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2019年4月22日月曜日

2019.04.21 田渕進先生 追悼演奏会

宇都宮短期大学 須賀友正記念ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,500円。当日券を買って入場。
 なぜこの演奏を知ったのかといえば,3月に行われたこの短大の卒業演奏会にお邪魔した折に,チラシが配られたからだ。
 今日は東京でもお誘いを受けていた演奏会があった。が,東京まで出かける気力が湧いてこなかった。時間がないのではない。気力がない。少ぉしメンタルで失調を来している気配がある。
 大したことはない。時間が解決してくれるはずだが,ともかく東京まで出張るエネルギーは溜まっていなかった。

● これからしばらくは,どの演奏会に行こうかと頭を悩ます時期になる。黄金週間中に高校吹奏楽部の演奏会が相次ぐからだ。
 一方で,2年前から黄金週間は東京のホテルで過ごすようになった。何もしないでぼんやりする。が,東京なのだから毎日どこかで演奏会は行われている。そのどこかに行くか,宇都宮にとって返して高校生の吹奏楽を聴くか。
 ま,せっかく東京にいるのに何で宇都宮にとんぼ返りするんだってことになって,東京にとどまることになるのだが。

● “田渕進先生”がどういう人なのか,ぼくは存じあげない。この短大の先生で,栃木県の音楽教育に尽力したというのは,プログラム冊子の紹介で知りうるわけだが,それ以上のことはわからない。
 わかろうとしない方がいいとも思っている。自分のキャパに合わせて理解しようとすると,相手を矮小化することになる。
 彼の薫陶を受けた宇都宮短期大学や附属高校音楽科の卒業生が集まって(現役生もいるのかもしれないが),1回限りのオーケストラを組んだと理解しておけば,それでよい。

● 曲目は次のとおり。衒いのないプログラム。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 ニ短調
 ベートーヴェン 交響曲第5番
 山田栄二 レクイエム-田渕進先生の霊に捧ぐ

● モーツァルトの短調協奏曲は少数ゆえに特別というわけではないと思いたいんだけども,やはり特別なんですかねぇ。このテイストは何て言うんだろ,しっかりと根を張っている草を根っこから引っこ抜いて,その根を組み替えて,ひとつの絵画にした,という印象を持つんだよね。
 この言い方は,言っている当の本人もよくわからないで言っているんだから,伝わらないだろうなぁ。

● ピアノは阿久澤政行さん。デリカシーとは男性的なるものだ。女性が男性に向かってデリカシーがないというときは,かなりエゴの気配が混じる。私をいい気持ちにさせてくれない,という意味であることが多い。
 デリカシーとは場の全体を見渡してその状況を把握し,そのうえで部分部分を絶妙のバランスのうちに配置することだ。強すぎてはいけないし,弱すぎてもいけない。目立ちすぎてはいけないし,目だたなすぎてもいけない。長すぎてはいけないし,短すぎてもいけない。素っ頓狂ではもちろんだめだが,埋もれてしまうのはもっとだめだ。
 彼の演奏を聴いていると,そういうことを考える。

● 応接する管弦楽にも抜かりはない。この曲を聴いた段階で,来てよかったなと思った。チケット代の1,500円はタダ同然といっていいだろう。
 が,ベートーヴェンはそれ以上だった。
 クラシックファンを2分する基準のひとつに,モーツァルトとベートーヴェンのどちらがより好きか,というのがあるらしい。
 モーツァルト派の代表がアインシュタインということになっていて,モーツァルト好きの方が知的でフレキシビリティがあって・・・・・・ということになっているっぽい。モーツアルト派はMacなのに対して,ベートーヴェン派はWindows。いや,そんなこともないのか。
 目下のところ,ぼくはモーツァルトよりもベートーヴェンに惹かれている。

● さて,“ベートーヴェンはそれ以上だった”という所以を以下に述べるわけだが,鮮やかな理由を述べられるわけではない。
 まずもってトータルの音量だ。たとえば,踊り場で呼吸を整えているかのような第3楽章から,いきなりクライマックスになだれこむ第4楽章の冒頭。ここでの音の分厚さだ。けっこう後ろの席で聴いていたのだが,音圧はここまで届いてくる。その音圧の断面がなめらかだ。

● もうひとつ,熱気だ。演奏が熱い。動と静でいえば,はっきり動で,マグマが対流しているようなダイナミックな動きを感じた。それが熱いという印象につながる。
 で,この熱さは録音音源にはないものだ。この曲をCDで聴くときは,カルロス・クライバー&ウィーン・フィルで聴いている。が,精緻さや手堅さ,あるいは華やかさはぼくの耳でも感じ取ることができるのだが,熱さは伝わってこない。
 ひょっとするとぼくの聴き方に問題があるのかもしれない。あるいは機材の問題。何といっても,ぼくはWALKMANでしか聴かないんだから。
 ので,そこは留保しておかなければならないとしても,熱さは録音には載りにくいのだろうと思う。ライヴ録音でもCDから熱さを感じることは稀だ。

宇都宮短期大学
● というわけなので,こういう演奏を聴けると,これがライヴの醍醐味だなと思う。これあるがゆえに,わざわざ時間を割いてホールまで足を運ぶのだ。
 冷静沈着が百パーセントの演奏も,それはそれで悪くはない。が,熱というのは,それ自体が魅力の源泉になり得る。人でもそうかもしれないが。
 しかし,それもベートーヴェンが仕組んだこと。曲そのものが熱いのだ。だとしても,その熱さを演奏でここまで表現してもらえれば,聴き手冥利に尽きるというものだ。

● ホールの影響もあるかもしれない。このホールは市中のホールでいうと小ホールに分類される大きさかと思うのだが,それゆえにこの音の分厚さが顕現している部分があるようにも思う。
 同じ演奏をたとえば宇都宮市文化会館の大ホールで聴いたとしたら,同じような印象になったかどうかわからない。ホールも楽器のひとつというのは,こういうことを言うのかも。

● 今回の演奏で特に没入できたのは第2楽章だ。涙が出てきた。
 この曲を書いているときのベートーヴェンの心情やいかに,と思ったゆえなのだが,この境地にあったベートーヴェンは女性にもモテたに違いない。天然痘の痕があったとか,変わり者であったとか,耳が聞こえないとか,そんなことでこの男を放っておくほど,当時のウィーンの女たちは愚かではなかったろう。
 ワーグナーもこの曲の,特にこの楽章から学んだことは,数限りなくあったはずだ,と,ふと,思った。ぼくらにしたって,この曲が存在しない世界に住むというのは想定できない。大げさに過ぎるもの言いだろうか。

● 指揮は吉澤真一さん。彼もこの短大の附属高校の出身。上体を左に傾ける動作が多かったのだが,これに何か意味があるんだろうか。たんなる癖?
 ともあれ。東京に出る気力がなかったにとどまらず,宇都宮に出かけるのもけっこう億劫だったのだ。会場に着く前に帰ってしまおうかとも思った。
 が,行って正解。行きさえすれば最後まで聴くことになる。1日をそっくり無駄にはしなかったという,些細すぎる手応えも得ることができる。行って正解。

2015年6月9日火曜日

2015.06.07 栃木県交響楽団第99回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 今回に限らないんだけど,開場前にはいわゆる長蛇の列。ぼくは列の前のほうに並ぶことが多いんだけど,今回は後のほうになった。
 列を作っている人たちを眺めながら,世の中に暇な人って多いんだなぁと思った。当然,自分のことを棚にあげている。ぼくもその暇人のひとりっていうか,ひょっとしたらその筆頭かもしれない。

● 中には寸暇を惜しんでっていう人もいたかもしれないけれども,なんの,ほとんどの人は惜しむ必要もないほどに暇なんだと思うぞ。
 暇なればこそ,こういう演奏会に足を運ぶことができる。演奏会に限るまい。人生は暇であってこそ。

● 今回の曲目は次のとおり。指揮者は三原明人さん。開演は午後2時。チケットは1,200円(前売券)。
 メンデルスゾーン 交響曲第4番「イタリア」
 リスト 死の舞踏-「怒りの日」によるパラフレーズ
 ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」

● 交響曲が2つ。最近,こういった重量級のプログラムが多くなったような気がする。
 ともあれ,初っぱなはメンデルスゾーンの「イタリア」。CDでは数えきれないほど聴いている。クラシック音楽を聴こうと思っている人に最初に勧める曲として,ホ短調協奏曲は格好なものかもしれない。メンデルスゾーンは入っていきやすいという印象がある。
 適度に情緒がこもっている。曲に入っていきやすい気がする。

● 今回は対抗配置。「第九」を別にすれば,栃響が対抗配置を採るのは珍しいように思う。
 が,実際のところ,対抗配置だろうとストコフスキー配置だろうと,それによって音の聞こえ方が違ってくるかといえば,どうもぼくにはピンと来ないところもあってね。
 並べやすいように並べればいいじゃん,っていうくらいにしか思っていない。まことに聴かせがいのない聴衆(のひとり)であるな。

● 以前は栃響を侮っていたかもしれない。オヤッと思ったのは,2012年の「第九」演奏会から。以後,栃響の演奏水準には一切の文句をさしはさまないことにしている。
 今回も同様であって,こういう演奏をしてくれれば,観客が離れていくことはないように思われる。

● リストの「死の舞踏」。ステージの空気が一変した。そりゃそうだ。まったく違う曲調の演奏が始まったんだからね。
 ソリスト(ピアノ)は阿久澤政行さんで,彼のピアノはもう何度か聴く機会を得ている。
 ぼくなんぞには,ビッグネームのピアニストと彼との違いはわからない。見事に何もわからない。
 非常に洗練されているという印象を受ける。緩急自在はさすがにプロという感じ。ときに慈しむように,ときに何者かに挑むように。主張しすぎず,けれども存在感はある。オーケストラとの調和もいい。
 何か問題あるのっていう感じだね。

● 愛嬌があるのは天性のものだろう。何もしないでいても笑っているように見える。これ,すこぶる大事。
 というわけで,スター性もあるように思うのだが。

● アンコールは一転,カールマン「君のくれた美しさ」。静かで穏やかな曲。静謐っていう言葉はこういうときに使うのかもしれない。
 そこにちょっと甘味を加えたような。過ぎ去った私の青春よ,と言ってしまうと少し違うようなんだけど。

● 最後はベートーヴェンの5番。この曲を「運命」と呼ぶのは日本ではあたりまえ。
 なんだけど,Wikipediaによれば「これは通称であって正式な題名ではない。この通称は、ベートーヴェンの弟子アントン・シントラーの「冒頭の4つの音は何を示すのか」という質問に対し「このように運命は扉をたたく」とベートーヴェンが答えたことに由来するとされる。しかしこのシントラーの発言は、必ずしもこの作品の本質を表しておらず,現在では「運命」という名称で呼ぶことは適当でないと考えられている」ということ。

● 学術的にはそうかもしれないけれども,“苦悩を突き抜けて歓喜にいたれ”というストーリーが「運命」という言葉によく絡むんですよね。
 いったんこのストーリーが頭に入ってしまうと,それ以外の聴き方はできなくなる。とすれば,「運命」と命名したのは秀逸なんじゃないかと思ってしまうんですよ。
 ベートーヴェン個人の人生が背景にあってのこと。有名すぎるんですよね。聴力を失って「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたこと。けれども,その後,きら星のような多くの実りを世に送りだしたこと。

● 演奏も間然するところがなかった。特に,木管が印象的。弦は巧いに決まっている。「イタリア」のあとに,これだけの集中力を持続できるだけでたいしたものだと思う。
 が,ノーミスというわけにはいかない。あたりまえだ。ぼくはミスは咎めない派。オーケストラって森のようなもので,森としてどうかが問題だ。木々の一本か二本が,他とは違うそよぎ方をしたからといって,何ほどのことがあろう。

● アンコールはメンデルスゾーンの“結婚行進曲”。この曲を生で聴く機会はそんなにない(ぼくは初めてだった)。
 というわけで,トータルでかなりのお得感。7月にも壬生で同じ曲を演奏するらしい(「死の舞踏」はやらない)。指揮者も三原さん。さて,どうするか。壬生まで行くか。