストラの上位に列する楽団の演奏を聴くと,プロオケはなくたっていいんじゃないのと思うこともあってね。だって,これで充分だと思うもんね。これ以上の演奏は,自分にとっては馬の耳に念仏だってね。
実際は,プロにもいてもらわなくては困るんだけど,理屈をこねてプロオケ不要論をでっちあげようと思えばできなくもないな。
● 合奏団ZEROの演奏を聴きながら,以上のようなことをつらつら思った。
開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入した。指揮は松岡究さん。
● ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調」。ソリストは米沢美佳さん(ヴァイオリン)とクライフ・カナリウス氏(チェロ)。ベルリン・コーミッシェ・オーパー管弦楽団のコンサートマスターとソロ首席奏者であり,妻と夫の関係でもある。
管弦楽団もきちんと応接していて,メリハリもあればきめも細かい演奏。危なげがないんですよね。安心して身を任せることができる。もう,どうにでもして,っていう感じ。
● ブルックナーの4番。ブルックナーを取りあげるのは初めてらしい。合奏団と名乗っているのに,管のレベルも素晴らしい。
気がついたら終わっていた。ひじょうに短く感じた。
● まぁ,どうでもいいっちゃどうでもいいことなんだけど。
スタッフがP席にもお客さんを案内した。とにかく空きがないんだから。
ところが,P席で大股開いて居眠りを決めてる人がいてね。けっこう,気が散るね,これ。正面に見えるんだから。当然,指揮者にも見えるだろう。
P席は客を選ぶかもしれないと思った。
2013年8月25日日曜日
2013.08.24 合奏団ZERO第11回定期演奏会
杉並公会堂 大ホール
● 合奏団ZEROの演奏会は,昨年の夏に続いて今回が2回目。開演は午後2時。前回は入場無料のカンパ制だったけれども,今回は1,000円のチケット制。当日券を購入。
実際は,チラシを持参すれば当日券と引き換えるというわけで,実質,入場無料に近かったんですけどね。他に,招待状のハガキもあるわけだし。集客と費用負担の狭間でどこにポジションを置けばいいのか,楽団としても悩んでいるようでもある。
● 部外者の気楽さで言わせていただけば,これだけの演奏を披露しているわけだから,基本,有料チケット制でいいと思う。
自分を棚にあげていうと,無料にすることの唯一の問題点は,客質が下がることだ。お金を払ってでも聴きに来たいというお客さんだけを相手にすればいいと,割り切ってしまうのは難しいのか。
東京ではあまたのアマオケがあって,それぞれ演奏会を開いている。対して,観客(あるいは観客予備軍)は限られている。地縁,出身縁をもたないところは,集客に悩む。のだけれども,数多きがゆえに尊からず。
というのは,綺麗事にすぎますかねぇ。過ぎるな,たぶん。
● 今回は,R・シュトラウスの「四つの最後の歌」とラフマニノフの交響曲第2番。エキストラも入れて,金管も揃った普通のオーケストラ編成。
● 「四つの最後の歌」について,常任指揮者の松岡究さんが,「音楽をやるものとして「本当に出会えてよかった,音にする喜びをこれほど感じられる作品はないといっても過言ではない」と心から思えるような充実した作品」と紹介している。
歌詞の和訳もプログラムに掲載されている。歌詞の意味はわからなくても鑑賞に支障はないものでしょうね。逆に,音を聴いて何も感じなければ,歌詞の意味がわかったところで,やはり何も感じないものでしょ。
ソリスト(ソプラノ)は松尾香世子さん(この楽団とは過去にも何度か共演しているようだ)だから,何も感じなかったからといって,その責めを歌い手に帰すわけにはいかない。自分の感性を疑うしかない。
● で,ちょっと自分の感性の鈍さかげんを疑ってますね,今。
じつは,バッハの「マタイ受難曲」を聴いても,なんだかピンと来なかったりする。脳細胞の配線の大事なところが何ヶ所か切れているのかもしれない。
「シャコンヌ」の管弦楽版や「ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲」を聴くと,これはすげぇと思えるんですよ。ところが,どうも声楽曲には反応が鈍い。たんに経験不足?かもしれないんだけど。たくさん聴くようにすれば,何とかなるのかねぇ。
● ピアノがあまり好きじゃない,っていうかよくわからない,ぼくのような者にとっては,ピアノ協奏曲ではなくて,この交響曲2番がラフマニノフを代表するもの。
この曲を高い水準の演奏で聴けるとすれば,そのためだけに生き長らえる価値がある。とまで言ってしまうと,やや過剰表現になってしまうけど。
● 「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり」というのは,反論しようのない真理だけれど,おもしろくすみなすための具体的な手がかりがあるのとないのとでは,大変な相違だ。
ぼくの場合はこうした演奏を聴くという手がかりが与えられている。かたじけなくもありがたいことですよ。
● 透明さとか深みとか,諧謔とか洒落っ気とか,曲によっては故意の稚拙さとか,演奏に求められるものはいろいろとあるんだろうけど,ひとつを建てれば同時に他も建つ,ということがあるに違いない。
濁りがなければたいてい深みも出る。少なくともぼく程度の鑑賞レベルだと,そういうことが多い。
で,この合奏団ZEROの演奏には,濁りがない。聴いてると,しみじみしてくる。それで充分すぎる。
● 作品は完成すると同時に,作者から切り離されて存在するもの。作曲家がその曲に何をこめたかは作曲家の問題で,聴く側には関係のないことがらだ。
もちろん,そういうことを知っていると,深く鑑賞できるのかもしれないけど,基本は聴く側がそれぞれの甲羅に合った穴を掘りつつ聴くことになる。
● 中にはとんでもなく深い穴を掘る聴き手もいるんだろうな。そこまで深い穴を掘らせる曲や演奏もすごいけれども,第一にはその聴き手の技ってことになるんだろうね。
理屈的には,作曲家が掘った穴よりもさらに深い穴を掘って聴く聴き手も存在しうるわけで,そういう意味では,鑑賞っていう行為はたんなる受け身ではないんだろう。
ただ,そうした聴き手はめったにいないっていうだけで。
● 合奏団ZEROの演奏会は,昨年の夏に続いて今回が2回目。開演は午後2時。前回は入場無料のカンパ制だったけれども,今回は1,000円のチケット制。当日券を購入。
実際は,チラシを持参すれば当日券と引き換えるというわけで,実質,入場無料に近かったんですけどね。他に,招待状のハガキもあるわけだし。集客と費用負担の狭間でどこにポジションを置けばいいのか,楽団としても悩んでいるようでもある。
● 部外者の気楽さで言わせていただけば,これだけの演奏を披露しているわけだから,基本,有料チケット制でいいと思う。
自分を棚にあげていうと,無料にすることの唯一の問題点は,客質が下がることだ。お金を払ってでも聴きに来たいというお客さんだけを相手にすればいいと,割り切ってしまうのは難しいのか。
東京ではあまたのアマオケがあって,それぞれ演奏会を開いている。対して,観客(あるいは観客予備軍)は限られている。地縁,出身縁をもたないところは,集客に悩む。のだけれども,数多きがゆえに尊からず。
というのは,綺麗事にすぎますかねぇ。過ぎるな,たぶん。
● 今回は,R・シュトラウスの「四つの最後の歌」とラフマニノフの交響曲第2番。エキストラも入れて,金管も揃った普通のオーケストラ編成。
● 「四つの最後の歌」について,常任指揮者の松岡究さんが,「音楽をやるものとして「本当に出会えてよかった,音にする喜びをこれほど感じられる作品はないといっても過言ではない」と心から思えるような充実した作品」と紹介している。
歌詞の和訳もプログラムに掲載されている。歌詞の意味はわからなくても鑑賞に支障はないものでしょうね。逆に,音を聴いて何も感じなければ,歌詞の意味がわかったところで,やはり何も感じないものでしょ。
ソリスト(ソプラノ)は松尾香世子さん(この楽団とは過去にも何度か共演しているようだ)だから,何も感じなかったからといって,その責めを歌い手に帰すわけにはいかない。自分の感性を疑うしかない。
● で,ちょっと自分の感性の鈍さかげんを疑ってますね,今。
じつは,バッハの「マタイ受難曲」を聴いても,なんだかピンと来なかったりする。脳細胞の配線の大事なところが何ヶ所か切れているのかもしれない。
「シャコンヌ」の管弦楽版や「ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲」を聴くと,これはすげぇと思えるんですよ。ところが,どうも声楽曲には反応が鈍い。たんに経験不足?かもしれないんだけど。たくさん聴くようにすれば,何とかなるのかねぇ。
● ピアノがあまり好きじゃない,っていうかよくわからない,ぼくのような者にとっては,ピアノ協奏曲ではなくて,この交響曲2番がラフマニノフを代表するもの。
この曲を高い水準の演奏で聴けるとすれば,そのためだけに生き長らえる価値がある。とまで言ってしまうと,やや過剰表現になってしまうけど。
● 「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり」というのは,反論しようのない真理だけれど,おもしろくすみなすための具体的な手がかりがあるのとないのとでは,大変な相違だ。
ぼくの場合はこうした演奏を聴くという手がかりが与えられている。かたじけなくもありがたいことですよ。
● 透明さとか深みとか,諧謔とか洒落っ気とか,曲によっては故意の稚拙さとか,演奏に求められるものはいろいろとあるんだろうけど,ひとつを建てれば同時に他も建つ,ということがあるに違いない。
濁りがなければたいてい深みも出る。少なくともぼく程度の鑑賞レベルだと,そういうことが多い。
で,この合奏団ZEROの演奏には,濁りがない。聴いてると,しみじみしてくる。それで充分すぎる。
● 作品は完成すると同時に,作者から切り離されて存在するもの。作曲家がその曲に何をこめたかは作曲家の問題で,聴く側には関係のないことがらだ。
もちろん,そういうことを知っていると,深く鑑賞できるのかもしれないけど,基本は聴く側がそれぞれの甲羅に合った穴を掘りつつ聴くことになる。
● 中にはとんでもなく深い穴を掘る聴き手もいるんだろうな。そこまで深い穴を掘らせる曲や演奏もすごいけれども,第一にはその聴き手の技ってことになるんだろうね。
理屈的には,作曲家が掘った穴よりもさらに深い穴を掘って聴く聴き手も存在しうるわけで,そういう意味では,鑑賞っていう行為はたんなる受け身ではないんだろう。
ただ,そうした聴き手はめったにいないっていうだけで。
2012年8月19日日曜日
2012.08.18 合奏団ZERO第9回定期演奏会
三鷹市芸術文化センター風のホール
● この日ももうひとつ。三鷹まで移動して,合奏団ZEROの定期演奏会を聴いた。開演は午後6時。入場無料。
● 曲目はメンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」と交響曲第4番「イタリア」。それとベートーヴェンのこれも4番。交響曲が2つ続く重量級の選曲。
合奏団というくらいだから弦は充分な陣容を備えているんだけど,ラッパはホルンとトランペットが2人ずつ。
● 演奏が始まった瞬間に雑念がスーッと消えていって,ステージが紡ぎだす音の流れだけが脳内に存在する状態になった。演奏を聴くことだけに集中できている状態ですね。
これを密かにコンサート禅と名づけているんだけど(っていうか,今思いついたんだけど),この禅定状態に入れるのは,そうしょっちゅうあることではない。こちら側の体調如何もあるけれども,そこはそれ,演奏側の水準に依拠するところが大きい。
● 「イタリア」もズンズンと説得力を持って迫ってくる。弦のうねりが心地いい。木管に破綻がない。いや,破綻がないというレベルではない。
どうせ,上手をエキストラで引っぱってきたんだろうなと思ったんですよ。ところが,あとでプログラムで確認したら,木管・金管はほとんどが団員なのだね。
なんだこりゃと思いましたよ。いったい何者なのだ,あんたたち。好きでやってる素人ですってんじゃないよねぇ。
● ベートーヴェンの4番も,まぁ何と言えばいいのか,見事にベートーヴェンだったとでもいうか。非常に微細に見ればいくつかのミスはあったのかもしれないけれど,聴きごたえ充分。
この反応がぼくに限ったことではないことは,終演後の客席を見れば明らかだった。
● この楽団は,若干の例外を捨象して言えば,オッサン連中と若き乙女たちで構成されている。この辺もミステリアス。
それからね。受付の対応も素人離れしていたっていいますかね,高級ホテルのフロントにいるような錯覚を覚えた。
重ねて問う。いったい何者なのだ,あんたたち。
● 指揮は松岡究さん。オペラの指揮で実績を重ねてきた人なんですね。彼の指揮ぶりも見所のひとつと,偉そうに言っておきましょうか。
● 入場は無料なんだけど,カンパを募っていた。有り金全部置いてくるわけにもいかず,些少な額に過ぎなかったけれども,カンパ箱に入れてきた。
こちらとしては有料チケット制にしてくれた方がありがたいんだけども,そこは諸々の事情を勘案して,楽団が決めればよいことだからね。
● ぼくの隣には,中学生の男の子が座った。ひとりで来ていた。吹奏楽部で楽器をいじっているんだろうか。だとしたら,勉強熱心で偉いぞ。ひとりで来たってのはさらに偉い。群れる必要なんかないぞ。友だちなんてたくさんは要らないものだぞ。その調子で頑張れ,少年。
でも,あれだね。中学生の少年がこうした行動をとれるのも,東京なればこそかもしれないね。東京の強みってあるよなぁ,やっぱり。
● この日,この楽団の演奏を聴いたのは,あくまでタマタマだった。「Freude」なんぞを参考にして,いくつもある演奏会から偶然,選んだに過ぎない。
けれども,ラッキーな偶然でしたね。自分の中の「お気に入り」に追加したのは言うまでもない。次回は来年の2月3日か。何とか都合をつけたいものだ。
● この日ももうひとつ。三鷹まで移動して,合奏団ZEROの定期演奏会を聴いた。開演は午後6時。入場無料。
● 曲目はメンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」と交響曲第4番「イタリア」。それとベートーヴェンのこれも4番。交響曲が2つ続く重量級の選曲。
合奏団というくらいだから弦は充分な陣容を備えているんだけど,ラッパはホルンとトランペットが2人ずつ。
● 演奏が始まった瞬間に雑念がスーッと消えていって,ステージが紡ぎだす音の流れだけが脳内に存在する状態になった。演奏を聴くことだけに集中できている状態ですね。
これを密かにコンサート禅と名づけているんだけど(っていうか,今思いついたんだけど),この禅定状態に入れるのは,そうしょっちゅうあることではない。こちら側の体調如何もあるけれども,そこはそれ,演奏側の水準に依拠するところが大きい。
● 「イタリア」もズンズンと説得力を持って迫ってくる。弦のうねりが心地いい。木管に破綻がない。いや,破綻がないというレベルではない。
どうせ,上手をエキストラで引っぱってきたんだろうなと思ったんですよ。ところが,あとでプログラムで確認したら,木管・金管はほとんどが団員なのだね。
なんだこりゃと思いましたよ。いったい何者なのだ,あんたたち。好きでやってる素人ですってんじゃないよねぇ。
● ベートーヴェンの4番も,まぁ何と言えばいいのか,見事にベートーヴェンだったとでもいうか。非常に微細に見ればいくつかのミスはあったのかもしれないけれど,聴きごたえ充分。
この反応がぼくに限ったことではないことは,終演後の客席を見れば明らかだった。
● この楽団は,若干の例外を捨象して言えば,オッサン連中と若き乙女たちで構成されている。この辺もミステリアス。
それからね。受付の対応も素人離れしていたっていいますかね,高級ホテルのフロントにいるような錯覚を覚えた。
重ねて問う。いったい何者なのだ,あんたたち。
● 指揮は松岡究さん。オペラの指揮で実績を重ねてきた人なんですね。彼の指揮ぶりも見所のひとつと,偉そうに言っておきましょうか。
● 入場は無料なんだけど,カンパを募っていた。有り金全部置いてくるわけにもいかず,些少な額に過ぎなかったけれども,カンパ箱に入れてきた。
こちらとしては有料チケット制にしてくれた方がありがたいんだけども,そこは諸々の事情を勘案して,楽団が決めればよいことだからね。
● ぼくの隣には,中学生の男の子が座った。ひとりで来ていた。吹奏楽部で楽器をいじっているんだろうか。だとしたら,勉強熱心で偉いぞ。ひとりで来たってのはさらに偉い。群れる必要なんかないぞ。友だちなんてたくさんは要らないものだぞ。その調子で頑張れ,少年。
でも,あれだね。中学生の少年がこうした行動をとれるのも,東京なればこそかもしれないね。東京の強みってあるよなぁ,やっぱり。
● この日,この楽団の演奏を聴いたのは,あくまでタマタマだった。「Freude」なんぞを参考にして,いくつもある演奏会から偶然,選んだに過ぎない。
けれども,ラッキーな偶然でしたね。自分の中の「お気に入り」に追加したのは言うまでもない。次回は来年の2月3日か。何とか都合をつけたいものだ。
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