2016年9月26日月曜日

2016.09.25 グローリア アンサンブル&クワイヤー 第24回演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。
 曲目は次のとおり。指揮は片岡真理さん。
 ブラームス 運命の歌
 ドボルザーク スターバト・マーテル

● グローリア アンサンブル&クワイヤーの年1回の演奏会を聴くのは,ぼく一個の定例行事になった感がある。これだけ大がかりな装置が必要な曲を取りあげてくれるのは,栃木県ではここしかない。
 次回は3大レクイエムのうちの2つ,モーツァルトとフォーレをやるようだ。しかも,ピアノ伴奏の簡略版ではなく,管弦楽が入るはずだ。呆れるほど野心的ではないか。
 それを2,000円で聴けるとなれば,やはり来年も出かけていくだろう。

● グローリアが取りあげるのは,ミサ曲やオラトリオなど,キリスト教が前面に出る楽曲ばかりだ。
 どうしても,西洋におけるキリスト教の生態を知らないと,ヨーロッパ人が楽しむように,これらの楽曲を楽しむことはできないだろうと考えてしまう。
 別にヨーロッパ人が楽しむように楽しまなくたっていいわけだけどさ。ぼくらはぼくらなりの楽しみ方で楽しめばいいんだけど。

● で,以下に,「スターバト・マーテル」を聴きながら,脳内に浮かんできた妄想を記しておくことにする。
 縁起論,アビダルマ哲学,中観,唯識といった膨大かつ精緻な(瑣末ともいうが)哲学,思想を含む仏教に比べれば,キリスト教神学なんて底が浅くて学ぶ気にもならない,と感じる向きはわりとあるのではないか。

● その底の浅いキリスト教がヨーロッパのみならず,中南米やアフリカにも広まったのは,武力を背景にした布教の結果ではあるけれども,じつにこの底の浅さがあればこそだった。
 それらの地域でも地場の宗教はあったはずだ。そこにキリスト教を移植することができたのは,底が浅いからわかりやすかったうえに,加工しやすいという事情があった。それゆえ,地場宗教との融合もスムーズに進んだのではあるまいか。

● キリスト教を結局は受け入れなかった日本のような国は,むしろ例外だろう。日本がなぜキリスト教を容れなかったといえば,キリスト教にある種の胡散臭さを感じとったからだとしか思えない。当時のイエズス会の牧師はけっこういかがわしかったんだろうな。
 ひょっとすると,日本人の民度が高くて,最初から底の浅さを見て取ったのかもしれない。

● 今回のドボルザーク「スターバト・マーテル」をはじめ,数多くの珠玉のような宗教楽曲を生むことができたのも,キリスト教神学の底が浅かったからだ。
 ほんとに深いものは言語化できない(かもしれない)。ヨーロッパでも宗教音楽においては言語が必須だ。言葉でもって神を讃えるのだ。合唱,独唱がない器楽だけの宗教曲というのは,あるのかもしれないけれども,その存在をぼくは知らない。バッハの多くの曲にその傾向を見て取ることはできるかもしれないけれど。
 である以上,宗教曲で表現できる深さには限度がある。表現というのは厄介なものだ。

● 底が浅いから,演劇化も可能になった。オラトリオにも演劇の要素はある。
 あるいは,演劇化を前提にすると,底を浅くせざるを得ないという事情が逆にあるのかもしれない。
 演劇でもある一点を深く掘り下げることはできると思う。そのことによって,全体を見る視点を揺り動かすという方法があるのかもしれない。どうなんだろ。

● ぼくには欧米人の友人がいるわけではないから,あくまで想像で申しあげるんだけど,彼らにはエゴの追求を躊躇しないという印象がある。個が膨大な富を築いたり,一が他を支配(収奪)することに,障壁がないというか。
 日本に奴隷制があったのかどうか知らないが,あったとしてもヨーロッパの農奴とはかなり違ったものだったのではないか。

● そうした人が,日曜日に教会に行って懺悔すれば,エゴ追求も是とされ,敬虔なクリスチャンと看做されるという仕組みは,究極の御都合主義でもあるだろう。
 すべての宗教は御都合主義の別名であるから,これを言ってしまうと話が終わってしまうのではあるけれど,それにしてもと思う。

● この「スターバト・マーテル」にしても,「私のいのちの尽きる日まで,あなたと共に泣き,十字架のキリストの苦しみを共に味わわせ給え」という。しかし,「じゃぁ,本当に味わわせてやろうか」とは,神は言わないという前提がある。
 つまり,これは本心ではない。こう言えば,救いがあるのだという決まり事にしたがっている。「苦しみを共に味わわせ給え」と言ったあとは,「処女マリアよ,あなたの御力で,最後の審判の日に,私が地獄の火に苛まれ,炎に焼かれることから守り給え」となるのだから,これはもう御都合主義以外の何物でもない。
 欧米の聴衆はこれでカタルシスを覚えて,ニコニコしながら帰途につくのだろう。

● もの心つく前に洗礼を受けさせられた遠藤周作が,その多くの作品において葛藤したのも,キリスト教神学の底の浅さをどう相克しようか,というところだったのではないだろうか。
 その成功例のひとつが『沈黙』だといえる。踏絵のなかのイエスが「踏むがよい。お前のその足の痛みを,私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ,十字架を背負ったのだから」と語りかけるところは圧巻だけれど,これ,サッサと踏んでしまえばそれまでの話だ。それをここまでの作品に仕上げるのは,遠藤周作の力業だ。作家の才能だ。
 最初からキリスト教神学が深ければ,こういう作品は生まれなかったに違いない。

● 以上で,妄想は終わる。
 「スターバト・マーテル」のソリストは,藤崎美苗さん(ソプラノ),布施奈緒子さん(アルト),中嶋克彦さん(テノール),加耒徹さん(バス)の4人。布施さんのアルトがずっしりと響いてきた。
 合唱団は前半と後半で立ち位置を変えてきた。ソプラノ-アルト-テノール-バスから,ソプラノ-テノール-バス-アルトに。どういう理由によるものか,ぼくにはわからなかったけど。

● グローリア アンサンブル&クワイヤーが栃木県にあることの意味って,かなり大きいなと,あらためて思った。文句をつけようと思えば,それはいくつかはつけられるだろう。管弦楽に少し馴れがあったような気がした,とか。
 しかし,今回にせよ,昨年のハイドン「天地創造」にせよ,これだけの大曲を(東京ではなくて)宇都宮で聴くことができるのは,それこそ神の恩寵かと思われる。

2016.09.24 渡辺響子&南部由貴デュオリサイタル

栃木県総合文化センター サブホール

● 「第8回トレビーゾ国際音楽コンクール」室内楽・現代音楽2部門第1位受賞記念,という副題が付く。開演は午後7時。チケット(前売券)は2,000円。
 渡辺さん(ヴァイオリン)は地元宇都宮市の出身。渡辺さん自身の紹介によれば,南部さん(ピアノ)とは高校,大学(ともに桐朋)の後輩,先輩の関係で,留学先のウィーン国立音楽大学でも一緒。留学先で知り合ったらしい。

● これが初のリサイタルになるのだと思うんだけど,サブホールが満員になった。3階のバルコニー席にもお客さんがいた。
 しかし,どうも会場の空気に違和感があった。不自然だ。ありていに申せば,粗野な感じを受けた。

● クラシックの演奏会だからといって,他よりハイソ(?)な雰囲気になるのかといえば,たぶんそんなことはない。クラシック音楽なんて,すでに充分に大衆化されている。
 が,この空気はどうも。“粗にして野だが,卑ではない”のであれば,それはそれで結構なことではあるのだが。

● おそらく,主催者(“KLANG”なる後援会があるらしい)が人を集めて送りこんできたのだろう。気持ちはわからないでもないんだけれども,どうなのか,これは。
 最初から最後まで楽章間に拍手が発生した。楽章間の拍手に関しては,別にいいじゃないか,それくらい,と思っているんだけど,どうもこの拍手には手拍子までやりかねないような気配があった。

● ま,しかし。粗や野や卑は,ぼくも多分に持っていて,そこはお互いさまと言うべきだ。気を取り直してステージの演奏に集中することにする。
 プログラムは次のとおり。
 ブラームス ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番
 伊福部昭 ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
 ルトスワフスキ スビト
 シューベルト 幻想曲 ハ長調

● まずはブラームス。水準の高さはすぐにわかった。陶酔できる。
 二人ともリラックスしているふうだ。これまでいくつもの場数を踏んできているのだろうし,ここは二人にとってホームでもあるだろう。
 明日は東京で同じ内容のリサイタル。こちらが本番で,今夜はリハーサル? そんなこともないんだろうけど,たぶん,明日の方が緊張するよね。高校や大学の知り合いが多く来る? もしそうなら聴衆のレベルも明日の方が高いんだろうから。

● 上の4曲のうち,最も印象に残ったのは,伊福部昭のソナタ。第3楽章はめまぐるしい動的変化の連続。決して容易な曲ではない。
 南部さんが留学先の修士論文で取りあげたのが伊福部昭だったそうだ。だからというわけでもないんだろうけれども,自家薬籠中のものにしているというか,「これが自分たちの伊福部なんだけど,どう」という,いい意味での居直りのようなものを感じた。見当違いの感想かもしれないけど。

● ルトスワフスキはCDでも聴いたことがない。今回,初めて聴くもの。
 最後はシューベルトで,ここでは渡辺さんが若きヴィルトゥオーサの凄みを見せた。静かな集中。
 この曲は超絶技巧の連続のようにも思えるんだけど,超絶技巧という言葉は今でも生きているのだろうか。かつては数えるほどの人しか演奏できなかった難曲も,今では音大の学生ならだいたいこなすんじゃないかと思える。
 そうはいってもこなすレベルが違うだろう。その違うレベルでの演奏。

● アンコールは,「赤とんぼ」のあと,モンティ「チャルダッシュ」。これも客席にはお得感のある演奏だった。
 栃木県出身の本格派が誕生した。渡辺さん,スター性も充分と思える。

2016年9月20日火曜日

2016.09.18 那須フィルハーモニー管弦楽団 名曲コンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 台風16号の影響か,かなりの降りだ。この雨の中を電車に乗って大田原まで出かけていくのは,ちょっと億劫だな。
 最大の問題は,自宅から最寄駅までの1キロ弱の道のりにある。道路が湖状態(?)になっている箇所が3つはあるはずなのだ。

● あえて素足にサンダルで出かけることにした。靴下なんかはいてたんでは,ビショビショに濡れて気持ち悪くてしょうがない。
 一番いいのは長靴なんだけどね。さすがに長靴で行く気にはならないのでね。
 が,西那須野駅に着く頃には,ほぼやんでいた。ふぅぅむ。

9月14日の下野新聞
● 開演は午後2時。チケットは500円。那須フィルの定期演奏会は1,000円なのに,名曲コンサートは500円。ずっとそうなんだけどね。
 指揮は田中祐子さん。曲目は次のとおり。
 チャイコフスキー 「白鳥の湖」より“情景” “4羽の白鳥の踊り” “王子とオデットのパ・ダクシオン” 「くるみ割り人形」より“行進曲” “トレパーク” “花のワルツ”
 ショスタコーヴィチ 交響曲第5番
 アンコールは「眠れる森の美女」より“ワルツ”。

● 「白鳥の湖」の“情景”のあの有名すぎる旋律は,白鳥にされてしまったオデットが,私はここよ,と王子に告げる音的アイコンだ。
 白鳥なんだから言葉を持たない。だから王子には伝わらない。白鳥にされたオデットにもそれはわかっている。わかったうえで,私はここよ,ここにいるのよ,と切なく告げる。
 したがって,曲の基調もまた切なさでなければならない。楽譜のとおりに演奏すれば自ずとそうなるんだろうけれども,胸をキュッと締めつけるような切ない叙情を湛えた演奏であってもらいたい。

● 前半はクラシック音楽のポピュラーソング。後半は一転して,ショスタコーヴィチの5番という,何とも得体の知れない難曲を持ってきた。
 で,ひじょうに無礼なことを申しあげるんだけれども,前半の「白鳥の湖」と「くるみ割り人形」を聴いて,これでどうやってショスタコーヴィチの5番を演奏するのかと思った。いや,本当に無礼極まる言い方なんだけど。
 そのように感じさせるのは管楽器。弦の安定感はまずもって不安をさし挟む余地はなかったので。

● ところが。このショスタコーヴィチが素晴らしかった。重いところはずっしりと重く,弾むところは軽やかに弾んでいた。重から軽,軽から重への転換もいたってスムーズだった。
 わからない。どうしてこういうことが起こるのか。

● 終演後,田中祐子マエストロの目が潤んでいたようにも見受けられた。田中さんが発する念力が奏者のひとりひとりに届いたってことか。
 田中さんの渾身の指揮は印象的だったけれども,受け手がボケたままじゃ,届くものも届かないわけでね。

● 田中さんは感情家,多情家,感激屋のようだ。どんな世界でも,リーダーとして精彩を放つ人やひと角の人物には,感激屋が多い。
 ビジネスの世界でもそうだ。冷静沈着は大切な属性なのだろうけれども,それしかないというのでは,大事を為す人物にはなり得ないように思う。
 ぼくのような凡庸な人間があまり多くを語ってはいけないところだけれども,田中さんには人を引っぱっていくのに必要な,大切な要素が備わっているようだ。

● 以下,どうでもいいことを述べる。
 プログラム冊子の曲目解説。おそらくどこかから引っぱってきたものだと思うんだけど,「ロシア帝政を象徴したとされるこの曲の大半で表現される苦しみと悲しみは,実はスターリンの独裁体制とその粛清による民衆の苦悩の表現なのである」というのは,現時点では過剰にわかりやすい言い方で(ステレオタイプといっていいだろう),スッと入ってくる。
 しかし,本当にそうなのか。ショスタコーヴィチが後年,そのように語っているんだろうか。仮にそう語っているのだとしても,本当にそうなんだろうか。

● さらに,「私は信じない」のところは,だいぶ昔に流行った,万葉集を古朝鮮語で読む的なバカバカしさを思いださせる。次のように書かれている。
 この終結部の大きな特徴は,弦楽器を中心に「ラ」の音が252回も繰り返されることである。「ラ」の音はアルファベットで示すと「A」。「A」とは古いロシア語で「我(私)」を意味する。当時,この部分の解説を求められたショスタコーヴィチは,ロシア語で「エタ ヤ ヤ」(我は,私だ,私だ)と語っている。 つまり,第4楽章終結部は冒頭の悲劇的なニ短調のテーマが明るい響きのニ長調に転調し,いかにも「歓喜」を表現しているかのようだが,実は「私は信じない・気をつけろ」(シャイ空き主義体制を)と強く叫んでいるのである。
 いや,実際はわからない。ここに書かれているとおりのことをショスタコーヴィチは仕込んだのかもしれない。わりとしたたかな男だったようだし。
 ともかく,こうした厄介さがショスタコーヴィチにはありますよね。

● ソ連だのスターリンだの社会主義だの生命の危険だのっていう,ショスタコーヴィチを取りまいていた諸々の事情を一切捨象してしまって,ただ彼の音楽を聴く。それで自分がどう反応するか確かめる。そういう聴き方をするしかないと,今のところは,思っている。

2016年9月19日月曜日

2016.09.17 栃木県交響楽団特別演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 前年度のコンセール・マロニエ21の入賞者を迎えて,栃響が管弦楽を務める演奏会。開演は午後4時。
 2時開演だと勘違いしてた。だいぶ早く着いてしまった。休日昼間の演奏会はたいてい午後2時開演,と勝手に思いんでいたのがいけない。この演奏会も昨年は2時開演だったんだけどね。

● 昨年までは入場無料。今年から有料になった。1,000円。
 昨年,「ぼく一個は有料にしても構わないと思う。そうしてもお客さんの3分の2は残るのじゃないか」などと書いているんだけど,3分の2どころかほとんどのお客さんが残ったようだ。
 この演奏会のために会場まで足を運ぶお客さんっていうのは,8月のN響公演に来ていたお客さんより,聴き手としてのレベルは数段上だと思われる。というのが大げさならば,聴き手としての粒が揃っていると言い換えてもよい(おまえ以外はな,と自分で突っ込んでおこう。人に言われる前に)。
 ビッグネームだから聴いておこうという手合いがいないわけだからね。好きだから来ている人たちだと思うので。

● まず,栃響だけでモーツァルトの「魔笛」序曲。栃響の腕前を披露するのと同時に,場を整える効果があるんでしょうね。

● そうしておいて,次にフンメル「トランペット協奏曲」。トランペットを吹くのは刑部望さん(男性)。坊っちゃん坊っちゃんした童顔の持ち主で,ルックス的にはいじられキャラっぽい。
 おそらく,このあとに打ちあげがあるんだろうけど,その席では栃響のおば様方に人気絶賛なのではあるまいか。

● フンメルのトランペット協奏曲を生で聴ける機会など,そうそうないだろう。それがまた,この演奏会のありがたいところだ。
 刑部さんのアンコールは,バジーニ「カンタービレ」。リラックスして楽に演奏していた(ように見えた)。こういう演奏をコンセール・マロニエのときにできていれば,2位ではなくて1位になっていたか。そういうものではないか。

● ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。ピアノは井村理子さん。
 前年度のコンセール・マロニエのファイナルはぼくも聴いている。技量といい舞台捌きといい,井村さんは他の出場者を圧倒していた。
 ただ,ここまでになっていると,コンセール・マロニエに出てはいけない人なのじゃないかと思ってしまった。彼女にはもっと彼女に相応しい舞台があるのではないか。

● コンセール・マロニエは新人発掘の場だ。ところが彼女はすでにベテランの域に達しているように見えた。ゆえに,コンセール・マロニエの審査員もあえて彼女を(入賞から)外してくるのではないだろうかと思っていた。
 が,彼女が優勝。あれこれ考えないで,出来映えだけで判断すれば,それが当然の結果ではある。ぶっちぎりの優勝だったはずだ。

● で,今回の演奏。やはり,井村さんからは功成り名を遂げた人のオーラが出ているようなんだよなぁ。不思議な人だなぁ。
 演奏は優雅にして正確無比。ミスタッチがまったくなかったわけではないのかもしれないけれど,聴衆に気づかれるようなものじゃない。

● 井村さんのアンコールは,シューベルトの「即興曲」から。しっとりと聴かせてくれて,ため息のだめ押し。
 腕を後ろに組んでお辞儀をする。これ,かなりいいと思った。彼女のトレードマークにできるのじゃないか。こういった仕草にも磨きをかけるといいよねぇ。舞台に立つ人だもの。

● 最後に栃響だけでヨハン・シュトラウス「皇帝円舞曲」。アンコールも同じヨハン・シュトラウスの「こうもり序曲」。
 重厚さを表現する方が,軽快さを表すのに比べれば,楽なのかもしれない。ヨハン・シュトラウスは軽さが身上で,じつはこの曲を演奏するのはかなり難しいのかも。ベートーヴェンの5番の方がやりやすかったりするのかもね。

2016年9月5日月曜日

2016.09.04 アンサンブル・ジュピター 第12回定期公演

杉並公会堂 大ホール

● 「青春18きっぷ」が1回分残っているのだ。そろそろ使わないと,その1回分がムダになるのだ。というわけで,奥さまのお許しを得て,東京に出かけることにした。
 「フロイデ」で調べたら,この日だけでも東京では多くのアマチュア・オーケストラが演奏会を開催しているのだった。

● その中からアンサンブル・ジュピターを選んだのは,特にこれという理由があってのことではない。よくいえば勘。普通にいえばあてずっぽうだ。
 いや,そうじゃない。「フロイデ」に「早稲田大学フィルのOBとトレーナーを中心に,アマチュアの精鋭とプロの有志により構成されたオーケストラ」だと自らを紹介していたからだ。期待できそうじゃないか。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。
 曲目は次のとおり。指揮は安藤亮さん。
 メンデルスゾーン 劇音楽「真夏の夜の夢」(抜粋)
 モーツァルト 歌劇「アルバのアスカニオ」序曲
 シューマン 交響曲第4番 ニ短調

● 「真夏の夜の夢」を聴けただけで,来た甲斐があったと思えた。というのも,「序曲」のあと,「スケルツォ」「妖精の行進」「舌先裂けたまだら蛇」「間奏曲」「夜想曲」「結婚行進曲」「ベルガマスク舞曲」「終曲」と,全12曲のうち主要な8曲を聴けたので。
 もちろんCDで全曲聴くことはできるわけだ。けれども,CD体験と生演奏を聴く体験は,はっきり別物(どちらがいいということではない)。生でこれだけ聴ける機会はそうそうないように思う。

● しかし。シェークスピアの作品ってヨーロッパ人にとっては教養の核のような存在なんでしょうね。日本でも翻訳はいくつも出ているんだけど,読んだことがないんですよねぇ。
 「ロミオとジュリエット」や「リア王」もあらすじしか知らない。「真夏の夜の夢」はあらすじすら知らない。
 大学の教養課程のときに,シェークスピアを原書で読まされた。ぜんぜん読めずに嫌になってしまったという,じつに情けない経験があるんですよ。

● メンデルスゾーンが17歳で作曲した「序曲」を聴いて,世の中には途方もない天才がいるものだと打ちのめされる経験をするのもいいと思うけど,自分とメンデルスゾーンを比較するのはそもそも間違いなのだから,どことなく育ちの良さを感じさせる音楽に包まれて自分を遊ばせるのがいいですよね,やっぱり。
 「舌先裂けたまだら蛇」と「終曲」には独唱と合唱が加わる。そのために,沖田文子さん(ソプラノ)と奥野恵子さん(メゾ・ソプラノ)が控えていた。沖田さんは過去にマーラーの4番をこの楽団と共演しているようだ。

● その沖田さん。理工系の大学を出て,ソニーに勤務したという経歴を持つ。
 高校生のときから声楽コンクールで優勝してたりもする。一方で,頭も良くて勉強もできたのだろう。となると,将来,どっちに進むか,悩ましかったのだろうか。常人にしてみれば贅沢な悩みかもしれないけど。
 で,いったんは音楽を封印して,大学に進み,ソニーに就職したものの,職場でもいろいろあって,音楽へと舵を切り直すことにした,と。勝手な想像ですが。
 ソニー時代に比べれば収入は減ったに違いない。としても,今の方が充実している。そういうことだろうか。

● 「アルバのアスカニオ」はモーツァルト15歳のオペラ作品。聴けば,教えてもらわなくてもモーツァルトだとわかる。ため息しか出ないけれども,さすがにこのオペラが上演される機会はほとんどないのだろう。
 序曲も生で聴くのは初めてだ。ぼくはCDも持っていない。アマゾンで手に入るんだけど,どうしようかなぁ。

● シューマンの4番。これも初めて聴く曲じゃないかと思ってたんだけど,じつは過去に2回聴いていた。忘れていた。ということは,さして印象に残らなかったってことなんだろうな。
 何を聴いていたのかってことでしょうね。

● シューマンに関しては,吉田秀和さんが『世界の指揮者』(新潮文庫)の中で次のように書いている。
 シューマンの指揮者は,いわば,どこかに故障があって,ほっておけばバランスが失われてしまう自転車にのって街を行くような,そういう危険をたえず意識し,コントロールしなければならない。あるいは傾斜している船を,操縦して海を渡る航海士のようなものだといってもよいかもしれない。(p32)
 吉田秀和さんがそう仰るのだから,そうに違いない。シューマンが精神を病んだという知識がまずあって,その知識に引きずられるような聴き方をしてしまうという初歩的なミスを,吉田さんがされるわけがない。

● ただ,今回の演奏を聴いた印象でいえば,これはこれでひとつのバランスのあり方のようにも思えた。「ほっておけばバランスが失われてしまう」といっても,そうはならないようにシューマン自身が調整している。
 予定調和を外しているところはあるけれど,結局,つじつまは合わせている。

● ところで,プログラム冊子の曲目解説には次のように書かれている。
 本日,私たちが演奏するのは「改訂稿」の方であるが,それを元に管弦楽法に手を入れることに注力するのではなく,シューマンが楽譜に書ききれていない,シューマンの音楽を表現するために必要な要素を一つひとつ吟味し,それを体現できるように取り組んできた。
 一読,そうなのか,やはりレベルの高い楽団だったのだな,と思った。でも,待てよ,よくわからないぞ。

● シューマンが楽譜に書ききれていないけれども,シューマンの音楽を表現するために必要な要素を吟味する? 書ききれなかったのか書かなかったのか。それを楽譜から推測して,これだと思ったらそれを付加する?
 具体的なイメージが湧いてこない。通常いわれる解釈とは別の作業になるんだろうか。それとも,それが解釈と言われる作業の中核になるものなのだろうか。

● アンコールはなし。スッキリした終わり方で悪くないと思う。

● ぼくにとっての夏は「青春18きっぷ」が使える7月20日から9月10日までだ。
 この夏最後の演奏会がこの楽団の演奏会だったのは幸いというべきか。沖田さんのソプラノを聴けたことも。